◎庄内三十三観音札所巡り◎


☆庄内三十三観音札所巡り Part.01

 庄内三十三観音札所では、平成22年5月1日から10月31日まで、開創300年を記念して特別ご開帳が行われました。
 その由来をたずねると、荘内三十三観音札所が開設されたのが正徳4年(1714年甲午)だそうですから、それより数えてほぼ300年になるのだそうです。
 昨年まで、何年かに別けて坂東33観音霊場を巡拝し終わったこともあり、いい機会に巡り合わせたということで、今年は庄内三十三観音札所を巡ることにしました。いろいろと日程の調整をし、最終的に10月18〜19日とし、18日の早朝午前4時に自宅を出発しました。
 米沢市万世の普門寺さんの車に乗せていただき、山形市内の方を1人乗せ、待ち合わせ場所の第9番札所の大日坊に向かいました。途中、コンビニで朝食を買い、車中ですませ、予定の午前7時にぴったりと到着しました。
 そこには、今回の先達を務めてくれる方たちが迎えてくだされ、さっそく、大日坊をお詣りしました(左の写真は大日坊の本堂です)。
 ここは湯殿山大日坊で、即身仏真如海上人さまを祀っていることでも知られています。先ず、観音さまの前で経を唱え、これから無事に庄内三十三観音札所を巡拝できるように、そして多くの方々が自分の幸せに気づきますようにと祈念いたしました。
 もともと幸せというのは、「青い鳥」の童話の世界のように遠くにあるものではなく、すぐ身近にあるものです。だから、「気づき」こそ大事なことで、探そうと思って探せるものではありません。だから、観音さまの名を唱え、その幸せに気付かせていただくことが大切だと思います。今回の「開創300年記念御開帳 庄内三十三観音札所」の大きなポスターにも、「かんのんさまがみていてくれる」と書かれてあります。その、いつもみていてくれる安心感こそ、気づきのきっかけになるのではないかと思います。
 だから、これからもズーッと見続けていただけるように心をこめて経を唱えました。その御名を唱えました。
 それから、即身仏を拝ませていただき、堂内のすべての仏様に法楽を捧げ、それからもう一度、観音さまに手を合わせてお堂を出ました。
 外に出ると、爽やかな霊気があたりに充ち満ちて、右の写真にあるお地蔵さまにも手を合わせ、孫のすこやかなる成長を願いました。
 2台の車でここ大日坊を出たのが午前7時30分です。
 次は、すぐ近くの注連寺に向かいました。

 第9番札所  湯殿山大日坊 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ちかいおく あまねきみなの みほとけに こころをこめて ねがへおほあみ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.02

 10月18日、大日坊を午前7時30分に出発し、次に向かったのが注連寺です。
 ここ七五三掛地区は、報道等によると2009年2月25日から大規模な地すべりで大きな被害が出ているところです。私たちも向かう途中で大きな爪痕のようなところを見かけました。また、作業をしているような箇所もいくつか見えました。ところが、不思議なことに注連寺とたった1世帯だけが被害に遭わず、現在も残っているそうです。しかし、それ以外のすべての世帯が2009年12月までにすべて被害家屋を解体し、集落を離れる意向だと伺いました。本当に、自然災害の恐ろしさを目の当たりにした思いです。
 その地滑り地帯の上で、いささかの被害も受けず建っているのが注連寺本堂です(左の写真が注連寺本堂です)。
 ここの観音さまは、寺伝によると、後水尾天皇がこの寺の霊験あらたかなることを知りご自作の聖観世音菩薩の香佛(秘仏だそうです)を寄進されたのがご本尊ということでした。たしかに、本堂などの建物もその古格を感じさせる雰囲気がありました。
 白幡先達の案内で本堂に入り、観音さまの前でお経を唱え、それから本堂内を案内していただきました。その格天井の天井絵も素晴らしく、故村井石斎画伯による飛天の図などの伝統絵画は見事で、さらにちょっとマンガチックな久保俊寛作の「聖俗百華面相図」、さらには満窪篤敬作「水の精」も楽しく拝見させていただきました。
 そして、注連寺といえば忘れてならないのが作家森敦氏です。彼は昭和26年にこの注連寺を訪れ、ひと冬をここで過ごした体験をもとに『月山』を書き、芥川賞を昭和49年に受賞しました。なぜ覚えているかと言いますと、その年に修行を終え帰山し、その年から甲子大黒天本山を護ってきたからです。だから、名作『月山』の印象もさることながら、昭和49年という年も忘れがたい年なのです。
 右の写真は、注連寺本堂から見た月山で、ちょうど雲の上から頂上付近が見え、この風景を森敦氏も毎日見ていたんだろうなと思うと、やはりちょっとばかり感傷的になってしまいました。この境内には昭和56年に『月山文学碑』が建立され、さらに昭和61年には『森敦文庫』が開設され、文学ファンにとっても魅力のあるお寺となっているようです。
 さらに、この注連寺は鉄門海上人の即身仏が安置されていることでも有名で、その本堂左手にある七五三掛桜も花のときにはとてもきれいだとお寺の方から伺いました。もし機会があれば、その花のときにでも、また訪ねてみたいと思いました。
 つぎは、首番の荒澤寺ですが、2台の車では案内するにも大変だということで、本明寺さんに1台車を置いて、狭くても5人で乗って行こうということになりました。でも、この車は新車で、とても乗り心地がよく、さらにエコカーなので燃費もすこぶる良かったようです。

 第31番札所  湯殿山注連寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 かのきしに ねがひをかけて おほあみの ひくてにもるゝ ひとはあらじな



☆庄内三十三観音札所巡り Part.03

 10月18日、注連寺から十王峠を越えて本明寺に向かいました。
 すると、白幡さんは先に車を走らせていたので、この十王峠でいったん車を停め、ここから見る月山もいいものだからといいます。そこで、車からおりて、月山の方を見ると、かすかにその姿が見えました。ここに建つ朝日村教育委員会の案内板によれば、「昔、ここには内陸と庄内を結ぶ旧六十里越街道があった所です。この峠には、閻魔大王など十体の木彫の仏像があったことから十王峠と呼ばれました。この峠道は湯殿山へお参りする人たちで大へん賑わい、大日坊と注連寺の茶屋もありました。夏には、昼の暑さを避けて夜に旅をする人が大勢いました。明治13年からは、夜に行き来する人々の便利をはかって、頂上の二か所に明かりをともしました」と書かれていました。
 この十王峠を越え、15分ほどで本明寺に着き、その駐車場に白幡さんの車をとめ、1台に乗り込みました。すぐに出発し、午前8時30分には鶴岡市羽黒町手向の首番羽黒山荒沢寺に着きました(左の写真が荒沢寺山門です)。
 この首番というのは、全国的にも珍しく、荒沢寺の開創は1,350年ほど前の推古天皇の時代だそうで、羽黒山最古の寺院でもあります。その古さの故もあってか、首番として庄内観音の最初に位置しているようです。また荒沢寺は、羽黒山修験本宗の本山であり、本坊が正善院となっていて、首番のご朱印も第1番札所の正善院からいただくことになっています。
 右の写真が荒沢寺で、ご本尊は修験の寺らしく不動明王です。そして、その前に庄内観音首番の聖観世音菩薩がまつられ、そのわきに大きな護摩札がたくさん並べられていました。どこの観音さまもそうでしたが、外に建つ四角い柱の供養塔からお堂の中の観音さまの御手まで五色の布と紐で結ばれ、それらに触れることで観音さまと縁を結ぶようになっています。今回いっしょにお参りした方のなかに、数日前にお堂を再建された方がおり、その縁を結んだ五色の紐を加工して腕輪をつくっていただいているとのこと、それはすごいアイディアだと思いました。この庄内観音巡拝後にその1つを送っていただきましたが、縁を結んだ形見の五色の紐が今度はつねに自分自身を護ってくださるような気がいたしました。
 ここ荒沢寺で、改めて今回庄内観音をお詣りできることを喜びのなかでご報告し、その道中安全も祈りました。そして、今日明日と短い期間ではありますが、満願できることも併せて祈願しました。
 お詣りが終わり、すぐに出発しましたが、次の第1番札所の正善院は車だと5〜6分のところにあります。

 首番札所  羽黒山荒沢寺 (羽黒山修験本宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ひとのよの ねがひもつみの やまふかく のぼればきよき のりのつきかげ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.04

 10月18日、荒沢寺から第1番札所羽黒山正善院に向かいましたが、ほんとうに5〜6分で山門近くの駐車場に着きました。
 でも、この庄内三十三観音札所のなかで唯一ここだけが拝観料300円を納めなければ参拝できません。たしかに、この黄金堂は源頼朝が藤原氏を討つ時に勝利の祈願のため寄進したと伝えられるお堂で、鎌倉時代の様式を持つ国の重要文化財で、見事なものですが、やはりいささかの違和感を感じてしまいました。
 この黄金堂を3年がかりで大改修したのが、昨年のNHK大河ドラマ『天地人』の主役・直江山城守と酒田城主の甘粕備後守で、文禄2(1593)年のことで、それが現在の五間四面単層銅板葺のお堂だといわれています。
 では、なぜ黄金堂かというと、羽黒山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対し、このお堂を小金堂といい、33体の観音像が黄金に映えることからそう呼ばれるようになった、とある本に書いてありました。
 この右の写真が黄金堂で、ここで経をあげ、お詣りをして、石段下の寺務所で先ほどの首番札所荒沢寺のご朱印とここの第1番札所正善院の御朱印をいただきました。その間、お茶などを飲めるように準備されており、ここで朝茶をいただきました。朝食は大日坊に向かう途中の車のなかで食べたので、パタパタという感じでしたが、お詣りしてから飲むお茶は、とてもおいしく、まさに甘露の味がしました。
 ここ羽黒町手向には多くの宿坊があり、インターネットで調べてみると、32か所もありました。でも、幕末には300を越す宿坊があったというから驚きですが、それでも現在もこのように多くの宿坊があるということのほうが、もっともっと驚きです。もともと宿坊というのは、本来は僧侶のみが修行などでお籠もりする施設でしたが、平安時代以降に寺社参詣が一般化したことで、参詣者なら誰でも宿泊させるようになり、現在にいたっています。ですから、宿泊者に朝のお勤めや住職の講話などを半強制的にすすめているところもありますが、最近ではむしろ任意参加になっているようです。さらに、お寺などの雰囲気を生かして、精進料理を味わうことができたり、禅宗寺院などでは坐禅を体験することもできるなど、多様化しているようです。
 そういえば、ここ正善院は、毎年8月24日から9月1日まで、羽黒修験秋峯修行をするところでも知られ、これなどはいわば山伏体験を短期間でできるようなものです。それでも、全国から多くの方々が参加されるとのことですから、とてもよい精神修養になると思います。
 次は第2番札所の金剛樹院ですが、歩いても行けるところらしく、歩いておられる方もいましたが、車を停めたままでは小さな駐車場なので邪魔になると思い、車で向かいました。

 第1番札所  羽黒山正善院 (羽黒山修験本宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしき のりのひかりの こがねだう つきぬちかひも よよにしられて



☆庄内三十三観音札所巡り Part.05

 第2番札所の金剛樹院は、ほんとうに歩いたほうが早いぐらいの距離で、アツという間に到着です。それでも駐車場に車を停め、観音堂まで歩くと、3分ほど掛かります。
 まず、石の門柱のところから入り、真ん前に六地蔵が建ち、その後ろに庫裡と本堂があります。左上の写真がそれで、右後ろが庫裡で、左奥が本堂です。その本堂の前に御朱印所があります。
 その御朱印所と本堂の間を通り、本堂左側と墓地の間の道を行くと、右手の裏山に観音堂があります。その手前の斜面には盆栽のような見事な松があり、その下が本堂の裏庭になっています。ここにきれいに整備されていて、この裏庭から観音堂を見上げると、正面からお詣りしたような気になります。
 本堂わきの石畳の参道を行くと、階段になるあたりに、今回の御開帳の四角い柱の供養塔が建てられていて、そこから五色の布が観音堂まで伸びています。それに導かれるように観音堂へと石段を上りました。
 この観音堂は、文政13年羽黒山別当山海僧正の建立によるといわれているそうで、裏山の斜面に添って建てられています。ですから、観音堂の横から入るようなかたちで、正面から写真を撮ろうとすると、なかなか難しく、魚眼系のレンズでもなければ無理のようでした。
 また天井の絵は、庄内の画師が寄進したそうですが、堂内にはチベット系のマンダラも額装で飾られていました。マンダラの中心には、チベットなどでアヴァローキテーシュヴァラという観自在菩薩が描かれ、獅子吼観自在マンダラの1つだと思います。私もネパールやインドに行くと、必ずマンダラなどを求めてきますが、そのなかにもこのようなマンダラがあります。
 詳しくは、『西蔵図像聚成』という本に詳しくでていますから、もし興味がありましたら、調べてみてください。
 この観音堂のなかで、ゆっくりと経をあげ、お詣りをしていると、やはり気が休まります。ご本尊の聖観世音菩薩さまは、最上義光公のお局、明円禅尼の護持佛と伝えられており、厨子のなかで静かに微笑んでおられるようでした。もしかすると、その微笑みが気を休めてくれるのではないかと思いました。
 金剛樹院は、今回の開創300年特別ご開帳の取りまとめもされているようで、少し時間をいただき、庄内三十三観音霊場の話しを聞かせていただきました。まだ廻り始めたばかりでしたので、とても参考になりました。
 次は藤島町にある第5番札所の永鷲寺で、車なら30分程度とのことでした。

 第2番札所  羽黒山金剛樹院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よのひとを もれなくすくひ たもうこそ わがみほとけの ちかひなりけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.06

 第5番札所の永鷲寺は、東田川郡藤島町字添川にあります。現在は鶴岡市に合併され、鶴岡市添川となっています。
 たしかに、金剛樹院からは30分以上かかり、午前9時45分に着きました。たまたま本堂にご住職がおられ、寺号の永鷲寺の読みはむずかしく、なかなか「ようじゅじ」とは読んでもらえないので、漢字のわきにふりがなをつけているとのことでした。ついでに、「永鷲」とはインドの霊鷲山のことではないでしょうかと尋ねると、そうだと思うと話されました。この霊鷲山は、インドのラージキル、ここにはあの有名な竹林精舎もあったのですが、その近くにあります。地元の人たちはヴァイバーラ山と呼んでいますが、こここそ、お釈迦さまが迦葉や阿難、舎利弗などのお弟子さんたちに『法華経』や『観無量寿経』、そして『大無量寿経』などの大乗教典を説かれたとされているところです。
 さらに、お釈迦さまが入滅された後、500名ほどの高弟たちによる第1回の仏典結集が催された七葉窟のあるところです。これには、入滅までお釈迦さまに付き従っていた阿難尊者や戒律に精通する第一人者だった優波離尊者などが集まり、お釈迦さまの教えをそのまま復唱し合いながらまとめていったと伝えられています。
 ですから、この霊鷲山は大切な聖地ですから、その名を寺名に冠しても不思議ではないわけです。そのようなことを思い出しながら、ご住職の話を聞いていました。
 ご本尊さまは、十一面観世音菩薩で、本堂の左側におまつりされていました。お話しにあったふりがなも、右の写真を見てもわかりますが、板からはみ出すような形でつけられていて、ちゃんと「ようじゅじ」と書いてありました。
 ここでも、静かに経を唱え、真言を唱え、お詣りさせていただきました。ここ藤島町には庄内三十三観音霊場がここしかありませんので、次の第6番札所の光星寺のある立川町まで行かなければなりません。でも、車のナビを見たら、10分程度で行けそうです。
 いかにも曹洞宗の本堂らしいたたずまいを後にして、今度は立川町を目指して進みました。
 ここを出発したのは、午前9時58分でした。

 第5番札所  桃林山永鷲寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 たれもみな いのるこころは ようじゅうじ ふかきねがひを うるぞうれしき



☆庄内三十三観音札所巡り Part.07

 第6番札所の光星寺に着いたのは、午前10時過ぎでした。すぐに駐車場に車を停め、お稲荷さんの石像の間の参道を歩き、そのまわりには、「正一位白狐山稲荷大明神」と赤地に白抜きの旗がたくさん立っていました。今まで歩いたる庄内三十三観音札所は、ほとんどが「庄内札所開創300年記念 奉納 南無大慈大悲観世音菩薩」の赤地白抜きの旗でしたので、ちょっと面くらいました。
 山門をくぐり、正面には本堂があり、その右手に立派な御殿のような建物があります。聞けば、この中に観音さまをおまつりしているとのことで、靴を脱ぎ、長い廊下を歩き、大広間のようなところに目指す観音さまはありました。とても大きな金色の十一面観世音菩薩で、誰にでも触れることのできる五色の布の先の内陣に鎮座しておりました。
 ご本尊さまは、十一面観世音菩薩で、本堂の左側におまつりされていました。お話しにあったふりがなも、右の写真を見てもわかりますが、板からはみ出すような形でつけられていて、ちゃんと「ようじゅじ」と書いてありました。
 ここでも、静かに経を唱え、真言を唱え、お詣りさせていただきました。ここ藤島町には庄内三十三観音霊場がここしかありませんので、次の第6番札所の光星寺のある立川町まで行かなければなりません。でも、車のナビを見たら、10分程度で行けそうです。
 いかにも曹洞宗の本堂らしいたたずまいを後にして、今度は立川町を目指して進みました。
 ここを出発したのは、午前9時58分でした。

 第6番札所  白狐山光星寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 つきともに あまねくてらす こうしょうじ のりのひかりを あきらかにみん



☆庄内三十三観音札所巡り Part.08

 同じ立川町の第3番札所善光寺には、ホンの数分で着きました。ここの本堂に安置されている釈迦牟尼如來は、慈覚大師のお作と伝えられているそうですが、今回は観音さまのお詣りなので、まっすぐ観音堂に向かいました。
 観音堂の手前に小さなお堂がありましたが、いつもだと境内地もゆっくりと歩き、じっくり時間をかけて各お堂をお詣りするのですが、どうも、観音さま詣りは日程がつまっていて、観音さま以外はゆっくりお詣りできないのが現実です。ほんとうは、せっかく由緒のあるお寺を巡拝するわけですから、それなりの時間をかけるのが本筋ですが、私たちだけでなく、他の巡礼団の方々も同じように観音堂だけを目指します。33カ所もあるわけですから、まあ、仕方ないといえば仕方ないのでしょうが、いつかは時間を気にせず、心ゆくまでゆっくりとお詣りして歩きたいと思いました。理想としては、1日、1カ所、一心詣りです。
 でも、これは現役を退かなければ無理でしょうから、ここでは、そのこともお願いしました。
 そういえば、善光寺といえば信濃の善光寺が有名ですが、ここの善光寺に伝えられている阿弥陀如来も由緒があるらしく、さらに聖観世音菩薩と勢至菩薩とで善光寺の三尊として広く信仰されているそうです。その写真が観音堂のお詣りする正面のところに貼られていました。それを見ると、たしかに渡来仏のような雰囲気がありました。
 ここは時間にして、10分ほどでしたが、静かにお経を読み、真言を唱えました。各札所には、ご本尊さまとご詠歌、そしてご真言が書かれた白い大きな紙が貼られており、一般の人たちにはとてもわかりやすいと思いました。
 ここを出発したのは10時35分で、次の第24番札所の冷岩寺は、同じ立川町ですが狩川というところにあります。

 第3番札所  長瀧山善光寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 きざはしの のぼるがごとく ぜんこうじ おろがむくどく ちかいたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.09

 国道345号線を通って狩川まできましたが、この道は新潟県新潟市から山形県飽海郡遊佐町に至る一般国道です。近くには立川の風車があり、遠くからでも目立ちます。
 第24番札所冷岩寺には、10分ほどで到着しました。駐車場に車をとめ、山門に近づくと、二代目出羽海瀧右衛門碑という大きな石碑が右手にありました。なぜ、ここにこのような石碑があるのか、ちょっと聞いてみたいと思いましたが、ご住職には会えませんでした。
 山門手前には掘り割りがあり、静かに疎水が流れていました。今年のような猛暑の続いた夏であれば、さぞや気持ちがいいのではないかと思いました。その小さな石橋を渡ると、青地の冷岩寺と書かれた扁額があり、そこをくぐり、ほどなくして本堂の前に着きます。
 現在は曹洞宗ですが、文禄年間の創建当時は天台宗に属しており、北楯利長公の祈願所であったそうです。ここでは、観音さまを本堂内におまつりしていました。
 冷岩寺の観音さまは、昭和25年に西国三十三観音札所24番の摂州の紫雲山中山寺より勧請されたものだそうで、森野円象氏の彫刻で、平和観音としておまつりしています。
 私も中山寺にお詣りしたことがありますが、「2004年2月16日午後1時、第24番札所紫雲山中山寺に到着しました。ここは兵庫県宝塚市にあり、阪急宝塚線の中山駅からすぐのところにあります。この日は縁日に当たっていたのかどうか分かりませんが、お参りの方が多くいました。石段のわきにエスカレーターが完備されていて、お年寄りにはとてもやさしい設備です。これには賛否両論があるかもしれませんが、足腰の都合により選べることはありがたいと思います。
 中山寺は真言宗中山寺派の大本山で、本尊さまは十一面観音で、毎月18日にご開扉されるそうです。ここは、長谷寺の徳道上人が石棺に宝印を納めたのを花山天皇が掘り起こし、それをきっかけとして西国三十三観音霊場を再興したといういわれのある寺でもあります。そのような縁で、ここが西国三十三観音札所の第1番だったこともあるそうです。」と、そのときの西国三十三観音霊場巡りには書いています。
 そういえば、ここ冷岩寺は出羽七福神の大黒さまをまつる寺でもあり、ゆっくりとお詣りさせていただきました。
 ここを出発したのは、11時ちょっと前でした。

 第24番札所  萬歳山冷岩寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 かりかわや かりのよながら きただての ながればかりは かるることなし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.10

 第13番札所の東林山宝蔵寺は、松山町にありますが、現在の地名は酒田市山寺字見初沢です。まさに山寺にふさわしく、小高いところに本堂があるらしく、下の駐車場に車をとめ、長い石段を上りました。
 すると、その石段の途中に朱塗りの柱に切妻、瓦葺の瀟洒な山門があります。そこに「東林山」という隷書風の横書きの扁額が掛かっていて、ここからは聖域だという雰囲気が感じられました。聞くところによると、この札所のなかでも格段に厳しいとかで、なかには遠慮してお詣りもしないということでした。でも、鎌倉からの団体の方たちは、鎌倉にはもっともっと厳しい寺がいくつもあるということで、皆さんが納得されたということでした。おそらく、人に厳しいということは、自分にはもっともっと厳しくあられるのではないかと思い、それなら、ぜひお詣りしたいと長い石段を上って本堂の右わきにある庫裡に声を掛けたのですが、留守らしく、いささか拍子抜けしてしまいました。
 ここの本堂は、入母屋の瓦葺で、向拝の屋根が切妻の妻面を正面としていますが、参拝するところの2つの窓が梵鐘型で、いかにも曹洞宗のお寺という印象です。この梵鐘型の窓は、一般に「火頭窓」(火灯窓ともいうそうですが)と呼ばれていて、中国から禅宗が伝わってきたときにいっしょにこの建築様式も入ってきたといわれています。だから、曹洞宗のというよりは、禅宗らしいというべきかもしれません。
 しかし、西国霊場の石山寺にお詣りしたときにも、この窓はあり、紫式部が源氏物語を書いたといわれている「源氏の間」にあるので、石山寺では「源氏窓」と呼んでいたように記憶しています。でも、火頭窓では「火」から火災を連想させるので、同じ「カ」の音をもつ「花」や「華」を当てて言い換えているところもあるので、どっちもどっちかもしれません。
 やはり、ここで住職さんにお会いできなかったのは、返す返すもただ残念で、ふとそのとき思いついたのは、「君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す」という言葉でした。帰り道で、1茎だけウバユリの実が着いていたのを見つけ、下山しました。

 第13番札所  東林山宝蔵寺 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 おのづから ひらくたからの くらなれば いつかはつもる のりのやまでら



☆庄内三十三観音札所巡り Part.11

 第13番の宝蔵寺は酒田市山寺字見初沢でしたが、第12番札所の洞瀧山總光寺は酒田市総光寺沢で、地名にもなっている古刹です。
 予定では、宝蔵寺からまっすぐ眺望の森「さんさん」で昼食でしたが、まだ予定時間より早いということで、ここ総光寺をお詣りすることにしました。ここに到着したのは午前11時27分です。
 立派な山門に至る石畳の参道の両側には、山形県の天然記念物に指定されている「きのこ杉」があり、パンフレットから引用すると「樹齢約350年、本数にして120本ほどある」そうです。たしかに珍しい杉で、きのこといわれれば、まさにきのこのような杉の木です。
 その山門をくぐり、左手の観音堂にお詣りしました。観音さまは、如意輪観音といわれているそうですが、一見して聖観世音菩薩です。ご真言も「オン アロリキャ ソワカ」と書かれており、私たちもそのように唱えながら、お詣りさせていただきました。
 その後で、本堂裏の庭園が素晴らしいと聞き、上がらせてもらいました。この庭園は平成8年に国指定名勝になっているとのことで、江戸後期の作庭です。本堂の畳に座って見るのもよし、縁側にたたずんで眺めるのもまたいい雰囲気でした。さらに、履き物を借りて、その庭を歩くのもさらによく、池には大きな鯉がゆったりと泳いでいました。
 まさに自然の林泉美です。とくに、まさに朽ちかけようとしている池に突き出た板橋を支える杭は、もう、最高の侘び加減で、これを見ただけでここに来て良かったと思いました。また、池に映る向こう岸の木々の移ろいもよく、とくに大きなもみの木に昔から見守ってきたような孤立した厳しさのようなものが感じられ、何枚も写真を撮りました。
 パンフレットによれば、「四季折々につけ、朝夕の日のかげりにつけ、変化の妙あり、永遠の静けさの中に、自ら悟境を味わうこともできる」とありましたが、ここに一日中座っていれば、このように感ずることができそうです。
 このような素晴らしい雰囲気を味わえるのも、お詣りの楽しさです。ここは、また、ぜひ訪ねてみたい名園の一つです。もっとゆっくりしたかったのですが、すでに30分を過ぎていました。
 次は、昼食です。車が總光寺さんの横をすり抜けるように山道を上ると、そこは眺望の森「さんさん」です。白幡さんが予約してくれたので、到着するとすぐに食事にありつけました。時間のロス、まったくなし、これも巡礼では大事なことです。まずは、先達の方に感謝して、おいしい食事をいただきました。

 第12番札所  洞瀧山総光寺 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 としをへて よもやかれじの このさくら なかやまでらの あらんかぎりは



☆庄内三十三観音札所巡り Part.12

 昼食を食べ、少し足腰を伸ばし、出発したのが12時55分です。ここから茗ヶ沢にある第15番の龍沢寺までは10分ほどで着きました。
 本堂の左手の石段を上ると、その途中に大きな庚申石塔があり、そのわきには「甲子」と書かれた自然石の碑があり、お参りしました。この石段の右側はうっそうとした杉林で、これらの石碑がある左側は竹林です。それもしっかりと手入れされているので、とても清々しく、石段わきの刈り込まれたツツジたちも花盛りの頃はきれいだろうな、と思いました。石段の真ん中にはステンレス製の手すりがあり、その優しい心遣いについ笑顔が生まれました。
 でも、ご朱印所には誰もいないようで、準備されていたご朱印をお詣りが終わってからいただきました。
 石段を上った左手に観音堂があり、朱塗りのちょっと目立つお堂で、屋根は瓦葺きです。おそらく、今回の開創300年を期に塗り直されたようです。たしかに、管理するのは大変ですし、好みの問題もありますが、どちらかというと風雨にさらされて木目が浮き出たようなお堂がいかにも風雪に耐えてきたという感じがして、やはり300年という年月はすごいと単純に思います。おそらく、庄内三十三観音札所として巡拝されるようになったのは300年かもしれませんが、それ以前より今回巡拝して歩いているいくつかのお堂は古いかもしれません。
 その歴史を味わいながらお詣りするのも、観音さま巡拝の楽しさです。このお堂に、何千、何万、それ以上の方々がお詣りして、今ここにつながっていると思うと、そこになにがしかの縁を感じます。今回、初めて庄内地区の観音さまをお詣りしながら、同じ山形県内でありながら、知らないことがたくさんあり、今につながる歴史を感じながら歩くのは、とても貴重な体験です。ぜひ、多くの方々に観音さまをお詣りしながらいろいろなことを感じ味わってほしいと思いました。
 ここ第15番の龍沢寺を出発したのは午後1時22分でした。次は庄内町余目の第14番の乗慶寺です。

 第15番札所  本居山龍沢寺 聖観世音 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 いのるより はやあらはるる めうがさわ のちのよかけて われをむかへよ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.13

 第14番の乗慶寺は、松山と余目を結ぶ県道117号線にかかる庄内橋を渡った余目にあります。昼食を食べ、少し足腰を伸ばし、出発したのが12時55分です。ここから茗ヶ沢にある第15番の龍沢寺までは10分ほどで着きました。
 山門をくぐり、境内の庭を眺めながらまっすぐ進むと正面にお堂があります。このお堂のなかに観音さまがいらっしゃるのかなと思いましたが、右手の庫裡の玄関のようなところから入り、廊下を進むと位牌堂に進みます。まさか位牌堂に札所の観音さまがまつられているとは思いもしませんでしたが、その位牌堂の正面にりっぱな如意輪観世音菩薩が鎮座していました。
 ここは位牌堂でもありますから、お香の残り香も感じられ、お経をあげても心地よく反響します。
 また、この位牌堂に至る廊下の両側には手書きの伝道句がたくさん掲示されていて、たとえば、ブドウのような絵に「木や草には根があり 人には先祖がある」とか、野草を描きそこに「人と自分はちがう くらべることはない 自分の花を咲かそう 自分の光を放とう」とか、サクラソウの絵に「腹立てば鏡を出して顔を見よ 鬼の姿が ただで見られる 一、笑 一、若 一、怒 一、老」とか、いろいろとありました。
 とくに印象的だった言葉は、木の枝先に小鳥が止まっている絵に「小さな桜草が1本咲いている 根があるお陰です 葉があるお陰です いや天地のお陰 太陽のお陰です 天地が力を合わせて 私を咲かせているのです 中野尅子 詩抜」と書いてあったものです。たった1本の草花でも、多くのお陰をいただいて生きているのだから、私たち人間なんて、すごい多くのお陰をいただいているのだと思いました。まさに感謝しなければ生きる資格もないと感じました。
 庄内町文化財一覧を見ると、この乗慶寺には文化財も多くあり、建造物では「安保氏供養塔」があり、絵画では「絹本着色 仏涅槃図」や兆殿司筆の「絹本着色 釈迦如来如来像」、海北友松筆の「紙本墨画 疎山寿塔図」など2幅が庄内町指定の文化財として登録されているようです。
 たしかに境内地もよく整備されていて、庭石などにも風格がありました。また、庭石の中には、海岸から運び込まれてきたような浸食の進んだようなおもしろい風情の石もあり、苔や小さな植物が付着して育っていました。さらに季節の花々が植えられていて、ちょうどキブネギクやシュウメイギクなどがたくさん咲いていました。
 ここ第14番の乗慶寺を出発したのは午後1時58分、次は平田町の第17番東光寺です。

 第14番札所  梅枝山乗慶寺 (曹洞宗) 本尊さま  如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや みにあまるめの ごりしやうは このよばかりか のちのよのため



☆庄内三十三観音札所巡り Part.14

 第17番の東光寺に着いたのは、午後2時10分です。
 駐車場に車をとめ、その目線の先に屋根だけが一段と飛び出したような二階建てのようなお堂が見えました。それが観音堂です。でも、駐車場からだと山門をくぐらずにまっすぐに観音堂に行き当たりますが、それではせっかくの巡礼も画竜点睛を欠きます。なるべくなら、山門から入るべきで、ここの山門は質素ながら、両脇に石仏を祀っていました。
 そこから入ると、左手に、またあの二階建てのような観音堂が見え、近づくとその二階の窓からなにか見えるようです。でも、ちょうど太陽の光りがその窓ガラスにキラキラと輝いていて、やはり、はっきりとは見えません。
 しかし、観音堂に入ると、すぐ、その謎が解けました。大きな、おそらくこの庄内観音霊場の中では一番大きいと思われる十一面観世音菩薩が鎮座していました。そのお顔が二階の窓のようなところから見えるようになっていたのです。お堂は新しく、観音さまも比較的新しいようで、お聞きしたところ羽黒の開山能除大師(蜂子皇子)のお作と伝えられるお姿が不幸にも火災で焼失し、現在の十一面観世音菩薩は東京の西村芳斎師が彫刻されたそうです。
 たしかに古くからの観音さまを大切に護っていくことはとても大事なことですが、この世の中、護りきれないこともあります。たとえば、3月11日の東日本大震災などのように、あの自然の力の強さの前には、とてもあらがえません。もちろん、その他の天災や人災でも、どうにもしようのないことがあります。
 だとすれば、その再建なり復興に時間がかかろうとも、その道筋から外れないように努力することもたいへん大事なことです。古い観音さまを拝み、さらにここのような新しい観音さまを拝むと、どちらも護り続けてきたご苦労がしのばれます。また、護ってきたからこそ、開創300年記念御開帳ができたものと思います。
 ここの観音さまを拝ながら、新しく再刻し祀り続けることの大切さを感じました。
 古いばかりが良いものでもなく、新しく祀ることも大切なことで、そのつながりの中にこそ信仰が息づくと思いました。
 そのように思いながら、観音堂を後にして車にもどるとき、改めて山門を見ると、そこには古い石仏が祀られていました。やはり、古くからの信仰がいろいろなことがあったとしても続いている、と実感しました。
 東光寺を出発したのは午後2時28分、次は同じ平田町の第18番延命寺です。

 第17番札所  薬王山東光寺 (曹洞宗) 本尊さま  十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ただたのめ いらかもたかく とぶとりの あすかのてらの ひろきちかひを



☆庄内三十三観音札所巡り Part.15

 第18番の延命寺は、第17番東光寺と同じ平田町にあります。現在は酒田市生石字大森山で、この生石が山号になっています。寺伝によれば、弘法大師の開基で、往古は18ヶ寺の末寺があり、この奧にある鷹尾山には三千坊の僧坊があったといいます。ですから、そうとうな古刹で、供養塔として建立された安山岩自然石の板碑郡は、山形県の文化財に指定されているそうです。
 観音さまは観音堂ではなく本堂におまつりされていることなので、先にまっすぐ本堂に進みました。本堂入り口には、今回の開創300年を記念するかのように五色幔幕がかけられ、いかにも記念の年という雰囲気でした。この五色幔幕は、一般には緑、赤、黄、白、紫(青の場合もある)の各色で、真言宗などでは五智如来の色とも言われ、5つの智慧を表しています。つまり、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智です。ですから、寺院では、落慶などの法要や、灌仏会(花まつり)などの年間行事の際には堂内の入り口や壁面にこの五色幕が掛けられるのです。
 本堂に上がると、お壇に観音さまがおまつりされているのですが、はっきりとわかるように額に入った大きな写真がお詣りするところに飾ってありました。これはこれで有り難いと思いますが、写真を通してお詣りするのもイヤという方もおられるかな、と案じてしまいました。せっかくのご開帳ですから、間近でお詣りできればそのほうがいいわけです。でも、保安面を考えれば、それも難しいことで、ちょっと判断しにくいと感じました。
 帰宅してから、庄内観音霊場のホームページを見ると、「文化庁から文化財の保存に関して鍵を掛けるなどの処置をしなさいという通達も来ています。言うまでもなく防犯上の喚起ですが、この札所内でも仏様が多数盗まれています。幸い数体は帰って来てその後国宝になった物さえあります。各寺院では保安上の設備をされている所もありますし、万が一の場合に備えて仏様のデーターを取り保存することも少しずつされ初めてはいますが、まだ普及するまでは時間がかかりそうです。」とあり、それぞれに苦渋の選択をして、今回のご開帳に踏み切ったようです。
 本堂でお詣りをすませ外に出ると、壁際にサルスベリの木があり、その枝の苔むしたところから杉の小苗が伸びだしていました。よく見ると2本あり、いずれは娚杉になるのではないかと思いました。
 そして、ご本尊さまは本堂に安置はされているのですが、観音堂にもお詣りして、車にもどりました。
 ちょうど午後3時でした。
 すぐに、ここ第18番の延命寺を出発し、次の第11番円通寺を目指しました。

 第18番札所  生石山延命寺 (真言宗智山派) 本尊さま  聖観世音菩薩
 ご詠歌 あらたなる のりのしるしに おほいしの おもきさはりも いまはのこらず



☆庄内三十三観音札所巡り Part.16

 第11番の円通寺は旧町名では飽海郡八幡町観音寺麓ですが、現在は酒田市麓字楯の腰になっています。どちらにも麓が入っていますが、ご詠歌にも、「のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま ぼだいのみちを いそげともども」とあり、「ふもとやま」とあります。延命寺からは12〜3分で着きました。
 石段を上ると山門があり、この山門はこの裏手の山にあった次氏秀公の観音寺城の裏城門をそのまま使っているのだそうです。現在でも、付近一帯の山には観音寺城跡として館跡、池跡などが残されていて、ときには土器なども出てくるらしいですから、その当時はかなりのものだったようです。
 その山門をくぐると、正面にお堂があります。上がらせていただくと、須弥壇の奥に准胝観世音菩薩がまつられており、外から伸びてきた五色の布が紐となり、そこで結ばれていました。いかにも観音さまと縁結びができそうで、しっかりとご法楽を捧げて退堂しました。
 外に出ると、ちょうどキブネギクが満開でした。このキブネギクは、京都の貴船神社付近で見つけられたことから名付けられたようですが、もともと日本に自生していたものではないようです。
 おそらく、古い時代に中国から渡ってきたものが野生化したのではないかというのが通説で、プラントハンターのフォーチュン(R. Fortune、1812-1880)が中国からイギリスに持ち帰ったものとよく似ています。私自身も、中国の雲南省でよく見ましたし、最近よく栽培されているシュウメイギクもこの仲間です。ただ、キブネギクは八重咲きですが、シュウメイギクは一重や白花もあり、庭植えには最適です。しかも日陰の庭でも花が咲きますから、とても重宝されます。このシュウメイギクは、漢字で書くと秋明菊で、いかにも秋のさわやなか雰囲気を持った花です。
 その他にも、ギボウシやボタンも植えられていましたから、いつ来ても楽しめそうな境内地でした。
 ここを出たのは午後3時半ごろで、次は第19番の龍頭寺です。

 第11番札所  見瀧山円通寺 (曹洞宗) 本尊さま  准胝観世音菩薩
 ご詠歌 のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま ぼだいのみちを いそげともども



☆庄内三十三観音札所巡り Part.17

 第19番の龍頭寺は、飽海郡遊佐町の蕨岡松ヶ丘にあり、第11番の円通寺からは県道345号線を通って7〜8分です。
 鳥海山大物忌神社前に車をとめ、車道を歩くと、左手に三十三観音霊場第十九番札所と平和観音百霊場第三十三番札所と書かれた白地の大きな案内板があり、そこから7〜8段の石段を上ると正面に本堂があります。その入り口の両側には、金剛力士像がそのまま安置され、ちょっと意外でした。一般には仁王さまともいい、仏教の守護神である天部に属しています。ここにあるように、口を開いた阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像が一対でまつられています。
 その本堂を左に入ると、そこが観音堂です。
 観音堂は土蔵造りですが、入り口の屋根には丹念な彫刻が施され、普通の土蔵とはいささか趣が違います。
 中に入ると、護摩壇があり、その向こうに大きく立派な観音さまがまつられていました。堂内は狭いのですが、きれいに管理され、数珠やお守りなども受けることができるようです。私は受けなかったのですが、朱印所で数珠やお守りの番号を言うと受けられるそうで、これもなかなかいい案内です。
 その案内板のさらに左下を見ると、「十一面観音さまは御簾の奥に居られます。上がってお参りください」と書かれており、この大きく立派な観音さまのさらに奥に居られることを知りました。そういえば、観音堂の前から伸びている五色の布と紐は、ずーっと奥のほうまで伸びています。
 その五色の紐の結ばれたご本尊さまの前で、しっかりとお参りさせていただきました。唐金製のようですが、作者は不明とのことでした。とても穏やかなお姿で、慈愛に充ち満ちていました。
 次は吹浦の第16番海禪寺です。

 第19番札所  鳥海山龍頭寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 よにひろき つかひはつきじ とりのうみ ちひろのさきは よしはかるとも



☆庄内三十三観音札所巡り Part.18

 第21番の松葉寺は、遊佐町吹浦にあり、第19番の龍頭寺から約20分ほどかかりました。ここ松葉寺が庄内観音霊場のなかでは、一番北にあり、もう少しで秋田県との県境です。このあたりは、『奥の細道』で芭蕉も通ったところで、「あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すずみ』の句も残されています。
 この松葉寺は、明治の神仏分離前は鳥海山神宮寺の学頭であったのですが、分離後は鳥海山大権現と末社の雷風神社本尊千手観音を安置していたそうです。それが、戦後の庄内札所第21番となってからは如意輪観世音菩薩を安置し、現在にいたっているとのことです。
 車をとめ、石段の前に立つと、その両側に黒御影石でつくられた石塔があり、左には「荘内札所第廿一番 女鹿 松葉寺」とあり、右には「鳥海山大権現安置霊所」と刻まれてありました。石段は、27〜8段あり、その上に瓦葺きの大きな山門があり、そこに五色幔幕がかけられていました。
 その山門をくぐると、正面に本堂があり、そこにも五色幔幕がかけられ、そこに観音さまがおまつりされているのか一目でわかります。もともとは、この本堂の左手の観音堂にまつられていたそうです。
 本堂の中には何人かのおばあさんがおり、ご朱印や接待をしていましたが、「どうぞ、ゆっくりとお詣りください」との優しい声に応えるかのように、お経をあげ、真言を唱え、かつて、この仲間で登った鳥海山のことなどが走馬燈のように思い出されました。
 ここは夕日がきれいなところだと聞いていたので、外に出てから山門のわきから日本海を眺めると、遠くに飛島がはっきりと見えました。ここ遊佐町吹浦から飛島まで直線距離にして30kmほどあるそうですが、真っ平らなような台地に、いつかは行ってみたいと思いました。この島は、古くはいろいろな名前で呼ばれていたそうですが、江戸初期ころから現在のように飛島というようになったそうで、そういえば、酒田の福王寺さんには飛島からお詣りに来る方が多いと聞きましたが、船便が欠航するとそこに泊まることもあると前住職から聞いたことがあります。やはり、そのような親しいつながりが信仰の結びつきには大事だと思います。
 結局は、人と人とのつながりは、お互いに支えたり支えられたりの関係で、だからいろんなことができるし耐えられるのだと思います。この庄内観音霊場のご開帳だって、多くのお寺がまとまったからこそ多くの参拝者を迎えることができたわけで、その力の束こそ、さらに大きな力につながるきっかけになるのではないでしょうか。
 この10月末で今回の開創300年記念のご開帳は終わりますが、ぜひ、またの機会にご開帳していただき、それをきっかけに多くの方々が観音さまと縁を結ぶことができます。やはり、どんなことでも、その最初のきっかけが大事だと、今回のお詣りでつくづく感じました。
 次は同じ吹浦の第16番札所の海禪寺です。

 第21番札所  鳥海山松葉寺 (真言宗智山派) 本尊さま  如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 みはるかす よもの  やまかは とりのうみ たかきをあほぐ めがのしらなみ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.19

 第16番の海禪寺は、飽海郡遊佐町の蕨岡松ヶ丘にあり、第21番の松葉寺からは10分程度です。それでも、ここに到着したときには、午後4時45分でした。
 もう10月18日ですから、日の沈むのも早くなり、5時過ぎると薄暗く感じられます。それでも、この日はいい天気だったので、まだ境内地の写真は撮れました。山門のわきを車で通り、本堂前の駐車場に車をとめ、本堂の左側の入り口から入りました。
 ここの観音さまは、現住職の悲願の観音であった"ひめ小松"、これは別名キタゴヨウとも呼ばれ、北海道から本州北中部に分布していて、ちょっと柔らかそうな木ですが素直で、割れにくいと聞いたことがあります。その一本造りで、高さが一丈六尺、つまり4.8mもあるそうですから、とても大きな十一面千手観世音菩薩です。説明では、この観音さまの胎内には、酒田市の加藤安太郎氏寄贈の石原莞爾将軍が信仰した文殊菩薩が納められているそうです。石原莞爾氏といえば、山形県出身で、しかもここ庄内で生まれたのですから、とても深い土地柄でもあります。
 そういえば、この地で有名なものとして十六羅漢岩がありますが、元治元年(1864)に海禪寺第21代住職寛海和尚が海難事故による諸霊の供養と海上の安全、さらには多くの衆生を救わんとして発願し、完成させたものと伝えられています。そして、22体の磨崖仏が完成したのは明治元年(1868)だそうです。今回は時間の関係で見ることはできませんでしたが、だいぶ前に鳥海山に登ったときにお詣りしたことがあります。
 本堂内で、今日最後のお勤めをさせていただき、清々しい気持ちで外に出ました。
 すると、境内地には多くの石仏がおまつりされていて、不動尊石像や子育て観音石像などは石像の素朴な雰囲気があり、その他の石像もお詣りさせていただきました。でも、山門を入ってすぐのホウキを持った小僧さんの石像は、いかにも新しく、とってつけたように感じました。他のいい雰囲気の仏さまたちには、ちょっと不釣り合いではないかと思いました。もちろん、いろんな考えがあって設置していることなので、部外者がとやかくいうようなものではありませんが、人にはそれぞれに好き嫌いがあり、好きかといわれれば、やや下を向いて答えないかもしれません。

 今日10月18日は、全部で19ヶ寺を巡拝させていただきました。とても充実した1日でした。
 ここから10分ほどで、今夜の宿、鳥海温泉「遊楽里」に着きました。旅支度を解き、湯に入り、夕食のお膳の前に座ると、今日一日がやっと終わったような気分でした。
 食事の後は、明日の準備をして、早めに眠りました。

 第16番札所  松河山海禪寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 よそならず ここふだらくの たかんいわ きすつなみを ゐながらにきく



☆庄内三十三観音札所巡り Part.20

 10月19日、今日は庄内観音霊場を巡って二日目です。今日も快晴で、泊まった鳥海温泉「遊楽里」から、鳥海山がすっきりと見えました。
 朝食をいただき、身支度を調え、午前8時に出発しました。向かうは、酒田市日吉町の第10番持地院です。25分ほどで着きましたが、本堂の裏手に駐車場があり、そこから案内板に導かれて、右から回り込むように本堂と墓地の間を通り、山門のところに出ました。そこをくぐり、本堂の入り口から入ろうとすると、その上に「良茂山」という山号の扁額が掲げられていました。資料では「大佛山」なのにと思ったのですが、聞くところによると、古くは良茂山と称していたそうですが、大正3年に4丈4尺の大仏を建立した時に今の山号に改名したということでした。残念ながら、このときの大仏さまは戦時中に供出されてしまい、現在のものは平成4年6月に開眼されたもので、大きさは基壇をいれ高さ17メートル(本体13メートル)、金銅製の立像大仏では 日本一だそうです。
 まずは、本堂に上がらせてもらい、正面のご本尊さまに挨拶し、左手におまつりされている観音さまにお詣りしました。その観音さまをお祭りしているところだけが土蔵づくりになっていて、その両脇にはお仁王さまが鎮座していました。ところが、千手観世音さまはそのさらに奥の漆喰の壁に護られるかのようにまつられ、いかに大切にされているかがわかります。そういえば、「総丈一丈一尺もある大観音の胎内佛として安置されている。もともとこの霊佛は葛西家の御内佛で、大本山総持寺高尾観音堂のご本尊といわれている。」と案内に書かれてありますから、その御内佛が千手観世音さまです。
 五色の紐は、まずこの大観音さまの手を通り、さらにその奥の千手観世音さまの手にしっかりと結ばれていました。まさに、「かんのんさまがみていてくれる」だけでなく、大きな縁で結ばれていると実感しました。ねんごろにお詣りし、外に出ると、子どもたちの声が聞こえてきました。
 近くに幼稚園があるらしく、しかもこの境内地にあるところをみると、持地院の運営かもしれません。その声を便りに歩いて行くと、広場があり、そこに園児たちがいて、その前に大きな酒田大仏が立っておられました。天気はいいので、軽装で来たのですが、風が強いこともあり少し寒さを感じました。よく、酒田は風が強く吹くから、火事になると大変だということを道中で聞きましたが、本当に風の強さを実感しました。
 そこで、すぐに車にもどりました。それでも、ここでのお詣りは30分ほどかかったようです。
 これは後日談ですが、11月27日の朝刊に、「26日午後9時35分ごろ、酒田市日吉町1丁目の持地院の敷地内にある住職大滝宗光さん(79)の住宅から出火、木造一部2階建て家屋が焼けた。大滝さんの妻ら男女2人が同市の日本海総合病院に搬送された。」という記事を見て、びっくりしました。まさか、たった1ヵ月ほどまえにお詣りしたのに、と思いました。そして、やはり酒田は火事が多い、だから大事なお堂は火災でも被害の少ない土蔵づくりが多いのだと実感いたしました。
 この第10番持地院の次は、同じ日吉町にある第20番光國寺です。

 第10番札所  大佛山持地院 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしや むかしながらの つえざくら よくこそしげれ いつのよまでも



☆庄内三十三観音札所巡り Part.21

 第10番持地院から車に乗って移動しましたが、ここ第20番光國寺までは目と鼻の先ほどの近さで、歩いた方が早そうでした。直線距離にして、200メートルちょっとあるかないかです。
 ここは、たしか日吉町ですが、ご詠歌に「かめがさき」という地名らしきものがあるのを不思議に思っていたのですが、住職さんに聞くと、「今から400年ほど前の永正年中に、春王山満蔵院護持の観音堂は、出羽亀ヶ崎城の西方に知慶法師が開創したといわれている」からなのだそうです。なるほど、その時の亀ヶ崎の名かと合点がいきました。
 駐車場から歩くと、境内地にはりっぱな黒松があり、往時を偲ばせてくれます。そこを抜けて、本堂に近づくと、狛犬が両側に鎮座し、参拝者の魔を払ってくれるかのようです。このお堂は、大正時代になって多くの信者の力で再建されたものだそうで、瓦屋根の剣片喰(けんかたばみ)の紋は城主の紋だそうです。
 この寺は真言宗醍醐派に属し、今回一緒に巡拝している仲間の寺でもあり、ゆっくりしたいところですが、今日ですべてまわる予定なので、そうもできません。ただ、お詣りだけはゆっくりとさせていただきました。
 お詣りが終わり、今回の開創300年を記念したご開帳の話しやさまざまなことなどを立ち話しして、次の寺に行くことにしました。ほんとうはお茶でもごちそうになり、庄内のことや酒田の話などを伺うのも旅の楽しさですが、三十三観音札所巡りはすべてまわらないと何か見落としたような気分になるから不思議です。たとえば、ご朱印帳に一つでもご朱印が押されていなければ、宿題を忘れたしまったかのようです。
 だから、他の観音参りの方々を見ていても、まっすぐ観音さまに向かい、お詣りして、ご朱印をいただく方は旅行社の方かお世話人です。たとえ、境内地が広くていろいろ整備されていても、観音さまお詣りが終わるとそのまま車にもどってしまいます。だからといって、私たちも同じことをしているわけで、いつかは時間を気にせずゆっくりお詣りしたいと願いながらも、今回は少し慌ただしくお詣りさせていただきました。
 光國寺さんには、何度かお詣りさせていただいたことがありますが、今回のように短時間の滞在は初めてです。
 心から申し訳ないと思いながら、番外の観音寺へと向かいました。

 第20番札所  春王山光國寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 これやこの うききにあへる かめがさき かかるみのりの よにうまれきて



☆庄内三十三観音札所巡り Part.22

 次は番外札所の観音寺ですが、場所は酒田市亀ヶ崎で、亀ヶ崎城址の烏渡川原にあります。
 第20番光國寺からは、車で10分程度で着きました。駐車場は比較的広く、観音堂も大きく立派です。お堂の入り口の両側の柱には、右に「亀ヶア観音堂奥院霊場 慶光山 観音寺」と書かれ、左には「西国札所会 荘内札所会 公認花山院観音本霊場」と書かれた大きな木の札が掛けられていました。
 お堂に入らせてもらうと、護摩壇があり、その上にはお不動様がまつられ、その先の須弥壇にご本尊の十一面観世音菩薩がまつられていました。案内によると、この観音さまは曹洞宗の開祖である道元禅師が一刀三礼のお作であるといわれているそうで、しっかりとお詣りさせていただきました。ここは、亀ヶ崎城主志村伊豆守光安公の祈願所でもあったそうですから、相当由緒のある寺院です。
 お詣りが終わり、お堂を出ると、その彫刻のすばらしさに見入ってしまいました。正面の龍の彫刻も深みがありいいのですが、向拝を支える力士像はとても力強く、それでもユーモラスでもあり、作者の力量が感じられます。また、突き出たところの唐獅子の彫り物も端正で、片一方には像が彫られていて、とても細工が細やかです。
 時間があれば、それらを一つ一つ見て回るのですが、そうもいかず、車にもどりました。すると、近くに公共のトイレがあるというので、みんなで散歩がてら行ってきました。
 やはり、車に乗って、座ってお詣りだけだと、足がなまってしまいます。まさか、車のなかで足踏みもできませんから、このような天気のいい日は、野外で思いっきり手足を伸ばしながら歩くことです。
 歩けば、もう、それだけで気力がみなぎります。
 さあ、もうちょっとお昼までにまわらないと今日中には終わらないよ、と一人で気合いを掛けながら、次の第22番洞泉寺に向かうために、車に乗り込みました。

 番外札所 慶光山観音寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 にごりたる つみもながれて うどがはら こころにうかぶ じひのつきかげ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.23

 第22番札所の洞泉寺は、三川町猪子にありますが、地図を見ると近くに「イオン三川ショッピングセンター」があるようです。でも、道路工事中ということもあり、何処をどう曲がって洞泉寺に着いたのか、ちょっとわかりませんでした。
 ここ洞泉寺は赤川の河川近くにあり、この赤川は最上川に次いで山形県では2番目に長い川です。その源流は新潟県との境にある伊東岳にあり、庄内平野を流れ、洞泉寺近くの赤川放水路から河口に注ぎ込みます。
 洞泉寺は正法第十四世諦翁連察(たいおううんさつ)大和尚の開山だそうですが、観音堂はそれよりも遙かに古く、大同二年の開創といわれ、弘法大師が一刀三礼の千手観世音菩薩の霊像を安置したのに創まると傳えられています。現在の観音堂は蔵造りのような建物で、屋根は瓦葺き、なかに鰐口があり、その新しく作られた上がり口から入ってお詣りできます。
 ここは千手観世音菩薩がご本尊さまですから、そのご真言「オン バザラ タラマ キリク」と唱えながら、ゆっくりとお詣りさせていただきました。ご本尊さまの両脇には、西国三十三観音さまが並んでおまつりされていました。
 お堂を出ると、その右わきにカリンの木が植えられていて、大きな実がたくさんなっていました。もう、すでに落果したのもありました。その一つの果実に鼻を近づけると、カリンの甘ったるい香りが感じられました。
 よく似たものにマルメロがありますが、どちらもバラ科ですが、属は違います。カリンは中国原産で、果実が堅く、特有の強い香りがありますが、マルメロは中央アジア原産で、カリンの花よりふっくらとした白っぽい色で、果実そのものも大きく、成熟すると黄色になり、密毛に包まれます。そして、加工すると果肉も柔らかくなり、シロップ漬けなどにも使われます。
 どちらも、たくさん出回る果実ではありませんが、昔から、痰や咳止めに効果があるとして使われています。そういえば、私も手に入ったときには、カリンを芳香剤として室内に飾ったりしています。そういう意味では、もっともっと、新しい使い方がありそうです。
 また、境内地にはハクモクレンもあり、すでに来年の花芽が着いていました。さらに、種子も実っていたので、それらをいっしょに写真に収めました。
 ちょうど10時30分です。次は第23番札所の勝伝寺です。

 第22番札所 清流山洞泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たづねいる ひとこそかわれ とくのりの あまねきかどの てらゐなりけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.24

 第23番札所の勝伝寺は、三川町播磨にあり、道の駅「庄内みかわ」が近くにあります。
 駐車場は、本堂の右手から入ったところにあります。そこに車を駐め、歩くと、ちょうど真新しい山門のわきに出ます。そこで、そこから一端、石柱のある境内地との境に出て、もう一度入り直しました。
 そこから見ると、手前に黒門があり、その先に瓦葺きの新しい山門の屋根が見えます。そして、歩いて行くと、その山門の左手前にこれも真新しい観音石像が建立されていて、左手にはハスの花を持っていらっしゃいました。そこでも、当然のことながらお詣りし、改めて山門をくぐり、本堂の前に立ちました。
 本堂は、いかにも曹洞宗の寺院らしく感じられ、円窓がとても印象的でした。その円窓と円窓の間が入口になっていて、そこから入られていただくと、中央に見事な欅製の須弥壇の奥にご本尊さまがおまつりされていました。
 ご本尊さまは、聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれているようで、案内には「おおむぬ鎌倉時代のものと思われるが優美な霊佛である」とあります。でも、この「身ごもり」というのは、お嫁さんが身ごもるように祈願されたのか、それともこのお姿のなかにマリア観音などのように別なお姿が入っているのかはわかりませんでしたが、その解説もありませんでした。
 やはり、一人でお詣りしているのなら、時間をかけてゆっくりお聞きもできますが、みんなでお詣りしていたり、三十三観音さまをこの日にすべてお詣りしたいなどという目的があると、なかなか時間をとることができません。
 もし、また、庄内に来る機会があったら、ぜひ、このような由来も尋ねてみたいと思いました。
 ご住職さんから、もう少し近づいて観音さまをお詣りしていいと了解をいただいたので、さらに近づくと、そのお手に固く結ばれた五色の紐が強く印象に残りました。おそらく、また10年後に記念御開帳があるかもしれませんが、それまで、この強く結ばれた五色の紐で、私たちも庄内の観音さまと結ばれ続けるような気がしました。
 ここは駐車場が近いこともあり、15分ほどでお詣りが終わりました。次は第8番札所の地蔵院です。

 第23番札所 光国山勝伝寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 はりまなる しかまにとほき はてまでも のりをおもへば ちかよりぞゆく



☆庄内三十三観音札所巡り Part.25

 第8番札所の地蔵院は、旧東田川郡大山町馬町、現在は鶴岡市大山にあり、犬祭で有名な大山町の椙尾神社の創立と同じと伝えられています。
 ここも明治維新の神仏分離令の影響を受け、6つも坊があったそうですが、現在ではここ地蔵院だけが残っているそうです。そこで、明治20年7月に当時の晃順住職が本堂再建を志し、多くの信徒たちと力を合わせ、新潟の五葉松材を購入して建立したのだそうです。そのため、この観音堂は、別名五葉松殿ともいわれています。
 そういわれてみると、黒漆に朱の入った格子の格天井は見事な木目の板で、これも五葉松ではないかと思いました。さらにその天井から、庄内で多く見られる傘福が提げられていました。この傘福は、もともとが庶民の切なる願いを託して観音堂に奉納されたことからはじまったそうで、今でもお祝い事のときにそれぞれの意味合いの飾り物を傘先にさげ、幸せを願ってお祈りをするそうです。
 ご本尊さまは、千手観世音菩薩で、西国三十三観音第十六番札所の山城の国清水寺の本尊千手観音のご分霊を勧請して安置しているそうで、いつの時代かはわかりませんが、本堂再建後のことではないかと思われます。そのご本尊さまの前には、ご神鏡があり、ここがいかにも神仏混交ということが彷彿させられます。
 今、梅原猛と五木寛之の対談集「仏の発見」を読んでいますが、仏教が外来の信仰であるにもかかわらず、これほどまで日本人の生活のなかに根を下ろすことができたのは、神仏が習合した部分があるからだといいます。その神道と仏教を合体させた功績は、やはり空海だといいますから、この地蔵院が真言宗だというのも宜なるかなです。そういえば、空海が最初に高野山に行ったとき、狩場明神などを大事にして、敬意をはらったからこそ、そのあとはスムーズに進んだと思います。
 ところが、一神教だと、すべてが一つしかないわけで、必ず他とぶつかる可能性があります。それが、現在も起こっている各国の紛争の原因の一つでもあるようです。まあ、深く考えすぎても動けませんので、観音さま巡りぐらいは、ゆったりと楽しみたいものです。
 次は第25番札所の龍宮寺です。

 第8番札所 椙尾山地蔵院 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 いつのひか またうままちの ぢぞうゐん うまれあわせし けふをよろこべ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.26

 第25番札所の龍宮寺は、加茂の港を見下ろす高台にあります。
 この加茂港は湾状になった天然の良港で、明治になり酒田港などが整備される前には、北前船が行き交う上方文化の入口でもあったそうです。そういえば、ここ加茂には山形県唯一の水産高等学校である山形県立加茂水産高等学校があり、さらには、あのクラゲで有名な鶴岡市立加茂水族館もあります。
 下の駐車場に車を駐め、長い石段を上りきったところに石鳥居があり、ここにも神仏混淆の歴史を感じました。龍宮寺という寺号も、いかにも港にふさわしく、明石山という山号もそうかもしれません。
 本堂は瓦葺きの民家風のたたずまいで、ご住職はいないそうです。そこで、なにかのときには、近くのお寺さんが来てくれるとか、なかなかお護りするには大変なようです。
 ご本尊さまは、聖観世音菩薩ですが、神像の形をしていて、左手にはハスの花を持っています。その両脇には、御幣が飾られ、まさしくここが明治以前にはとても栄えた神仏混淆の聖域だと思いました。おそらく、この高台から、港を出入りする舟を見守り、航海の安全や大漁の祈願などで賑わったのではと想像されます。とくに、この庄内地方は出羽三山のお膝元ということもあり、ことさら明治の廃仏毀釈の動きが激しかったと聞きます。そんなことまで、ということが平気でなされ、先祖代々護ってきた寺院、さらにはそのなかの仏像や仏具までもが壊されたそうです。
 ここ、庄内観音を巡りながら、改めのそのことを思い出しました。今では、古い話かもしれませんが、とても大切なものが時の政府の一声で、あっさりとおこなわれてしまう怖さを感じました。
 それでも、以前と変わらないのは、ここから眺める日本海の風景で、その日は天気もよく、海を渡ってきた風も爽やかでした。
 お昼近いのですが、もうちょっとがんばって、次の第29番札所の南岳寺を目指しました。

 第25番札所 明石山龍宮寺 (天台系単立) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たつのみや ちひろのそこの うろくづも もらさですくふ めぐみたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.27

 第29番札所の南岳寺は鶴岡市内にあり、鉄龍海上人の即身仏があることで有名です。
 境内地には弘法大師碑が建っていて、ここが真言宗の寺院であることがはっきりとわかります。だいぶ前に一度だけお詣りさせてもらったことがありますが、たしか、木造の本堂だったと思いますが、現在では建て替えられて、コンクリートの階段を上ったところが本堂で、その下に鉄龍海上人がまつられてありました。
 ご詠歌には「つるがおか」とありますが、ここの観音堂はかつては花街として知られた七日町にあり、ここからは相当離れていて、その管理は七日町の町内会がおこなっているそうです。そういえば、ご本尊さまの聖観世音菩薩も厨子も新しいようで、護摩壇も四面器も真新しいものでした。その護摩壇には古色のお不動さまがまつられていて、時代を感じました。
 もちろん、本堂でお詣りをさせていただき、それから階段で下におり、鉄龍海上人さまにお詣りしました。寺伝では、『当山に安置せる即身仏鉄竜海上人は、秋田県北仙北郡仙北町堀見内進藤家に生まれた。当時当山は湯殿山注連寺の末寺にして、御行寺と呼ばれ、湯殿山行者、信者の修行所、祈祷所であった。時の住職天竜海上人の室に入り得度し、当寺又は注連寺に於いて修行し、岩手県蓮正寺へ晋住したのでありますが、嘉永年間に当寺が焼失したので再び当寺に戻り再建致しました。又、師僧格である鉄門海上人(注連寺)が発願した加茂坂道路改修工事に際しては、上人が責任者となり難工事を無事完成いたしました。全国各地を巡錫、行脚し衆生済度に勤め五十五歳に到り、宗祖弘法大師様の「入定留身して後の世の人々を済度せん」との誓願のもとに大願を発し湯殿山仙人沢に山籠し、寒暑一枚の白衣に身をつつみ、一千日の五穀、十穀断ちの木食行を、又災厄消除等の修行をし、ついに胎蔵界大日如来のもとに大願を成就し即身仏となられ、宗祖弘法大師と同じ六十二歳にて明治元年八月八日に入寂されたのであります。』と書かれてありました。
 現在、日本に即身仏のご尊体は10数体ほどだそうですが、私の近くにも1体おまつりされています。その修復には地区あげて取り組みました。よく、即身仏とミイラ仏とを混同される方がおられますが、ここの寺伝にあるように、大願を発し、すさまじい修行のあかつきに入定されるわけですから、まったく違います。その厳しい修行を思いながら、静かに参拝させていただきました。
 外にでると、もう12時30分でした。近くの「滝太郎」という食事処に行き、昼食にしました。なるべく畳敷きがゆっくりできるからという理由も、そこを選んだことの一つでした。
 約1時間、食事をし、昼休みをして、また巡礼を再開しました。次は第28番札所の龍覚寺です。

 第29番札所 修行山南岳寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いくちとせ くにやさかえん つるがおか たえぬみのりの はなのかざしに



☆庄内三十三観音札所巡り Part.28

 第28番札所の龍覚寺は南岳寺からほど近くにありました。
 新しい白御影石の門柱には、左に「新山 龍覚寺」、右には「真言宗豊山派」と黒御影石に彫られて、そこを進むと、左手に大きな門かぶりの松があり、歴史を偲ばせます。その先に観音堂があります。その観音堂の右手前に「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、「蝉しぐれ」で使われたようです。
 観音堂は、瓦葺きのとても立派なもので、内部の護摩壇のところに、「火防せ 厄除け ころり観音」の案内板がありました。寺伝を読むと、「創立以来火災にかかった事がないので、火防せの観音あるいは厄除け観音として霊験あらたかな霊佛として近隣の信仰を集めている」と書いてありました。
 ここは酒井家のお城の鬼門にあたっているところから、祈願所でもあり、やはりここでも護摩壇の上にお不動さまがまつってありました。そして、その両脇に、御幣がたてられ、祈願所らしいピリッとした雰囲気が感じられました。またご本尊さまの両側には、宮殿作りの細やかな仏殿があり、案内にあったように「庄内領寺院中最上位に置かれた寺院」らしい古格も感じました。
 ここ龍覚寺は、三十三観音霊場のなかでももっとも鶴岡駅に近く、交通の便もいいようです。でも、ただ車に乗せられている者にとっては、もう着いたのか、という程度の感覚です。今は、個人参拝の方の多くは車で来るので、一番整備の必要なものは駐車場です。ここは、街中にありながら、ちゃんと整備されているから、とても気持ち良くお詣りできました。
 午後2時ちょっと過ぎに、次の第26番札所の長福寺を目指して出発しました。

 第28番札所 新山龍覚寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よをまもる のりのしるしに あらたなる やまのこずゑに ありあけのつき



☆庄内三十三観音札所巡り Part.29

 第26番札所の長福寺は湯田川温泉にあります。
 湯田川温泉の開湯は、書いたものによると、和銅5年(712年)ですから、来年の平成24年に開湯1,300年を向かえることになります。それのみを根拠とすれば、山形県内では2番目に古い温泉といえます。源泉の温度は40〜44℃で、ナトリウム・カルシウムなど含む硫酸塩泉です。車で通って見ただけで、詳しくはわからないのですが、鶴岡の奥座敷、なんかどこかでも聞いたような文句ですが、そのようです。でも、種田山頭火が逗留したこともあるといいますから、一度は泊まってみたい温泉です。
 今回は、観音巡礼ですから、温泉入浴はこの次の機会にして 長福寺にまっすぐ向かいました。本堂右手のほうの駐車場に車を駐め、「真言宗豊山派 大日山長福寺」と書かれた石板の横の白御影石の石段を上ると、すぐに本堂です。今年のご開帳を記念するかのような幔幕が垂れ下がっていて、そこから入らせてもらいました。
 本堂は、内陣が畳敷きで、外陣は一段高く板敷きで、とてもすっきりした構成です。内陣奥の欅の丸柱2本の内側が金箔でそこにご本尊さまがまつられていました。そして、五色の紐もそこまで伸びていて、外陣から仰ぎ見るようにお詣りできます。
 やはり、雰囲気は大事で、間近で拝むより、ちょっと遠くから拝むほうがいいようです。そして、ご本尊さまの前の護摩壇が、真っ黒な漆に緑色のアクセントが効いていて、とても色彩効果もあります。
 ちょうど、本堂内の右手の間に大きな佛画が掛けられていたので、ご住職さんに伺うと、この一幅に千人の僧がえがかれていて、この画像が三幅あり、だから「三千像佛画」というそうです。一幅だけでもこれだけの迫力ですから、三幅全部をここに掛けたら、その迫力たるや、すごいものだと思います。
 でも、なぜ、今日ここに飾ってあったのかは聞き逃しましたが、拝見させていただき、とても幸運でした。
 幸せな気分で外に出て、ふと、屋根を見上げると、その瓦屋根のところに3つ、梵字の「か」が掲げてありました。もう、外に出てしまったので、これも聞き逃してしまいました。
 やはり、今度は湯田川温泉に泊まりに来て、もう一度ゆっくりお詣りしたいと思いながら、次の井岡寺に向かいました。

 第26番札所 大日山長福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 わきかへる いでゆにひとを たすくるも みなだいじひの ちかひならずや



☆庄内三十三観音札所巡り Part.30

 第27番札所の井岡寺は、湯田川温泉の長福寺から南岳寺のほうへもどったところにあります。このコースのとり方が、先達の経験のようで、地図上のことだけではなく、道路の行きやすさもあるようです。
 ここ井岡寺に着いたのは午後2時40分で、立派な山門が目立ちます。その山門のところにも、「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、「紅の記憶」で使われたようです。ここ庄内は、藤沢周平作品だけでなく、いろいろな映画の舞台にもなり、庄内映画村オープンセットや庄内映画村資料館などもあり、映画人との交流などもあるようです。そういう意味では、映画撮影の支援組織もしっかりしているのではないかと思います。
 この山門を通ると、目の前に本堂があり、その右手に真新しいような白御影石の灯籠がありますが、石の汚れの違いからすると、もしかすると、このご開帳を記念して作り直されたのではないだろうかと勝手に推測してしまいました。本堂に入ると、正面にご本尊さまがまつられ、その前には神鏡があり、ここにも神仏混淆の影響がありました。
 本堂には、観音さまのほかに大きな木造の子安地蔵菩薩や聖天さんもまつられています。子安地蔵さんは、子どもを抱いていて、その子どもにかわいらしいプリントのある布が巻き付けてあります。
 また聖天さんには、中に何が入っているかわかりませんが、布製の大根に名前や願意が書かれてあり、それが前机に並べて奉納されていました。なかには、二股大根に似せ、葉の部分は緑色の毛糸で丁寧に作られていました。その数も多いところから、今でも聖天さんにお詣りするときには、お供えするようです。
 所変われば、品変わる、まったくその通りです。
 ここを午後3時前に出発し、次は第33番札所の青龍寺です。

 第27番札所 阿迦井山井岡寺 (真言宗智山派) 本尊さま 勢至観世音菩薩
 ご詠歌 ゐのおかや むすぶつつゐの みづきよき あかぬみてらを またもたづねん



☆庄内三十三観音札所巡り Part.31

 第33番札所の青龍寺は、井岡寺からは車で約5分のところにありました。
 この青龍寺が庄内三十三観音の三十三番目ということになります。でも、今では、その順序もまわりやすくはないので、それぞれがまわりやすい順にしているようで、それも悪いわけではありません。ここ庄内だけでなく、西国も坂東も順序よく回れるところはありません。おそらく、創設された当時は順序よくまわれたのでしょうが、時代がたち、寺院にも栄枯盛衰があり、観音さまもそれにつれてご遷座され、順番もくずれていったのではないでしょうか。
 今は車でまわる人がほとんどなので、道路に沿ってお詣りする傾向があります。私たちの場合は、慣れた先達の方の先導でまわりましたので、それらを気にすることはありませんでしたが、ここ第33番札所の青龍寺に来て、まだ4ヶ寺残っていることに気づいたのです。
 山にちょっとばかり入ったところで、お寺の方はだれもいませんでした。それで、先達の人が朱印を押しました。それから、観音さまの前でお経を唱え、お詣りしました。
 ここは三十三番ということで、なぜか、西国三十三観音の三十三番目の谷汲山華厳寺をお詣りしたときのことを思い出しました。そこでは、ご詠歌もご朱印も3種あり、「世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり (現在) 、万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲 (過去)、今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲 (未来)」と三世を表し、ご朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂の三つを指すそうです。でも、それぞれの場所でいただくのではなく、本堂で3印とも同じように押されるので、なんとも不思議な印象でした。
 ところが、ここでは誰もいないので自分で押すしかなく、それもどうかと思いながら、下山しました。
 次は第32番札所の吉祥寺ですが、ここは無住とのことでした。

 第33番札所 金峰山青龍寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 如意輪観音
 ご詠歌 めぐりきて こがねのみねに のぼるみは はすのうてなの いろとこそみれ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.32

 第32番札所の吉祥寺は、青龍寺からは車で約7〜8分のところにあります。
 昔はもっともっと山奥にあったそうですが、狐狼の被害が多いということで、現在の地に移されたといいます。本堂はとてもよく整備され、瓦葺きの屋根には避雷針もつけてありました。
 中に入ると、本堂の正面にはご本尊さまが鎮座され、その左手の大きな宮殿のような厨子のなかに観音さまがまつられています。おそらく、初めての方でもわかるのは、今回の記念ご開帳で、ほとんどの寺院が五色の布と紐とで観音さまと結ばれていたので、それを頼っていくと観音さまと出会えるのです。さらに、どこのお堂でも、記念の赤い旗が立っていたので、それがある種の目印にもなりました。
 とくに、この赤い旗は、わかりにくい道路の辻に立ててくれたところもあり、それで道に間違わずに行き着くことができました。やはり、遠くからもお詣りされるわけですから、このような目印はとても有り難いものです。これから、もし、このようなご開帳を考えている霊場がありましたら、ぜひ、参考にしてみてください。
 この観音堂の前には、庄内ではおなじみの小さな鈴をたくさん付けたものが下がっていて、これも振ってお詣りしました。このようなものは、仏具屋さんでは扱っていないでしょうから、おそらくお詣りされる方のご奉納で、すべて手作りのようです。その小さな鈴は、少なくみても300個以上は付いていますから、作るにはたいへんな時間がかかります。
 でも、その一つ一つ付けることに、大きな信仰の意味がありそうです。三十三観音霊場も、最初は全部まわるのは大変だと思いましたが、半分が過ぎ、残り少なくなると、あっという間に回り終えそうです。回ろうとする、その最初が大変で、回り始めると考えている余裕もなく動き、そしていつの間にか終わってしまう、つまり、この世の中のすべてに通じます。「案ずるより産むが易し」です。
 やるかやらないか、ではなく、やるきっかけさえつくれば、あとは自然と進んでいくようなものです。
 もう午後3時半も過ぎ、あと3ヶ寺です。
 次は、第7番札所の法光院です。

 第32番札所 大白山吉祥寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 ちよをへて しげれるすぎの いたいがわ ながれてきよき のりのみなかみ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.33

 第7番札所の法光院は、吉祥寺から車で約10分程度のところにあります。
 車を春日神社の大きな朱塗りの鳥居のわきの駐車場に駐めます。この春日神社の創建は古く、平安時代初期の大同2年(806年)といわれていますが、この年は弘法大師が大日坊など湯殿山関連の寺院を開基したといわれ、ここも神仏混淆の長い歴史が感じられます。
 また、この春日神社は、国重要無形民俗文化財の黒川能が奉仕される神社としても有名で、毎年、2月1〜2日の王祇祭でおこなわれているそうです。この黒川能は、すべて春日神社の氏子たちの手によるもので、由来書によると500年も連綿と守り伝えられてきているそうです。
 先達の方に伺うと、現在の春日神社の氏子さんは約240戸だそうで、そのなかから能役者から囃子方などすべて含めると約160人ほどになるといいますから、まさにたいへん大がかりなものです。それを毎年おこなうわけですから、そのエネルギーにはすごいものがあります。
 その春日神社の境内地にあるのが法光院で、鳥居をくぐり、石段の中段まで上ると、左手の奥に見えてきます。約10メートルほど歩くと小さな山門があり、それをくぐって、また石段を上ると、その正面に法光院があります。
 本堂に入ると、その左手横に観音さまがまつられていました。地区の方がおられたので、その観音さまの格子戸を開けていただけないかとお願いしたら、快く応じてくれ、ゆっくりとその前でお経を上げさせてもらいました。ご本尊の如意輪観世音菩薩は小さなお厨子に入っていましたが、とても古そうで、長くこの地区の人たちによって護られてきたのではないかと感じました。そして、明治時代以前は、大きなお堂の中で黒川能を毎年堪能されてきたのではないかと、勝手に想像してしまいました。
 庄内を歩くと、このように、神社とお寺が隣り合わせにあるところもあり、ほとんどが明治時代の神仏分離政策で切り離されてしまったようです。それが大きな間違いであったことは、それ以降の歴史が証明しています。仏教の影響をほとんどなくし、さらに儒教も「忠孝」という考え方から「忠」を強く押し出し、神道すらも平田神道を中心にしたのが明治の宗教政策でした。それが結果的に大きな戦争まで突き進んでしまったのかもしれません。仏教には、人と人とが争うような教えは一つもありません。人も動物も植物も、この大地で生きるすべてがみな同じです。
 やはり、どんなに時代が進歩したとしても、地震が起きれば、すべてのものはひとたまりもありません。自然にたいする畏れをなくしてしまっては、困ります。
 観音さまをお詣りして、石段までもどり、そこからさらに石段を上って春日神社にもお参りしました。そして、その石段を下りながら、やはり、日本は神仏混淆の世界なんだと強く思いました。
 車にもどると、午後4時を過ぎていました。次は、第4番札所の長現寺です。

 第7番札所 寺尾山法光院 (真言宗智山派) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 すみぞめの ころもやさらす くろがわの なにもみのりの あらわれにけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.34

 第4番札所の長現寺は、法光院から鶴岡にもどるようなかたちで車で約10分ほどかかりました。
 ここは狩谷野目というところで、近くを赤川が流れています。ご詠歌に「ふくちどう」とありますが、ここの観音さまは、現在の福地神社にまつられていたそうで、もともと村の鎮守福地大権現と称されていたそうです。その名残が山号の福地山に残っています。
 ちょうどお詣りしようとしたとき、本堂の後ろに太陽が沈むところでした。ということは、この本堂は東向きで、小さなお堂も配置良く境内地におさまっています。もとは後田の松尾山長厳寺の隠居寺だそうですが、そういえば、こじんまりとまとまった感じのお寺さまです。
 本堂に入ると、いかにも曹洞宗らしい配置で、須弥壇の先に観音さまがまつられていました。このご本尊さまは、羽黒山より勧請した聖観世音菩薩立像で、36〜9センチほどのの大きさで、普段は4月9日と9月9日以外はご開帳しないのだそうです。外陣に座って、見上げると、大きく感じるから不思議なものです。
 そういえば、このご開帳をいいことにして、勝手にご本尊さまの写真を撮り、それをホームページやブログなどで公開しているのを見ますが、それは無神経すぎます。仏さまも神さまもお詣りの対象ではありますが、撮影の対象ではありません。静かにお参りしていると、隣でピカッとフラッシュを使って撮影されると、気が散ります。
 ましてや、今は仏像すらも盗難の被害にあう時代ですから、写真に撮られてしまい、それが公開されると、それがきっかけとして被害に遭う危険性もあります。むしろ、このようなイヤな時代だからこそ、その場に行って、静かにお詣りし、またそのお姿に会いたくなったら出かければよいだけの話しです。
 お詣りをするというのは、ただ仏さまに接するということだけではなく、その場に立つということも大事で、その場からいただく大きな力さえ感じることがあります。一ヶ寺、一ヶ寺を訪ね歩くから、この観音霊場巡拝も大きな意義があるのです。歩いたからこそいえるのですが、この庄内観音開創300年記念のご開帳に出会えてよかったと思います。
 あと、残すはたった1ヶ寺、第30番札所の昭光寺です。

 第4番札所 福知山長現寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 もろびとの ねがいもふかき ふくちどう だいじだいひの ちかいたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.35

 これで今回の巡礼も最後、と思いながらたどり着いたのが第30番札所の照光寺です。遅くなるとは伝えてあったのですが、午後5時30分を過ぎていました。
 車を駐め、山門前に立つと、すでに外灯が点り、その明かりで「高寺山」と書かれた金文字の山号額がはっきりと見えます。そこをくぐり、庄内観音開創300年記念の赤い旗に導かれるように整備された境内地を進むと本堂です。すでに本堂内も明るく照らされていて、自分たちが遅れたにもかかわらず、明るく照らして待っていてくれたご住職に感謝です。
 そういえば、ここは照光寺ですから、だから光り明るく照らしていてくれるのだと勝手に想像しながら、お堂に入らせてもらいました。
 正面の一段高くして内陣があり、そこに護摩壇がしつらえてあり、その先に大壇があり、さらにその先の奥まったところに朱塗りの須弥壇があり、その上に大きな宮殿のような厨子があり、その中央にご本尊さまがまつられてありました。ご本尊さまは三体あり、一つは庄内三大権現の一つである千手観音菩薩、そして十一面観音菩薩、さらには軍荼利明王の三尊です。そのそれぞれに今回の記念の五色の紐の先が結びつけられていました。その宮殿の彫り物の見事なこと、それに厚く金箔が貼られ、黒漆との対比がとくに際だっています。
 ここが今回の観音巡拝の最後と思うと、一段と気が入り、ゆっくりとお経を唱え、ここまでの無事巡拝を感謝しました。ここで最後ですから、そう急ぐこともありません。
 お詣りが終わり、本堂左手がわの出羽三山ゆかりのお像や延命地蔵尊などにも手を合わせました。ほんとうに、すべてに感謝です。ほとんどの庄内観音霊場を巡ったことのある人たちから、1泊2日でまわることはできないと言われ、それでも、ゆっくりとお詣りして歩くことができました。それもこれも、みな、先達のお陰です。どんな世界も、やはり先達が大事で、その先達の道案内があるからこそ、こうして順序よく日程内でまわれたのです。
 次に、この庄内をまわるのはいつになるか、などと考えながら、ここ第30番札所の昭光寺を後にしました。
 そして、自宅に戻ったのは、午後9時少し前でした。途中で夕食をとも考えたのですが、観音さまをお詣りしたその気持ちのまま、自宅に少しでも早く戻りたかったようです。
 お土産は、なにもありませんでしたが、手元には今回の庄内観音開創300年開創記念で押していただいたご朱印帳とお札があります。
 そのご朱印帳をときどき開きながら、今でも観音さまを訪ね歩いた道筋を思い出しています。

 第30番札所 高寺山照光寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしな めぐみはよもに たかてらの やまはけころも つゆにぬれても



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