
☆信濃三十三観音札所巡り Part.01
なかなか新型コロナウイルス感染症も収まらないなか、令和4年5月16日から信濃三十三観音札所をお詣りすることにしました。というのも、今年は善光寺が7年に1度「善光寺前立本尊御開帳」を新型コロナウイルス感染症の影響で1年遅らせ、さらに4月3日(日)から6月29日(水)までと期間も1ヶ月ほど伸ばしたそうです。だとすれば、この機会に善光寺をお詣りしながら、信濃三十三観音札所もお詣りしようと思い立ちました。
しかも、5月16日は「旅の記念日」だそうで、日本旅のペンクラブが1988(昭和63)年に制定したそうです。その由来は、松尾芭蕉が1689(元禄2)年5月16日に「おくのほそ道」に旅立ったからだそうで、私もそれにあやかって5月16日から信濃三十三観音の旅に出ることにしました。
自宅を午前6時30分に出て、国道121号線を進み、喜多方から会津坂下ICから磐越自動車道に入り、北陸自動車道、そして関越自動車道の小千谷ICで一般道に入り、国道117号線を進みました。ここまでの高速料金は3,920円で、9時20分に通過しました。
そして県道49号を進み、山崎の信号から右折し国道117号に入ります。そして、「野沢温泉・木島平」の案内板がある丁字路を左折し、山の中に入り、ナビにしたがって進むと、菩提院の仁王門のところに出ます。村人が何人か縁に座り話し込んでいましたが、そこで写真を撮り、また車に乗って右手から山の方へ上って行くと、400mほどで左側に菩提院があり、その下が駐車場になっていました。
ここに着いたのが11時10分で、すぐに上って行くと、石垣の上に刈り込まれたツツジがたくさん咲いていました。「信濃三十三ヶ所観音霊場 第十九番札所 菩提院」という案内板があり、その石段を上ると、左手に鐘楼があり、右手が本堂です。本堂のところに、「ご用の方は一軒上の寺務所へお越し下さい。」と書かれたものがあったので、その案内に従っていくと、声をかけても誰も出てきません。
これは幸先が良くないかな、と思いましたが、辺りの畑を見渡すと、そこで畑仕事をしていた住職が気づいて、来てくれました。そこで、朱印をお願いし、墓地のなかを通り、たくさんの石仏を右手に拝みながら進むと、観音堂がありました。
外陣に入ることができ、ガラス戸越しですが、馬頭観世音菩薩のお姿がはっきりと見えます。そこで立ったまま、拝むことにしました。

その前で、観音経と馬頭観音のご真言「ヲンアミリトドハンバウンハッタソワカ」などを3返ずつ唱えました。
終わってから、堂内を見渡すと、上は格天井で菊紋が描かれ、「観世音」と書かれた扁額が懸かっていて、古い絵馬も奉納されていました。なかを拝見すると、馬頭観世音菩薩の右には新しく彫られた不動尊と足下に二童子木像が、そして左には愛染明王が安置されていました。
このお堂は、もともとは小菅山の山中にあった加那吉利堂だったそうで、徐々に麓に降り、現在地には1894(明治27)年とのこと、だから地元の人たちはここを「小菅観音」というのも納得で、今でもここは豪雪地帯なので冬期間のお詣りはできないということでした。
先ずはお願いしていた朱印をいただき、お話しをすると、ここは越後の上杉家とのつながりもあり、だとすれば米沢ともつながっています。ここを信濃三十三ヶ所観音霊場のお詣りの最初に選んだのも、納得です。さらに、ここの小菅山は多くのお寺と坊、僧を擁したところで、役行者が開き、坂上田村麻呂が再建し整備した修験道の霊地だそうで、戸隠や飯綱と競うほどの勢力を持っていたそうです。
だから、だいぶ下のほうに仁王門があり、その途中に講堂があるそうで、帰りにまわろうと思いました。そして車に戻り、講堂をお詣りし、その先から右折して、先ほどの観音堂の前に出ました。
観音堂の参道の手前の石段の左手前には六地蔵がまつられ、右手前にも石仏や石塔があり、すべてが古く由緒ある仏たちでした。おそらく、この一帯に多くのお寺や坊が立ち並び、栄えていたことがわかります。おそらく、明治初期の神仏分離令や修験道廃止令などで壊滅的な状態になったようです。それでも、観音堂などは残り、本尊の馬頭観世音菩薩は長い年月の流れを見続けてきたに相違ありません。
車に戻ると11時42分でした。信濃といえば、小林一茶の「信濃では月と仏とおらが蕎麦」が思い出されますが、この日は真っ青な空ですっきりと晴れていたので、正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」のような雰囲気です。そういえば、この旅は松尾芭蕉が「おくのほそ道」に旅立った5月16日の今日からスタートしましたが、芭蕉はこの旅の日光東照宮で「あらたふと青葉若葉の日の光」と詠んでいます。なんか、つながってきた感じがします。
次は第9番札所「蓑堂」ですが、ナビでみると、39.6q、1時間ちょっとかかりそうです。
まだ2つ目のお寺ですが、移動時間がかなりあります。
第19番札所 小菅山 菩提院 (真言宗智山派) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 小菅寺 南を見れば あづまやの 誓ひを頼み 願う後の世
☆信濃三十三観音札所巡り Part.02
第9番札所「蓑堂」は須坂市大字米子寺内にあり、第19番「菩提院」からは、まずは国道117号まで戻りそこから左折しそのまま進みます。左手に千曲川が見え、10分ほど走ると「道の駅 花の駅千曲川」が右手にあり、ちょうどお昼時間なのでここで昼食にしました。
施設内の「Cafe 里わ」に入りましたが、その「里わ」という名称が気になり、聞いてみると、この奥信濃で生まれた野辰之さんの唱歌「おぼろ月夜」に、「里わの火影も 森の色も……」という歌詞があり、ここから里の人たちの繋がりの「輪」や「和」を大切にしたいという願いが込められているということでした。ここのメニューでナンバーワンの人気が「里わカレー」ということなので、それを頼みました。ゴロゴロ野菜はスープカレーみたいでよかったのですが、スパイシーな辛さがちょっと苦手でしたが、完食しました。ここでは30分ほどでしたが、食事と休憩ができました。
それから、また国道117号を走り、そのまま飯山町の中野方面の案内板から左折し国道292号に入ります。そして小布施町都住まで行き、七瀬の信号から右折し、150mほどで左折し、国道403号へ入ります。松川団地入口の信号を左折し、虫送北の信号から右折し、北信濃くだもの街道を走ります。そして、高浦小入口の信号を左折し、「みのどうトンネル」を抜けると、20mほど先を左折すると左側に朱印所があります。
道路から少し細い道を下がると、朱印所になっている樋口家で、前もって電話連絡をしていたので、すぐに縁側の戸を開けてくれました。そこに現在は本尊を安置しているので、そこから入らせてもらい、その前でお詣りをしました。

観音経と、十一面観世音菩薩のご真言「ヲンロケイジンバラキリク」などを3返ずつ唱えました。
そのすぐ後ろで、樋口さんが朱印をしてくれ、お詣りが終わって、それをいただきました。そして、蓑堂に現在は上れないと聞いたけどやはりだめなんですか、と聞くと、1965(昭和40年)年8月3日から始まった松代群発地震で山頂に建つ観音堂が傾き、そこに至る道も崩れてしまい、人が近づかないこともありサルやイノシシが増えたといいます。だから、とても危険なので入山禁止にしているとのことでした。
この松代群発地震は、有感地震だけでも6万回を越え、たった1日で最大585回あったこともあるそうです。そういえば、善光寺三門(重要文化財)の一部が壊れ、応急補強されていましたが、平成14〜19年にかけて行われた平成大修理で本格的に修理されたといいます。昔から「地震雷火事親父」といいますが、親父の怖さは年々低下していますが、地震だけは今でもダントツです。
もし行くのなら自己責任でと言われたので、まずはその参道入口まで行くことにしました。
先ほど通ってきた道のやや広いところに車を駐め、「みのどうトンネル」左手前の道路わきのイノシシの侵入を防ぐ柵の入口を開けて入ってからしっかりと閉め、「みのどうトンネル」の擁壁の脇を上りました。そういえば、この「蓑堂」は、地元では「みのんどう」と呼んでいて、トンネルの名前とはちょっと違うようです。
すると、自然石に「蓑堂山九番 観世音」と彫られた石碑が立っていました。そして、寛政三年建立とあり、その付近には他に石塔らしいものはありませんでした。さらに上ると、まったく道らしきものはなく、しばらく眺めていましたが、諦めて下りました。そして、また車で「須坂悠生寮」の近くまで行くと、なんとか蓑堂が見え、望遠レンズで撮ると、さらによく見えました。
そういえば、山口青邨の句に「桑畑たちまちにして嶮峻に」というのがありますが、この辺りの風景も平地があると思えば、すぐに山に入ってしまい、その先が見えなくなります。今では蓑堂から「みのどうトンネル」をくぐって来れますが、もしそれがなければ山道をひたすら歩くことになります。そして、この蓑堂を望むとまさに嶮峻そのものです。それを考えると、昔の人たちの観音詣りの大変さが伝わってくるようです。
やはり、無理をして上って、地元の方々に迷惑をかけるわけにもいかず、この写真でなんとか納得し、途中に駐めてあった車に戻りました。
すでに13時45分で、次は第10番札所「高顕寺」です。ナビで確認すると3.3q、7分ですから、近いようです。
第9番札所 蓑堂山 蓑堂 (不明) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 井の上や 夜な夜なきたる 蓑ん堂 雨は降るとも 身をば濡らさじ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.03
第10番札所「高顕寺」は須坂市仁礼中村にあり、第9番「蓑堂」からは、先ほど走ってきた道をそのまま進み、国道406号の丁字路を右折し、300mほどで左折するとすぐ橋があり、まっすぐのところに石段があり、右側に「真言宗豊山派」と書かれた石塔が立っています。そこを道なりに右折し進むと、左側に石塔と石碑などが立っていて、その間を進むと、ほどなく高顕寺に着きます。
駐車場に車を駐めたのが13時55分で、石段の左側に大きなツツジがあり、ピンクの花をたくさん着けていました。そこを上ると本堂があり、右手に行くと寺務所がありました。その手前に修行大師石像があり、その前にある賽銭箱も同じしろ御影石で造られていて、珍しいと思いました。その右側に「南無大師遍照金剛」と彫られた石塔も立っていました。
ここには前日に連絡しておいたのですが、今日は留守になるということなので、寺務所の台の上に紙に書いた朱印が置いてあり、その脇の箱に朱印代を入れました。そして、本堂の前を通り、右手の山のほうに上って行くと、高い土台の上に観音堂が建っていました。
よく、基礎と土台をいっしょにして使っていますが、正式には基礎というのは建物と地盤を固定するもので、土台は建物と基礎をつなぐものだそうです。ということは、このような建物は地面にしっかりとお堂を固定する基礎が大切ということなりますが、それが高いということです。
おそらく、雪が多いということもあるでしょうが、長い石段を上って行くと、別な世界に行くような趣きもあります。その右下には、たくさんの石仏が並び、さらに手前の杉の木の下にも石仏があり、この山内の石仏がここに集められてまつられているようです。
石段を上って行くと、お堂には鍵がかかっていましたが、中央の小さな窓が空いていて、さこからお賽銭を入れました。

お堂の上には、「大悲殿」と金文字で彫られた扁額が懸けられていて、その下で、観音経と十一面観世音菩薩のご真言「ヲンロケイジンバラキリク」などを3返ずつ唱えました。
もともと高顕寺は妙徳山の山麓にありましたが、奥院までは遠く険しい山道だったこともあり、里堂に納札する人も多かったようで、古いお堂や参道も傷んだこともあり、この地に2006(平成18)年に移されてきたそうです。信濃毎日新聞社発行の「観音さまだいすき 信濃三十三番札所みちを歩く」という本には、まだ木の香漂う新大悲殿と書かれていて、写真も真新しいお堂が載っています。この本は、2008年4月25日に発行されているので、納得です。
本尊は新しい厨子におさめられ、その前に鏡があり、護摩壇は天台宗でよく見る形です。ここは四阿山や根子岳を巡って修行する山岳修験者も多かったそうで、まさに神仏一体の世界です。現在は真言宗豊山派に属していますが、昔は雨乞いや火除け、さらには養蚕の守護仏でもあったそうで、やはり時代によって少しずつ変化していくのは当然かもしれません。
そういえば、与謝蕪村の句に「山は暮れて野は黄昏の薄かな」というのがありますが、時代の変化だけでなく、鬨の変化もあり、とくに夕方のたそがれ時になるとなんとなく寂しく感じられます。もともと、黄昏という言葉には、薄暗くなりつつある夕方という意味ですが、比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるという意味にも使いますから、なおさらです。
しかし、たとえお寺であっても栄えるときもあれば衰えるときもあり、また吹き返すときもあります。ぜひ、信濃三十三観音札所のためにも、護ってほしいと思いました。
観音堂の左手は墓地になっていて、その右手を下って行くと観音石像があります。そこにもお詣りし、車に戻りました。14時15分でしたが、次は第16番札所「清水寺」です。ナビでは15.5q、25分ですが、この高顕寺の後ろの山、妙徳山を半周するような行程です。
第10番札所 妙徳山 高顕寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 あづまやの 川瀬の波の 音聞けば 御法の船の 違わざりけり
☆信濃三十三観音札所巡り Part.04
第16番札所「清水寺」は長野市若穂保科にあり、第10番「高顕寺」からは、先ほどの国道406号から左折し、仁礼町の信号を左折し県道58号に入ります。そして井上町東の信号を左折し、長野自動車道の下をくぐり、国道403号を左折します。また、古屋の信号を左折し、長野自動車道の下をくぐり、保科川を渡り、県道34号を左折します。若穂保科の丁字路を左折し保科川を渡り、突き当たりから右折するとすると200mほどで清水寺に着きます。
道路の右側に駐車場があり、そこに車を駐めました。着いたのが14時50分で、すぐに道路を渡り向い側にある山門へと行きました。
左側に「重要文化財 木造聖観音菩薩立像ほか」と書かれた標識が立てられ、そのわきに大正12年8月4日とありました。
なだらかな石段の参道を上ると、山門があり、その左手に鐘楼があり、正面が本堂です。その前に青銅製の大きな香炉があり、その両脇に石灯籠があります。本堂には「清水寺」と彫られた扁額があり、そこでお詣りをし、右手にある庫裡に行きました。
前もって電話連絡をしていたので、安心していたのですが、誰も出てきません。しかたなく、そのさらに右にある住まいらしきところに行くと、ここも留守でした。あちこち歩きながらさがしましたが、だれもいません。すると、たまたま通りすがりの方に尋ねると、留守の時が多いからと、いっしょにさがしてくれましたが、とうとう合うことはできませんでした。
しかたないので、本堂の左手にある観音堂に至る別な山門のところから石段を上りましたが、これが途中の両側に石灯籠があり、風情はあるのですが、なかなかお堂が見えません。だいぶ上ったところに車道があり、そこも少し上ってみたのですが、それでも見つからないので、いったん駐車場に戻りました。
そして、車で本堂の先から左折し、九十九折れの山道を上ると、先ほど引き返したところからさらに上ったところに朱塗りの観音堂がありました。そのすぐ近くに駐車場もありました。そこに車を駐め、お堂の外陣でお詣りをしました。

ここでは、観音経と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」などを3返ずつ唱えました。
この観音堂は、京都の清水寺のような懸崖造りで、同じように舞台もあります。このような山奥に、朱塗りのお堂があるとは思いもせず、ここまで上ってきてよかったと思いました。ここ清水寺は、大正時代の保科の大火によってほとんどが灰燼に帰してしまい、本堂やこの観音堂も再建されたそうです。だから、このお堂が耐火構造になっていたのだと知りました。また、千手観世音菩薩の本尊など7体の仏像を奈良石位寺から勧請したそうで、現在国の重要文化財に指定されています。
舞台から下を見ると、けっこう高く、石垣の上に建っているからなおさら感じます。ここまでの石段は崩れているところもあり、先ほど歩いて上ってきたところから先は通行止めになっていました。山門からこの観音堂までは約1qほどあり、車で上ってきて正解だったようです。
そういえば、久保田万太郎の俳句に「石段の落葉ふみ〜上りけり」というのがあります。ときどき掃除をしているからかあまり落ち葉はありませんが、それでも風が吹くと集まりやすい場所があり、そのようなところを歩きながら、この句を思い出しました。
また、ここを通称「保科観音」というのは、この地の名前からきていますが、途中の案内板によると「ぼたん園」もあるそうです。
観音堂の前の駐車場で時計をみると、15時30分でした。
下るのは、あっという間でしたが、朱印をいただけないのが、ちょっと残念でした。もし、次に来る機会があれば、ぜひもらいたいと思います。
次は、今夜泊まることになっている長野市の「ホテル信濃路」です。ナビでみると、13.5q、26分です。途中に和菓子屋さんでもあれば、今夜のお抹茶の菓子でも買いたいと思いながら運転しました。すると、県道403号を走っていると、ファミリーマート長野若穂綿内店の先に「峯村清月堂」という老舗を見つけました。店のすぐわきに駐車場があり、中に入ると上生もあり、「水芭蕉」と「藤」などを買い、ホテルに向かいました。
ホテルには16時に着き、すぐチェックインしましたが、そのときに善光寺は何時に開門するんですかと聞くと、午前5時から朱印もできますということでした。今年は「善光寺前立本尊御開帳」なので、よく聞かれるのかもしれませんが、はっきりと答えてくれたので、明日はその時間の前に善光寺に行きお詣りをしようと思いました。
夕食は、コンビニで弁当を買ってきて、部屋で食べて早めに寝ました。
第16番札所 阿弥陀山 清水寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 かりそめも 濁る心を 求むなよ 影清水に 月は澄みぬる
☆信濃三十三観音札所巡り Part.05
2022年5月17日は、4時15分に起き、すぐに出かける準備をして、車で善光寺を目指して進みました。いくつか駐車場があるのですが、善光寺西の信号機の角にあることを前日にネットで確認していたので、システムパーク横沢町駐車場に車を駐め、白壁沿いに歩いて、小さな西門から入りました。ここは歩行者以外は進入禁止になっています。
中に入ると、右側に大勧進の護摩堂があり、その先に歴代の回向柱が立っているところがあります。その案内板には、「回向柱は御開帳が終わるとここに納められ、歴代の回向柱とともに、徐々に土に還っていきます」と書かれていて、古いものほど短くなっていたので、土に埋められたところから還っていくのだと思います。
そこから左に善光寺経蔵を見ながら進み右へ進むと、右側に「延命福徳地蔵菩薩堂の八角円堂があります。その前には仏足石があり、そこを進むと、善光寺山門に出ます。ここから本堂が真正面に見えます。まだ5時前なので、ほとんど参拝者はなく、警備の人たちが真新しい回向柱のまわりにいるだけです。左側の朱印所には誰も並んでいないので、先に朱印をいただき、それから回向柱の前に立ちました。
回向柱の全面には、上に梵字が書いてあり、その下に「奉開龕前立本尊」とあり、その回向柱の五色の綱が、本堂の中へと結ばれています。
今はまだ新型コロナウイルス感染症の拡がりが心配されるので、その回向柱のあちこちに除菌スプレーが置かれていて、先ずはそれで手を消毒してから回向柱に手を触れ、祈願をしました。それから大香炉のところに行き、香を焚き、そして本堂に上りました。

外陣のところで、観音経と諸真言を唱え、縁があって善光寺にお詣りできたことを感謝しました。
そして、朝の法要が始まるまで、回向柱の周辺を散策していると、山門から出仕される僧侶が歩いてこられ、回向柱のわきを通り、本堂へと上って行きます。
もし新型コロナウイルス感染症の心配がなければ、いつもならお数珠頂戴があり、その往復の道中にはひざまずく参拝者の頭を自らの数珠で触れ、功徳を授けます。でも、このときは予防のためということで、できませんでした。ただ、20数人の方がひざまずいて、迎えていました。
それを見てから、山門をくぐり、善光寺仲見世通りまで下りていき、善光寺仁王門のところから引き返してきました。
善光寺仲見世通りの店は、まったく開いていませんでしたが、そこをゆっくりと歩きながら、左手にある「善光寺なで牛」をなでたり、右手にある六地蔵をお詣りしたり、その隣にある「善光寺 濡れ仏(延命地蔵)」もお詣りしました。
この延命地蔵尊は、1722(享保7)年の造立で、一説には江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めるために建てたと言い伝えられているそうです。だから、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれ、火伏せの意味合いから「ぬれ仏」と呼ばれているそうです。
善光寺は、よく牛に引かれて善光寺という言葉があるぐらい、牛との縁もあります。私が長野市の古本屋で買ってきた「善光寺物語」文・下平正樹、絵・柳沢京子(第一法規)には、詳しく書いてあり、もし機会があれば読んでいただきたいと思います。
また俳句では、小林一茶の「 春風や牛に引かれて善光寺」や「菜の花や西にむかえば善光寺」などたくさん残されていますが、松尾芭蕉も「月影や四門四宗も只一つ」という句を1688(貞享5)年に善光寺で詠み、この旅の様子は「更級紀行」に記されています。
今日も信濃三十三観音札所の旅の途中なので、ホテルに戻り、朝食を食べて、8時28分に出ました。先ずは第12番札所「無常院」です。ナビでは4.7q、10分と出ていました。
客番 定額山 善光寺 (天台宗・浄土宗) 本尊さま 一光三尊阿弥陀如来
ご詠歌 身はここに 心は信濃の 善光寺 導き給へ 弥陀の浄土へ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.06
第12番札所「無常院」は長野市安茂里小市にあり、いったん国道117号に右折し、200mほどでまた右折し国道19号に入ります。4.4q先の小市西の信号から左折すると60mで無常院です。
ここは「中見堂」とも呼ばれ、はるばる善光寺の大門が見えるところまで来て、大きな犀川の流れを渡しで渡ると、この無常院の観音さまをお詣りしたそうです。もう少し、あと少しという気持ちもあり、ここまでに至る巡礼の思いをかみしめながら先を急いだかもしれません。
私は早朝に善光寺をお詣りし、ここ無常院に来て、道路の右側にある駐車場に車を駐めました。午前8時28分でした。
私はだいたい1ヶ寺の滞在時間を20分程度にしていますが、それをはるかに越えるときもありますし、置いてある朱印をもらうだけだと15分もかからないこともあります。
先ずは山門の前に立つと、参道の左手に六地蔵がまつられていて、そこを進むと杉の木とヒバの木があり、その石段わきの根元にも石仏がまつられていました。右には長野市教育委員会の案内板があり、阿弥陀如来及び両脇侍立像が令和2年9月28日に有形文化財に指定されたことが書かれていました。
山門の右の柱には「浄土宗 無常院」、左の柱には「信濃三十三番観世音十二番札所」と書かれた板が掛けられ、そこを抜けると本堂です。本堂には「菩提山」の山号額が懸けられていました。
その右手に庫裡があり、今これから出かけるといいながらも、朱印をいただくことができました。
そして、本堂の左手にある観音堂に向かいました。

観音堂は平成19年に竣工したばかりのこじんまりとしたお堂で、戸が開いていたので中に入ってお詣りしました。
お堂のなかの壇には、ご本尊がまつられていて、そこで観音経と馬頭観世音菩薩のご真言「ヲンアミリトドハンバウンハッタソワカ」などの真言を3返ずつ唱えました。
ここの本尊はもともと聖観世音菩薩だったそうですが、この寺が荒廃してしまったとき、何者かがそれを持ち出し売ってしまったそうで、現在は馬頭観世音菩薩が安置されるようになったそうです。でも、この寺は善光寺七院のひとつで、善光寺仏を祀っていますが、どんな世界にも栄枯盛衰はあるということです。それで思い出したのが、松尾芭蕉の『 夏草や 兵どもが 夢の跡 』で、たしかにかつて栄華を誇った藤原三代の平泉も夢の跡です。
それよりもここは寺紋も善光寺と同じ「立葵」で、本堂の屋根のところにもそれが掲げられていて、その一番上にはシャチホコもあり、古刹の風格を感じます。
観音堂の右手前にはハスの花を持った観音石像が立っていて、その脇にはツバキの花が咲いていました。よく見ると、境内にはシャクヤクやシラン、シロツツジなども咲いていて、きれいに掃き清められています。
また、左手前には鐘楼があり、木々も刈り込まれていて、すっきりとしていました。
車に戻ると、8時55分でした。次は第8番札所「西明寺」で、ナビで確認すると、ここから3.5q、10分ということでした。ところが、入るところを間違えたのか、まったくの山道に紛れ込んでしまい、気がつくと、また、元の道に戻っていました。これでは、いつまでたってもたどり着けないので、西明寺へ行くのはあきらめて、第21番札所「常光寺」に行くことにしました。
第12番札所 菩提山 無常院 (浄土宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 中見堂 参りて拝む ありがたや 善きも悪しきも 漏らし給ふな
☆信濃三十三観音札所巡り Part.07
第21番札所「常光寺」は長野市篠ノ井岡田裏にあり、無常院から国道19号へ出て左折し、犀川にかかる両郡橋を渡り小松原トンネル西の信号から左折し国道19号に入ります。
1.2qほどで小松原トンネル東の交差点を右折し、長野市道篠ノ井北383号に入ります。そして2.6q先の丁字路から右折し突きあたりを右折するとすぐ左側に朱印所の岡沢宅がありました。
ここに着いたのが9時55分でしたから、西明寺を探して1時間ほど走り回っていたことになります。ここには、前もって電話をしておいたのですが、戸は開くのですが、誰も出てきません。あちこち眺め回してもいないようなので、先にお堂に行くことにして、先ほどの道をさらに100mほど進み、左折し450mほど山に入ったところにありますが、その近くで声を掛けられました。その方が岡沢さんでした。
この辺りはリンゴ畑が多く、そういえば、大野林火の「一歩一歩に日光新た花林檎」という句がありますが、これは穂高町に住む写真家の田淵行男氏を訪ねたときのものだそうで、リンゴ畑の広々とした雰囲気がよく出ています。
岡沢さんは、まだ早いと思いながら農作業をしていたそうですが、先に帰って朱印を準備しておくということで、私はゆっくりお詣りすることにしました。駐車場は、観音堂の手前にあり、そこに車を駐めました。そのまわりにも石仏があり、お堂は石垣の上に建っていて、まわりを奉納した人たちの名前を刻んだ石碑で囲んでいました。
その正面には、左右に「岡田信徒一同」と刻まれた石碑があり、その間が石段になっています。そういえば、ここの常光寺は、地元の人たちから「岡田観音」として親しまれていて、中興は明治初期の岡沢彦治郎氏です。お堂の扁額には、「信濃第二十一番札所 観世音 常光寺」と書かれていて、真ん中の「観世音」だけが大きいのが印象的でした。その前には鈴が下がっていて、その戸を開けて中に入りました。

お堂は、外陣がそのまま入れて、線香や蝋燭立て、納札箱、賽銭箱などがあり、お詣りした方の記帳台もありました。
そこのところで、観音経と十一面観世音菩薩のご真言「ヲンロケイジンバラキリク」などを3返ずつ唱えました。
それから内陣を見ると、不動尊などが描かれた厨子のなかに本尊さまが安置されています。聞くところによると、この常光寺はもとは塩尻市にあり、明治初期の神仏分離令の影響で廃寺になり、観音像も古物商の手に渡ってしまったそうです。しかし、その古物商が名古屋の宿で西国三十三観音霊場を巡礼していた一人と出会い売ってくれたそうで、その人こそ、のちに常光寺を復興させた岡沢彦治郎氏だったといいます。
出会いというのは不思議なもので、こうして何百年もつながっていくような気がします。
現在の観音堂は、1980(昭和55)年に再建され、屋根瓦と白壁がすっきりとしたお堂です。その右脇に建物があり、おそらくはおこもり堂として使われているのではないかと想像しました。
今は、公民館やコミニティセンターなどの公共施設がありますが、以前はお寺が人の集まるところでした。おこもりと称して、飲んだり喰ったり語らったり、まさに地域の中心だったのです。
それが、いつの間にかお寺は葬式や法事などの儀式しかしなくなり、さらに最近ではそれも冠婚葬祭の式場でするようになり、まさにお寺の存在意義そのものも問われています。地域が過疎化になればなるほど、地域の触れ合いが大切です。その中心にお寺があれば、私はそれが理想ではないかと思っています。
お詣りが終わり、また車で岡沢家に戻ると、玄関の戸が開いていて、表札の「岡澤」という隣に、大きな「信濃廿一番 岡田常光寺札所」と書かれた木札が下がっていました。その下のベルを押すと、すぐに声が聞こえてきて、中に入り朱印をいただきました。
今の時代、個人宅でお堂を管理するのは大変な苦労だと思いますが、先祖の遺志を継いで続けていただきたいと思いながら、車に戻りました。
時計は10時23分で、次は第18番札所「長谷寺」です。ナビによれば7.9q、17分とありました。
第21番札所 小沢山 常光寺 (不明) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 本山や 常の光の 御寺にぞ 有明月に 朝日輝く
☆信濃三十三観音札所巡り Part.08
第18番札所「長谷寺」は長野市篠ノ井塩崎にあり「長谷観音」として親しまれていて、第21番「常光寺」からは、先ほどの長野市道篠ノ井北383号に出て右折し、1.5qほど先の篠ノ井岡田の丁字路を右折し県道70号に入ります。そして5.5qほど進み、篠ノ井線の踏切を越え丁字路で左折します。また篠ノ井線の踏切を渡り進むと正面に長谷寺の仁王門が見えます。そのわきを通って道なりに山道を上っていくと右手に駐車場があります。
そこに着いたのが10時35分です。駐車場から二層の楼門に行くと、その手前の石段には色とりどりのツツジが咲いていて、石段の真ん中の手すりには、「御開帳参拝結縁」と白抜きされたのぼり旗が立てられていました。
その楼門の右側には階段があり、「頭上注意」とだけ書いてあったので、上ることができそうで、そこには釣鐘が下がっていました。
先ずはさきに右手にある庫裡に向かい、朱印をお願いし、それから楼門をくぐると、正面がお城のような石垣の上に観音堂が建っています。
右手前には地蔵石像、そして左には山口社があり、観音堂には右手の石段を上っていきます。その石段の手前には「開運厄除 功徳石」と彫られたものがあり、上には丸い黒御影石に梵字を彫ってあり、回すようになっています。おそらく、マニ車のようなもので、回すことによって功徳が得られるということでしょう。
また石段の右側には「具一切功徳 慈眼視衆生」、左側には「福聚海無量 是故応頂礼」と彫られてありました。これは観音経のなかでも有名なもので、よく書かれたり、石に彫られたりしています。
その石段を上ると、左側から観音堂の回廊にあがることができます。お堂の前の回向柱が立ててあり、左側面には梵字の下に「祈 世界平和 疫病退散 万民安穏」と書かれてあり、これが千日祈祷の奉修中の祈願のようです。そして、その回向柱から五色の布がお堂のなかに入り、外陣と内陣の間から1本の糸になり、須弥壇の上の宮殿のなかに入っています。
そこに白い布が下がっていますが、本尊の十一面観世音菩薩がまつられているようです。

お堂のなかの外陣のところに、賽銭箱と護摩木などが並べられていて、その右脇に「お願い護摩木」を書く台もあり、「オンマカキャロキャソワカ」とお唱えしましょうと書いてあったので、観音経と十一面観世音菩薩などの諸真言を唱えてお詣りしました。
ここ長谷寺では、ここに上ってくる石段の左側に「秘仏 本尊十一面観世音菩薩 御開帳 令和四年春」と書かれた立て札があったので、7年目ごとのご開帳にあたっていたようです。
この観音堂は、1713(正徳3)年に再建されたもので、2007(平成19)年に改修されたそうです。
また、このお堂の裏山には、江戸時代の観音石仏群があり、西国三十三観音石仏ではないかといわれています。そもそも、この長谷寺という寺名は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山と同じ長谷寺で、ここは西国三十三カ所霊場の第八番札所で、ここの徳道上人が近畿地方と岐阜県内にある33か所の観音霊場巡拝を始めたといわれ、いわば長谷寺は観音信仰の発祥の地でもあります。
そこと同じ寺名ですから、この観音堂も規模こそ違いますが、似た造りになっています。私も奈良の長谷寺は何度かお詣りしていますが、ここの観音堂の前にせり出す舞台の上から見る風景は、緑が多いだけに清々しい気分になります。
ここの長谷寺第26世住職慶覺師は、北信濃一帯で活躍した俳人の宮本虎杖(こじょう)について俳句を習い、「天姥」の号も授かっています。師の虎杖は小林一茶と同じ時代の人で、その縁もあり、観音堂の南に句碑があります。それには、「観音に誓って花に死なんかな」という句が刻まれています。
もちろん花は桜のことで、おそらくは、西行法師の「願わくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」という和歌への想いを偲ばせているようです。そして、その想いを観音さま誓っているようです。
この時期は桜ではなく、あちこちでツツジが咲いていて、華やかな雰囲気があり、何度も観音堂を見上げながら、車に戻りました。
時間は10時57分でした。次は第13番札所「開眼寺」ですが、先に第6番札所「観龍寺」の朱印所の長雲寺が途中にあるので、先にまわることにしました。ナビで確認すると、そこまでは2.6q、8分のようです。
第21番札所 金峯山 長谷寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 松の葉ごしの 影よりも 遠に見えゆく とをの山寺
☆信濃三十三観音札所巡り Part.09
第6番札所「観龍寺」の朱印所の長雲寺は、千曲市稲荷山にあり、長谷寺から先ほどの篠ノ井線の踏切を渡り長野市道篠ノ井南357号から右折し、県道77号を進みます。そして稲荷山荒町の信号を右折し、ナビの案内で善光寺街道を進み住宅街に入ると門柱があり、右には「五大院長雲寺」、左には「國寶愛染明王」と彫られていて、そこから入りました。ここで第6番札所「観龍寺」の朱印をいただき、次は第13番札所「開眼寺」を目指します。
ここは千曲市八幡中原にあり、先ほどの千曲市市道7100号を国道403号まで進みます。突きあたりから県道390号へ右折し八幡の善光寺街道まで行きます。丁字路から篠ノ井線の踏切を渡り120mほどで斜め左方向に進むと、開眼寺があります。ここまで、4.2q、10分までかかりませんでした。
手前に中沢川が流れ、そこを渡ると駐車場になっています。そこに着いたのが11時25分です。
杉の木の切り株の上に「恵日山 開眼寺」という山号額が立てかけられていて、その左側が参道になっています。参道の右側には六地蔵が並んでいて、左側には石碑と可愛らしい地蔵さまが並んでいました。石段の脇にはアジサイが植え込まれていて、右側の石組みの上には石仏があり、その石段を上ると、左右に門石があり、山号と寺号が彫られていました。
その正面が本堂で、左手にある掲示板には「日日是好日」と「それあなたのかんそうですよね」と書かれていました。この「日日是好日」というのは、「にちにちこれこうじつ」と読みますが、字句通りの解釈をすれば毎日が平穏で何事もないという意味で、一日一日を大切に生きる心構えでもあります。そういえば、この題名の映画があり、これは森下典子さんの『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―』を映画化したものです。これは、茶道を通して、「いま、生きている!」という一日一日の感動を鮮やかに綴ったもので、私も観ました。
本堂の右側が庫裡になっていて、先にそこに寄り、朱印をお願いしました。
そして、本堂の戸が少し開いていたので、そこから入り、お詣りをしました。

お堂の外陣のところで、観音経と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」などを唱えました。ここの本尊は、以前は「日不見(ひみず)の観音さま」と呼ばれ、厨子を開けると凶事が起こるとして秘仏にされてきたそうですが、昭和46年のお堂の葺き替え工事のときに厨子の扉がひとりでに開いたそうです。それを契機にして、正月元旦と施餓鬼会のときだけご開帳しているそうです。
その厨子の下には本尊の写真が飾られていて、それを見ると立像のようで、左手にハスのつぼみを持っています。
そしてお堂の外に出て、もう一度お堂を見ると、お昼ということもあり、北向きだとは気が付きませんでしたが、外に住職と話しているときに教えてもらいました。すると、自分は海外勤務を経て定年退職後に仏門に入り、しばらく無住であったこの寺の住職になられたそうです。
見渡すとほとんどお墓もなく、寺域を護って行くのは大変なようですが、第一線から退いたからこそできるのではないかと思いました。おそらく、これも、これからのお寺の新しいあり方のような気がしました。お話しをうかがっていても、大手電機メーカーの米国現地法人の社長をしてきた方らしく、話題も豊富です。今では定年後も2〜30年は元気で社会活動ができます。だとすれば、空き寺を活用するのもいいことではないかと思います。
そういえば、正岡子規の句に「霧深く門鎖しけり無住寺」というのがありますが、お寺こそいろいろな人たちにお詣りしていただくのが大切で、門をかたく閉ざすことは最後の選択です。
ここをお詣りして、このような方に全国の無住のお寺の住職になっていただきたいものだと思いました。
石段を下り、下の駐車所の車に戻ると、11時40分でした。次は第14番札所「長楽寺」で、ナビをみると、ここから4.6q、8分ほどのようです。
第13番札所 恵日山 開眼寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 開眼寺 後ろは山に 前はよし 北を流るる 志川なるらん
☆信濃三十三観音札所巡り Part.10
第14番札所「長楽寺」は、千曲市八幡にあり、開眼寺から先ほどの篠ノ井線の踏切を渡ってすぐを右折します。そして篠ノ井線に沿って進み、県道403号を右折し山道を進みます。1.4qほどから県道340号へ左折し、長野自動車道をくぐり道なりに進むと右側に長楽寺の駐車場があり、左側は姥捨公園になっています。
駐車場の角には、「聖観世音 信濃三十三番内十四番札所 田毎の月 姥捨山 長楽寺」と書かれた大きな案内板があり、その右手には由来書などがいくつか掲げられていました。この「田毎の月」というのは、安藤広重が描いたもので、ここから眺める棚田や千曲川、そして月は素晴らしく、国の重要文化的景観にも指定されています。ここのご詠歌は「音に聞く 姥捨山を 来てみれば 月の都は ここにこそあれ」で、やはり月が詠み込まれています。
ここに着いたのが11時55分で、すぐに車を駐め眺めると、観音堂とその先に大きな「姨石」が見えましたが、先ずは本堂への石段を下りました。
朱印所と本堂の正面はこば葺きで、右側のお堂は茅葺きで、それぞれに趣きがあります。その正面には回向柱が立ててあり、梵字の下には「奉開龕聖観世音菩薩供養塔也」としたためられていて、新しく建てられたもののようです。その前には賽銭箱と消毒液があり、そこでお詣りしてから受け付けに行きました。
ところが何度呼んでも出てこないので、仕方なくお堂に入りました。そこにも誰もいませんでした。外陣にはお守りなどが並べられた台があり、そのわきに護摩木などもあり、「長樂五ケ条を書いたものが下がっていました。その外陣の経机のところでお詣りをしました。

ここでは、観音経と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」などを3返ずつ唱えました。しかも、声を聞きつけて来るかもしれないと思いやや大きな声を出しました。
内陣の左側には位牌などが並び、右側には小さな仏像や写真などがありました。そして正面の真ん中に聖観音木造が安置されていて、その両脇の壇に西国33観音像などがあり、その左手前に大師像がまつられていました。
お詣りが終わっても誰も来ないので、次に石段の左上の観音堂に行きました。ここは姨石の横にへばりつくように建てられていて、屋根は茅葺きで、その上には石の宝珠が上がっていました。
回廊を回り込むように正面に出ると、内陣には厨子があり、そのなかに秘仏の本尊がおさめられているそうです。信濃毎日新聞社発行の「観音さまだいすき 信濃三十三番札所みちを歩く」という本に写真が載っていて、獅子の背に蓮華座があり、髪型は高く結い上げた垂髻で、やや腰を引いて両手で蓮台を捧げ持つお姿で、鎌倉時代の宋様式仏像だそうです。
ここでもお詣りし、もう一度朱印所に下りましたが、誰もいません。そこで、本堂前から観音堂を見上げると、姨石と観音堂がよく見え、さらに左手には月見堂があり、その左脇に「芭蕉面影塚」がありました。
ここは『古今和歌集』の詠み人知らず、「我が心 慰めかねつ さらしなや 姨捨山に 照る月を見て」と詠まれたまさに月見の名所です。さらに松尾芭蕉が「更級日記」で「俤や 姥ひとりなく 月の友」と詠んでいます。また忘れてならない俳人に小林一茶がいて、1799年に初めてここ姨捨を訪れてから、おそらく3〜4回は中秋の名月を観に訪ねているといわれています。その句のひとつに、「一夜さは 我さらしなよ さらしなよ」があり、今ここにいてお月さまを観ている感動が伝わってくるようです。
そして、観音堂の昔の石段の付近にはたくさんの句碑が並んでいて、ここは姨捨伝説や観月の長い歴史があることを伝えています。でも、とうとう朱印はもらえずに、上の駐車場に戻り車に乗りました。
時間は12時12分で、次は第11番札所「観龍寺」ですが、その手前に第5番札所「妙音寺」の朱印所「禅透院」があるので、そこに先に行くことにしました。そこまでは、あんず街道を通って9.9q、24分ですが、この道路にはコンビニもあるので、簡単に昼食を食べようと思います。
第14番札所 姨捨山 長楽寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 音に聞く 姨捨山を 来てみれば 月の都は ここにこそあれ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.11
第5番札所「妙音寺」の朱印所「禅透院」は千曲市森にあり、まずは先ほど通ってきた道をそのまま下り、街中に出ますが、その前にコンビニがあったので、そこでおにぎりとお茶を買い、千曲川の堤防で食べました。少し休んでから、また今来た道に戻り千曲川にかかる橋を渡って、丁字路になっている横町信号を右折し、県道403号に入り、そのまま県道392号に進みます。そして、しなの鉄道線の踏切を渡り、あんず街道を進み、沢山川の橋の手前から斜め右に入ると100mほどで禅透院です。ここで「妙音寺」の朱印をいただき、次は千曲市森大峯にある第6番札所「観龍寺」を目指します。
ここから1.8q、約5分ですが、先ほどの沢山川の橋まで戻り、そこを渡って川沿いに進むと、「観龍寺」は左という交通標識があるのでそこを左折し進むと、同じような右折の標識があるのでここから入ると350mで着き、左側に駐車場があります。
ここに着いたのが13時20分で、長い石段を上ると、二天門があり、2009(平成21)年に奉納された幕がかけてありました。
そこをくぐると、正面が観音堂ですが、その手前で草取りをしていた方がおられました。聞くと、このお堂を改修するときに、みんなでこのお堂を護っていこうと話したのに、なかなか草取りを手伝ってくれる方がいないということでした。そういえば、信濃毎日新聞社発行の「観音さまだいすき 信濃三十三番札所みちを歩く」にも、しなのき書房の「地学でめぐる信濃三十三番札所」にも古いかや葺き屋根の写真が載っています。ということは、後者の本は2020年2月に発行されてますから、それ以降に改修されたということになります。
それなのに、草取りの手伝いがあまりないということは、先々とても心配です。でも、終わるところだったからか、とてもきれいになっていて、「気持ちよくお詣りできます」と話しかけたら、笑顔で頷いてくれました。
お堂が開いていたので、中に入ると、外陣にも畳が敷かれていて内陣との間に格子戸があり、その上に「観世音」の扁額が掲げられていました。その下に賽銭箱があり、そこに座ってお詣りをしました。

ここでは、観音経と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」などを3返ずつ唱えました。おそらく、草取りの音が聞こえなくなったので、いっしょにお詣りをしてくれたようです。
内陣をみると、須弥壇の上には大きな本尊が安置されていて、その手前には護摩壇もあります。欄間の彫刻は天女が彫られていて、柱掛けもしっかりと整えられています。境内もきれいでしたが、お堂のなかもしっかりと掃除がされ、清清して気持ちでお堂を出ました。
なぜか、お堂の左手前には大きなつば釜が置いてあり、以前はここに地区の人たちが集まってお詣りをしながら、食べたり飲んだりしたのかもしれません。
ここを地区の人たちは「森のお観音さん」と呼んでいるそうで、地元民みんなでこれからも護っていってほしいと思います。ここは千曲市森大峯にありますから、「森のお観音さん」というのはすぐにわかりますが、大峯というのは、大峰山のつながりがあるということで、もともとは修験道とのつながりも感じられます。ここは坂上田村麻呂の開山と伝えられるぐらい古い歴史がありますから、幾多の困難を乗り越えて今があるので、その歴史をぜひ続けてほしいと願いました。
お堂の外には、句碑がいくつか立っていて、そのひとつをみると、地元出身の橘田春岳氏の「忘れかけ そうな母の忌 胡瓜もみ」と彫られていました。なんとも日常のちょっとした一コマです。
おそらく、この観瀧寺も、この地区にはなくてならない日常になっているような気がしました。まだ草取りをしていたので、これからもどうかよろしくお願いいたしますと声をかけて、二天門をくぐり、石段を下り、車に戻りました。
時計をみると、13時30分です。ここの朱印は長雲寺で先にもらっているので、次の第5番札所「妙音寺」に向かいます。ナビでは、ここ観瀧寺から3.5q、8分です。
第6番札所 洗淵山 観瀧寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 雨の宮 森の木陰に 寺見えて 参る心は 涼しかるらん
☆信濃三十三観音札所巡り Part.12
第5番札所「妙音寺」は千曲市倉科竹ノ尾にあり、先ほど来た道を戻り、そのまま県道392号に突き当たる丁字路まで1.5qほど進み、そこから右折します。1qほど走り、丁字路をそのまま進み、その先550mほどから斜め右方向に曲がるところに、丸太でつくった案内がありそこを進むと石段が見えてきます。その右側に「妙音寺いこいの広場」がそこが駐車場になっていました。
そこに着いたのは13時36分で、その先の石段を一段ずつゆっくりと上りました。すると、その途中に現在管理している禅透院の名で「信濃33番5番札所妙音寺十一面観世音菩薩様を諸般の事情により下記に一時疎開いたします。参拝の皆様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解願います。」と書いてあり、「ここより車で7分です」と添え書きもあります。
その石段の脇の石垣は、平たい角礫で積まれていて、あちこちに残っていました。またサクラも植えてあり、花のときにはみごとだと思いながら上りました。ちょうど上った左側に展望台があり、東屋のようになっていて、倉科の集落が見下ろせます。これは比較的新しく、地図で見るとここは妙音寺公園となっています。
その先に本堂がありますが、ここにも張り紙がしてあり、ロープのなかには入れませんでした。よくみると、だいぶ傷んでいるようで、危険ということもあり、一時疎開となったようです。そういえば、信濃毎日新聞社発行の「観音さまだいすき 信濃三十三番札所みちを歩く」という本には、この本堂の中でお詣りするところや、「倉科山」という山号額も載っていましたが、それもありません。
また、もともとの観音堂はこの本堂よりさらに山に入ったところにあったそうですが、このお堂には本尊さまはいなくても、ここでお詣りをすることにしました。

まったく誰もいないので、大きな声で、観音経と十一面観世音菩薩のご真言「ヲンロケイジンバラキリク」などを3返ずつ唱えました。
ここ倉科の里は、万葉集の東歌にある「ひと皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね」で歌われている絶世の美女が住んでいたそうで、昔から続いている集落です。だからこそ、このような大きな本堂を建てることもできたようですが、1883(明治6)年には無住となり、1883(明治16)年に禅透院が再建し、それから末寺になったそうです。以前は、近くの方が朱印をしてくれたそうですが、現在は禅透院が朱印所になっています。
そういえば、ある本に、妙音寺のお堂のわきに大きな柳の木があると書いていましたが、私は気がつきませんでした。正岡子規の俳句に「一村は杏と柳ばかりかな」というのがありますが、ここはあんずの里で、来る途中に「あんずの里道しるべマップ」の看板があちこちに立っていました。聞くところによると、アンズの主な産地は長野、青森、福島県だそうで、なかでも千曲市の特産はアンズだそうです。そして、花の咲く4月始めになると、あんず祭りも多くの人たちで賑わうそうです。
このアンズの花の見頃は、例年4月上旬だそうですが、一目十万本ともいわれる花の時期に、もう一度来てみたいと思いました。また、アンズの花言葉に「不屈の精神」というのもあり、これは厳しい冬を耐え、まだまだ寒さが残るときに花を咲かせるその姿からつけられたのではないかと思います。
「妙音寺いこいの広場」に戻ったのは13時48分でした。ここの朱印は先にもらってあるので、次は第4番札所「風雲庵」です。なんとも勇ましい寺院名ですが、ナビでは、ここ妙音寺から8.7q、16分です。
第5番札所 倉科山 妙音寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 くらしなと 思えば出ずる 明星の ひかり田水に 浮かむ星影
☆信濃三十三観音札所巡り Part.13
第4番札所「風雲庵」は長野市松代町清野宮組にあり、先ほどの道を戻り、富士見橋の信号を右折し県道392号に入ります。県道335号などを通り、国道403号からまた右折します。そして長野自動車道の下をくぐり、もう一度くぐって100mほど先を右折し市道情野中央線に入り500m先の右側に「三十三番札所 當國四番 大里山 風雲寺 参道入口」と書いた案内板があり、その右手前が駐車場です。
ここは地域で管理しているそうで、朱印所は年ごとに変わるので堂内の案内板を確認してくださいとあったので、駐車場に車を駐めました。ここに着いたのは14時10分でした。
すると、そのすぐ前の製作所で働いていた女性が声をかけてくれ、観音詣りなら今年は家が担当だからといい、すぐ近くの自分の家に案内してくれました。そこで朱印をいただき、安心して観音堂に向かいました。
ここは地元の人たちは「清野観音」と呼んでいるそうで、まさにこの地域が松代町清野で、元々は黄檗宗だそうですが、今は地元の人たちが管理をしています。
参道の入口には道祖神と彫られた石があり、注連縄が張られていて、そこに葉が茶色くなった枝がはさんであり、なんの植物かと気になりましたが、わかりませんでした。そこを上って行くと、突き当たったところに石段があり、左側の石段には鳥居が立っていて、その先に石宮が見えました。左側の石段はだいぶ長く、そのまわりにはたくさんの石仏や石塔があり、ここから先が境内地のようです。その左手には屋根がかかっていて、増長天と持国天の石仏です。
左側の長い石段を上って行くと、桜の古木があり、その途中の両側にも石仏が立っていて、その上ったところに舞台造りの観音堂がありました。その右側からお堂に上る石段があり、そこから舞台に上がります。

その舞台のところがお詣りするところになっていて、「大里山」の山号額が掲げられ、鰐口があり、下には賽銭箱があったので、そこに入れてから観音経と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」などを3返ずつ唱えました。
内陣とは格子で区切られ、カギがしっかりとかけられていたので、はっきりとは見えませんでしたが、厨子の扉には武田家の菱紋があり、仏壇には武田信玄の位牌もまつられているそうです。というのも、ここ風雲庵の観音菩薩は信玄の夢枕に立ち、信玄に戦術を授けたと伝えられていますが、まさか観音菩薩が戦術を教えるかなと誰しも考えてしまいます。
でも、風雲児というのは変動著しい社会のなかで活躍する英雄的人物という意味がありますから、信玄は時の風雲児であることは間違いありません。信玄は1573年5月13日(元亀4年4月12日)に51歳で病死しましたが、そのときの辞世の句が「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」だったそうです。現代文にすると、「この世は世相に任せるもので、そのなかで自分を見出して死んで行く。見せかけで生きてはならない。生きるのは、本音で生きることが一番楽である。」というような意味になります。
このお堂は、1692(元禄5)年に大里地籍からここに移転されたそうで、そこにあったときは大里山風雲寺と称していたそうで、「寺」が「庵」になっただけで、今も信仰を伝えています。風雲といえば、石田波郷の「風雲の少しく遊ぶ冬至かな」を思い出しますが、これは水原秋桜子の「風雲の秩父の柿は皆尖る」と同じように「かぜくも」と読むようです。そのほうが、1年で一番短い冬至の冬晴れの風と雲の細やかな風情が伝わってくるようです。
駐車場に戻ったのは14時30分で、朱印は先ほどもらってあったので、そこの工場の方に一礼し出発しました。今日のお詣りの予定はここまでですが、明日に行く予定の第7番札所「桑台院」と第11番札所「清滝観音堂」の朱印は、これから泊まる予定の近くにあるので、そこに寄ることにしました。そこは福徳寺で長野市松代町豊栄東寺尾で、案内書には連絡をしてからと書いてあったので電話を先にしておきました。
ナビでは、ここ風雲庵から3.9q、8分です。時間も早いので、先に松代町のお菓子屋「蔦屋本店」にまわってから行くことにしました。
福徳寺には15時10分に着き、2ヶ寺の朱印をいただき、その間に本堂でお詣りをして15分ほどで終わりました。そこから1qほどもない「Royal Hotel 長野」に着いたのが15時30分でした。この日は、早朝から善光寺をお詣りしたので、早めにホテルに入ることができ、ゆっくり休むことができました。
第4番札所 大里山 風雲庵 (黄檗宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 清野寺 立ち出でみれば 霧雲の 晴るるところは 元のすみかよ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.14
今日は2022年5月18日で、快晴です。今日の予定は2ヶ寺をまわって、それから帰宅するので、ホテルを9時にゆっくりと出発しました。
先ずは第7番札所「桑台院」で、長野市松代町豊栄宮崎にあり、昨日通った福徳寺の近くの県道35号を3.1qほど走ると、右側に「史蹟 虫歌山千手観世音 桑台院」と彫られた大きな門碑があり、そこから右折します。170mほどで桑台院の石段の前に着きます。
その右手前に製作所があり、そこの人にお願いして、石段のすぐ前に車を駐めました。そこに着いたのが9時10分です。
右手に山道もありますが、左手には石段があり、先の方まで続いています。そこを上って行くと平らになっているところに大きな仁王門がありました。その手前と後ろ側はほとんど人の踏み歩いたところがないほど、草が生えていました。その仁王門には、「大悲門」という扁額が掲げられていて、そこをくぐると、草地の先にまた石段がありました。
そこを上ると、石段の途中から観音堂の「蟲歌山」と書かれた山号額が見えてきて、もう少しだとわかります。上りきったところに、石垣の土台の上に舞台造りの観音堂がありました。ここは地元の人たちは「虫歌観音」といいますが、このちょっとなじみのない山号には、由来がありました。
それは、松代の町外れの村に住む若者が、別所や布引の観音さまにお詣りして帰る途中の地蔵峠にさしかかったとき、下の村のほうから悲鳴にも似た声が聞こえてきたそうです。それは、軒下に干してあった繭の中から聞こえてくるさなぎの苦しみの声でした。そこで若者は、自分たちの生活を支えてくれる蚕のさなぎの霊を慰めようと近くの山腹に観音さまを安置したそうです。これが桑台院のはじまりです。桑も蚕の食べものですから、おそらくそれが土台になっているようです。
石段の左側には「常夜燈」が立っていて、右手奥にも立派な「常夜燈」が両側に並んで立っています。その間に石段があり、そこを上ると観音堂の右手の広場があります。そこから、お堂へ上る階段があり、回廊に出ることができます。

その舞台に上がると、これが以外と広く、内陣とは格子戸で区切られていました。そのすき間からお賽銭を入れて、観音経と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」などを3返ずつ唱えました。
内陣をみると、護摩壇の先に須弥壇があり、その上に大きな厨子があり、そこに本尊さまはおさまっているそうです。
信濃毎日新聞社発行の「観音さまだいすき 信濃三十三番札所みちを歩く」には、その写真が載っていて、約4メートルほどあり、伝えるところによると、行基菩薩が1本の桑の木から仏像を3体を刻み、ここ虫歌観音と第11番の清滝観音、そして第16番清水寺に安置したそうです。
このお堂が1775(安永4)年の大火で焼失したときにも頭部が焼け残り、それを京都の仏師に修理してもらったそうです。お堂は、1835(天保6)年に再建され、現在も大切に護られています。
昔は、縁日になると、近郷近在から多くの人たちが参拝に訪れ、ここの広場に市も立ったそうです。それはこの地域の民俗史にも取りあげられています。つまり、桑台院は、お詣りするところだけではなく、地域の人たちの楽しみの場でもあったようです。
そういえば、この観音堂の舞台の上で思い出したのが、松本たかし氏の俳句「桑畑を山風通ふ昼寝かな」です。今は桑畑もほとんどないようですが、夏の暑いときにこの舞台の上で寝転がったら、風も爽やかに吹いて、ゆっくり昼寝でもできそうです。ここは、精神的にものんびりできる桃源郷かもしれません。
外に出て、もう一度辺りを見渡すと、広場の左側に石仏がたくとん並んでいました。案内書には「西国三十三観音石仏」と書かれていて、遠くて西国三十三観音霊場にはなかなか行けなくても、ここに来れば、それもお詣りできたようです。
また石段を下り、仁王門をくぐり、下の石段をおりて車に戻りました。
製作所の方にお礼をしてから車に乗り、入口のところの邪魔にならないところまで移動しました。そこで時計をみると、9時28分でした。ここの第7番札所「桑台院」と次の第11番札所「清滝観音堂」の朱印は前日に福徳寺ですでにもらっているので、すぐに出発しました。
次は、今回の信濃三十三観音札所巡りの最後の第11番札所「清滝観音堂」で、ここ桑台院から4.4q、11分です。
第7番札所 虫歌山 桑台院 (真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 虫生田に 陰を隠すは 東条 有明月は 西に傾く
☆信濃三十三観音札所巡り Part.15
第11番札所「清滝観音堂」は長野市松代町東条菅間にあり、第7番札所「桑台院」から先ほどの県道35号を1.5qほど戻り、東条小学校西の交差点を右折します。
そして長野市立東条小学校を右に見て進み、岩沢遊園地の先から左折し、五叉路のところに「清滝観音堂 1.5q先」という案内板があり、そこを右折しました。ところが、ここがわかりにくく、いつの間にか別の道を進んでしまい、仕方なく、また山道を下りてから再度挑戦し、今度は別な道に入ると、それが正解だったようです。
そこから1.5qで清滝観音堂の上に出たので、少し広くなったところの左側に「清滝観音 駐車場」と書いた石が置いてあったので、車を駐めました。ここに着いたのが9時42分でしたから、予定より少しかかったようです。
その辺りを見渡すと、道路の右下にお堂が見えたのですぐにわかったのですが、入るには金網の柵を外さなければならす、そのまわりはぐるっと金網で囲われていました。おそらく、イノシシなどから護るための防護柵で、山奥にあるお堂は大変です。
そのかんぬきを外し、入ってからまた閉めました。そこを下って行くと、モミジが2株満開に咲いていて、観音堂は二層になった重厚なお堂です。側面に石段があり、そこから回廊に上り、正面に出ます。
外陣と内陣は格子戸で区切られていて、外陣のところにお賽銭箱や納札箱があり、その上には古くて読めなくなった額が飾られてありました。ここの本尊は先ほどお詣りした第7番札所桑台院と第16番札所清水寺と同じ桑の巨木から刻まれた3体のうちの1体で、秘仏なので、前立ち観音像が格子戸から見えます。

そこで、観音経と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」などを3返ずつ唱えました。前立ち観音像の右脇に不動尊が祀られ、手前には護摩壇があり、ここは修験道の名残を色濃く残していると思いました。
この観音堂は、さらに上った清滝のところにあったそうですが、火災により焼失し、1822(文政5)年にここに再建されたそうです。現在はその清滝のところに阿弥陀堂があり、地元の人たちは「清滝観音」とか「養蚕観音」というのは、生糸生産が盛んなころは養蚕仏として祀られ、大いに賑わったからだそうです。
回廊から外を眺めると、左手のほうに石段があり、もともとはそこが参道のようです。そこで、お堂を出てからそちらに行くと、幅の広い石段があり、草が生い茂っていましたが、そこを下って行くと、この観音堂が石垣の上に建っていることがわかります。しかも、その石段の脇には石仏もあり、手水鉢のようなものが草に埋もれていました。
こちらから見ると、さらに重々しい雰囲気になり、昔の人たちのような信仰心さえ感じました。そして、その石段を上りきると、その右側に水道の蛇口があり、その菅にまとわりつくようにテンナンショウが咲いていました。
車を駐めたところに戻ったのが10時でしたが、まだ帰るにはだいぶ時間的余裕があるので、近くの清滝奥ノ院阿弥陀堂に行くことにしました。先ほどの道をさらに800mほどすすんだところの道の広いところに車を駐め、山道を歩きました。
すると、その山道の右側に「熊出没御注意」と書かれた立て札があり、ちょっとびっくりしましたが、それでもおっかなびっくり進むと、お堂が見えてきて、ここも石垣の上に建っていました。そして、「清瀧山」という山号額が掲げられ、そのお堂の脇を通っていくと、清滝がありました。
しなのき書房の「地学でめぐる信濃三十三番札所」には、滝の水量は最近少なくなり、水が落ちる時期は限られていると書いてありましたが、たしかに水量は少なく、下に着くまでには霧になってしまいます。それでも落差は10mを越え、岩壁は安山岩の溶岩が地表で急激に冷え固まった柱状節理だそうです。それが風に飛ばされた水滴で濡れていて、まわりの木々の葉の緑が映えます。
そういえば、松尾芭蕉が京都嵐山の保津川の支流清滝川で詠んだのが、「清瀧や波にちり込松葉」です。芭蕉の最後の句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が有名ですが、この句は、考えに考え抜かれたような句で、死ぬ間際に詠んだものとは考えにくいと私は思います。むしろ、「清瀧や波にちり込松葉」は亡くなる3日前に詠んだもので、句の意味も「美しい清滝川の流れに、風で吹き散った青い松葉が散り込んでいるよ」と、旅心をそのまま詠んでいるような感じがします。だとすれば、これが辞世の句と考えてもいいのではないかと思います。
そんなことを考えながら、今回の信濃三十三観音札所巡りの最後の記念に、この滝の下で自分を撮りました。そして、阿弥陀堂に上り、阿弥陀さまのご真言「ヲンアミリタテイゼイカラウン」と7返唱え、お詣りをしました。その舞台のような回廊から眺め、熊が出ないように声を出しながら、細い山道を下りました。
車に戻ると、10時25分でした。ここから自宅までナビで確認すると、352q、4時間50分です。途中で昼食や休憩をしても、17時までは戻れそうです。途中、米山サービスエリアでガソリンをつめ、大峠を越えて帰りました。
今回3日間の移動距離は844.3qでした。なぜか観音詣りだと、ほとんど疲れを感じないから不思議です。
第11番札所 明真山 清滝観音堂 (真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 清滝や 川瀬の波の 繁ければ 心静めて 頼む後の世
☆信濃三十三観音札所巡り Part.16
令和4年5月16日から18日まで信濃三十三観音札所巡りをしましたが、その後も新型コロナウイルスの影響でなかなかお詣りに行けず、久しぶりに堀辰雄著の『信濃路』を読みましたが、「むしろ、雪のなかは温かで、なんのもの音もなく、非常に平和だ。そう、愉しいといったほうがいい位だ。橇の中にいて、小さな幌の穴から、空を見あげていると、無数の細かい雪がしっきりなしに、いかにも愉しげな急速度でもって落ちてくる。そうやってなんの音も立てずに空から落ちてくる小さな雪をじいっと見入っていると、その愉しげな雪の速さはいよいよ調子づいてくるようで、しまいにはどこか空の奥のほうでもって、何かごおっという微妙な音といっしょになってそれが絶えず涌いているような幻覚さえおこってくるようだ。大きな壺に耳をあてていると、その壺の底のほうからごおっといつて無数の音響が絶えまなしに涌きあがっている。」とあり、若い時に何度も読んだ堀辰雄の冬景色を思い出しながら、目の前の自分の住んでいる雪景色を眺めたりしていました。しかし、その冬が過ぎ、春も夏も過ぎた9月11日から信濃三十三観音札所巡りを始めることになりました。今回で三十三観音札所すべてを巡りたいということで、14日までの3泊4日の予定を立てました。
自宅を出たのは6時55分で、前回のように大峠を超え、喜多方を通り、会津坂下ICから常磐自動車道に入り、北陸自動車道から上信越自動車道を経由し、客番の常楽寺を目指しました。そこへ向かう途中で、姨捨サービスエリアの案内を見つけ、前回のお詣りのときに第14番札所長楽寺でご朱印をいただけなかったことを思い出し、予定時間より早めだったこともあり、そこに向かうことにしました。
今回はすぐにいただけたので、ついでに有名な姨捨の棚田に歩いて行くと、ちょうど稲穂が黄色に染まり、そのなかで幼稚園児たちがお弁当を食べていました。天気もよく、ここから千曲市から長野市へと広がる善光寺平も見え、たしかに棚田百選に選ばれるだけのことはありました。ここにまわったことでお昼ご飯の時間もなくなり、途中のコンビニで買ってきたサンドイッチを食べました。
そして長楽寺に戻り、そこから常楽寺までは県道77号線を経由して27.5q、約46分だそうで、ここに着いたのは13時9分でした。駐車場で500円を支払い、すぐに本堂に向かいました。ここ常楽寺は別名北向観音といわれ、慈覚大師円仁が開山開基になっています。そういえば、ここはお詣りに来たことがあり、2018年8月26日にお茶の仲間たちといっしょでした。そのときも前日に善光寺にお詣りし、「善光寺さんだけでは片参り」といわれているので、ここにもまわったのです。
しかし、今回はここが客番で、信濃三十三観音札所になっているので、最初はここからお詣りしたいと思っていました。

先ずは石段を上り、左手にある温泉手水で手などを清め、朱印をお願いしてから北向観音堂でお詣りしました。誰もほかにいなかったので、観音経や真言などをゆっくり唱え、ここからまた信濃三十三観音札所巡りが始まりました。堂内の扁額には、青地に金文字で「普門閣」と彫られていて、これはあまねく人々に門戸を開くという意味です。
お詣りが終わって朱印帳をいただき、観音堂の右手にある護摩堂と温泉薬師瑠璃殿にもお詣りしました。護摩堂は、昭和58年に本堂の傍らに再建され、温泉薬師瑠璃殿は文化6(1809)年に再建されたそうで、懸崖造りのお堂です。護摩堂の向かいには樹齢1200年のカツラの木があり、昭和14年6月5日に長野県の天然記念物に指定されています。
また、石段を下り、下からもう一度見上げてお詣りし、そして駐車場に戻りました。途中で少し食べたとはいえ、お腹が空いたので、七苦難地蔵尊近くの駐車場に車を駐め、「鎌原まんぢゅう」に行くと、門の右手前に「秋期限定松茸おやき」の案内板があり、それを食べてみたいと思い入りました。すると、すぐに温めてくれるというので、その間に車に戻り、抹茶の道具を持って来てお抹茶を点てました。
そして、店の前の緋毛氈の敷いてある長椅子でその熱々のおやきを頬張りながら、お抹茶をいただきました。そして「厄除招福」という菓子を買い、車に戻り出発しました。そういえば、この辺りは松茸の名所だそうで、道の途中には松茸を食べさせる料理屋などがありましたが、そういえば、日経俳句会と番町喜楽会の有志13人が、ここの別所温泉に1泊し翌日には料理屋「松籟亭」で松茸づくしの宴会をしたと書いています。そのなかに、大澤水牛の「松茸膳据えて一夜の長者かな」という句が載っていました。おそらく、この料亭の持山で採れた松茸をふんだんに使った料理だったようで、これは今も営業しているようです。
そのような豪勢な料理には縁がないので、先ずは次の第23番札所宝蔵寺を目指しました。
この「鎌原まんぢゅう」を出発したのは13時55分で、ここから宝蔵寺までは11.4q、約17分だそうです。
客番 北向山 北向観音堂(天台宗) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
ご詠歌 いくばくの 人の心を 澄ますらん 北向山の 峰の松風
☆信濃三十三観音札所巡り Part.17
第23番札所の宝蔵寺へは、先ずは県道177号線を300mほど行き、別所温泉の丁字路信号から右折し、県道82号に進みます。11qほど先の丁字路を右折し県道65号に入り、300m先から左折し尾根川を渡ります。そして、依田神社のところから右折し進むと、左側に「岩谷堂観音駐車場」があります。そこに車を駐めて、山手を眺めると大きな岩の下に朱塗りの観音堂が見え、それが通称岩谷堂観音の由来のようです。
また、ここは木曾義仲の史蹟になっていて、義仲桜や観音堂で戦勝祈願をしたと伝えられています。
その手前の道路を横切るとすぐに参道になり、左手に杖が準備されていて、その両側には六地蔵や観音石仏がまつられています。その先から石段になり、先が木々で見えないほど長いようです。右手には白萩が咲いていて、両側には「南無観世音菩薩」と白抜きされた幟旗が立っていて、そこからさらに石段が急になります。
そこをさらに進むと、建物のような楼門があり、山号の「龍洞山」と彫られた扁額が掲げられていました。その手前の左手に納経所があり、先にそこで朱印をお願いしました。
その納経所の左側が崖につきでたような休所になっていて、とても見晴らしがよく、そのすぐわきに「義仲桜」があり、木曾義仲が直接お手植えされたそうで、それから数えると800年ほど経っています。その根元に看板が立ててあり、上田市指定天然記念物とあり、エドヒガンだそうです。
それから楼門をくぐり抜けると、左手には「二尊堂」とあり、案内板には薬師如来と阿弥陀如来がまつられていて、ガラス戸なので内陣も見えました。そういえば、道路脇の案内板には、「中部四十九薬師霊場第四番札所」と書いてあったので、ここにお詣りするようです。
そして、右手を見ると、大きな岩があり、そこにはめ込まれたように宝蔵寺観音堂がありました。先にまわった北向観音堂は客番なので、ここから札所巡りが始まったような気分です。

先ずは観音堂の前で、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。ここは高台にあり、風がよく通るので、とても清々しく、石段を上ってきて汗ばんだ身にもさわやかでした。
それから回廊を時計回りにまわると、同じ朱塗りの奥院洞窟があり、なかは洞窟そのままでした。奥には朱塗りの門があり、その上には「観世音菩薩」と書かれ、そのなかの自然石の上に聖観世音菩薩石像と聖観世音菩薩と書かれた石碑が並んで立っていました。
その風情は、まさに岩谷堂観音そのものです。よく見ると、電線も張ってあったので、多くの方がお詣りされるときには、電灯もつくようです。
そこでもお詣りし、それから同じように時計回りで回廊をまわると、ここから自分が車を駐めた駐車場や街並みも眺められます。
観音堂をもう一度眺めると、左側には小さな観音石仏もあり、ここはまさに観音さまの聖域です。
石段を下り、納経所にまわり朱印帳をいただくと、そのとなりの義仲桜を見て思い出したのが松尾芭蕉の句で、「木曽の情雪や生ぬく春の草」です。これは『芭蕉庵小文庫』に出ていたものです。もともと芭蕉は、木曽義仲に特に感ずるものがあり、1690〜91(元禄3〜4)にしばしば木曽塚(義仲寺)に逗留し、その塚の隣に自分の遺骸を埋葬することを遺言したそうです。
それほど義仲に対しては特別な感懐を寄せるところがあったようです。
そういえば、上るときには気づかなかったのですが、楼門の石垣は寛政9年の大水害で崩れたものを修復した古い石垣で、そのときの寄附帳に大力士の雷電為右衛門の名前もあるそうです。雷電は、現在まで破られていないのが、生涯勝率9割6分2厘だそうで、私たちが知っている白鵬でさえ生涯勝率15位で、8割2分6厘だそうです。
石段を下りながら、足を踏み外さないように気を付けながら、駐車場に戻ったのが14時35分です。
次は第28番札所「龍福寺」で、場所がいまいちわかりませんが、ナビを頼りに行くことにしました。ここ宝蔵寺から3.2q、約6分だそうです。
第23番札所 瀧洞山 宝蔵寺(浄土宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 宝蔵寺 見上げてみれば 岩谷堂 峯の松風 谷川の音
☆信濃三十三観音札所巡り Part.18
第28番札所「龍福寺」へは、来た道をそのまま進み、国道152号線まで道なりに進み、その役場前信号から右折します。そして、腰越橋の信号から左折し、依田川沿いに走ります。
ところがその辺りから道に迷ってしまい、通りがかった宅急便の運転手さんに聞いたのですが、わからないといいます。しかたなく、何度も地図を見たり、ナビで確認するのですが、その進むべき方角すらわからなくなりました。
それで、今度はスマホのナビに切り替えると、船越公民館向井分館があり、龍福寺の住所も上田市腰越向井1186だったので、それを目印にして進みました。その分館が左手に見え、さらに進むと二又に分かれ、その左側に進むと、「信濃28番札所」の案内板が見えました。たしか、そこが朱印所と書いてあったのに、現在は全芳院でいただくようになっていました。ここに着いたのが15時15分ですから、40分ほど右往左往していたわけです。
そこで、その前に車を駐めさせてもらい、その道を歩いて進むと、30mほどの山手に大きな「鳥羽堂観世音」と書かれた案内板があり、すぐわかりました。しかし、参道らしい道はなく、山道をなんとか進むと、たくさんの石仏や石塔があり、その先に動物の柵があり、自分で開いて入りました。
この様子から見ると、やはり地元の人たちも知らないのがよくわかります。さすがの宅急便の運転手さんでも、荷物を届けたことはないはずです。でも、柵があるということは、近くに野生の動物がいるということで、ちょっと心配になりました。しかし、そこからは参道らしくなり、右手の街並みを眺めながら上りました。そして、左折するとその前に龍福寺観音堂が見えました。
どこもそうですが、「南無観世音菩薩」と書かれた幟旗を見つけると、すぐにわかります。ところが、ここの幟旗はだいぶ色が褪めてしまい読みにくくなっていましたが、それでも見つけられたことで安心できます。お堂は石垣の上に建ち、その間に石段があり、その両脇には大木が茂り、その先にお堂が見え、左側には社務所のような建物になっています。

観音堂の左の柱に、「龍頭山 龍福寺」と書かれていて、やっと探し当てたお堂に間違いありません。ここには鰐口が下がっていたので、それを鳴らし、お賽銭を上げ、その前で、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。
賽銭箱には、梵字が書いてあり、目の届くあたりに窓があり、そこから厨子が見えました。その左側にも観音像があり、その下の段には神鏡もあり、ここももとは神仏一体としてまつられてきたようです。
山号にも寺号にも龍の字が使われているので、その由来を聞くと、昔々、村人たちに危害を加える悪龍を慈覚大師が密教の法によって追い払うと、沼の霧が晴れ、その対岸にヤナギの大木が立っていたので、大師がその木の部分で観音像を刻みまつったのがここの本尊だそうです。
そういえば、暗くてよくわからなかったのですが、よく見るとその厨子には龍の彫刻がありました。小林一茶の句に「赤椀に竜も出さうなそば湯かな」というのがありますが、これは、漆塗りの赤い椀に入れられた濃いめのそば湯の湯気を詠んだものです。ここ信濃はソバも有名で、同じく一茶の句で、「信濃では月と仏とおらが蕎麦」は有名です。
ところが、専門家の間ではこれは一茶の句でないとする説が有力で、一茶の書いた句文集にも、また、門人たちが出版した「一茶発句集」や「嘉永版一茶発句集」にもこの句は載っていないそうです。
つい、いろいろと考えてしまいますが、ここは野生動物たちを閉じ込めておく柵の中にあるので、お詣りをすませるとすぐに戻ることにしました。上るときには気づかなかったのですが、ここの参道からは腰越の街並みもよく見え、そのなかに朱印所の全芳院もありそうです。
車に戻り、時計をみると15時30分でした。ここから全芳院までは1q、3分だそうです。
しかし、国道152号線から全芳院へ入る道はとても狭く、やっと駐車場に着いたのが15時36分でした。急いで山門をくぐり、本堂に挨拶をして、右手の庫裡に行き朱印をお願いしました。ここでは20分以上もかかり、ここを出発したのは15時58分でした。
なぜ急いだかというと、次の第29番札所「釈尊寺」は、山の中なので、お堂までは30分ほどかかると言われていたのです。ナビで確認すると、ここ全芳院から釈尊寺までは17.1q、23分だそうです。
第28番札所 龍頭山 龍福寺(天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 鳥羽の山 登りてみれば 龍福寺 田子の浮き舟 松風の音
☆信濃三十三観音札所巡り Part.19
第29番札所「釈尊寺」へは、先ほどの国道152号線まで戻り、下丸子の信号からそのまま進み、上長瀬南信号から右折し千曲ビューラインを走ります。
布引観音温泉付近から、千曲川沿いを走ると、右側に布引観音参道駐車場という看板が見えますが、そこに車を駐めます。
ここに着いたのが16時20分で、ほぼ予定通りに着きました。参道を上ろうとすると、そこを掃除しているおばあちゃんがいたので、朱印所が閉まるのは何時ですかと聞くと、はっきりとはわからないが、17時ぐらいまでは開いているのではないかといいます。
そこで、少し急ぎ足で上ると、参道というよりは山登りのようで、途中には牛岩や馬岩と名づけられたところや、善光寺窟と呼ばれる洞穴などもあります。不動滝を過ぎて少し歩くと仁王門が見えてきました。
そこからは、観音堂が見えてきて、もう少しだと思い、急ぎ足になりますが、ここは石段なので、靴が滑らないように気を付けます。そして、石製のかんぬき門があり、そこをくぐると庫裡があり、そこが朱印所になっています。
先ずはここでブザーを押すと、なかから声が聞こえてきて、よく間に合ったと思いました。ここまで15分かかるということでしたが、20分は見ておきたいという情報もあり、心配しましたが、朱印帳を預けたので、あとはゆっくりお詣りできそうです。
本堂の前を歩き、白山社や愛染堂の前を通り、岩をくりぬいた参道を進むと、観音堂です。ここは空殿ともいわれる懸崖造りです。その入口の階段を上ると、外陣のところです。その天井は格天井になっていて、絵が描かれているようです。

そこに大きな賽銭箱があり、お賽銭を上げ、その前で、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。
内陣は岩のなかにあり、須弥壇の両脇に「布引山」と書かれた提灯が下がっていて、本尊もはっきりと拝むことができました。それにしても、岩肌が天井なので、なんとなく重苦しい感じがしないでもないのですが、太鼓などは響きそうです。
内陣も朱塗りの丸柱ですが、なぜかローソクも赤く前机や礼盤も赤く、格子窓には絵馬も掲げられていました。
そして庫裡にまわり、朱印帳をいただき、後は時間を気にすることもないのでゆっくりと下りました。ここは「牛に引かれて善光寺詣り」という説話のもとになったところだそうで、遠くから布引伝説のもとになった白い布石が見えます。これは軽石凝灰岩で、輝石や角閃石を含んでいるそうです。これらの地層は布引層と呼ばれ、今から130万年前ごろの火山活動で体積したものではないかと推定されています。
そういえば、草むらのなかに芭蕉の句碑があるということなので、あちこち眺めながら下ったのですが、とうとう見つかりませんでした。それには、「蝙蝠も 出よ浮世の 花に鳥」と刻まれているそうです。
布引観音参道駐車場に着いて時計をみると、17時5分でした。今日はここまでを予定していたので、ここから今夜の宿に向かいました。予約していたのは、「小諸グランドキャッスルホテル」でここから4.9q、10分ほどです。小諸は学生時代にゼミの合宿で来たことがありますが、ナビの案内で行くしかありません。途中で夕食を買い、ホテルに着いたのは17時40分でした。
今日は初日で長距離運転なので少々疲れましたが、徒歩で歩いたのは10,134歩でした。おそらく、姨捨の棚田や第29番札所「釈尊寺」の山道などがあったからではないかと思います。
今夜はゆっくり風呂に入り、早めに眠ることにしました。
第29番札所 布引山 釈尊寺(天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 望月の 御牧の駒は 寒からじ 布引山を 北と思へば
☆信濃三十三観音札所巡り Part.20
今日は2023年9月12日、朝は予定通り起きて朝食を食べ、8時25分にホテルを出発しました。
先ずは諏訪市上諏訪唐沢にある第24番札所「阿弥陀寺」をめざします。ナビで確認すると、61.4q、約1時間20分だそうです。昨日通ってきた県道40号を進み、和子の信号から右折し国道142号線に入ります。ここからが長く、40q以上もあります。諏訪市近くなってから「木落し坂」があり、ここがあの有名な諏訪大社の御柱祭で使う木を落とす坂だと思い出し、車を駐め、写真を撮りました。
看板には、「天下の木落し坂」と書いてあり、中は注連が張られていて入ることができません。よく見ると、「危険 立入禁止」の立て札もありました。
また車で出発すると、「万治の石仏」や「諏訪大社 下社 秋宮」の脇を通り、国道20号線に入り、元町信号から左折し県道40号線に進みます。そして1.5qほど走ると、右手に「唐澤阿弥陀寺の御案内」があり、その左側に黒御影石に「唐澤阿弥陀寺」と彫られた石碑が建っていました。そこから右折すると、その先はだんだんと山道になり、ついにはまったくの林道のような道になり、その行き止まりが阿弥陀寺の駐車場です。ここに着いたのは9時58分ですから、1時間30分ほどかかったことになります。
そこからの参道には石垣があり、その手前に「嶽門」の立て札があり、そのすぐわきに観音さまの幟旗があり、間違いなくここから上るようです。
参道は山道にしては舗装されていて、とても上りやすいのですが、ところどころ滑りやすそうなので気をつけて歩きました。杉の木の間の九十九折りを上り、途中には鐘楼や大きな岩に「南無阿弥陀仏」と彫られたものなどあり、さらにたくさんの石仏や石碑もありました。
その間を進むと広いところに出て、中央のところに石段があり、左側に「南無阿弥陀佛」と彫られた石塔が3基並んで立っていました。右手にある本堂にお詣りし、左手にある庫裡に伺うと、そこが朱印所のようです。しかし、そこには「管理人不在の折は、朱印等用事のある方は、誠に恐縮ではございますが、正願寺に於いて受付致します」と書いた看板があり、しかたなく、その前を通って観音堂に向かいました。
その道にも石仏や石碑がたくさん立っていて、そこを進むと、本堂の裏手に懸崖造りの岩屋観音堂がありました。

観音堂は岩に入り込むように建っていて、右側から入るようになっていて、正面奥には十一面観音菩薩石像がまつってありました。その前で、観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「オンロケイジンバラキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
この石像は信徒が奉納したそうで、もともとの本尊は文化年間の火災で観音像だけが救い出されましたが、黒焦げになってしまったといいます。ここは「子授け観音」としても知られており、ここの舞台からは諏訪湖を遠く眺めることができます。
私が撮った写真には、手前に庫裡の屋根が写ってしまい、そのずっと先に諏訪湖がありました。そういえば、この諏訪湖を与謝蕪村は「名月や うさぎのわたる 諏訪の海」と詠みました。いかにも絵も描く蕪村らしい俳句ですが、「うさぎのわたる」というのは白いさざ波の立った湖面に月が映っている様子だそうで、広辞苑には「兎波を走る」という語句が載っています。おそらく、月でうさぎが餅をつくというイメージが重なったのかもしれません。
お詣りがおわり、下って行くと、山側に宝篋印塔や観音石像があり、その間から懸崖造りの観音堂が見えます。そして、もう一度本堂の前でお詣りしましたが、本堂は平成5(1993)年の火災で焼失したので、その5年後に長野市の善光寺大本願の「旧本誓殿」を移築したものが現在の本堂だそうです。ということは、25年前にここまで移築のために部材を運んだということで、大変な作業だったのではないかと想像しました。
駐車場に戻ったのが10時28分で、朱印所の正願寺までは、ナビで2.4q、6分だそうなので、そんなに遠くなく、その案内通りに進みました。ところが、とんでもなく狭い道で、右側は角間川にそそぐ側溝で、左側は生け垣があります。そこで仕方なく広めの右側に折れてからバックでゆっくりと進みました。何度も前後し、よくぶつからかったと今でも思います。
そのバックで進んだ先に駐車場があり、そこに車を駐めました6分の予定が倍もかかり、10時40分に着きました。山門をくぐり、正面が本堂で、右手が庫裡なので、そこで朱印をお願いしました。
ここの駐車場を出発したのが10時52分です。次は第22番札所「仲仙寺」で、場所は伊那市西箕輪にあります。ナビで確認すると、ここ正願寺から仲仙寺までは32.3q、50分だそうです。
第24番札所 法国山 阿弥陀寺(浄土宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 唐沢や 岩間に結ぶ 観世音 誓いの水は 汲めど尽きせじ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.21
第22番札所「仲仙寺」は伊那市西箕輪にあり、その途中に日本最古の道祖神がある辰野町を通るので、そこをお参りしてから行くことにしました。
その辰野町沢底までは18.4q、33分だそうで、国道20号線まで戻り左折し、清水1.2丁目交差点から右折し県道50号線へと進み、そのまま辰野町平出まで行きます。15.8qほど進むと、中央自動車道の下をくぐり、その側道を300mほど進み左折します。あとは目的地の沢底まで2.4qほどです。
その日本最古の道祖神は、沢底の部落の奥にありました。道のわきに「日本最古の道祖神」の看板があり、その右手に10数体の石碑が立っていて、ほぼ中央にその道祖神がまつられていました。
その右側には「永正二年」、左側に「入澤底中」と彫られていて、中央に一対の男女が手を取り合って立っています。永正2年は、西暦だと1505年ですから、500年以上も経っていることになります。しかし、他の道祖神と比べても、そんなに古いようには見えなかったのですが、そのような疑問は他の本にも書いてありました。
せっかくここまで来たので、沢底中組の道祖神などをお参りし、途中で買ってきたパンを食べ、ここから仲仙寺へと向かいました。ナビでは、県道203号線を経由して17.4q、25分ほどだそうです。
ほぼ迷うことなく仲仙寺の仁王門のわきの駐車場に着いたのが12時27分でした。仁王門の右手前には、「信濃三十三観音第二十二番 伊那諏訪八十八ヶ所第一番 霊場 羽広観音仲仙寺」と大きく彫られた白御影の石塔が立っていて、そこをくぐって参道を進むと、右側に仲仙寺本坊があり、その門から入ると朱印所です。そこでお願いし、先ずは観音堂へと歩きました。右手に手水場があり、その先に長い石段があり、そこを上ると山門があります。この山門は二層になっていて、そこをくぐると正面に観音堂がありました。

観音堂の前に立派な唐金製の香炉がありましたが、私はどこの観音さまでも灯明や線香などの火の使うものは使わないようにしているので、まっすぐに観音堂の外陣へと進みました。先ずは鰐口が下がっていたので、それを鳴らし、お賽銭を上げ、観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「オンロケイジンバラキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
それからなかを見ると、観音さまの入った宮殿を護るかのように持国天や多聞天が安置されていて、鎌倉時代の作だそうです。目が暗いところに慣れてくると、礼盤のところで改良服でお詣りしている方がおられ、もしかすると住職のようです。その前に塔婆があるので、どのたかの回向かもしれません。
外陣の左上には千匹馬の額が掲げられていて、ここは昔から馬の信仰で知られたところで、特に伊那谷は中馬稼ぎが盛んだったそうで、近在の馬たちが飼い主に引かれてお参りし、守護札を受けたそうです。そういえば、その向かい合わせのところにも大きな絵馬がありました。
そして、仲仙寺本坊に戻り、朱印をいただき、車に戻りました。せっかくなので、その仁王門の下の参道まで歩くと、地蔵堂があり、その下に庚申塔や甲子塔、さらには道祖神などもあります。
そこで、車に乗り、参道のところまで下って車を駐め歩くと、参道の両側に門塔が立っていましたが、長い年月が経ち読むことができませんでした。その参道の先のサワラの巨木の間に吊り下げられたように神願様が祀られていて、初めて見る光景でした。
そういえば、ここ仲仙寺は桜の木も多く、井上井月という漂泊の俳人が「旅人の我も数なり花ざかり」という句を詠んだのもこのあたりの伊那の里です。この句には、花盛りの中を歩きながらも我は旅人のひとりだという想いが込められているようです。
たしかに、旅人という言葉には、解放感もある一方で一人だという孤独感も感じられますが、こうして信濃三十三観音札所を巡っていると、よくわかります。
ここで時計をみると、12時57分でした。昼食の時間も節約し、早め早めに動いたこともあり、予定より30分も早く、さらに先ほどの辰野町辰野にはまだまだ道祖神があるということなので、そこもまわることにしました。
ここ仲仙寺から、先ずはその道祖神のある辰野市丸山球場を目指して進むことにしました。ナビで確認すると、県道203号線を経由して15.9q、26分だそうです。
第22番札所 羽広山 仲仙寺(天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 遥々と 登り向かえば 仲仙寺 いつも絶えせぬ 松風の音
☆信濃三十三観音札所巡り Part.22
辰野市丸山球場の駐車場に着いたのは13時25分で、先ずはここに車を駐めて、すぐ近くの「甘露井の道祖神」へ行きました。これは明治13年に竹淵三郎平が造ったといわれていて、上辰野のなかでは一番新しいそうです。碑文には「猿田彦命と天鈿女」と彫られていて、わきに庚申塔などもありました。次に行ったのは金比羅神社わきの蚕玉神像で、ここには大黒天像と甲子と刻まれた石碑が2基ありました。
そこから堀上荒井の道祖神へ行き、この石祠型の道祖神には「永禄七年」の年号があり、石祠としては最も古いそうです。また、 庚申塔もあり、寛政、大正、昭和の3基が建てられていました。
次は、堀上竹原の道祖神で、ここには15基ほどの石像などがあり、明治6年建立の双体道祖神もあり、「金十五両」で明治6年に建立されたと記されていました。ここまで道祖神を訪ね歩き、そろそろ14時も過ぎたので、第27番札所「牛伏寺」に向かわなければならない時間です。ここ上伊那郡辰野町上辰野から牛伏寺までは、ナビによると25q、33分ほどかかります。
とりあえず、県道153号線に進み、国道153号線から右折し、そのまま15qほど走ります。途中、ソバ畑やリンゴ畑などのわきを通り、金井の信号からアルプス展望しののめのみちに入り、10qほどで松本市道4563号線に右折します。
その近くに「一誠堂」というお菓子屋さんがあり、そこで「ぶどう」や「ほおずき」などの上生を買い、それから松本市道3123号線を進むと、牛伏寺砂防ダムのところの右側に駐車場がありました。ここに着いたのは15時6分でした。
歩き始めると、左側に牛堂があり、ここで車道と参道に別かれるので、参道を歩くと、左手の山側に六地蔵尊が石垣の上に立っています、そこをさらに進むと、釘貫門といわれる黒門があり、その先は石段になっています。その門の左側にお知らせ番があり、令和6年の大祭は1月7〜8(成人式)に行うとあり、観音さまの縁日になっているそうです。
その石段を歩いていくと、山門があり、「金峯山 牛伏寺」という扁額が掲げられていました。そこをくぐると庫裡があり、そこが朱印所になっているのですが、呼びかけても誰も出てきません。そこで仕方なく、先に観音堂に行くことにし、石段を上り二層の仁王門をくぐり、その左手にある観音堂の前に行きました。

観音堂は入母屋造りの向拝を持ち、慶長の大火のあとの元和8(1622)に再建されたそうで、「厄除 大悲閣」と彫られた扁額があり、大きな注連縄も張られていました。
その外陣のところでお賽銭を上げ、観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「オンロケイジンバラキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
それから、まずは朱印をいただかなければと思い、先ほどの庫裡のところに行き、もう一度大きな声で呼びました。それでも返答がないので、そのわきの如意輪堂などをまわっていると、参拝の方が先ほどまでいたのですがといわれたので、さらに何度も声をかけると出てきたので朱印をお願いしました。
巡礼の本には、ここで第20番「長安寺」の朱印もいただけると書いてあったので、それを尋ねると知らないということでした。しかし、2020年2月4日に発売された「地学でめぐる 信濃三十三番札所」にも書いてあり、何もわからないというのは不思議です。
しかし、わからないということであれば、仕方ないので、下山することにしました。
駐車場に戻ったのは15時35分でした。そこから今夜泊まる予定の「チサンイン 塩尻北インター」まで、先ほどの松本市道4563号線と県道63号線経由で10.7q、18分です。そろそろ夕方なので混んでくると思いながら、ゆっくりと運転しました。
国道19号に入り進むと、右手に「ルートイン 塩尻北インター」が見えてきたので、すぐに後ろにある駐車場に入れました。意外と早く着いたと思いながら、フロントに行くと予約がないということでした。あらためてスマホで予約を確認すると、「チサンイン 塩尻北インター」が今日の宿泊ホテルで、ルートとチサンの間違いでした。
すぐに重い荷物を持って車に戻り、その同じ国道を走ると、1qほど先にベージュとオレンジに色分けされた「チサンイン 塩尻北インター」を見つけ、駐車場に駐めました。フロントでチェックインすると、間違いなくここで、ホッとしました。
先ずは部屋に入り、湯を沸かし、お抹茶を点て、途中の買ってきた銘「ぶどう」の上生で一服しました。「一誠堂」の名物は「ほお葉巻き」だそうですが、これは季節限定ということなので残念でした。
そして、風呂に入り汗を流してから、国道の向い側に「スシロー 塩尻店」があったので、そこで夕食にしました。
今日は札所と札所の間が長く、さらに道祖神をお参りしたので、少し疲れました。せっかくここまで来ているので、明日は安曇野の道祖神もお参りする予定です。そういえば、正岡子規の句に「立ちよれば木の下涼し道祖神」というのがありますが、今日も暖かかったわりには道祖神の付近に吹く風はさわやかでした。
第27番札所 金峰山 牛伏寺(真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 来世にて 死出の山路は よも越さじ 金峯山へ 参る身なれば
☆信濃三十三観音札所巡り Part.23
今日は2023年9月13日水曜日で、「チサンイン 塩尻北インター」を出発したのは8時22分でした。今日の宿泊は「西条温泉とくら」で午後4時以降のチェックインなので、ゆっくりと9時ころに出ようと思ったのですが、少しでも早く安曇野に行き、道祖神をお参りすることにしました。
先ずは、第25番札所「盛泉寺」を目指しますが、ナビによるとこのホテルから15.1q、28分だそうで、県道27号線と25号線を通って山形村の中大池の信号から右折し県道291号線に入ります。山形村ふれあいドームの先から県道25号線に進みます。これは「日本アルプスサラダ街道」と呼ばれているそうで、4.6qほどで着きました。
参道のところに、自然石に「信濃廿五番霊場」と彫られた石碑が立っていて、その右側が駐車場です。そこで時計をみると8時55分で、予定より5分遅れですが、まずは想定内です。
門柱から入ると、その先の左側に六地蔵があり、その中央に自然石に線彫りした地蔵尊があり、とても素朴な味わいがありました。そこから石段になっていて、山門があり、「天陽山」という山号額が懸かっていました。いったん平らな石畳でしたが、その左側には苔むした古い観音さまの石仏が並び、幽玄な感じがしました。さらに進むとまた石段になり、そこを上ると本堂です。
その右手に庫裡があり、そこで朱印をお願いしました。
そして、本堂の左手側に石段があり、その両側にはアジサイがたくさん植えられていて、花時はきれいだろうなと思いながら、さらに上ると、正面に観音堂がありました。
観音堂には、山岡鉄舟筆の豪快な「大悲閣」と書かれた扁額が掲げられ、その左側には「水澤観音堂」と書いてあり、その両側にはみごとな龍の彫り物が架けてありました。

いつものように、観音堂の回廊のところで、お賽銭を上げ、観音経偈と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
それから、内陣を見ると、すっきりとしたしつらえで、正面の須弥壇に観音さまがまつられ、その両側に群青色の四天王が守護されています。この観音堂は明治22(1889)年に再建されたそうで、江戸時代までは若沢寺が25番札所だったそうですが、明治時代の廃仏毀釈で若沢寺の伽藍はなくなり、仏像なども各地に散らばってしまい、千手観音像や金銅弥勒菩薩などがここ盛泉寺に移され、25番札所になったようです。
ここ信濃三十三観音霊場だけでなく、他の三十三観音霊場をお詣りしていても、この明治時代の廃仏毀釈の影響はかなりです。伽藍が壊されたり、仏像が焼かれたり、土のなかに埋められたりしたところがたくさんあります。あるところでは、仏像の梵字が剥ぎ取られたり、僧形の頭に宝冠をかぶせたりしたところもあります。
しかし、この明治新政府の「神仏分離」政策をきっかけとして突然に起こった廃仏毀釈の流れは、日本国中 を巻き込みながらわずか数年で終わってしまいました。年譜をみると、この 廃仏毀釈の機運が完全に終息したのは明治9(1876)年ですから、ほんのわずかの年です。しかしながら、その影響はとてつもなく大きく、まさに仏教界にとっては台風のようなものだったような気がします。
では、なぜこのようなことが行われたかというと、明治新政府は、王政復古や祭政一致を実現するために明治元年に、今まで各地でおこなわれてきた神仏習合を禁止するために神仏分離礼を発したことによります。そこで、神仏習合の寺院は、廃寺になるか、神社に変更して生き延びるしかなくなりました。
しかしながら、それ以前は、神仏混淆を嫌う伊勢神宮でさえ、松尾芭蕉は元禄元年の「笈の小文」で、「神垣やおもひもかけず涅槃像」と詠んでいます。これは伊勢神宮外宮の館で詠んだそうですが、それでもこのころはそれが当たり前だったようです。
さて、お詣りをすませて、庫裡にまわり、朱印帳をいただくと車に戻りました。9時18分です。
次は第26番札所の「満願寺」です。ナビによると、ここ盛泉寺から先ほど通ってきた「日本アルプスサラダ街道」をそのまま行くと21.2q、約40分ほどだそうです。
第25番札所 天陽山 盛泉寺(曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 参るより 心も清き 水沢の 誓も深き 御寺なりけり
☆信濃三十三観音札所巡り Part.24
第26番札所「満願寺」は、安曇野市穂高牧にあり、「日本アルプスサラダ街道」を草深東部まで進み、川窪沢川を過ぎ200mほど先を斜めに左折して、道なりに進みます。
その途中の安曇野市穂高牧で地蔵石像を見つけたので駐まってみると、そこから右に入ったところに大きな自然石に「二十三夜塔」と彫られた石碑があり、その左側に道祖神、右側に庚申塔があり大黒天と彫られたものもありました。
そこから900mほどで「微妙橋」があり、その先の左手に駐車場があります。ここに10時3分に着き、すぐに車を駐めて、古い参道のところから入ると、冠木門があり、その先の右側に赤い頭巾をかぶった六地蔵が立っています。
そして、その先に切妻屋根に覆われた微妙橋を渡りました。伝えるところによると、この微妙橋は三途の川を渡る橋だそうで、橋板の裏には梵字で陀羅尼経文が書かれていることからお経橋とも呼ばれることもあるといいます。
その先の地蔵堂にお詣りし、そのお堂のわきに、たくさんの杖が立てかけてあるところをみると、急な上りが予想されます。そしてお堂の左側にある参道を上りました。
杉やヒノキの林のなかに石段があり、息を切らせながら上って行くと、なだらかな石畳もあり、その途中に高札やお大師さまの石像もあり、その鬱蒼とした林のなかに仁王門が見えてきました。そこには、「救療山」という扁額が懸けられていて、お詣りした人たちがこの門をくぐると、救い治療してくれそうです。
そこをくぐると、左手の石垣のところに観音石像が4体安置されていて、石段の両側には石灯籠があり、その間の石段を上っていきます。すると、石畳の左側にも何体かの石仏があり、さらに進んでいくと手水場がありました。そこから右手の石段を上ると鐘楼があり、平らな境内地のところに本堂がありました。
本堂の右手に庫裡があり、そこで朱印をお願いすると、なかでお詣りしてくださいとのこと、有難くお堂に入れてもらい、本堂の外陣の正面に向かいました。

正面の須弥壇には本尊さま、その左側には大黒天、そして右側には愛染明王が安置され、その手前には護摩壇があり、いかにも真言宗寺院の風格が感じられました。
その外陣のところで、お賽銭を上げ、観音経偈と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
それから廊下に出て巡ると、その壁面の両側に「地獄極楽変相之図」がかけられていて、その額の下にわかりやすく解説が書いてあり、これは誰にでもわかりやすいと思いました。そしてもう一度正面に行き、一礼をしてから庫裡の方に行き、朱印帳をいただきました。
そして外に出ると、本堂の前の玄関も開いていたので、そこでも鰐口を鳴らしお詣りをしました。左の奥には観音石像が立ち、その右側の石垣の上に端正な造りの聖天堂があります。聖天さんは、人々の心を見抜き、財を求めようとする者には財、悲しんでいる者には喜び、病気をしている者には健康、とまさに現世利益を受けとめる天部の仏さまです。また、十一面観音菩薩を本地仏としているので、観音さまとも相通じるものがあります。
そういえば、小林一茶の句に、「めでたさも 中くらいなり おらが春」というのがありますが、これは一茶が文政2(1819)年、59歳の正月を迎えた時に詠んだものです。このままでも、あまり欲張らないほどほどの幸せが伝わってきますが、信濃の方言で「中くらい」というのは、あやふやとか、いい加減とか、どっちにもつかずという意味もあるそうです。ということは、正月だからといって特別になにかをするというのではなく、いわば「あなた任せ」というような意味も含んでいます。まさにありのままに正月を迎えているのだから、おめでたいかどうかさえ曖昧な自分であるということのようです。
つまり、良寛さんの生き方にも通じるような雰囲気があると思いました。
ここ満願寺は、江戸時代には36堂を連ねる大伽藍だったそうで、善光寺詣りの途中で多くの方々が立ち寄ったようです。しかし、廃仏毀釈により衰退したものの明治9(1876)年に復興され、現在に至っています。ここには5千株ほどのツツジがあり、「栗尾山つつじ公園」として名所にもなっているようです。
参道の入口にある地蔵堂に戻り、駐車場に着くと10時37分でした。次は第20番札所の「長安寺」です。ナビによると、ここ満願寺からは22.6q、約45分ほどだそうです。
せっかくここまで来たのですから、その途中の安曇野市内の道祖神をお参りしながら長安寺に向かうことにしました。
第26番札所 栗尾山 満願寺(真言宗豊山派) 本尊さま 手観世音菩薩
ご詠歌 ありがたや 功力も深き 観世音 導き給へ 弥陀の浄土へ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.25
第20番札所「長安寺」は、松本市会田にあり、岩井堂観音ともいわれていますが、その前に安曇野市内の道祖神をお参りします。そこで、満願寺から先ずは上手村抱擁道祖神を目指します。ここから5.6q、12分だそうで、県道432号線を左折した裏手にありました。
ここの道祖神は、彩色された握手双体道祖神で、石には「上手村中 安政5午年(1858)3月吉祥日」と刻まれていて、すぐわきに同じように彩色された「大黒天像」と「恵比寿天像」も各1基ずつありました。
やはり彩色は珍しく、この後にもいろいろと道祖神をまわりましたが、これだけです。ただ、大黒さまも恵比寿さまも色白すぎて、ちょっと違和感がありました。しかも彩色もいかにも子どもたちが塗ったような素朴な感じで、台座のところにその色が少し垂れていました。
ここから次は県道432号線のすぐわきで、宗徳寺に入る角のところにあります。この道祖神は握手をした姿の上に鳥居が彫られていて、1858年に作られたそうです。その左隣には、同じぐらい大きな自然石に「大黒天」と彫られており、この地域は大黒天信仰もあるようです。
次に向かったのは東光寺わきですが、探してもわからず、その近くの等々力氏館跡の先の道祖神に行きました。たまたま道路工事をしていましたが、そこに車を駐めてもらい、何枚か写真を撮りました。ここの道祖神は1885年に作られたそうで、中央には「大黒天」、そしてその左側には「二十三夜塔」があり、さらにその台座の右下には小さな石仏が20基ほどありました。そこから、等々力氏館跡に戻り右折し100mほどの右側にも握手道祖神があり、1831年に作られたそうです。ここの石垣の上には、その他に大黒天など全部で5基が並んで立っていて、その近くにも観音石像などがありました。
ここで時計をみると、11時30分になり、そろそろ長安寺に行かなければならない時間です。今日も昼食を食べる時間がなさそうなので、途中のコンビニでパンを買ってから向かいました。
ここから大王わさび園の近くを通り、県道302号線を進み、予定通り長安寺跡はすぐに見つかりましたが、肝心の岩井観音堂は見つかりません。会田宿の辺りを何度も行ったり来たりしながら、とうとう善光寺街道の左手に仏像が1体あり、そのすぐわきに、ほとんどかすれて見えなくなっていましたが、かすかに長安寺の名が読み取れました。そこからさらに200mほど進むと、右側に駐車場があり、その左手の山側に「岩井堂観音登山口」の四角い案内柱があります。
ここに着いたのが12時8分ですから、予定の25分を少し過ぎていました。
登口だけは石積みされていましたが、すぐに獣道のようになり、足元に気をつけながら登ると、つづら折りの先にお堂が見えました。先ずは正面に立ち、それから回廊に上がり、外陣まで進みました。

奥には本尊の千手観世音菩薩が安置されていて、その外陣のところで、お賽銭を上げ、観音経偈と千手観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」と7返唱え、お詣りをしました。ここは本尊の千手観世音菩薩がはっきりと拝むことができるし、誰もいない山のなかなので、どんなに大きな声を出しても迷惑をかけません。思いっきり大声で観音経偈を読誦しました。
しかし、そのお堂のところに張り紙があり、朱印は、「松本市浅間温泉 臨済宗 神宮寺」となっており、新しい本にもそれは出ていませんでした。スマホで確認すると、ここ岩井堂から16.4q、約25分ほどかかるそうで、今来た道を戻らなければならないようです。
もともと観音詣りの朱印は、スタンプラリーではないので、そのお堂でしっかりとお詣りすればいいのだし、最近は無住のお堂や朱印所が遠く離れているところもあり、三十三観音霊場のすべての朱印をもらいづらくなっています。このあたりをもう少し考えていただければと思います。
今回の信濃三十三観音霊場では、今のところはここだけが朱印なしですが、令和4年5月16日にお詣りした第16番札所「清水寺」でも、電話で予約していたのですが、残念ながら留守でいただけませんでした。
そういえば、小林一茶の句に、「なら山の神の御留主に鹿の恋 」(八番日記)というのがありますが、いないということも、シカにとってはいいことかもしれませんし、人間にとっては仕方のないことかもしれません。また松尾芭蕉の句に、「留主のまに荒れたる神の落葉かな」(小文庫)、というのがありますが、荒れてしまっては困ります。
あまり余計なことを考えると、下りの道で転んでしまってはさらに困るので、気をつけながらあちこちの木の枝を掴まえながら一歩ずつ下りました。
駐車場に着いたのが12時30分で、次の予定の第3番札所の「岩井堂」をナビで確認しました。ここから23.8q、36分です。その途中に第17番札所の「碩水寺」があるので、そこに先にまわることにしました。そこまでは、19q、32分です。
第20番札所 鷲峯山 長安寺(臨済宗妙心寺派) 本尊さま 手観世音菩薩
ご詠歌 岩井堂 岩にぞ御堂 懸けつくり 谷を隔てて 映す水影
☆信濃三十三観音札所巡り Part.26
第3番札所「岩井堂」へ向かう途中で、第17番札所の朱印所になっている「碩水寺」にまわりました。
先ほどの県道303号線まで戻り、そこから左折し、山道を走ります。長野自動車道付近の国道403号線で右折し、今夜泊まる予定の「西条温泉とくら」の近くを通り過ぎ、道の駅さかきたの先の「六エ」の信号から右折し、篠ノ井線の踏切を渡ってすぐをまた右折しり、そのまま道なりに進むと左側に碩水寺の駐車場があります。
そこに着いたのが13時8分で、すぐに本堂にお詣りし、朱印所になっている右側の庫裡に伺いました。すると、ここの本堂に第17番札所「関昌寺」の今見堂観音がまつっているとのことで、中に入れてもらい、本堂の左手にあり、その前で観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「オンロケイジンバラキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
朱印帳をもらい、駐車場に戻ると、ここから坂北地区がよく見えたので、ここで途中のコンビニで買ってきたパンを食べました。そして、岩井堂をナビで確認すると、ここから8.1q、15分だそうで、ここを13時35分に出発しました。
第3番札所「岩井堂」は東筑摩郡筑北村坂井にあり、先ほどの国道403号線まで戻って右折し、麻績川を渡ってそのまま県道55号線を進みます。5.4qほど走ると再び篠ノ井線の踏切を渡り、さらに麻績川を渡ると右側に駐車場があり、「曼荼羅の里 笹命山 岩井堂」と書かれた大きな案内板があります。ここに着いたのが13時52分でした。
曼荼羅といえば、瀬戸内寂聴の句に「菊月の曼陀羅山に虹懸かり」というのがあります。この菊月というのは、ちょうど今ごろ9月のことです。今日は9月13日ですが、五節句の一つの重陽の節句は、9月9日で、別名を菊の節句ともいいます。
この案内板は新しく、しっかりと岩井堂への矢印も書いてあるので、その方向に向かって歩きました。すると、左側に折れると、すぐに右手の山側に岩井堂がありました。

先ずは、その向い側にあるはずの朱印所に行くと、もう一軒さきのところだと教えてもらい、電話をしていたこともあり、宮下さんがすぐに出てきてくれました。
そこで何度も手間を掛けさせてはと思い、書き終わるのを待ってからお堂に向かいました。その書いてもらっている間に、参拝者ノートがあったので私も記入しましたが、驚いたことに7月1日から今日9月13日までの記入者は12人でした。おそらく書かない人もいるでしょうが、これからの三十三観音札所霊場を考えると、少し心配になりました。
そういえば、先にお詣りした第20番札所の長安寺も、ご詠歌にも「岩井堂」とありましたが、ここは寺名そのものも「岩井堂」で、通称「古司の尻つみ観音」というそうで、このお堂はもともとは義経の家臣、佐藤継信がこの地で急死した名馬、磨墨を祀ったのが起源だそうで、その磨墨の歯と小型の馬の木像を寺宝としているそうです。
お堂の前には、坂井村有形文化財として木像馬頭観音立像、堂宇、梵鐘が指定されていることを示す坂井村教育委員会の看板が立ち、いくつかの石像や石仏もありました。そのお堂の前で、観音経偈と馬頭観音のご真言「ヲン・アミリトドバ・ウン・ハッタ・ソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。
そして、その戸のところに宝珠型の窓が開いているので、そこからのぞくと、正面の台に厨子があり、そこに本尊が納められているようです。
それから、外をまわってみると、左側がお祭りなどのときに集まることができるような部屋があり、入口には「禁煙・火気厳禁」と注意書きがあり、柱には分電盤も付けられていました。
石垣の上に建つお堂を、石段の下からもう一度見上げ、それから先ほどの道を歩いて駐車場に戻りました。近くの田んぼには、刈り取った稲を干す杭が立ち並び、いかにも山間の田んぼの風景です。ここの駐車場には四阿があり、公衆トイレもあります。
ここに着いたのは14時16分で、ほぼ予定通りです。
次は第1番札所の「法善寺」です。ナビによると、ここ岩井堂から2.2q、5分ほどです。これぐらいなら、ナビの案内通りにすんなりと行けそうです。
第3番札所 笹命山 岩井堂(無宗派) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 安坂川 波間に結ぶ 岩井堂 うろくずまでも 浮かみこそすれ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.27
第1番札所「法善寺」は、東筑摩郡麻績村上町にあり、先ほどの道を戻ります。篠ノ井線の踏切を渡るとそのまままっすぐに進み、県道55号線から左折します。そして、麻績宿本陣跡の瀬戸屋の先から右折し、山に上って行きますが、200mほどで法善寺の駐車場に着きます。たしかに5分ほどで、時計をみると、14時22分でした。
先ほど、麻績宿本陣跡の瀬戸屋の横を通ってきましたが、ここは戦国時代には麻績服部氏の城下街として栄えたところで、江戸時代に入ると、善光寺街道の宿場街となったそうです。当麻というのは、麻織物を生産していたことからの地名で、そうとう古くからあり、平安時代には御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園とそれをおさめる官衙もおかれていたようです。
そのような縁もあり、この付近に信濃三十三観音の第1番札所から第3番札所まであるのではないかと思いました。
駐車場の手前には、大きな自然石に、「信濃札所第一番 聖観音霊場」と彫られた石碑が立っていて、駐車場のなかにはトイレもありました。
車を駐め、その先に歩いていくと、また大きな自然石に「曹洞宗 法善寺」と彫られた石塔があり、その杉の木の間に石段があり、そこから上って行くと山門があり、正面に本堂がありました。
その右手が庫裡で、そこが朱印所になっています。そこで、ここ第1番札所と次の第2番札所の朱印をお願いし、本堂のなかでお詣りさせてもらいました。

先ずは外陣のところで、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。
それから堂内を見渡すと、五如来の名が記された五色の施餓鬼旗が飾ってありました。この施餓鬼旗の五色は、中国の五行説が起こりで、仏教では如来の精神や智慧を表しています。これにより餓鬼道への恐怖が除かれるといいます。
また、その先の須弥壇の上には聖観世音菩薩が安置され、本尊阿弥陀如来の前立ちだそうで、やはりここは善光寺のお膝元、信濃の国だと思いました。
朱印帳をいただき、外に出て、もう一度本堂の前に立つと、両側に石灯籠があり、その手前に篝火台がありました。もし、ここで夜に焚けば、とても幽玄な感じになるのではないかと思いました。そういえば、山口誓子の句に、「篝火のよき座よき席薪能」というのがあります。
私も誘われて、日光の輪王寺の薪能を観たことがありますが、コロナ禍のときに中止になり、現在はどうなっているのかはわかりませんが、三仏堂前の特設舞台で観世流の能が奉納されていたように思います。このときは、近くの東京大学大学院理学系研究科附属植物園日光分園に泊めてもらいました。
その左側の石灯籠の左手奥に、これも石製の五重塔があり、その手前にオミナエシが咲いていました。このオミナエシは秋の七草として有名ですが、「おみな」というのは「女」のことで、「えし」は古語の「へし(圧)」ですから、意味的には美女を圧倒するような美しさということになります。それが漢字で「女郎花」と書くようになったのは平安時代のなかば頃からと言われていますが、花言葉は「約束を守る」です。
駐車場に戻ったのが14時22分で、次は第2番札所の「宗善寺」です。ここから270mほどだそうですが、すぐ近くまで車で行けるとのことなので、車に乗り込みました。先ほど進んできた道をそのまま走ります。
第1番札所 仏眼山 法善寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 逆縁も 洩らさで救う 西谷の 巡礼塔を 拝む尊さ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.28
第2番札所「宗善寺」は、法善寺と同じ東筑摩郡麻績村上町仏眼山にあり、先ほどの道をそのまま走ります。九十九折りの道を270mほどで、信濃観月苑のところに着きます。
ここの前に、「今宵われをはすて山のふもとまて月待ち侘ふと誰かしるへき」前大僧正覚忠と彫られた句碑があります。ここから姥捨の第14番札所「長楽寺」までは約12qぐらいですから、ここも観月の有名なスポットのようです。
この信濃観月苑には、旬会や月見の宴、さらには神前結婚式などにも利用できる「観月堂」や小間の茶室「清香亭」などもあり、その他に各種の展示会なども開催されているようです。
その句碑の左手側に、「信濃札所 二番 宗善寺観音堂」と書いた道案内板があり、そこから上って行きました。
約70m程歩くと、奥のほうに宗善寺観音堂が見えてきます。その右手前に、白い角柱に「村宝 十一面観音立像収蔵庫」と書かれたものが立っていて、ここはもともと平成14年に十一面観音立像を安置するために建てられたことがわかります。さらにその先にその由来が書いてある案内板がありますが、文字がかすれて読めないところもありました。
しかし、ここが間違いなく信濃札所の宗善寺観音堂であることがわかります。六角形の校倉造りのようなお堂ですが、収蔵庫という性質上、コンクリート造りで頑丈な扉が付いています。それでも、ガラスがはめ込まれていて、お堂のなかがよく見えました。

そこで、その前で、観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「ヲンバザラタラマキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
ここには鰐口が下がっていませんが、まったくの山のなかなので、大きな声を出しました。これは、今年はクマやイノシシなどの人的被害が問題になったこともあり、このようなところでは大きな声で存在を示すことも必要です。
お堂のなかには、厨子におさめられた十一面観音立像が中央に安置され、そのわきにいくつかの羅漢像があり、千羽鶴も下がっていました。さらに大きな念珠も左側にあり、おそらく念珠回しも行われていたのではないかと思いました。
全体に白木造りで、簡素なしつらえですが、厨子が開かれているだけで、より身近に観音さまを感じることができます。これはとても有難いことです。
お詣りが終わって、もう一度お堂を見ると、もともと臼井家で観音像をまつっていたところが六角堂だったようで、外観はそれを模しているそうです。なかなか複雑ですが、もとの宗善寺は、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となってしまい、かつての麻績宿本陣である臼井家の自宅内に明治36(1905)年に復興したそうです。この臼井家には、松尾芭蕉の「身にしみて大根からし秋の風」という句碑があったそうですが、それも現在は道の向かいに立っているそうです。
この句は、「更科紀行」の中にあり、姥捨の名月を愛でようと旅したときのものです。だから、ここに建立されたのもうなづけます。山本健吉氏の解説によると、身にしむものは大根の辛さであるとともに、秋の風であり、木曽の旅情でもあり、さらには人生感懐にも通じるそうです。まさにここの観音さまも、明治からここに落ち着くまで、いろいろあったのではないかと思いました。
そういえば、先ほど、麻績宿本陣跡の瀬戸屋の横を通ってきましたが、そこに大きな石碑や道祖神などもありました。しかし、車を駐められるようなところはなく、そのまま上ってきてしまいました。
信濃観月苑の駐車場に戻ったのは14時55分です。次は第15番札所の「岩殿寺」です。ここから県道55号線を経由して7.4q、14分です。今夜の宿泊は「西条温泉とくら」で、村の宿泊所なので、チェックインは午後16時からになっています。だから、ゆっくりと走っても時間はだいぶあります。
第2番札所 楊柳山 宗善寺(曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
ご詠歌 おしなめて 知るも知らぬも 宗善寺 寺へ参るは 後の世のため
☆信濃三十三観音札所巡り Part.29
第15番札所「岩殿寺」は、東筑摩郡筑北村坂北楊柳山にあり、先ずは麻績宿本陣跡瀬戸屋のところまで戻り、そして県道55号線に右折して入り、麻績川を渡ります。
そして、100mほど先の上手方のバス停のところに、「岩殿寺」の案内板があり、ここから左折すると1.2qという表示がありました。そして別所川沿いの左側に駐車場があります。
ここに着いたのが15時10分で、先ずは山門の前に立つます。この山門は茅葺き屋根で、案内には「神願門」とありました。屋根に手が届くぐらい低いのですが、何度かの大火でも焼失を免れたそうで、柱の下には「禁煙」の真っ赤な看板が立てかけてありました。
その左手前の掲示板には、「やれなかったことを恥じることはない やらなかったことを恥じよ」という文に和尚さんと木魚を抱いた小僧さんのイラストが入っていました。これは、どこかでも見たことがあり、市販品かもしれませんが、いろいろなことを気づかせてくれます。
神願門をくぐり、門柱の間を過ぎると、石段の左手前に屋根のかかったなかに、馬頭観音石像がありました。これは安政2(1855)年の年号が入っていて、馬に乗った三面六臂の姿をしています。その石段の右手前には自然石に大黒天が線彫りされた姿の石像がありました。
その石段を上ると、正面が本堂です。右側が庫裡のようで、先ずはそこで朱印をもらおうとしましたが、留守のようです。でも、そこに朱印箱があり、朱印料をおさめて、1枚をいただきました。
それから、本堂の前に行きました。

本堂の両側には、木製の馬が奉納されていて、本堂には鰐口が下がっていたので、そこで賽銭を上げ、鳴らしました。それから観音経偈と馬頭観音のご真言「ヲン・アミリトドバ・ウン・ハッタ・ソワカ」と7返唱え、お詣りをしました。
ここ信濃三十三観音霊場には、馬頭観音を本尊としているお寺が4ヶ寺あり、他の霊場よりは多いように思います。それだけ馬を大切に扱ってきた土地柄なのか、馬が生活に欠かせなかったのかだと思います。
馬といえば、小林一茶の「雀すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」という句が教科書にも取りあげられるほど有名ですが、雀の子を自らに置き換えて、参勤交代などの馬に乗った権力者に対して、まったく力のない自分をユーモラスに詠んだようです。この句は、句集「おらが春」に載っていますが、この句集は、このなかの「目出度さもちう位也おらが春」という句から名づけられたといわれています。
それにしても一茶の句は親しみやすく、たとえば、「我と来て遊べや親のない雀」や「名月を取ってくれろとなく子哉」、「ともかくもあなた任せのとしのくれ」などいくつもすぐに思い出すことができます。
しかし、本堂内はくもり硝子が入っていてまったく見えませんが、このお堂は昭和57(1982)年の大火で焼失してしまい、それから再建されたそうです。
また、本堂の左側に白い建物があり、宝物殿だそうですが、住職がいないことには入れそうもないので、駐車場に戻りました。
時計をみると15時25分です。次は第17番札所の「関昌寺」です。ここから先ほどの県道55号線を経由して行くこともできますが、時間があるので別所川沿いの善光寺街道を進むことにしました。ナビによると、5.4q、13分だそうです。ちなみに先ほど通ってきた坂北の町を通るルートだと、5.8qですが10分で着くそうです。
第15番札所 富蔵山 三宝院 岩殿寺(天台宗)本尊さま 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 罪科も 露と消えなむ 岩殿の 松吹く風も 御法なるらん
☆信濃三十三観音札所巡り Part.30
第17番札所「関昌寺」は、東筑摩郡筑北村東条にあり、岩殿寺の駐車場から左折し、善光寺街道を進みます。
別所川がときどき見えますが、だんだんと山のなかに入って行き、九十九折りのところもありました。途中で小仁熊ダムの近くを通り、長野自動車道の下をくぐり、3.5qほど進むと、国道403号線に突き当たります。そこから右折し、200mほど進み、セブン・イレブン坂北聖南店のところを左折します。
橋を渡り、すぐに右折し、そのまま1qほど進むと関昌寺です。右側にお墓があり、そのわきに本堂があり、その先に田屋公民館があります。ここに車を駐めました。
道路の脇には「信濃観音霊場 第十七番 札所 福寿山 関昌寺」という立て札があり、そのわきに「松風の小径」の案内板があり、そこには関昌寺だけでなく、東条城址や白山神社、花顔寺などの案内もあり、時間があればこの花顔寺にもお詣りしたいと思いました。
というのも、花顔寺には西国・坂東・秩父の百観音の線彫りの霊場碑があり、本堂には龍の天井画もあるそうです。しかし、時計をみると15時38分ですが、10分ほど前から雨が降り始めたので、ほんの少し車のなかで待ちました。
しかし、晴れる気配がないので、カサを差して外に出て、お堂の前のところまで行きました。でも、お堂といっても、どこが入口なのかもわからないので、ここからお堂の方を向いてお詣りすることにしました。

いつものように、先ずは観音経偈と十一面観世音菩薩のご真言「オンロケイジンバラキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
ここまで、まったく雨の心配もなくお詣りを続けてきたのですが、ここだけは例外だったようです。しかも、カサを差しての読誦なので、その声もあまりとおらなかったようです。
そういえば、与謝蕪村の句に「秋雨や 水底の草を 踏わたる」というのがありますが、雨が降っているけれども、川の底が見えるぐらいの浅瀬の水草を踏んで渡ろう、というような意味です。でも、水草が足にあたるときの感触を楽しんでいるかのようで、雨そのものもまったく気にはしていません。
そういえば、ここの駐車場からお堂へ向かう途中には草むらがあり、靴が濡れてしまいましたが、この句を思い出してからは気にもならなくなりました。ただ、正岡子規の「秋の雨 荷物ぬらすな 風引くな」という句もあるので、気をつけたにこしたことはありません。
そのような句を思い出しながら、車に戻りました。ここの朱印は、先に「碩水寺」でいただいているので、今夜泊まる予定の「西条温泉とくら」へ行くだけです。
先ずは、北に進んで300mほどで善光寺街道で左折し、橋を渡り、国道403号線を横切り、筑北村本城体育館のわきを通って、すぐのところに「とくら」はありました。まだ雨が降っていたので、玄関先のところに車を駐めて、先に荷物をおろし、駐車場に車を駐めました。ちょうど16時でした。
ここのチェックインは16時からなので、すぐにフロントで受付をして、部屋に入りました。ここは公共の宿のイメージだったのですが、日帰り温泉入浴施設でもあり、けっこう地元の人たちの入浴も多く、遅い時間だと宿泊客だけと聞き、寝る前に風呂に入ることにしました。
部屋では、途中の一誠堂で買ってきた上生の「ほおずき」で、お抹茶を点て、いただきました。夕食も、食べきれないほどたくさん出て、ゆっくりと食べることができました。
明日のこともあり、今夜は早めに寝ることにしました。
第15番札所 福寿山 関昌寺(曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩薩
ご詠歌 昔より 大悲の御影 今見堂 後世こそ大事 助け給へや
☆信濃三十三観音札所巡り Part.31
今日は9月14日、木曜日です。今日は5ヶ寺をまわる予定なので、「西条温泉とくら」を8時20分に出ました。昨夕の雨も上がり、空は青空です。
先ずは、道順から第31番札所「広福寺」の朱印を「明松寺」でもらうことにしました。この明松寺は上水内郡小川村稲高府にあり、先ずは昨日なんどか通った国道403号線から県道55号線に進み、岩殿寺の近くを通り、犀川を渡って国道19号線に突き当たって右折します。
その途中で、犀川がとてもきれいなので、御曹司橋の上から写真を撮り、再び走りました。ときには運転を休むことも大切です。
奈津女橋信号から県道36号線に入り、小川村役場の手前から右折し、九十九折りの道を進むと、右に入る道がありました。そこが明松寺で、その駐車場に9時30分に着きました。すると、馬に乗った方が山門の前を通ったので、声をかけて写真を撮り、そして庫裡に行き朱印をいただきました。
ここを出たのは9時45分で、次は第33番札所「高山寺」で、上水内郡小川村稲丘にあり、先ほどの道をそのまま進むと、道端にツリフネソウやキバナツリフネソウの群落があり、今日は早めに出てきたし、5ヶ寺だけなので、ここも写真を撮りました。
そして、県道36号線に入り、道なりに進むと左側に高山寺がありました。ここまで3.7qで、着いたのが9時58分でした。お寺の左側に駐車場があり、そこに車を駐め、歩いて西門から入り、まっすぐ進むと庫裡で、右側が本堂です。
先ずは庫裡で朱印をお願いし、それから本堂をお詣りし、そしてその右で奥にある観音堂に向かいました。石段の右手前には六地蔵が並び、その石段の上に観音堂がありました。回廊のところに鰐口が下がっていたので、それを鳴らし、それから外陣へと進みました。
外陣は広く、その正面上に大きな信濃三十三観音をすべて描いた奉納額が掲げられ、そこから細い五色の紐がなかの本尊までつながっていました。

そこで、観音経偈とここの本尊である聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」を7返唱え、お詣りをしました。
それから内陣をみると、護摩壇の奥に須弥壇があり、そこに宮殿型の厨子があり、閉まっていました。年に1度、8月10日に開帳されるそうで、その柱や壁面いっぱいに観音像が並び、虫倉山の木食行者の木食山居の作だそうです。案内には千体観音とあり、たしかにそれぐらいはありそうです。また両側の壇には、西国、坂東、秩父の三十三観音霊場の百観音像が並んでいて、まさに観音像一色です。
観音堂を出て、上ってきた石段の先を眺めると、右手に本堂があり、左手奥に三重塔があります。この三重塔は、建久3(1195)年に源頼朝が建立しもので、平成元(1989)年に大改修したそうです。塔内は見ることができませんでしたが、胎蔵界大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来が安置されているようです。
その石段を下り、庫裡で朱印帳をもらい、鐘楼山門のところの石段を下ってみました。さらにその先に仁王門があり、右側に「真言宗高山寺」、左側に「信濃観音三十三番札所」と彫られた門柱が立っていて、やはり、ここから入るのがふさわしいと思いました。その石段の下からもう1度上がり、仁王門をくぐると、左側に石灯籠、さらにその先には立派な松があり、右手はツツジの刈り込みのようです。
そして鐘楼山門をくぐると、正面に観音堂が見えてきて、その右手前に聖観音石像が立っていました。その左側に「札所巡拝満願供養観世音菩薩」と黒御影石に彫られた石碑が立っていて、平成11年10月に「老友趣味の会」が建立したものです。この碑にあるように、「我等この世に生をうけて幾年月 信濃三十三番 秩父三十四番 坂東三十三番 西国三十三番 四国八十八番札所を巡拝結願し 今静かに己をふりかえるとき心の安らぎを覚える……」とあり、たしかに私も純玲することにより大きな安らぎと喜びを感じます。
そういえば、芭蕉の最晩年の句に、「この道やゆく人なしに秋の暮れ」というのがありますが、亡くなる1ヶ月ほど前の句ですから、事実上の辞世の句でもあります。おそらく、この道というのは、自分が生涯をかけて追求してきた俳諧の道のように思いますが、観音巡礼も数を重ねると自ずと道になるような気がします。
ここが信濃三十三観音の第三十三観音札所だと思うからいろいろなことが思い出されるのかもしれません。そして先ほど入ってきた西門をくぐり、駐車場へと戻りました。10時20分でした。
次は第32番札所「西照寺」です。ナビで確認すると、ここ高山寺から1.9q、4分です。今日は順調にお詣りできそうです。
第33番札所 宝珠山 高山寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 高くとも 安く登れよ 寺坂を 九品浄土へ 参る身なれば
☆信濃三十三観音札所巡り Part.32
第32番札所「西照寺」は、高山寺と同じ上水内郡小川村にあり、字名は椿峰です。地名から察すると椿が多いのかもしれませんが、先ずは県道36号線(小川アルプスライン)を走り、中山間地域総合整備事業活性化施設アルペンドームの先の丁字路から右折すると300mほど先の右側にあります。そのすぐ近くの道路が広くなったところが駐車場です。
途中で北アルプス絶景を眺望できるアルプス展望デッキで写真を撮ったりしましたが、10時32分にはここに着きました。ここの朱印は、先ほどまわった高山寺でもらっているので、ここではゆっくりお詣りするだけです。
駐車場から観音堂の手前の石段のところまで歩いていくと、石段の左上に「奉巡拝 信濃三十三番 供養塔」と彫られた石碑が立ち、その左には「二十三夜塔」、さらにお宮型の石仏がありました。
そして石段を上ると西照寺観音堂があり、右わきに、「有形文化財 西照寺観音堂」と書いた小川村教育委員会の指標がありました。お堂に上がると、「信濃三十二番 大悲殿」の扁額が掲げられ、鈴が下がっていました。おそらくこここも、修験道とのつながりが強く、江戸時代には「戸隠街道」として信仰の道として、物資輸送にも役立っていたのではないかと思いました。
その板戸に手を掛けると、するすると開きました。これはとても有難く、そこに入ると、外陣のところに賽銭箱があり、内陣とは格子戸によって区切られ、その上には龍の彫刻がありました。

そこで、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」を7返唱え、お詣りをしました。こうしてお堂に入ってお詣りすると、とても落ち着きます。おそらく、村人が朝晩の戸の開け閉めをしているのかもしれませんが、このお堂を護っている方々の心が伝わってくるようです。
格子戸から見ると、厨子のまわりにはいくつかの仏像が安置され、外陣には千羽鶴も下がっていました。
お堂から出るときに、板戸をしっかりと閉め、確認しました。その右わきには、木製のベンチがあり、戸の開け閉めのときに利用するようです。私もそこに座ってみると、田んぼや畑の向こうに、北アルプスの山々が見えます。まさに、ここは別天地です。
このお堂の右側には池もあり、噴水から水が出ていました。そして水草も植えてあり、カエルもいました。
そういえば、小林一茶の句に、「悠然として山を見る蛙かな」というのがありますが、まさにそのような風情です。カエルも、ここから北アルプスの山々を悠然と見ているのかもしれません。なんか、どっしりと落ち着いて、もしかすると、ここで毎日観音さまにお詣りしているからか悟りきったようにも感じられました。
そういえば、北アルプスの山々にも雲が少しかかっていますが、松尾芭蕉の「奥の細道」に「雲の峰いくつ崩れて月の山」という句がありますが、入道雲がいくつもいくつも湧き上がって崩れていくのに、月山がすっと不動の姿で立っているようすが見えます。おそらく、ここも月山と同じように、冬は雪で覆われてしまうのでしょうが、今のこの時期は清々しくもあります。
車に戻ったのは10時50分です。次は第31番札所「広福寺」です。ナビで確認すると、ここ西照寺から5.8q、13分だそうです。
第32番札所 椿峯山 西照寺(真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 高くとも 安く登れよ 寺坂を 九品浄土へ 参る身なれば
☆信濃三十三観音札所巡り Part.33
第30番札所正法寺は、上水内郡中条村日下野にあり、ここまで来た県道36号線まで戻り、アルペンドームのところから左折します。
ところが、左折したところに「車両通行止め」の看板があり、土砂崩れで道路が崩れたそうです。そこに迂回路が書いてあり、その案内の通りに小川村役場のところまで下がって、県道31号線で左折し進みます。道の駅「中条」の辺りから山には入っていきましたが、そこも途中で重機などがあり、この道も土砂崩れで通行できません。
そこで、先に第30番札所「正法寺」に行き、広福寺への道を尋ねようと思いました。再び、県道31号線を進み、日高トンネルの手前から左折し、県道475号線を進みました。最初から正法寺に向かうとすれば、21.4qですから、36分程度で着きます。ところがあちこち通行止めで遠回りし、さらに県道401号線に入るところで道を間違えたようで、「やきもち家」の近くまで行き、そこからまた下ってきたので、正法寺に着いたのは11時48分でした。つまり、ここまで1時間ほどかかったことになります。
ところが、仁王門のわきの駐車場に車を駐め、庫裡に行くと誰もいないようです。そこで、本堂に行くと、扉のところに「2014年(平成26年)11月の神城断層地震により本堂が被災し、立ち入り禁止となっています。危険ですので参拝の方は十分気をつけてくだい。」という張り紙があり、「朱印所(納経所)は左階段下です」ともありました。
そこでちょっとだけお詣りし、それから本堂の右わきにある観音堂に行きました。扁額には「大悲殿」と書かれてあり、しっかり鍵もかかっていました。

この観音堂の前で、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」を7返唱え、お詣りをしました。
そのときも、なんとなく隣の本堂が倒れてくるのではないかと思ったり、そのうちに住職が帰ってくるのではないかと思ったりしました。お詣りが終わって、観音堂の前に立つと、右下に「火気厳禁」と書かれていて、そういえばこの寺はなんども火災に遭ったそうで、その後無住のこともあり、大変だったようです。
お堂の右には、中条村教育委員会の名で「県宝 木造聖観世音菩薩立像、木造四天王立像、宮殿」と書いた指標が立っていて、寺歴の古いことを思い出させてくれます。
それから、本堂前の参道を歩いていると、オミナエシが咲いていましたが、案内書によるとボタンも咲くそうです。花の寺は多いのですが、訪れる方が少ないと、少しずつ荒れてくるのは仕方のないことのようです。そういえば、与謝蕪村の句に「里人はさとも思はじ女郎花」というのがありますが、たしかにそうかもしれないと思いました。
それでも、諦めきれずにもう1度庫裡に伺ったのですが、やはり留守のときの「朱印」も置かれてなく、山門のところからもう1度お詣りして帰ろうとしたら、その近くの道のわきに、「長野市会議員の立候補者のポスターが貼られた立て看板がありました。
なんと、その中に住職の小泉栄正師のポスターがあり、立候補しているのではないかと思いました。名前がひらがなになっていましたが、ポスターですからほとんどの候補者がひらがなを多用しているようです。帰ってから、ネットで調べてみると、長野市会議員に11位で当選したようです。
誰もいないのでは、広福寺への道を聞くこともできず、人の通りもまったくありません。まさに、どこで選挙戦がおこなわれているのかさえわからないし、途中で選挙カーに合うこともありませんでした。ちなみに、今回の投票率は37.32%とニュースには出ていました。
そこで、先ずは、ナビにもう1度、第31番札所「広福寺」と入れ、12時5分に出発しました。ここから広福寺までは、9.5q、23分ということです。
第30番札所 歓喜山 正法寺(真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 正法寺 月は三ヶ野の 峰に出で 下る片岡 寺の灯
☆信濃三十三観音札所巡り Part.34
第31番札所「広福寺」は、上水内郡中条村御山里にあり、正法寺から先ほど通ってきた県道401号線を戻りそのまま進みましたが、右手前に曲がるところがわからず、そのまま進むと県道452号線になつてしまいました。そこで、途中から戻ると、先ほどは急カーブでわからなかったところから入るらしく、その間に「廣福寺」はまっすぐの矢印がありました。
そこからは、県道401号線を道なりに進み、5.7qほど山道を走りました。すると、道の左側に「信濃三十一番札所 慈眼山 広福寺」と書いた案内板がありました。しかし、それも第32番札所「西照寺」から来る方が多いこともあり、そちらの方向から見えるようになっていたこともあり、通り過ぎるところでした。
そこから右折し山道を進むと、「広福寺 公衆トイレ」があり、ここが駐車場のようです。その看板を見ると「ここから300m」とあり、その先にも家があるところを見るともっと車で行けそうです。途中、通行止めもあったので、車とも合わないので、そのまま車で進むと、観音堂の近くまで行くことができました。ここに着いたのは12時30分です。
お堂の右手前には、「信濃国水内郡伊折村 慈眼山 広福寺 信濃卅一番霊場 老梅書」と白御影石に彫られたりっぱな門碑が立ててあり。間違いなくここでした。左手には「伊折学校発祥の地」と彫られた石碑もあり、その先には古い石仏が並んでいました。
その間を進むと、観音堂があります。

観音堂には「慈眼山」と彫られた扁額が掲げられ、格子戸がありましたが、鍵はかかってなく、自分で開くことができました。そこから入ると、鰐口が下がっていたので鳴らし、賽銭を入れるところがあったので入れ、観音経偈と聖観世音菩薩のご真言「ヲンアロリキャソワカ」を7返唱え、お詣りをしました。
段の正面にはご本尊の聖観世音菩薩立像が安置され、その両側には護るかのように脇侍が立ち、手前には焼香台がありました。おそらく、座布団や暖房機もあるところをみると、定期的に掃除をしているようで、座るところはブルーのカーペットが敷かれていました。以前は、「伊折学校発祥の地」と彫られた石碑があったように、このお堂が寺子屋として使われていたそうで、子どもたちも虫食山を眺めていたのではないかと思いました。そういえば、虫食神社は子供たちの守り神として古くから信仰されていたようで、小林一茶の句に「雪とけて村いっぱいの子どもかな」というのがありますが、昔はこの村にもたくさんの子どもたちがいて、春になり雪がとけ出すとこのお堂から出て、外で大はしゃぎしながら遊んでいる姿が浮かぶようです。
しかし、今は過疎化で、家も人も少なくなり、ましてや遊ぶ子どもたちもいなくなり、ひっそりと静まりかえっています。さらに、自然災害でここまでの道も壊れ、ほとんど車も通らなくなった地域は、むしろ悲壮感さら漂ってきます。お堂から外に出てみると、外壁は木枠に囲われた白壁で清々しく、昭和52(1977)年に再建されたそうです。その右奥には、たくさんの石仏がきれいに並んでいました。
お堂の戸を閉め、おそらく、付近には昼食を食べるところがないかもしれないと思い、今朝、西条温泉とくらを出発したときに近くのコンビニでパンを買ってきたのは正解でした。むしろ、この静かなところでゆっくり食べることができ幸せでした。しかも、今日は通行止めに何度か合い、それでもここまで来ることができました。
ここの朱印は、一番最初にお詣りした「明松寺」でいただいているし、残るは第8番札所「西明寺」だけです。ここは、昨年の2022年に信濃三十三観音をまわったときに、山道に迷い込み、とうとうお詣りできなかったところです。今回は、車を替えたのでナビも新しくなり、迷うことなく行けそうです。
ここを出発したのは12時55分です。次の西明寺までは、21.1q、42分だそうです。
第31番札所 慈眼山 広福寺(曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
ご詠歌 広福寺 誓を頼む 八重桜 峰の嵐も 吹きや散らさじ
☆信濃三十三観音札所巡り Part.35
第8番札所「西明寺」は、長野市塩生甲にあり、先ずは先ほどの県道401号線を県道452号線のところまで戻り、日高トンネルへと左折します。ここからは県道31号線です。国道19号線で左折し小松原トンネル西の信号からまた左折し、両郡橋を渡り、ナビ通にまた左折します。
ところが、またナビが間違えたようで、昨年と同じ道を走ってしまいました。そこで、もと来た両郡橋まで戻り、その手前から右折すると、300mほどで「災害復旧工事の為全面通行禁止」という看板があり、そこから右手の山道を進み、つづら折りを進むと、やっと塩生の里に着きました。駐車場がないということなので、道路の広いところに車を駐め、先に電話連絡をしていた朱印所の塩入さん宅に向かいました。ここに着いたのが13時50分です。ここにも長野市議会議員の選挙ポスターがあり、正法寺住職のも掲示していました。
やはり、何度か道路の災害復旧工事で全面通行止めが続き、予定よりは少し時間がかかったようです。それでも、すぐ出てきてくれ、朱印帳を預けて、観音堂に向かいました。
参道入口には、「信濃三十三観音第八番霊場 千手観世音 西明寺」と大きく書かれた看板が立ち、そのわきに「参拝御案内図」の地図があり、とてもわかりやすかったです。そこから入ると、だんだんと道は狭くなのですが、それでも案内図通りに進むと、山の右手に観音堂が見えてきて、石垣の上に建つお堂には青縁の額に「西明寺」書いたものが掲げられていました。
その下の参道わきの玉石組みの上には、いくつかの石仏がまつられ、一体だけ小さな屋根がかけられ、他にも珍しい一体に六地蔵が彫られているのもありました。そして、その先を左に曲がると、平成12年6月に建立された千手観音石像と石塔が建っていて、観音堂がありました。
お堂は、右側から入るようになっていて、石段の上には小さな獅子が毛糸の帽子と赤い前垂れをしていて、いかにも悪いものは入れないぞという風情です。そして回廊があり、外陣になっていました。

外陣と内陣は格子ガラスの入った板戸になっていて、鈴が下がっていたので鳴らし、賽銭を入れ、観音経偈と千手観音のご真言「ヲンバザラタラマキリク」と7返唱え、お詣りをしました。
中の仏壇は3つに区切られ、中央には本尊の千手観世音菩薩、そしてその両側にも仏像がまつられ、とてもすっきりとした造りです。天井には奉納された小さな提灯が下がり、畳の上には香炉台のようなものもありました。
それから外陣の上を見ると、平成16年秋彼岸に掲げられた西明寺の縁起が長板に書かれて、その右側には、これも長板の上に「学問と知恵の文殊菩薩さま」というお話しが書かれていて、誰にもわかりやすいような文章でした。そういえば、本尊の右下の小さな仏像が文殊菩薩でした。まさに、地区の人たちの願いをなんでも引き受けてくれるお堂です。
このお堂は昭和初期の火災で全焼したそうで、現在の世話人である塩入家を中心に昭和18(1943)年に再建されたそうです。今も昔もそうですが、社寺を護っていくというのは大変なことで、誰かが中心になって推し進めていかないと難しいようです。しかも、現在も朱印所としてその役目を負っていることを考えると、とても有難いと思います。
回廊に出て、小田切の里を眺めると、先ほど通ってきた道も見えます。すぐ近くには竹林もあり、底を吹き抜けてくる風もさわやかです。そういえば、小林一茶の句に「うつくしや若竹の子のついついと」というのがあります。これは、春になると若い竹の子があちこちに生えてきて、ついついと伸びてくる、その生命力の強さと美しさを詠んでいるようです。
あまり朱印をお願いして待たせては恐縮なので、お堂を何度も振り返りながら、下りました。すると道端にナツヅイセンが咲いていました。この花は、ヒガンバナの仲間で、花が夏に咲き、葉がスイセンに似ていることから名づけられました。これは毒草ですが、昔から民間薬として、この球根を摺りおろし小麦粉を少し加えて軟膏状に練って、関節炎、腰痛などの患部に貼付したそうです。
朱印帳をいただいたのが、14時17分でした。後は今夜泊まる予定の「長野ホテル犀北館」まで行くだけです。ここまで少し急いだのですが、ここからはゆっくりと向かうことにしました。ナビで確認すると、9.4q、21分だそうで、途中で見つけた「菓心 美和本店」で麩饅頭などを買い、15時少し前にチェックインしました。
このホテルはちょっと格式がありますが、私の泊まったところは南館で、とてもエコノミーなシングルでした。でも、駐車場はホテルの手前にあり、とてもゆったりして雰囲気がありました。
今回の信濃三十三観音の旅は、ここまでですが、何があるかわからないということで、明日1日、予備日をとっているので、ここまで来たからには、戸隠神社にお参りしたいと考え、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社すべてを参拝しようと思いました。そして、次はどこの三十三観音札所巡りをしようかなどと考えながら、この夜は更けていきました。
第8番札所 時頼山 西明寺(浄土宗)本尊さま 千手観世音菩薩
ご詠歌 水上を さし出で見れば 西明寺 岸打つ波に 船ぞ浮かめる
☆信濃三十三観音札所巡り Part.36
信濃三十三観音札所巡りである以上、前回のPart.35で終了したわけですが、今回の旅が遠く離れていることや1人旅で不案内ということもあり、予備日を取っていました。そこで、自宅へ帰る途中の2023年9月15日に戸隠神社にもお参りしたいと考え、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社すべてを参拝しました。そして、それもこの記録のなかにおさめることにしました。
泊まった「長野ホテル犀北館」を出発したのは9時40分で、ゆっくりでした。先ずは道順から宝光社へ向かい、10時15分には着きました。ちょうど鳥居の右側にある駐車場に空きがあり、そこに車を駐め、いったん道路まで下りてから石段を上り、鳥居をくぐると参道先の長い石段が見えます。途中にいくつか休場がありますが、270余段あるそうで、大杉が石段のわきに聳え立ち、羽黒山の参道を思い出しました。
そこを上ると、正面に戸隠神社宝光社の社殿があります。ここのご祭神は「天表春命(あめのうわはるのみこと)で、子どもや女性の守り神だそうです。ここで朱印をもらい、下りはお社の左側から女坂を下りましたが、そこを通ると中ほどの休場に着き、そこから先ほど上ってきた石段を下ります。車に戻ったのは10時30分で、次は火之御子社に行きましたが、あいにく車が駐められず、先に中社に行きましたが、ここの駐車場は広く、駐めることができました。
ここのご祭神は「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」で、天照大神が天岩戸に隠れたときに、岩戸神楽を創案し、岩戸を開くきっかけをつられた神さまです。その縁もあり、開運厄除や商売繁盛などの祈願が多いそうです。境内には杉の巨木が多く、樹齢800年を超える三本杉もあります。そして、ここに戸隠神社の社務所が置かれていて、火之御子社の朱印もここでもらいます。
それからもう一度火之御子社に戻ると、今度は駐めることができお参りしました。ここのご祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)などで、縁結びや芸能、火伏せなどの願いが多いようです。
そして、ここを11時5分に出発し、奥社入口の駐車場に着いたのが11時15分でした。ここでクツ紐を締め直し、トイレに行き、すぐに出発しました。

ここから奥社までは約2qの参道を歩きますが、「戸隠神社奥宮入口」と書かれたところから見ると、参道の両側に石灯籠があり、その先に「さかさ川」の石橋があり、大鳥居もあります。そこまで一気に行くと、そこから先はまさに神域の雰囲気です。
参道の両側に側溝があり、そこにシラヒゲソウがたくさん生えていて、しばらくその眺めを楽しみながら歩きました。側溝が細くなり、シラヒゲソウも少なくなったころ、ちょうど歩いて中ほどのところに萱葺きの赤い随神門(左上の写真)があり、もともとは仁王門として仁王像がまつられていたそうです。それが明治の神仏分離にともない、現在は善光寺のとなりの寛慶寺に仁王像が移されています。
この随神門は戸隠神社の中で最も古い建造物で、1710(宝永7)年に建立された三間一戸の入母屋造りです。古くは、この辺りに多くの寺院があり、宿坊を兼ねていたようで、その跡もありました。
ここから先は天然記念物にも指定されている樹齢約400年を超える杉並木が続き、まさに圧巻の静寂さに包まれます。もちろん、奥社へお参りするのが目的ですが、この杉並木を歩いて見たいと以前から望んでいました。そして、今まさに、ここを歩いています。なかにはご幣が下がった杉もあり、いろいろな由緒があるようですが、詳しくはわかりません。
その間を歩いて行くと、両側の杉並木も少なくなると参道も石段の上りになり、シシウドやサラシナショウマなどが目に付き、さらに歩くと急な石段が見えてきます。右側の石段を上ると手水場で、その左側の石段を上り、さらに右手に行くと鳥居があり、そこをくぐると奥社です。
奥社の後ろはすぐに戸隠山になっていて、そこに続くかのようにお社があります。黒塗りの扁額に「戸隠神社」と金文字で書かれていて、左手前にはその由緒の書かれた立て札があり、ご祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。
その左手側に九頭龍社があり、これで五社すべてお参りしたことになります。そこから石段を下り、社務所に行き、ここの2ヵ所の朱印をいただくと、五社のすべての朱印をお受けということで、『五社参拝記念しおり』をもらいました。奥社に着いたのはちょうど11時55分で、ここから下山したのが12時20分です。
上ってくるときには曇り空でしたが、下るときには太陽が顔を出し、杉並木も来るときとは雰囲気が変わり、斜光の筋も見えました。写真を見ても、杉の巨木から射す光が後光のようにも見え、厳かでした。これで、今回の信濃三十三観音札所の旅も思い残すことは何もありません。何度も何度も杉並木を振り返りながら、今日までの旅路を思い出しました。
そういえば、今回の「信濃三十三観音札所巡り」では、そのとき時の俳句を書いているので、このときも松尾芭蕉の「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」という句を思い出しました。これは1694(元禄7)年秋に詠まれた句で、蕎麦でもてなしたときのようです。私もソバの花が好きで、ソバ畑の写真を毎年撮っているのでわかります。
でも、今回の信濃三十三観音札所の旅では、お昼時間があまりとれず、せっかく信濃に来たのにソバを食べたのは昨夜ホテルで食べた夕食の一品だけです。次のお詣りからでも、もう少しゆっくりと食べることも楽しみたいという願いを込めて、この俳句にしました。
戸隠神社奥社入口の駐車場を出発したのは13時20分でした。ここから上信越自動車と北陸自動車道を通り、長岡インターでおり、一般道を帰ることにしました。ここから313q、4時間50分です。