☆奥州三十三観音札所巡り Part.01

 だいぶ前から、奥州三十三観音霊場をお詣りしたいと思っていましたが、調べてみると、福島県と宮城県、さらには岩手県と3県に渡っての霊場です。しかも、岩手県は、北部の二戸の辺りに第31番札所から第33番札所まであり、さらに特別霊場も3ヶ寺あります。
 単純に考えると、1週間程度はかかりそうです。そこで、たまたま4日間ほど行けそうなので、福島県内の特別霊場の医王寺と3ヶ寺、そして一番遠い岩手県北部の3ヶ寺を後の楽しみにとっておき、残りの27ヶ寺と特別霊場の2ヶ寺をお詣りすることにしました。そうすると、なんとか4日間でまわれそうです。
 そもそも、この奥州三十三観音は1123(保安4)年に名取の旭という老女が開創したと伝えられていますが、時代により衰退したそうですが、その後再編成されたりして現在に至るといいますから、長い歴史があります。
 出発したのは2019年4月13日で、午前中は予定があり、自宅を出たのは午後12時30分でした。米沢市内を抜け、高畠から国道113号を進み、角田市の手前を右折してしばらく走ります。県道105号線で右折し、「斗蔵山野鳥の森」と書かれた案内板を右折すると山道に入ります。そこを少し走ると広い駐車場があります。ここに着いたのが午後2時40分です。ちょうどサクラが満開で、2時間ほど運転してきたので、少し眺めながら参拝道を見つけました。そこには「霊験の道」とあり、最初の上りはコンクリートの階段で、その後は普通の山道です。
 それを上っていくと、近道という案内板を見つけ、そこから進みました。本当にこの道でいいのかと思うほど狭い山道で、ちょっと心配になりましたが、お堂が見えてきたのでホッとしました。

 ご住職がおられたので、先にご朱印をお願いし、観音堂にお詣りしました。朱塗りのお堂で、その前には屋根がかかっていて、その下に立派な賽銭箱と燭台がありましたが、今回は山寺が多いと聞いていたので、お灯明を点けないでお賽銭を上げて観音経などを読誦するだけにしました。
 お詣りが終わって、その左手を見ると、これも朱塗りの鳥居で、新しい注連縄がかかっていて、その奥に白山神社があったので、そこもお参りしました。
 そして、ご朱印所に行くと、書いていただいたご朱印帳をいただき、「山形から来たので、ここから奥州三十三観音霊場巡りを始めます」と話すと、そのほうが道順からするといいかもしれないと話してくれました。
 聞くと、現在の観音堂は、1663年に再建され、その後も火災などに遭うがお堂の被害はなかったそうです。内陣のご本尊の懸仏は宮城県の文化財にも指定され、その前に木彫りの千手観音菩薩が御前立ちされているとのことでした。
 また、観音堂の裏手には、18体の観音像が並んでいて、信者さんからのご寄進だそうです。
 帰り道、同じところを下ってきましたが、上るときの不安さがないだけ、なんとなく早く駐車場に着いたように感じました。着いたのが午後2時40分で、駐車場を出たのが午後3時5分でした。
 そういえば、角田市出身の物理学者の大槻義彦さんは、あるテレビ番組で「宇宙人がいるなんてのは、当たり前の話です」と言ったそうです。だからなのかどうかはわからないのですが、角田市に独立行政法人宇宙航空研究開発機構の研究施設である「角田宇宙センター」があります。ここでは、宇宙推進系の研究開発をしているそうです。
 次は名取市の第1番札所紹楽寺ですが、ナビで確認すると37.1qほどで、54分と出ていました。

 第4番札所 安狐山 斗蔵寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 あらざらむ つみをとくらの 松風は やよいのきりも はるるやまみち



☆奥州三十三観音札所巡り Part.02

 第1番札所紹楽寺は、名取市高舘吉田にあり、観音堂は高舘山の山頂近くにあります。第4番札所の斗蔵寺からは、いったん国道4号線に出て、そこから県道39号線を進み、高舘吉田の信号を左折し、そのまま道なりに進むと紹楽寺です。その途中の川沿いの民家のわきに、大きなシダレザクラが満開で、その流れにかかる枝先が微妙に揺れてきれいでした。また、レンギョウの真っ黄色な花も、彩りを添えていました。
 そういえば、第1番ということで思い出すのが、ノーベル文学賞を受賞したアンリ・ベルクソンの言葉で、「どこまで行けるか、確める方法は唯一つ。すぐにでも、出発して、歩き始めることだ。」というのがあります。たしかに、まず一歩を歩き出さなければ、先には進めません。この第一番札所紹楽寺から始まる奥州三十三観音札所巡りも、し始めたことでなんとか最後まで行けそうです。
 紹楽寺の大きな駐車場に車を駐め朱印所に行くと、住職が本堂に案内してくれ、自らお灯明から線香3本に点け、お詣りする間にご朱印を書いてくれるといいます。
 その内陣でゆっくりとお詣りさせていただき、朱印帳をいただいたとき、高舘山の観音堂の話しをすると、道路は舗装されてなく道も狭いので気を付けるようにとアドバイスされました。でも、この本堂内に御前立ちの那智十一面観音菩薩像がまつられているので、すでに午後4時15分を過ぎているので、今回はそこまで行かないことにしました。
 ところが、5月22日、仙台市で学会があり行くので、いっしょに葛岡墓園の知り合いのところにお墓詣りしようということになり、少し早めに出かけて、今度は那智が丘の方から行くことにしました。自宅を7時15分に出発し、ここに着いたのが9時25分でした。距離にして113qです。ちなみに右下の写真は、高舘山の観音堂です。ここでゆっくりとお詣りして、友人の待つ仙台駅に向かいました。
 ちなみに、左の写真が4月13日に撮った本堂で、右が5月22日に撮った高舘山の観音堂です。

 ところで、本堂内陣の那智十一面観音菩薩像の右手は垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている一般的なお姿でしたが、「那智」いうのは、どこからきているのかと思いました。お寺の由来書には、紀州那智観音とのつながりもあり、付近には紀州三熊野神社を勧請したという名取熊野三社があるので、昔から熊野信仰が息づいてきたところのようです。
 でも、この第1番札所で、住職から点火されたお線香をいただき、静かにお詣りできたことは、とても有り難いことでした。お線香は堂内を清めるだけでなく、お詣りするときの気持ちを集中させてもくれます。また、その燃えるときの時間で、お詣りしている時間がわかり、ふと、我に返るときもあります。
 ただ、線香の火といえども、火の点いている先端部分は700〜800℃もあるそうですから、気を付けたいものです。私は、ご住職からご朱印帳をいただくときに、お灯明は消しましたが、お線香はそのままですのでよろしくお願いいたします、と一声掛けてから出てきました。
 外に出ると、太陽が後ろの山に隠れてしまい、少し急がないとあと2ヶ寺を回れなくなりそうです。駐車場に戻ったのが午後4時30分で、すぐに出発しました。

 第1番札所 那智山 紹楽寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ふだらくの 浄土の春を みちのくの なと里の山に うつすみくまの



☆奥州三十三観音札所巡り Part.03

 第2番札所の秀麓齋までは、ナビで1.4qほどで、8分で着きました。参道の右手の駐車場に車を駐め、少し戻って参道の石段を上りました。時間も午後4時40分を過ぎていたので、先に本堂右の朱印所に回りました。玄関を開けると、松本明慶仏師の仏像が待っていましたが、呼び鈴を押してもなかなか出てきません。仕方なく、何度か押すと、お子さんをおんぶした方が出てこられました。
 ご朱印をお願いすると、今、住職が不在とのこと、そこで墨書きなしのご朱印だけをいただきました。その間、玄関先に飾られてある色紙やパンフレットなどを眺めていると、そこに恵比寿さまと大黒さまの極彩色の画もありました。
 ご朱印をいただき、それから本堂に行くと、どこにいても聞こえるようにスピーカーでご詠歌のようなものが流れていました。
 この左の写真が本堂で、右が内陣で撮ったものです。

 本堂の戸を開けると、中に入ることができ、なかでもスピーカーから聞こえてきますが、それに負けないような大きな声で観音経を読誦し、お詣りをしました。
 そういえば、いわき市の白水阿弥陀堂にお詣りしたときに、やはりお堂に入るとどこからか案内の声が聞こえてきました。堂内の左手奥をみると、たしかに人がいて、肉声でここのご案内をしてくれていました。そこで、お詣りをしてから一端外に出て、次の方がくるのを待って聞き耳を立てていると、やはり同じような口調で寸ぷん違わない案内をしていたので、びっくりしたことがあります。
 でも、ここのはカセットかなんかに吹き込んだもので、人がいるいないに関わらず流しているようなので、しずかにお詣りしたいときには邪魔ではないかと思いました。
 もちろん、お寺には、それぞれのやり方がありますし、一概に良い悪いはいえないのですが、私はもっと静かにお詣りしたいと思いました。
 そういえば、相田みつをさんの言葉のなかに、「親切と言う名のおせっかい そっとしておくおもいやり」というのがありますが、やはり良い悪いはなかなか判断の難しいものです。そんなことを考えながら駐車場に戻ると、すでに午後5時でした。
 ナビで確認すると、第3番札所の金剛寺観音堂までは1.8q、時間にして5分程度だというので、案内書には参拝時間は自由と書かれていたので、とりあえず行ってみることにしました。

 第2番札所 天苗山 秀麓齋 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 もらさずの 大悲の誓い たのむかな 二世の願いも あまねさの法(のり)



☆奥州三十三観音札所巡り Part.04

 第3番札所金剛寺観音堂には、10分ほどで着きました。ナビでは5分と出ていたのですが、夕方の道路の混雑で少し遅れたようです。
 お寺の門柱には「熊野山新宮寺」とあり、以前の別当寺が金剛寺で、ここから南西に500mほどのところにあったそうです。それが現在ではここ新宮寺が護っていて、ご朱印もここでいただけるということでした。
 そこで、先ずご朱印をいただけるかどうか心配なので、先ず庫裡の方にうかがうと、何度ベルを押しても出てきません。仕方なくあちこち見回すと、足元にプラスチックのケースがあり、そこにご朱印の紙が入っていました。そこで、300円を入れて、その1枚をいただきました。
 それから本堂前で、そして観音堂前でご法楽を捧げました。ここのお詣りは自由とありましたので、時間を気にすることなくゆっくりとお詣りさせてもらいました。ちなみに、左の写真が本堂で、右が観音堂です。

 観音堂は、別名「川上観音堂」ともいうそうで、増田川にかかる観音橋の袂にあります。もともとの別当寺は金剛寺だったそうで、観音堂から南西の方角に500mほど先にあったそうです。しかし、その由緒はほとんどわからず、現在の別当寺である神宮寺天台宗から真言宗智山派、そして寛永年間に真言宗信義派に改宗したといいます。
 おそらく、火災などによる焼失やいろいろな事情もあったのでしょうが、宗旨を変えるということは重い決断だったのではないかと想像します。
 鴨長明の「方丈記」に、「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし、世の中にある人と住家と、またかくの如し。」とありますが、昔から流れに逆らうことはできないようです。むしろ、その流れを見極めて、進むべき方向に舵を取る、それが歴代の住職の大変さだったのではないかと思います。
 お詣りが終わって、時計をみると、午後5時30分です。そろそろ宿泊を予約している名取市の「バリュー・ザ・ホテル 仙台名取」に行こうとナビで確認すると、ここから4.6qで、11分かかるそうです。おそらく夕方で混むかもしれないと思いながら運転しましたが、裏道を通ったせいか、ほぼ予定通りに着きました。
 今日の運転距離数は134qでした。ここのホテルは朝食付きで1泊税込み5,000円ですが、本を読むのでデスクランプをお願いすると、すぐに持ってきてくれました。それから夕食を食べに外に出かけ、帰りにすぐ近くのブックオフで何冊か本を買ってきました。

 第3番札所 金剛寺 観音堂 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 後の世を たのめやたのめ もろ人を すぐに導びく のりのおしえぞ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.05

 4月14日の朝、午前6時30分に起き、7時に朝食を食べ、8時10分に「バリュー・ザ・ホテル 仙台名取」を出ました。第5番札所名取千手観音堂は、ホテルから2.2qしかないので、混雑する国道4号線を通っても8時30分には着きました。
 駐車場がないので、名取市民体育館の駐車場に車を駐め、道路を横切ると、その角にお堂はあります。以前は国道4号線近くにあったそうですが、平成15年に所有者が移転されたので、その玄関先にお堂も移転したのだそうです。
 ここの札所は「要連絡」と案内本に書かれていたので、出かける前に電話を入れておいたので、観音堂の前にご朱印が押された用紙が置いてありました。よく見ると、その塀ぎわに、うす小豆色の御影石に、「奥州三十三観音 第五番札所 千手観世音菩薩」と白抜きで彫られていて、その前に花が植えられていてよく見えませんでしたが、安倍重任のつくったご詠歌が添えられていました。ここは個人宅の玄関前ですが、あちこちに花が植えられていて、さらにフラワーポットも置かれています。
 左が道路から見たお堂の写真で、右下が近くに寄ったときのものです。

 お堂は、1m四方ほどの大きさですが、昭和7年の改築前は1間四方あったそうです。ご本尊は高さが60pほどの大きさだそうですが、鍵がかかっていて、拝顔することはできませんでした。個人でまつっているので、とくに宗派はないそうです。
 ご詠歌をつくった安倍重任は、衣川の館主安倍頼時の六男です。この安倍頼時は、陸奥国奥六郡を治めた平安時代の武将であり、また俘囚長です。この俘囚(ふしゅう)というのは、蝦夷という先住民族のことで、しかも最初は大和朝廷に抵抗せずに味方したといいます。それが衣川を越えて国衙領へ侵攻したことから「前九年の役」が始まり、奥州藤原氏の始まりのきっかけとなる「後三年の役」へと続きます。この歴史の流れからみると、奥州藤原氏の初代藤原清衡は、安倍重任の甥にあたります。
 その時代の話しですから、このご詠歌を唱える千手観音堂も相当な歴史があるということです。
 難しい歴史の話しはさておいて、ここから次の第6番札所瑞巌寺三聖堂までは、だいぶありそうです。ちなみにナビで確認すると、仙台東部道路の名取インターチェンジから高速道路に入り、三陸自動車道の松島海岸インターチェンジで下りるコースです。距離は32.5q、時間にして31分だそうですから、思っていたよりだいぶ短時間で行けそうです。
 名取市民体育館の駐車場を出たのが、午前8時30分でした。

 第5番札所 名取千手観音堂観音堂 (宗派なし) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 きえぬつき つみもそれそと いまぐまの だいひおうこの あさかすみかな



☆奥州三十三観音札所巡り Part.06

 第6番札所瑞巌寺三聖堂は、三陸自動車道の松島海岸インターチェンジで下りて、県道144号線を松島方面に進みます。JR東北本線の高架橋手前の左側に無料の松島駐車場があるので、そこに車を駐めました。時計をみると、午前8時55分でした。
 そして、JR東北本線や仙石線の高架橋を渡り、いったん国道45号線まで進み、菓匠三全の松島寺町小路店のところを左折し小路に入ります。その突き当たりの右手が第6番札所の三聖堂です。
 この三聖堂は、1682年に瑞巌寺101世鵬雲東搏によって建てられたそうで、この名の由来は、正面に聖観世音菩薩、左に達磨大師像、右に菅原道真公を祀っているからです。この聖観世音は、鎌倉時代初期の作で、「蜂谷観音」といわれています。というのも、もともとは美濃の蜂谷定国の念持仏でしたが、一族が衰退し、子孫がこの尊像を持って勧進行脚し松島にたどり着き、ここに草庵を結んだのだそうです。そして、今の場所に移したのが瑞巌寺104世夢庵如幻です。
 左の写真が三聖堂で、右がその扁額です。

 このお堂は、かや葺き屋根の趣のあるもので、瑞巌寺参道から少し離れていることもあり、ひっそりとしています。そこで、静かに観音経を唱えてお詣りしました。
 ときどき外国人の声が聞こえますが、やはりどこの観光地も同じようで、インバウンド政策の効果かどうかはわかりませんが、日本を訪れる外国人が増えていることだけは間違いありません。
 第6番札所三聖堂のご朱印は、瑞巌寺でいただくので、円通院のわきを通り、瑞巌寺受付に行くと、その中にご朱印所がありました。ご朱印だけだと拝観料700円はいらないということで、番号札をもらい、待っていました。すると、ちょうど臥龍梅が見頃ですという案内板があったので、中門から入ると、その左手には白梅、右手には紅梅が咲いていました。案内には、「政宗公が文禄2年(1593)朝鮮出兵の折、鉢植にして持ち帰り、慶長14年(1609)、当寺落慶の際、五葉松と共に本堂正面に手植えされた梅。」とありました。
 本堂にお詣りし、朱印所で受付の番号札を渡し、ご朱印帳を受け取りました。ここ瑞巌寺はなんどかお詣りしてますが、満開の臥龍梅を見たのは初めてで大満足でした。
 そういえば、政宗公の辞世の句は、「曇りなき心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」ですが、簡単に訳すと、先の見えない暗闇の中を月の明かりをたよりに道を進んできたようだと、戦国時代を生きてきた自分を振り返っているようです。少し穿った見方をすれば、暗闇でも梅の香りはわかりますし、新元号の令和も梅に関わりがあるそうですから、寄るべくして寄らしていただいたと思います。
 帰りに、もう一度三聖堂にお詣りし、松島駐車場に戻りました。午前9時45分ですから、ここには50分いたことになります。次は第7番札所大仰寺です。住所は松島町ですが、通称、奥松島というところです。ナビで確認すると、7q、15分の道のりです。

 第6番札所 三聖堂 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 うちよする きしべの波は ふだらくや みの里の声も 松かぜのねも



☆奥州三十三観音札所巡り Part.07

 第7番札所大仰寺へは、国道45号線から奥松島パークラインを通り、手樽の先から左手の山道を上ります。ほんとうにこのまま進んでいいのかと考えてしまうような細い道になりましたが、なんとか駐車場に着きました。ぴったり15分かかり、到着時間は、午前10時でした。
 ここ富山は、標高116.8mだそうで、松島海岸と奥松島のある東松島市との境界近くにあり、ここに通じる山道は車がすれ違うことのできないような狭い道でした。
 先ずは観音堂へと向かうと、石段があり、これを寄進したのは平成13年10月に米寿を記念してと書いてあり、仙台市の知っている方でした。後からご朱印をいただくときに聞いたら、観音堂まで上るのが大変だったからだそうです。おそらく、自分だけではなく、多くの人たちも大変だと感じて寄進されたのではないか、ということでした。
 その階段を上ると、朱塗りの3間四方の立派なお堂が見えてきて、その前の仁王門から入り、お詣りをしました。左の写真が観音堂で、右が本堂への参道です。

 縁起によれば、坂上田村麻呂が奥州平定の折、この山に陣を敷き、その素晴らしい眺望に感激し、堂宇を建て千手観音菩薩をまつったのが始まりだそうです。たしかにここから眺める松島湾は絶景で、天気も良かったので遠くまで見渡せました。鐘撞き堂もあるから、その鐘の音はそうとう遠くまで鳴り響くのではないかと思いました。また朱塗りのお堂も、木々のすき間からでも、はっきりと見えていました。
 お詣りをして、石段を下り、ご朱印所に行くと、そこには「明治天皇当山御小休所」という石塔が立っていて、本堂(紫雲閣)から眺められたのではないかと思います。私は、その前の庭から眺めると、奥松島の絶景が目の前に広がります。その一角に植えられている枝垂れ桜は、やっとツボミが少し膨らんできたばかりで、満開に咲けば、最高のロケーションではないかと想像しました。
 しかも、人っ子一人いなくて、まったくの独り占め、空は真っ青で、松島湾から流れてくる風は、とてもさわやかです。もう、ここに来ただけで、今回の奥州三十三観音札所巡りを始めてよかったと思いました。
 そういえば、映画監督のフェデリコ・フェリーニさんは、「最初から旅先のことがなにもかもわかっていたら、誰も決して出発しないだろう。」といいましたが、まさに至言です。わからないから旅立つわけで、知りたいから好奇心が湧くのです。もし、機会があれば、ぜひもう一度訪ねてみたいと思いました。
 次の第8番札所梅渓寺は石巻市にあり、ナビで確認すると、三陸自動車道を通って32.6q、約40分ほどかかるそうです。ここを出発するときの時間は、午前10時20分でした。

 第7番札所 富春山 大仰寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 わけてその 菩薩の誓い とみやまの 浄土へまいる 身こそうれしき



☆奥州三十三観音札所巡り Part.08

 第8番札所梅渓寺は、三陸自動車道の石巻河南インターチェンジで下りて、牧山道路で市内を走り、牧山西トンネルを抜けるとすぐに左折します。そこから山手に向かって山道を走ると、梅渓寺の駐車場に着きます。
 時間は午前11時ですから、第7番札所大仰寺からは40分ほどかかったことになります。
 門柱の両側には、仁王像が建ち、大理石の門柱の右側には「鳳樹林両峰山」とあり、左側には「曹洞宗梅渓寺」とありました。それが左の写真で、右が本堂です。ここは標高218mの牧山の麓にあり、先ほど通ってきた牧山西トンネルはこの山を通り抜けるものだったようです。
 ご本尊の龍乗聖観世音菩薩は、本堂内にまつられているということでしたが、正面の扉は鍵がかかっていて、しかたなく外から観音経を唱えました。

 そして、本堂の右脇に庫裡があり、そこがご朱印所と案内書に書かれていたので、そこでご朱印をいただきました。僧侶の方が対応に当たられたので、当然墨書きをしていただけると思ったのですが、印刷された紙に、ゴム印とご朱印が押されてありました。なんとも味気なく、早々に車に戻りました。
 そういえば、5月1日の令和に元号が切り替わった日、浅草神社では特別御朱印を求めて最大5時間待ちもの行列ができたそうで、中には待ちくたびれた人たちが神社の職員や巫女さんに「暴言、恫喝や暴力に近い行為」(神社の公式フェイスブック)があったそうです。そのために、5月16日〜19日に予定されている東京・浅草三社祭のときにこれまで頒布していた特別御朱印状を今年は出さないことにしたというニュースがありました。
 これはもちろん異常なことですが、そのことでそれを楽しみにしてきた方々が特別御朱印状をもらえないということはとても残念なことです。もちろん、普通のご朱印状はお出しするそうですが、同じような事態になれば、これも中止するといいます。
 考えてみれば、もともとご朱印というのは、納経をしたお印にいただくもので、たんなる記念のスタンプではありません。でも、後から思い出しながら見直す楽しみもありますから、お互いに自重したいものです。このときには、あまり考えなかったのですが、この「奥州三十三観音札所巡り」を書きながら、いろいろと考えさせられました。18世紀のフランスの女流作家スタール夫人は、「書くための第一条件は、強烈な感じ方である。」と書いています。
 そうそう、次の第9番札所篦峯寺は遠田郡涌谷町で、ナビで確認すると、26.9q、およそ40分だそうです。ここ梅渓寺を出たのは11時15分でした。

 第8番札所 両峰山 梅渓寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たのめ只 そなとの船に のりの道 大慈のみたね ここに牧山



☆奥州三十三観音札所巡り Part.09

 第9番札所篦峯寺へは、牧山道路へ戻り、国道45号線から県道257号線を走り、涌谷町に向かいます。宮城カントリークラブのわきから、山道に入り、箟岳の麓にあります。
 駐車場に車を駐めて時間を確認すると、12時5分でした。ということは、第8番札所梅渓寺からは50分かかったということです。長い石段の両脇には、「箟岳山 かたくりまつり」と染め抜かれた幟旗が立てられていて、それを目的に来られている方もいたようです。左の写真がその石段で、右が斜めから見た観音堂です。
 その石段の途中には、大きな山門があり、その両脇には大きな杉がたくさんあり、静寂さを感じました。さらに石段を上ると、その正面に観音堂が見えました。
 大きな御堂の屋根の下には残雪があり、まだ早春の気配がしました。御堂の右側には、白御影石に「一隅を照らす」と彫られ、これは天台宗を開かれた伝教大師最澄が「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」の1節です。

 観音堂の前で観音経を唱え、ゆっくりお詣りしてから、ご朱印所に行き、ご朱印をお願いしました。少し時間をというので、カタクリの話しをうかがうと、まだ咲き初めということでした。それでも、観音堂前の大きな香炉のところに、「かたくり園入口」の矢印があったので、ちょっと行ってきますと言ってから観音堂の裏手に行って見ました。まだやっと花開いたばかりのカタクリが少しだけだったので、写真も撮らず、ご朱印所に戻り、ご朱印帳をいただきました。
 そういえば、今、天台宗では、「一隅を照らす運動」という社会啓発運動をしていて、そのパンフレットも受付にありました。この一隅というのは、今、私たちがいるその場所です。そのパンフレットには、「あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らして下さい。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。あなたの一隅から世界を照らしましょう!」と書かれていました。
 それを反芻しながら石段を下ると、その石段の数が気にかかり、山門から上が20段、山門から下が95段でした。それでも、石段には手すりがあるので、足腰が弱っても、なんとか上れそうです。
 駐車場に戻ると、12時25分でした。下りの山道にも、その両側に少し残雪があり、箟岳山の標高が236mあると実感しました。
 次は第10番札所興福寺で、登米市南方町本郷大嶽にあります。ナビで確認すると、15.7q、時間にして22分ということです。

 第9番札所 無夷山 篦峯寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 智恵の矢に 射る篦竹の ふしこめて 大慈大悲の 月も弓張



☆奥州三十三観音札所巡り Part.10

 第10番札所興福寺は、標高41mの大嶽山にあり、地名のわりには丘みたいなところにありました。駐車場は、登米市南方老人福祉センター近くにお寺専用の駐車スペースがあり、そこに車を駐めました。
 すぐ近くに、「奥州鎮護大嶽山観世音黒門」と書かれた黒塗りの鳥居があり、そこに注連縄も下がっていました。
 そういえば、平成30年12月に松本城に行ったとき、その本丸に入る重要な「一の門」が「黒門」と呼ばれていました。その理由を聞くと、この門を入るとかつては本丸御殿があり、その本丸御殿に通じる格調高い正式な門ということだそうです。つまりは、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだのではないかと思います。
 この観世音黒門をくぐると、車も通れる道があり、その右手に石段があり、その車道と石段の間に「南無観世音菩薩」と赤い布に白文字が抜かれた幟旗がたくさん立っていました。どこでも観音さまの霊場は同じような幟旗が立っていますが、とてもわかりやすく、初めてのところでも道に迷うことはありません。その右側に興福寺の扁額が掲げられた山門があり、そのまま幟旗に導かれて進むと、観音堂の山門があります。その右手には「興福寺観音堂 (南方町指定文化財)」と書かれた案内板があり、その山門の先にも幟旗が立っていました。左の写真が観音堂に至る山門で、右下は観音堂です。
 その山門をくぐると、石段があり数えながら上ると、38段あり、その上った正面に観音堂がありました。

 観音堂は、宝玉造りの屋根と朱塗りの手すりがとても印象的で、大きなお堂です。ザッと見て五間四方はありそうです。扉が開いていて、御前立ちの観音さまも見えますが、十一面観世音菩薩のご本尊さまは秘仏だそうで、33年に一度のご開帳ということでした。聞くと、平成29(2017)年にご開帳されたばかりなので、次は2049年です。ということは、私が100歳ということですから、なかなか難しそうです。
 その前で、観音経を唱えながら、もし可能ならご開帳されたお姿を拝顔したい旨の希望を添えて、ゆっくりと念じました。もしかしたら、念ずれば叶うかもしれません。
 そして、下山途中でご朱印所にまわりました。すると、洋風の六角堂があり、ウェブサイトで確認すると、「観音堂の再建に先立ち明治17年に建築される。昭和40年東北大学の横山助教授が伝統を尊ぶ仏堂に洋風建築が加味されていることに注目し、日本建築学会に報告したことから一躍クローズアップされた。昭和51年に南方町から文化財として指定された。」とあります。
 たしかに、お寺で洋風の建築は珍しく、しかも、よく見ると二階土蔵づくりのようで、まさに和洋折衷のイメージです。そこなどを見ていて、そろそろご朱印ができたかと思い庫裡に行き、丁重にいただいて車に戻りました。
 次は第24番札所長谷寺です。ナビで確認すると、順番通りよりここのほうがその後の行程を組みやすそうです。登米市中田町浅水長谷山にある長谷寺までの距離は、12.8q、時間にして25分だそうです。
 車に乗りながら時計をみると、すでに午後1時を過ぎています。そこで蔵八ラーメン東佐沼店にまわり、再び長谷寺に向けて午後1時40分に出発しました。

 第10番札所 大嶽山 興福寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 のちのよも けふのみのりに おほたけの うまれぬさきの ちきりふかしな



☆奥州三十三観音札所巡り Part.11

 第24番札所長谷寺は、国道346号線から国道398号線へと進むと、道路の右側に小さな「長谷寺入口」という案内板があり、ほとんどの人は「はせでら」と読んでしまうので、「ちょうこくじ」と仮名がふられていました。
 その案内板から右に入ると、ほどなくして右手に観音堂がありますが、駐車場からは見えませんでした。ここに着いたのが、午後1時55分です。そこに車を駐め、長谷観世音と書かれた石の鳥居をくぐり、石段を60段ほど上ると観音堂です。最初はなでらかな石段ですが、その途中の右側に大きなアセビの木があり、そこからは急な石段になります。アセビはちょうど満開でした。左の写真が参道入口の石の鳥居で、右下が観音堂です。
 このお寺の開山は天平宝字6(762)年と古く、源義経が奈良の長谷寺を訪ね、その童名遮那王丸からここを遮那山と称したと伝えられています。また、藤原清衡なども帰依し、とても栄えたそうです。その名残が観音堂の右手に植えられている遮那桜で、ツボミも少し膨らんでいました。
 また、昔の参道の右手には「左近右近欅」と書かれた由来書とその欅の跡が残っていて、それによると坂上田村麻呂との縁が書かれていました。

 観音堂は間口が7間で、それに濡れ縁があるので、とても大きく感じられます。ご本尊さまは、開山以来3代目だそうで、扉は開いてあるものの、内陣までは見えず、鰐口の下がったところでお詣りしました。今日は、すでに7ヶ寺目ですので、観音経も7返唱えたことになります。さらにそこのご本尊さまのご真言など、一人でのお詣りなので、時間を気にする必要はありません。団体でのお詣りですと、ここではゆっくりお詣りしたいと思っても、なかなかできません。次の予定がしっかり決まっているので、その予定を消化しないと宿舎にもたどりつけません。
 そういえば、マザー・テレサが来日されたときに通訳されたノートルダム清心学園の理事長の渡辺和子さんは、「時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。」といいましたが、たしかにそうだと思います。ゆっくりお詣りし、それが記憶に残れば、いつまでもお詣りしたときのことが想い出されます。慌ただしくお詣りすると、急がされたことであまり記憶には残らず、それっきりになってしまいます。それでは、せっかくお詣りした甲斐ががありません。
 観音堂から、また石段を下り、その途中の左手にある本堂にお詣りし、さらにその右手の庫裡にまわりました。何度も声を掛けましたが、なかなか出てこないのであたりにご朱印が押されたものがないか探したのですが、それもありません。しかたなく、最後にもう一度声を掛けると、やっと人が出てきて、ご朱印をいただくことができました。ご朱印がすべてではないのですが、やはり1ヶ寺でも欠けるとなんとなく心許ない気持ちになります。
 でも、なんとかいただけたので、気持ちよく石段を下り、駐車場に戻りました。時間は午後2時10分です。
 次は第15番札所華足寺です。ここから登米市東和町米川小山下にある華足寺までは、9.4q、18分です。県道202号線を進むとありました。

 第24番札所 遮那山 長谷寺 (天台寺門宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると みなこしちより はせてらの くせのひくわんを たのむなりけり



☆奥州三十三観音札所巡り Part.12

 第15番札所華足寺へは、県道202号線から国道346号線に入り、さらに県道233号線から左折し東和町米川舘ノ下に入っていくと、その山の中腹にあります。
 山といっても、住所が東和町米川字小山下とあり、ほんとうに小さな山で、あちこちに「華足寺ペット霊園」の看板があります。ちなみにホームページをみてみると、ダイレクトに華足寺ペット霊園しか出てこないようです。
 ここは馬頭観音なので、そのつながりから生きものすべてのご供養にと思いつかれたのかもしれません。
 駐車場に車を駐めたのが午後2時25分です。それから本堂脇の庫裡で観音堂のところを聞き、ご朱印もそこでお願いしました。観音堂は、左手の山側にあり、切石の石段も数えこそしませんでしたが、けっこうありました。
 石段の中腹には、「馬頭観音堂」と書かれた案内板がありました。

 石段を上りきると、その正面に三間四方ほどの立派な観音堂があり、濡れ縁は朱塗りです。この観音堂は伊達家8代斉村の寄進によるそうで、藤原三代だけでなく、伊達家の祈願寺でもあり、そうとうな寺格を誇っていたようです。
 お堂のなかには、護摩壇があり、その先に馬頭観世音の厨子があり、閉じられていました。聞くところによると、この観音さまは秘仏だそうで、33年に1度のご開帳だそうです。
 そこの前で、ゆっくりと観音経をあげさせてもらいました。
 お詣りが終わって、また同じ石段を下がると、その先のほうに山門が見えます。そこで、そこまで行って見ると、さらにその先が表参道になっていました。つまり、昔はこの900mほどの表参道を歩いてきて、この山門をくぐり、そしてまっすぐに馬頭観音堂にお詣りしたわけです。今は、簡単に車で一気に上ってしまい、表参道も通らず、この山門もくぐらずにお詣りするということになります。左の写真がその石段で、右下が観音堂です。
 だから、小さな山としか思わず、一歩ずつあるいてお詣りした方々の思いを偲ぶことも少なくなったようです。たしかに、少しばかり足が不自由でも上ってお詣りできることはいいのですが、時にはいにしえの方々の巡礼にも心を馳せてみたいと思いました。
 そこで、二層になった山門の上にも上ってみたいと思い、気を付けて上ると、見晴らしはいいのですが、手すりはあるのですが低くて、なんとも心許ない感じです。しかも、この山門は県の指定文化財なので、そこを一周して、すぐに下がりました。むしろ、下りのほうが怖かったです。
 駐車場に戻ると、午後2時48分でした。次は第14番札所の大慈寺です。約10分ほどとナビには出ていました。

 第15番札所 竹峯山 華足寺 (真言宗智山派) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 ふみまよう ふもとのみちの おほけなや みのりのかねの はなのやまてら



☆奥州三十三観音札所巡り Part.13

 第14番札所大慈寺は、第15番札所の華足寺と同じ町内にあります。ナビの案内より、ここには7分ほどで着きました。この登米市には奥州三十三観音札所が5ヶ寺あり、まさに次々とお詣りしてあるくような感じです。
 国道346号線を左折するとすぐに丁字路になり、そこを右折すると、石畳のような道になり、左手に大慈寺の山門が見えてきます。この山門が左の写真で、右下が本堂です。その山門の右手に車道があり、その先が駐車場です。そこで、いったん車を駐め、山門まで戻り、一礼してから参道を歩きました。山門の右手前には、庭掃除をする小僧さんの石仏があり、左手前には、稲ワラみたいのが描かれたものがあり、案内板を見ると、この寺に伝わる「米川の水かぶり」だったようです。
 この行事は2月の初午に行われるそうで、見た感じ、山形県内の上山に伝わる「加勢鳥」のようです。
 その参道の先には石段があり、そこを上ると正面が本堂です。その内陣の右脇にご本尊の観音さまがまつられているそうです。

 そこで、本堂の扉を開けてお詣りしようとしましたが、固くしまっていたので、その前で観音経などを唱えました。
 ここは、何度も火災などの災難にあい、現在の本堂は平成23年に再建されたそうです。そういえば、「米川の水かぶり」の行事には、町内以外の人が参加すると火災が起きるというそうですから、人口減少の今では火伏せもたいへんなようです。
 お詣りが終わって、ご朱印所になっている右手の庫裡にうかがい、ご住職さんにご朱印をいただき、もう1度本堂のところで一礼すると、両側に立つ石灯籠が目に入りました。よく見ると、瓢箪が浮き彫りにされていて、あまり見たことがなかったので写真を撮りました。
 そういえば、ここ登米市には伊豆沼や内沼などがあり、いつかは野鳥の写真を撮りにきてみたいと思っていました。これら湿原は1985年に国内2番目のラムサール条約湿地にも指定され、国際的にも重要な湿地環境になっています。今回は奥州33観音詣りが目的なので、時間的な余裕はなく、すぐ近くまで来ていながら、いくことを諦めました。
 帰り道、境内のウメの木に鳥の巣箱がかかっていたので、この辺りの人たちは自然環境をしっかりと護っていると感じながら、車に戻りました。時計をみると、午後3時10分です。
 次の第23番札所長承寺も、登米市内です。

 第14番札所 法輪山 大慈寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 頼母しや 大慈の法の 誓いには 玉のうてなに 花の白雲



☆奥州三十三観音札所巡り Part.14

 第23番札所長承寺は、登米市中田町上沼字大泉門畑にあります。第14番札所大慈寺からは、北上川にかかる錦桜橋を渡り14.1q、時間にして20分ほどでした。
 ここは、宮城県北部で、1q先はもう岩手県一関です。ここも山門の先に駐車場があるので、いったん車を駐め、山門近くまで歩くと、その前に「圓通閣」と書かれた鳥居があり、その先が山門です。平成15年に建てられたそうで、山門の右の柱には「太白山長承寺」、左手には「奥州二十三番 千手観世音札所」と彫られた扁額がかけられていました。その山門が左の写真で、右下が観音堂です。
 山門からまっすぐ行くと、石段になり、そこを上ると真正面が本堂です。その右手が庫裡になっていて、そこがご朱印所になっています。
 先ずは本堂にお詣りし、出てくると、石段の上に大きなツバキの木が花盛りで、その反対側にはハクモクレンの木もあり、これも大きく育っていました。花はまだツボミでしたが、おそらく咲き出すと、本堂に向かって右は白花、左は赤花で、紅白に見えるのではないかと思いました。観音堂は、本堂の左手奥にあり、釣鐘堂のわきを通って行きました。
 観音堂には、本堂から屋根付きの渡り廊下があり、いつでもお詣りできるようになっていました。

 観音堂の扉は開かれていて、その前でゆっくりとお詣りできました。観音経などを唱え、石段を下ろうとすると、その脇に「子安観音堂」と書かれたお堂があり、なかには地蔵菩薩がまつられているそうです。
 今回は本堂へとまっすぐに上りましたが、ここから駐車場を眺めると、この観音堂にまっすぐに石段がありました。そして、その両脇には、杉の巨木があり、歴史の古さを物語っているかのようでした。帰りは、この石段を下ると、その石段の登り口には両側に石灯篭が立っていて、そのわきにはさまざまな石碑もありました。一番大きな石碑には、「湯殿山」と彫られていて、出羽三山の流れを感じました。
 そういえば、山刀伐峠などを越えて最上町から庄内の出羽三山に行くこともでき、今考えるよりも身近な存在だったのかもしれません。しかも、観音堂にも子安観音堂にも注連縄が張られていて、ここにも神仏一体の影響があります。
 その駐車場の真ん中に、大きなシダレザクラがあり、ほんの少しですがツボミが赤らんでいました。この木が満開になれば、境内が一気に桜色に染まるのではないかと想像しました。境内のあちこちに植えられているウメの木は、ほぼ満開です。これらを眺めながら、今が一番いいときかな、と思いながら車に戻りました。
 時間は午後3時43分です。次の第16番札所清水寺は岩手県栗原市にあります。ナビで確認すると、31.5q、45分かかるそうです。それでも、まだ午後4時半ぐらいまでには行けそうだと思い、出発しました。

 第23番札所 太白山 長承寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 さしつみて いつみがそこの 水かがみ きよげにそそぐ のちの世のつみ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.15

 第16番札所清水寺(せいすいじ)は、栗原市栗駒岩ヶ崎字桐木沢にあり、住職は仙台別院にいるそうです。少し時間的に遅いと思ったのですが、案内書には参拝は自由とかかれていたので、とりあえず行くことにしました。
 ところがここには電話がないので、ナビに住所で入れるのも面倒なので、近くの黄金寺を目印にして進みました。そして、この寺の左手に進むと、山道になり、ちょっと心配になりました。すると、同じ住所のところに熊野神社があり、夕方ということもあり、その参道に紛れ込んでしまいました。石段を上ると、正面に熊野神社があり、ここまで上ってきた縁もあり、こちらもお参りしてから、戻ってきて、その右手にある清水寺の参道を上がっていきました。石段の両側には、何本もの白梅が咲いていました。その参道の入口が左の写真で、右下が観音堂です。
 そのウメの花を見ながら、「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」という唐代の詩人、劉希夷(りゅう きい)の「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する漢詩を思い出しました。これは、もともとは自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対比させて人生の無常を詠んだそうですが、お寺だって栄枯盛衰はあります。それでも、住職は全力で護持に努めたはずですが、時代ということもあり、難しいときもあります。それでも、植えた樹々は、無言でそのお寺の歴史を物語ってくれているようです。
 その石段を上りきった先に、黒塗りの観音堂がありました。

 ここは、まったくの山のなか、おそらく誰もいないと思い、大きな声で観音経などを唱え、今日最後の巡礼の締めくくりをしました。
 観音堂と庫裡が渡り廊下のようにつながっていて、そこの玄関のところに、箱に入ってご朱印がありました。そこから1枚をいただき、改めて境内を眺めると、観音堂の右手側と奥には庭園が見えます。案内書によると、京都の清水寺の庭園を模してつくられた浄土庭園だといいます。そして、奥の方の松は「千寿の松」で、地元の里谷森舘城主、平兵衛師門の奥方がお手植えされた松だそうです。しかも、この庭園は市指定の天然記念物だそうで、瞼を閉じながら、往時を偲びました。
 だんだんと暮れゆく空を眺めながら、いつの時代もいろいろなことがあり、良いときも悪いときも、それでも、もしかすると時代が経てば良い時もくるかもしれないと思いました。
 車に戻ると、午後4時40分でした。今夜の泊まりは、昨日の夜に予約した栗原市築館の「ホテルグランドプラザ浦島」です。ナビで確認すると、そこまでは14.7q、およそ20分ほどかかります。ここは結婚式場がメインのようで、部屋も少し広めでした。ただ、周りには何もないみたいなので、コンビニにまわり、おやつや飲み物などを調達してからホテルに向かいました。ここも前泊と同じで5,000円で朝食込みの料金でした。
 お詣りの場合は、夕方に入り、朝早く出発するので、滞在時間が短く、いわば布団で眠れればいいと思っています。今日の走行距離は204q、歩数は12,183歩でした。自宅からだと、ここまで338qです。
 さて、明日はどのぐらいお詣りできるのか、夕食の後にその計画を立て、泊まるところも決めておきたいと思っています。

 第16番札所 音羽山 清水寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると みやこのそらも きよみずの 花は存世の ひがんとぞみる



☆奥州三十三観音札所巡り Part.16

 今日は4月15日、岩手県内の奥州三十三観音札所や、特別霊場の中尊寺や毛越寺などもお詣りする予定です。
 朝食を午前7時ころに食べ、午前8時には第22番札所勝大寺に向けて出発しました。昨夕通った道を少し戻りましたが、その途中で眺めた真っ白な栗駒山はとても存在感がありました。そこで、車を農道に駐め、写真を撮りました。
 国道4号線を進み、金成小迫の信号機から左折し、県道186号線を進むと、300mほどのところの右側に3本の木の案内がありました。真ん中には「白山神社 小迫延年」、左側には「小迫観音」、そして右側には「楽峯山 勝大寺」と大きく書かれた板が掛けられていました。そこから山道に入り、ほどなくして右折すると栗原市金成小迫三嶋の勝大寺に着きました。時間は午前8時15分でした。
 参道入口には、大きな石塔が両側に立ち、右側には「奥州 第二十二番札所」、そして左側には「樂峯山 勝大寺」と彫られていました。その間を車で通り、本堂前の駐車場に車を駐めました。先に、庫裡のご朱印所にまわると、住職が勤めていて不在とのこと、それでも書いていただけることになり、その間に観音堂にお詣りしてくださいとのことでした。
 そこで、もう一度車に乗り、先ほどの道をまっすぐに進むと、左手に白山神社と書かれた鳥居があり、小迫の延年の由来が書かれた案内板もありました。そのときの写真が左で、右下は観音堂です。その鳥居をくぐると、その先に大きな山門があり、小高い山の上には白山神社が見え、その左下に観音堂がありました。

 観音堂は江戸中期に建立された風格のあるお堂で、周りもきれいに掃き清められ、清々しいところでした。手前の杉の大木からの木漏れ日も気持ち良く、ゆっくりと観音経などを唱えてお詣りしました。
 そういえば、ご本尊の十一面観音さまの垂迹は白山大権現だと思い出し、神仏混合の時代の昔を偲びました。おそらく、ここも坂上田村麻呂の話が伝わっていたり、天台宗から真言宗へと宗旨変えがあったり、さまざまな変遷をたどってきたようです。ご本尊も元禄10年までは秘仏として一度もご開帳されなかったそうですが、その元禄以降は33年に一度ご開帳されるようになったと書いてありました。
 そういえば、観音堂にも、白山神社に上っていく石段の手前の鳥居にも、同じような注連縄が張られていました。村人のなかでは、とくに神社とかお寺とかの区別なく、信仰されてきたのではないかと思います。
 もう一度、勝大寺の庫裡にまわり、ご朱印をいただき、次の第21番札所観音寺に向かいました。時計をみると、午前8時40分でした。
 観音寺は、同じ栗原市金成の地区にあるので、距離にして9.8qほどです。

 第22番札所 楽峯山 勝大寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 もふけつも きへはうすべし つみとがの をもきちかひを たのむ身なれば



☆奥州三十三観音札所巡り Part.17

 第21番札所観音寺へは、国道4号線に戻り、そこからJR東北本線の交差するところから右折し、県道187号線を進みます。そして萩野酒造のところを左折すると左側に見えてきます。
 道路のわきに駐車場があり、そこに駐めて、参道を歩くと、正面に観音寺の本堂があります。でも、観音堂は、その参道入口の左側に鳥居があり、その先の石段を上ると観音堂です。でも、先ずは最初に本堂にお詣りしようと参道を進み、それから庫裡にご朱印をお願いにいきました。すると、もう少しで住職が帰ってくるというので、ご朱印帳を預けて観音堂に向かいました。左の写真は本堂で、右下の写真が観音堂です。
 本堂の左手から観音堂への石段を上りましたが、ところどころ石段がくずれていて、それでも補修している跡もあります。周りには竹林があり、風が吹くと竹の葉の擦れ合う音が聞こえてきます。ここもそうですが、ほとんどお詣りの人と出会わずに、ゆったりした気持ちで歩くことができます。

 観音堂は、その参道の石段を上りきったところにありました。
 お堂は、瓦屋根で、その上に石の宝珠が乗っていて、「水月堂」の扁額が掲げられています。しっかりとご本尊さまもおがむことができ、そこでも観音経などを唱えました。やはり、お堂の扉が開いているのと、しまっているのとでは、気持ちも違ってきます。なるべくなら開いていてほしいと願うのですが、今のご時世、なにがあるかわからないので、締め切っておくのも仕方のないことなのかもしれません。
 そういえば、西洋の格言に「あらゆる壁が扉になる」というのがありますが、考えてみれば、扉だって、開いていると思えば、そう心で感じられるのかもしれません。観音さまは、音で観るといいますから、見えなくとも外からお詣りしても、必ずやお聞き届けてくれるはずです。そう思ってお詣りすると、たとえ扉が閉まっていても、あるいは鍵が掛かっていても、同じ気持ちでお詣りできそうです。
 もう一度、本堂でお詣りし、庫裡にまわると、ご住職さんが戻られて墨書きをしてくれたとのこと、有り難くご朱印帳をいただきました。その玄関口に白い地下足袋があるのを見つけ、お聞きすると、先日仲間たちと托鉢をされたということでした。
 お礼をして、気持ちよく参道を下り、車に戻りました。時計を見ると午前9時20分でした。
 次は第19番札所の新山観音堂です。ナビで確認すると、7q、11分ほどだそうです。

 第21番札所 圓通山 観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 かそいろと たのめしかいに はるけくも 大悲のちかひ たひぢいとはじ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.18

 第19番札所の新山観音堂は、一関市花泉町金沢永沢前にあります。県道187号線まで戻り、そこを左折し、そのまま進み、県道48号線のところを左折します。少し進むと、右側に擬木に「新山観音堂」と書かれた案内を見つけ、そこから右折し進むと、その先は行き止まりです。その左手の山のなかに観音堂があります。
 案内書には、駐車スペースあり、と書かれていましたが、ここより先には進めないので、いわばこの辺りのどこに車を駐めてもいいようです。
 上り口には、県道48号線の脇に立ててあったと同じ擬木の案内があり、そこから入るそうです。その脇には、花泉町民俗文化財の指定の標識もあり、あぜ道のような参道を歩いて上りました。左の写真が、それです。そして左手には2本のウメの木があり、ちょうど満開でした。その辺りから杉林になり、少しつづら折りの山道の先に観音堂がありました。

 観音堂は、現在お護りしている熊谷家の2代目が文政年間(1818〜1829)に建立したそうで、昭和63年にかや葺き屋根からトタン屋根に改装したそうです。ご本尊は、違うところに安置してあるということなので、自分で扉を開いてお詣りできます。右の写真が、自分で扉を開いたときのものです。
 せっかくなので、扉を開いてお詣りすると、そのお賽銭箱の上にご朱印の押された紙がありました。観音経などを唱えて、それからそのご朱印を1枚いただき、その分もお賽銭として入れました。案内書には、別当の熊谷さんは仙台市に住んでおられ、ときどきはここに来ているそうです。おそらく仙台市からだと、約100qほどここまであるので、管理も大変だと思います。そういえば、第16番札所清水寺の住職も仙台市に移住しているので、これからは少しずつこのようなこともあるでしょう。
 一番望ましいのは、お堂と管理者、あるいはご朱印所が近いとお詣りするほうとしては有り難いのですが、いろいろと問題もありそうです。さらに代がかわれば、ますます疎遠になりそうで、その先はどうなるのか、とても心配です。
 おそらく、このような問題は、他の観音札所でも同じだと思います。1ヵ所でも欠ければ、33観音霊場は成り立ちません。あと半月もしないうちに、平成の時代から令和の時代へと変わります。おそらく、すべてのことが変革の時代かもしれません。そういえば、ダイエー創業者の故中内功氏は、「変化こそ、機会の母である」といいましたが、観音霊場も新しい取り組みで生まれ変わるかもしれず、今から取り越し苦労しても始まりません。
 だとすれば、今、こうして奥州33観音札所をお詣りし、ご朱印をいただけることに、先ず感謝したいと思います。
 農道わきに駐めた車に戻り、時計をみると午前9時55分でした。次は第20番札所徳寿院です。

 第19番札所 新山観音堂 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 のりのひも とくかなさはの あらかねは 大慈の山に あけくれのこゑ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.19

 第20番札所の徳寿院は、第19番札所新山観音堂と同じ一関市花泉町にあります。ナビで確認すると、2.4q、6分ほどのところにあります。
 国道342号線に入り、郷ノ里の信号のところから左折し、200mほど進んだ左側に大きな徳寿院と書かれた案内板が見えます。そこを左折するとすぐです。駐車場は、山門の手前にあります。
 山門は平成11年に改築されたそうで、そこをくぐって石段を上がると、これも平成21年4月に完成した本堂があります。本堂もそうですが、付近の石灯籠などの造りも真新しい感じで、できたばかりのような寺院の印象です。しかし、歴史は古く、1459年に開山され、延命地蔵尊をご本尊としています。
 盆栽に水を掛けていたご住職に声をかけ、ご朱印をお願いすると、ご朱印帳を預かって庫裡のなかに入られました。その間に観音堂でお詣りすることにしました。この観音堂は昭和62年に建て替えられた宝形造りの銅板葺きで、2間ほどのこじんまりとしたお堂です。
 左の写真は山門で、右の写真の正面は本堂で、鐘撞き堂のとなりの左側にあるのが観音堂です。

 観音堂は白壁が目立っていて、今回の観音巡りでは初めてのお堂です。そういえば、山形県内の庄内33観音巡礼でまわったときには、このような白壁づくりや土蔵造りが多かったのですが、それは火災が多いのでという理由でした。
 でも、ここは山のなかですし、すぐ下は桑畑ですから、おそらくは防火というよりは、白壁の清々しさを意識したのではないかと思いました。
 お詣りが終わって、庫裡のほうに行くと、すでにご朱印と墨書きが終わっていて、盆栽などを眺めながら車に戻りました。それにしても、参道沿いには真新しい石灯籠が並び、本堂への石段の両脇には、阿吽の獅子がにらみを利かせています。ほとんどが白御影石製なので、真っ青な空ととてもよく似合っていました。
 「阿吽」とは、もともとサンスクリット語です。サンスクリット語の音をそのまま漢字の「阿吽」にあてはめたもので、「阿」は口を開いて最初に発する音であり、「吽」は口を閉じた時の最後の音ですから、すべてのものの始まりと終わりを象徴しています。つまりは、この宇宙を現しているともいえるのです。よく見るのは、山門の両脇に対になっている『金剛力士像』などですが、これはお寺を護る、つまりは仏法を護るための守護神です。
 また、帰り際に気づいたのですが、参道の左側には六地蔵尊もおまつりされていました。
 次は第17番札所大祥寺です。同じ町内なのですぐ近くのようです。ここを出発したのは午前10時10分でした。

 第20番札所 中興山 徳寿院 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのめただ くらきにまよふ のちのよも てらさせたまへ くわんをんのじひ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.20

 第17番札所の大祥寺も、同じ一関市花泉町にあります。ということは、この一関市花泉町には4ヶ寺の札所があるということです。
 第20番札所の徳寿院からは、2.1q、5分ほどのところにあります。小さな山の麓を回り込むように進むと、すぐにお墓が見えました。参道入口には、大きな大祥寺と書かれた石碑があり、そのわきには四諦と八正道が彫られた石碑もありました。参道は二又に別かれていて、その左側の道の両側に石灯籠が立っていました。
 この付近にも車は駐められますが、さらに進んでいくと、山門の両側にも駐車場はありました。この山門は楼門造りで、昭和61年に造られたそうで、その両側にも阿吽の獅子がありました。
 階段を上り、山門で一礼し、そのまま進むと、また石段になり、その真正面が本堂です。ご朱印所はその右側にある庫裡なので、そこにお願いし、観音堂に向かいました。
 左の写真は、楼閣山門で、その右下にある石の小僧さんは本物のホウキを持っていました。また右の写真は観音堂です。

 このお堂は、墓地のなかを通っても行けるし、山門のところからまっすぐに石段を上っても行けるようです。私はご朱印をお願いしたので、墓地のなかを通りました。
 石段を上ると、その小高いところに観音堂があり、その右側には手水場があり、さらにその脇には石のテーブルとイスがありました。
 先ずは手を洗い、口をすすぎ、それから観音堂の前に行き、観音経などを唱えました。小高い丘のようなところに建っているので、吹く風もさわやかで、とても気持ち良くお詣りできました。
 このお堂は、平成7年に改築されたそうで、回廊をまわることもできます。ご本尊の十一面観世音菩薩はほぼ等身大で、作者は不明ながら昭和29年に岩手県の文化財に指定されていると案内板には書かれていました。ご開帳は年2回だそうで、そのときには講中の方々がお詣りされるということでした。
 しかし、この講中と信仰の組織もだんだんと少なくなり、私の住むところでは観音講もなくなったといいます。人が少なくなり、さらにはお寺とのつながりも薄れてくると、これからどうなるのか心配です。そういえば、昔は頼母子講などといい、お金を融通する互助会的な働きや、あるいは毎月掛け金をして、その代表者が代参として神社仏閣をお詣りするということも行われていました。おそらく、今はそれなども少なくなってきたようです。時代が変われば、いろいろなものが変わってきます。平成31年は4月30日で終わり、5月1日からは令和という新しい時代になりましたが、さて、この令和はどのような年になるか、いささか心配でもあります。
 時計をみると午前10時35分です。駐車場に植えられているレンギョウの花が満開でした。やはり、黄色い花は目立ちます。
 次は第18番札所の六角堂です。ここも一関市花泉町で、近そうです。

 第17番札所 龍雲山 大祥寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 あるそとも 身になすつみは おかてらの かねきくときそ きへもはてなめ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.21

 第18番札所六角堂は、第17番札所の大祥寺から4q、5〜6分の左側にあります。ここにも新山観音堂と同じ擬木でつくられた案内が立っていました。
 そのすぐわきに車を駐め、正面から入ると、白地の大きな看板に、一関市立老松公民館と老松地区お宝保存会の連名で六角堂の説明が書かれていました。
 それによると、「六角堂(観音堂)は奥州三十三観音霊場のうち第十八番で、聖武天皇の命により、天平年代(729〜748)に茂呂志賀なるものが建立したと伝えられ、「如意輪観音菩薩」が安置されています。当初は観音森金提寺にありましたが、その後豊隆神社境内に移され、文化5年(1808)には皆川家の土地に観音堂を建立し、現在に至っています。陸中最古の観音堂です。」とあります。
 観音堂の前には、丸く花壇が設けられていて、花の苗が植えられていました。また付近には、三峯山などの供養塔が8基ほど並んでいて、この地区の信仰の深さを感じます。

 先ずは観音堂の前に行き、よく見ると、四角の窓があり、そこを開くと、中にご朱印の押された紙が入っていて、お賽銭とご朱印代を入れてから、鰐口を鳴らし、観音経などを唱えました。
 そして、なかを見ると、ご本尊の如意輪観音がはっきりと見え、あらためて手を合わせました。ご本尊さまを直接おがむことができると、やはり有り難いものです。今の時代、盗難などの恐れもあるので一概にはいえませんが、心引き締まるような気がします。
 お堂のなかをさらに見ると、同行二人と書かれた金剛杖などもおさめられていて、きれいに掃除もされていました。左上の写真は道路から全体がわかるように撮ったもので、右は観音堂を斜めから撮したものです。
 そのときに気づいたのですが、ここの前は一関市営バスの停留所にもなっていて、その名も「六角堂前」でした。おそらく、バスを利用する待ち時間でお詣りする方もおられるようで、お堂の右側にはベンチも置かれていました。
 やはり、お寺で管理するのと違い、いろいろな苦労もあるかと思いますが、老松地区のみんなの助けを借りながら、将来とも護り続けてほしいと想いながら、車に戻りました。
 時間は午前10時50分です。お昼まで、もう1ヶ寺ぐらいはお詣りできそうなので、次の第27番札所観福寺を目指しました。

 第18番札所 松澤山 六角堂 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 四つのとが 五つのつみを なげく身は 六角堂の 悲願たのまん



☆奥州三十三観音札所巡り Part.22

 第27番札所観福寺へは、国道342号線を通って22.4qほどです。そろそろお昼近いので、途中で食べるところがあればと思いながら車を走らせました。
 ところが、県道19号線に入っても食堂がなく、仕方なく途中のコンビニでおにぎりと飲み物を買い、観福寺へと向かいました。ここに着いたのは、午前11時20分です。山門前に駐車場があり、そこに車を駐め、右に「天台宗」、左に「観福寺」と彫られた大きな石柱の間の参道を進みました。
 その途中の右側にトイレもあり、さらに進むと山門があります。その山門をくぐると、左側に鐘楼があり、石段を上ると真正面が本堂です。本堂は平成8年に改築されたそうで、正面に大きな石の香炉があり、右手に観音堂、そして左手が庫裡です。
 初めは本堂脇の入口のところで声を掛けたのですが、応答がなかったので、道をはさんだ左側の庫裡に行き、声を掛けると出てきてくれました。そこでご朱印をお願いし、観音堂に行きました。

 観音堂の扁額は、観世音と3文字を大きく揮毫してあり、堂々とした筆致です。その真下で観音経などを唱え、お詣りしました。そして、回廊を右側に行くと、戸の開くところがあったので、そこから堂内に入りました。ご本尊は厨子におさめられていて、その前に鏡があり、左手には阿弥陀如来と不動尊もおまつりされていました。
 左上の写真は山門で、右は観音堂です。お詣りが終わって、庫裡にご朱印をいただきに行くと、玄関から出てきてご朱印帳を手渡してくれました。その脇のイチョウの樹が大きいのでお聞きすると、昔はこのお寺が山頂にあって手狭だったので、ここに移ってくるときにこのイチョウも山頂から植え替えられたといいます。おそらく、350年以上は経っているのではないかということでした。
 歴史というのは、案内板に書いてあるものより、境内地の樹木などが無言で語りかけてくれるような気がします。孔子は、「1年先を思う人は花を育てなさい。10年先を思う人は木を育てなさい。百年先を思う人は人を育てなさい」と言ったそうですが、屋久杉などは1,000年以上経っていますから、千年先を思うなら、やはり木を植えようと私は考えています。
 ここまで各札所をまわってみて、一番安心するのは、樹々にかこまれたところです。こういうところは、夏になれば大きな日陰をつくってくれ、そこを流れる風も、さわやかに違いありません。
 そんなことを考えながら、駐車場に戻ると、先ほどから1台もここの駐車場を利用する方がいません。そこで、ここで買ってきたおにぎりを食べることにしました。どこのコンビニでもお手ふきをつけてくれるので、先ずは手を拭いて、それからゆっくりお茶を飲みながらおにぎりを食べました。
 食べながら、次の予定を考えたのですが、中尊寺近くに宿は少なく、国民宿舎サンホテル衣川荘を予約していました。予定では毛越寺と中尊寺の2つの特別霊場をまわって宿に入るつもりでしたが、奥州市水沢の第25番札所黒石寺に先に行くことにしました。

 第27番札所 東光山 観福寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あまおとめ たちもふくさや きはてらの のりのちからを ただたのめとや



☆奥州三十三観音札所巡り Part.23

 第25番札所黒石寺へは、県道14号線を通って、平泉町を抜け、北上川に沿うように走ります。水沢に入ってから、国道343号線に入り、しばらく走ると左側に「妙見山 黒石寺」と書かれた大きな案内板があり、そこから左に入るとすぐに駐車場です。ここまでは、第27番札所観福寺から17.7q、22分ほどかかりました。
 駐車場には葬儀社のマイクロバスが駐まっていて、乗用車も何台もあり、もしかすると葬儀でもあるのかと思いました。それでも、先ずは車を駐め、本堂に向かうと、黒枠で囲われた案内板があり、葬儀の受付所を示しています。庫裡のほうから、読経も聞こえてきました。
 私は観音堂にお詣りできればいいので、石段を上り、その正面の本堂で軽く手を合わせ、その左手にある観音堂に行きました。案内書には平成8年に建てられた真新しい観音堂の写真が載っていましたが、今は風景に馴染んだ色合いになり、「釈迦観音堂」の扁額が掲げられていました。
 左の写真は、石段を上った正面の本堂で、右が観音堂です。

 そこで観音経などを唱えましたが、扉には鍵がかかったままでした。案内書によれば、ご本尊は千手観世音菩薩で、60pの大きさのお姿と、その他に33pのお姿も2体まつられているそうです。さらに100pの釈迦如来や文殊菩薩と普賢菩薩も安置されているとのこと、そこから釈迦観音堂の名がつけられたようです。
 ここの行事で有名なのが「蘇民祭」で、旧正月の7日夜半から8日にかけて蘇民袋の争奪戦があり、県内外からも若者たちが参加するそうです。
 お詣りが終わり、ご朱印をいただきに庫裡に行くと、やはり葬儀だそうで、しかも寺族の方らしく、葬儀社の方にか受付にいませんでした。なかなかこちらの意向が伝わらなくて、しばらく待っていると、ある方がもしかするとこれですかとご朱印の押された紙を持ってきてくれました。
 それをいただき、もう一度本堂の方へ行くと、庫裡を囲むように土塀があり、その一角が鐘楼になっていました。しかも二層になっていて、鐘のある二階には手すりもあり、上れるようになっているようです。でも、今日はバタバタとしているようなので、くわしいことは聞けませんでした。
 駐車場に戻るころには、会葬者も帰り初めていて、忌中法要の読経がかすかに聞こえてきました。車に乗り込み、もう一度平泉町への道を戻りました。途中の北上川にかかる箱石橋から眺めると、石川啄木の「やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」の歌を思い出すような風景に出合いました。
 次は特別霊場の毛越寺と中尊寺です。まだ12時35分なので、ゆっくりお詣りできそうです。

 第25番札所 妙見山 黒石寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ざいしょうの くろ石寺に つみきへて 山ふところに かねそきこゆる



☆奥州三十三観音札所巡り Part.24

 特別霊場なっている毛越寺と中尊寺ですが、今日の泊まりは奥州市衣川にあるので、先に毛越寺からまわることにしました。どちらも、2011年6月26日、フランスのパリで開かれた第35回世界遺産委員会で世界遺産に登録されたところです。
 それから初めての平泉なので、今回の奥州三十三観音札所巡りのもうひとつの楽しみです。もちろん、世界遺産に登録されたからといっても、お堂やその他のものはほとんど変わらないのですが、おそらく海外からの観光客が増えているのではと想像していました。やはり、毛越寺も中尊寺も聞こえてくる言葉は外国語のほうが多かったようです。
 毛越寺の駐車場に車を駐め、駐車料金を300円払い、山門風の受付で拝観料500円でした。受付に行く途中のサンシュユの花は、遠くからでも目立ちました。受付前の広場のシダレザクラも満開で、一番季節の良いときではないかと思いました。先ずは入ってすぐのお札やお守りなどの授与所でご朱印をお願いし、そのまま本堂に向かいました
 左の写真は、毛越寺の本堂で、右は中尊寺の本堂です。それから、せっかく境内地に入ったので、浄土庭園や臨池伽藍跡などを見て、ご朱印所に戻りました。
 そういえば、岩手県の五葉山にシャクナゲの仲間たちと登ったとき、その帰り道で水沢に泊まり、ここにお詣りしたことがあります。そのときはちょうど花菖蒲の盛りで、とてもきれいだったことを思い出しました。
 毛越寺に着いたのは午後1時5分でしたので、ここには45分ほどいたことになります。

 次は中尊寺ですが、ここには5分ほどで着き、市営の無料駐車場に駐めました。
 そこから月見坂を上り、途中の東物見台から北上川を眺め、地蔵堂の前を通り、本堂に入りました。左手には大きなウメの木があり、たくさんの花を着けていました。
 本堂近くの受付でご朱印をいただき、その間もそのウメの香りを楽しみながら、待っていました。意外と早く書いていただき、それをバックに入れ、せっかくなので金色堂まで行くことにしました。そこから峯薬師堂や大日堂などをお詣りしながら、金色堂近くまで行き、何度もなかに入っているので、今回は外から遙拝しました。
 そして、そこから折り返し、参道右側ある不動堂や薬師堂などを巡拝しながら駐車場へと戻りました。その途中、中国の人が多いと思いましたが、先日、ある本を読んでいたら、中国人訪日客向けのビジネスに必要なのは、「無料Wi-Fi」「コミュニケーションツール」「決済サービス」の三種だと書いてありました。私も毎年中国に行ってますが、ホテルや食堂はほとんど無料Wi-Fiですし、支払いもQRコードを利用した決済です。ビックリしたのは、露天商でさえも、現金支払いはできず、スマホをかざして決済していました。そこで、同行した中国科学院の先生にスマホで決済をしてもらい、その金額を先生に渡すという方法で買い物をしました。それほど進んでいるわけですから、中国人を受け入れるにはそのような対応しなければならないと思いました。
 ここ中尊寺では、だいぶゆっくりとお詣りして歩いたのですが、まだ午後3時です。後は予約していた国民宿舎サンホテル衣川荘にいくだけです。
 そこで、宿でお抹茶でも飲もうと、お菓子を買っていくことにしました。この平泉町のお菓子屋を検索すると、高館義経堂の先の「菓子工房 吉野屋」があり、先ずはそこに行くことにしました。ところがお抹茶にあうお菓子がなく、店主に聞くと、このすぐ近くにもお菓子屋があるというので、その教えられた「こがね屋菓子店」に行きました。ここは、頼まれた上生を造ったこともあるといいますが、今日はないといいます。そこで、名札だけあった「うぐいす餅」はないかと尋ねると、売り切れたそうです。しかし、店の奥から声が聞こえてきて、すこし待っていると2個だけ持ってきてくれました。まさに出来たてです。
 それを持って衣川荘に行くと、ちょうどチェックインの時間午後3時30分でした。今日は近場だったせいか走行距離は101.3qでした。歩数は、14,119歩で、おそらく毛越寺と中尊寺の境内を歩いたのが影響したようです。また、今日までの総走行距離は439.3qです。
 ここは2食つきで8,424円です。夕食までの時間、さきほどのお菓子でお抹茶を飲み、本を読みながら、ゆっくりと過ごしました。そういえば、国民宿舎に泊まるのも、ほんとうに久しぶりでした。



☆奥州三十三観音札所巡り Part.25

 国民宿舎サンホテル衣川荘を出発したのは、午前7時55分でした。今日最初の札所めぐりは、第26番札所長泉寺です。今日もいい天気なので、順調にまわれそうです。
 長泉寺は一関市大東町にあり、ナビで確認すると37.9q、50分ほどかかるようです。先ずは、昨日お詣りした第25番札所黒石寺への道を進み、途中から国道343号線に入り、そのまま走ります。そして、大東町の信号から左折し、砂鉄川を渡り、それに添って進むと、左側に案内板が見えます、そこを左折するとすぐに見えてきます。その山門前に駐車場があり、ここに着いたのが午前8時38分でした。
 山門の両手前には、株立ちになった杉の巨木があり、それに護られるように二層の山門があり、それをくぐると石段です。そこを上ると正面に本堂があります。本堂は1736年に再建されたそうで、屋根は昭和39年に銅板に葺き替えし、今にいたっているそうです。右手にある庫裡でご朱印をお願いし、観音堂に向かいました。
 観音堂は、本堂と昭和47年に建てられた「亀峰閣」との間の渡り廊下の下をくぐり抜けると、そこに池を中心にした庭があり、その小高いところにありました。
 左の写真は山門で、右がその観音堂です。

 きれいに刈り込まれたツツジの間を縫うように石段があり、その先に観音堂があります。お堂は1間四方のこじんまりとしたもので、どちらかというと庭の点景物のような雰囲気です。右手には摩尼車があり、平成29年11月吉日建立とありました。その摩尼車には「般若心経」が金文字で書かれていて、これを1回まわすと般若心経を1回読誦したことになります。
 また、左手には観音さまの絵馬がかけてあり、おみくじも結ばれてありました。古い写真を見ると、このお堂は杉林のなかにあったようで、この周りの杉はその後伐採されたようです。
 その観音堂の前で観音経などを唱え、それから右手にある六角堂に行きました。これは奥州三十三観音の各札所の観音さまがまつられているそうで、昔は経堂だったそうです。
 そこから引き返し、もう一度観音堂の前で一礼し、庭を見ながら石段を下りました。この庭が一番よく見えるのは、「亀峰閣」の部屋からで、花木が咲くときにもう一度来てみたいと思いました。
 そして、ご朱印帳をいただき、車に戻ると午前8時55分でした。次からの3ヶ寺は、海沿いです。この前の東日本大震災で一番被害のあったところなので、この機会にご供養したいと考えてきました。先ずは第29番札所の普門寺です。

 第26番札所 亀峰山 長泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 うた人の ことのはやまの なもしけり もるるかたなき ちかひうれしき



☆奥州三十三観音札所巡り Part.26

 第29番札所普門寺は、陸前高田市米ア町にあります。第26番札所長泉寺からは30.9q、およそ40分ほどかかりました。
 先ず国道343号線を通り、気仙川にかかる橋を渡るとすぐに丁字路になり、そこを右折します。そして仮設の陸前高田郵便局のところで左折し三陸自動車道の下を通ると、2qほどで着きます。途中、仮設の家やかさ上げの工事のところを通ると、大きな被害があったことがわかります。ここへの途中に、「奇跡の一本松」の案内板がありましたが、枯れてしまったと聞いていたのでまわりませんでした。
 普門寺は海岸山という山号がついているぐらいですから、海岸の見える山手にあります。入口の門柱から代門まででもかなりあります。その5段ほどの石段を上った代門の左側には大きなサルスベリが株立ちになって植えられています。そして、そこをくぐると、その両側には樹齢400年といわれている杉並木になっていて、その途中にも何ヶ所かに石段があります。それを上りきったところに本堂がありました。
 何度か火災もあったそうで、1867年の火災ではほとんどの堂宇が消失し、本堂の右手にある庫裡は1872年に、そして本堂は1877年に再建されたそうです。先ほどの代門という名称は、まだ山門だけが再建されずに、そこにまつられるはずの仁王像は宝物庫に仮安置されているそうです。
 先ずはご朱印所になっている庫裡に行き、ご朱印をお願いしてから、本堂左側の衆寮への渡り廊下をくぐって観音堂に向かいました。

 観音堂は、きれいに手入れされた庭の小高いところにあり、そこにいたる石段の途中には1818年に建立された青銅製の大仏さまが安置され、さらに観音堂の左手には三重塔があります。これは1809年に建立されたそうで、九輪の高さまで含めると12.5mほどです。とても細工の細やかな三重塔で、見応えがあります。
 観音堂は、よく見ると蔵造りのようで、その扉を開くことはできませんでしたが、その前で観音経などを唱えました。
 右の写真が観音堂で、左上は代門です。この観音堂から見ると、門かぶりの松や境内の堂宇が後ろ向きではありますが、みな見えます。池の向こうに植えられた枝垂れ桜が五分咲きぐらいでした。ここに上ってくるときに見た衆寮のわきのツバキは満開でした。なにより立派だったのが本堂の両側に植えられていたサルスベリで、その下の案内板には「県の天然記念物に指定されている」ことが書かれていました。
 庫裡にまわってご朱印帳をいただき、また、参道を下ると、その両側におびただしい小さな石仏が並び、青々としてコケも杉並木からの木漏れ日を受け清々しく感じられました。
 門柱のところまで引き返し、もう一度お辞儀をし、海の方をみると、遠くにおだやかな海が見えました。この海が、あの東日本大震災を引き起こしたのかと思うと、にわかには信じられませんでした。
 車に戻るとちょうど午前10時です。次は大船渡にある第28番札所の蛸浦観音です。

 第29番札所 海岸山 普門寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 もれいつる くわたのかとを 松のこゑ なみのひびきも みのりなるらん



☆奥州三十三観音札所巡り Part.27

 第28番札所蛸浦観音は、大船渡市赤崎町にあります。国道45号線に入り、大船渡市大船渡町上山の信号を左折します。そこから県道9号線にいたる道は、ほとんど工事中で、車も混雑していました。県道9号線を右折すると、太平洋セメント(株) の巨大な工場があり、そのわきを進みます。ところが赤崎町にある蛸の浦簡易郵便局を過ぎても、蛸浦観音に入る道がわかりません。ナビではこのへんだと思いながら、右折するところをさがしてみてもわかりません。そこで仕方なく戻って、沢工業というところで道を聞くと、海沿いの防波堤の工事をしているところから入るそうです。そこで、その道を進むと、今度は尾崎山のほうに入り込んでしまいました。
 また引き返し、よく見ると、その巨大な防波堤のところにトンネルみたいのがあり、そこから入ると、船着き場に出て、そこの北側に石の鳥居が見えました。
 その手前の広くなったところに車を駐め、石の鳥居をくぐり、石段を上ると尾崎神社の本殿です。その右隣が観音堂です。ナビで確認しても、尾崎神社はすぐに出てくるのですが、大善院や蛸浦観音と入力しても出てはきませんでした。ご朱印所をさがしても、尾崎神社社務所しか出てきませんし、さきほど道を聞いた方も神主さんと呼んでいました。ここも、神仏習合の時代のところのようです。やっと着いたとき、時計をみると午前10時40分でした。
 左の写真が海岸端にある石の鳥居で、右が観音堂です。この石の鳥居は、波打ち際にあり、おそらく今回の東日本大震災の影響をうけたようです。

 観音堂は、その被害も受けないで、古いたたずまいを遺していました。すぐ近くでは巨大な防波堤がつくられているのに、ここは何ごともなく、昔からそのままです。むしろ、神仏分離令という人間の影響のほうが大きかったようです。
 やっと訪ねてきたお堂の前で、観音経などを唱えて、あわせて東日本大震災で亡くなられた方々のためにも祈りました。
 聞こえてくるのは、波の音だけです。とても静かなところで、ゆっくりとお詣りをさせていただきました。
 ここを護っているのは大善院の流れをくむ崎山家で、今は神主さんだそうです。その社務所にうかがい、ご朱印をいただき、また来た道を帰りました。
 途中で見つけた「かもめテラス」により、三陸菓匠さいとう総本店は齊藤餅屋から始めたと聞き、お土産に「かもめの卵」ではなく、餅菓子を買いました。ついでに、パンも作っているというので、パンも買い、保冷庫に入れました。
 それから、気がつくと、そろそろガソリンも入れたほうがよさそうで、その近くのガソリンスタンドで54.45リッタルを入れ、次の第30番札所の補陀寺に向かいました。まだ午前11時少し過ぎなので、お詣りが終わってからゆっくり昼食を食べることにしました。

 第28番札所 大善院 蛸浦観音 (修験宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ときわかぬ なみにも花を さきやまの 大慈大悲の ちかいとぞみる



☆奥州三十三観音札所巡り Part.28

 第30番札所補陀寺は、気仙沼市古町にあります。先ず大船渡碁石海岸インターから三陸自動車道に入り、先ほど通った陸前高田を抜け、気仙沼市内に入ります。お寺は、JR 気仙沼駅の裏手の高台にあります。
 道路がY字形に別かれたその中央に山門があり、その手前の両側が駐車場になっています。ここに着いたのは12時少し過ぎでした。
 先ず、石段を数段上るとそこに山門があり、それをくぐるとまた十数段の石段があり、それを上りきると両側に阿吽の獅子がありました。そして、その少し左寄りに本堂があります。
 その本堂の前には大きな樅の木があります。その根元には「補陀寺の樅」と彫られた小さな石柱が立っていました。
 そこを左手に進むと、観音堂です。通称、六角堂ともいわれ、朱塗りのお堂は、瀟洒な感じで一段高く盛り土をしたところに立っていて、5段ほどの石段を上り、さらにお堂の階段を上がります。「観世音」と彫られた大きな扁額がかかげられ、その前に鰐口がありました。右下の写真がその観音堂で、左が山門です。

 観音堂で、今回の最後の札所なので、ゆっくりと今日までお詣りさせていただいた感謝を込めて、観音経などを唱えました。お堂の後ろは竹林になっていて、その葉の擦れ合う音がときどき聞こえてきます。ここ気仙沼には一度泊まったことがありますが、駅周辺はそれなりにざわついたところがありますが、ここは、ほんの少ししか離れていないのにまったく静寂です。ここの境内の後ろが山につながっているので、その懐にいだかれているからかもしれません。
 この観音堂は昭和44年8月29日に宮城県の有形文化財に指定されていることなどを書いた案内板があり、扁額の説明もあり、これは仙台瑞鳳寺十四世南山古梁禅師が揮毫されたそうです。また、1802年に修理したという文書も残っているそうで、このお堂がいかに大切に護られてきたかがわかります。
 お詣りをすませ、本堂の右手にある庫裡に行き、ご朱印をお願いし、車に戻りました。
 まだ、12時30分ぐらいなので、この気仙沼で昼食を食べることにしました。スマホで寿司と入れると、「ゆう寿司」があったので、そこで食べました。1,900円(税別)で、とても美味しくいただきました。食べ終わって時間をみたら午後1時30分でした。
 そして、車に戻り、ナビで自宅までの距離をみると、250qほどです。後は何もいそぐことはないので、三陸道をゆっくり走り、仙台市内から国道4号線に入り、途中で13日に泊まった名取市の「バリュー・ザ・ホテル 仙台名取」近くのブックオフにまた立ち寄り、数冊の本を買ったり、なんどか休みながら白石から七が宿街道を通って自宅に戻りました。
 時計をみると、午後7時過ぎでした。今日16日の走行距離は377.2q、4日間の総走行距離は816.5qでした。この日は4ヶ寺だったこともあり、歩数は7,586歩でした。しかも、一人で運転しましたが、ほとんど疲れず、とても気持ちの良いお詣りができました。
 まだ、札所6ヶ寺と特別霊場の医王寺とが残っています。なんとか今年中にお詣りをしたいと思っています。

 第30番札所 白華山 補陀寺 (曹洞宗) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 あつまぢや かかれるつみと ふたらくの てらいにすめる 月よこころよ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.29

 奥州三十三観音札所のなかで、ここから一番遠い岩手県北部の3ヶ寺を後からと考えていましたが、2019年の「大人の休日倶楽部パス」の1回目が6月20〜7月2日までだったので、この機会に行くことにしました。6月25日に米沢駅7時18分発の在来線で福島駅までいき、福島駅から東北新幹線「やまびこ201号」で仙台駅まで、そこでまた東北新幹線「はやぶさ3号」に乗り換え、二戸駅に午前10時20分に到着しました。そして、駅前でレンタカーを借り、第33番札所天台寺に向かいました。
 天台寺に着いたのは、午前10時58分です。ここの駐車場はとても広く、観光バスも駐車できそうです。この日は、1台しか駐まってませんでした。
 そこに車を駐め、その先から参道に入り、少し上っていくと、石灯籠があり、その先も長い参道が続いています。その両側には小さな石仏がたくさん並び、ところどころにアジサイも咲いていました。仁王門は保存修理工事中ということですっぽりと覆われ、ほとんど見ることはできませんでした。
 その右手から上っていくと、これも保存修理工事中の本堂が見えてきました。今年の春までは、仁王門と同じように全体が覆われていたそうですが、このときは、屋根の部分が完成し、回廊の部分だけが覆われていただけでした。完成の予定は、令和元年度中にということで進められているそうです。
 右の写真は、参道沿いにある小さな石仏で、左は現在保存修理中の本堂です。
 先ずは売店で文化財保護協力金300円と、ご朱印料の300円は支払い、借り本堂に行きました。ここは寂庵と呼ばれていたところで、この中に入ってお詣りをしました。

 それからその先にある薬師堂と毘沙門堂、そして姥杉の復元されたものを見て、いったん下り、次に本堂の裏手にある護摩堂や文化財収蔵庫などを見て、本堂を一周するかのように参拝して歩きました。そして、本堂と鐘撞き堂の間から、本堂正面に出てきました。
 そういえば、この本堂の回廊に立って、青空説法をしていた瀬戸内寂聴さんの写真を思い出しました。おそらく、この天台寺を一躍有名にしたのが瀬戸内住職で、昭和62(1987)年に住職に就任したそうです。
 この法話を聞きたくて、全国各地からこの本堂前の広場に1,000人ほどの人々が集まったそうで、だからこそ、あのように広い駐車場が必要だったわけです。しかも、比叡山延暦寺からは不滅の法灯の分灯を受けたとか、それは本堂の修理中で見ることはできませんでした。また、参道などのたくさんの石仏は奉納されたもので、また、瀬戸内さんの提案でアジサイなども植えられたそうです。
 そういえは、瀬戸内さんの言葉に「運が来たなと勘が働かなきゃダメ。これは運だなと思ったら逃さない。」というのがありますが、そのような積極的な行動がここ天台寺でも発揮され、今も堂宇の保存修理できているのかもしれません。また、「美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に強い勇ましいものに感動して、思わず感情がこみあげて、涙があふれるというのは若さの証しです。ものに感動しないのが年をとったということでしょう。」という言葉もあり、今回の旅でも各地をまわり、自然の素晴らしさを感じることができました。
 やはり、お寺を護っていくのは人で、その人次第でお寺も変わっていくということです。このような山奥のお寺でも、住職さまの人柄で、全国から人が集まってくるという現実を考えると、住職次第ということでもあります。
 帰りに、ご朱印をいただき、ゆっくりと参道を下り、駐車場へと戻りました。時計をみると、午前11時40分です。
 次の第32番札所の正覚院までは、ナビで確認すると35.1q、51分ほどかかるそうです。もし、時間があれば途中で昼食にでもしようと思いながら、出発しました。

 第33番札所 八葉山 天台寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ごくらくの あづまにきたよ にしのかど 月のかつらも きよきみづなみ



☆奥州三十三観音札所巡り Part.30

 「大人の休日倶楽部パス」で出かけた今回の奥州三十三観音札所巡りは、次の第32番札所正覚院で、やはりこの辺りは車でまわらないと次々にお詣りして歩くということはできそうもありません。ここ正覚院は岩手郡岩手町御堂にあり、「御堂観音」とも呼ばれているそうです。
 ここに着いたのは12時40分でした。お堂の向い側にある「北上川源泉いわてまち川の駅」の駐車場に車を駐め、そこから歩きました。道路のわきには、ヤマツツジが植えられていて、おそらくご詠歌の「岩つつち」からの発想ではないかと思いました。
 もともと、イワツツジはツツジ科スノキ属で、北海道や本州の中部地方以北にし自生する植物です。背丈も5〜10センチほどの矮性なツツジですが、場所によりミツバツツジをさすこともあるので、なかなかわかりにくいようです。
 この道のすぐわきに山門があり、そこをくぐって石段を上ると、大きな二層の楼門があります。そこをくぐると、さらに石段がありますが、その前に左手にある朱印所にまわりました。ここは、すでに書いてあるご朱印でしたが、それをいただき、石段を上りました。
 左の写真は、道路から見た山門で、この奥に楼門があります。道路際には、観音堂や「弓弭の泉」などの案内板がありました。そして右は一番奥の本堂です。

 本堂前には、屋根の掛かった大きな香炉があり、本堂は三間四方の大きさで、昭和40年に火災で消失し、昭和45年に再建されたそうです。しっかりしたお堂ですが、まわりに大きな樹々があり、そのため湿気があり、なんかじめじめとした雰囲気でした。
 そのお堂の濡れ縁まで上がり、観音経などを唱え、お詣りをしました。それから、お堂のまわりを見ると、下の案内板にあった「弓弭の泉」がありました。これは、前九年の役のとき、源頼義と義家親子の軍勢は、この地を詳しくはわからないので、飲み水にも事欠いたそうです。そのとき、霊夢があり、弓弭で指し示された杉の根元を掘ると、清水が湧いてきたそうです。それをきっかけとして、戦に勝利し、ここに観音堂を建立し、義家の陣中念持仏である千手観音像をまつったといわれています。
 しかし、右上の写真を見るとわかりますが、香炉とお堂の間に見える大きな杉は少し焦げています。おそらく、お堂が火事で焼けたときのものか、それとも落雷かはわかりませんが、ちょっと残念です。この泉が、北上川のそもそもの一滴、つまり源流といわれています。
 この日に、石川啄木記念館と盛岡市内にある新婚の家をまわりましたが、啄木といえば、「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」が有名ですが、4月に奥州三十三観音札所巡りをしたときに、北上川にかかる「箱石橋」を渡りましたが、ちょうどそのときに北上川の両側にあるヤナギのやわらかい新芽がとてもきれいでした。
 お詣りをすると、次々と以前にお詣りしたときのことが思い出されます。
 駐車場に戻って時計をみると、ちょうど午後1時でした。次は第31番札所聖福寺です。ここからは18.9q、26分ほどだそうです。

 第32番札所 北上山 正覚院 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 よしあしを なにといはての 岩つつち まよいをてらせ 九世のちかひに



☆奥州三十三観音札所巡り Part.31

 午後1時も過ぎているので、次は第31番札所聖福寺までの途中のコンビニでおにぎりを買い、車のなかで食べました。4月に奥州三十三観音札所巡りをしたときに、ラーメンだと早いと思い食堂に入ると、なかなか出てこなくて、じりじりとしながら待っていました。そんなこともあったので、今回はもっとも時間がかからない昼食ですませ、八幡平市西根寺田の聖福寺に午後1時30分に着きました。
 お墓の前に駐車場があり、そこに車を駐め、橋の手前から本堂を見ると、その両側に植えられている杉の木に太陽の木漏れ日が斜めに走り、とてもきれいでした。そのなかを進むと、正面が本堂で、その右手に庫裡があります。先ずは、庫裡でご朱印をお願いし、その手前にある観音堂に行きました。
 ここの観音堂は別名「白坂観音堂」と呼ばれ、幾多の伝説に彩られています。ちなみに、左の写真が参道で、右が観音堂です。観音堂の左側には、植込みのなかに隠れるように「湯殿山碑」があり、右手には大きな「観世音菩薩」と彫られた石碑が数基立てられていました。

 観音堂の正面から、石段を五段上り、そこからお堂の階段を五段上ります。そこでお賽銭をあげ、鰐口を鳴らし、それから戸を開けると、ご本尊さまが拝めます。とても素朴な七面観音像で、その真上に掲げられた扁額も「観世音」と墨書きされていて、筆名も何も書いてありませんでした。
 そこでお詣りしていると、首筋に何か落ちてきたように感じ、上を見てみると、たくさんのミツバチがいました。おそらく、そこから蜜が少したってきたようです。一心にお詣りしているときには気づかなかったのですが、ミツバチの羽音がだいぶ聞こえてきます。お詣りが終わって、庫裡のほうに行き、ご朱印帳をいただいたとき、お堂にミツバチがいることを話すと、だいぶ昔からいるとのことでした。そこで、私もミツバチはいたずらさえしなければ刺さないですからというと、ご住職は笑っていました。
 そのとき、昔聞いたアインシュタインの「ミツバチがいなくなると、その4年後に人類も滅びるだろう。」という言葉を思い出しました。これを聞いたときには、どのようなことなのかわからずにいましたが、最近の大量のミツバチの死骸が見つかったことでいろいろな調査が行われ、もしかすると、「ネオニコチノイド系農薬」かもしれないといわれるようになってきました。この農薬は、ヨーロッパなどでは危険性があるので、使用禁止されているところが増えてきました。しかし、わが国では逆に基準緩和されています。
 そういえば、参道のわきに、立て札があり、そこには「樹木を大切にしましょう。お墓で「除草剤」は使用しないでください。草は各自お持ち帰りください。」と書いてありましたが、これもミツバチだけでなく、自然そのものを大切に護るためだと思います。
 また、ミツバチで思い出すのが、アガサ・クリスティの「ミツバチが他の生物より尊敬されるのは、勤勉だからじゃない。それは他者のために働いているから。」というのがありますが、今回の奥州三十三観音札所巡りで、いろいろなことを考えさせられました。これも、観音さまの教えではないかと思います。
 車に戻り、今回の旅では3ヶ寺でしたが、次は一番近い福島県内の3ヶ寺と特別霊場の医王寺をまわると、奥州三十三観音札所の満願を迎えます。それを楽しみにして、レンタカーを返す盛岡駅に向かいました。その途中、たまたま見つけた「石川啄木記念館」を観て、そこで教えてもらった「啄木新婚の家」を観て、レンタカーを返しました。

 第31番札所 江峰山 聖福寺 (曹洞宗) 本尊さま 七面観世音菩薩
 ご詠歌 紫の 雲を染田の 観世音 ただ十念の おこたらぬ身を



☆奥州三十三観音札所巡り Part.32

 2019年の「大人の休日倶楽部パス」を利用しての岩手県北部の3ヶ寺の巡礼を終えて、帰宅したのが6月28日でした。それから、10日余りが過ぎ、やはり始めた以上はなるべく早く札所をお詣りしたいと思い、7月9日に福島に出かけました。
 やはり最初に考えたとおり、近くの福島はいつでも行けると思っていましたが、その機会をなんとかつくらないとやはり行けないようです。この日は曇りがちでしたが、午前7時40分に出て、福島までは2017年11月4日に開通した東北中央道で福島大笹生インターチェンジまで行き、そこから一般道で先ずは特別霊場の医王寺に向かいました。
 ここは福島市飯坂町にあり、松尾芭蕉が奥の細道でまわったところでも有名です。私も一度お詣りしたことがありますが、今回は奥州三十三観音札所巡りの流れでのお詣りです。ここに着いたのは午前8時35分で、やはり高速道路を使ったからこその時間でした。
 入口近くの駐車場に車を駐め、受付まで行くその途中の参道の真ん中に、丸太の上に植木の盆栽が載っていて、その植木の根元にたくさんのウチョウランが植えてあり、満開でした。そういえば、この近くの庭坂には、山野草を扱うお店もあり、栽培も盛んです。ここ医王寺は、福島市の緑の100選にも選ばれているそうで、緑豊かな境内地です。
 左の写真は、奥の院の薬師堂に通じる参道で、右の写真は医王寺の本堂です。手前の石仏は慈母観音像です。

 先ずは本堂に入れてもらい、なかで観音経などを唱えました。ここのご本尊は大日如来なので、そのご真言も唱えました。ここは真言宗豊山派で、本堂手前の右側にお大師さまの銅像が立っていて、左側の少し手前に慈母観世音菩薩の石像も立っていました。
 本堂の左手の塀際に、松尾芭蕉の句碑があり、その脇に黒御影石に読みやすいように楷書で芭蕉がここで詠んだという「笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟」と刻まれていました。この時期は、どこもアジサイが咲いていて、この句碑の周りもアジサイとキンシバイがとてもきれいでした。そういえば、奥の院の薬師堂に行く途中に蓮池があり、白ハスと普通のハスが咲いていて、その付近には中尊寺ハスも植えてありました。
 ちょうど、蓮池の手入れをされている方がいて、お話しをうかがうと、ハスの花がみな東を向くので、こちら側からだと花の後ろしか写らないけど、少しでもきれいにしておきたいと話してくれました。
 帰り道、宝物館の「瑠璃光殿」では、芭蕉の品々を展示していて、そのなかに弁慶が所持していた鍍金装笈も展示されていて、これは県の重要文化財に指定されているということでした。それで、あの芭蕉の句が生まれたのではないかと思いながら、この医王寺を後にしました。
 ここに着いたのは午前8時35分、ここを出たのは9時20分です。ということは、ここで45分いたということになります。次は第11番札所天王寺です。ナビで確認すると、3.2q、8分だそうです。



☆奥州三十三観音札所巡り Part.33

 第11番札所天王寺は、医王寺と同じ飯坂町にあります。ここは日本四天王寺のひとつだそうで、飯坂温泉の南の山裾にあります。
 ここに着いたのは午前9時25分ですから、医王寺からはあっという間でした。観音堂近くに駐車場もあり、そこに車を駐めて、もう一度本堂へと至る参道の手前まで行き、そこから歩きました。白御影石の石柱の右側には「臨済宗妙心寺派」と、そして左側には「香積山 天王寺」と彫られていて、その参道を進むと右側には桜の木が植えてあり、その先に十段ほどの石段があり、そこを上ると山門です。山門の右側には「臨済宗妙心寺派 香積山 天王寺」、そして左側には「国指定重要文化財 経筒」と書かれていました。ちなみに、経筒出土品はここの裏山で明治32年に発見されたそうで、そのなかでも陶製の経筒が指定されているそうです。
 山門を通ると、左側に手水場があり、正面の本堂には、八段ほどの石段があります。その手前のノハナショウブは、まだ少し咲いていました。本堂でお詣りをし、その右手にある庫裡でご朱印をお願いし、その右手に少し進むと小さな池があり、そこに石橋がかかっていました。
 その石橋と観音堂に至る石段との間には、右手に「奥州三十三観音霊場 第十一番札所 天王寺」、そして左手には「信達三十三観音霊場 第十一番札所 天王寺」と白御影石に彫られた石柱が立っています。いつかは信達三十三観音霊場もお詣りしたいと思いながら、石段を上りました。その石段の左側には「香積観音」の石像、そして右側には子育地蔵尊がまつられていました。

 石段を上った正面が観音堂です。左側の写真は天王寺本堂で、右が観音堂です。
 お堂は天正年間に伊達照宗の寄進で建立されたと伝えられ、三間ほどの大きさです。鰐口の緒が5本ほど下がっていて、そこでお詣りをしました。お堂の中を観ると、立派な厨子の前に観音さまの写真が飾ってあり、ご本尊さまのようでした。しかし、中は薄暗く、ほとんど観ることはできませんでした。
 お堂の右手前には釣鐘堂があり、その脇のイチョウの大木は、案内板によると「なき銀杏」とも呼ばれているそうで、地元の方の説では、樹齢400年もの古木なので大風が吹くと幹がこすれてギーギーと泣くような音を立てるからといいます。でも、あちこちのイチョウの大木を見ていますが、古木だからといって風で枝がこすれて音を出すというのは聞いたことがありません。はたして本当なのかと思いながら、石段の途中の子育地蔵尊をお詣りし、下ってきました。
 すると住職さんが帰られたということで、墨書きされたご朱印を裏口から持ってきてくれました。やはり、直接自分の持って行ったご朱印帳に書いていただけたほうが数倍も有り難いです。
 そして、駐車場のすぐ脇に、「ぼけ除け 延寿観世音菩薩」の石仏があるので、そこをお詣りしました。右手前にはおばあさん、左手前にはおじいさんの石像もあり、観音さまに祈っているお姿です。
 ここは奥州三十三観音札所のなかでは一番南にあり、関東圏からお詣りすると、ここから始めるという方が多いそうです。でも、私の場合はあまりにも近いので、この福島4ヶ寺は最後になってしまいました。次は第12番札所観音寺で、伊達郡桑折町万正町にあります。ここ天王寺からは、ナビで確認すると9.4q、17分だそうです。
 出発したのは、午前9時45分でした。

 第11番札所 香積山 天王寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 てらさめと にこれる世にも じげんして 草木もともに ちかひもらさず



☆奥州三十三観音札所巡り Part.34

 第12番札所観音寺に向かう途中で、「万正寺の大カヤ」の案内板を見つけ、車を駐めると、大きなカヤの木がありました。観音寺はここから200mほどなので、先ずはお詣りを先にすることにしました。
 観音寺の手前の左側に大きな駐車場があり、そこに車を駐めました。時間は午前10時5分です。少しうなり声のような音が聞こえるので、辺りを見渡すと、何もありません。そういえば、先ほどの大カヤのところを東北自動車道が走っていたので、それかなと思っていると、たしかにそうでした。大きな音ではないのですが、低周波のように耳にささるような音なので、だいぶ気にはなります。
 坂道を上ると、観音寺本堂に行きます。その右手に庫裡があるので、先にそこにご朱印をお願いしました。
 そして、本堂でお詣りし、さらに進むと観音堂の横に出ます。そこで、正面にまわり、そこから石段を下り、仁王門をぬけて、もともとの参道から改めて進みました。仁王門の石垣の下にはアジサイが植えられていて、ちょうど見頃でした。石段を上り、仁王門をくぐると右手に鐘撞き堂があります。そして、また20段ほどの石段を上ったその先に観音堂があります。このお堂は、別当寺の観音寺より歴史があり、大同年間に坂上田村麻呂が奥州の蝦夷平定のときにこの地に建立し、聖観世音菩薩を安置してまつったといわれています。たしかに、四方四間半に欄干のある濡れ縁もあり、相当大きなお堂です。
 ちなみに、左の写真は仁王門で、右は観音堂です。

 観音堂の階段を上り、そこでお賽銭をあげ、鰐口を鳴らし、そこで観音経などを唱えました。ここの観音さまは、丈六の坐像で、県の文化財に指定されているそうです。
 格子から観ても、暗くて、御簾のようなものが掛かっていました。ご朱印を頂くときに聞きましたら、ご本尊のご開帳は、毎年、旧正月17日と4月16、17日の3日間だけだそうです。ここには、たくさんの文化財があるそうで、指定されているものだけでも17点、やはり由緒のある古刹の風格があります。この伊達には、「伊達五山」といわれていたお寺があったそうですが、今も残っているのはここ観音寺だけだそうです。
 それにしても、東北自動車道の騒音は気になります。観音堂でお経を唱えているときも聞こえますし、境内を歩いているときも、聞こえます。
 今まで、高速道路を利用しながらも、その付近に住んでいる方々の騒音被害までは気にしなかったのですが、これが四六時中、しかも夜中もこの音を聞かせられれば、そうとう大変です。本当に、何らかの対策をとってほしいと思いました。
 観音寺を出たのは午前10時25分です。次の第13番札所大聖寺までは、ナビでみると2.7q、7分です。
 その前に先ほどの大カヤにまわると、通りすがりではわからないほど、大きなカヤの木でした。案内板によると、幹回り約7.5mほどあり、カヤの巨樹としては日本一だということです。そして、この根元からは、古瀬戸瓶子ほかが出土したそうで、そのなかに炭と骨片が入っていたと伝えられています。
 ここを1周して写真を撮りましたが、東北自動車道のすぐ近くなのに、ほとんど騒音は感じられませんでした。もしかすると、風向きなども影響しているのかもしれません。

 第12番札所 大悲山 観音寺 (浄土宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしや いきとしいける ものことに すくはんための ちかひときけば



☆奥州三十三観音札所巡り Part.35

 第13番札所大聖寺は、福島県伊達郡桑折町上郡観音沢にあり、午前10時40分に着きました。
 お寺のすぐわきに駐車場があり、そこに車を駐めて、進むと右側に庫裡と本堂があります。先ず、庫裡にまわり、ご朱印をお願いすると、たった今、住職が出かけたということで、ご朱印にスタンプということになりました。だから、先にご朱印所にまわるようにしているのですが、時にはこのようなこともあります。
 そこから、一端、境内地の外に出て、気持ちを改めて、用水路にかかる小さな橋を渡ると、その両側にアジサイが咲いていました。その正面が本堂です。ちょうど、屋根の修理をしているようで、足場が組まれていました。
 観音堂に至る参道も、正式には別の用水路にかかる橋を渡っていくようで、その正面に20段ほどの石段があり、その右手には「南無観世音菩薩」と彫られた自然石がたっていました。石段を上ると、その左手には鐘撞き堂があり、正面が観音堂です。
 左の写真は修理中の本堂で、右が観音堂です。

 ここは常西寺観音と称していて、昔は補陀山常西寺というお寺だったそうです。現在の観音堂は、昭和59年に大改修され、内部もきれいに整理されていました。目を凝らすと、なんとか金色の聖観世音菩薩がみえ、その右手の白い幟にはご詠歌と常西寺と書かれていました。
 そこで、観音経などを唱え、ここで奥州三十三観音札所巡りが無事終わったことをご報告しました。
 考えてみれば、始めたのが今年の4月13日で、16日までの4日間でした。次が「大人の休日倶楽部パス」を利用しての岩手県北部の3ヶ寺をまわったのが6月25日で、今回の7月9日で福島県内の4ヶ寺を巡り、満願となりました。あわせて6日間のお詣りの旅でした。
 たしかに、奥州三十三観音札所は福島県、宮城県、そして岩手県と3県に渡っているので、時間もかかります。でも、それだけに、達成した満足感はあります。ここの札所のご詠歌のなかに、五濁、即ち5つの悪いことですが、その1つは劫濁(こうじょく)で、飢饉や天災、戦争などが起こること。そして2つ目は見濁(けんじょく)であやまった考えなどがはびこること。そして3つめが煩悩濁(ぼんのうじょく)で、人を迷わす煩悩がはびこること。そして4つめが衆生濁(しゅじょうじょく)で人々の心身の資質が低下すること。最後が命濁(めいじょく)で、人々の寿命が短くなることです。この五濁の罪が巡礼をすることによって少しずつ消えていくというような意味ではないかと思います。
 つまり、巡礼は自分だけでなく、周りの人たちにもその功徳が及ぶということです。だとすれば、これからもたくさんの霊場巡りをしたいと改めて思いました。そして、ここ奥州三十三観音札所が末永く栄えることを念じながら、今回の旅を終わりにしました。
 ここ第13番札所大聖寺を出発したのは、7月9日午前11時でした。

 第13番札所 明王山 大聖寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 をもくとも 五じよくの 罪はきえつべし 身はじゅんれいの みちにいづれは