☆ 本のたび 2026 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.2506『日本人と植物』

 著者は、仙台市の生まれで、東北大大学院の薬学研究科博士課程を修了し、現在、日本薬科大学客員教授で日本薬史学会会長を務めているそうです。そして、2025年度「日本薬学会教育賞」を受賞したとプロフィールに書いてありました。
 私も薬学関係の方との交流があり、興味もあるので、たまたま手にしたのですが、読むことにしました。
 海外に行って帰ると思うのですが、日本ほど緑豊かな国はないと思います。この本にも「日本はとても植物資源に恵まれた国でもあって、21世紀初めの調査では、わが国には約7000種の植物が自生しており、そのうち約2900種が日本の固有種という。これは世界的にも、とても豊富な植物資源といえる。しかし一方、わが国自生の植物のうち、現在、1690種が絶滅危惧種とされていることにも注目しておきたい。」と書いてありますが、緑豊かな国もありますが、植物の種類は単調で、日本ほど多様性はありません。しかも、四季の変化がない国もあるので、なおさらです。
 それにしても、日本の固有種や自生植物の1690種が絶滅危惧種とは驚きです。さらに動物などを含めた日本の生物の絶滅危惧種は、環境省の2020年版のレッドリストによれば、3,716種が掲載されているので、これまたびっくりしてしまいます。
 そういえば、地元の小学生に近くの自然を身近に感じてもらうために野外学習をしたことがあり、そのときに毒草のトリカブトを見つけ、説明したことがあります。この本でも、奈良時代の養老律令にもこのサリカブトのことが書いてあるそうで、「トリカブトの塊茎を植えると、その年の芽が出、綺麗な花を咲かせるが、晩秋に掘り上げると、今年芽がでた芋の脇に小芋がっく。この今年できた小芋を附子(ぶし)という。一方、その親芋の方を鳥頭(うず)という。それはこの芋の形や色がカラスの頭に似ているからである。」ということです。
 地元ではあまりニリンソウは食べないのですが、この葉とトリカブトの葉が似ていることもあり、食中毒を起こすことがあります。その小学生の野外学習でも、トリカブトのすぐ近くにニリンソウが生えていたので、見比べてもらうと、本当にそっくりです。ただ、植物に詳しい方だとわかるのですが、ニリンソウの株のなかにトリカブトが混ざっていたりすると、間違いやすいようです。
 この小学生の野外学習も、三沢地区の「春の山野草展」の一環でしたが、それを後援している米沢山野草会の初代会長さんが、「薬という漢字は、くさかんむりに楽しむと書くから、植物に親しむのが一番の薬になる」とよく話していました。
 ところが、この本には、「学生時代に、薬という字は、草を患者さんの頭に乗せて楽にさせるという意味からできたと習った。この話、くさかんむりは間違いないが、「楽」とぃうところは、ちょっと違っているようである。実は「楽」というのは、薬を調製するときに植物材料を薬研でゴリゴリと細かく潰す音のことを示すのだそうである。だから、たとえば楽器は、楽しい器、あるいは器を楽しむことではない。楽な器でもない。これは音を出すとぃぅところから来ているのである。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 この話しは、日本薬史学会会長さんがいうのですから、間違いはなさそうです。
 また、感覚的には民間薬と漢方薬は違うとは思っていましたが、じつは「一般に単味、すなわち、ひとつの植物だけで、そして、主に本人や家族などの判断で、ゲンノショウコ、カキの葉などが使われる」のが民間薬というそうです。そして、漢方薬というのは、「原則として複数の生薬を組み合わせたもの」だといいます。
 つまり、葛根湯という漢方薬は、「麻黄(マオウ)、桂皮(ケイヒ)、芍薬(シャクャク)、甘草(カンゾウ)、大棗(タイソウ)、生姜(ショウキヨウ)、葛根(カッコン)の7種の漢方処方用薬の配合からなる漢方薬」ということになります。
 なるほど、これではっきりと区別がついたように思います。
 下に抜き書きしたのは、第5章「現代の日本人と植物」に書いてあった植物の話しです。
 私がマダガスカルに行ったのはコロナ禍が始まる前年の2019年9月から10月にかけてです。ニチニチソウがガンに効くという話しを聞いたことがあり、9月27日にサカラヴァ湾近くで野生種を見つけたときには、夢中で写真を撮りました。
 このマダガスカルの旅では、たくさんの植物の思い出がありますが、やはり一番はバオバブだったと思います。あのムルンダヴァのバオバブの並木道は3日間通いましたが、行くたびごとに新たな風景を見ているような気持ちでした。

(2026.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
日本人と植物船山信次原書房2025年12月1日9784562075782

☆ Extract passages ☆

 身近な花卉園芸植物として、ニチニチソウ(キョウチクトウ科)は、現在、わが国では真夏の花壇を彩る代表的な植物となっているが、もともとは遠くマダガスカル島からやってきた植物である。ニチニチソウからは近代薬であるビンカロイコブラスチンやビンクリステンという名前の付いたアルカロイドが得られ、これらは小児白血病などに応用されることから、ニチニチソウは現代医薬の原料植物でもある。ただし、通常の観賞用に栽培されるニチニチソウではアルカロイドの合有量は極めて少ないことから、製薬会社は含量の多いニチニチソウを原料としている。それでも大量の原料植物からごく少量のアルカロイドが抽出単離されるものである。

船山信次 著『日本人と植物』より)




No.2505『共感の論理』

 私は日本の教育は、ある程度、しっかりしていると思ってたので、副題の「日本から始まる教育革命」を見て、読むことにしました。
 明治時代の始めに、地球上のある国を後世に残したいのは日本だという話しを聞いたことがありますが、今の世界のニュースをみていても、そう思います。ある意味、日本人ぐらい他の人に親切な国民はいないと思います。これは、戦後の教育のおかげという部分もありますが、長い目で見ると江戸時代の寺子屋までも考えなければならないようです。
 よく、学習指導要領が出ると一時的に話題に上りますが、「日本の教育の指針となる学習指導要領は、10年ごとに改訂され、世界の変化に対応しようとしてきた。新たな指導要領が告示されると、小学校から順に新しい教育課程が実施され、最終的に高校へ行き渡るまでに約7年を要する。必然的に新しい指導要領の教育の効果が評価される前に、次の指導要領の策定を始めざるをえない。しかし考えてみれば、実際に新課程の教育を受けた児童が社会の中核を担うようになるのは、さらに約20年後である。指導要領の構想からは実に40年が経過している。」と書いてありました。
 つまり、教育というのは、とてつもない時間と労力がかかっているわけで、もし間違った教育方針が示されれば、それを訂正するには、また同じように長い時間と労力がかかるということになります。
 それで思い出すのは、この本にも書いてありましたが、しつけは「つ」のつくうちにしなければならないという話しです。「それは「九つ」以後の数には「つ」がつかないことから、生涯にわたって常に発動可能な道徳と価値観を身につけるには、九つまでにそれを教え込まないと手遅れになるということである。道徳/価値観を「内面化」するということは、誰も見ていなくても、罰則などがなくとも価値観に沿った行動が自然に取れるようになることを指す。」と書いています。
 よく昔は、誰も見ていなくても、お天道さまが見ているから、悪いことはできないと教えられました。その影響もあるのか、ほとんど誰も通らないような赤信号でも、ちゃんと停まらないと気分的に嫌な感じがしたりします。よくフランス人などは、誰も通らないなら、たとえ赤信号でも渡ってしまうといいますが、なかなかそれができないのが日本人です。コント赤信号のように、「みんなで渡ればこわくない」というのは、普通の人は渡らないからこそのコントです。
 そういう意味では、これからの社会は、いかに環境を視野に取り込むかという時代になります。著者は、「近代を牽引してきた戦略・計算・理性中心の価値観とは異なる、新たな価値観として「共感的な利他主義」が今、求められている。そしてそれこそが、脱近代化した新たなパラダイムヘ移行する鍵になる。人類がこれからも生き延びるためには、人間が本来持っている「共感」という貴重な能力を再発見し、自然との関係を回復することが不可欠である。」といいます。
 まさに、いろいろなものに共感できる日本人のもっている資質がこれからは大事になります。そのためにも、日本の教育、たとえば国語教育では、他者に共感すると同時に相手を理解し、そして自分も変わることも重視されています。仏教では、「自己(我)」と「他者(他)」の関係を表す言葉に、「自他不二(じたふに)」があります。そして、自己と他者が対立することを「我他彼此(がたひし)」といいます。
 この「我他彼此」は、日常でも使う「がたぴし」の語源で、戸や物などがきしむ音を表す擬態語です。また、人間関係や物事が対立してしまい、うまくいかない状態をあらわす言葉でもあります。たとえ、難しい言葉を使ったとしても、その内容は意外と理解できるのが日本人です。それも、教育のおかげかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第2章「共感の論理」に書いてありました。
 私の近くにある草木供養塔にも、「草木国土悉皆成仏」の文字が彫られていて、元小学校の校庭なので、よく目にしていました。ある意味、物心が付いたときから、自然と一体であると考えていたようで、今でも、自然のなかに身を置くとさわやかな気を感じます。

(2026.1.21)

書名著者発行所発行日ISBN
共感の論理(岩波新書)渡邉雅子岩波書店2025年9月19日9784004320791

☆ Extract passages ☆

草木国土悉皆成仏とは、草や木、国土など心を持たない非情のものでも、人間など心を持ったものと同様に仏性があるから成仏できるという意味の仏語である。先に述べた心学の思想にも生きており、その言葉を直接知らずとも現代の日本人にも自然に受け入れられている。「花になりきってみよ」「風になりきってみよ」「モノになりきってみよ」といった呼びかけに対し、子どもが大きな抵抗を感じることなく共感しながら心情の投影を行えるのは、仏教や心学に根ざした自然観が社会に共有されていることの表れである。動物、植物、そしてモノにすらなりきる読解の方法は、世界の教育方法から見ればこれもかなり特殊なものである。すべてのものになりきり共感できることを、まさに身をもって体験し、その訓練が日常的に繰り返されることで、それと意識されずに綴方と読解を通して日本の伝統的自然観は保持されてきた。

(渡邉雅子 著『共感の論理』より)




No.2504『むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く』

 この本のなかに、亡くなられた方々の話がよく出てきますが、ご自身が2016年7月7日に亡くなったことを私は知りませんでした。そういえば、だいぶ前に読んだ『大往生』や『永六輔・職人と語る』などは、本棚のどこに納まっているのかさえ忘れてしまいました。
 この本は、毎日新聞に2009年4月18日から2013年12月7日まで連載したものを再編集し、加筆修正したものだそうです。「あとがき」で、これは「バンセン」だといいますが、つまり「番組宣伝」の略で、「読んでから聞く 聞いてから読む」というようなコラムが一冊になったものです。
 まさに著者の人生そのもののような本で、自称、“旅の坊主”、“ラジオ屋”、“テレビ乞食”、“遊芸渡世人”、“男のおばあさん”などいろいろな肩書きというか、それだけ幅の広い生き方をしてきた方でもあります。この本にも出てきますが、昔の放送界のことを知りたいとさだまさしさんが近づいてきたそうですが、さださんが著者のことを「右も左も、上も下もない人」「何かに傾向することもない」「一つの主義主張にくみすることもない」「誰かが何かひとつのことにこだわりすぎていると、横から近づいて、プッと針を刺して、ニュートラルに戻すようなところがありました」と評しているぐらいです。
 私的には、どうもあのしゃべり方はなかなかなじめず、本は読みましたが、せっかく川西町のフレンドリープラザに来たときも聴きに行きませんでした。今思えば、せっかくの機会だったのに行けばよかったと思いました。
 この本のなかで、随所に「楽しくなければ嫌」というような話しがあり、たとえば、黒柳徹子さんとの掛け合いで、『「永さん、もっとハツキリとわかるようにお話しして、言葉がよくわからない」誰もが遠慮して触れない僕の言葉遣いをズバリと言ってくれるところが「友情」なのである。60年以上になるつきあいの中で言いたいことを言い合ってきた。かって徹子さんが歯の治療で、フガフガしている時に僕がそのことを指摘したことがあった。そのお返しとのこと。ありがたくいただく。』という言葉には、悪意はまったくなく、むしろ相手を思う気持ちすら感じます。
 だから、ケガをして歩けなくなったときに、車いすを選ぶ際にも「どんなのがあるの』と好奇心旺盛なところを見せていたそうです。これは見習わなければならないと私は思います。
 もちろん、すべて楽しさだけを求めるのではなく、むしろ、大変なときだからこそユーモアだけは忘れてならないと思います。また、この本には、なるほどと思うところも多く、たとえば、食事をするときの「いただきます」も、命をいただく感謝の心だと思っていましたが、この本には「あなたの生命を私の生命にさせていただきます」とあり、このほうが命のバトンを渡しているようで、より有難いと思いました。
 前回のNo.2503『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』を読むと、野菜などの植物たちも、なんらかの方法で助け合って生きています。だとすれば、その命をいただくわけですから、ちゃんと役立てますという気持ちもつけ加えることも大切ではないかと思いました。
 また、原発震災以降の話しのなかに、ある手紙のなかに「天災には言いようのない悲しみがあり、人災には言いようのない怒りがあります」と書いてものがあったそうですが、これは名言だと思いました。言いようのない、ということは言葉では表しようのないほどのことであり、むしろそれが切々と伝わってくるかのようです。
 著者の本を読むと、いろいろと含蓄のある言葉がよく書いてあります。まさに、書いてもしゃべっても、芸になります。あるとき、「若い時、徳川夢声さんの話芸に圧倒され、淀川長治さんの話術に浮き浮きした」と話すと、話芸と話術はどう違うのですかと聞かれてしまったそうです。
 そこで著者は、「話芸は師匠のいる伝統芸、話術は一代限りのキャラクター。だから古典落語は話芸、新作落語は話術。どちらが上というものではない。そして今のラジオはその話術に支えられていると思う。話術にも見事な話術と粗末な話術がある。話術は漫才、コントなど対談も含まれる。」と書いています。
 たしかに話術というのは、その人の個性から生まれるもので、伝えられるものではないような気がします。
 下に抜き書きしたのは、第5章「芸の力」のなかに書いてあったものです。
 これは米倉斉加年さんが宇野重吉さんからよく言われたことだそうです。たしかに、セリフは「強弱」ではなく、「高低」だと思いました。私もここはというときには、つい大きな声になりがちですが、むしろ言葉に意識的に力を込めることも大切ではないかと思いました。

(2026.1.18)

書名著者発行所発行日ISBN
むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く永 六輔毎日新聞社2014年1月30日9784620322346

☆ Extract passages ☆

 米倉さんの説明はこうである。「宇野重吉先生によく言われました。
 舞台のセリフの声は『強弱』ではない。『高低』だ。
「強弱』だと「弱』の部分が聞こえなくなる。『高低』は声が届くから日本の古典芸能は言葉がよく聞こえるだろう。セリフは強弱じゃない、高低だ。近頃の芝居のセリフは高低を大切にしていない」

(永 六輔 著『むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く』より)




No.2503『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』

 これは植物行動学の本で、日本ではあまりなじみのない分野ですが、私は昔から興味を持っていました。だからちょっと厚めの本ですが、読むことにしました。ところが、理解しにくいところもあり、なかなか進まず、最後まで読むのに1週間以上もかかりました。
 それでも、興味のある分野なので、読み通したことに満足です。題名の『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』という話しは、本のなかのわずか数ページで、ここに引用しますと、「ニンニクが芽を出すために必要なのは、冬の記憶だ。ただ春が来るというだけでは、生命は出現せず、十分な長さの寒さが欠かせない。この冬の記憶は、「春化」と呼ばれている。リンゴやモモの木は、それがないと花も果実もつけない。春になると真っ先に咲くチューリップ、クロッカス、スイセン、ヒヤシンスも、十分な春化を必要とする。温暖な地方では、園芸店でチューリップの球根を買うときには、球根を植えるまえに冷蔵庫で数週間冷やさないと花が咲きませんよ、と店員から注意を受けるだろう。」と書いてあり、クロッカスや水仙などと並べて冬の寒さに当てないと華が咲かないというだけの話しでした。
 これは、サクラなどでも同じで、開花予測なども、一番寒くなったときからの基準で積算温度で計算するようです。だから、そうとう昔からわかっていたことですが、2018年9月から10月に訪ねた南インドのケララ州のコーチンから約130qほど離れた西ガーツ山脈にある山間のムンナールで12年に1度だけ咲くクリンジ(学名はStrobilanthes kunthianus)で、キツネノマゴ科イセハナビ属です。
 前回咲いたのは2006年で、このクリンジの花は40種ほどの品種が存在し、ほとんどが青い花が咲きます。それを現地で見てみたいということで行きましたが、なぜ12年に1度咲くのかはわかりませんでした。この近くはニルギリ紅茶の産地の一つで、紅茶畑が広がっていました。標高は1,500mほどで、クリンジの花は明るい薄青色のベル形でした。
 ここへの途中では、ゾウに乗ったり、船に乗ったり、移動方法も独特で、久しぶりにインドの風景を楽しみました。
 また、譲りあうヒマワリについては、「2017年には、ヒマワリの近親同士を隣に並べて畑に植えることで最大47パーセント油の収穫量が増えることを、アルゼンチンの研究者が発見した。ヒマワリをかつてなかったほど密集させて植えたところ、近くで育つヒマワリはつねに地下で攻撃しあうと考えられていたのだが、その反対のことが起こった。地上では、隣りあう近親を日陰にしないように茎を曲げたのだ。栄養を奪いあっている徴候もなかった。茎をまっすぐ伸ばすよう強制せず、曲がったまま成長させると、油の生産量は大幅に増加した。」そうです。
 たしかに、譲りあうといわれれば、そのようですが、その前に、植物のなかには、近い縁故と遠い祖先などでも、譲りあう程度が違うといいますから、そのほうがなぜだろうと思いました。
 それよりおもしろいと思ったのは、日本にも自生しているアキノキリンソウは、「捕食者による脅成が少ない平和な場所に生えているアキノキリンソウは、稀に攻撃を受けると、かなり特殊な、近親にしか解読できない化学的警戒を発する。ところが、より危険な場所に生えているアキノキリンソウは、生物学的な近親だけでなく、その地域のアキノキリンソウすべてが簡単に理解できる化学的な言葉で周囲に信号を送る。」というから驚きです。
 そういえば、小町山自然遊歩道にもアキノキリンソウの群落があり、今年の秋には、今までとは違ったアキノキリンソウが楽しめそうです。
 この本のなかで一番興味を引いたのはウミウシで、アメリカ合衆国の大西洋岸の水のあるところに生息しているそうです。なにがおもしろいかというと、動物と植物の境界線が曖昧だからです。つまり、動物だったのが植物になったりするようで、藻を取り込むことで形を変えるのです。
 この本では、「生まれたばかりのころは茶色っぱく、赤い斑点がついている。この生物の初期の生活にはひとつの日標がある。バウケリア・リトレアという細長い緑藻の房を探すことだ。それを見つけると、藻の細胞壁を破り、ストローで吸うように、透明な藻の管だけを残してその細胞を飲んでしまう。藻の細胞は、光合成を行う葉緑体が入っているため明るい緑色をしている。顕微鏡だと、ウミウシがまるでタピオカ入りのお茶を飲んでいるように見える。明るい緑色のタピオカがひと粒ずつ口に入っていく。ウミウシは細胞を消化するが、葉緑体は損なわれずに体内に残り、枝分かれした内臓に分散する。ウミウシ自身が、こうして茶色から鮮やかな緑色に変わる。緑藻は数本飲めばそれで足りる。そして、光合成を始める。必要なエネルギーはすべて太陽から取り入れる。どのようにしてか、まさに植物のように光から栄養を取る葉緑体の遺伝的能力を獲得している。」と書いてあり、この仕組みというか、なぜ可能なのかはわかったいないそうです。
 もしこれらが解明されれば、いろいろな意味でエネルギー革命につながりそうです。
 下に抜き書きしたのは、第4章「鋭敏な感覚」のなかにあったものです。
 私の孫が小学生のころに、オジギソウの不思議を夏休みの自由研究で取り上げたのですが、このエーテル麻酔の話しでも知っていれば、ちょっとおもしろい展開になったかもしれません。でも、小学生ですから、そこまでするのも、ちょっと考えたかもしれないので、話題としてはおもしろかったのではないかと思いました。

(2026.1.15)

書名著者発行所発行日ISBN
記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリゾーイ・シュランガー 著、岩崎晋也 訳早川書房2025年8月25日9784152104557

☆ Extract passages ☆

通常の状態だと、オジギソウはわずかに触れるだけで広がった葉を開じ、日よけのブラインドのようにきれいに折りたたまれる。触りつづけていると、ふいに葉全体が茎のところから、力を抜いた手首のようにだらりと垂れ下がる。これには目的がある。もしあなたがケムシなら、自分が食べている葉が急に垂れ下がったら落ちてしまうだろう。だが、オジギソウにエーテル麻酔をかけると、いくら触っても葉が閉じなくなる。
 マメ科の植物の苗は、通常は巻きひげを20分ほど回転させ、踊っているように見える。ところがジエチルエーテルで麻酔をかけると、巻きひげを内側に丸め、揺れるような動きは止まる。ジエチル エーテルが消えると回復し、また回転しはじめる。

(ゾーイ・シュランガー 著『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』より)




No.2502『見えない妻 聞こえない夫』

 副題は「ふたつの世界で目指す金メダル」で、見えない妻高田千明は全盲クラスの走り幅跳び、聞こえない夫高田裕士はデフリンピック日本代表選手初のプロアスリートで、どちらも陸上競技選手です。
 普通なら、同じ陸上選手でも競技が違うので交流はないそうですが、それが不思議と出会いがあって結婚するのです。まさに「縁は異なもの味なもの」ですが、いざ結婚するとなればいろいろな障害はあります。でも、それらを一つ一つ乗り越えていきます。
 私が興味を持ったのは、東京2025デフリンピックが2025年11月15日から26日まであったので、ときどきニュースなどで日本人選手の活躍を見ていたからです。このデフリンピックというのは、「デフ(Deaf)」は英語で「耳がきこえない」という意味なので、聴覚障害のあるアスリート(デフアスリート)を対象とした国際総合スポーツ競技大会のことだそうです。しかも、オリンピックと同じように4年に1度、夏季と冬季大会が開催され、今回の東京大会は、初めて日本で開催されただけではなく、100周年記念大会という大きな節目の大会でした。
 そんなこともあり、この本を見つけたときには、即読むことにしました。
 この本を読んでいて、目が見えないのに走り幅跳びをするということは、怖くないのかと先ず思いました。昨年の12月下旬に読んだ No.2497『言葉にすれば願いは叶う』のなかに、アンドレアス・ハイネッケの「タイアログ・イン・ザ・ダーク」という話しを載せましたが、何も見えない暗さを体験させるのとはまったく違います。フィールドで助走して空中に飛び出すのです。これで怖くないわけはありません。
 高田千明さんは、走り幅跳びの助走についてこう答えています。『「怖さは克服できません。どうしても着地で失敗した経験がトラウマとして残っているからです」あるとき、いつもの15歩ではなく13歩の助走で踏み切ったことがあった。砂場に着地できず、手前の地面へ。骨折はしなかったものの、それ以来、「恐怖心」という魔物にとりつかれてしまった。「いまでも怖さはあります。これからも克服するのはむずかしいと思う。だから考え方を変えました。恐怖という感覚と共存しながら記録を伸ばす。走り幅跳びの宿命だと思って無理やり自分に納得させてます。そう考えないと跳べないでしょ」』というのです。
 普通なら、その恐怖心をなんとか克服したいと思うのでしょうが、恐怖心はなくならないと割りきって進むというのは、むしろすごいことです。だからこそ、記録を伸ばし続けられるのかもしれません。
 では、高田裕士さんはというと、5大会連続の代表で、日本のデフアスリートで初めてプロ活動を始めた先駆者です。しかし、年齢的なこともあり、だんだんと若いアスリートたちが成長し、記録を伸ばして近づいてきます。それは、同じ境遇者の立場からいえば、選手層が厚くなることでいいことですが、プロのアスリートとしては追い詰められることになります。
 この本には、東京2025デフリンピックの結果は載っていませんでしたが、高田裕士の公式ウェーブサイトには、「平日の日中ですが、自国開催、地元・東京開催なので、ぜひ会場に足を運んで、直接パワーを送っていただけると嬉しいです! みんな見にきてくれー!」というところで、終わっていました。
 しかし、東京新聞によると、「位置に付き、光で合図するスタートランプの色が、走り出しの号砲を示す「青になったと見えた」。駆け出してすぐ、やり直しを示す旗が上がり、自身に失格が告げられた。反応時間は、フライングを示すマイナスの表示。モニターでも確認すると、他の選手にあいさつし、レーンを離れた。」と書いてありました。
 たしかに残念な結果ではありますが、おそらくやりきったという満足感を味わったのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第9章「裕士 東京デフリンピックへの挑戦」の中にある「世界デフ陸上競技選手権大会」のなかの一コマです。
 ここにあるように、手話も国によって違うけれど、手話で世界中のアスリートがつながっていくのは素晴らしいことです。しかし、同じ日本のなかに、2つの違う手話があるとは思っていませんでした。しかし。帝京大学医学部附属病院の耳鼻咽喉科にいた田中美ク先生は、「なんでもいいの。日本手話でも、日本語対応手話でも、指文字でも、口話でも。方法は関係ない。あらゆる方法を使い、『モノには名前がある』ことを理解して、『読む』『書く』能力を身につける。そうして充実した社会生活を送ってほしい」と話していて、とても感銘を受けました。
 おそらく、世界デフ陸上競技選手権大会に参加したアスリートたちも、同じような気持ちだったのではないかと思いました。

(2026.1.10)

書名著者発行所発行日ISBN
見えない妻 聞こえない夫篠原通良中央公論新社2025年10月10日9784120059551

☆ Extract passages ☆

 それぞれの国で手話はちがうといわれている。日本なら日本手話、アメリカならアメリカ手話。しかし、手話は国境を軽々と越えていくように感じる。日話の言語とはまったく異なる広がり方をしているのではないだろうか。手話という言語が羽をつけて空間を行き来する。興奮が漏れ出たのだろうか、ノドの奥から絞り出すような音が、観客席の間にポロポロとこばれ落ちていく。

(篠原通良 著『見えない妻 聞こえない夫』より)




No.2501『薬なければ病なし』

 この本の題名を見て、たしかに薬がなければ病もないかもしれない、と思い至り、読むことにしました。じつは、これは勘違いで、私は新薬が出れば、それに対抗するかのように新しい病気が生まれるような気がしていました。ところが、図書館で借りてきてから、少し読み始めて、改めて表しを見ると、「薬剤師・毒島花織の名推理」とあり、ミステリーのシリーズものらしいとわかりました。まったくミステリーには興味がなく、それでも子どものときにコナン・ドイルのシャーロック ホームズなどを読んだ記憶はあります。
 そういえば、2017年9月にイギリスに行ったときに、以前から行ってみたかったエジンバラ植物園にも寄りました。そのとき、駐まったホテルの近くに、「The CONAN DOYLE」というお店を見つけ、写真を撮ったこともあります。
 その程度ですから、自分からミステリーを読むことはなかったのですが、勘違いから読み始めると、読まずに返却するのも申し訳ないと思い、つい、最後まで読み続けました。
 興味を引いたのは、薬剤師が主役ですから、薬の話しが多くでますが、アルコールに弱い人の話しもあり、毒島さんは「体内に人ったアルコールは、酵素の働きによって二段階に代謝される。アルコールに含まれるエタノールは、ADHという酵素の働きでアセトアルデヒドという物質になり、その後にALDHという酵素の働きで酢酸になり水と二酸化炭素に分解されるそうだ。」と話します。
 つまり、このALDHの働きに個人差があるために、お酒に強い人と弱い人がいるということらしい。これは民族的な違いもあって、日本人の37〜38%は低活性型、6〜7%は非活性型であるといわれています。さらに、この非活性型はモンゴロイドにのみみられる特徴だそうで、白人や黒人には低・非活性型はいないようです。
 だから、ヨーロッパのように、ワインを水がわりにがぶがぶ飲んだとしても平気なわけですが、私の場合は非活性型で、間違ってもそのような飲み方はできません。
 それにしても、薬剤師の毒島花織という苗字は、珍しいと思います。出身の北海道では、そんなに珍しい苗字ではないそうですが、毒島と書いて「ぶすじま」と読むそうで、疑問を持ちながら読んでいると、第2話の「眠れない男」のなかで、本人が『「ちなみにですが、毒島の毒はトリカブトのことを指しているんですよ」と今度は薬剤師が話をはじめた。「トリカブトは毒のある植物ですが、昔から葉としても重宝されていたんです。漢方ではトリカブトを煎じて使います。興味深いのはその呼び方で、同じ漢字を使うのに、薬として使うときは附子(ぶし)、毒として使うときは附子(ぶす)と読ませます。毒島の毒はそのぶすが転用されたという説もあるようです」』と話します。
 そういえば、わが家の近くにもトリカブトが自生していて、調べたことがあるのですが、トリカブトは心臓の薬としても使われているそうで、微量なら薬ですが、ちょっと量を間違えると、命にかかわることがあるそうです。また、実際にそれで亡くなった方もいるそうで、まさに「生兵法(なまびょうほう)は怪我のもと」です。
 下に抜き書きしたのは、第6話「肝油ドロップとオブラート」に出てきます。
 そういえば、小さいころに肝油ドロップをなめたことを思い出し、すごく懐かったです。おそらく甘いものが少ないので、それで喜んでなめたとは思いますが、1粒ではあっという間になくなります。もう1粒ほしいと、何回思ったかわかりません。
 それと、現在はオブラートを使う時がありますが、まさか、下に書いてあるのが正式な使い方だとは思いませんでした。
 たまには、勘違いして本を読むこともいい、と思いました。

(2026.1.7)

書名著者発行所発行日ISBN
薬なければ病なし(宝島社文庫)塔山 郁宝島社2024年7月17日9784299056702

☆ Extract passages ☆

 あれは直接口に入れて飲み込むものじゃない。
 水が入ったコップを用意して、薬を包んだオブラートをその中に入れるんだ。
 するとオブラートはコップの水の中でゼリー状になる。
 それスプーンですくい上げて、日に入れるとスルッと飲み込めるってことらしい。

(塔山 郁 著『薬なければ病なし』より)




No.2500『書を学ぶあなたへ』

 今年最初の本は、書道家の石川九揚さんで、副題が「夜の沈黙の中で ひとり静かに 墨を磨れ」です。
 この副題を見ただけで、読んでみたくなりました。しかも、年頭に当たり、No.2500から始まるわけで、これぐらい続けば三日坊主といわれなくてもすみそうです。
 著者の「九揚」という雅号について、「わが師・垣内楊石先生に書道部へ入部したことを報告に立ち寄った時、「名前をやる」と言われた。福井県を象徴する川「九頭龍川」の「九」に、福井県を忘れるなという意味(田舎的な発想ですね)。さらに当時前衛的、天才的とさわがれた美術家「瑛九」にあやかっていい仕事をせよという意味の「九」を重ねたと説明された。むろん、中国では「九」が「究極数」である。それに師の「楊石」から一字「楊」の字。併せて「九楊」である。」とあり、さらに「ぼくの名前を下に敷くのだからな」とも言われたそうです。
 私も、著者の「書とはどういう芸術か」(中公新書)を読んだとき、この雅号はどのような意味かと考えていたので、よくわかりました。
 そして、私も「九」について、祖父から「十が幸せだとすると、九はその一歩手前だから、とてもいい数字だなんだ」とよく教えられたこともあり、なるほどと思いました。
 また、思い出したのは、私も少しばかり書道教室に通ったとき、先生からいくつかのお手本を借りて、臨書をしたことがあります。そのときに、なぜ人まねをしなければならないのか、よくわからず、顔真卿をお手本にしました。この本には、「臨書の目的は書を読み解くことがひとつ。字形、運筆、配置・配列、そしてそれらの綜合的構成法を読み解くこと。他のひとつは運筆。筆の傾き。筆尖の通った跡、速度を忠実に辿ること。そしてその上にそびえる世界というべきものを知ること。」とあります。たしかに、若いと自らの書を創作したいと思いますが、それなりの修練も必要です。
 さらに、「現代書の大先輩は「自己の書をかく場合は面白味は殆どない――真の趣味と謂ふのは臨書にある」とまで言った。この心境に早く到達できるといい。また言った「臨書をするのは御馳走を食ふやうなもので自分の書をかくのは料理をするやうなものだ」と。」と続けます。
 たしかにうまい比喩ですが、だからこそ臨書を見たり書いたりすることは大切だということです。
 今、40年ほども経って考えてみると、その当時の臨書に対する取り組みはここまでの意識はなかったと思います。もし、もうちょっと早く、このような本を読んでいたら、もう少しは書について深まっていたような気がしました。
 そういえば、書道展に行ったときに、展示されている書を見ながら、筆をもって書くようになぞっている方を見たことがあります。この「次は指でなぞってみる。書かれた状態を自分の内に再現し、その運筆と同調することだ。すんなりと同調できるもの、どうも運筆に違和感の残るものなど、さまざまだろう。しかし、指でなぞることによって、全体を鑑賞するだけでは見えなかったものが見えてくる。どこからどのように筆が入り、その圧力は、筆蝕はどんな感じで、どのような速度で、どのような方向で筆が運ばれ、どのような問合いで次の画や文字へ繋がっていくかを考察するのだ。」という文章を見つけて、合点がいきました。
 おそらく、その方も、ここに書かれているように書かれた書をなぞっていたのかもしれません。
 この本を読み、書というものに対して、いろいろなことを学びました。これから書道家になれるわけでもありませんが、筆を持つときには、これらのことを思い出しながら書いてみたいと思います。
 下に抜き書きしたのは、「随想的エール」の中の「矯(た)めつ眇(すが)めつ」に書いてありました。
 私もある講演で、この「矯める」ことについて話したことがありますが、そのときには、いくら弓矢の名人でも曲がった矢をそのまま使っては的に当てることはできないので、常に真っ直ぐになるように矢を矯め直すことが大切だと言ったように記憶しています。
 今年最初の『本のたび』ですから、今年1年、ときどきは自分を矯め直しながら、過ごしたいと思います。

(2026.1.5)

書名著者発行所発行日ISBN
書を学ぶあなたへ石川九揚芸術新聞社2025年10月31日9784875867418

☆ Extract passages ☆

書だけには限りませんが一番大切な問題は何かと言うと、それを一語でいうと《矯めつ眇めつ》だと思うのです。
 《矯めつ》という字は矢が左側にあるように、曲がった矢を真っ直ぐにするあるいは真っ直ぐなものを曲げたりするということ。《矯めつ》というのは最後の所をきれいにていねいに磨き上げると言ってもいいと思います。
 《眇めつ》は目を細くして眺めるここです。目を細くすると何が見えるかというと、非常に大極的にものが見えてくる。自分の作品であっても遠くから目を細めてみると、いろいろなことが見えてくる。そういう《矯めつ眇めつ》の時間と空間を自分の生活の中に入れていかないといけない。

(石川九揚 著『書を学ぶあなたへ』より)




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