
☆ 本のたび 2025 ☆
学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。
No.2424『戦場からの証言 ウクライナ』
副題は「わたしのことも思い出して」で、これはタラス・シェフチェンコの「遺言」という詩の一節からとられたものです。とてもいい詩ですが、これを抜書きするのは控えて、ぜひこの本を読んでもらいたいと思います。
前回のNo.2423『新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと』でも考えたことですが、とくに戦争などの場合は、当事国だけの情報では、正当な判断はできません。しかも、国際ジャーナリストで歴史学者のマックス・ヘイスティングズの「本書によせて」のなかで、「わたしは50年以上前、戦場記者Lして、また戦争歴史家としてのキャリアを歩みはじめた時、愚かにも、自分の役目は戦闘を記録することだけだと思っていた。だが今は、ジョージ・バトラーが自身の人生の多くをかけて、言葉と絵でなにを伝えようとしているのか理解している。つまり、兵士たちの話は彼が伝えたいことの一部にすぎず、大半を占めるのは戦争に翻弄される人々の話なのだ。どんな紛争においても、銃をもって戦う兵士たちより、はるかに多くの民間人、とくに女性や子どもたちが、ハリケーンのような暴力でなぎたおされていく。われわれのように平和で安全な暮らしを送っている者は、恐怖の中で生きることを強いられた人々の思いを理解しなければならない。ウクライナの人々は、剥奪と犠牲と破壊のさなかに祖国にとどまり、大義をかかげることで、すでにその勇気を示している。」と書いていますが、だからこそ、私たちも副題のように忘れず思い出すことが大切だと感じました。
この本を読んでびっくりしたのは、キーウに住むアルテールさん40歳が、クラゲの水族館を開設していることでした。そのきっかけは、日本でクラゲ水族館を見たことがきっかけで、ロシア侵攻前からキーウの「フレシチャーティク通り」で開いていたのです。
それが侵攻後は道路の封鎖などで施設に行くこともできず、領土防衛隊に入隊後は、水族館の電源も自らの判断で落としてしまい、クラゲを全滅させてしまったそうです。しかし、2022年3月下旬からキーウに戻り再開し、現在は一からやり直し、戦争を少しでも忘れられる場所として多くの人々が訪れているそうです。
日本のクラゲ水族館の名称は書いてなかったのですが、おそらく山形県の「鶴岡市立加茂水族館」ではないかと思いました。そういえば、あのゆったりした動きを見れば、一時でも戦争の悲惨さを忘れられるかもしれません。
また、マリウポリのナータという女性の話も衝撃的で、たしかテレビなどでも2022年2月にロシアがウクライナ東部のマリウポリへ侵攻し破壊した様子が放映され、さらに『マリウポリの20日間』という映画にもなったほどです。そこの話しですから、まさに悲惨そのものです。「ある日、地下室の入口から外をのぞくと、自宅があるアパートが遠くに見えました。燃えていました。ああ、これで帰る場所がなくなった、と思いましたね。泣きたいとは思いませんでした。感情を表に出すことにエネルギーを使いたくなかったんです。その時のただひとつの願いは生きのびることでした! 残っていた力は全部そのために使いました。物なんで、もうどうでもよくなりました!一番恐ろしかったのは飛行機の爆音です。飛行機が1機飛んでくれば、ミサイルが3、4発落ちてくるとわかっていました。みんな、自分のいるアパートにあたらないことを祈り、はずれるたびに胸をなでおろします。でも同時に、「はずれた」ということは、どこかのだれかの家に命中しているだけだとわかっていました。そしてそこにも、わたしたちと同じような人たちがいるのです。」122
また、クープャンシクでアンドリィが話した、「ここでは、1日を測る唯一の単位は、その日の終わりに生きていることであり、あれこれ考えるより早く眠りに落ち、すべてからのがれることなのだ。」という言葉もすごく印象に残っています。
もうひとつ、印象に残っているのは、前線に近づく途中で見かけたロシア語のメッセージです。それを翻訳してもらうと、「地獄へようこそ」という意味で、これが侵攻してきたロシア軍へのウクライナの人々からのメッセージそうです。たしかに、ほとんどの人たちには不気味に感じるメッセージですが、はたしてロシア軍に通じるかどうかは不明です。
下に抜き書きしたのは、イジュームというところで、医師のユーリイに話を聞いたときのものです。
彼の病院の正面は、2022年3月8日のロシア軍のミサイル攻撃で破壊されましたが、インタビューのときにもその病院の診察室で多くの患者の診察をし、それが終わってから話しを聞いたそうです。しかも、ほとんどこの病院で寝起きし、避難もしなかったそうです。
彼は、「この病院は守護天使に守られている」と行っているそうですが、それ以上に人の命ほど大切なものはないという気持ちから診療に明け暮れているようです。
(2025.5.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
戦場からの証言 ウクライナ | ジョージ・バトラー 著、原田 勝 訳 | 小学館 | 2025年2月3日 | 9784092906822 |
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☆ Extract passages ☆
ある時、近所に住む人たちがやってきて、こう言ったんだ。「おい、きみの家にミサイルが命中したぞ」ってね。むろん、心配だったよ。すぐにでも帰って、ほんとうかどうか確かめたかった。でも病院の仕事が忙しくて、なかなか帰れなかった。やっと帰ってみると、家の一部がめちゃめちゃにこわれていた。わたしはいきなり大声で笑いだした。近所の人たちが、「どうかしてるぞ。なぜ笑ってる?」と言うので、わたしはこう答えた。「忙しくてしばらく家に帰れなかっのは運がよかった、と思ってるからさ。帰っていたら、たぶん、今こうして、あなたたちとしゃべってないだろう」と。
つまり、昼夜を問わず働いていたから命拾いしたんだ。今、こうしてここにいて、きみと話せることがうれしいよ!
(ジョージ・バトラー 著、原田 勝 訳『戦場からの証言 ウクライナ』より)
No.2423『新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと』
この本を読むまで、新聞もネットの記事も同じようなものだと思っていましたが、読み始めはなんとなくわかり、最後の方ではなるほどと思うようになりました。
たとえば、新聞記事は「逆三角形スタイル」というそうですが、「特に、私が勤める共同通信社では書き方が徹底されている。重要なポイントをできるだけ記事の前に置き、配信を受けた新聞社が記事を途中で切って紙面に掲載しても、意味が通じるようにしている。これは「逆三角形スタイル」と呼ばれ、読者へ効率的に情報を届けるには、最も優れた技法とされてきた。記者を10年もやっていれば、たちどころに逆三角形の記事を書くことができる。」と書いています。
それまで新聞記事を文体などまで考えていなかったのですが、たしかに、どの新聞を読んでも、似たような文章です。これも、長い間の経験から導き出されたもののようです。
でも、その新聞の発行部数も年々減少し、日本新聞協会によると、2023年10月時点の新開発行部数は2859万486部、2003年10月時点では5287万4959部だったといいますが、20年間でほぼ半減したということになります。そういえば、2024年9月30日に、毎日新聞社と産経新聞社は、輸送コストの増大などで富山県内への新聞の配送を休止したというニュースが流れました。
これでは、新聞紙という紙を使った記事は、このまま進めばもしかするとすべて休止になるかもしれません。
では、その紙の記事をデジタル化しただけで読んでもらえるのかというと、そんなに単純なものでもないようです。やはり、求めているものが違います。
だから、デジタル記事には、それなりの書き方があり、この本では、
●記事を説明文にせず、物語(ストーリー)にする
●出だしは、できれば場面の描写から入る
●リードの末尾には、本文に読み進んでもらうための「匂わせ」を入れる
●主人公を一人立てて、場面ごとに主人公の気持ち・感情を書き込む
●できれば時制をさかのぼらず、時系列で書く
●一文を短くし、テンポを良くする。主語の前に長い修飾を付けない
●カギカッコの前にはできるだけその発言者を置き、後ろに述語を置かないようにする
●接続詞や指示語をくどいくらい付け、段落や文同士の関係性を明確にする
●データや識者の言葉など「説明文」になりがちな要素はストーリーの後ろに回す
●新聞慣用の省略形は使わない
●表記に迷ったら、グーグルトレンドで比較する
と書いてありました。
もちろん、これだけではわかりにくいところもありますので、なるべくなら、これからバズるような文章を書いてみたい人はぜひ読んでみてください。
下に抜き書きしたのは、第4章「説明分からストーリーへ――読者が変われば伝え方も変わる」に書いてありました。
これを読むと、やはり新聞には新聞としての役割というか、メリットがありますし、デジタルに親しんでいる人にはそれなりの伝え方があると私も思います。
ただ心配なのは、感情に訴えるあまりに、理性的に考えることができなくなり、流されやすくなるような気がします。とくに政治的にも経済的にも困難なときには、その傾向が強まります。それと、コピペで作られたような記事ばかりになれば、その発信元もわからず、無責任になるような気もします。
そういう意味では、一次情報が中心の新聞と、それを元にしたデジタル情報が両立することこそが大切ではないかと思います。この本のなかに、「こたつ記事」という話しが載っていましたが、それのみでは、何を信頼すればいいのかさえ、わからなくなりそうです。
(2025.5.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと(集英社新書) | 斉籐友彦 | 集英社 | 2025年2月22日 | 9784087213508 |
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☆ Extract passages ☆
新聞のメリットは、最新の情報をコンパクトに簡単に得られること。見出しやリードにニュースの重要な要素が要約されて詰まつているため、特に時間がない読者は、各面の見出しとリードさえ読んでおけば最低限のニユースをまとめて把握できる。さらに時間がない時は、見出しを頭に入れるだけでも、どんなニュースがあるのかぐらいは押さえられる。雑多な情報を能動的に得ようとする読者にとっては、現在でも最適なツールだと思う。
一方で、デジタルの読者は、より受動的だと感じる。たとえば、スキマ時間に何気なくスマホを触っていて、画面に表示された記事に不意に出会うイメージだ。そこで気が向いて読み始めた人にとって、大切なのは読み心地の良さであって、かたい説明文ではない。ストレスを感じずにストーリーを読み終わった時、ある社会課題の存在を、具体例を伴って理解できていればいい。
(斉籐友彦 著『新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと』より)
No.2422『60代 大人旅の愉しみと工夫』
私も70代後半になると、今までのような旅はできなくなり、いろいろと考えていたときに、この本を図書館で見つけました。副題は「体力と費用を温存しつつ楽しむ人生後半の旅のかたち」とあり、なんで題名が「愉しみ」なのに、「楽しみ」と変わってしまったのかと思いました。
個人的には、「愉しみ」のほうが、自分のほうから積極的に楽しもうとする気持ちが感じられて、いいのではないかと思っています。
まあ、それほど字面にこだわることもないのですが、最近は、少し時間をかけて旅の計画を立てるようになってきました。だから、今まで1泊だったのを2泊にするとか、2泊で帰ってきていたのを3泊に伸ばすとかしています。
そういえば、この本にも書いてあったのですが、旅にでるときにはフォークや箸、ナイロン袋なども持って行きます。たしかに、おいしそうなケーキを見つけても、男一人だとお店の中では食べにくいし、そういうときにはホテルに持ち帰ってコーヒーを淹れて食べます。また、果物などを見つけるとすぐ買うので、そのようなときもフォークやナイフがあると便利です。
もちろん、最近はコンビニでもナイロン袋は有料ですし、それより自分で持っていったほうがきれいにゴミをまとめることもできます。
それと、私も「年齢的にもうっかりが多くなったので、気持ちよく旅を終えるためにも忘れ物には気をつけ」るようにしています。つい先月も、冷蔵庫のなかに抹茶を入れたまま忘れてしまい、フロントから部屋に戻りました。それでも、まだ部屋のカードを返す前だったからよかったけど、私も注意しなければと思いました。
著者は、東京都美術館で「マティス展」を見たそうですが、私はイギリスに2014年7月に行ったときに、テート・モダン(Tate Modern)を見に行くことになり、たまたまそこで「マティス展」をしていたのです。海外でなかなかそのような機会はないと思い、ゆっくりと見て、そこのレストランでランチをしたことを思い出しました。
この本には、「観賞してまずハートを掴まれたのが「夢」という作品。うつぶせの女性の下に描かれた布の青色が印象的で。マティスと聞いて私が真っ先に思い浮かべたのはデッサン画だったのですが、さらさらと細い線で描かれた作品がやはり好きなのだなと思いました。最後の展示フロアでは晩年作である切り紙絵を観て、デッサンや油彩画とはまた違う素敵さに驚きました。体力の低下で筆を持っことが難しくなってしまったマティスが模索してたどりついた技法だったのだとか。人生、いくつになっても諦めない姿勢って大事ですね。マティス展に行って本当によかった。知らなかった世界を知るっていいなと改めて感じました。」とあり、私も記念にマティスの絵ハガキを買ってきましたが、孫たちには本のしおりをお土産にしました。
私もマティスというと、やはり青色が印象的で、今でもときどき思い出すことがありますし、テレビなどで取り上げられると、つい見てしまいます。
下に抜き書きしたのは、「お決まりの旅の友〜旅ノート」に書いてあったものです。
私もここに書かれているようなノートではありませんが、持ち運びしやすいように野帳のようなものに、これから行くところのいろいろな情報などを書きとめています。そこには、行くか行かないかもわからないようなお店だったり、陶磁器の窯場だったり、ときには図書館のような情報も書き込んでいます。
そして、必ず調べるのは、その土地の老舗の和菓子屋さんで、旅先でお抹茶を点て飲むのが好きだからです。だから、必ず持って行くのは抹茶と茶筅で、最近は小さめな旅茶碗も持っていきます。電車の旅のときはなるべく荷物が少ないほうが楽なのですが、これだけはないと旅の愉しみも半減するような気さえします。
(2025.5.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
60代 大人旅の愉しみと工夫 | 小暮涼子 | 主婦と生活社 | 2025年3月10日 | 9784391164336 |
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☆ Extract passages ☆
最初にノートを使ったのは、10年前の9月に行った初めての京都ひとり旅です。当時はスマホの地図機能も今ほど充実しておらず、またうまく使いこなせなかったので、手描きの地図に行きたい場所や訪れたいお店の営業時間や定休日などを書いていました。……
そうして、出発が近づくころには、それなりの量の情報や大まかな地理がわかってきて、より旅が楽しいものになっていくのです。近くの温泉に行くようなのんびりした旅のときは別ですが、まだ見ぬ土地へ思いをはせてアンテナを張り、自分の好奇心を満たす場所を旅ノートに書き込む時間はなかなか楽しいもので、ここから旅は始まっているように私は思っています。
(小暮涼子 著『60代 大人旅の愉しみと工夫』より)
No.2421『おいしそうな文学。』
最近は、題名のところに「。」などが使われるようになってきましたが、どうもなじめないのは性格なのか年のせいなのかはわかりません。それでも、気にはなりますが、もしかしてそれを意図しているのかもしれません。
初出は、「群像」2024年10月号で、この本のなかの「100年前の台所」だけが粥川すずさんの描き下ろしだそうです。でも、文字ばかりの本のなかに、この漫画が入っているのかわかりません。
なんとも不思議なことの多い本ですが、たった125ページなので、一気に読んでしまいました。
なかでも興味を引いたのは、斉籐倫さんの「おいしいにはりついて」です。たしかに食には情報というかストーリーというか、そんなものがおいしさにつながります。このなかに、『「群像」で「野良の暦」を連載されていた、鎌田裕樹さんのお野菜が通販で買えるようになった。いただいて目から鱗がおちた(野菜だから、ポリフェノールを含んだ外皮かもしれない)。農家としてのじぶんをたちあげる日々の記録を読み、さらにその結実を味わえるなんて、こんなに輻輳的な歓びがあるだろうか。こう書くと、いかにも情報やストーリーに左右されてるようだけど、たんにすごくおいしいのだ。ただ、ひとは面倒なもので、その「たんにおいしい」にたどりつくための鍵がいる。それは、情報でもストーリーでもありえるだろう。「空腹は最大の調理人」だって、いわばひとつの物語なのだから。』といいます。
このなかで、「輻輳的な歓び」とありますが、意味がわからなかったので調べると、「輻輳」というのは、「一般的に何かが1カ所に集中して混雑している状態のことをいい、通信分野では、電話回線やインターネット回線、ネットワーク機器などの一部にトラフィック(送受信される信号やデータ)が過剰に集中して、通信が遅延したり、つながらなかったりする状態のこと」と書いてありました。
つまり、さまざまなものが1ヵ所に集中して混雑した状態のようで、まさに今の情報ネット化の時代だからこその言葉のようです。
また、原武史さんの「戦場で頬張る塩の味」で思い出したのですが、あるところでいろいろな塩を集めている方がいて、そのなかでもカリマンタンの塩が私には一番おいしく感じられました。この本のなかで、塩を1つまみずつ頬張るシーンがありましたが、その1つまみでけでも、カリマンタンの塩には甘みすら感じられました。それから十数年後にその塩を買ったというカリマンタンにつれて行ってもらったのですが、やはりおいしい塩でした。
それ以来、どこへ行っても塩を探し、ネパールでは黒っぽい岩塩も見つけたり、中国の雲南省では、昔ながらのやり方で塩を採取するところもあり、そこでも買ってきました。それぞれに塩の味があり、お土産として持ち帰っても安くていいのですが、ちょっと重いのが難です。
下に抜き書きしたのは、土井善晴さんの「おいしさの気配」に書いてありました。
著者の土井さんは、テレビなどで活躍していた料理研究家・土井勝さんが父で、その縁からなのか、料理研究家やフードプロデューサーでもあります。そういえば、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員でもあるそうで、いろいろなところで活躍しています。
日本の食卓の基本は、和食の基本でもある「一汁一菜」でよいという提案は、毎日何種類ものおかずを作らなければならないというお母さんたちのプレッシャーをだいぶ和らげたのではないかと思います。この一汁一菜は、米沢藩の上杉鷹山公の食事でも有名ですが、あの時代に72歳まで生きたのですから年表を見ても、元気だったようです。
そして、食事というのは、たしかに栄養を取るということも大事ではありますが、それとみんなで食べるということも大切なことだと感じました。
この文章を読み、そのときの驚きが蘇ってきました。
(2025.5.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
おいしそうな文学。 | 群像編集部 編 | 講談社 | 2025年2月25日 | 9784065384428 |
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☆ Extract passages ☆
そもそも味覚、嗅覚は言語中枢とつながらず、おいしさは言語化できません。ゆえに、食事をともにした者だけがそのおいしさを知り得るもの。低級感覚とされた不完全な味覚と嗅覚の恩恵に、人間らしさがあるのです。おいしさに代わって心に留まるものとは、人の思いの交わりの大切な物語です。
(群像編集部 編『おいしそうな文学。』より)
No.2420『修験道大系』
久しぶりに修験道関連の本を読みましたが、副題は「歴史・思想・儀礼」で、いずれも大切なものです。とはいえ、いずれも難しく、理解するにはそうとうな時間がかかりました。
それでも、いい機会なので、読み通しましたが、わからないところもありました。なかには、現代にそのまま使えるのかというと、疑問のところもありました。
特に興味を引いたのは、自分が修行した醍醐寺や花供入峰をした大峰山、葛城山など、さらには地元の出羽三山のことなどです。知っているようで知らなかったこともあり、羽黒山の「三関三渡」などもなるほどと思いました。それは、「羽黒山の『羽黒占実集覧記』では、羽黒三所権現の下の谷にある羽黒権現の根源の地とされる本地の阿久谷を現世の観音、月山は過去世の阿弥陀、湯殿山は未来世の大日如来であるとし、この各々の権現の下で三世を超越して真如実相・即身即仏の妙果を得ることを三関三渡としている。またより具体的に秋の峰の一の宿を胎内で過去世、二の宿を胎外で現世、三の宿を未来世とし、この二の宿から三の宿は入る時を有為の岸から無為の彼岸に渡る故、大渡りと呼んでいる。そしてこの三つの宿を順に参拝することによって三世を超越して永遠の生命が得られるとして、これを三関三渡としている。」とあり、これは現在も同じような考え方をしているように思います。
だから、私たちも、逆に湯殿山から月山に上り、そこから羽黒山に下り、柴灯護摩を修したことがあります。いまでは、このルートを自分の脚で歩くことは大変になりましたが、やはり修行は若いうちにこそすべきだとつくづく思います。
また、羽黒山は江戸時代になり天台宗になり、湯殿山の真言宗との軋轢もありましたが、この本に室町期のことが書いてあり、「室町初期の羽黒一山では一山を統率する院主の下に一か月を一旬(約10日)ずつ担当して法務にあたる上・中・下の三旬長吏、検断や先達を司る政所を中核とする一山組織が認められた。14世紀中頃成立した『神道集』の「出羽国羽黒権現事」の項には、羽黒権現は観音、軍荼利、妙見の三神で、推古天皇の代に能除大師によって顕されたとしている。室町時代末には羽黒山では開山を能除(法名弘海)、初代執行を弘俊とする歴代をあげた系図が作られている。ちなみに現在の羽黒山の五重塔は棟札によると永和3年(南朝天授3、1377)に完成している。そして室町中期の羽黒山は山上の羽黒権現と寂光寺、奥院の荒沢寺、祓川の五重塔を守る清水寺の光明院と山麓の手向の黄金堂を預かる中禅寺を中心として栄えていた。なお手向では羽黒権現の市、山上の観音堂前では馬市があり、商人、手工業者、芸能人が集まっていた。そしてすでにこの頃から羽黒一山では各地の末派修験に知識や先達などの補任を行なっていた。戦国期(1467〜1568)に入ると大宝寺(鶴岡)に居した武藤政氏が文明2年(1470)に羽黒山別当となり、天正15年(1587)の同氏の減亡まで三旬長吏を支配した。」と書いてあり、その当時の手向の賑わいを彷彿とされます。
このような本は、どうしても抜書きが多くなりますが、やはり、出典元がはっきりと書いてあるものは、貴重です。たとえ、言い伝えであっても、ここにこのように書かれているということが大事なことなのです。たとえば、法螺などについても、「法螺はバン(梵字)字型をしているが、これは金剛界大日如来の智恵の本体である真実そのものを示している。なお法螺を吹く時に唱える法螺の文「三味法螺声、 一乗妙法説、経耳減煩悩、当人阿字間」は精神を統一して吹く法螺の音声は真実の教えを説いているゆえ、この経の音声を耳にすれば煩悩を減して必らず物事の本源である阿字の教えのすべてを感得することが出来るということを意味している。」とあり、この法螺の文は知っていても、法螺がバン字の形とはいわれればそのようにも思いますが、あまり気にもしていませんでした。
とくに修験道というのは、もともと仏教などと違い、自然発生的な宗教です。役行者を始祖に仮託したもので、おそらく、古来の山岳信仰や神道など、さらには仏教などの影響もあり、思想や儀礼が整えられてきたようです。
そういえば、中国の青城山に行ったときに、道教というものに触れてきましたが、その影響もあります。まさに複雑だからこそ、奥が深く、興味がかき立てられるのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、第3章「修験道の崇拝対象」に書いてあったものです。
だいぶ前のことになりますが、世田谷美術館で2004年11月20日から翌年の1月23日まで、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのを記念して「祈りの道 吉野・熊野・荒野の名宝」特別展が開催されましたが、ここに金峯山寺の重要文化財「蔵王権現立像」が展示されました。その大きさにも圧倒されましたが、その異様な姿にも驚きました。
この文章を読み、そのときの驚きが蘇ってきました。
(2025.4.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
修験道大系 | 宮家 準 | 春秋社 | 2025年1月20日 | 9784393292075 |
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☆ Extract passages ☆
『金峰山秘密伝』の「金剛蔵王尊像習事」の条によると、その尊像は一面三目二臂の青黒のな怒相で、頂上に三鈷冠を戴き、左手に剣印を結んで腰に案じ、右手に三鈷杵を持って頂上にあげ、左足は磐石、右足は空中を踏みしめたもので、それぞれについて次のような説明がなされている。まずその身体の色が青黒であるのは降魔の相をあらわす。次にその面上の三つの目は、左眼は弥勒の大悲の眼、右眼は観音の大悲の眼、中央の一眼は釈迦の大定不二の眼で、総じてこの三仏の徳を秘蔵して三界を照らして三菩提を開くことを示し、頂の三鈷杵は弥勒、観音、釈迦を表象する。左手の剣印は三世の怨敵を降伏すること、これを腰に案ずるのは、腰が地輪ゆえ、地魔を降伏し国土を鎮めることをさす。一方右手の三鈷杵は法界の魔群を降伏することを意味し、これを空中にかざすのは三妄の雲を払い、天魔を調伏することを示す。次に左足で磐石を踏むのは、四海の重障を鎮めること、有足で空中を踏むのは曜宿の障りを踏みつけることを示している。
(宮家 準 著『修験道大系』より)
No.2419『この世界を科学で眺めたら』
副題は「真理に近づくための必須エッセイ25」で、科学もエッセイで読むとわかりやすいのではないかと思い、読み始めました。
それにしても、科学は意外と身の回りにある問題にも答えられないと書いてあり、びっくりしました。たとえば、「比較的正確な解答が求められるのは、学生実験のように条件を厳しく制約するケースに限られる。」といいます。だから、よく「建物の耐震基準は、震度6以下なら耐えられる」などと表現されるときがありますが、これだって「水平加速度がある値以下ならば重要な構造体が破損しない」という意味だそうです。でも、実際の地震は縦揺れと横揺れが激しく合わせたような揺れが多く、それに付いてはどのぐらい耐えられるかまではわからないそうです。つまり、ほとんどの場合は、机の上の想定でしか考えられないということです。
たしかに、地震が起こるときの予報も、あまりあてにはならないようですが、さりとて何も予報がないというのも心配です。
わからないといえば、カラスは黒いと思っている人が多いと思いますが、マダガスカルに行ったときに白と黒の羽毛を持つカラスを見て驚きましたが、このカラスは「ムナジロガラス」というそうで、たくさんいました。日本でも2023年8月に白いカラスが新潟県内で捕獲されましたが、これの遺伝子解析からメラニン色素が作れず色が白い「アルビノ」ではなく、白変個体とみられるそうです。
海外の調査結果などを参考に推計すると、全身白色の出現確率は2万〜3万羽に1羽程度ということですから、たしかに珍しいだけでなく、白いカラスがいることは間違いないそうです。
この本には、「カラスは、道具を使ったり遊んでいるとしか思えない行動をしたりと、きわめて知的な動物である。中でもカレドニアガラスは、道具を″作った″ことで知られる。垂直に立てた円筒形の筒にフックの付いた餌入り容器を入れ、そばに針金を置いたところ、足と嘴を使って針金を曲げ、フックに引っかけて容器を釣り上げたという。道具を使う動物なら結構いるが、道具を作る動物は、ヒト、チンパンジー、ボノボ以外ではカラスくらいだろう。もっとも個体差があるようで、オス・メス2羽のカレドニアガラスを観察したオックスフォード大学チームの論文によると、メスはうまく餌を釣り上げたのにオスの方はどうしてもできず、メスが得た餌を横取りしていったとか(情けない!)。」と書いています。
私も、子どもの時にケガをして飛べなくなったカラスを駐在所に持っていくと、元気になるまで飼っていいといわれ、何週間か飼育したことがあります。毎日、学校帰りにエサを集め、食べさせました。すると、近くまで私が行くと、鳴き声で答えてくれるようになりました。そして、飛べるようになってから、扉を開けっ放しにして学校に行くと、近くの木に止まって、鳴いていました。数日は帰るころになると、その木に止まっていましたが、だんだんと見えなくなりました。
それでも、通学途中の道でその鳴き声を聞くことがあり、まだ近くにいたんだと懐かしく思うこともありました。
よく、カラスにいたずらすると、後ろから飛んで来て、頭を突っつかれるとかいいますが、それはあり得ます。また、遊んでいる姿を見たこともあります。
そういえば、量子コンピューターのことを知りたくて、何冊が本を読んでみましたが、わからないことばかりでした。この本には、「本来備わっているはずの多くの性質を無視したせいで、量子力学における電子は、かなり常識外れの振る舞いをする。例えば、電子には小さな磁石としての性質があり、その向きはアップとダウンの2つしかないとされる。しかし、本来3次元のどの方向にもなり得るはずなのに、磁石の向きがなぜ2つに限られるのか? 実は、磁石の性質は電子の場が4つの成分を持つことに起因するのだが、場の変化が非相対論的な量子力学では扱えないため、安定な2つの共鳴状態を使って表記を簡略化したにすぎない。無限の変化を実現できる場の存在を黙殺して「状態は2つだけ」と頭ごなしに仮定したせいで、量子力学における電子スピンの説明は、ひどくわかりにくくなってしまった。」とあり、それでは、その中間の部分がわからないではないかと思いました。
それでも、途中で何が起きているのかわからなくても、トランジスタの設計などに応用できるというから不思議です。それで、量子コンピューターを作ろうとしているのですから、ますます不可思議な世界です。
下に抜き書きしたのは、第2章「生活と科学」に書いてありました。
そういえば、将棋の藤井聡太棋聖の対戦で、AIが93%の確率で負けるとの予想が出たとき、それを何度かひっくり返して勝利をおさめたときがありました。つまり、パソコンより強いということは、おそらく、この回り道思考のおかげかな、と思いました。この本には、「人間は、脳の部位という性質の異なる複数のハードウェアを、さらに別のハードウェアがコントロールするという重層構造によって、結論の妥当性を担保している。」とあり、脳の回路というのは、まったく複雑怪奇なようです。
(2025.4.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
この世界を科学で眺めたら | 吉田伸夫 | 技術評論社 | 2025年3月4日 | 9784297146924 |
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☆ Extract passages ☆
脳が機能的に分化したさまざまな部位から構成されるため、人間の思考は、各部位からの情報が複雑に組み合わされることで形成される。これが、AI(人工知能)とは異なる人間の強みである。AIは、中枢神経のネットワークを模倣している場合でも、入力から出力に至る処理手順はカスケード的である。一方、人間は、これから何かをしようとするとき、別々の情報に基づくシミュレーションを何度も繰り返し、その内容を比較照合しながら、最終的に何をするかを(主に無意識的な過程を通じて)選び取る。ふつうのAIは、こうした複合的な処理は行わない。SFの世界では、国家を管理する中央コンピュータが少しずつ性質の異なる複数のマシンから構成され、その合議で最終決定を行うという設定がしばしば用いられるが、人間の脳は、こうした合議を自然に行う仕組みが、進化を通じて備わっている。
(吉田伸夫 著『この世界を科学で眺めたら』より)
No.2418『小さな悪魔の背中の窪み』
前回、『アタマはスローな方がいい !?』を読み、そういえば買っておいた文庫本のなかに、同じ著者の本があったはずと思い、探したのがこの本です。積んであるところから類推すると5〜6年前に買ったもののようです。
たしか、血液型に関心があるというよりは、最初に書いてあったカッコウの托卵のことを知りたくて買っておいたようで、「カッコウのメスは宿主となる鳥の巣のありかをあらかじめ入念に調べておく。どこにどの営巣段階の巣があるかを頭に叩き込んでおく。というのもカッコウは、宿主が卵を産みつつある、まさにその時期を狙って自身の卵を産み込まなくてはならないからである(カッコウ
の宿主となる鳥は、たとえば一日おきに一卵ずつというような産み方をする。抱卵はすべて産み終えてから始める)。……オスとの交尾を終え、いよいよ準備万端整ったメスは、狙いをつけた巣の近くで辛抱強く待機する。何時間でも待っている。宿主が巣を離れるとその隙に、さっと飛び立ち、巣の縁に止まってまず卵を1〜2個くわえて取り除く。卵をくわえたまま向きを変え、巣に総排泄腔を突き出し(その末端の部分は″産卵管″も兼ねている)、今度は自分の卵を一つ産む。巣に到着してから産み終えるまでの所要時間たるや、たった10秒足らず!」と書いてあるのを読み、それも自然のなりゆきで、カッコウが悪いわけでもないということも理解できます。
ところが、まだ目もよく見えない孵化したばかりのカッコウのヒナが、「頭をぐいと腹側に曲げ、左右の翼と両脚とを目一杯押し広げて踏んばっている。背中に載せているのは何と宿主の卵……。そうして巣の内側の壁をエイコラ、 エイコラとよじ登っているのである。卵を支える都合上、当然バックしながらの登攀である。カップの形をした巣の縁に翼が届くと、ヒナは力を込めてぐいとそれを掴む。卵を巣の外へ放り出すべく体を震わせ、最後の力をふり絞ってエイッと体を突き上げる。」といいます。
おそらくこれを見ていたら、自然の摂理などと考えるより、なんと残酷なことをするものだと誰しも思います。
この本の最初のところにこの様子が詳しく書いてあり、理解はできますが、なんとも自然というのは恐ろしいことをするものだというのが率直な印象です。
今の若い人たちは、身長がだいぶ伸び、特に足がするっと伸びています。著者は、それは体内から腸管寄生虫、つまり回虫やギョウ虫が駆除されたからだといいます。たしかに、それらの寄生虫は、臓器にいるわけで、その分が開くとすればその余分なものは手足が伸びるようになるというのは、たしかにありうる話しです。著者は、「ここ40年ほどの日本人の身長の伸び、特に足の長さの伸びは、大部分が回虫、ギョウ虫などの腸管寄生虫の消滅に関わっていると私は見ている。食生活の変化なども、もちろん無視するわけにはいかないだろうが。」といいます。
ところが、世の中はすべてが良い方に動くわけではなく、戦後の花粉症やアトピー性皮膚炎などの急増は、この腸管寄生虫が消滅したからではないかという説もあります。
それは、「いずれにしても人間は、今や回虫、ギョウ虫込みでこそ正しい人間なのである。免疫グロブリン(抗体として機能するタンパク質)の一種であるIgEは、そもそも寄生虫を駆除するためのものとして作り出されてきたのだという説がある。現代人がゼンソクや鼻炎、皮膚炎などのアレルギー性疾患に悩まされがちなのはIgEのせいであるとも言われる。つまり本来の日標である腸管寄生虫に行き当たらないIgEが、やむなく粘膜や皮膚に作用を及ぼしてしまうということらしいのだ。回虫やギョウ虫さえおなかに持っていれば、ゼンソクにも、花粉症にも、皮膚炎にも悩まされずに済むかもしれないのに。」と書いています。
なんとなく、あちらを立てればこちらが立たずのようですが、それだけ自然界というのは微妙なバランスの上に成り立っているということなのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、第4章「他者の中に自己を見つける」のところにある「長生きするのはどういう人か」に書いてあったものです。
長生きするといえば、よくいわれるのが身体的・精神的な負担の少ない医療職や教育職、研究職などなどですが、ここで取り上げられている生物学者や画家も長生きの方が多いようです。ただ、これだって個人差はありますが、昆虫を追いかけたり、描き始めると夢中になりまわりを考えないという性格も長生きにつながるかもしれないと思いました。
そういえば、一昨年に放送されたNHKの『らんまん』のモデルになった植物学者牧野富太郎も、好きな植物のために一途に突き進んでいくような性格ですが、むしろそれが好評だったようです。
だとすれば、小児的などと嫌われる性格でも、長生きできるかもしれないと思うと、うれしくなります。
(2025.4.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
小さな悪魔の背中の窪み(新潮文庫) | 竹内久美子 | 新潮社 | 1999年2月1日 | 9784101238135 |
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☆ Extract passages ☆
画家と生物学者の共通項は何だろう。それは、子どもに特徴的な性質を大人になってもまだ持ち続けているということではないだろうか。人にはお絵描きに夢中になったり、壁や床にまで落書きをして親を困らせる時期がある。トンボやバッタを追いかけ、転んだり泥だらけになったとしても一向に気にしない時期もある。ところがたいていの人はその楽しみをいつしか忘れ、面倒臭いとか服が汚れるから嫌だなどと感じ始めるのである。画家や生物学者というのは、いつまでもその楽しみを忘れない人々、大多数の人間に比べ非常にゆっくりとした展開で大人になっていく人々と言えるのではないだろうか。彼らの長生きの秘密はそのあたりにあるような気がするのである。
(竹内久美子 著『小さな悪魔の背中の窪み』より)
No.2417『アタマはスローな方がいい !?』
この本は、「週刊文春」の人気コラムを集めたものだそうですが、いろいろな質問にズバッと答えているところがおもしろかったです。オスたちの切実なる競争とか、メスたちの止まらない煩悩とか、ちょっと答えにくいものでも、ほとんど包み隠さず直球で返答するあたりは、読んでいてすっきりします。
この「遺伝子が解く!」という副題も、遺伝子には興味がありながらも、それですべてが決まってしまうと思い、知ってしまうのも怖いものがあります。たとえば、「言ってはいけない 残酷過ぎる真実」(橘玲著)もそうですが、否定したくてもできない現実を目の前に突きつけられたら、やはりへこんでしまいます。
でも、意を決して読み始めるとおもしろく、つい、最後まで読みました。なかでもおもしろかったのは、「一発で覚えるというのは一見、いいことのように思えるが、そうではない。たまたまそうだったという現象を覚えてしまうという危険があるのだ。一方で記憶を促進し、他方で記憶を抑制する。そうして様々なケースに当たりつつ、じっくり覚えるようにプログラムされているのだ――。呑み込みが悪いことが重要だった!」と書いてあり、それこそ題名の『アタマはスローな方がいい !?』と同じだと思いました。
なんでも早いほうがいいわけではなく、だからといって遅いのもいいわけではなく、なにごとも程度問題です。本を読むことでも、早く読み終わったり、何度も読み返しながら時間のかかることもあり、速読か精読かというよりも、本の内容にもよります。基本的には、わかるということが大切だと思っているので、時間云々の問題ではありません、
でも、このように考えさせるということでは、『アタマはスローな方がいい !?』のかもしれません。
また、「鳥の場合はまず、オスとメスとで体の大きさがほとんど違いません。さらには、メスによるオス選びというステップに力点が置かれるため、オスに美しさや求愛の歌、踊りなどの魅力が驚くほど進化していることになるのです。しかしそもそも、なぜメスがオスを選ぶのであり、その逆ではないのか?メスには産むことのできる子の数に限りがあるが、オスにはそれがない。条件さえ整
えば、無限といっていいくらいに子を残すことができる(逆にゼロということもある)。メスとしては同じ産むなら質のいい子を、ということでオスの質を慎重に見極める。オスはダメ元でどんどんメスに求愛する……。これが、メスがオスを選ぶという構図となって現れる次第。」とあり、今のあまりにも不倫に対する強烈な批判もほどほどにと思ってしまいます。
ただ、悪いことは悪いのですから、弁解の余地はないのですが、人生のすべてを否定するような報道はいかがなものかと思います。
下に抜き書きしたのは、第3章「家族、この深淵なるシステム」に書いてあったものです。
よく、似たもの夫婦という言葉がありますが、あまり似ていてもいいことばかりではなさそうです。だからといって、違いすぎては衝突することも多いのではないかと危惧します。だから、下に抜き書きしたのは、よく考えてみるとなるほどと思いました。特に今年の冬のように大雪ですと、その経験のない地域から来ると、なかには戸惑ってしまう方もいるようです。ところが同じ雪国育ちですと、いくら降っても春になればとけてしまうと考え、そんなに深刻には考えないでしょう。
そういえば、植物などもそのようで、「ヒエンソウは牧場などに一面に生えている草で、生えている場所の近さが遺伝的な近さとだいたい対応しています。ある研究者は一つの花に、それから様々な距離にある花の花粉をつけるという実験をしました。すると、 1メートルから10メートルくらいの花粉で最もよく実がついた。近すぎても、遠すぎてもいけない。ほどほどに似ていてちょっと違う、というのがよい結果に至るのです。」と書いてありました。
(2025.4.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
アタマはスローな方がいい !?(文春文庫) | 竹内久美子 | 文藝春秋 | 2008年1月10日 | 9784167270124 |
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☆ Extract passages ☆
近すぎるのがいけないというのは周知の通り、近親婚による弊害があるから。
つまり、誰でも劣性の何らかの有害な形質についての遺伝子を数個は持っている(といっても染色体の片方に)。それと同じものを相手も、血縁が近いゆえに持っている可性が高い(もちろん染色体の片方に)。するとできた子はしばしばその有害な形質の遺伝子を二つ揃えてしまい、害が現れてしまうこともあるからなのです。
すると、遠すぎてもよくないとはどういうことか。
実は、生物たるものは家系ごとに何らかの戦略(繁殖戦略なり、生きていくための戦略なり)を持っている(戦略は一つだけではないだろうが、これを仮にA戦略とする)。遠い相手では戦略は全然違うだろう(B戦略とする)。
つまり、遠い相手とつがうとAもBも得意とする者も現れるが、AもBも不得意などっちっかずの者が現れることの方が多い。
その点、適度に近い相手とつがえば手堅い、というわけなのです。
(竹内久美子 著『アタマはスローな方がいい !?』より)
No.2416『三谷幸喜のありふれた生活 11 新たなる希望』
著者の三谷幸喜さんのことはほとんど知らなかったのですが、TBSテレビの「情報7daysニュースキャスター」で、司会の安住紳一郎アナとのちょっとかみ合わないこともあるコメントを聞き、それから意識的にみるようになりました。時間帯が土曜のよる10時からというのも、見る機会が増えた理由です。
少しずつなれてくると、わざとかみ合わないようなコメントをすることもわかってきて、この本を読んでから、それもわかるような気がしてきました。
それにしても、この本を書いている間の仕事データを見ただけでも、舞台や映画、テレビドラマなど、まさに八面六臂の活躍です。しかも、それぞれに話題作ばかりで、その源泉がここにあるような気がしました。
たとえば、舞台「ベッジ・バートン」で狂言師の野村萬斎さんがロンドン留学時代の夏目漱石の役で出ていて、それもプロデューサーの北村明子さんが「背広を着た野村萬斎が見たい」の一言で決まったそうです。この本には、「相手が台詞を言っている時、萬斎さんは微塵も動かず、まるで仏像のように佇んでいる。もう少しリアクションをして貰えますかとお願いすると、「狂言の世界では相手が喋っている時は、大抵の場合じっとしているのです」と表情を変えずに彼は言った。同じ演劇でも、狂言と僕のやっている芝居とでは、これほどまでに差があるのだ。萬斎さんにとって今回の稽古場は、五百年前から現代にタイムスリップして来たお公家さんに匹敵するくらい、カルチャーショックだったに違いない。顔合わせの時、「今回はニュー萬斎を作り上げましょう」と彼と約束した。だから、僕としてもとことん粘った。苦労した甲斐あって、舞台上の萬斎さんは実に新鮮でチャーミング。萬斎さん以外の誰も演じることの出来ない、若き文豪の姿がそこにある。」と書いています。
それでも、萬斎さん自身もロンドンに留学していた経験があり、そのときの体験談も少しは物語りに反映されているそうです。
やはり、狂言の世界と現代の演劇の世界では、相当な違いはあると思いますが、それを乗り越えてしまうのですから、監督も役者もすごいと思います。むしろ、その違いがおもしろさをもたらしているのかもしれません。
そういえば、著者がチェーホフの「桜の園」を演出したときの話しですが、そのチラシの表には白い衣装の役者さんの写真を使い、裏にはチェーホフに扮した著者が舌を出してふざけている写真を載せたそうです。そのときに、特殊メークの江川悦子さんにお願いし、衣装も実際に当時のロシア人が着ていたものを見つけてもらい、こりに凝ってカメラの前に立ったといいます。そのときの思いですが、「本人になりきることで、ほんの少しだけ彼に近づけたような気がする。おかげで戯曲の読み込みも深まった(と勝手に思っている)。僕よりもチェーホフに造詣の深い方は、日本中に沢山い
らっしゃると思うけど、ここまでチェーホフ自身に変装した研究家は、そういないはず。「変装」は、作品に対する僕なりのアプローチなのである。」と語っています。
おそらく、チェーホフの研究家がチェーホフ自身に変装しようとは考えもしないでしょうが、それを実行するのが三谷幸喜さんなのです。
下に抜き書きしたのは、「降り出した幸運の雨」のなかにあったものです。
このときのロケは長野の山の中で、準備の途中で雨が降りだして、なかなか止む気配がなかったそうです。そこで、チーフ助監督の片島さんが撮影の中止を決定し、機材の撤収をはじめたときに、台本の第1稿のト書きに「雨が降っている」と書いたことを思い出し、人工的に雨を降らせるのは相当なお金がかかるということで諦めカットしたそうです。
たまたま雨があったことで、それを思い出し、まさに幸運の雨になったという下りです。
役者もそうですが、何ごとにも運不運はあるもので、著者には運を引き寄せるものがあるのではないかと思いました。
(2025.4.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
三谷幸喜のありふれた生活 11 新たなる希望 | 三谷幸喜 | 朝日新聞出版 | 2013年8月30日 | 9784022511072 |
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☆ Extract passages ☆
慌てて片島さんを呼び戻す。「撮影しましょう!」。彼は目を丸くしていた。「当初の予定ではこのシーンは雨だったんです。これこそ、僕が撮りたかったシーンなんです!」
早速、待機中の深津さんに状況を説明 「雨に濡れるのは嫌だわ」と言われたらどうしようと思ったが、「やりましょう。やるべきです!」と、逆に力強い言葉を頂く。
急きょ撮影開始。それは、やんで欲しいと願っていた雨が、「やまないで欲しい雨」に変わった瞬間でもある。こうして、葉っぱのついた枝(美術スタッフが見つけてくれた)を手に、雨の中をとぼとぼ歩くエミの姿は、永遠にフィルムに焼きつけられた。
びしょ濡れの深津さんを見ながら、自分が思い描いていた映像を、(それもかなり安上がりに)撮影することが出来た幸運に、僕は感謝した。
この映画が、何かに守られていると最初に感じたのは、その時だ。
(三谷幸喜 著『三谷幸喜のありふれた生活 11 新たなる希望』より)
No.2415『新版 知的創造のヒント』
外山滋比古が亡くなられたのは、2020年7月でしたが、私が講談社現代新書の『知的創造のヒント』を読んだのは、だいぶ前です。
その後、ちくま学術文庫として文庫化され、今回はその新版だそうです。そこで、たまたま図書館にあったのを借りてきたのですが、記憶もおぼろげで、しかも活字が大きくなり、とても読みやすくなっていました。
そして、「特別講義」が加わり、そのなかに「おしゃべり会をひらく」という項目があり、「人生において「ものを考える」ことの楽しさ、面白さを実感するには、そういう志を同じくする仲間と楽しく、お互いを尊敬し合いながら意見をぶっかり合わせて、そこで今まで意識しなかった形で頭を刺戟した方がいい。本を読んだり、学校で講義を聞いたりすることはもちろん価値がありますが、もっと体全身で考えることを実感するのが何よりも大事なのです。」とあり、そういえば学生のころは、喫茶店や自分たちの部屋で語り明かしたことを思い出しました。おそらく、今の学生たちはそんなことはしないようで、すぐスマホで調べ、それで終わりにしそうてす。
この本にあるように、ものを考えることの楽しさは、それだけでは感じられないと思います。そのとき、語り合った同期の集まりが4月10日に中大駿河台キャンパスの19階にある「グッドビューダイニング」でありましたが、その会でも、若い日々に語り合った同期たちと楽しく語り合いました。
この本のなかに、何度か出てくる欧陽修の「三上」というのがあり、私もそのきっかけが何度もありました。この「三上」というのは、「精神を自由にするには、肉体の一部を拘束して、いくらか不自由にする方がいいらしい。中国の宋時代の詩人、欧陽修が三上、馬上・枕上・厠上を妙案の浮ぶ場所としてすぐれていると考えたのも、それぞれ、完全に自由にならない立場にあるからだといえそうである。馬上にしても、枕上にしても、トイレの中にしても、ほかにすることとてないが、そうかといって、別にほかのことをするわけにもいかない。そういう状況でものを考えるのも、″ながら族"の一種である。」といいます。
私も馬に乗ったのは一度しかないので、それはわかりませんが、寝ながらとかトイレに入ったときとか、意外とおもしろい考えが浮かびます。ただ、すぐに忘れてしまうので、トイレにもメモ帳や筆記具などを用意してメモるようにしています。
また、どちらも人に邪魔されないところなので、それがいいのかもしれないとも思います。
私は一人旅が好きですが、人に煩わされないことも知的創造には大切なことだと思っています
下に抜き書きしたのは、第1章「忘却のさまざま」のなかの「カタルシス」に書いてありました。
ここでいうカタルシスというのは、文芸作品、特に悲劇などを鑑賞して、そこに繰り広げられる世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放されて快感がもたらされることだそうです。つまり簡単にいうと、浄化です。
この本には、歩くことだけでなく、お風呂に入ることもカタルシス効果が高いと書いていますが、たしかにのんびりと入浴していると開放感があります。頭でいろいろと考えているのがつまらないことのように思うことだってあります。
下に抜き書きしたなかに、タブラサラという言葉がありますが、これはラテン語の「tabula rasa」で、「何も刻まれていない石板」とか「白紙」を意味する言葉だそうです。つまり、よく頭を真っ白にして考えるということのようです。そういれば、いろいろなことから開放されて、自由に考えられるということです。
私も若いときに小町山自然遊歩道を造り、他を歩けなくなったときに自分の好きな自然の植物たちを眺めながら歩きたいと思いました。それがコロナ禍で不要不急の外出ができなくなったときにはとても重宝しましたが、ここを歩くだけでも足腰の痛みすら忘れられるような気がします。
(2025.4.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
新版 知的創造のヒント(ちくま文庫) | 外山滋比古 | 筑摩書房 | 2025年2月10日 | 9784480440020 |
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☆ Extract passages ☆
自由な考えが生まれるには、じゃまがあってはいけない。まず、不要なものを頭の中から排除してかかる。散歩はそのためにもっとも適しているようだ。ぼんやりしているのも、ものを考えるにはなかなかよい状態ということになる。勤勉な人にものを考えないタィプが多いのは偶然ではない。働きながら考えるのは困難である。歩くのは仕事ではない。だから、心をタブララサにする働きがある。時間を気にしながら目的地へ急ぐのでは、歩いても思考の準備にはならない。
ものを考えるには、適当に怠ける必要がある。そのための時間がなくてはならない。
(外山滋比古 著『新版 知的創造のヒント』より)
No.2414『裏道を行け』
副題が「ディストピア世界をHACKする」で、ディストピアとは何かを調べてみると、ディストピア(dystopia)とは、理想的な社会の対義語で、不幸や抑圧が支配する未来社会を描いた概念だそうです。つまり、ユートピアの反対の反理想郷や暗黒世界ということです。
また、ハックするということは、この本でハッカーの説明をしていますが、「1990年代のハッカーであるポール・グレアムは、並はずれて優れたプログラマーと、コンピュータに不正侵入する者が、ともに「ハッカー」と呼ばれるのは間違ってはいないという。ハッカーとは、「コンピュータに、良いことであれ悪いことであれ、自分のやりたいことをやらせることができる者」のことなのだ。何かをとても醜い方法でやったら、 ハックと呼ばれる。しかし、何かを素晴らしく巧みな方法でやってのけてシステムをやっつけたなら、それもハックと呼ばれる。なぜなら、この2つには共通点があるから。それは、両方とも「ルールを破っている」ということだ。ハッカーとは、常識やルールを無視して「ふつうの奴らの上を行く」者たちのことなのだ。」といいます。
たしかに、初期のハッカーは、自分のコンピューターに対する知識の発露だったり、人を驚かすことだったりしていましたが、最近のハッカーはお金もうけの手段になっているような気がします。だいぶ昔に読んだ本のなかに、とんでもない大金持ちはお金に執着することがなくなると書いてありましたが、この本のPART5「世界をHACKせよ――どうしたら「残酷な現実」を生き抜けるか?」にもその例がいくつか載っています。
ただ、今の個人主義的な生き方が続けば、「社会のリベラル化が進み、誰もが「自分らしく」生きるようになれば、教会や町内会のような中間共同体は解体し、一人ひとりがばらばらになっていく。これによってわたしたちは法外な自由を手にしたが、それは同時に、自分の人生のすべてに責任を負うことでもある。リベラルな社会では、人種や身分、性別や性的指向などにともなう差別はなくなるはずだから、最終的には、あらゆることが「わたしの選択」の結果、すなわち自己責任になるだろう。誰もが自由に生きられる社会では、至るところで「わたし」と「あなた」の利害が衝突する。」と書いてあり、まさに現代が直面している課題でもあります。
たしかに自由になればいいこともたくさんありますが、それぞれに勝手に振る舞えば、困ったこともありうるわけです。そこに、自由の限界がありそうです。
民主主義だってそうです。みんなの意見を尊重するとはいうものの、みんなの意見を聞いてばかりいては、ものごとは進みません。世の中はきんきんの課題もあります。だから、どこかで打ち切らなければ進むことはできません。
この本の購買スイッチのところで、おもしろい話しが載っていました。1970年にデンマークで生まれたマーティン・リンストロームという人が、大規模な実証実験で「購買スイッチ」を探そうとしたそうです。そのひとつが、「コカ・コーラとペプシコーラを商品名を教えずに試飲させると、ペプシの方が美味しいとの答えが多数になるが、商品名をあらかじめ伝えると結果は逆になる。このときの脳をスキャンすると、(美味しさの刺激を感知する)腹側被殻だけでなく、内側前頭前皮質への血流の増加がみられた。この領域は、高度な思考や認識を司る部位だ。リンストロームは、これがブランドのちからだという。コーラの歴史、ロゴ、色、デザイン、匂い、子どもの頃の思い出、長年のテレビ広告や印刷広告などがサブリミナルで被験者の感情を揺さぶり、「ペブシの方が美味しい」という理性を打ち破ったのだ。」と書いています。
でも、私の場合は、学生のころからコカ・コーラを飲んでいるので、ブランドのちからというよりは、懐かしさではないかと思っています。コーラは、やはり、この味でなければということです。
もちろん、いろいろな考え方もあるでしょうから、この購買スイッチだって、たくさんあるのではないかと思います。
そういえば、最近はとくにオンラインカジノなどの問題も出ています。もちろん、日本では禁止されていますが、簡単に海外にアクセスできるので、つい手を出してしまう人もいるかもしれません。しかし、これも依存症になる確率が高く、テレビで伝えられているようなことが起きてしまいます。どうしても、若いときには好奇心もありますから、ネット時代には要注意です。
下に抜き書きしたのは、PART5「世界をHACKせよ――どうしたら「残酷な現実」を生き抜けるか?」に書いてあり、印象に残りました。
やはり、自分でコントロールできないことを、いくら考えてもらちはあきません。だとすれば、考えないことも大切で、そこから「無」の教えが起こるのかもしれません。
(2025.4.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
裏道を行け(講談社現代新書) | 橘 玲 | 講談社 | 2021年12月20日 | 9784065265703 |
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☆ Extract passages ☆
エピクテトスは帝政ローマ時代のギリシアで奴隷として生まれ、その後、解放されて哲学を講ずるようになった。
エビクテトスの教えが現代的なのは、政治に参加して社会を変えるのではなく(当時のローマでは、哲学者が「改革」を論ずることは許されなかった)、個人の内面の幸福や、より善く生きることを説いたからだ。
エピクテトスは、自分がコントロールできるものを「権内」、自分でコントロールできないものを「権外」と峻別し、権内のものごとだけに集中すべきだとする。……
エピクテトスにとっての「自制」はたんに我慢することではなく、逆境においても権外のものごとを無視することで安寧を獲得する技術なのだ。
ストア哲学では、富や健康、病気や貧困なども権外で、善悪とは無関係とされる。富(自分でコントロールできないもの)に執着していては幸福を手に入れることはできないとして、こころ(内面)のゆたかさを説く思想はブッダの教えと重なっている。
(橘 玲 著『裏道を行け』より)
No.2413『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』
この本は、月刊誌「致知」に連載された「忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉」で、2018年1月号から2024年2月号までのなかから、46人分を抜粋し、加筆修正を加えたものだそうです。
私もときどき「致知」を読むのですが、そんなに熱心な読者でもないので、この連載もあちこちしか読んでいなかったのですが、こうして1冊になると、読み応えはあります。つい、時間を忘れて、読んでしまいました。
たとえば、犬養道子さんとの話しで、犬だか猫だか忘れてしまったそうですが、ドイツの住んでいたときに、たまたまそのペットが死んでしまったので、かわいがっていたこともあり自宅の庭の樹の下にそっと埋めたそうです。しかし、ドイツでは犬を庭に埋めることは違法だそうで、翌日に警察がきたそうです。たまたま新型コロナウイルス感染症が大流行し、世の中がギスギスして相互監視のような雰囲気になってきたので思い出したようです。「ドイツの市民は、法を守ることに厳格である。自動車を運転していても、ちょっと交通規則に違反する車があると、周囲の車が一斉にクラクションを鳴らして注意したりする。車を洗わずにいると、近所の人から注意されることもあったそうだ。そんなこんなで、いささか気が重くなってフランスに引っ越した。フランスもある意味では厳格なところのある国だが、お互いの私生活には干渉しない自由さがあって、気持ちがうんと楽になったのだそうだ。」と書いています。
たしかに、法律を守るということは大切ですが、なんでも行き過ぎると社会全体が窮屈になってしまいます。この本の星野哲郎さんとの話しにも出てきますが、歌も芝居も「ダレ場」が必要だというのはうなづけます。
また、石岡瑛子さんの話しもおもしろく、NHKの新日曜美術館で3月9日に放送された「時代のアートの伴走者として小池一子 89歳の颯爽」とも相似たような印象を持ちました。この本のなかで石岡さんは、「十人のスタッフを選ぶとき、もっとも優秀なメンバーの中に一人か二人、どうということのない平凡な人物を加える。ときには変人と思われる人物を選んだりもする。「優秀な人ばかりで作りあげた仕事は、百点はとれても百二十点はとれない。均質な才能を組み合わせて創りだす仕事には限界があるような気がする。ちょっと異質なものが混ざっていたほうが、思いがけない飛躍があるんじゃないのかな。だからわたしは、大きなプロジェクトのスタッフには、何人かちょっと変った人を加えることにしてるんだ」」と話していて、なるほどと思いました。
とくにデザインやアートの世界は、杓子定規ではなんともならないものがあります。むしろ、型破りぐらいでないと、新しいものは生まれません。だから、つねに新しいアーティストがもてはやされるのです。
だからといって、新しさばかりでは息が詰まります。むしろ、ある意味、見慣れたものやありふれたものも大切です。その道一筋に生きてこられた人たちもすごいと思います。そういえば、洋画家の野見山暁治さんと著者が福岡の九州文化協会の催しのときに会って、「なにか日頃、健康のためにおやりになっていることが、おありなんですか」と聞いたときの返事が、すこぶるシンプルでした。
それは「絵描きさんにしても、詩人、小説家にしても、持続して描く、または書くことが何よりも大事だということを、あらためて教えられたのである。アーチストも、年をとると創造力がおとろえてくるのは自然の理だ。しかし、それでもなお日夜、仕事を持続することが必要なのである。持続すること。若い頃のみずみずしい才気は失われても、それにかわる何かがそこにはあるのではないか。」ということで、102歳まで生きられた画伯のシンプルさに、納得しました。
下に抜き書きしたのは、林達夫さんとの対談で聞いた「その土地に根ざしたものより、移植されて育った植物のほうが強い」に書いてあった言葉です。
この話しは、1960年代の終わり頃のころで、林さんとある出版社の人気のない編集室でのことだったそうです。
私も若いときから植物を育てるのが趣味でしたから、この意味するところはよくわかります。実際にも、たとえ海外からもたらされた植物でも、まったく違う日本の環境のなかでたくましく育っているところを見ると、なるほどと思います。
(2025.4.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉(新潮選書) | 五木寛之 | 新潮社 | 2025年1月25日 | 9784106039201 |
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☆ Extract passages ☆
「人は、その土地に根ざしたもののほうが強いと思っているが、そうではない。移植されて育った植物のほうが強い場合が多いんだ。人間もそうだね。ロシアの国民詩人の第一人者プーシキンの曾祖父のルーツはエチオピアだ。英文学のコンラッドはポーランドからきた。デラシネ(故郷から離れた人)が文化を創るんだよ」
(五木寛之 著『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』より)
No.2412『私の同行二人』
副題が「人生の四国遍路」で、そういえば、私も2017年2月28日から3月15日まで、四国八十八ヵ所を遍路したことを思い出しながら読みました。
私の場合は夫婦二人での巡礼なので、自宅から車で四国まで行き、それでまわったのですが、著者は歩き遍路ですから、本格的です。しかも、今回で2回目ということで、1回目のことなども思い出しながら書いています。
おそらく、歩き遍路で一気にお詣りしたほうが印象には残ると思いますが、それをするには、まだは歩き通すだけの体力が必要です。また、約2ヶ月間ぐらいの期間が必要なので、それも工面できないと難しいと思います。それと、やはり、どのような遍路をするかによって違ってはきますが、先立つものも必要です。少なくても、これだけのものがなければ、現在のお遍路はできません。だとすれば、お遍路できることも幸せなことだと改めて思いました。
それにしても、著者が聞いた山の宿の女将さんの「お遍路さんはベテランも若い人もみなさん前身湿布だらけですよ」という話しには、なるほどと思いました。私も、旅行に出かけるときには必ず湿布をもっていきますが、歩くというのは、やはり大変なことです。
この本は、1〜12までは新潮社Webマガジン「考える人」に連載されたもので、13〜23までは、新たに書き下ろされたそうです。
よく、四国八十八ヵ所では、「同行二人」といい、いろいろなところにも書かれています。これは、「遍路は来るものを拒まず、弘法大師は誰にでも寄り添う。そして囁き続ける。ある時は風となり、雨となり、花となり、木の実となり、月となり、星となり、ある時は道行く人の口を借りて、呼びかけ続ける。それらの"サイン"を受け取れるかどうかは、こちら側にかかっている。私たちが気づかなくても、大師が諦めることはない。それが同行二人なのだ。」と著者も書いていて、私も金剛杖に書かれたその文字をときどき眺めながら歩きました。
そうすると、ナビだけではわからなった道筋がおぼろげながら見えてきて、そちらの方に進むと案内書にも書いてある道に出ることもありました。
遍路をすると、札所も大事なことは当たり前ですが、そこにいたる道筋も楽しく、石仏や花を見つけたり、優しい春風を感じることもありました。そういえば、山頭火の「山へ空へ摩訶般若波羅密多心経」という句が載っていて、私も観音巡礼でも持ち歩いています。
著者は、「札所と札所の間の"辺地"こそが"遍路″だ。遍満する仏の意思を感受するには、辺地の自然のなかを歩き回らなければならない。そう、鳥の声にも、花にも、星の瞬きにも、小さな蜘蛛にも、仏の意思や宇宙の真理が顕れているのに。多くの人がその"サイン"を見逃している。スーザンはそこがよくわかっているのだ。」と書いてます。
スーザンというのは、遍路で出会った方で、彼女は、「日本人の多くが未来のことを心配し過ぎている気がするの。今日の昼食のこと、先々の宿の予約のこと、老後のことと、心配ばかりしている。もっと″いま"を生きないと。この鳥の声! こんなに素晴らしいのに、なぜみんな急いで歩くの?」と話したことからの言葉です。
そういえば、私がネパールのカトマンドゥに泊まっていたときに、ほとんどの日本人は朝早くから出かけて、夕方遅くに帰ってきます。ところが、とくにヨーロッパの人たちは、朝はゆっくり出かけて、お昼過ぎにはホテルに戻り、芝草の上でのんびりと寝転がったりしていました。1日中、イスに座り、本を読んだり、昼寝をする人もいました。それを見ていて、私も旅先でのんびりすることを意識するようになりました。
それと、どうしても旅行に行くときの荷物が多くなりすぎる傾向があります。この本のなかに、ある野宿のお遍路さんが、「荷物の量は不安の量。あなたが不安と戦って不安を捨てることができたとき、荷物は減る……」と出会った人に聞き、なるほどと思ったそうですが、これはたしかにそうかもしれないと私も思いました。
下に抜き書きしたのは、7「カイロスと呼べる自分だけの時間」に書いてありました。
この洞窟というのは、住居として使った御厨人窟と行場として使った神明窟で、もともとは海岸端にあったのですが、今ではその間に道路ができてしまいました。私が訪ねたときには、落石が多いことから、立ち入り禁止でしたが、この本によると、落石防護用の鉄製の屋根が新設されたことから、入れるようになったそうです。
この御厨人窟の奥には、大国主をまつる五所神社が鎮座していて、空海はここで修行し悟りを開いたとされています。たしかに、ここからは真っ青な海と空が見えるので、名の由来もここではないかと思います。
また、ここに出てくる蟹というのは、神明窟の祠の前にいた赤い蟹で、一匹だけぷくぷくと泡を吐きながら海の方を向いてじっとしていたそうです。
(2025.4.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
私の同行二人(新潮新書) | 黛 まどか | 新潮社 | 2025年1月20日 | 9784106110733 |
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☆ Extract passages ☆
太平洋に突出した室戸岬の風雨にさらされた洞窟は岩を剥落させながら、ひたすら空と海に対峙する。この地で空海は斗藪(修行の一種)しつつ、造化に従い、海や山の恵みを得て自給自足で暮らしていたはずだ。隔絶されたこの地では生きることが即ち″行″ではなかったか。「一枚に逍遥し、半粒に自ら得たり」(「三教指帰』巻の下・仮名乞児論)。生きることのすべてが自然の活動と共にあり、空海の感覚器官(六根)は研ぎ澄まされた。
「五大にみな響あり、十界に言語を具す」(『声字実相義』)。自然の一部と化した空海。彼とその他を隔てるものはなく、融合していた。洞窟をおとなう蟹のつぶやきは仏のつぶやきそのものだった。彼は蟹に"仏性"を見たに違いない。蟹のつぶやきも、波音も、星の煌めきも、仏の言葉であり、あらゆるものが真理を伝えようとしていた。この隔絶された小さな洞窟には仏の声が犇いていただろう。
(黛 まどか 著『私の同行二人』より)
No.2411『妄想気分』
たまたま、この本を見て、作者が以前書いた「博士の愛した数式」という映画を観たことを思いだし、懐かしくなり、この本を読むことにしました。
この本に書いてあるプロフィールを読んで初めてわかったのですが、この「博士の愛した数式」は読売文学賞と第1回本屋大賞を受賞したそうで、私に撮っても思い出深いものでした。しかし、著者は、これを書いた後の心境を、「慣れない分野を題材にして書いたからか、疲れが出て唇が腫れた。唇の奥に潜んでいるウィルスが、時折むくむくと盛り上がって、唇をとんでもない形に変えてしまうのだ。最初に、口のまわりが妙に緊張してくる。そのうち、薄い皮の下でうごめくウィルスたちの動きが、伝わってくるようになる。彼らも焦っているのが分かる。「おい、こんなくたびれた小母さんに巣食っていて大文夫か?」などとささやき合っている。「どうぞ心配しないで下さい」と言ってなだめるが、もう手遅れだ。押し合いへし合いしながら、唇の皮を持ち上げ、時には亀裂を生じさせ、半透明の体液を染な出させる。」と書いてあり、いくら好きで作家になったとしても、創作をするというのは大変なことだと感じました。
それと同時に、慣れない分野を題材にして書けたり、疲れをさまざまなイマジネーションで表現したり、やはり作家になれる人はすごいとも思いました。
今でこそ、新型コロナウイルス感染症にさんざん痛めつけられたことで、ウィルスという存在も身近に感じられますが、この本が出たのは2011年ですから、おそらくインフルエンザやノロウイルスなどが念頭にあったと思いますが、なんともウイルスのうごめきまで伝わってくるかのようです。
そういえば、「フンコロガシの心の中へ」では、「ファーブルの視線の先でフンコロガシは、か弱い後ろ足を使い、皆から見捨てられたフンを集めて回る。誰に命令されたわけでもないだろうに、一心に、修行するように、大きなフンを転がしてゆく。」と書いていて、私も昔、フンコロガシの映像を見たときのことを思い出しました。まさに掃除人の風格さえ感じたものでした。
この本を読みながら、そういえば最近は私も……、というところもあり、共感を持ちました。十人十色とはいうものの、人は似たところも多いのではないかと思います。
たとえば、「頭にははっきり姿が浮かんでいるのに、名前だけがどうしても口から出てこない、という経験をすることが、最近少しずつ増えてきた。その場にいる誰かがうまくこちらの気持を察知し、代わりに名前を言ってくれるとすっきりするが、結局思い出せないまま、いつしか誰の名前を何のために思い出そうとしていたかさえ、忘れてしまう。」と書いてあり、私の場合は、その人の名前を思い出すまで、何となく落ち着かなくなってしまいます。
植物名なら、今でもすらすらと出てくるのに、なぜ人の名前が出てこないのか不思議ですが、いくら考えても出てこないのですから仕方ありません。むしろ、必死になって考えると、ますます出てこないような気がします。
そして、まったく関係ないことをしていると、フッと出るから、また不思議です。
下に抜き書きしたのは、第5章「自著へのつぶやき 書かれたもの 書かれなかったもの」のなかの「おとぎ話の忘れ物」に書いてありました。
長く生きてくると、いろいろなトラブルに巻き込まれる経験もしますが、このようにトラブルのおかげで小説が出来上がることを知り、まさに必要なトラブルだったと思いました。やはり、このように考えれば、トラブルも明るく前向きにとらえられるような気がします。
(2025.4.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
妄想気分 | 小川洋子 | 集英社 | 2011年1月31日 | 9784087813715 |
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☆ Extract passages ☆
樋上公実子さんの絵が既に出来上がっていて、それに小説を書く約束になっていた。編集者が原画を持って来てくれたのだが、何とホテルのトイレに忘れてしまった。無事、絵は戻ってきてほっとした。このトラブルのおかげで、タイトルと物語の全体像が決まった。あれは、物語の神様のいたずらだったのだろうか? 編集者は胆を冷やし、寿命を縮めたようで気の毒だったけれど、この本のためにはどうしても必要なトラブルであったのだ。たぶん。
(小川洋子 著『妄想気分』より)
No.2410『私のまんまで生きてきた』
たまにテレビなどで著者を見ることがありますが、あの大きな声にはちょっと驚きます。しかも大きいだけでなく、騒々しいような音質で、長く聞いていると疲れてきそうです。
本人も、この本の「はじめに」のところで、「声がでかい人に、悪い人いないと思いませんか? 陰湿な人は、声が大きいなんてことないでしょ。やっぱり声が大きくて元気がある人のほうが、しゃべってて気持ちがいい。よく注意されたけど、声が大きいって私はいいことだと思うなあ。」と言ってしまうのですから、やはり、そのまんまのようです。
それでも、料理もそうですが、子育てもそのまんまでも、理にかなっていることが多く、だからこそ、テレビなどでも重宝されるのかもしれません。たとえば、子育てにしても、子育ては親育てと同じで、「私は息子のおかげでずいぶん勉強をした。人間的にもうんと成長したような気がする。あんなにわがままだった私から、わがままがとれて、今まで持ち合わせていなかった思いやりや、やさしさが生まれてきた。息子に対する思いやりがきっかけになって、誰に対してもその人の気持ちをわかろうと努めるようになった。結局、子育てというものは、親育てなのだと思う。」と書いていて、声が大きいだけではないと思いました。
このちょっと先に、忙しくてなかなか子どもの野球の試合の応援に行けなかったそうで、そのことをチームメイトのお母さんからの電話でたまには見に行ってあげたらというようなことを言われたと書いてありました。たしかにそうかもしれませんが、息子さんに直接聞いたら、お母さんが見に行かなくてもさびしくなんかないと答えたそうです。
私もそのような経験があり、試合は土日曜の忙しいときしかないので、ほとんど行けませんでした。ところが、たまたま時間がとれそうなので行こうかと尋ねたら、「たまに来られると、むしろ緊張するから来なくていい」と言われて、とうとう1回も行きませんでした。おそらく、わが家の仕事をわかっていたから、あのような返事をしたのかと重いながら、この文章を読みました。
最近の子育ては、あまりにも手をかけすぎて、親子ともに疲れているのではないかとさえ思います。みんながしているからとか、情報によるとこのようにしなければならないとか、それに振り回されているような感じさえします。十人十色、いろいろなやり方があるので、いっしょに取り組めば、子育ても、親育ても、同じようなものです。
それにしても、「和田さんって、私よりも私のことを知ってるみたいで、玄関をガチャガチャッて開けたとき、私が沈んだ声で「お帰んなさい」なんて言うと、靴を脱ぐ前に、「どっか食いに行く?」って言う。私が疲れてることがわかるのね。もうありがたくてありがたくて。食べに行ったあと「ああ、おいしかった」って私が言うと、「レミのごはんのほうがおいしいよ」って言われちゃうの。」と書いてあり、まさに似た者夫婦だと思いました。
でも、それが長続きする夫婦かもしれません。やはり、お互いに思いやってるところがいいですね。
下に抜き書きしたのは、「おわりに」に書いてあったものです。
最初に「はじめに」のところにあったものを引用したので、やはり、この流れでいくと、「おわりに」で終わらないと締まりません。
そして、最初から最後まで、和田さんの話しが中心です。しかも、阿川佐和子との対談で、「和田さんは私のために生まれてきたのよ」と言い放ちますから、本当のいい夫婦だったと思います。これも、やはり、胃袋をつかまれるって、本当に幸せなことなんだと思いました。
(2025.3.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
私のまんまで生きてきた | 平野レミ | ポプラ社 | 2024年11月11日 | 9784591183793 |
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☆ Extract passages ☆
だいすきな和田さんが亡くなって、もう5年も経っちゃった。今でも和田さんのことを考えない日はありません。会いたくて会いたくてたまらない日もある。そんなときは渋谷区の中央図書館に行くんです。そこの4階に、和田さんが書いた本とか、装丁した本、蔵書がたくさん置いてある。事務所で使ってたテーブルも椅子もある。「和田誠記念文庫」っていう場所なのね。そこで和田さんの本を開いていると心がすーっと落ち着いていくの。また和田さんに会えたような気持ちになるんです。本にはすごい力があるんだなあ。
(平野レミ 著『私のまんまで生きてきた』より)
No.2409『花と夢』
この本は、アジア文芸ライブラリーの最初の1冊で、この企画は、「文学を通じてアジアのこれからを考える」をテーマにしているそうです。
たしかに、アジアの作家の本を読む機会はほとんどなかったので、2024年4月より始まったアジア各地の同時代の文学作品を読めることは、たいへん意義のあることだと思います。
さて、この本の著者のツェリン・ヤンキーは、中国チベット自治区シガツェで1963年に生まれ、両親が忙しいこともあり語りのうまい祖母に育てられたそうです。ラサのチベット大学に在学中に『チベット日報』に投稿した小説が掲載されたり、その後も数々の賞を受賞したそうですが、教師の仕事が忙しく、しばらくブランクがあり、この長編小説『花と夢』を7年がかりで完成させました。
中国でチベット自治区ラサで刊行されたのが2016年で、特にコロナ禍のときには、インターネットにアップロードされたこの小説の朗読に耳を傾ける人も多かったといいます。まさにこの小説は、そのラサを舞台にして、ナイトクラブ「バラ」で働く、菜の花、ツツジ、ハナゴマ、プリムラという源氏名の4人の女性が主人公で、裏通りにある小さなアパートで共同生活をしながら支え合い生きる姿を描いています。
そういえば、この本にも出てきますが、世界最高所を走る青蔵鉄道に私も乗ってみたくて、中国の友人と1989年6月に行く計画を立てていたのですが、残念なことにその6月4日に天安門事件が起き、多数の一般民衆や解放軍兵士が死傷しました。もちろん、このようなときに行けるわけはなく、延期はしたものの、そのままになってしまいました。
今でも、本やテレビで青蔵鉄道が出てくると、つい引きつけられてきます。たとえば、西寧からゴルムドを経由し、少しずつ標高を上げて青海省とチベット自治区の境にある唐古拉峠(標高5,072m)を越えるところの山並みやヤクや羊が群れをなす大草原などを見ると、行ってみたいと思い続けています。そんなチベットを豚にした小説ですから、読んでみたくなるのも当然です。
しかし、今のチベットはだいぶ違うようです。まさに、ブラッド・ピット主役の映画、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を思い出しました。とくに、チベット僧が丹念に製作していたマンダラを蹴散らすようにして歩く解放軍を思い出し、それとは状況がまったく違うとはいえ、4人がみな性暴力やハラスメントなどを受けながらも生きていく姿に大きな力によって変わっていくことに悲しみを感じました。
もちろん、小説ですから、現実とは違うでしょうが、それでも今も輪廻転生や業報思想が生きていることを思い、人ってそんなに簡単には変われないということも感じました。あの手持ちのマニ車を回しながら歩く人たちや、額を土に打ち付けるように体全部を大地に投げ出す五体倒置を繰り返す姿などを私自身もネパールなどで見て、その信仰心の篤さを思い返しました。
それでも、「第6章ハナゴマ」のところで、ツツジがセラ寺の巡礼路を一歩一歩上がっていくことで、周囲の環境によって浄化されていくような姿に、これで良かったんだと思いました。生きるためにいろいろなことをしたとしても、このような気持ちになれたことに素直に喜ぶことができました。
下に抜き書きしたのは、そこの部分です。
小説というのは、全体を読まなければその感動は伝わってきません。
もし、興味を持ったら、自分でゆつくりと読んでみてもらいたいと思いました。
(2025.3.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
花と夢 | ツェリン・ヤンキー 著、星 泉 訳 | 春秋社 | 2024年4月20日 | 9784393455104 |
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☆ Extract passages ☆
ああ、こんなにいい気分になったのは何年ぶりだろう。十三歳のときにこの都会にやってきてから今日に至るまで、鳥の鳴き声や自然の滝の音を耳にしたのは初めてだ。そこは狭苦しいナイトクラブとはまったく異なる世界だった。生えている草の一本一本や水の一滴一滴は、何と清らかで汚れがないのだろう。鳥たちは、何とのびのびのびとして自由なんだろう。巡礼路にはけばけばしいネオンサインも騒々しい音楽もない。鳥たちのさえずりは、インドラに仕える天界の楽団の奏でる音曲よりも美しい。枝ぶりのよい木々や勢いよく流れる滝の音は、さしもの楽団も気後れするほどと思われた。
(ツェリン・ヤンキー 著、星 泉 訳『花と夢』より)
No.2408『『ドラえもん』で哲学する』
著者は、大学のなかにとどまらず、商社マンやフリーター、名古屋市役所で公務員になったり、まさに移植の経歴があるからこそ、このような柔軟な本を書けるのではないかと思いました。
しかも、この本を書くために、改めて『ドラえもん』を1巻から45巻まで、全巻を読み直したそうです。そして、この本で取り上げはエピソードが、何巻にに書いてあるかも、巻末に掲載してあります。
孫といっしょ『ドラえもん』を見ていてよく出てくるのが、「どこでもドア」です。この本でも、「どこでもドアの魅力は、 これが本当のドアの形をしている点にもあります。私たちの身の周りにはたくさんのドアがあります。その向こうは見えませんが、それゆえに夢が広がるのです。これを開けた瞬間、見たこLもない景色が広がっていたらどうだろうかと。ドアの向こうは未知の世界です。そこが物理的にはつながっているはずのない場所だとしたら、興奮もひとしおでしょう。時速5キロにも満たないスピードでしか動けない人間が、未知の世界に思いを馳せ、今すぐにでもそこに行ってみたいと思う。そんな願いをかなえてくれるのは、どこでもドアにほかなりません。」と書いています。
そういえば、昨年、北海道の新富良野プリンスホテルに泊まったとき、そこのピクニックガーデンに「アンブレラスカイ」という空中にたくさんの色とりどりのカサを下げたところがありました。そこに「どこでもドア」に似たドアだけがありました。
おそらく、この日の午前中に、ラベンダで有名な「ファーム富田」に行き、広大なラベンダー畑と香りに触れてきたからかもしれませんが、ここから異次元空間に飛び出せそうな雰囲気があり、夢の世界にも行けそうな場所でした。
また、『ドラえもん』には、「スモールライト」や「ビックライト」もあり、物事を小さくしたり、大きくしたりできます。これがあれば、いろいろに使えそうですが、「基本的になにかを小さくするのとは違って、大きくするのには終わりがないのです。小さくする際は、なくなれば終わりです。でも、大きくする際には、どこまでもやれます。ここが問題です。際限なく大きくすると、大きくする行為は終わらなくても、話が終わってしまうのです。つまり、どこまでも、いつまでも続くということで、らちが明かないのです。」とあります。
たしかに、きりのないことをいつまでも続けるわけに行かず、むしろそこまでいってしまえば、大ごとになります。この世の中、なんどもほどほどがいいようです。
そういえば、『ドラえもん』の道具に「円ピツ」があり、それを使って紙に金額を書き込むだけでお金になるというものがありますが、もちろん、その書いた金額だけ働かなければならない仕組みになっています。
著者は、「お金の本質もまた縁であるように思えてきます。お金を払うことで、相手と何らかの関係ができるからです。まず、商品やサービスの提供を受けます。そしてその商品やサービスの対価として支払われたお金もまた別の形で、なにかの商品やサービスを得るために使われます。いわばお金とは人々の縁をつなぐための約束なのです。なぜ約束なのかというと、 お金自体がなにか具体的な効力を持っているわけではないからです。お金は食べることもできませんし、それで空を飛ぶこともできません。あくまで、そのお金の分だけなにかを食べることができる、あるいは空を飛んで旅行できるといった約束にすぎないのです。」と書いてあり、お金というものの本質的なことを現しています。
この本を読むと、『ドラえもん』に登場する未来の道具を切り口として、いろいろなテーマを考えて行く、つまりは哲学するということです。
下に抜き書きしたのは、第10章「望み――望みがかなう」に書いてありました。
『ドラえもん』の「うち出の小づち」は、労せずして得をしたりするものではなく、それに見合う努力や事情が必要です。つまり、小づちは仕事をするための道具ということです。
私も、よくこのような話しをしますが、子どもたちには『ドラえもん』の例を出して話すのもおもしろそうだと思いました。
これはJ・ロジャー・ルーシーという神父さんが書いたということです。
これを読むと、祈るということと、その願いが叶うということの違いを、神のはからいではないかと感じました。
(2025.3.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
『ドラえもん』で哲学する(PHP文庫) | 小川仁志 | PHP研究所 | 2024年12月16日 | 9784569904535 |
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☆ Extract passages ☆
うちでの小づちは、ただでは望みをかなえてくれないのです。たとえば、ドラえもんが好物のドラやきを食べたいと望むと、10円が出てきます。そしてその10円が荷物の下に転がっていって、ひょんなことから引っ越しの手伝いをさせられます。そのお礼としてドラやきを振る舞らてもらえるという感じです。ドラえもんとのび太はなんだか得をした気がしないとこぼします。……
きわめつけはスネ夫です。うちでの小づちがあることを知った彼は、せめてのび太より背が高くなりたいと望みます。その時手をすべらせて、うちでの小づちが後ろに飛び、こともあろうかジャイアンにぶつかってしまいます。
怒ったジャイアンはスネ夫の頭を殴り、スネ夫の頭に大きなたんこぶができたことで、のび太より1センチほど背が高くなるのです。
(小川仁志 著『『ドラえもん』で哲学する』より)
No.2407『どんな時でも 人は笑顔になれる』
この本は、著者が帰天の10日前に校閲を終えられた遺作だそうです。読んで見ると、著者の言いたかったことが、たくさんつめられていると思いました。
著者は、家が浄土真宗だったそうですが、母の反対を押し切って、自分の意思で18歳のときに洗礼を受けたそうです。上智大学大学院を卒業後ノートルダム修道女会に入り、キリスト教教育一筋に歩まれ、2016年12月30日に逝去されたそうです。
また、マザー・テレサの通訳もされたことから、この本にもそのことが出てきて、そのときのエピソードも書いています。たとえば、「教会でのお話が終わった後、マザーは会場をお出になったところで「箱のような台を持ってきてほしい」とおっしゃいました。何かと思うと、マザーはその台の上に立ち、モニター越しに話を聴いていた会場の外の人たちに語りかけたのです。「あなた方は外で聴いてくださっていたそうで、どうもありがとう」そして、会場での講演内容をやや簡略化しながら、外でもお話を始められたのでした。マザーは、「あなた方は、たまたま会場の中に入れなかったけれど、あなた方も中にいる人と同じく話を聴きに来てくださったたいせつな方がたなのです」とおっしゃいました。」と書いてありました。
実は、だいぶ前のことですが、ブータンからカルカッタに飛行機で行き、そこから帰国する予定でした。でも、ブータンの小さな飛行場では、気候の関係で飛ばないこともあり、1日早くカルカッタまで来たのでした。そこで、友人と2人で、せっかくの機会なので、マザー・テレサの修道院に行こうとバスに乗ったのですが、あいにく地方に出かけていて、お会いできませんでした。
その帰り道、包帯の巻かれたすき間からウミが出ている手を差し出され、「バクシーシー」と喜捨を求められたのですが、なんとも言えない気持ちでした。
しかし、修道女たちは、その包帯を取り替え、また洗っていることを思うと、とても恥ずかしくなりましたが、私にはとてもできないことでした。この本を読みながら、そのことを思い出しました。
このエピソードにも、相手を分け隔てなく接することや、大きなやさしさを感じました。
この他に、ユダヤの古いことわざの話しも印象に残りました。それは、「ユダヤの古いことわざに、他人にすぐれようと思うな 他人とちがった人間になれ というのがあると聞きました。このような単純な言葉に、言いようのない新鮮さを覚え、日常生活を営んでいく上での励ましを受けるのは、世の中がそれだけ画一化し、人間の価値が比較の中にのみ見出されているからでしようか。たしかに比較という要素は、生活する上でなくてはならないものです。それがあるからこそ、自分が置かれた位置を知ることもでき、また競争心も湧いて、自分の能力の限界に挑むこともできようというものです。しかしながら、この比較も、人間一人ひとりは決して同じであり得ないという一つの「悟り」にも似たものなしに、ひたすら表面的な優劣に主眼を置くならば、それは、人間個々の可能性を伸ばすという教育の目的から遠く離れてしまいます。」と書いてあり、お釈迦さまも、よく比べるなと話したそうですが、教えというものは、どこか似ていると感じました。
私は、よく、信仰というものは、いろいろな違いはあっても、結局はひとつの山の頂上を目指すもので、その道はいろいろあると思ってます。人によっては、ゆっくりと九十九折りの道を進む人もいますし、急勾配を一気に進みたい人もいます。
だから、その違いを認め合うことが大切で、他人と違うからといって、責めることは間違いです。みんな違って、それが当たり前です。
下に抜き書きしたのは、第3章「祈ること、願いが叶うということ」に書いてあった詩です。
もともとは、ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に一人の患者が書き残した詩だそうですが、著者が1990年の夏に、セントルイスのイエズス会の修道院で、この原文を見つけたそうです。
これはJ・ロジャー・ルーシーという神父さんが書いたということです。
これを読むと、祈るということと、その願いが叶うということの違いを、神のはからいではないかと感じました。
(2025.3.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
どんな時でも 人は笑顔になれる | 渡辺和子 | PHP | 2017年3月29日 | 9784569834719 |
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☆ Extract passages ☆
大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表わせないものは、すべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
(渡辺和子 著『どんな時でも 人は笑顔になれる』より)
No.2406『クマと人の長いかかわり』
最近、特に東北地方で市内に出てくる「アーバンベア」の問題が起こり、2023年度の流行語大賞にも選ばれる事態となっています。だから、いつも気にはしていたのですが、たまたま図書館でこの本を見つけ、即、借りてきました。383ページもありましたが、何度か読み返したところもあり、興味を持ちました。
題名の前に「世界を旅して見つめた」とあり、著者は科学ジャーナリストでロイター・ニュース・エージェンシーで地球規模の気候や環境問題を担当する記者だそうです。ただ、日本のツキノワグマを見に来てはいないそうですが、それ以外のクマは自分の眼で見てきているそうです。現在、世界には8種のクマがいますが、この本によると「現在、世界に残るクマは8種だけである。このうち、ヒグマ(Ursus arctos)、アメリカクロクマ(Ursus americanus)、パンダ(Ailuropoda melanoleuca)、ホツキョクグマ(Ursus maritimus)、は、自然界の象徴として愛されている。それ以外の、ツキノワグマ(Ursus thibetanus)、マレーグマ(Helarctos malayanus)、ナマケグマ(Melursus ursinus)、メガネグマ(Tremarctos oruatus)、あまり広く知られていない。」といいます。
ツキノワグマの学名は、日本というよりはもともと東アジアに多いクマという印象です。
このなかでも、特に攻撃的なクマは、インド亜大陸に棲むナマケグマで、「トラやヒョウと争わなければならないのだ。ヒグマやホッキョクグマは、それぞれ食物連鎖の頂上に君臨している。おとなのパンダを襲う捕食動物も、ほとんどいない。そしてメガネグマは木々のなかに隠れて身を守る。だがナマケグマは、危険が迫ったときには、毛をガサガサさせて、太く短い歯と鉤爪を武器に戦うしか術がないのではないか。ナマケグマは視力も聴力も弱いため、部族の人間とトラの区別がつかないのかもしれない。だから、縦縞模様の敵に対抗するための甚だしい攻撃性を、人間に対しても爆発させてしまうのだろう。」と、その理由を書いています。
いずれにしても、街中に出てくるようになったクマは、やはり怖い存在です。よくクマはかしこい動物だといわれますが、体の大きさに対する脳のサイズも大きいそうです。また、嗅覚がとても優れていて、人間の約2千倍もあり、嗅覚の敏感な大型犬ブラッドハウンドの7倍も鼻がきくといいますから、一度、人間の食べものをおいしいと感じれば、どうすればいいかさえわかるそうです。この本にも、キャンプ場でのクマ対策のいろいろを書いていますが、たとえキャンピングカーや小屋などに少しでも食料が残っていれば、それを嗅ぎ出すといいます。そして、クマ対策をしたごみ箱さえも、破壊するだけでなく、簡単には開けられないように工夫しても、手先を使って開けてしまうので、違う方法に変えざるをえないといいます。
まさに、いたちごっこならぬ、クマ対策の難しさです。
そういえば、クマのなかまにパンダもいて、この本に出てくる成都市近くの「成都パンダ繁育研究基地」に行ったことがありますが、ここにはたくさんのパンダがいて、野外で自由に動きまわるパンダを見ることができます。昔は、赤ちゃんパンダをだっこして写真を撮ることもできたそうですが、私が訪ねた2015年には、病気の危険もあるということで中止されていました。
この本で初めて知ったのですが、「パンダの出産では、ほぼ半分の確率で双子が生まれる。しかし、母親は、通常は1頭の子どもしか育てられない。野生下では、弱いほうの赤ちゃんを見捨てるのだ。「パンダの母親は本当に頑張り屋です。出産直後の24時間は、2頭とも生き延びさせようと必死になります。でも、そのあとはヘトヘトになってしまいます」と、張は説明する。「だから、1頭を育て、もう1頭を見捨てるのです」。臥龍の研究者たちは、あまりにもたくさんの赤ちゃんが生後わずか1日で放り出されることを知り、衝撃を受けた。張たちはこの問題を解決する方法を見いだすのに多くの労力を費やしたという。試行錯誤の末、赤ちゃんの免疫システムを強化し、張たちが育児方法を学ぶことで、双子を2頭とも救えることが判明した。現在では、飼育下の双子は決まったスケジュールでこっそり取り替えられ、母親が片方の世話をしている間、人間がもう片方の世話をする。母親はそのことにまったく気づかない。」と書いていました。
この張さんというのは、「パンダの父」ともいわれる方で、40年以上もパンダ繁殖に取り組み牽引してきた研究者、張和民氏です。
そういえば、私が訪ねたときも、大勢の来園者が訪れ、パンダの好きな竹も園内の通路脇に植えられていて、まさにパンダ尽しの施設です。私はたまたま一人で行ったので、ここだけはゆっくり見たいと思い、半日ほどいました。今でも、そのときに撮ったパンダの写真を見て、孫にも自慢してます。
下に抜き書きしたのは、第7章「氷上を歩くもの」に書いてあったものです。
最近は、テレビなどでも北極の氷がとけ出し、ホッキョクグマが絶滅するかもしれなというニュースを見ることがあります。この本によると、北極という言葉の語源は、英語で北極を意味する Arctic の語源は、ギリシャ語の arktos つまリクマだそうです。つまり、クマがいるからこそ北極なので、シロクマがいなければ他の生きものたちのつながりも消えてしまいます。だとすれば、その氷がとけ出す原因をつくった人間たちの責任はとても大きいと思います。
このチャーチルという町は、カナダのマニトバ州にあり、世界でもっとも手軽にホッキョクグマを見ることのできる場所だそうで、現在、世界のホッキョクグマは約2万6千等と推定されているそうです。これは、8種のクマのなかで、4番目に多い数です。
(2025.3.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
クマと人の長いかかわり | グロリア・ディッキー 著、水野裕紀子 訳 | 化学同人 | 2025年1月30日 | 9784759823998 |
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☆ Extract passages ☆
チャーチルの町では、誰も家に鍵をかけない。くすんだ灰色と青のペンキで塗られたプレハブの家々は、徘徊するホッキョクグマに遭遇した不運な人がいつでも逃げ込めるように、鍵を開けっばなしにしてある。明らかに、泥棒よりもクマのほうが怖いということだ。錆の目立つ小型トラックや自動車も、すべて鍵が開いている。「とにかく、いつでも注意が必要なのよ」。長年この地に住み、ヘリコプターの運航管理をしているジョアン・ブラウナーが言った。「外出するときは、必ずピストルを持っていくの。家のベランダの上までクマが来たこともあるわ」。レストランには、建物を出る前に左右を見るように促すサインが貼ってある。車ではなく、クマがいないかを確認するためである。
(グロリア・ディッキー 著、水野裕紀子 訳『クマと人の長いかかわり』より)
No.2405『恋する仏教』
この本の題名を見たとき、この本には何を書いてあるのだろうと思いました。副題をみると、「アジア諸国の文学を育てた教え」とあり、読んでみようと思いました。
そういえば、スリランカの佛歯寺に行ったときに、お寺のなかのお堂のところに仏伝が描かれた額がずらっと並んでいて、説明はまったくわからなかったのですが、その絵を見ただけで理解できました。やはり、教えというものも、伝えるということがなければ広がりはないと思いました。
だとすれば、文学というスタイルをとって、教えが広がるというのはよくわかります。この本のなかに、「インド文学では掛詞が盛んに用いられていたため、仏教でも言葉遊びがしばしば利用されました。経典自身が用いていますし、仏教を題材とした文学作品でも利用されています。弁舌巧みな僧侶が一般信者相手におこなう説法や、芸人たちが仏教を素材として演じた芝居などでは、もちろん、洒落を散りばめて聴衆を楽しませていたようです。仏教関連の悲しい話、はらはらさせる話、滑稽な話、またそれらを題材にした文学作品や語りもの、歌舞や芝居なども歓迎されたでしょう。仏教に基づく文学や芸能が大いに発展したことも、仏教が国境を越えて広がっていった原因の一つです。そうした文学や芸能は、伝わっていった先々の国でさらに独自の展開をとげていきました。」と書いてあり、その拡がり具合がよくわかります。
この本では、具体的に和歌などの詩歌から文学作品まで取り上げて、原文やその和訳も掲載しているので、とてもわかりやすく、これなどはもう少し読んでみたいと思うものもありました。たとえば、白居易の『長恨歌』なども、有名なところは読んだ記憶がありますが、全体を通して読んだことはなく、さらにモデルになった楊貴妃についても、「皇后を亡くした唐の玄宗(在位712―756)は、第十八子の李瑁(りぼう)(?ー775)の妃であった楊玉環(719ー756)の美しさに魅せられ、離婚させていったん道教の寺に入れ、太真という名の女冠(女道士)とした後、後官に迎え入れて貴妃とします。以後、楊貴妃を溺愛して政治を怠り、貴妃の又従兄である楊国忠(?ー756)などの親族を登用したため、反発が高まって安禄山(703-757)が乱を起こし、洛陽を陥落させました。玄宗が長安を逃れて蜀に向かおうとしたところ、馬嵬の地まで来たところで兵士たちが騒乱の元である楊国忠などを殺したうえ、楊貴妃も殺すよう要求したため、玄宗は抵抗したものの、最後にはそれを認めます。反乱がおさまった後、長安に戻った玄宗は、楊貴妃の姿を絵に描かせ、朝夕眺めて暮らしたと伝えられています。」とあり、ある程度は知っていましたが、他人の奥方をめとったとは初耳です。
そういえば、昨年の診察になるまで、5千円札の肖像画に使われていて樋口一葉という筆名も、「当時貧乏であったため、一枚の葦の葉に乗って揚子江を渡って少林寺におもむき、面壁坐禅し過ぎて足が腐ってなくなったという伝説がある菩提達摩と同様、自分も「おあし(銭)」がないので達磨になぞらえて名乗っていた」と冗談のような話しも載っていて、真偽はともかくとしておもしろい話しだと思いました。
こういう話しはたくさんこの本に載っていて、たとえば「竹取物語」は維摩経を参考にして描いたとか、もしかすると、作者は僧正遍昭ではないかという説まで取り上げられていて、たしかに、駄洒落みたいなものも多く、それなりの天台宗の知識もなければ書けないとすれば、その可能性もあるかもしれないと思いました。
また、日本最古の歌集といわれる「万葉集」も、歌人のなかに百済が減亡した際に日本に逃れて来た渡来人の子孫もいて、この万葉集にも少しではありますが仏教の影響があるといいます。だとすれば、日本純粋の歌集とは言え切れず、東アジア文学比較研究が専攻の中西進氏のいうように、『万葉集』が韓半島(朝鮮半島)から渡来した百済人の影響を受けて誕生したという説も簡単には無視できないような気がします。また、中西氏は山上憶良も百済人の子孫である可能性が高いと発表しています。
このように考えて行くと、日本というのは、いろいろな意味で仏教の影響を受けていることは間違いなく、これからも多方面からのアプローチが必要だと感じました。
下に抜き書きしたのは、第4章「日本の恋歌・恋物語と仏教」に書いてあったものです。
私は植物が好きなので、いろいろな本を読みながらも、このようなところに一番最初に目が行きます。やはり、好きこそ物の上手慣れ、のようです。
(2025.3.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
恋する仏教(集英社新書) | 石井公成 | 集英社 | 2025年1月22日 | 9784087213454 |
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☆ Extract passages ☆
インド仏教では、草本は感覚はあるものの心はないとされていました。中国仏教では、すべては心が生み出したものであるため、悟って仏となった人の目に見える草本は悟った存在とされましたが、日本では、草木が芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実をならせるのは、発心し、修行し、悟って仏果を得る過程にほかならないとする草木成仏説が盛んになりました。その説が極端に進んだ『三十四箇事書』では、草木はもともと仏なのだから、改めて修行して仏になることはない、として草木成仏を否定するにまで至っています。
(石井公成 著『恋する仏教』より)
No.2404『フィールドワークってなんだろう』
私も植物が好きで、フィールドワークも楽しみに出かけていくのですが、正面切って『フィールドワークってなんだろう』っていわれると、野外に出て、調べることではないのと簡単に思ってしまいます。でも、この本を読むと、そんなに簡単なものでもなさそうで、つい最後まで読んでしまいました。
たとえば、この本に出てくる早池峰神社でのことですが、一人のおじさんがひょこっと著者の前にあらわれて、ここに祀られている施錠されているコンセイサマの話しをします。それを聞いて、「普通に考えれば、施錠をする意味は、賽銭泥棒などの「外」から不審者の侵入を防ぐためです。しかし、彼が語りだした論理は、「内」からの勢いを沈めるための"結界"だったのです。この結界の存在によって、コンセイサマという物質的存在は精神的な存在として私たちの前に現れます。もし結界がなければ、動き出さない=勢いがない、したがってご利益がないと感じてしまうでしょう。この内と外の逆転によって、コンセイサマは静から動へと勢いを伴ったものとして魂が込められたのです。」と書いてあり、まさに逆転の発想のような気分でした。
私の場合でも。施錠されていれば、そのなかにあるものを大切に守っているのだという印のように思っていました。だとすれば、先ずは話しを聞いてみないとわからないということになります。勝手に解釈しては、その意味も違ってくるということです。
また、このおじさんは、「ここの神様は一度の過ちなら許されるということで、訪れる人も多いみたいだよ」ともいいます。
たしかに、たった一度の過ちで、一生を棒に振るようなことが最近は多すぎます。もちろん、して悪いことをしたのだから、反省することは当然でしょうが、その後の人生をすべて台無しにすることはないと思います。立ち直りのきっかけをつくることも必要です。
ところが、このネット社会になり、いつまでもその一度の過ちを繰り返し掲載されると、立ち直りのきっかけすら失ってしまいます。人は、そんなにも強いものではありません。だとすれば、この早池峰神社のコンセイサマのように、許してくれる神様も必要だと私は思います。
そして、そのほうが、人としてのゆったりと生きられるし、優しくもできます。それが今求められていることではないかと、この本を読みながら思いました。
また、最近は生涯学習という言葉を安易に使っているような気がしますが、この本のなかに、「狭い意味の高校までの教育では正解を受け身のかたちで詰め込んでいきます。一方、大学以降の広い意味での教育は、自分で進んで行うもので、主体的で能動的なものです。一見するとフィールドワークは基本他人からお話を聞くというだけで受動的に見えますが、実は主体的なものが含まれています。なぜなら、これまで明らかでなかったことを、自ら明らかにしていくことはとても創造的だからです。自分でなんだろうと疑間をもって追求していくためには、自分で自分を再教育する必要があります。それは一生涯続く営みといえるでしょぅ。自分で考えることで世界は拡がっていきますが、自分だけの考え方では限界があります。そこで、フィールドワークによって、自分の考え方にショックを与えて、次元の違う視点を獲得するのです。」と書いてあり、なるほどと思いました。
つまり、学校での勉強とは違い、自分が主体的に学んでこそ生涯学習になるんです。子どものときにも経験しましたが、押しつけられて勉強しても、長続きはしません。自分がやろうと思わなければダメなんです。
だとすれば、先ず好きにならなければならないようで、私自身もこの『本のたび』をこんなにも長く続けていられるのも、結局は本を読むことが好きだからです。
下に抜き書きしたのは、第2章「一つの例から全体を問いなおす――ブラックスワンを探せ!」に書いてありました。
たしかに今はパソコンを使えば、手軽に資料を収集できるかもしれません。またAIを使えば、それなりの文章もできます。
しかし、考えてみれば、それらの資料や文章も、もともとは誰かが集めたり作成した文章です。つまり、みな二番煎じのものばかりです。だとすれば、No.2402『美術館・博物館の事件簿』で読んだコラージュみたいなもので、それを創作といえるかどうか、さまざまな問題を含んでいます。
たしかに、真似ることから始まりますが、それで終わってしまえば、ちょっと空しいような気がします。むしろ、自分だからこそできるということのほうが大事です。ある意味、独創性というのは、そこの部分がとても大事だとこの本を読みながら思いました。
(2025.3.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
フィールドワークってなんだろう(ちくまプリマー新書) | 金菱 清 | 筑摩書房 | 2024年10月10日 | 9784480684974 |
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☆ Extract passages ☆
現在、ネットという強い味方があり、ちょちょっとググればそれこそ寝ながら検索し、いろいろなことを調べることができます。それなのに、なぜ時間とお金をかけて苦労して調査をするのでしょうか。それを一言でいえば、「ブラックスワン」を探すためです。直訳すれば黒い白鳥。ホワイトスワンつまり普通の白鳥は、ネットで検索すれば、すぐに見つけ出すことができます。しかし、ブラックスワンは検索ではでてきません。
また、 一羽でも黒い白鳥をみつけることができれば、白鳥はすべて白いとは言えなくなります。そのため、白鳥という概念そのものを考えなおす必要が生まれてきます。この概念を問いなおすほどのなにかを発見することが、苦労してフィールドワークする意味です。地道で苦労したデータを現場で拾い上げるフィールドワークは自らが持っている当たり前、難しい言葉でいえば「通念」を根本から問いなおします。それには若い感性を必要とします。
(金菱 清 著『フィールドワークってなんだろう』より)
No.2403『ヘタレ人類学者、砂漠をゆく』
2月11日の建国記念日の午後2時から、南陽市芸術文化協会の新春講演会が熊野大社證誠殿であり、そこで「笑顔が一番」という題で話しをしてきました。そのなかに、インドで暑かったことの話しをしたのですが、この本にも同じような体験が載っていました。
それは、「もう9月の半ばだというのに、暑さはさらに増しているかのようだ。いや、暑いというより、痛い。乾燥した空気と、肌に刺さるような直射日光。砂交じりの熱風。この街が元気なのは午
前中と夕方。日中はうだるような暑さのなか、街の人々も活動を減退させ、日陰をみつけだしては、横になったりしている。僕も午前中は、市街地の迷路のように入り組んだ路地裏の徘徊を大いに楽しんでいたが、日が高くなるにつれて動きが取れなくなり、街の中央にそびえ立つ城を見上げる城門前のルーフトップ・レストラン(要は屋上にある食堂)でライムソーダを飲みながら、「早く沈んでくれ!」と太陽に心から願い、ぐだぐだと無為な時間を過ごすのが日課となっていた。」とあります。
私もインドの飛行場に降り立ったとき、あの滑走路脇の広いコンクリートの上を歩いていると、同じような気持ちになりました。そういえば、インド人のなかには、裸足で歩いている人もいるので、私もまねして裸足で歩いてみたことがあるのですが、足の裏がやけどしそうになりました。だから、砂漠の世界では昼間灼熱地獄をつくり出す太陽より、夜に静かに照らしてくれるお月さまのほうがいいわけで、ちなみにイスラム教のシンボルは三日月と星です。
また、カビールという15世紀に活躍した宗教家は、神というのは世界中でいろいろな形をとったり、個別の呼び名で記述されたりしますが、もともとはひとつだといいます。「それらは「たったひとつのもの」がいろいろな姿で現れているだけであり、「神」は寺院の中や天界にいらっしゃるのではなく、その唯一無二の存在は、それぞれ個人の中に存在する、絶対的な真実だというのだ。だから、神話に描かれるような、人格を持った神々(ヴィシュヌ神とか、ラーマ王子とか)に対する焦がれる思いを信仰のベースにしたそれまでのバクティ思想とはだいぶん異なる、新たな宗教運動につながっていった。」といい、どちらかというと真言宗の大日如来に近い考え方のようです。
しかも、その存在は外にあるというよりは、「どんな人の中にもいる/ある」というから、ますます「梵我一如」の考え方に近いと思いました。
そういえば、第9章「感謝のない社会」のなかで、「僕がその都度彼らに「救い」の手を差し伸べ、金銭であろうが現物支給であろうが、彼らのために「してあげた」ことに対する、感謝の言葉を返されたことが、 一切なかったこと。懇願されてそれに応えても、お礼の言葉や態度が見受けられないこと。これが最も精神的な苦痛につながっていた。」と書いています。しかも、その後で、「これが彼らの社会だ。「ありがとう」がナイのではなく、あえてナイことにしている。それはタブーであり、感謝はしてはならないという鉄の掟なのだ。もう、訳がわからない。」といいますが、これこそ、仏教の布施の心です。
感謝するのは、むしろ手を差し伸べた人こそがするもので、気持ち的には「受け取ってくれてありがとう」ということです。だからこそ、功徳を積むことができます。むしろ功徳を積むことに協力してくれたようなものです。それこそが布施です。
私もインドで「ありがとう」と言われたことはありません。私のインドの友人は、現金であれモノであれ、布施できるだけのものを持っていることに感謝すべきで、それで功徳を積めるのだからありがたいといいます。この心こそ仏教の大切な教えではないかと感じました。だとすれば、感謝されないから無視されたという気持ちこそ、おかしな話しです。
下に抜き書きしたのは、「エピローグ」に書いてあったもので、トライブという少数民族のパーブーという若者の言葉です。
彼はこの話しの前に、フンコロガシがあんな忌み嫌われるウンコを宝物のように運んでいる気持ちがわかるか、と問われています。むしろわからないからこそ、不条理な部分や不完全さをさらけ出せるのかもしれません。
(2025.3.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ヘタレ人類学者、砂漠をゆく | 小西公大 | 大和書房 | 2024年12月25日 | 9784479394419 |
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☆ Extract passages ☆
「『わからない』ということの大切さを伝えたかったんだよ。『わからない』が全ての前提になってれば、僕らはさらけ出せるんだ。許せるんだよ、他人を。だって、どんな酷いことを言われたりされたりしても、なんでそいつがそんなことをしたのか、どうやったってわからないんだから。もちろん、わかろうとすることはできる。でも正解に至ることなんてできない。だから、最終的には「そういうものなのかな」と、受け流していく部分が必要になってくる。もっというと、『そんなお前でも、生きてるんだよな』という、あきらめのようなものになってくる」
(小西公大 著『ヘタレ人類学者、砂漠をゆく』より)
No.2402『美術館・博物館の事件簿』
前回読んだ『ナチスから美術品を守ったスパイ』の場合は、戦時下でのことなのであり得る話だと思ったのですが、美術館や博物館などの事件も平常時でも起こっていると知り、びっくりしました。まさか、あのぐらいきちんと正確に管理されていたとしても事件が起こるのは不思議と思うのですが、よくこの本を読んでみると、一般的な社会とそんなには違わないようです。
やはり、遺産相続で泥沼化したり、ちょっとした確認ミスが大きな問題になったりと、いろいろあるようです。
それと、『ナチスから美術品を守ったスパイ』でも読んだのですが、今現在も、ナチス略奪品の返還をめぐっての問題があり、「最近の欧米諸国の間では、略奪された文化財や美術品を被害者や原所有国に戻そうとする動きが広がっている。その発端は、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人から略奪した美術品の返還問題に関する欧米各国の対応の変化である。既に紹介したように、1998年、世界各地44か国の政府は、「各国はナテス略奪品の被害者やその遺族に返還するための制度や仕組みを設けるべく努力すること」などを「ワシントン原則」により合意した。これを契機に、欧米各国は、既存の法律の枠組みを超えて、道徳的な見地から被害者遺族の権利を守るための法制度を新たに設けた。2000年2月にイギリス政府が前述の略奪審査会を設置したのはこの一環である。」とあり、たしかに文化財とはいえ略奪されたものを展示するのは非難されるべきものです。
そういえば、昔の欧米の美術館や博物館は、帝国主義の時代に略奪してきた収蔵庫などといわれたこともありました。それが研究のためとはいえ、遺跡を壊したり、墓の中から発掘したものであれ、今の時代では考えられないことです。
また、贋作が本物として美術館や博物館に展示されれば、これも大きな問題になります。たとえば、この本では、徳島県立近代美術館が1999年にフランスのキュビズムの画家ジャン・メッツァンジェの油彩画「自転車乗り」を6,720万円で購入しました。これはドイツのウォルフガング・ベルトラッキの贋作の可能性が非常に高いそうです。しかも、一流の専門家が真作と認めていたのに、なぜだと思ってしまいます。まさに、騙す方が悪いのか、騙される方が悪いのか、です。
そういえば、何年か前に見た『嘘八百 京町ロワイヤル』で、古物商の則夫役を中井貴一、陶芸家の佐輔役を佐々木蔵之介が演じ、古田織部の幻の茶器「はたかけ」の贋作をつくり、目利きといわれる古物商たちも絡んで、コメディータッチで描いた映画を思い出しました。これはコメディーだからいいようなものの、公的機関の美術館まで騙されてはこまったものです。
この本では、「公立美術館が贋作を購入すると、公費が無駄になるうえ、真作と信じて観賞した多くの市民、研究者を欺くことになる」といいます。でも、有名なクリスティーズのオークションで落札したり、研究者が真作と確認したという証明書が付いていたりすれば、それほど疑問にも思いません。
『嘘八百 京町ロワイヤル』でも、著名な鑑定士がこれは間違いなく本物ですといえば、それで通ってしまう世界なのかもしれません。しかし、著者は、その作品の来歴の事前調査をすべきだったといいます。「来歴調査とは、購入予定の作品がどのような経緯で現在の売主に渡ったのかを調べ、それが盗難、略奪、不法輸入等の対象になっていないかを確認する作業のことで、現行のICOM職業倫理規程は博物館・美術館の義務と定めている。」といいます。
私はほとんど記憶になかったのですが、1974年4月、上野の東京国立博物館で「モナ・リザ展」が開かれ、50日間の会期中に約150万人もの人たちが来場したそうです。その初日に、「若い女性が「モナ・リザ」に赤いスプレー塗料を噴射するという事件が起きていた。犯人はその場で取り押さえられ、「モナ・リザ」は防弾ガラスに保護されていて被害はなかったので、展覧会は何事もなかったかのように続行された。事件は、「女性解放」を掲げたウーマンリブ(フェミニズム)の運動家、米津知子氏が起こしたものだった。「モナ・リザ」展は、安全上の理由で介助や付添いを必要とする障害者や高齢者等の入場を制限していたので、彼女はこの措置に抗議して「身障者を締め出すな」と叫んでスプレーを墳射したのだ。彼女自身も右足に障害を持っていた。大津知子氏ほ軽罪法違反(悪戯による業務妨害の罪)で起訴され、翌1975年、裁判所から科料3000円の判決を下された。」といいます。
この科料3000円にも驚きましたが、これなどをきっかけとして博物館・美術館などもバリアフリー化が進んだと書き加えています。
下に抜き書きしたのは、コラムに書いてあった「AIアートと美術館」に書いてあったもので、たしかにこれからの美術界においては、デジタルアートやAIアートなども非常に大切な部門になると思います。
特にこのAIアートは、他人の著作権を侵害するかどうかや、その確認の難しさもありそうです。
また、デジタルアートにしても、いくらNFT(ブロックチェーン技術を利用して作成された唯一無二のデータ)だとしても、そもそも実体がない作品をどのように保護するかも大きな問題です。
(2025.3.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
美術館・博物館の事件簿 | 島田真琴 | 慶應義塾大学出版会 | 2024年12月20日 | 9784766429992 |
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☆ Extract passages ☆
最近、生成AIを活用したアート作品(AIアート)が増えている。「生成AI」とは、あらかじめ学習した既存の画像、音声等のデータをもとに、新しいコンテンツ(別の画像、音声等)を自動的に生成することができる人工知能(AI)のことをいう。 アーティストは、 生成AIに条件を与えて指示をすると、AIがこの指示に従って勝手に新しい画像等を生み出すので、これを新作の素材にしたりヒントにしたりすることができるのだ。
(島田真琴 著『ヘ美術館・博物館の事件簿』より)
No.2401『ナチスから美術品を守ったスパイ』
ナチスがフランスから美術品を持ち出し、貨車で運んだということは知っていましたが、これほど悪質に大量に略奪したということを初めて知りました。副題は「学芸員ローズ・ヴァランの生涯」ですが、この本で初めて知ったことです。
ヒトラーがこのような美術品を略奪したのは、ドイツ国のためということだそうですが、この本では「ヒトラーはその狂気の投影図のなかで、芸術を反ユダヤ主義やアーリア人の生存圏の拡大と同じくらい重視していた。ウィーン美術アカデミーの入学試験に三度も失敗した落ちこぼれ画家のヒトラーは、生活費を稼ぐために広告看板や絵葉書にパッとしない風景画を描いていた。彼にとって芸術は、美や瞑想、柔軟な感覚の源というより、むしろ、数あるもののなかの一つに対するたちの悪い執着や狂信的な妄想だった。そしてまた、ヴェルサイユ条約や自分を受け入れなかった美術アカデミーに対する恨みを晴らし、屈辱を消し去る手段だった。審美的な喜びというより、人種政策や領土拡張政策と同列の一つの構想だった。つまり、死ぬまで膨らませていく自己中心的な執着だ。」と書いています。
たしかに、ヒトラーが美術愛好家だったことも、この大戦で美術というものがいろいろな思惑から移動されてしまったようですが、それでも、移動できなかった大きな美術品や歴史的建造物などは爆撃されたり戦闘によって破壊されたりもしたと思います。
たとえば、現在も続いているウクライナとロシアの戦いでも、テレビなど放映されているだけでも、歴史的に貴重な文化遺産なども破壊されている様子がわかります。さらに、個人宅でもロシア兵によっていろいろな物が略奪され、故国に送られていることをネットでも伝えられています。
これらは、終戦近くなってからソ連兵がドイツに入ったときにも似たようなことがあり、この本には、「ローズがとりわけ気になっているのは、彫刻家、アルノー・ブレーカーがパリからベルリンに移送したロダンの二体の像、〈考える人〉と〈歩く男〉のブロンズ像の行方だった。ローズはこれらの像をベルリンのフランス占領地区に送ってからポツダムの倉庫に保管させていたが、そこからソ連軍が横取りし、モスクワに送っていた。ローズはオブソニムニコフ大佐に合法的な返還請求書を手渡した。ところが彼は、〈考える人〉は今もパリにあると反論した。「パリにはその像が三体ありますが、ソ連が持っていったものがオリジナルです」とローズは忍耐強く説明した。ソ連側の回答は期待できるものではなかった。そのロダンはいまだに見つかっていない。ローズは、赤軍から美術品を正式に返還してもらうことは一切期待できないことを悟った。彼女の返還請求は、十分な手がかりを得ることにしか役に立たなかった。ローズはもう、ソ連側には場所についてのどんな情報も知らせずに、違う行動をとろうと決心した。非公式の手法で裏切られることはめったにないのだから。」とあり、ほんとうにびっくりしました。
そのときも、今も、ほとんどかわらないやり方だったからです。
しかし、連合国側は「モニュメンツ・メン」という人たちを中心にして、国だけでなく、個人の美術品なども詳しく調べ上げて、根気よく返還をしていたことを知り、その違いに、またまたびっくりせざるを得ませんでした。
下に抜き書きしたのは、「岩塩坑の奥に金の光線」のところに書いてあったものです。
ドイツのヒトラーは、ベルリンの自分専用の掩蔽壕に立てこもっていたので、爆撃の音は聞こえてこなかったそうですが、それでも敗北は避けられないと悟ったといいます。そこで、アルタウスゼー岩塩坑に隠すよう命令を下しました。
では、どれほどの美術作品をフランスから持ち出したかというと、なかなか全体像は見えてきませんが、この本には「1941年初頭、ローズは、ユダヤ人が所蔵していたほとんどの大規模なコレクションが没収され、ジュ・ド・ポーム美術館に保管され、目録が作成され、その後、ドイツに送られたことを悟った。数十本もの輸送列車が数千個もの木箱を積んだ数百両の貨草を運んで、国境を越えていった。」とありました。
また、ヒトラーだけでなく、ゲーリングも同じように自分のものとした美術品を特別列車に積み込ませ、ベルヒテスガーデンに移送しました。
ただ、どちらの美術品も爆破されたり傷つけられたりせずに残ったことは、ある意味、後世の人たちにとっては幸いだったと思います。
(2025.3.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ナチスから美術品を守ったスパイ | ジェニファー・ルシュー 著、広野和美 訳 | 原書房 | 2025年1月6日 | 9784562074907 |
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☆ Extract passages ☆
ヒトラーにとって、瓦礫の下に埋もれた国民は戦争の巻き添えになった被害者にすぎなかった。彼は国民のことなど、結局どうでもよく、むしろ自分のコレクションの運命のほうがずっと気がか
りだった。ヒトラーは、リンツ美術館のために粘り強く獲得してきた自分の数万点の美術作品をアルタウスゼー岩塩坑に保護するようにという命令を出した。1944年5月から10月までの間に、ドイツ国の物質的資源や人材が枯渇していた頃、 1788点の作品がミュンヘンを発ち、危険な道を突き進んだ末に地下に埋められた。
(ジェニファー・ルシュー 著、広野和美 訳『ナチスから美術品を守ったスパイ』より)
No.2400『きっと「大丈夫。」』
著者は山形県河北町の生まれで、この本を書いていたときには聖路加国際病院の小児科に勤務しながら、日曜日には実家の谷地にある細谷病院で診療を続けていたそうです。
その話しを聞いて、読んでみようと思いました。さらに、現在はと気になり、ネットで調べてみると、平成16年に築100年の建物を新築し、内科だけでなく血液透析も始めたそうです。ただ、現在も谷地まで通っているかどうかはわかりませんでしたが、細谷病院のスタッフ一同の写真に本に載っていた著者に似た方が写っていました。現在の院長は臼井惠二さんだそうです。
しかも、そのホームページをみると、地域医療に貢献したいという気持ちが伝わってきて、私もこのような病院がかかりつけ医なら安心だと思いました。
そういえば、最近のコマーシャルで、「メメント・モリ」という言葉があり、それって何だろうと思っていたら、この本に『「メメント・モリ」という言葉があります。「死を思え」「いつかは自分が死ぬということを忘れるな」という意味のラテン語です。そんな言葉を意識して、「死を感じながら生きていくことがほんとうの生き方」と思っている医者がいても、世の中一般の人が、完璧に「死」と遠いところで暮らしていたのでは話が噛み合いません。医者は宗教者と同じようにいのちについて深く考えを思いめぐらす立場にいます。ただ病気を治すだけの職人ではないのです。その人の持っている技術やテクニックもさることながら、最終的には医者の人間性、「その人」こそが患者さんに深く「いのち」を考えてもらうために重要なのだと思います。」』と書いてあり、ゲームの名前に使うような言葉ではないと思いました。
よく、人は死ぬために生まれてきたとか、つねに死を意識しながら生きよ、などといわれますが、毎日そのように生きようとしたら息が詰まりそうです。むしろ、私は毎日を笑顔で楽しく暮らし、その喜びのなかにこそ人生があると思っています。
だって、「笑う門には福来る」という言葉があり、いつも笑っているからこそ福がやってくるという意味だと思います。
それでも、この本のなかにある、「癒やしや救い、あるいは生きがいというものは、人と人との関係の中で生まれるのだと思います。人間が人間のそばで生きているということの意味合いは、そういうところにあるはずです。メールゃツィッターだけでの関係は、血の通ったつながうにはなりにくいものです。だから、直接人と話をしたり、面と向かって人と会つたりするのは重要なことなのです。」と書いてあったりは、私もその通りだと思います。
最近は、年賀状などもメールやSNSで間に合わせてしまいがちですが、年に1度の挨拶ぐらいは何度でも読み返すことができるハガキもいいですし、何よりも手書きの温もりも感じます。
そういえば、著者は、「こころが大きく負の方向に揺れたとき、私はおいしいものを食べます。単純に「おいしい」と思って喜べるからです。そして、「なんとかしなきゃ」という気持ちになれます。悲しいことやつらいことを忘れるわけではないのですが、そういうことを正面から受け止めて、次への活力にするファイトがわいてきます。と書いていて、そういえば私もその口かもしれないと思いました。
もちろん、ただ、食べることが好きということもありますが、今日は和食にしようか、それともイタリアンにしようかなどと考えていると、思い悩んでいることも忘れてしまいます。だって、食べないでお腹が空きすぎるとますます考えがまとまらなくなるし、イライラすることもあります。やはり、先ずは食べることが先決で、食べてしまうとそれだけで満足し、なんとかなるだろうと思ってしまいます。
本当は、何を食べてもおいしいと思えることが大切だとはいいながら、やはり好きなものを食べるとついニコニコしてしまいます。
下に抜き書きしたのは、「ひとりになること」に書いてあったものです。
私も歩き遍路ではなかったのですが、2017年2月28日から3月15日まで、四国八十八ヵ所をお詣りしたことがあります。
そして、たしかに寺々でお詣りしたことも記憶に残っているのですが、それ以上にその道すがらに見た風景や花なども思い出され、今でもときどきはその時撮った写真を見ることがあります。それらを見ると、もう一度行きたいと思いますが、札所によってはすごい石段があったり山のなかだったりして、なかなか実現できないでいます。
(2025.2.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
きっと「大丈夫。」 | 細谷亮太 | 倖成出版社 | 2013年1月30日 | 9784333025916 |
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☆ Extract passages ☆
お遍路をして歩いていると、自分自身が生きていることを強烈に感じます。それもひとりでではなく、地球の中でいろいろな動物とともに生きていることを実感できるのです。お遍路には、私にそういう思いを持たせる力がありました。
お遍路で歩ぃているときには、行った先々のお寺で鐘を撞き、ろうそくに火をともし、線香をあげてお経を読むというお勤めもとても重要です。しかし、ほんとうに大切なのは、そこの札所へ行くまでの道筋の時間ではないかという気がします。自分の祈りをお大師さまに聞けてもらうことも大事ですが、歩きながらいろいろなことを体全体で感じ取り、自分が今、宇宙の中のそういう時間を生きているんだと実感することが、より重要なのだと思います。
(細谷亮太 著『きっと「大丈夫。」』より)
No.2399『ウクライナはなぜ戦い続けるのか』
著者の高世仁氏は、山形県生まれだそうで、早稲田大学法学部を卒業後、日本電波ニュース社に勤務を経てテレビ制作会社「ジン・ネット」を設立しさまざまな番組を製作してきたそうで、現在はフリーです。
副題は「ジャーナリストが戦場で見た市民と愛国」で、なかなかテレビなどの報道では知り得ないウクライナの今を知りたくて、読み始めました。
私も「ブダペスト覚書」については知っていましたが、これは「ウクライナは1991年の独立時、旧ソ連の短距離戦術兵器や空中発射巡航ミサイルを含む約1800の核兵器を保有し、世界第3位の核兵器備蓄国だった。核拡散を恐れるアメリカの説得に応じ、ウクライナは核兵器を廃棄するためロシアに引き渡すこととし、その見返りとして、94年12月、米英露三国から安全保障(ブダペスト覚書)を取り付けた。覚書で三国は「ウクライナの領土保全ないし政治的独立に対して脅威を及ぼす、あるいは武力を行使することの自重義務を再確認」し、ウクライナに「経済的圧力をかけることを慎み」、ウクライナヘの「侵略行為」があった場合には、「同国に支援を提供するため、即座に国連安全保障理事会に行動を求める」ことを約束した。この結果、ウクライナは96年までにすべての核兵器をロシアに引き渡した。」ということで、米英露三国が覚書に署名しています。
しかし、そのロシアがウクライナに侵攻したわけですから、まさにとんでもないことです。
現実に、このような覚書が反故にされたなら、おそらく北朝鮮だって、もし核兵器を放棄でもしたら、攻め込まれるかもしれないと考えるのは当然です。約束などは、あってないものだと考えるかもしれません。
私としては、むしろこのような不信感こそが怖いと思います。
でも、過去の歴史において、ロシアだけでなく、多くの国でも不戦条約を結んでおきながら、自国に有利だと思うと、戦争に突入したわけですから困ったものです。むしろ、国連安保理こそが、このような約束を率先して守るべきなのに、安保理常任理事国がそれを守らないのですから、世界中に不信感が生まれるのは当然です。
もうひとつ、私が驚いたのは、まさか日本と遠く離れているので、あまり関係性はないと思っていましたが、じつは北方領土に住むロシア人住民、約1万8千人のおよそ4割はウクライナ系だと知ったことです。この本によると、「ロシア帝国時代、ウクライナ地方の貧困と人口圧は大量の国内移民を生んだ。とくに1880年代から20世紀初めにかけて、膨大な農民がウラル山脈以東へと移民している。シベリア鉄道が1903年に完成していたが、多くは海路でオデーサ港からはるばるスエズ運河、インド洋を越え、数千キロ離れたウラジオストク港へとたどり着いた。1914年には、ロシア極東地方にロシア人の2倍にあたる200万人のウクライナ人が定住していた。移住から年月がたち、ほとんどは自らをロシア人と意識しているというものの、数多くのウクライナ人の子孫たちが現在も日本の対岸に暮らしているというのは興味深い。」と書いています。
今回のロシア侵略で、ウクライナの人たちも、日本の「北方領土」については日本を支持しますという意見が多く聞かれ、ウクライナ最高会議でも、北方領土を日本領だと決議したそうです。
つまり、自分たちと同じように、ロシアによる一方的な併合だと感じたようです。
また、今回の侵略で、ロシアは「花びら地雷」を使っているそうですが、これは、「人命を奪わない程度の、足首や膝から下がもげる怪我を負わせる。戦場では、地雷で負傷した兵士を応急処置し搬送する人員をとられ、作戦が大きく妨げられる。この対人地雷の効果が、昨年6月以降のウクライナの反転攻勢をロシア軍が阻止できた要因の一つになったともいわれている。戦場を離れても、医療や社会復帰のための資源や人員が社会に負担となってのしかかる。さらに、障害を負った本人と周りの人々の戦意を削ぎ、厭戦気分を助長する。戦死よりも大きな物理的、心理的ダメージを敵に与えることを目的に考案された、悪意に満ちた地雷である。」というから、恐ろしい地雷です。
同じ人間が考えたと思うと、人間というのは、恐ろしい存在だと思います。
下に抜き書きしたのは、第12章「銃後で"日常"を戦う市民たち」のなかに出てくるものです。
じつは、ロシア侵攻後に流行っているものに「スタンダップ・コメディ」というのがあり、これは日本の漫談のようなことを1人でする即興話芸だそうです。たとえば、綾小路きみまろのような漫談に近いかもしれません。そういえば、現大統領のゼレンスキーもかつてはコメディアンとして、観客の前で話芸を披露していたことは有名な話しです。
今は、戦争下なので戦争そのものも笑いのネタになっているそうで、私も聞いてみたいような気がします。そして、笑顔というのは、万国どこでも必要なことだと痛感しました。
(2025.2.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ウクライナはなぜ戦い続けるのか | 高世 仁 | 旬報社 | 2024年12月25日 | 9784845119561 |
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☆ Extract passages ☆
格好の笑いのネタにされるのは、まずロシアやプーチン大統領だが、国連、バイデン大統領、赤十字やNGOもこき下ろされ、ゼレンスキーを含むウクライナの政治家までもが容赦なく笑いのめされる。
コメディアンたちは、「戦時下のいま、なぜコメディーなのか」とよく尋ねられるという。それに対してある芸人は「戦争下だからこそ、笑うことで正気をとりもどし、楽観的になって抵抗を続けていける」という。観客にとって笑いは「感情のチャージ(充電)」「傷ついた心への薬」。戦争の現実に押しつぶされそうになる自分を笑いで支えるのも、戦時下の「ニューノーマル」のようだ。コメディアンたちは笑いを必要とする人に届けることを自分たちの「戦い」と捉えており、ボランティアで学校や避難所で演じるほか、兵士を慰間するため前線にまで赴いている。
(高世 仁 著『ウクライナはなぜ戦い続けるのか』より)
No.2398『こだわりが強すぎる子どもたち』
著者は、「うちの子は強いこだわりがあって、食べ物の好き嫌いもひどくて育てにくい」と感じたら、PANS(パンズ)/PANDAS(パンダス)かもしれないといいます。
私は、このPANS/PANDASという病気を知らなかったのですが、脳の炎症が原因なので、その炎症を抑える食事と生活環境を変えることで症状を改善できるそうです。私は子育てをすませ、むしろ孫たちに関心が移っているので、今の子育てというのは大変だなというのが第一印象でした。
その炎症を取り去るのは、家庭で9割もできると第3章「親子でPANS/PANDASをやっつける方法」というのが書いてあり、@環境を整える、A食事を改善する、Bお腹をととのえる、Cミトコンドリアの働きをサポート、D解毒する、E免疫アップ、で、ここまでは家庭できるそうです。それから先は感染症治療になります。
しかし、この家庭でできることを全てしようとすると、大変なストレスになりそうです。住環境も匂いのあるものはダメとか石けん系の洗剤や柔軟剤も子どもの脳に影響があるといわれれば、使えるものがほとんどなくなります。また、食べものでも、グルテンフリーやカゼインフリー、さらに糖質も青魚もといわれれば、何を食べたら良いのか悩んでしまいそうです。
たしかに、「魚を食べるときは、まな板にのるサイズのものを食べる、と覚えておきましょう。具体的にはイワシ、サバ、アジ、サンマ、アユ、ニジマス、サーモン(サーモンは大きいですが、生存期間が短いため)や、シラスなどの小魚もおすすめです。」とか、「小松菜やブロッコリーなどの緑黄色野菜に多く含まれているのが「葉酸」です。葉酸はビタミンB群の一種ですが、脳の神経伝達物質の代謝に使われます。そのため、葉酸が不足すると、脳の神経伝達物質の代謝経路が回らなくなってしまうので、集中力が落ちる、不安になる、記憶力が低下する、気力が落ちることも……。」などは、すぐ納得できましたが、それ以外の私の好きなもののほとんどはねられてしまいそうです。
たしかに日常生活においても、注意しなければならないことは、たくさんあります。しかし、これもダメ、あれもダメといわれると、だんだんと窮屈になり、身動きが取れなくなってしまいます。毎日、病院で入院生活をしているわけではないので、ラフに考えることも大切だと私は思います。
でも、ある程度は、自分の孫たちには気を付けてほしいことがたくさん書いてあり、伝えていければと思いました。
下に抜き書きしたのは、「プロローグ」のなかに書いてあったものです。
このPANS/PANDASという病気をまったく知らなかったのですが、これからもその実体を把握するのは、専門医でもなければ難しいと思います。
だとすれば、私のような素人が読むよりは、お医者さんにこそ読んでほしいと思いました。
(2025.2.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
こだわりが強すぎる子どもたち | 本間良子・本間龍介 | 青春出版社 | 2024年10月30日 | 9784413233781 |
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☆ Extract passages ☆
すべての子どもは、自分の能力を発揮できるポテンシャルを持って生まれてきます。それなのに、そのポテンシャルに気づいであげられない。その結果、本当の意味での「個性」は消えてしまっているのではないでしょうか。
その子どもの苦しみを理解し、解決の糸口をぜひ見つけてほしい。そして、子どものポテンシャルに気づいてあげてほしぃ……。これは、急務です。
もう一度、お伝えします。コロナ後、世界中の子どもたちの間で急増しているPANS/PANDAS。今現在苦しんでいる子どもたち、そしてこの先も苦しみ続ける子どもたちを一人でもなくし、子どもたちの本来の能力が発揮できますように!
(本間良子・本間龍介 著『こだわりが強すぎる子どもたち』より)
No.2397『面白すぎる天才科学者たち』
No.2396『神が愛した天才科学者たち』を読んで、たしか、似たような題名の本があったことを思い出し、まだ読んでいない棚から引っ張りだして読みました。
この本も、世界の著名な科学者17人について、科学的な業績だけでなく、「ダメ要素こそ人の魅力」とばかりに、意外な一面まで取り上げています。そして、「坊ちゃん育ち」か「たたき上げ系」かと、「家庭的」か「浮気性」かという二次元チャートをつくっています。
家庭的か浮気性かと取り上げることでもわかりますが、たとえば、アルベルト・アインシュタインの目次には「実は女グセが悪い暴言家」とあったり、ニールス・ボーアは「心ここにあらず、でも物理学界でも家庭でも良きパパ」とか、ちょっと週刊誌的な評価になっています。だから、取っつきやすいという一面はあります。
『神が愛した天才科学者たち』では、日本人は湯川秀樹と野口英世の二人が取り上げられていましたが、この本では南方熊楠一人で、目次には「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ、奇人ぶりも超人的」と書いてあります。両著に出てくるのは、ニュートン、ダーウィン、アインシュタイン、ファラデー、ラボアジェの5人です。この5人は間違いなく天才科学者です。
この本に取り上げられた科学者で印象に残っているのは、やはり南方熊楠です。今のネイチャーと単純に比べることはできないにしても、日本人で最多の約50報が載っていて、今でもその記録は破られていないそうです。この本のなかで、「今でこそ、その業績を評価されている熊楠ですが、当時の評価は気の毒だと感じてしまいます。実際、柳田國男も彼のことを「巨人が縛られたような状態」と評しています。確かに、時代が早すぎたばかりに、そのオ能は無視されていました。もし当時の日本が彼を受け入れていれば、もっと恵まれた研究や生活が送れたかもしれないのに、と。でも、熊楠の長女である南方文枝さんは誰にも東縛されずに、一途に好きな学問の世界を生き抜いた父は、幸せな生涯を送つた、という趣旨のことをインタビューで語っています。」と書いてあり、おそらく人の評価などまったく気にせず、好きな学問に邁進していたのかもしれません。
また、外国人で面白いと思ったのは、リチャード・ファインマンです。私も「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(上巻下巻、岩波現代文庫)を読んだことがありますが、とても面白かったです。まさに、「なぜだろう?」といつも好奇心いっぱいの子どものような人で、この本にも「終始、「頑固な子供」であり続けました。好きなものは好き、でも気に入らないものは絶対に嫌。彼にとって気にくわないモノは徹底して拒否します。物理学者であり夏目漱石の門下生であった寺田寅彦は、「好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物」という素敵な短歌を残しています。」と書いています。
そういえば、寺田の本で、「懐手して宇宙見物」というのが みすず書房の「大人の本棚」シリーズにあるそうですが、まだ読んだことがないので、機会があれば読みたいと思っています。
また、寺田が椿の落下を研究していたころ、「花は樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹を離れた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。学問というものはどうも窮屈なものである」と語っていたそうです。
私にとっての寺田寅彦は、科学者というよりは、随筆家のような印象の方が強いみたいです。
下に抜き書きしたのは、マイケル・ファラデーについての話しです。
彼は病弱の鍛冶職人の父の子で、大学どころか小学校へもまともに通うことができず、13歳で製本屋に奉公に出ました。でも、この製本屋で働くことで、いくつもの幸運が重なったといいます。だから、なるべくして大科学者になったというか、すごい強運を持って生まれたというか、そこが人生の面白いところです。
(2025.2.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
面白すぎる天才科学者たち(講談社+α文庫) | 内田麻理 | 講談社 | 2016年3月17日 | 9784062816526 |
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☆ Extract passages ☆
そんなフアラデーの奉公先は製本屋でした。これからお話ししますが、彼の人生は大科学者になるために、「これでもか」というくらい、いくつもの幸運が重なっています。運も実力のうちなのでしょう。製本屋で働くことになったのがまず彼の幸運の始まり。当時、本は高価だったのでファラデーが買うことができるようなものではありませんでした。でもファラデーはそのような高価な「商品」だった本を無料で読めるような環境を得て、科学の本を読みあさるのです。でも、ひょっとしたらファラデーの奉公先が製本屋だったのは、向学心旺盛な彼自身の選択だったのかもしれません。
そして二つめの幸運。製本屋の客の一人が、ファラデーの科学への傾倒ぶりに感心して、王立研究所のデーヴイの講演のチケットをプレゼントしてくれたのです。
(内田麻理 著『面白すぎる天才科学者たち』より)
No.2396『神が愛した天才科学者たち』
世界の著名な科学者や発明家、16人についてエピソードや略年譜などを掲載しながら書き記したものです。
この本に出てくるような天才科学者は有名ですから、ほとんど知ってはいましたが、唯一、知らなかったのはロシアの化学者、メンデレーエフです。彼は原子量の大きさの順に並べた元素の性質が周期的に変化する周期律を発見した方で、ほんらいならノーベル賞級の発見でしたが、当時のノーベル賞は欧米白人社会中心だったそうで、ロシア人ということもあり、選考会でたった1票差でフランスのモアッサンに敗れたそうです。そういえば、自然科学分野で東洋人初の受賞は1949年の湯川秀樹博士でしたから、やはり時代的なものもあったようです。
彼は化学者として一流で、各地の大学で教授をしていますが、ペテルブルク大学で左翼学生運動を支持し連座して大学をやめたそうです。この本には、「彼が左翼学生を支持した理由は、シベリアに育った子ども時代に求めることができる。メンデレーエフの祖父は、 シベリア初の新聞社を興した言論人で、自由の徒であった。このような家系の影響を強く受け、メンデレーエフは、生来、自由主義者であった。さらに、幼少時代、シベリアに流された科学者から科学教育の手ほどきを受けた体験から、政治犯への同情と共感の思いが底流にあったことも見逃せない。だが、左翼学生への支持は彼の立場を決定的に不利にし、ロシア科学アカデミーの会員にも選出されなかった。」そうです。
しかし、彼は当時のロシア科学界では、ただひとりヨーロッパ科学のレベルに達していたし、周期表を発見し、さらに技術百科事典の刊行、 コーカサス油田やドネツ炭田の調査なども行い、ロシア国には多大なる貢献もしました。そこで、ロシア政府は、1893年には度量衡局総裁に就任させるなど、それなりの計らいをしたようです。
そういえば、天才はひとりでなれるものではなく、多くの方たちの後ろ盾も必要です。たとえば、野口英世の場合は母親で、「村の危機を一人で救ったエピソードでわかるように、野口の母シカは、実際にはかなり行動力のある人だった。ぐうたらな夫、病弱な祖母、子ども二人をかかえて夜昼となく働きながら、清作へのいじめを阻止すべく小学校へ乗り込み、いじめっ子と直談判した。清作が高等小学校へ進学を希望していることを小林栄に伝え、学費の援助まで引き出したのもシカだし、野口が医師をめざしたときも、そのことで小林に相談をもちかけている。世界のノグチヘのレールを実際に敷いたのは、小林先生でも渡部医師でもなく、母シカかもしれない。」と書いていますが、たしかにそのような面は否定できません。
ここで「村の危機を一人で救ったエピソード」というのは、1868年に会津若松城が落城したときに、その勢いにまかせて「官軍はとなりの翁島(今の猪苗代町、野口の出生地)を焼き払おうとしたとき、必死に官軍に願い出て村を焼減から救ったのが、まだ16歳のシカであった。」というものです。
下に抜き書きしたのは、パスツールの狂犬病ワクチンについての話しです。
じつは、私もマダガスカルに行くとき、向こうには野犬が多いから狂犬病ワクチンをしていったほうがよいといわれ、調べてみたことがあります。そのときは、狂犬病ワクチンが16,500円で、それを2回受けなければならないということでした。破傷風は3,850円で、これも2回ですから7,700円です。何度もマダガスカルに行っている方に聞いたら、人を噛むほど元気のよう犬はいないということで、そのときは破傷風のワクチンだけ打ちました。
この本を読むと、狂犬病にかまれても、早めにワクチンを接種すれば助かるそうですが、破傷風にかかると、亡くなる割合が非常に高い病気だそうです。しかも傷口から罹患してから発症するまでの潜伏期間は、短い人で3日、長い人では3週間程度もあるそうで、やはり、こちらを接種しておいてよかったと思いました。
でも、パスツールは電子顕微鏡がなければこの狂犬病ウイルスを見ることはできないのに、「病気には原因がある」という科学的な考え方で狂犬病ワクチンをつくったのですから、すごいことです。
電子顕微鏡は、1932年にドイツのクノールとルスカによって作られたので、パスツールは生きているうちには見ることができなかったようです。
(2025.2.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
神が愛した天才科学者たち(角川ソフィア文庫) | 山田大隆 | 角川学芸出版 | 2013年3月25日 | 9784044094461 |
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☆ Extract passages ☆
実際のワクチンは、狂大病に感染した患者から採取した未知の病原体を、ウサギの脊髄に植え、それを乾燥したものからつくった。
これは本物の狂犬病ウイルスより弱い毒性をもち、狂犬に咬まれて潜伏期にあるうちに注射すると抗体ができ、本来の狂犬病ウイルスを殺すしくみである。
ちなみに、ジェンナーの種痘法(1796年)は、種の違う病原体の利用法だったが(牛痘ウイルスの抗体で人痘ウイルスを殺す)、パスツールのやり方は、本物の毒性を薄めたものを接種して、人体に強制的に抗体をつくらせ、それで侵入したウイルスを殺すやり方だった。
狂大病ワクチンを接種した患者は、劇的に回復した。パスツールは救世主となったのである。
(山田大隆 著『神が愛した天才科学者たち』より)
No.2395『私的な書店』
ひとりの韓国の女性が、本が大好きということで、本屋を開くまでの物語です。副題は「たったひとりのための本屋」で、カウンセリングをしながらその人のための本を選ぶという書店です。
このような本屋さんは聞いたことも観たこともありませんでしたが、思い出したのは、北海道砂川市にある「いわた書店」の「1万円選書」という取り組みです。この『本のたび』のNo.2027『一万円選書』でも取り上げましたが、ポプラ新書の「一万円選書: 北国の小さな本屋が起こした奇跡の物語」の著者、岩田徹さんです。
そのときも書きましたが、1万円で本屋さんが選んでくれ本を送ってくれるというサービスで、でも、本というのは、自分で読みたい本を自分で選ばなければおもしろくないのではないかと思いました。なぜ自分で選ばずに他の人に選んでもらうのか不思議でした。
しかも、この私的な書店は、本を処方するプログラムとして3万ウォンから5万ウォンを支払うということです。3万ウォンといってもピンとこないので今日現在の日本円の換算で、3,200円ほどです。5万ウォンなら5,530円ほどになります。この料金は、1対1で話しをする1時間、「サルビア喫茶店」の新鮮な茶葉で淹れたお茶1杯、たったひとりのために選書した1冊と手紙、包装代と配送費が含まれるそうです。だとすれば、3万ウォンから安いし、5万ウォンならそこそこではないかと思いました。
いわた書店の岩田徹さんの場合は、応募者のカルテをもとに、1万円分の本を選んで届けるサービスです。でも、最近になって思うのは、どのような本を読んでみたいかわからない方には、必要なサービスかもしれないと考えるようになりました。
私の場合は、本屋さんでも図書館でも、ほとんど苦もなく簡単に本を選びます。理系も文系の本も、なんでもいいから選ぶのも楽なんです。
この本のなかに、「私は、こんなに素晴らしいものを自分だけが知っているのはもったいない、と思うようになりました。本と出会うことでどんなに人生が豊かになるか、それを伝えたかったのです。本を一冊読んだからといって、突然人生が変わるわけではありませんが、それでも本を読むことで、より良い自分になれる可能性はあります。本はまさに「種」なのです。どんな実がなるのかは誰にもわかりませんが、たとえ芽が出なかったとしても、「種」がなければその機会さえありません。本を読むということは、人生に「可能性」を植えることだと言えます。」と書いてあり、そういえば、私がこの『本のたび』をつくったときも、たしかこのような気持ちがあったように思います。
この上の『本のたび』について書いたところに、「今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました」と書いています。その気持ちは今も変わらないのですが、街中の本屋さんはめっきり少なくなりました。たしかに通販も楽ではいいのですが、本を選ぶ楽しさは実際の本屋さんが一番です。1冊1冊、棚から引っ張り出して内容を確認してから選ぶのが楽しいのです。たまには、じっくり読んで初めてよくわかるものもあるし、何度読んでもなかなか理解できないこともあります。でも、本棚に並べて置いて、時間が経ってから読み直すと、意外とおもしろかったりするとうれしくなります。
私も、本はほんとうにワンダーランドだと思っています。
下に抜き書きしたのは、「それでも」に書いてあったものです。
いくら本が好きだと言っても、それが仕事になれば、まったく別です。私も本は好きですが、本屋をしたいとはまったく思ったこともありません。ただ、私設の図書館を開きたいと思ったことはあります。それも、自分の好きな植物関係の図書を中心に集めて、開放するというものです。しかし、場所の確保と管理の大変さで、諦めました。
また、若い時は本を1日中ずっと読んでいたいと思い、それなら灯台守ならできるかもしれないと考えたこともあります。しかし、今ではその灯台守も、ほとんどがリモートで管理するようになったそうで、ならなくてよかったと思います。
ある植物好きの方から、植物好きが高じて山草屋になったけれど、流行り廃りがあったり、愛好者も高齢化するなど、やはり好きなことを仕事にすると大変だと聞かされ、この本屋さんの話しを思い出しました。
楽しみは、自分で稼いで、それを使って楽しむのが一番ではないかと思っています。
(2025.2.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
私的な書店 | チョン・ジヘ 著、原田里美 訳 | 葉々社 | 2024年11月22日 | 9784910959054 |
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☆ Extract passages ☆
固定の営業時間を決めていなかったので、問い合ゎせがくれば朝でも夜でも、平日、週末関係なく、いつでも返せるように二十四時間体制で待機していました。自分の時間を捻出するために考えた「予約制」に、むしろ足を引っ張られていたのです。会社で働いていたときは、自分が担当する仕事だけをしっかりやればよかったのですが、掃除から精算、税務業務までのすべてをひとりで処理しなければなりませんでした。やることは多いのに時間が足りないのだから、他に選択肢はありません。休みを返上する以外には。
(チョン・ジヘ 著『私的な書店』より)
No.2394『在野と独学の近代』
この本の副題は「ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで」と書いてあり、それぞれに思い出の方たちばかりです。
というのは、2017年9月5日に、エジンバラ植物園を訪ね、その標本館でシャクナゲの標本をさがしていると、そこの研究者がダーウィンの標本を持ってきて、見せてくれました。そこには、1831年から1836年にかけて、ビーグル号に乗って世界を回ったときに採取したと書いてあり、これは今も覚えているぐらい衝撃的でした。マルクスは、学生時代に左翼系の教授が課外授業として資本論の読書会に誘われて読みました。また、南方熊楠は上野の東京国立科学館で神仏分離のときの資料を見て感動しましたし、牧野富太郎は昨年のNHKの朝の連ドラ「らんまん」で取り上げられ、植物監修者に誘われて四国のロケ現場まで行き、いろいろなところを見てまわりました。
それらを思い出しながら読むと、牧野富太郎は東京大学に所属はしていましたが、在野の植物愛好家たちと交流があり、その縁からたくさんの標本が集まってきたようです。そう考えれば、いわば大学に所属し研究をする人たちとは一線を画します。
そういう意味では、この本のなかにあった「牧野に情熱と植物への愛があったのはまちがいなく、親切かつ正確に教えてくれることがアマチュア植物愛好家たちの信頼につながった。とはいえ、それだけでは情報の集積点となることは不可能だったろう。重要なのは、東大に所属しているという牧野の身分にほかならなかった。大学業界では、身分の低い講師にすぎなかったかもしれない。しかし、アマチュアの目からすれば、牧野は東大所属の立派な研究者で、尊敬すべき存在であった。……牧野が1927年に理学博士号をもらっている点も注目される。これに対して熊楠は「ドクトルとかプロフェッサー」といったひとたちを毛嫌いしていた。しかし、博士号という箔付けは、ときに重要なものとなる。牧野はそのことをよく理解していたのである。」ということは、私も大切なことだったと思います。
朝の連ドラ「らんまん」のなかでも、牧野本人が私はこだわらないという台詞がありましたが、妻のスエ子さんは、大喜びだったと語っています。おそらく、これが本音で、あのシーンは、現在の小石川植物園の本館前でロケをしたそうです。
さらに、現在は植物分類をDNA解析による系統関係の研究、つまり新分類体系であるAPGシステムが主流ですが、それでも本の名前は、「新分類 牧野日本植物図鑑」です。ただ、2017年に出版されたものでは、著者や編集は邑田仁(東京大学大学院理学系研究科教授)と米倉浩司(東北大学植物園助教)となっています。
つまり、分類が大幅に変更されてもなお、牧野氏の名前が入っていることに驚きますが、私もアマチュアのひとりとして、名前が残っていることにいいことだと思っています。
また、三田村鳶魚の研究のところでも、「鳶魚の側でも、「世の学者は手で書くが、俺は足で書く」と述べ、各地の旧家を訪ねては古文書を見せてもらっていた。幕末に御殿女中をしていた村山ませ子のもとに6〜7年も通って聞き取りをしたほか、元与力の原胤昭(たねあき)、元広島藩主の浅野長勲(ながこと)らにも情報を提供してもらった。江戸の話を鳶魚が聞き取りできたのは、その熱心さや知識にくわえて、武上の家系という出自によって、「仲間」とみなされたのもあるだろう。また親しくしていた古書店の吉田書店(現在の台東区台東にあった。熊楠のところにも販売書目を送っていた)を通して、写本、日記、道中記を入手した。吉田書店はこれらを、江戸からつづく古い屋敷がなくなるとき、廃品回収業者を通して集めていた。とくに関東大震災後は、旧大名家をはじめとした旧家の上蔵が壊れるなどして、多数の資料が市中に出回ったという。官学の教授たちとは、情報収集法において、とてつもない距離があったのである。」とあり、アマチュアだからこそできる資料収集法だと思いました。
やはり、鳶魚がいうように、「世の学者は手で書くが、俺は足で書く」という気概も必要だと感じました。
下に抜き書きしたのは、終章「アマチュア学者たちの行方」に書いてありました。
私の知り合いにも大学などの研究機関に所属している研究者もいますし、定年退職後にフルで足まめに出かけて研究をしている人たちもいます。それでも、日本では、やはりプロの研究者でないとできないことがたくさんあります。ただ、私の場合は、プロの研究者たちと出かけることが多く、その恩恵に浴することもあり、アマチュアでいることを楽しんでいます。
そういう意味では、しばられることは何もないので、自分が思うままに突き進むことができ、最後は自分が納得できればよれでよし、と思っています。
(2025.2.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
在野と独学の近代(中公新書) | 志村真幸 | 中央公論新社 | 2024年9月25日 | 9784121028211 |
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☆ Extract passages ☆
いまの日本では、プロの研究者とアマチュアの研究者の区別は簡単で、大学や研究所といった機関に所属しているかどうかで見分けられる。両者の区分は厳密で、アマチュアをわざわざ研究者ではなく、「研究家」と呼ぶことすらあるほどだ。周囲から「違う」と認識されているのみならず、本人のアイデンティティ的にも異なっている。両者のあいだには明確な階層の違いがあり、日本ではアマチュアの地位が極端に低いように感じる。それに対してイギリスでは、現在もアマチュア研究者たちの存在感が大きい。アマチュアが変に萎縮したり、逆に自意識が強くなりすぎたりもしていない。アマチュアとプロの垣根が低いのである。
(志村真幸 著『在野と独学の近代』より)
No.2393『風景をつくるごはん』
この本の出版社は農文協ですが、正確には「一般社団法人 農山漁村文化協会」というそうで、今まで本の内容と出版社との関係などあまり気にも留めませんでした。それでも、この副題の「都市と農村の真に幸せな関係とは」をみると、こういう出版社だからこその本のように思えてきました。
この本の題名の『風景をつくるごはん』という意味は、「良好な農村環境、農村社会を象徴するものとしての「風景」、消費者の意志や選択次第でそれが変化するということを表わす「つくる」という能動的な動詞、そして消費者が選ぶ対象となる野菜などの食品である「ごはん」から成っている。目的、手段、対象が入っている名前である。」といいます。
そして、著者の今住んでいる徳島での基本ルールとして、
1.基本は徳島県内産の食材
2.選べるときはなるべく過疎地域のもの
3.できるだけ産直市で購入
4.調味料など難しい場合は四国内
5.加工品は天日干しや伝統的手法のもの
6.旅行先で買ったものはOK(むしろ積極的に)
7.それ以外は栽培過程に配慮がなされたもの
と食べ方を明文化しています。
著者は、イタリアとのつながりがあり、日本の農村とイタリアの農村との比較などもあり、とてもおもしろく読みました。やはり、1カ所から見て掘り下げることもいいとは思いますが、違った角度から見てみることも必要なことです。たとえば、イタリアで長ネギが替えなかったという話しをのせていますが、「産直では、土地と季節に縛りがあり、並んでいる野菜は限られている。たとえば冬には大根、白菜、水菜、ホウレンソウといった野菜しか並んでいない。そうするとおのずと、並んでいる野菜を見ながら「今日は大根をどうやって食べようか」と考えるのである。「カレーが食べたいからジヤガイモとニンジンと……」という食べ方ではなく、そこに並んでいるものからメニューを発想する。メニューの大元を決めるのは私ではなく、土地と季節である。おそらくかつての暮らしはこうだったのだろう。私たちはいつの間にか人間が食べたいもの、あるいは栄養学的に見て食べるべきものからメニューを決めることが当たり前になっていたのだとあらためて気づかされた。」と書いています。
たしかに、私も野菜などを買いに、JAの愛菜館に行きますが、季節によってすごく種類のあるときと、生産者が違っていてもほとんど同じものしか並んでいないときがあります。むしろ、欲しいと思って立ち寄ってもないときもあり、珍しい野菜を見つけて、どのようにして食べるのかと考えさせられるときもあります。
おそらく、農家さんたちも、なるべく違った野菜を栽培して差別化を図ろうとしているようで、行くのも楽しくなります。しかも、今の時代は、パソコンなどで簡単にレシピが手に入るので、ある意味、料理の幅が広がってきているような感もあります。
下に抜き書きしたのは、第10章「社会のシステムを変えるための小さな行動」に書いてあったものです。
私の若いころに見た映画には、タバコを吸うシーンはかなりありましたが、今では映画だけでなく、テレビや雑誌などでもほとんど見なくなりました。昔は、部屋がタバコの煙で充満していても、誰も文句のいう人はいなく、むしろ当たり前のような風景でした。それが今では、建物の目立たないところに設置された喫煙所で、こそこそと吸うしかないような状況です。
おそらく、タイムマシーンで昭和前期の時代から今の時代に来ることができれば、タバコだけでなく、いろいろなものが様変わりしているはずです。急に変わったのは気づきやすいのですが、徐々に変化したものはなかなか分からないものです。ということは、いかに社会のシステムを変えるのは難しいといっても、みんなで少しずつ変えることは可能です。
このたとえは、私にとっては目から鱗でした。変えるのが大変なことほど、これからはこのようになってほしいと強く思うなら、なんとかなりそうです。
(2025.2.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
風景をつくるごはん | 真田純子 | 農文協 | 2023年10月5日 | 9784540231247 |
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☆ Extract passages ☆
すべての人の行動や価値観が変化したわけではないが、たばこをめぐる「社会の価値観」は完全に変化しているのである。その過程では、たとえば駅情内や列車での禁煙化の拡大など具体的な規制、増税など吸わないことへのインセンティブがつけられた。そのほか、人びとの意識づけとしてパッケージヘの注意書き、テレビやラジオ、雑誌等でのCMの規制などが行なわれた。特に意識づけに関する取り組みはそれぞれは効果が見えにくいものであるが、それらの積み重ねで、たばこのィメージは変わったのである。
(真田純子 著『風景をつくるごはん』より)
No.2392『マンゴーの歴史』
この本は、『「食」の図書館』シリーズの1冊で、調べてみると、私はこのシリーズを8冊、バニラ、イチジク、ココナッツ、ベリー、豆、食用花、トマト、コーヒー、サラダの各歴史ですが、「お茶の歴史」も読んでみたいと思いました。
しかも、写真やイラストがカラーで紹介されていて、読むだけでなく見る楽しみもあります。
初めてマンゴーを食べのは、だいぶ昔の話しになりますが、息子たちと種までしゃぶるようにした食べた記憶があります。そして、初めてマンゴーの木を見たのはインドで、まさか街路樹にもなっていることをそのときに知りました。マンゴー園については、お釈迦さまがこのなかで説法をしたという記録もあり、知識としては知っていましたが、見るのは初めてでした。
そういえば、ネパールの友人宅にホームスティしたときには、私がマンゴー好きだと知り、毎朝、生のマンゴーを絞ったジュースを買いに行ってくれました。当然ながら、マーケットでは、マンゴーがあれば必ず買って帰りましたが、日本で買うよりは格段に安かったことを覚えています。
この本の最初のところにマンゴーの起源が載っていて、「6,000万年前のマンゴーの葉の化石と現代のマンゴー種の比較から、古民族植物学者らは、マンゴーの起源がインド北東部にあると結論づけている。その実が、そこからインド南部や東南アジアヘと広がったのだ。紀元前1,500年ごろの石うすや陶器、また、同時期にインド亜大陸で栄えた最古の文明、ハラッパーの遺跡で発掘された品々から、微量のマンゴーが見つかっている。マンゴーの繊維は、遺跡発掘現場で出土した人間の歯からも検出された。」ということでした。
そういえば、マンゴーという言葉は、ケララ州の「マームカーイ」と発音することから、さらに「マーンガ」と変化し、16世紀にポルトガル人がケララ州に入植しこの果物と出会い、彼らはそれを「マンゴー」と呼んだそうです。私がケララ州にいったときは2018年9月だったので、まだマンゴーのシーズンではなく、植物園がココナッツを飲ませてもらいました。
この本のなかで、玄奘三蔵の話もあり、「中国から訪れていた僧侶の玄奘(602〜664)は、ハルシャの時代の仏教大学ナーランダ僧院に「直射日光をさえぎる濃い木陰を居住者にもたらすマンゴーの森」があったと記している。マンゴーはインド中に生えていたと彼は言う。」とありましたが、私がナーランダ遺跡に行ったときには、その近くにはマンゴーの森はなかったようです。
また、仏教の寓話には、マンゴーを果実や木の話しが多く、お釈迦さまもよくマンゴーの木の下で説法をしたそうです。そこで、私も岩波文庫の「ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経」中村 元訳、を読みながら、その場所を歩いたことがあります。そこには、マンゴー園もあり、いくつかの場所で写真を撮ったことがあります。
下に抜き書きしたのは、第7章「マンゴーと比喩と意味」に書かれていたもので、ガンディーらしい比喩だと思い、ここに取り上げました。
この他にも、「マンゴーの木はすぐには実をつけない。マンゴーのような木に何年もの世話が必要であるのに、まさに木のような存在でありながら、かくも長いあいだ教育を受けさせてもらえなかった女性に対して、いったいどれほどの思いやりある支援が必要となることか。」という言葉も残っていて、いかにインドの人たちにとってマンゴーは身近な果物だったのだと知りました。
(2025.2.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
マンゴーの歴史 | コンスタンス・L・カーカー/メアリー・ニューマン 著、大槻敦子 訳 | 原書房 | 2024年11月30日 | 9784260057660 |
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☆ Extract passages ☆
マハトマ・ガンディーは人生の大半でおいしいマンゴーを楽しんでいた。みずからのメッセージを伝えるための比喩として、幾度となくマンゴーの実や木を用いている。
マンゴーの苗を植えて2〜3日水を与えなかったらどうなるか、あるいは苗の周りに垣根を作ったらどうなるかを考えてほしい。(中略)マンゴーの木は伸びて大きくなるにつれ、低く頭を垂れる。同様に、強者も力を増すにつれて、いっそう謙虚に、いっそう敬虔になるべきだ。
(コンスタンス・L・カーカー/メアリー・ニューマン 著『マンゴーの歴史』より)
No.2391『銀座で逢ったひと』
この本の著者と一字違いの人を知っているので、そのような縁から図書館で借りてきました。そして読んでみると、ほんとうにおもしろく、その交友の広さにもびっくりしました。
もともと、この本は、「銀座百店」に連載された同じタイトルのエッセイ(2018年1月号から2021年3月号まで)のなかから37編を選んで加筆修正してまとめたもので、さらに「誠の人、情の人 十八代目中村勘三郎」を収録したそうです。
そういえば、この冊子を銀座の伊東屋でもらったことがあり、ホテルで読んだこともあります。しかしその内容はほとんど覚えていませんが、無料だったことだけはしっかりと記憶しています。
印象的だったのは、宗教にも詳しい哲学者の梅原猛さんに、著者は輪廻転生について聞いてみたことがあるそうです。そのとき、『「それは必ずあるな。人間、ぐっすり眠って目が醒めても、昨日のことを忘れてへんやろ。それと同じで、生まれ変わっても前世の記憶があるから、ピアノがだれよりも早く上達したり、絵がうまく描けたりする者がおる。いくら習ってもあかんやつは、生まれ変わりのまだ浅い人間やな」この話には深く納得がいって、天才と言われる方々を見聞きするたびに、梅原さんの熱っぽくあたたかな声音と、はにかみながらも自信に満ちた表情がなつかしく思い浮かぶ。』と書いてありました。
おそらく、このような曖昧ことを文章にするのはなかなかできないことで、話しのなかだからこそ、気楽に答えられたのではないかと思います。
そういえば、私の知り合いのインド人は、知識もあり高学歴でもありますが、この輪廻転生を信じています。むしろ疑ったこともないようで、だからこそ生きものを殺すことはしません。そういう意味では、輪廻転生という考え方は、やさしさでもあります。だから、私も信じているというよりは、そのように信じることで、いろいろな生きものに優しく柔軟に対処できるような気がします。
著者は、古今亭志ん朝さんの歯切れがよく、威勢もよい江戸前落語が好きだったそうで、多くの落語ファンの方たちもいつかは親譲りの「フラ」を聴いてみたいと思っているのではないかといいます。
この「フラとは、父志ん生のような瓢逸な芸風を指すのだろう。あるとき、志ん朝さん自身がこんなふうに言うのを聞いた。「なんであんなに、え―、とか、ん〜とか、考える間が多いの? もしかして、忘れたのを思い出してる時間なの? って、息子じゃなきゃ訊けないようなことを親父に訊いたんです。そしたら「ん〜、そりゃあね、なんだよ、え〜ほら、俺が、ん〜っていうと、お客が、なんですか? って感じで乗り出してくる。そこで一言、さっとかわす。その駆け引きがおもしれえんだよ」って言ってましたね。でも、これ若い芸人にはできません」ということです。
そういえば、笑点という番組で、喜久蔵が志ん生のまねをするときがあり、それも芸なのかな、と思っていましたが、この話で納得しました。
やはり、このようなひょうひょうとした話しをするには、若くてはできませんし、相当な修練を重ねないとだめだと思います。おそらく、ただ忘れたのではないかと思われるだけかもしれません。
私も年を重ね、話しをしてくれと頼まれたときには、このような間合いの取り方ができるようになりたいと思います。
下に抜き書きしたのは、「二代目尾上松緑さんの木札」にあったものです。
やはり芸人というのは、いつまでたっても完成したとは思わないようで、だからこそ日々精進するのかもしれません。
この言葉を聞いて、元気で一生懸命に修練しているときが一番いいのではないかと思いました。誰でもいつかは体力が落ち、したくてもできなくなるのが人間です。やはり、下手でも何でも、できるときを大切にしたいと思います。
(2025.1.31)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
銀座で逢ったひと | 関 容子 | 中央公論新社 | 2021年9月25日 | 9784120054662 |
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☆ Extract passages ☆
やがてお茶が運ばれると、自ら気を取り直して私の観劇歴を訊ねてくれた。そこで『天下茶屋』『申酉』『江戸の夕映』の話をする。松緑さんがだんだん膝を乗り出してきて、「う―ん、あのころは俺もまだ若くて、元気溌剌だったからなぁ。しかし未熟だった。今ならもっと上手にできるけど、そうなると身体が利かない。うまくいかないものだねぇ」
カラカラと快活に笑って、少しの間だけ昔に戻ったようだった。
(関 容子 著『銀座で逢ったひと』より)
No.2390『谷崎『陰翳礼讃』のデザイン』
副題が「デザイナー谷崎潤一郎の暗さへの称賛」で、著者自身も鉱業デザイナーだそうで、デザイン事務所に勤務したりして、現在は和光大学名誉教授です。
だからこそ、『陰翳礼讃』で取り上げられた陰影というものをデザイナーの立場からどのように見えるのかと興味がありました。
ところが、この『陰翳礼讃』を読んだことがなく、これを機会に読んでみると、初めのところに、電気や瓦斯や水道なとの取り付けに日本座敷と調和するように句法するのがなかなか難しいという話しが出てきます。
まさに日本家屋に西洋の設備をうまく取り入れることから、新たなデザインが生まれます。そういう意味では、おもしろそうです。
たとえば、谷崎潤一郎が関西に引っ越した1927年ころは、電力会社と「一戸一灯契約」だったそうで、それは電球が電力会社からのレンタルで、電気の供給口は電灯用のソケット1つだけ、というものだったそうです。だから、それを各部屋に移動したり、アイロンを使う場合などはその1つのソケットにつないで使っていたそうです。このような状況だったからこそ、松下幸之助は1918年に1家で電球と電気器具を童子に使える「アタッチメントプラグ(アタチン)」をつくり、それが成功の礎になったそうです。
そのことを、この本では、「まだ若かった松下幸之助が、成功を遂げる礎にもなった小さな器具の開発は、彼特有の技術、すでにあるものに一寸だけ機能をつけ加えて、だった。普及した電球は壊れて廃棄される。その壊れた電球のネジ部分を手にいれ、それをソケットに組み込んだ。すでに一流のメーカーが生産していた電球の捻じ込み部分の性能は約束されていたから、故障がなく、しかも格安の商品になった。アタチンは売れに売れた。この「アタチン」の延長に松下を飛躍的に有望なメーカーにした二股ソケットが生まれる。」と書いています。
私は二股ソケットが飛躍的に売れたことが松下電機の礎だと思ってましたが、そうではなかったようで、壊れた電球のネジ部分をソケットに改良したそうで、この発想はいま考えてもすごいことです。
もちろん、『陰翳礼讃』を書いた谷崎には、それを使うというような発想よりは、それを見せない工夫こそが大切だったのではないかと思います。まだ『陰翳礼讃』を全部は読んでいないので、これから読んで、どのように感じるかは、もし機会があれば、そのときにでも書いてみたいと思います。
それにしても、明治時代というのは、一気に西洋文化が入ってきたことから、それを巧みに受け入れることに工夫も必要だったと思います。
この本のなかで、「和洋折哀へのもう一つの答えは、ヨーロッパ体験を生かさなければならない、という留学生達の自負があったからだ。だが日本人が暮らせる住空間は単に模倣だけではすまないことも分かっていた。というのはヨーロツパで日本人が驚いたのは、靴を脱がずに部屋で生活することだったにちがいない。ベットに入るまで靴を履いたまま暮らすなどと想像さえしなかった。」とあり、それをうまく折衷するのにスリッパを使ったとあり、今ではどこの家庭でも使っているものが、そのような工夫から生まれたと知りました。
下に抜き書きしたのは、第4章「カタカナで持ち帰ったモダン」に書いてありました。
ほとんどの文章は、『陰翳礼讃』からの抜書きですが、後ろの1節が著者の説明です。さらに、金継ぎなどで新品よりも美しい茶碗を生み出し評価したとありますが、たしかにそういう一面はあると思いますが、それ以上に大切にしたいということもあったようです。
というのは、昨年の10月4日に、静嘉堂文庫の「眼福 大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋」を観てきましたが、いかに茶入を大切にしていたかを知りました。たとえば、そのなかにあった徳川家康から伊達政宗にわたった「唐物肩衝茶入 銘 山井」には、たくさんの添え物がありました。まるで宝物を大切に保管するために、何重もの箱をつくり、貴重な布地に包んでいました。
その展示物を観て、茶道具というのは、その故事来歴がものをいうという意味が、よくわかりました。
(2025.1.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
谷崎『陰翳礼讃』のデザイン | 竹原あき子 | 緑風出版 | 2024年11月5日 | 9784846124113 |
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☆ Extract passages ☆
「われわれの喜ぶ『雅致』と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子がある」と言う時、その「不潔」とは、無常の時の流れの中で日々失われてゆく人々の生活の痕跡であり、モノと人との間の親しげな「関係」の蓄積である。それこそが、即ち「陰翳」となる。まだ人の口の垢に十分に汚れていない新語は、語の相互の微妙な調和の中で、不用意に浮き立って、全体の統一感を損なってしまう。それは新鮮なだけに不安定で、生活の実際を潜り抜けて角を落としていない分、手触りが悪く、前後の語との間に軋みを生じさせるものである」(『陰騎礼讃』)。不潔とは我々の生活の痕跡、だからこそ、それは陰影となるというのは、茶碗のひびも生活の痕跡だから陰影の一つになるとも受け取れる表現だ。谷崎は、直接金継ぎに付言していないが、金継ぎなどで、新品よりも美しい茶碗を生み出し評価してきた「茶の湯」は、室町時代の富と権力を見せびらかしたい男の趣味だった。
(竹原あき子 著『谷崎『陰翳礼讃』のデザイン』より)
No.2389『クマにあったらどうするか』
一昨年あたりから市街地にクマが出没するようになり、マスコミなどでもしばしば取り上げられましたが、特に昨年後半から、秋田県などではスーパーに立てこもったことで、殺さざるを得なくなりました。ところが、まったくクマをテディベアーと勘違いするかのような人たちが、県や市町村などに苦情電話が寄せられ、本来の業務に支障が出るほどだったそうです。
すると、秋田県知事が、「お前の所に今(クマを)送るから住所を送れ」と言ったそうで、またネットで騒動になりました。
この本にも書いてありましたが、本当の手負いのクマは逃げる力が残っていないので、「そうすると、生きようとしたら相手を倒すしかないんです。相手を倒してでも生きようという、その怖さをハンターの人らは知らないで、手負いでもう動かないから死んでいると安易に考えてしまう。鉄砲撃ちの場合は特に、自分の撃った弾で死んでいるという先入観があって、それがまた危険なんですよ。」といいます。だとすれば、ハンターも命がけなのですが、2018年に砂川市の要請でヒグマを駆除した猟友会会員が猟銃所持許可が取り消されました。その処分取り消しを求めてではその訴えが認められたのですが、2024年10月18日に札幌高裁で1審の判決を取り消し、請求が棄却されました。そのことから、北海道の猟友会では、もうヒグマの駆除はできないという声明を出しましたが、昨年の12月21日に、クマの人的被害が多発していることから、鳥獣保護管理法改正案として市街地でも緊急狩猟を拡大することにしたそうです。
この本は、アイヌ民族の最後の狩人である姉崎等さんが語り、それを片山龍峯さんが聞き書きしたもので、ヒグマの話しではありますが、ツキノワグマでもにたような生態を持っているのではないかと思います。最近のクマは冬眠をしないとはいうものの、春になればまたクマの話しが出てくると思い、読むことにしました。
そもそもこの本は、2002年4月に木楽舎から刊行されたそうで、文庫化されるときに再編集し、第1刷が2014年3月10日で、現在第17刷だそうです。ということは、かなりの反響があり、多くの人たちに読まれているようです。
この本のなかで何度か出てきますが、人を襲ったクマは、人の弱さを知ってしまい、何度も襲うそうで、奥山に放獣してもまた人を襲うから、姉崎さんは「殺す以外にない」と言い切ります。よく、素人はかわいそうだから山に返してといいますが、この本を読んで人を襲ったクマを返すのは絶対にしてほしくないと思いました。
ここに、この本のキモを書いてしまうのもどうかとおもうのですが、昨今のクマ騒動をみていると、せめてこのぐらいは知っておいてほしいと思い、抜書きしました。
姉崎さんがすすめる「クマに会ったらどうするか」10ヵ条ですが、
【まず予防のために】
1. ペットボトルを歩きながら押してペコペコ嗚らす。
2. または、木を細い棒で縦に叩いて音を立てる。
【もしもクマに出会ったら】
3. 背中を見せて走って逃げない。
4. 大声を出す。
5. じっと立っているだけでもよい。その場合、身体を大きく揺り動かさない。
6. 腰を抜かしてもよいから動かない。
7. にらめっこで根くらべ。
8. 子逹れグマに出会つたら子グマを見ないで親だけを見ながら静かに後ずさり(その前に母グマからのバーンと地面を叩く警戒音に気をつけていて、もしもその音を聞いたら、その場をすみやかに立ち去る)。
9. ベルトをヘビのように揺らしたり、釣り竿をヒューヒュー音を立てるようにしたり、柴を振りまわす。
10. 柴を引きずって静かに離れる(尖った棒で突かない)。
と書いてありました。
このなかで興味を引いたのが、クマはヘビが嫌いだということで、この本のなかに、「タラ(※背負い縄のこと)を投げつけるのも生きたヘビを投げたような形になるから彼らは嫌うんだと思います。登別のクマ牧場の中でもそういう実験をしたことがあって、クマは跳び上がって逃げますからね。あとは特にそんなに嫌うものはないと思います。」と書いてありました。
姉崎さんが山の中でクマが知らないで通って、そこにヘビがいたことに気づき、「ウオーッ」と怒ってバシンと何度も叩いたそうです。あの大きな足で踏みつけられたらそれだけでも死んでしまうのに、何度も叩いたというから相当怖かったのではないかと話していました。
下に抜き書きしたのは、第4章「アイヌ民族とクマ」のなかに書いてあったものです。
私も小さいときに負傷したカラスを飼ったことがあり、賢いことはわかりますが、そのカラスとアイヌの人たちは助け合っていたというから驚きました。私の場合はキズが治るまでということだったので、外に離しましたが、しばらくは近くの樹々の上で、学校から帰ってくるとカァーカァーと挨拶してくれていました。
その後、自宅の屋根の上で、ホウノキの実を転がして遊んでいるのを見たこともあり、下に落ちる寸前に飛んで来て拾うと、その実を見せびらかすように近くを飛ぶこともありました。
だから、ここに書いてあることも、すぐに納得しました。
ちなみに、「――」の部分は片山龍峯が聞いて、そのあとの部分は姉崎さんが離したところになります。
(2025.1.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
クマにあったらどうするか(ちくま文庫) | 姉崎 等(語り手)、片山龍峯(聞き書き) | 筑摩書房 | 2014年3月10日 | 9784480431486 |
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☆ Extract passages ☆
――山に入ってカラスが騒ぐと、クマとかシカがいると言われていますが。
カラスが騒ぐと、クマがいるとか、獲物がいるという見方は、アイヌ民族が考えたことなんです。もともと猟をやっているから気がついたんだろうね。
――獲物をとったあと、カラスにどんなものを残すのですか。
肺臓とかその他の人間が食べられないところがありますね。それらをカラスに平均に当たるように細かく刻んでおいて、そこらの本の伎に1切れ1切れ刺しておくんですよ。
――それは姉崎さんの先輩の人たちから聞いたんですか、それとも自然に覚えたんですか。
それは話で聞いていました。カラスにおこぼれを与えることで、カラスも喜んで教えてくれるんだ、と。鉄砲撃ちが鉄砲を出していると、カラスは来ないのが普通なんですよ。ところがクマ猟に行くときは、カラスに銃を向けることは絶対にしないから、猟のハンターが弁当を出して食べているとカラスは鳴いて欲しがる。鳴いていると少しおこぼれを置いておく。するとカラスが後をついて歩くようになるんですよ。……
カラスは夏中ずっと、冬になるまで山にいるから、どのクマが来て、どこに穴籠りをするか知っているんです。クマは一度にさっと穴に隠れちゃうわけじゃないから、穴を掘るのに暇をかける。十日以上も暇がかかるから、カラスはそれを見てちゃんと覚えているわけですよ。そうすると、この近くにクマが隠れているって鳴くんです。
(姉崎 等(語り手)、片山龍峯(聞き書き) 著『クマにあったらどうするか』より)
No.2388『定年後が楽しくなる脳習慣』
最近、脳についてとても興味があり、図書館から借りてきました。読んでおもしろいかどうかがわからないのは、なるべくなら図書館から借りるようにしています。というのは、途中でおもしろくなければ読まなくてもよいと思うのは、自腹を切っていないからです。
つまり、気楽に読めるのです。ということは、性格的にケチなのかもしれません。
よく、好きこそ物の上手なれ、といいますが、たしかに好きなことだと長続きしますし、何よりも楽しくやれることが一番です。この本のなかに、「人は「できないこと」に「嫌い」というレッテルを貼る傾向があります。実際は「できない」というのは、脳のその部分が育っていないだけのことですが、「できる」状態にもっていくよりも前に「嫌い」の一言で片づけてしまうほぅが楽なのです。しかし、それを繰り返せば世の中は嫌いなことだらけになり、伸びるはずの脳も成長をやめてしまいます。……「好き」という感情をもって臨んだことのほうがより効果的に上達します。逆に「嫌い」と感じたものへの上達がなかなかうまくいかないのは皆さんも経験されていることでしょう。学生のときも、好きな先生の授業のほうが嫌いな先生の授業よりも耳に入ってきたはずです。「好き」という感情で始めたものごとが、その後も順調に上達していくのは、脳の成長システムと深くかかわっているからなのです。」と書いてあり、当たり前のことですが、まさにその通りです。
そもそも、やってみないことには「できる」とか「できない」ということもわかりませんし、ある程度の時間をかけてやってみないとどんなことでもわかりません。
だとすれば、好きだと思ってやることも大切なことで、そのほうが楽しいと思います。嫌々やれば、できることでさえも、途中で挫折してしまいます。
人って、たしかに脳で考え、脳で感じて、すべてそこが肝心かなめのところです。ある人がチェンソーで指を切ってしまったそうですが、あるとき、ないはずの指先が痛いと感じたそうです。なくなっても感じということは、おそらく、脳でそのように感じてしまったということのようです。
もちろん、いくら痛いといわれても、ないところのものを治療はできませんから、医者にも行かなかったそうですが、しばらく経ってから痛みはなくなったそうです。この話しを聞いたときには、人というのは脳がすべてを取り仕切っているのだと思いました。
だから著者は、「嫌い」「面倒くさい」「つまらない」などのネガティブな感情は脳にとっては有害だといいます。まさに、「負の感情で自分を攻撃すれば雪崩式に脳が劣化していくシステムが存在していると私は考えています。その代表的な例が、脳の神経細胞が死減していき、脳が萎縮し、記憶障害などを発症する認知症です。」と書いています。
だとすれば、ネガティブな感情で生活するよりは、ポジティブな感情で毎日生活することを脳が求めているということになります。
つまり、私が笑顔でいることがさらに笑顔になる秘訣だと多くの人たちに話していますが、そうすればさらに笑顔の輪が広がります。
下に抜き書きしたのは、第4章「祈る力」に書いてあったものです。
たしかに、祈るということは大切なことですが、目に見えないことを説明するのはとても難しいことです。だいぶ前に、アメリカの医学雑誌に載っていた「カリフォルニア大学医学部の心臓外科の専門医が行った研究」で、場所はサンフランシスコ総合病院の集中治療室ですが、無差別に400人の患者を2組に分け、高度な心臓の治療を行ったそうです。そこで1組の200人についてだけ、その治療が成功し、もとの健康な体に戻れるようにと、アメリカ全土から無作為に選んだ人々に1日3回のお祈りをささげてもらったそうです。そして、別な組の200人については祈らないということで、その結果も載っていました。
それを聞いたときも、たしかに祈るということの不思議さを感じましたが、ここに抜き書きしたものもなるほどと思いました。
(2025.1.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
定年後が楽しくなる脳習慣(潮新書) | 加藤俊徳 | 潮出版社 | 2018年4月20日 | 9784267021299 |
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☆ Extract passages ☆
祈りの形に目を向けると、両手を合わせて瞑目していることがほとんどです。両手を合わせることで何が起こるのでしょう。人は両手で火を使い、道具を使いこなすことで進化してきました。両手を合わせた瞬間、左脳と右脳の「両脳覚醒」が起こります。普段私たちは、体の中心を意識しません。手を合わせることで、「両脳覚醒」とともに体の正中線に意識が向けられます。脳の正中線上には、自律神経の中枢で、ホルモン産生の現場の視床下部があり、松果体や下垂体などホルモンと神経の中枢が位置しています。これだけを考えても、祈りには脳を動かす原理が隠されていると考えることは容易です。
実際に、脳の働きを知らなくとも、両手を体の正中に合わせ目を開じるだけで、外の世界をオフにして「自己」に戻ることができます。
(加藤俊徳 著『定年後が楽しくなる脳習慣』より)
No.2387『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』
図書館から借りてきて、この本を読むまではまったく気づかなかったのですが、読み始めてすぐに、No.2361『国道沿いで、だいじょうぶ100回』を読んだことを思い出しました。
内容は違いながら、出てくる人たちは家族で、行動パターンもほとんど同じような感じでした。それでも、引きつけられるから、不思議なものです。しかも、ページの間に写真がはさまれているのも同じで、今回は東京駅の前で、3人で笑っている写真でした。
その写真を撮ったのがカメラマンの幡野広志さんで、血液ガンなのに、その明るい前向きの言葉が素敵でした。幡野さんが「生牡蠣だって食中毒になるかもしれないけど、みんな食べてるでしよ?おいしいものにはリスクがあって、楽しいことにもリスクがあるんだよ」と言うと、著者は「幡野さんは楽しい方を選んでるんですね」と言います。すると幡野さんは「うん。外で好きな人に会って、好きなことして、好きな写真撮って。それで寿命が多少縮んでも、あんまり気にしないな」とガハハと豪快に笑うんです。
わたしも、こういう生き方には大賛成で、甘いものは身体に悪いといわれても、毎日お抹茶をいただきながら和菓子を食べています。それをSNSに流すと、そんなに毎日甘いものを食べて大丈夫ですかというコメントをいただくのですが、病院で生活するような節制をして、長生きするよりも好きなものを食べて、楽しいことをして生きたいと思ってます。
幡野さんも、病院の減菌室にいるような生活なんて、そんなの、つまらん人生ですよといいます。私もそう思います。
著者自身、中学2年のときに父親が急性心筋梗塞で亡くなり、高校1年生のときに意識不明の重体で6時間もの大手術で一命をとりとめ、下半身の感覚をすべて失い、車イスの生活になり、2年間も入院したそうです。そんなこんなでなかなか勉強ができず、母親のことを考え関西学院大学の「社会起業学科」を志望校に選んだそうですが、模試の結果は合格確率5%以下だったそうです。
それでもあきらめきれず、たまたま知り合いの接骨院の院長先生に英語を教えてもらうことになり、先ずは500の英文を全部暗記しろといわれました。ところが文法がまったく理解できず、また院長先生に相談すると、「わからん文法はその本で調べろ」と言われます。そして、「そんで、俺に説明できるようになれ」と言います。著者は、わたしが理解したならば、それでいいのではないかというと、先生は、「アホか。患者に説明できないけど、参考書読んだから大丈夫ですっていう医者に、手術させるか?」と言い放つのです。
これは名言です。知識というのは他の人に説明できるようになり、理解が深まります。
私もお茶を習っていたときには、初めのころはなぜこのような所作が必要なのか理解できなかったのですが、たまたま先生がいないときに代わりに教えたりすると、すっと理解できました。つまり、人に教えることで、わかることもあります。
だから、この話しをみて、なるほどと思いました。そして、本をただ読んだだけでは理解できないことも、このような『本のたび』に書きとめたり、人に話したりすると、よく覚えています。だから、よく家内にも話すのですが、それも大切なことだと思います。
そして、高校3年生の秋ころにはこの500の英文をすべて暗記し、その他の教科は漫画「ドラゴン桜」(講談社)の全巻セットを渡され、それを読んだそうで、それで志望大学の学科に合格したというからすごいと思います。
やはり、できるとかできないとかいう前に、やってみることです。
下に抜き書きしたのは、「奈美にできることはまだあるかい」に書いてあったものです。
著者の4歳下の弟、良太は生まれつきダウン症という染色体の異常で知的障害もあり、いっしょに滋賀県のおごと温泉旅館に1泊したときの話しです。これを読みながら、いろいろな障がいもその人の個性だと思いました。
(2025.1.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった | 岸田奈美 | 小学館 | 2020年9月28日 | 9784093887786 |
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☆ Extract passages ☆
良太の場合鍵付きロッカーやボタン式の水道の仕組みがわかりづらいので、ひとりで大浴場に行くのはちょっとむずかしい。
それで、露天風呂付きの部屋にしたのだが、良太は朝も夜もずーっと、プカプカ浮いていた。海坊主のようだった。
さらに感動したことがあった。良太は本当に、みようみまねでちゃんと生きてきたんだなと思った。
わたしが浴衣着てるの見て、自分で浴衣を着ていた。
わたしが懐石料理のお鍋をつくってるのを見て、自分でお鍋をつくっていた。
経験がないことも、おそれず、挑戦する。失敗するはずかしさとかも、良太にはない。
もっと身近なたとえをすれば。言葉が通じない国に行ったとしても、良太はうまくやっていけるんだろうな。頼もしいな。
(岸田奈美 著『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』より)
No.2386『編集を愛して』
副題が「アンソロジストの優雅な日々」で、著者はこのアンソロジーを、「そう。詩歌集ゃ詞華集とあるように、もともとは詩歌を集めたものから始まっているようなのだ。日本で言えば、「万葉集」がそうだ。そして、「古今和歌集」も『百人一首」もアンソロジーの一つだろう。最近は少なくなったが、文学全集、教養全集、一人の作家の選集・短編集・エッセイ集のようなタイプのアンソロジーが多くの読者を獲得した時代もあった。その後、あるテーマに沿って、いろんな書き手の小説やエッセイを集めたものが、多様なジャンルで編まれるようになった。」と書いていて、その前に辞書の抜書きをしています。
そういえば、その後に、「音楽業界の人の話だと、日本ほどコンピレーション、とりわけベストアルバムが好きな国はないという。あるアーティストのファンは折々のニューアルバムをすべて買った上にベストも購入する。それなりに好きな人は、ベストアルバムだけを買う。こうして、人気アーティストのベストアルバムはミリオンセラーになるのだ。こうしたアンソロジー好き、コンピレーション好きという傾向は、日本文化に根ざしたもののような気がしている。食文化にたとえれば、会席料理や幕の内弁当の考え方と通底しているのだ。ちょっとずついろんなものを味わいたいという欲求から始まり、それらをコンパクトに収めようとするところまで、似通っているではないか。」とも書き、なるほどと思いました。
しかし、今や時代がかわり、音楽も好きな曲をスマホで単品買いするようになりました。あるいは、CDが出ないものもあり、スマホで聴いた曲をそのままスマホで買うことも多いようです。そうなると音楽環境もだいぶ違ってきます。
私自身のことを考えても、昔は音楽ジャンルのベストアルバムなどをたくさん集めましたし、全集本も揃えたりしました。そういえば、学生の時、神保町に本と引き換えできるパチンコ屋があり、それで昭和45年から発酵された筑摩書房「日本文学全集 全70巻」を揃えたこともありました。
しかし今は、置く場所のことや管理も難しいので、なるべく図書館で借りてくることにしましたが、昔は私設図書館をつくりたいというのも夢のひとつでした。
だから、迷うことなく、この本も借りてきましたが、借りてきた後で山新の読書欄(2025年1月12日朝刊)にこの本が取り上げられていたので、びっくりしました。そういえば、昨年末に読んだ No.2379『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』齋藤美衣著、も同じ読書欄に載ってました。もともと、ベストセラーになったり、誰かが取り上げたから読むということはほとんどありません。
さて、著者は、今まで500冊近くの本に関わってきたそうで、その本のなかには、私が読んだものも多くありました。たとえば、井上ひさし『吉里吉里人』や『ちくま文学の森』などはすぐ思い出しましたが、まだまだありそうです。
この本のなかに、著者自身のことで、「僕は、貧乏性というか、転んでもタダでは起きないというか、せこい性格なのだ。例えば、四月の初めに通勤途上でオートバイに接触し、道路に叩きつけられた時も、とっさに思ったのは「ああ、これであの原稿書けていない言い訳ができる」だった。背骨の横突起骨折で痛みが4週間もとれなかったのだから、言い訳ぐらいでは割が合わないのだが。仕事をしていて辛くなったり、人間関係で面倒になったりしても、どこかで楽しまなければ損だと思うのだ。」とあり、そういえば、私もそうかもしれないと感じました。
でも、そのような貧乏性も楽しんでいて、たとえばトイレットペーパーをこれだけ少なく使えば、10年ぐらい経つと木の1本分ぐらいにはなるかもしれないなどと思っています。たしかにせこいかもしれませんが、湯水のように使うことは、私にはできそうもありません。
下に抜き書きしたのは、第4章「人を集めて何かを編む」のなかの「路上観察学への招待」に書いてあったものです。
私もその当時の写真を見てびっくりしましたが、あの無用にも思える階段を初めて見たときの印象が書いてあり、ちょっと懐かしく思いました。
私も写真を撮るのでよくわかりますが、同じものを見ていても、その切り取り方でだいぶ印象がかわるので、目玉の修練は大切です。でも、その目の付け所が編集でも生かされているように思います。
(2025.1.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
編集を愛して | 松田哲夫 | 筑摩書房 | 2024年10月5日 | 9784480816948 |
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☆ Extract passages ☆
街を歩くのに理屈はいらない。軽やかな足どりと旺盛な好奇心があればいいのだ。
しかし、都市というヒトやモノの洪水の中から、面白いものを探しだそうと思ったら、少しばかり日玉の鍛練が必要だ。それには、まず、なるべく沢山歩くことが一番なのだが、ただ闇雲に歩いていても、日玉が活性化するわけではない。時には、秀れた都市ウォッチャーたちの目玉の動かし方に学ぶことも必要らしい。……
この学が対象とするのは、路上から観察できる木林羅万象。特に、その中のズレたもの、おかしなもの、不思議なものを主に探索するので、"学"というよりは街歩きが一層おいしくなる、都市の新しい遊び方とも言える。
(松田哲夫 著『編集を愛して』より)
No.2385『大観音の傾き』
この小説は、河北新報の2024年4月7日から9月29日までの毎週日曜朝刊に連載されたものです。
私はこの表紙の写真を見て、会津若松の大観音ではないかと思ったのですが、小説のなかに出てくるショッピングモールがそこにはないので、よく観音さまの顔を見ると違っていて、おそらくは仙台大観音ではないかと思い至りました。そこだとすぐ近くにイオン仙台中山店があるので、小説のなかに登場する地形と似通っています。
私は何度も仙台には行っているのですが、一度もそこには行ったことがなく、先月の12月にも近くまで行き、行って見ようかと思ったのですが、仙台に住む孫の学校からの帰宅時間が迫っていたので、行くことはできませんでした。
でも、考えてみれば、これは小説なので実在の仙台大観音とは違うはずで、河北新報によれば「仙台に実在する高さ百メートルの大観音をモチーフとした小説です。毎週日曜、読書面(「東北の文芸」面)での連載となります。樋口佳絵さんご担当の挿絵にも、ぜひご注目いただけたらと思っています。」とあり、あくまでも架空の話しということです。
それにしても、実在の観音さまが本当にあった東日本大震災のときに傾いたという話しをその地方紙に載せていいのかと思いました。しかも、12月21日に河北新報社本社ホールで、大観音の傾きトークイベントがあったそうで、翌日の河北新報の朝刊に載っていました。そのときは、挿絵担当の樋口佳絵さんも参加され、著者の山野辺さんが作品の1部を朗読したそうです。この本には、挿絵はありませんので、機会があれば河北新報の挿絵を見てみたいと思ってます。
もともと著者は福島県の生まれで、宮城県で育ったので、この小説に登場する地域はなじみのあるところばかりです。
印象に残ったのは、沢井さんが、故郷の双葉の話しをしたときに、「途切れてしまった常磐線も、いずれ復旧するはず。除染も進んで、また街に人が住めるときがくるかもしれない。両親はいま郡山にいるんだけど、暮らしも落ち着いてきたから、もう戻ることはないだろうって言ってる。わたしもきっと、ここで生きていくんだろうなあ。だけど、故郷の街が少しでも復活してくれたらっていう願いもあるよ」と言い、主人公の修司は、「話を聞きながら、いつか自分も常磐線に乗って、その地を訪ねてみたいと感じていた。」と考えます。
実は、私もこの復旧した常磐線に乗りたいと思って、昨年の10月2日に「ひたち13号」に乗ることにしました。このときは大人の休日倶楽部パスを利用して、米沢駅から仙台駅まで乗り、そこから秋田新幹線で秋田駅に行き、翌日の「いなほ8号」に乗り、新潟駅から東京駅に行き、乗る予定でした。ところが羽越本線が豪雨のために不通になり、しかたなく、いったん青森駅から東京駅まで戻り、さらに品川駅から常磐線に乗り、仙台駅までというコースに変更さぜるをえませんでした。まさに、常磐線に乗るためだけのとんでもないコース変更でした。それでも双葉付近を通るときには、私自身の知り合いもいたことがあり、そのときのテレビで見た震災の記憶が蘇りました。
下に抜き書きしたのは、今の若者たちがなかなか異性と知り合う機会がなかったり、結婚できないという心情をとらえていると思ったフレーズです。
そして、最後に思い切って「今度の七夕、よかったら一緒に行きませんか」と誘うと、「ほかに一緒に行く人がいるんだ」と断られてしまいます。それをきっかけにして、町外れの忘れられたようなところで、一人で暮らすことを決断します。そこでこの小説が終わってしまいます。
小説というのは、あまり抜書きするようなところもなく、これを選びましたが、本来は読んでいただくのが一番です。
ぜひ機会があればお読みいただければと思います。
(2025.1.14)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
大観音の傾き | 山野辺太郎 | 中央公論新社 | 2024年12月10日 | 9784120058608 |
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☆ Extract passages ☆
誰かと親しい問柄になりたいと望みつつ、ずっとかなえられずにいた。学生時代に、いいなと思う人は何人かいたけれど、傷ついたり傷つけたりすることへの恐れもあったし、どうせ自分なんか駄目だと卑下する思いもあった。距離を縮めることができず、もしかして、と可能性の萌芽を感じたときにはむしろ自分のほうからとっさに遠ざかってしまったものだった。おのれへの自信がもてず、だから人に対して臆病になってしまう。そんな自分の弱さが身にしみて、苦しく感じる夜もある。変化を求める情念が、行き場を見いだせないまま胸の奥にくすぶっていた。
(山野辺太郎 著『大観音の傾き』より)
No.2384『tupera tupera のアイデアポケット』
著者のtupera tuperaというのは、2人組のクリエイティブユニットだそうで、絵本だけでなく、イラストや商品の企画デザイン、さらにはテレビや演劇の仕事もしているそうで、まさにマルチな活動をしているそうです。
この本では、本をつくるアイデアの出し方として、「中川 この本をつくるにあたって、これまでの作品を改めて振り返ってみたら、私たちのアイデアの出し方は大きく2つあるなと思いました。……中川 「コトバ」。言葉あそびやダジャレ的なもの。つくるもののタイトルなど、言葉あそびから入るものがあります。亀山 その考え方は、絵本でもたくさんあるよね。もう一つは? 中川 「カタチ」。ふつうに形を見るだけじゃなくて、ちょっと見立てる。「あれ?。これってこっちの角度から見るとこんなふうに見えない?」ということを考えたりして。亀山 なるほど。おもに「コトバ」と「カタチ」というのが僕たちのアイデアの出し方の大きなポイントです。」と「はじめに」のところで書いています。この中川と亀山というのが著者の名前で、その掛け合いのなかで話しが進みます。
つまり「コトバ」と「カタチ」から入るということですが、これはとても参考になると思います。子どもたちと遊んでいると、どこでもできるのが「しりとり」で、著者たちも『うんこしりとり』という絵本を作っています。そこでは「こいぬのうんこ→こうしのうんこ→こどものうんこ→こうちょうのうんこ→こっそりうんこ→こおったうんこ→こいのぼりのうんこ……」と続くそうです。「こ」というのは意外とつくりやすいし、子どもたちにとっては「うんこ」のつくドリルなどがあるぐらいなじみのキーワードです。
このような文字遊びは、車などの移動中でもなんの準備がなくてもできるので簡単ですが、「カタチ」のあるものは大きさにもよりますが、どこでもできるとは限りません。でも、この本を読むと、たとえば私も子どものころには河原で何かに似ている石を探して遊んだり、木の枝を使って、何かを見立てて遊んだ記憶があります。ただ、今は勝手に河原から石を拾うことも野山で植物を採取することもなかなかできない時代です。
だとすれば、この本に書いてあることで遊ぶことはできます。たとえば、このなかの「仕事であそぶ」にあったものですが、それは西鉄久留米駅近くのフリースペース、久留米シティプラザという激情の1階部分だそうです。そこに「カタチの森」ということで、「亀山 丸三角四角のカタチを組み合わせて、動物や植物を表現しています。「カタチ」というのは人間のそれぞれのカタチ、関係のカタチということも意味していて。老若男女、多種多様な使い方ができるいろんなカタチがこの空間から生まれたらと。中川 この柱のように立っている三角柱が回るんですよ。そろえる面の角度に
よって風景が変わります。動物型の家具もデザインしました。親子連れが食事をしたり絵本を読んだり、中高生が宿題をしにきたり、イベントに使われることもあるし、商店街の会合をすることも。地域の人たちによって、カタチの森がどんどん育っていってくれたらと思います。」と書いてあり、これからのフリースペースも誰かが企画をして作ってしまうというよりは、地域の皆が参加してみんなで作り上げるということがこれからは大切だと感じました。
下に抜き書きしたのは、「参加が楽しくなる ワークショップ」にあったものです。
これは、茶道のなかにもあり、お茶って強い縛りのなかで作法していると思う方も多いと思いますが、時には暑くてとか寒くてどうしようもないときがあります。そんなときには、融通無碍で流れを変えてしまうこともあります。また、昔はなかったんでしょうが、クリスマス茶会というのを何度もしていて、お菓子も「聖夜」という菓銘を使うこともあります。
つまりは今の時代に合わせることも必要で、これからはもしかして、ハロウィンに仮装をしてお茶会をするようになるかもしれません。
(2025.1.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
tupera tupera のアイデアポケット | tupera tupera | ミシマ社 | 2024年10月23日 | 9784911226100 |
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☆ Extract passages ☆
亀山 そして、キーワードから自由にイメージを広げて、ベースのトットラに色を塗ったり顔を描いたりして各自仕上げていきます。
中川 最初のくじ引きで自分がつくる方向性を勝手に決められちゃうことで、みんな迷いなくつくり始めます。自由でなんでもいいよと言われても何つくっていいかわからないですよね。適度な縛りがあるからこそ、個性が出しやすく、自分の想像を超えるものができあがります。
(tupera tupera 著『tupera tupera のアイデアポケット』より)
No.2383『インドの正体』
おそらく、一般の人たちにとっては、インドというと思い出すのはお釈迦さまが生まれたところとか、マハトマ・ガンディーがインドの独立をしたこととかではないかと思います。あるいは、今、世界一の人口を抱える国というもあるかもしれません。また、旅行好きな人たちにとっては、インドというのは好き嫌いのはっきりと分かれる国というのもあり、私はどちらかというと好きで、5〜6回ぐらいは行ったと思います。
そのなかでも一番印象に残っているのは、2012年12月5日から13日までのインド仏跡の旅で、これは岩波文庫から出ている『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村 元 訳、を読みながら、その足跡を追う旅でした。ときどき通訳の方をお願いし、なるべく一人で旅をしましたが、いろいろな出会いがありました。
それ以前にもインドにネパールの友人と仏跡をまわったことがあり、もし、彼がいなければ今ここにいないというような経験もしました。だから、インドの怖さとか不思議さとかも知ってしまうと、インドを理解するのは一筋縄ではいかないと思います。そういう気持ちもあって、この本を読むことにしました。
今でも、インド人にとってはマハトマ・ガンディーは、「インドには誇るべき思想や理念のシンボルがある。インドの政治指導者たちが、事あるごとに世界に向けて強調するのが、「ガンディーの国」というアピールだ。非暴力を実践した平和主義者であり、宗教間の融和を説いたマハトマ・ガンデイーは、インドのモラル、良心を体現する偶像として位置づけられている。1998年の核実験、中国やパキスタンに対する軍事力増強と対決姿勢、モディ政権下のヒンドウー・ナショナリズムとマイノリティ弾圧といった動きは、これとまったく矛盾するように思えるかもしれない。」ということです。
私も行ってみて分かったのですが、「ガンディーの日」があり、毎年10月2日は国家の父マハトマ・ガンディーの生誕記念日で、休日になっていました。私はこの日に南インドにいたのですが、お店が休みなので買いものも食べることもできず困りました。その日のテレビを見ていると、今でも絶大な人気があり、モディ首相なども初代首相のネルーの宥和的な政策を否定してますが、ガンディーには限りない称賛を与えているのです。
たしかに、世界各地で戦争や紛争が起こっている状況からみると、今こそガンディーのような平和主義者がいてほしいと思いますが、ではインドでは紛争がないのかというとそうではなく、先の抜書きのなかにもあるように、差し迫った問題もあります。
よく、インドというと、日本人は「カースト」の国だという認識もありますが、じつは、「インドにおけるカーストは「生まれ」であり、ひとびとは長く、みずからの置かれたその「生まれ」を甘受して暮らしてきた。それはさまざまな矛盾を抱えた巨大な国のなかで、社会を安定化させる装置として、つまり社会秩序として機能してきたのではないか。だとすれば、現代のわれわれの目線からは、議会や政府の失政、あるいは不作為に映る貧困や差別が、インドの誇る民主主義制度と共存してきたとしても不思議はない。」と著者も書いていますが、私の理解では家業と深く結びついていて、それに護られているという側面もあります。
たとえば、クリーニング屋はクリーニング屋になる、運転手は運転手になる、というように、いわば決められていることで将来の生きる術を身につけるということです。ただし、現実問題としてお金や食物などを人からもらって生活する人たちにとっては、そこから抜け出すことは非常に難しいのです。なりたい仕事につくということは、いろいろな障がいがあり、大変なことで、だからもともとなかったITなどの仕事は、そのようなしがらみがなく、誰でもなれるので人気があるのです。自分のカーストから抜け出ることもできます。ただ、結婚とかになると、憲法では禁止されていても、現実にはあると聞いたことがあります。
だから、私の知り合いは、これではとても結婚できないと思い、国外に出たのですが、子どもが生まれると、仕方ないということで認められて帰国しました。その子どもたちも成人しましたが、今でもときどきその違いを感じることがあると話してくれたことがあります。
下に抜き書きしたのは、第4章「インドをどこまで取り込めるか?」にあったものです。
おそらく、最近のインドを取り上げるときに多いのがこのような話しで、特にこれからはインドを抜きにして国際関係を論ずることは難しいと思います。そういう意味では、とてもわかりにくい国ではありますが、しっかりと理解しておかなければならないと思います。
(2025.1.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
インドの正体(中公新書ラクレ) | 伊藤 融 | 中央公論新社 | 2023年4月10日 | 9784121507938 |
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☆ Extract passages ☆
実際のところ、この20年ほどの世界は、全体としていえば、インドの望むような多極化に向かった。アメリカの覇権はもはや絶対的なものではなくなったが、中国がアメリカの地位に取って代わったわけでもない。かつての栄光を夢見るプーチンのロシアは、ウクライナで無謀な戦いをはじめたが、アメリカと西側世界は、これを簡単に蹴散らすことができなかった。各国の国力が拮抗し、せめぎあいがつづく世界で、どの国にとっても、インドの戦略的価値が増大した。
これまでにインドは世界のすべての主要国、新興国と「戦略的パートナーシツプ」関係を宣言し、関係を拡大深化してきたが、いずれもインドが頼んだのではなく、各国から「言い寄られた」、という印象が強い。どの国も交渉で大幅な譲歩をしてでも、インドを引き込むことに躍起になった。
(伊藤 融 著『インドの正体』より)
No.2382『面白くて眠れなくなる理科』
「面白くて眠れなくなる」というのは、私の興味のある理科に関してはそうでしたが、あまり関心のないことについては読んでいても眠くなることもありました。
それでもぜんぶ読んでしまうと、なるほどという気持ちになり、このように難しいことを簡単に説明してもらうとわかりやすいと思いました。そういえば、井上ひさしの座右の銘である「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」という言葉を思い出しました。
たとえば、今まで「溶ける」ということに関しても、なんとなくわかっているような気持ちでいましたが、「溶けること(溶解)は自然現象の中で大きな役目を果たしており、人間の生活と生産の中でも、さまざまな形で利用されています。家庭生活における「溶解」の大きな利用の一つは、食物の味つけに食塩や砂糖を使うことです。食塩や砂糖が水に溶けなければ、辛い、甘いなどの味は感じられません。漬け物に食塩を使うのは、水に溶けた食塩が微生物の繁殖や植物の組織に及ぼす微妙な働きを利用しています。また、着物や服のえりなどの汚れをベンジンでふき取るのは、からだから出る皮脂がベンジンに溶けることを利用しています。」と書いてあり、まさに溶けるということはとても大切なことだと理解できます。
よく、地球は水の惑星、という表現がありますが、水が「非常に多くの種類の物質を溶かす性質を持っていること」だからで、そのことがすべての生命の誕生に寄与していると考えることができます。このように考えると、「溶ける」ということがいかに大切なことかということがわかります。
どうも、私はアイスクリームが溶けるのと、生命体が誕生するのと同じレベルだとはなかなか信じられませんでした。でもよく考えてみると、溶けるということだけを考えれば、同じことです。
この本のなかで、磁石について書いてありましたが、「磁石の「磁」は、もともとは中国で「慈」という字でした。「慈石」とよんでいたのです。「慈」は「慈しむ」という言葉通り「大切にする、いとおしむ、かわいがる」という意味です。磁石が鉄を引きつける様子を、まるで母親が子どもを抱くようにやさしくかわいがっている様子にたとえたのです。」とあり、なるほどと思いました。
「磁」と「慈」はよく似ていますが、このような関連性があるとは思いもしませんでした。ところが、聞いてみると、なるほどというよりは、これで一生忘れることもないはずです。
下に抜き書きしたのは、Part 2「世界はふしぎに満ちている」のなかの「人類の工夫の所産――イネ」に書いてあったものです。
だいぶ前に、地元のJA婦人部の方々にイネの話しをしたことがありましたが、そのときのことを思い出しました。まさにイネは、品種改良の歴史でもあります。もともとは熱帯の植物ですから、寒いところは苦手なのですが、今では北海道でも栽培できるようになりました。ところが、最近の猛暑の影響などで不作が続き、これからは、もう一度暑さに強い品種を目指して品種改良をしなければならないそうです。
このような話しを聞くと、イネも人間との関わりで右往左往しているのではないかと思ってしまいました。
(2025.1.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
面白くて眠れなくなる理科(PHP文庫) | 左巻健男 | PHP研究所 | 2016年8月15日 | 9784569765945 |
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☆ Extract passages ☆
野生のイネは自分の花粉がめしべについても受精せず、ほかのイネの花粉がめしべにつくと受精する「他家受粉」という性質を持っています。これは常にほかのイネの花粉がついて種子が雑種になるようになっているのです。
そのほうがいろいろな性質の種子ができ、環境の変動や病害虫などが原因で一斉に死に絶えるリスクが小さくなります。つまり、どれかが生き残るという点で、野生のイネにとっては大切なことなのです。
しかし、イネを栽培する人類にとっては、やっかいな性質といえます。なぜなら、雑多な種子ができてしまい、均一な性質の種子ではなくなるからです。
長い栽培の歴史の中で、この性質は完全になくなり、花が咲くとすぐに自分の花粉がめしべにつく「自家受粉」をして受精し、種子ができるようになりました。
そのため、すべてが同じ性質を持つイネになり栽培しやすくなりましたが、そのぶん環境の変動や病害虫などに弱くなったともいえるのです。
(左巻健男 著『面白くて眠れなくなる理科』より)
No.2381『人生のことはすべて山に学んだ』
私も高校生のころは山岳部だったので、毎週のように山に登っていました。そして登る時間がとれなくなってからは、ビーパルなどを読んで、野外生活の楽しさなどを知識として味わっていました。
これらの本は、自宅を改築したときに大量に処分してしまい、ほとんど残っていませんが、今でも椎名誠さんの本に書かれたイラストなどを思い出します。どちらかというとほのぼのとして、ヘタウマの絵が多かったようです。
また、似たような題名の本で、ロバート・フルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」などもありますが、いろいろな場所で学ぶこともできますし、自分の好きなところで学ぶということも大切なことです。
この本は、もともとは海竜社から2015年11月に刊行された単行本「人生のことはすべて山に学んだ 沢野ひとしの特選日本の名山50」を改題し、加筆修正して文庫化したものです。生まれは1944年ですから、私より5歳ほど上ですが、「文庫本あとがき」で「さてこの十年ほど山から下りて里のあたりをぶらぶら歩いている。設備の良くなったテント場で、息子や孫たちと、2、3日滞在している。滞在中、山里の歴史を聞いたり本で調べたりすると、これまで知らなかった土地の文化に驚く。長野県は満州開拓団が多かったことを知り、その碑も各地にある。若い頃は山の頂上にしか興味がなく、クライミングに夢中になっていた。だが歳を取ると、しだいに山の麓のことを知りたくなってくる。」と書いています。
また、私のような歳になってくると、「山のコラム9」のなかに書いてあった「山で事故が起こるのは、登りより下る時のほうが比べられないほど多い。体が萎えてくる頃の転落事故が後をたたない。山では最後の平らな道へ下りてくるまで油断しないことだ。……下りで膝が震えだしたら、ストックが役に立つ。カーボン素材を使った軽量モデルがたくさん出ているが、中高年登山者にとっては必携品と言えよう。さらに膝のサポーターも強い味方になる。この2つであと10年先まで山でがんばれるはず。」とあり、私ももう少しはがんばれそうと思いました。
そういえば、昨年の7月に大雪山の旭岳の麓を歩きましたが、もしやと思い持っていった膝サポーターが、とても役立ちました。これはだいぶ前に整形外科に受診したときにもらったもので、たしかに膝が痛くなったときには有効です。もともと小さいので、リックに入れて行っても邪魔にはなりません。
そのときも感じたのですが、著者も「山登りの良いところは、 へとへとになっても一歩前に進めば、いつかかならず頂上が現れることだ。誰に対しても裏切ることなく達成感を山は与えてくれる。杖をついて登ってきた年輩者のザックを見知らぬ人がいたわるようにして下ろしている。小屋付近からの眺望は、どっしりと雪を被った富士山や南アルプス、大菩薩峠に奥秩父、奥多摩とまるで山々が「見てください」と自慢げに連なっている。」書いていますが、たしかに一歩一歩で風景が変わり、お花畑を進んでいると、自然と歩けます。
ただ気を付けなければならないのが、宿に着いてから痛みが出てくることです。だから、最近はなるべく長距離は歩かず、時間も早めに下山するようにしています。そして、もしもう少し先に行きたければ、翌日に体力の回復を待って行くようにしています。やはり、絶対に無理はしないことです。
下に抜き書きしたのは、第5章「宝物が隠されている山」にあった言葉で、たしかにそうだと思いました。
私は、最近は一人旅をする機会が多くなり、それもなるべくなら電車に乗ってみたいと思うようになりました。電車だと勝手に目的地に運んでもらえるし、その土地の人たちが乗ってくると方言なども聞くことができます。駅弁を食べる楽しみもあります。風景を眺めながら本を読むこともできます。
一人旅は、誰にも邪魔されずに自分の時間を持つことができます。
ますます、限りある時間を、有効に大切に使いたいと思ってます。
(2025.1.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人生のことはすべて山に学んだ(角川文庫) | 沢野ひとし | KADOKAWA | 2015年7月25日 | 9784041092064 |
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☆ Extract passages ☆
都会の喧噪と騒音に慣れた者にとって山は沈黙の世界だ。山に入るとその静けさに耳を傾ける。鳥のさえずり、林を抜ける風の音、植物の匂い、岩のざらつきと、五感が鋭くなってくる。とりわけ一人の時は、自然の持っている緊張と穏やかさが刻々に増大していく
バス停を下りて歩きだすと林の匂い、水の匂い、針葉樹の松の匂い、やがて森林地帯を越えると、硫黄や鉱物、さらに3000mの頂上に立つと大袈裟だが宇宙の匂いさえする。
(沢野ひとし 著『人生のことはすべて山に学んだ』より)
◎紹介したい本やおもしろかった本の感想をコラムに掲載します!
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