☆ 本のたび 2025 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.2394『在野と独学の近代』

 この本の副題は「ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで」と書いてあり、それぞれに思い出の方たちばかりです。
 というのは、2017年9月5日に、エジンバラ植物園を訪ね、その標本館でシャクナゲの標本をさがしていると、そこの研究者がダーウィンの標本を持ってきて、見せてくれました。そこには、1831年から1836年にかけて、ビーグル号に乗って世界を回ったときに採取したと書いてあり、これは今も覚えているぐらい衝撃的でした。マルクスは、学生時代に左翼系の教授が課外授業として資本論の読書会に誘われて読みました。また、南方熊楠は上野の東京国立科学館で神仏分離のときの資料を見て感動しましたし、牧野富太郎は昨年のNHKの朝の連ドラ「らんまん」で取り上げられ、植物監修者に誘われて四国のロケ現場まで行き、いろいろなところを見てまわりました。
 それらを思い出しながら読むと、牧野富太郎は東京大学に所属はしていましたが、在野の植物愛好家たちと交流があり、その縁からたくさんの標本が集まってきたようです。そう考えれば、いわば大学に所属し研究をする人たちとは一線を画します。
 そういう意味では、この本のなかにあった「牧野に情熱と植物への愛があったのはまちがいなく、親切かつ正確に教えてくれることがアマチュア植物愛好家たちの信頼につながった。とはいえ、それだけでは情報の集積点となることは不可能だったろう。重要なのは、東大に所属しているという牧野の身分にほかならなかった。大学業界では、身分の低い講師にすぎなかったかもしれない。しかし、アマチュアの目からすれば、牧野は東大所属の立派な研究者で、尊敬すべき存在であった。……牧野が1927年に理学博士号をもらっている点も注目される。これに対して熊楠は「ドクトルとかプロフェッサー」といったひとたちを毛嫌いしていた。しかし、博士号という箔付けは、ときに重要なものとなる。牧野はそのことをよく理解していたのである。」ということは、私も大切なことだったと思います。
 朝の連ドラ「らんまん」のなかでも、牧野本人が私はこだわらないという台詞がありましたが、妻のスエ子さんは、大喜びだったと語っています。おそらく、これが本音で、あのシーンは、現在の小石川植物園の本館前でロケをしたそうです。
 さらに、現在は植物分類をDNA解析による系統関係の研究、つまり新分類体系であるAPGシステムが主流ですが、それでも本の名前は、「新分類 牧野日本植物図鑑」です。ただ、2017年に出版されたものでは、著者や編集は邑田仁(東京大学大学院理学系研究科教授)と米倉浩司(東北大学植物園助教)となっています。
 つまり、分類が大幅に変更されてもなお、牧野氏の名前が入っていることに驚きますが、私もアマチュアのひとりとして、名前が残っていることにいいことだと思っています。
 また、三田村鳶魚の研究のところでも、「鳶魚の側でも、「世の学者は手で書くが、俺は足で書く」と述べ、各地の旧家を訪ねては古文書を見せてもらっていた。幕末に御殿女中をしていた村山ませ子のもとに6〜7年も通って聞き取りをしたほか、元与力の原胤昭(たねあき)、元広島藩主の浅野長勲(ながこと)らにも情報を提供してもらった。江戸の話を鳶魚が聞き取りできたのは、その熱心さや知識にくわえて、武上の家系という出自によって、「仲間」とみなされたのもあるだろう。また親しくしていた古書店の吉田書店(現在の台東区台東にあった。熊楠のところにも販売書目を送っていた)を通して、写本、日記、道中記を入手した。吉田書店はこれらを、江戸からつづく古い屋敷がなくなるとき、廃品回収業者を通して集めていた。とくに関東大震災後は、旧大名家をはじめとした旧家の上蔵が壊れるなどして、多数の資料が市中に出回ったという。官学の教授たちとは、情報収集法において、とてつもない距離があったのである。」とあり、アマチュアだからこそできる資料収集法だと思いました。
 やはり、鳶魚がいうように、「世の学者は手で書くが、俺は足で書く」という気概も必要だと感じました。
 下に抜き書きしたのは、終章「アマチュア学者たちの行方」に書いてありました。
 私の知り合いにも大学などの研究機関に所属している研究者もいますし、定年退職後にフルで足まめに出かけて研究をしている人たちもいます。それでも、日本では、やはりプロの研究者でないとできないことがたくさんあります。ただ、私の場合は、プロの研究者たちと出かけることが多く、その恩恵に浴することもあり、アマチュアでいることを楽しんでいます。
 そういう意味では、しばられることは何もないので、自分が思うままに突き進むことができ、最後は自分が納得できればよれでよし、と思っています。

(2025.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
在野と独学の近代(中公新書)志村真幸中央公論新社2024年9月25日9784121028211

☆ Extract passages ☆

いまの日本では、プロの研究者とアマチュアの研究者の区別は簡単で、大学や研究所といった機関に所属しているかどうかで見分けられる。両者の区分は厳密で、アマチュアをわざわざ研究者ではなく、「研究家」と呼ぶことすらあるほどだ。周囲から「違う」と認識されているのみならず、本人のアイデンティティ的にも異なっている。両者のあいだには明確な階層の違いがあり、日本ではアマチュアの地位が極端に低いように感じる。それに対してイギリスでは、現在もアマチュア研究者たちの存在感が大きい。アマチュアが変に萎縮したり、逆に自意識が強くなりすぎたりもしていない。アマチュアとプロの垣根が低いのである。

(志村真幸 著『在野と独学の近代』より)




No.2393『風景をつくるごはん』

 この本の出版社は農文協ですが、正確には「一般社団法人 農山漁村文化協会」というそうで、今まで本の内容と出版社との関係などあまり気にも留めませんでした。それでも、この副題の「都市と農村の真に幸せな関係とは」をみると、こういう出版社だからこその本のように思えてきました。
 この本の題名の『風景をつくるごはん』という意味は、「良好な農村環境、農村社会を象徴するものとしての「風景」、消費者の意志や選択次第でそれが変化するということを表わす「つくる」という能動的な動詞、そして消費者が選ぶ対象となる野菜などの食品である「ごはん」から成っている。目的、手段、対象が入っている名前である。」といいます。
 そして、著者の今住んでいる徳島での基本ルールとして、
1.基本は徳島県内産の食材
2.選べるときはなるべく過疎地域のもの
3.できるだけ産直市で購入
4.調味料など難しい場合は四国内
5.加工品は天日干しや伝統的手法のもの
6.旅行先で買ったものはOK(むしろ積極的に)
7.それ以外は栽培過程に配慮がなされたもの
 と食べ方を明文化しています。
 著者は、イタリアとのつながりがあり、日本の農村とイタリアの農村との比較などもあり、とてもおもしろく読みました。やはり、1カ所から見て掘り下げることもいいとは思いますが、違った角度から見てみることも必要なことです。たとえば、イタリアで長ネギが替えなかったという話しをのせていますが、「産直では、土地と季節に縛りがあり、並んでいる野菜は限られている。たとえば冬には大根、白菜、水菜、ホウレンソウといった野菜しか並んでいない。そうするとおのずと、並んでいる野菜を見ながら「今日は大根をどうやって食べようか」と考えるのである。「カレーが食べたいからジヤガイモとニンジンと……」という食べ方ではなく、そこに並んでいるものからメニューを発想する。メニューの大元を決めるのは私ではなく、土地と季節である。おそらくかつての暮らしはこうだったのだろう。私たちはいつの間にか人間が食べたいもの、あるいは栄養学的に見て食べるべきものからメニューを決めることが当たり前になっていたのだとあらためて気づかされた。」と書いています。
 たしかに、私も野菜などを買いに、JAの愛菜館に行きますが、季節によってすごく種類のあるときと、生産者が違っていてもほとんど同じものしか並んでいないときがあります。むしろ、欲しいと思って立ち寄ってもないときもあり、珍しい野菜を見つけて、どのようにして食べるのかと考えさせられるときもあります。
 おそらく、農家さんたちも、なるべく違った野菜を栽培して差別化を図ろうとしているようで、行くのも楽しくなります。しかも、今の時代は、パソコンなどで簡単にレシピが手に入るので、ある意味、料理の幅が広がってきているような感もあります。
 下に抜き書きしたのは、第10章「社会のシステムを変えるための小さな行動」に書いてあったものです。
 私の若いころに見た映画には、タバコを吸うシーンはかなりありましたが、今では映画だけでなく、テレビや雑誌などでもほとんど見なくなりました。昔は、部屋がタバコの煙で充満していても、誰も文句のいう人はいなく、むしろ当たり前のような風景でした。それが今では、建物の目立たないところに設置された喫煙所で、こそこそと吸うしかないような状況です。
 おそらく、タイムマシーンで昭和前期の時代から今の時代に来ることができれば、タバコだけでなく、いろいろなものが様変わりしているはずです。急に変わったのは気づきやすいのですが、徐々に変化したものはなかなか分からないものです。ということは、いかに社会のシステムを変えるのは難しいといっても、みんなで少しずつ変えることは可能です。
 このたとえは、私にとっては目から鱗でした。変えるのが大変なことほど、これからはこのようになってほしいと強く思うなら、なんとかなりそうです。

(2025.2.7)

書名著者発行所発行日ISBN
風景をつくるごはん真田純子農文協2023年10月5日9784540231247

☆ Extract passages ☆

 すべての人の行動や価値観が変化したわけではないが、たばこをめぐる「社会の価値観」は完全に変化しているのである。その過程では、たとえば駅情内や列車での禁煙化の拡大など具体的な規制、増税など吸わないことへのインセンティブがつけられた。そのほか、人びとの意識づけとしてパッケージヘの注意書き、テレビやラジオ、雑誌等でのCMの規制などが行なわれた。特に意識づけに関する取り組みはそれぞれは効果が見えにくいものであるが、それらの積み重ねで、たばこのィメージは変わったのである。

(真田純子 著『風景をつくるごはん』より)




No.2392『マンゴーの歴史』

 この本は、『「食」の図書館』シリーズの1冊で、調べてみると、私はこのシリーズを8冊、バニラ、イチジク、ココナッツ、ベリー、豆、食用花、トマト、コーヒー、サラダの各歴史ですが、「お茶の歴史」も読んでみたいと思いました。
 しかも、写真やイラストがカラーで紹介されていて、読むだけでなく見る楽しみもあります。
 初めてマンゴーを食べのは、だいぶ昔の話しになりますが、息子たちと種までしゃぶるようにした食べた記憶があります。そして、初めてマンゴーの木を見たのはインドで、まさか街路樹にもなっていることをそのときに知りました。マンゴー園については、お釈迦さまがこのなかで説法をしたという記録もあり、知識としては知っていましたが、見るのは初めてでした。
 そういえば、ネパールの友人宅にホームスティしたときには、私がマンゴー好きだと知り、毎朝、生のマンゴーを絞ったジュースを買いに行ってくれました。当然ながら、マーケットでは、マンゴーがあれば必ず買って帰りましたが、日本で買うよりは格段に安かったことを覚えています。
 この本の最初のところにマンゴーの起源が載っていて、「6,000万年前のマンゴーの葉の化石と現代のマンゴー種の比較から、古民族植物学者らは、マンゴーの起源がインド北東部にあると結論づけている。その実が、そこからインド南部や東南アジアヘと広がったのだ。紀元前1,500年ごろの石うすや陶器、また、同時期にインド亜大陸で栄えた最古の文明、ハラッパーの遺跡で発掘された品々から、微量のマンゴーが見つかっている。マンゴーの繊維は、遺跡発掘現場で出土した人間の歯からも検出された。」ということでした。
 そういえば、マンゴーという言葉は、ケララ州の「マームカーイ」と発音することから、さらに「マーンガ」と変化し、16世紀にポルトガル人がケララ州に入植しこの果物と出会い、彼らはそれを「マンゴー」と呼んだそうです。私がケララ州にいったときは2018年9月だったので、まだマンゴーのシーズンではなく、植物園がココナッツを飲ませてもらいました。
 この本のなかで、玄奘三蔵の話もあり、「中国から訪れていた僧侶の玄奘(602〜664)は、ハルシャの時代の仏教大学ナーランダ僧院に「直射日光をさえぎる濃い木陰を居住者にもたらすマンゴーの森」があったと記している。マンゴーはインド中に生えていたと彼は言う。」とありましたが、私がナーランダ遺跡に行ったときには、その近くにはマンゴーの森はなかったようです。
 また、仏教の寓話には、マンゴーを果実や木の話しが多く、お釈迦さまもよくマンゴーの木の下で説法をしたそうです。そこで、私も岩波文庫の「ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経」中村 元訳、を読みながら、その場所を歩いたことがあります。そこには、マンゴー園もあり、いくつかの場所で写真を撮ったことがあります。
 下に抜き書きしたのは、第7章「マンゴーと比喩と意味」に書かれていたもので、ガンディーらしい比喩だと思い、ここに取り上げました。
 この他にも、「マンゴーの木はすぐには実をつけない。マンゴーのような木に何年もの世話が必要であるのに、まさに木のような存在でありながら、かくも長いあいだ教育を受けさせてもらえなかった女性に対して、いったいどれほどの思いやりある支援が必要となることか。」という言葉も残っていて、いかにインドの人たちにとってマンゴーは身近な果物だったのだと知りました。

(2025.2.3)

書名著者発行所発行日ISBN
マンゴーの歴史コンスタンス・L・カーカー/メアリー・ニューマン 著、大槻敦子 訳原書房2024年11月30日9784260057660

☆ Extract passages ☆

 マハトマ・ガンディーは人生の大半でおいしいマンゴーを楽しんでいた。みずからのメッセージを伝えるための比喩として、幾度となくマンゴーの実や木を用いている。
 マンゴーの苗を植えて2〜3日水を与えなかったらどうなるか、あるいは苗の周りに垣根を作ったらどうなるかを考えてほしい。(中略)マンゴーの木は伸びて大きくなるにつれ、低く頭を垂れる。同様に、強者も力を増すにつれて、いっそう謙虚に、いっそう敬虔になるべきだ。
(コンスタンス・L・カーカー/メアリー・ニューマン 著『マンゴーの歴史』より)




No.2391『銀座で逢ったひと』

 この本の著者と一字違いの人を知っているので、そのような縁から図書館で借りてきました。そして読んでみると、ほんとうにおもしろく、その交友の広さにもびっくりしました。
 もともと、この本は、「銀座百店」に連載された同じタイトルのエッセイ(2018年1月号から2021年3月号まで)のなかから37編を選んで加筆修正してまとめたもので、さらに「誠の人、情の人 十八代目中村勘三郎」を収録したそうです。
 そういえば、この冊子を銀座の伊東屋でもらったことがあり、ホテルで読んだこともあります。しかしその内容はほとんど覚えていませんが、無料だったことだけはしっかりと記憶しています。
 印象的だったのは、宗教にも詳しい哲学者の梅原猛さんに、著者は輪廻転生について聞いてみたことがあるそうです。そのとき、『「それは必ずあるな。人間、ぐっすり眠って目が醒めても、昨日のことを忘れてへんやろ。それと同じで、生まれ変わっても前世の記憶があるから、ピアノがだれよりも早く上達したり、絵がうまく描けたりする者がおる。いくら習ってもあかんやつは、生まれ変わりのまだ浅い人間やな」この話には深く納得がいって、天才と言われる方々を見聞きするたびに、梅原さんの熱っぽくあたたかな声音と、はにかみながらも自信に満ちた表情がなつかしく思い浮かぶ。』と書いてありました。
 おそらく、このような曖昧ことを文章にするのはなかなかできないことで、話しのなかだからこそ、気楽に答えられたのではないかと思います。
 そういえば、私の知り合いのインド人は、知識もあり高学歴でもありますが、この輪廻転生を信じています。むしろ疑ったこともないようで、だからこそ生きものを殺すことはしません。そういう意味では、輪廻転生という考え方は、やさしさでもあります。だから、私も信じているというよりは、そのように信じることで、いろいろな生きものに優しく柔軟に対処できるような気がします。
 著者は、古今亭志ん朝さんの歯切れがよく、威勢もよい江戸前落語が好きだったそうで、多くの落語ファンの方たちもいつかは親譲りの「フラ」を聴いてみたいと思っているのではないかといいます。
 この「フラとは、父志ん生のような瓢逸な芸風を指すのだろう。あるとき、志ん朝さん自身がこんなふうに言うのを聞いた。「なんであんなに、え―、とか、ん〜とか、考える間が多いの? もしかして、忘れたのを思い出してる時間なの? って、息子じゃなきゃ訊けないようなことを親父に訊いたんです。そしたら「ん〜、そりゃあね、なんだよ、え〜ほら、俺が、ん〜っていうと、お客が、なんですか? って感じで乗り出してくる。そこで一言、さっとかわす。その駆け引きがおもしれえんだよ」って言ってましたね。でも、これ若い芸人にはできません」ということです。
 そういえば、笑点という番組で、喜久蔵が志ん生のまねをするときがあり、それも芸なのかな、と思っていましたが、この話で納得しました。
 やはり、このようなひょうひょうとした話しをするには、若くてはできませんし、相当な修練を重ねないとだめだと思います。おそらく、ただ忘れたのではないかと思われるだけかもしれません。
 私も年を重ね、話しをしてくれと頼まれたときには、このような間合いの取り方ができるようになりたいと思います。
 下に抜き書きしたのは、「二代目尾上松緑さんの木札」にあったものです。
 やはり芸人というのは、いつまでたっても完成したとは思わないようで、だからこそ日々精進するのかもしれません。
 この言葉を聞いて、元気で一生懸命に修練しているときが一番いいのではないかと思いました。誰でもいつかは体力が落ち、したくてもできなくなるのが人間です。やはり、下手でも何でも、できるときを大切にしたいと思います。

(2025.1.31)

書名著者発行所発行日ISBN
銀座で逢ったひと関 容子中央公論新社2021年9月25日9784120054662

☆ Extract passages ☆

 やがてお茶が運ばれると、自ら気を取り直して私の観劇歴を訊ねてくれた。そこで『天下茶屋』『申酉』『江戸の夕映』の話をする。松緑さんがだんだん膝を乗り出してきて、「う―ん、あのころは俺もまだ若くて、元気溌剌だったからなぁ。しかし未熟だった。今ならもっと上手にできるけど、そうなると身体が利かない。うまくいかないものだねぇ」
 カラカラと快活に笑って、少しの間だけ昔に戻ったようだった。

(関 容子 著『銀座で逢ったひと』より)




No.2390『谷崎『陰翳礼讃』のデザイン』

 副題が「デザイナー谷崎潤一郎の暗さへの称賛」で、著者自身も鉱業デザイナーだそうで、デザイン事務所に勤務したりして、現在は和光大学名誉教授です。
 だからこそ、『陰翳礼讃』で取り上げられた陰影というものをデザイナーの立場からどのように見えるのかと興味がありました。
 ところが、この『陰翳礼讃』を読んだことがなく、これを機会に読んでみると、初めのところに、電気や瓦斯や水道なとの取り付けに日本座敷と調和するように句法するのがなかなか難しいという話しが出てきます。
 まさに日本家屋に西洋の設備をうまく取り入れることから、新たなデザインが生まれます。そういう意味では、おもしろそうです。
 たとえば、谷崎潤一郎が関西に引っ越した1927年ころは、電力会社と「一戸一灯契約」だったそうで、それは電球が電力会社からのレンタルで、電気の供給口は電灯用のソケット1つだけ、というものだったそうです。だから、それを各部屋に移動したり、アイロンを使う場合などはその1つのソケットにつないで使っていたそうです。このような状況だったからこそ、松下幸之助は1918年に1家で電球と電気器具を童子に使える「アタッチメントプラグ(アタチン)」をつくり、それが成功の礎になったそうです。
 そのことを、この本では、「まだ若かった松下幸之助が、成功を遂げる礎にもなった小さな器具の開発は、彼特有の技術、すでにあるものに一寸だけ機能をつけ加えて、だった。普及した電球は壊れて廃棄される。その壊れた電球のネジ部分を手にいれ、それをソケットに組み込んだ。すでに一流のメーカーが生産していた電球の捻じ込み部分の性能は約束されていたから、故障がなく、しかも格安の商品になった。アタチンは売れに売れた。この「アタチン」の延長に松下を飛躍的に有望なメーカーにした二股ソケットが生まれる。」と書いています。
 私は二股ソケットが飛躍的に売れたことが松下電機の礎だと思ってましたが、そうではなかったようで、壊れた電球のネジ部分をソケットに改良したそうで、この発想はいま考えてもすごいことです。
 もちろん、『陰翳礼讃』を書いた谷崎には、それを使うというような発想よりは、それを見せない工夫こそが大切だったのではないかと思います。まだ『陰翳礼讃』を全部は読んでいないので、これから読んで、どのように感じるかは、もし機会があれば、そのときにでも書いてみたいと思います。
 それにしても、明治時代というのは、一気に西洋文化が入ってきたことから、それを巧みに受け入れることに工夫も必要だったと思います。
 この本のなかで、「和洋折哀へのもう一つの答えは、ヨーロッパ体験を生かさなければならない、という留学生達の自負があったからだ。だが日本人が暮らせる住空間は単に模倣だけではすまないことも分かっていた。というのはヨーロツパで日本人が驚いたのは、靴を脱がずに部屋で生活することだったにちがいない。ベットに入るまで靴を履いたまま暮らすなどと想像さえしなかった。」とあり、それをうまく折衷するのにスリッパを使ったとあり、今ではどこの家庭でも使っているものが、そのような工夫から生まれたと知りました。
 下に抜き書きしたのは、第4章「カタカナで持ち帰ったモダン」に書いてありました。
 ほとんどの文章は、『陰翳礼讃』からの抜書きですが、後ろの1節が著者の説明です。さらに、金継ぎなどで新品よりも美しい茶碗を生み出し評価したとありますが、たしかにそういう一面はあると思いますが、それ以上に大切にしたいということもあったようです。
 というのは、昨年の10月4日に、静嘉堂文庫の「眼福 大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋」を観てきましたが、いかに茶入を大切にしていたかを知りました。たとえば、そのなかにあった徳川家康から伊達政宗にわたった「唐物肩衝茶入 銘 山井」には、たくさんの添え物がありました。まるで宝物を大切に保管するために、何重もの箱をつくり、貴重な布地に包んでいました。
 その展示物を観て、茶道具というのは、その故事来歴がものをいうという意味が、よくわかりました。

(2025.1.28)

書名著者発行所発行日ISBN
谷崎『陰翳礼讃』のデザイン竹原あき子緑風出版2024年11月5日9784846124113

☆ Extract passages ☆

「われわれの喜ぶ『雅致』と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子がある」と言う時、その「不潔」とは、無常の時の流れの中で日々失われてゆく人々の生活の痕跡であり、モノと人との間の親しげな「関係」の蓄積である。それこそが、即ち「陰翳」となる。まだ人の口の垢に十分に汚れていない新語は、語の相互の微妙な調和の中で、不用意に浮き立って、全体の統一感を損なってしまう。それは新鮮なだけに不安定で、生活の実際を潜り抜けて角を落としていない分、手触りが悪く、前後の語との間に軋みを生じさせるものである」(『陰騎礼讃』)。不潔とは我々の生活の痕跡、だからこそ、それは陰影となるというのは、茶碗のひびも生活の痕跡だから陰影の一つになるとも受け取れる表現だ。谷崎は、直接金継ぎに付言していないが、金継ぎなどで、新品よりも美しい茶碗を生み出し評価してきた「茶の湯」は、室町時代の富と権力を見せびらかしたい男の趣味だった。
(竹原あき子 著『谷崎『陰翳礼讃』のデザイン』より)




No.2389『クマにあったらどうするか』

 一昨年あたりから市街地にクマが出没するようになり、マスコミなどでもしばしば取り上げられましたが、特に昨年後半から、秋田県などではスーパーに立てこもったことで、殺さざるを得なくなりました。ところが、まったくクマをテディベアーと勘違いするかのような人たちが、県や市町村などに苦情電話が寄せられ、本来の業務に支障が出るほどだったそうです。
 すると、秋田県知事が、「お前の所に今(クマを)送るから住所を送れ」と言ったそうで、またネットで騒動になりました。
 この本にも書いてありましたが、本当の手負いのクマは逃げる力が残っていないので、「そうすると、生きようとしたら相手を倒すしかないんです。相手を倒してでも生きようという、その怖さをハンターの人らは知らないで、手負いでもう動かないから死んでいると安易に考えてしまう。鉄砲撃ちの場合は特に、自分の撃った弾で死んでいるという先入観があって、それがまた危険なんですよ。」といいます。だとすれば、ハンターも命がけなのですが、2018年に砂川市の要請でヒグマを駆除した猟友会会員が猟銃所持許可が取り消されました。その処分取り消しを求めてではその訴えが認められたのですが、2024年10月18日に札幌高裁で1審の判決を取り消し、請求が棄却されました。そのことから、北海道の猟友会では、もうヒグマの駆除はできないという声明を出しましたが、昨年の12月21日に、クマの人的被害が多発していることから、鳥獣保護管理法改正案として市街地でも緊急狩猟を拡大することにしたそうです。
 この本は、アイヌ民族の最後の狩人である姉崎等さんが語り、それを片山龍峯さんが聞き書きしたもので、ヒグマの話しではありますが、ツキノワグマでもにたような生態を持っているのではないかと思います。最近のクマは冬眠をしないとはいうものの、春になればまたクマの話しが出てくると思い、読むことにしました。
 そもそもこの本は、2002年4月に木楽舎から刊行されたそうで、文庫化されるときに再編集し、第1刷が2014年3月10日で、現在第17刷だそうです。ということは、かなりの反響があり、多くの人たちに読まれているようです。
 この本のなかで何度か出てきますが、人を襲ったクマは、人の弱さを知ってしまい、何度も襲うそうで、奥山に放獣してもまた人を襲うから、姉崎さんは「殺す以外にない」と言い切ります。よく、素人はかわいそうだから山に返してといいますが、この本を読んで人を襲ったクマを返すのは絶対にしてほしくないと思いました。
 ここに、この本のキモを書いてしまうのもどうかとおもうのですが、昨今のクマ騒動をみていると、せめてこのぐらいは知っておいてほしいと思い、抜書きしました。
 姉崎さんがすすめる「クマに会ったらどうするか」10ヵ条ですが、
【まず予防のために】
1. ペットボトルを歩きながら押してペコペコ嗚らす。
2. または、木を細い棒で縦に叩いて音を立てる。
【もしもクマに出会ったら】
3. 背中を見せて走って逃げない。
4. 大声を出す。
5. じっと立っているだけでもよい。その場合、身体を大きく揺り動かさない。
6. 腰を抜かしてもよいから動かない。
7. にらめっこで根くらべ。
8. 子逹れグマに出会つたら子グマを見ないで親だけを見ながら静かに後ずさり(その前に母グマからのバーンと地面を叩く警戒音に気をつけていて、もしもその音を聞いたら、その場をすみやかに立ち去る)。
9. ベルトをヘビのように揺らしたり、釣り竿をヒューヒュー音を立てるようにしたり、柴を振りまわす。
10. 柴を引きずって静かに離れる(尖った棒で突かない)。
 と書いてありました。
 このなかで興味を引いたのが、クマはヘビが嫌いだということで、この本のなかに、「タラ(※背負い縄のこと)を投げつけるのも生きたヘビを投げたような形になるから彼らは嫌うんだと思います。登別のクマ牧場の中でもそういう実験をしたことがあって、クマは跳び上がって逃げますからね。あとは特にそんなに嫌うものはないと思います。」と書いてありました。
 姉崎さんが山の中でクマが知らないで通って、そこにヘビがいたことに気づき、「ウオーッ」と怒ってバシンと何度も叩いたそうです。あの大きな足で踏みつけられたらそれだけでも死んでしまうのに、何度も叩いたというから相当怖かったのではないかと話していました。
 下に抜き書きしたのは、第4章「アイヌ民族とクマ」のなかに書いてあったものです。
 私も小さいときに負傷したカラスを飼ったことがあり、賢いことはわかりますが、そのカラスとアイヌの人たちは助け合っていたというから驚きました。私の場合はキズが治るまでということだったので、外に離しましたが、しばらくは近くの樹々の上で、学校から帰ってくるとカァーカァーと挨拶してくれていました。
 その後、自宅の屋根の上で、ホウノキの実を転がして遊んでいるのを見たこともあり、下に落ちる寸前に飛んで来て拾うと、その実を見せびらかすように近くを飛ぶこともありました。
 だから、ここに書いてあることも、すぐに納得しました。
 ちなみに、「――」の部分は片山龍峯が聞いて、そのあとの部分は姉崎さんが離したところになります。

(2025.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
クマにあったらどうするか(ちくま文庫)姉崎 等(語り手)、片山龍峯(聞き書き)筑摩書房2014年3月10日9784480431486

☆ Extract passages ☆

――山に入ってカラスが騒ぐと、クマとかシカがいると言われていますが。
 カラスが騒ぐと、クマがいるとか、獲物がいるという見方は、アイヌ民族が考えたことなんです。もともと猟をやっているから気がついたんだろうね。
――獲物をとったあと、カラスにどんなものを残すのですか。
 肺臓とかその他の人間が食べられないところがありますね。それらをカラスに平均に当たるように細かく刻んでおいて、そこらの本の伎に1切れ1切れ刺しておくんですよ。
――それは姉崎さんの先輩の人たちから聞いたんですか、それとも自然に覚えたんですか。
 それは話で聞いていました。カラスにおこぼれを与えることで、カラスも喜んで教えてくれるんだ、と。鉄砲撃ちが鉄砲を出していると、カラスは来ないのが普通なんですよ。ところがクマ猟に行くときは、カラスに銃を向けることは絶対にしないから、猟のハンターが弁当を出して食べているとカラスは鳴いて欲しがる。鳴いていると少しおこぼれを置いておく。するとカラスが後をついて歩くようになるんですよ。……
カラスは夏中ずっと、冬になるまで山にいるから、どのクマが来て、どこに穴籠りをするか知っているんです。クマは一度にさっと穴に隠れちゃうわけじゃないから、穴を掘るのに暇をかける。十日以上も暇がかかるから、カラスはそれを見てちゃんと覚えているわけですよ。そうすると、この近くにクマが隠れているって鳴くんです。
(姉崎 等(語り手)、片山龍峯(聞き書き) 著『クマにあったらどうするか』より)




No.2388『定年後が楽しくなる脳習慣』

 最近、脳についてとても興味があり、図書館から借りてきました。読んでおもしろいかどうかがわからないのは、なるべくなら図書館から借りるようにしています。というのは、途中でおもしろくなければ読まなくてもよいと思うのは、自腹を切っていないからです。
 つまり、気楽に読めるのです。ということは、性格的にケチなのかもしれません。
 よく、好きこそ物の上手なれ、といいますが、たしかに好きなことだと長続きしますし、何よりも楽しくやれることが一番です。この本のなかに、「人は「できないこと」に「嫌い」というレッテルを貼る傾向があります。実際は「できない」というのは、脳のその部分が育っていないだけのことですが、「できる」状態にもっていくよりも前に「嫌い」の一言で片づけてしまうほぅが楽なのです。しかし、それを繰り返せば世の中は嫌いなことだらけになり、伸びるはずの脳も成長をやめてしまいます。……「好き」という感情をもって臨んだことのほうがより効果的に上達します。逆に「嫌い」と感じたものへの上達がなかなかうまくいかないのは皆さんも経験されていることでしょう。学生のときも、好きな先生の授業のほうが嫌いな先生の授業よりも耳に入ってきたはずです。「好き」という感情で始めたものごとが、その後も順調に上達していくのは、脳の成長システムと深くかかわっているからなのです。」と書いてあり、当たり前のことですが、まさにその通りです。
 そもそも、やってみないことには「できる」とか「できない」ということもわかりませんし、ある程度の時間をかけてやってみないとどんなことでもわかりません。
 だとすれば、好きだと思ってやることも大切なことで、そのほうが楽しいと思います。嫌々やれば、できることでさえも、途中で挫折してしまいます。
 人って、たしかに脳で考え、脳で感じて、すべてそこが肝心かなめのところです。ある人がチェンソーで指を切ってしまったそうですが、あるとき、ないはずの指先が痛いと感じたそうです。なくなっても感じということは、おそらく、脳でそのように感じてしまったということのようです。
 もちろん、いくら痛いといわれても、ないところのものを治療はできませんから、医者にも行かなかったそうですが、しばらく経ってから痛みはなくなったそうです。この話しを聞いたときには、人というのは脳がすべてを取り仕切っているのだと思いました。
 だから著者は、「嫌い」「面倒くさい」「つまらない」などのネガティブな感情は脳にとっては有害だといいます。まさに、「負の感情で自分を攻撃すれば雪崩式に脳が劣化していくシステムが存在していると私は考えています。その代表的な例が、脳の神経細胞が死減していき、脳が萎縮し、記憶障害などを発症する認知症です。」と書いています。
 だとすれば、ネガティブな感情で生活するよりは、ポジティブな感情で毎日生活することを脳が求めているということになります。
 つまり、私が笑顔でいることがさらに笑顔になる秘訣だと多くの人たちに話していますが、そうすればさらに笑顔の輪が広がります。
 下に抜き書きしたのは、第4章「祈る力」に書いてあったものです。
 たしかに、祈るということは大切なことですが、目に見えないことを説明するのはとても難しいことです。だいぶ前に、アメリカの医学雑誌に載っていた「カリフォルニア大学医学部の心臓外科の専門医が行った研究」で、場所はサンフランシスコ総合病院の集中治療室ですが、無差別に400人の患者を2組に分け、高度な心臓の治療を行ったそうです。そこで1組の200人についてだけ、その治療が成功し、もとの健康な体に戻れるようにと、アメリカ全土から無作為に選んだ人々に1日3回のお祈りをささげてもらったそうです。そして、別な組の200人については祈らないということで、その結果も載っていました。
 それを聞いたときも、たしかに祈るということの不思議さを感じましたが、ここに抜き書きしたものもなるほどと思いました。

(2025.1.23)

書名著者発行所発行日ISBN
定年後が楽しくなる脳習慣(潮新書)加藤俊徳潮出版社2018年4月20日9784267021299

☆ Extract passages ☆

 祈りの形に目を向けると、両手を合わせて瞑目していることがほとんどです。両手を合わせることで何が起こるのでしょう。人は両手で火を使い、道具を使いこなすことで進化してきました。両手を合わせた瞬間、左脳と右脳の「両脳覚醒」が起こります。普段私たちは、体の中心を意識しません。手を合わせることで、「両脳覚醒」とともに体の正中線に意識が向けられます。脳の正中線上には、自律神経の中枢で、ホルモン産生の現場の視床下部があり、松果体や下垂体などホルモンと神経の中枢が位置しています。これだけを考えても、祈りには脳を動かす原理が隠されていると考えることは容易です。
 実際に、脳の働きを知らなくとも、両手を体の正中に合わせ目を開じるだけで、外の世界をオフにして「自己」に戻ることができます。
(加藤俊徳 著『定年後が楽しくなる脳習慣』より)




No.2387『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』

 図書館から借りてきて、この本を読むまではまったく気づかなかったのですが、読み始めてすぐに、No.2361『国道沿いで、だいじょうぶ100回』を読んだことを思い出しました。
 内容は違いながら、出てくる人たちは家族で、行動パターンもほとんど同じような感じでした。それでも、引きつけられるから、不思議なものです。しかも、ページの間に写真がはさまれているのも同じで、今回は東京駅の前で、3人で笑っている写真でした。
 その写真を撮ったのがカメラマンの幡野広志さんで、血液ガンなのに、その明るい前向きの言葉が素敵でした。幡野さんが「生牡蠣だって食中毒になるかもしれないけど、みんな食べてるでしよ?おいしいものにはリスクがあって、楽しいことにもリスクがあるんだよ」と言うと、著者は「幡野さんは楽しい方を選んでるんですね」と言います。すると幡野さんは「うん。外で好きな人に会って、好きなことして、好きな写真撮って。それで寿命が多少縮んでも、あんまり気にしないな」とガハハと豪快に笑うんです。
 わたしも、こういう生き方には大賛成で、甘いものは身体に悪いといわれても、毎日お抹茶をいただきながら和菓子を食べています。それをSNSに流すと、そんなに毎日甘いものを食べて大丈夫ですかというコメントをいただくのですが、病院で生活するような節制をして、長生きするよりも好きなものを食べて、楽しいことをして生きたいと思ってます。
 幡野さんも、病院の減菌室にいるような生活なんて、そんなの、つまらん人生ですよといいます。私もそう思います。
 著者自身、中学2年のときに父親が急性心筋梗塞で亡くなり、高校1年生のときに意識不明の重体で6時間もの大手術で一命をとりとめ、下半身の感覚をすべて失い、車イスの生活になり、2年間も入院したそうです。そんなこんなでなかなか勉強ができず、母親のことを考え関西学院大学の「社会起業学科」を志望校に選んだそうですが、模試の結果は合格確率5%以下だったそうです。
 それでもあきらめきれず、たまたま知り合いの接骨院の院長先生に英語を教えてもらうことになり、先ずは500の英文を全部暗記しろといわれました。ところが文法がまったく理解できず、また院長先生に相談すると、「わからん文法はその本で調べろ」と言われます。そして、「そんで、俺に説明できるようになれ」と言います。著者は、わたしが理解したならば、それでいいのではないかというと、先生は、「アホか。患者に説明できないけど、参考書読んだから大丈夫ですっていう医者に、手術させるか?」と言い放つのです。
 これは名言です。知識というのは他の人に説明できるようになり、理解が深まります。
 私もお茶を習っていたときには、初めのころはなぜこのような所作が必要なのか理解できなかったのですが、たまたま先生がいないときに代わりに教えたりすると、すっと理解できました。つまり、人に教えることで、わかることもあります。
 だから、この話しをみて、なるほどと思いました。そして、本をただ読んだだけでは理解できないことも、このような『本のたび』に書きとめたり、人に話したりすると、よく覚えています。だから、よく家内にも話すのですが、それも大切なことだと思います。
 そして、高校3年生の秋ころにはこの500の英文をすべて暗記し、その他の教科は漫画「ドラゴン桜」(講談社)の全巻セットを渡され、それを読んだそうで、それで志望大学の学科に合格したというからすごいと思います。
 やはり、できるとかできないとかいう前に、やってみることです。
 下に抜き書きしたのは、「奈美にできることはまだあるかい」に書いてあったものです。
 著者の4歳下の弟、良太は生まれつきダウン症という染色体の異常で知的障害もあり、いっしょに滋賀県のおごと温泉旅館に1泊したときの話しです。これを読みながら、いろいろな障がいもその人の個性だと思いました。

(2025.1.20)

書名著者発行所発行日ISBN
家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった岸田奈美小学館2020年9月28日9784093887786

☆ Extract passages ☆

良太の場合鍵付きロッカーやボタン式の水道の仕組みがわかりづらいので、ひとりで大浴場に行くのはちょっとむずかしい。
 それで、露天風呂付きの部屋にしたのだが、良太は朝も夜もずーっと、プカプカ浮いていた。海坊主のようだった。
 さらに感動したことがあった。良太は本当に、みようみまねでちゃんと生きてきたんだなと思った。
 わたしが浴衣着てるの見て、自分で浴衣を着ていた。
 わたしが懐石料理のお鍋をつくってるのを見て、自分でお鍋をつくっていた。
 経験がないことも、おそれず、挑戦する。失敗するはずかしさとかも、良太にはない。
 もっと身近なたとえをすれば。言葉が通じない国に行ったとしても、良太はうまくやっていけるんだろうな。頼もしいな。
(岸田奈美 著『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』より)




No.2386『編集を愛して』

 副題が「アンソロジストの優雅な日々」で、著者はこのアンソロジーを、「そう。詩歌集ゃ詞華集とあるように、もともとは詩歌を集めたものから始まっているようなのだ。日本で言えば、「万葉集」がそうだ。そして、「古今和歌集」も『百人一首」もアンソロジーの一つだろう。最近は少なくなったが、文学全集、教養全集、一人の作家の選集・短編集・エッセイ集のようなタイプのアンソロジーが多くの読者を獲得した時代もあった。その後、あるテーマに沿って、いろんな書き手の小説やエッセイを集めたものが、多様なジャンルで編まれるようになった。」と書いていて、その前に辞書の抜書きをしています。
 そういえば、その後に、「音楽業界の人の話だと、日本ほどコンピレーション、とりわけベストアルバムが好きな国はないという。あるアーティストのファンは折々のニューアルバムをすべて買った上にベストも購入する。それなりに好きな人は、ベストアルバムだけを買う。こうして、人気アーティストのベストアルバムはミリオンセラーになるのだ。こうしたアンソロジー好き、コンピレーション好きという傾向は、日本文化に根ざしたもののような気がしている。食文化にたとえれば、会席料理や幕の内弁当の考え方と通底しているのだ。ちょっとずついろんなものを味わいたいという欲求から始まり、それらをコンパクトに収めようとするところまで、似通っているではないか。」とも書き、なるほどと思いました。
 しかし、今や時代がかわり、音楽も好きな曲をスマホで単品買いするようになりました。あるいは、CDが出ないものもあり、スマホで聴いた曲をそのままスマホで買うことも多いようです。そうなると音楽環境もだいぶ違ってきます。
 私自身のことを考えても、昔は音楽ジャンルのベストアルバムなどをたくさん集めましたし、全集本も揃えたりしました。そういえば、学生の時、神保町に本と引き換えできるパチンコ屋があり、それで昭和45年から発酵された筑摩書房「日本文学全集 全70巻」を揃えたこともありました。
 しかし今は、置く場所のことや管理も難しいので、なるべく図書館で借りてくることにしましたが、昔は私設図書館をつくりたいというのも夢のひとつでした。
 だから、迷うことなく、この本も借りてきましたが、借りてきた後で山新の読書欄(2025年1月12日朝刊)にこの本が取り上げられていたので、びっくりしました。そういえば、昨年末に読んだ No.2379『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』齋藤美衣著、も同じ読書欄に載ってました。もともと、ベストセラーになったり、誰かが取り上げたから読むということはほとんどありません。
 さて、著者は、今まで500冊近くの本に関わってきたそうで、その本のなかには、私が読んだものも多くありました。たとえば、井上ひさし『吉里吉里人』や『ちくま文学の森』などはすぐ思い出しましたが、まだまだありそうです。
 この本のなかに、著者自身のことで、「僕は、貧乏性というか、転んでもタダでは起きないというか、せこい性格なのだ。例えば、四月の初めに通勤途上でオートバイに接触し、道路に叩きつけられた時も、とっさに思ったのは「ああ、これであの原稿書けていない言い訳ができる」だった。背骨の横突起骨折で痛みが4週間もとれなかったのだから、言い訳ぐらいでは割が合わないのだが。仕事をしていて辛くなったり、人間関係で面倒になったりしても、どこかで楽しまなければ損だと思うのだ。」とあり、そういえば、私もそうかもしれないと感じました。
 でも、そのような貧乏性も楽しんでいて、たとえばトイレットペーパーをこれだけ少なく使えば、10年ぐらい経つと木の1本分ぐらいにはなるかもしれないなどと思っています。たしかにせこいかもしれませんが、湯水のように使うことは、私にはできそうもありません。
 下に抜き書きしたのは、第4章「人を集めて何かを編む」のなかの「路上観察学への招待」に書いてあったものです。
 私もその当時の写真を見てびっくりしましたが、あの無用にも思える階段を初めて見たときの印象が書いてあり、ちょっと懐かしく思いました。
 私も写真を撮るのでよくわかりますが、同じものを見ていても、その切り取り方でだいぶ印象がかわるので、目玉の修練は大切です。でも、その目の付け所が編集でも生かされているように思います。

(2025.1.17)

書名著者発行所発行日ISBN
編集を愛して松田哲夫筑摩書房2024年10月5日9784480816948

☆ Extract passages ☆

 街を歩くのに理屈はいらない。軽やかな足どりと旺盛な好奇心があればいいのだ。
 しかし、都市というヒトやモノの洪水の中から、面白いものを探しだそうと思ったら、少しばかり日玉の鍛練が必要だ。それには、まず、なるべく沢山歩くことが一番なのだが、ただ闇雲に歩いていても、日玉が活性化するわけではない。時には、秀れた都市ウォッチャーたちの目玉の動かし方に学ぶことも必要らしい。……
 この学が対象とするのは、路上から観察できる木林羅万象。特に、その中のズレたもの、おかしなもの、不思議なものを主に探索するので、"学"というよりは街歩きが一層おいしくなる、都市の新しい遊び方とも言える。

(松田哲夫 著『編集を愛して』より)




No.2385『大観音の傾き』

 この小説は、河北新報の2024年4月7日から9月29日までの毎週日曜朝刊に連載されたものです。
 私はこの表紙の写真を見て、会津若松の大観音ではないかと思ったのですが、小説のなかに出てくるショッピングモールがそこにはないので、よく観音さまの顔を見ると違っていて、おそらくは仙台大観音ではないかと思い至りました。そこだとすぐ近くにイオン仙台中山店があるので、小説のなかに登場する地形と似通っています。
 私は何度も仙台には行っているのですが、一度もそこには行ったことがなく、先月の12月にも近くまで行き、行って見ようかと思ったのですが、仙台に住む孫の学校からの帰宅時間が迫っていたので、行くことはできませんでした。
 でも、考えてみれば、これは小説なので実在の仙台大観音とは違うはずで、河北新報によれば「仙台に実在する高さ百メートルの大観音をモチーフとした小説です。毎週日曜、読書面(「東北の文芸」面)での連載となります。樋口佳絵さんご担当の挿絵にも、ぜひご注目いただけたらと思っています。」とあり、あくまでも架空の話しということです。
 それにしても、実在の観音さまが本当にあった東日本大震災のときに傾いたという話しをその地方紙に載せていいのかと思いました。しかも、12月21日に河北新報社本社ホールで、大観音の傾きトークイベントがあったそうで、翌日の河北新報の朝刊に載っていました。そのときは、挿絵担当の樋口佳絵さんも参加され、著者の山野辺さんが作品の1部を朗読したそうです。この本には、挿絵はありませんので、機会があれば河北新報の挿絵を見てみたいと思ってます。
 もともと著者は福島県の生まれで、宮城県で育ったので、この小説に登場する地域はなじみのあるところばかりです。
 印象に残ったのは、沢井さんが、故郷の双葉の話しをしたときに、「途切れてしまった常磐線も、いずれ復旧するはず。除染も進んで、また街に人が住めるときがくるかもしれない。両親はいま郡山にいるんだけど、暮らしも落ち着いてきたから、もう戻ることはないだろうって言ってる。わたしもきっと、ここで生きていくんだろうなあ。だけど、故郷の街が少しでも復活してくれたらっていう願いもあるよ」と言い、主人公の修司は、「話を聞きながら、いつか自分も常磐線に乗って、その地を訪ねてみたいと感じていた。」と考えます。
 実は、私もこの復旧した常磐線に乗りたいと思って、昨年の10月2日に「ひたち13号」に乗ることにしました。このときは大人の休日倶楽部パスを利用して、米沢駅から仙台駅まで乗り、そこから秋田新幹線で秋田駅に行き、翌日の「いなほ8号」に乗り、新潟駅から東京駅に行き、乗る予定でした。ところが羽越本線が豪雨のために不通になり、しかたなく、いったん青森駅から東京駅まで戻り、さらに品川駅から常磐線に乗り、仙台駅までというコースに変更さぜるをえませんでした。まさに、常磐線に乗るためだけのとんでもないコース変更でした。それでも双葉付近を通るときには、私自身の知り合いもいたことがあり、そのときのテレビで見た震災の記憶が蘇りました。
 下に抜き書きしたのは、今の若者たちがなかなか異性と知り合う機会がなかったり、結婚できないという心情をとらえていると思ったフレーズです。
 そして、最後に思い切って「今度の七夕、よかったら一緒に行きませんか」と誘うと、「ほかに一緒に行く人がいるんだ」と断られてしまいます。それをきっかけにして、町外れの忘れられたようなところで、一人で暮らすことを決断します。そこでこの小説が終わってしまいます。
 小説というのは、あまり抜書きするようなところもなく、これを選びましたが、本来は読んでいただくのが一番です。
 ぜひ機会があればお読みいただければと思います。

(2025.1.14)

書名著者発行所発行日ISBN
大観音の傾き山野辺太郎中央公論新社2024年12月10日9784120058608

☆ Extract passages ☆

 誰かと親しい問柄になりたいと望みつつ、ずっとかなえられずにいた。学生時代に、いいなと思う人は何人かいたけれど、傷ついたり傷つけたりすることへの恐れもあったし、どうせ自分なんか駄目だと卑下する思いもあった。距離を縮めることができず、もしかして、と可能性の萌芽を感じたときにはむしろ自分のほうからとっさに遠ざかってしまったものだった。おのれへの自信がもてず、だから人に対して臆病になってしまう。そんな自分の弱さが身にしみて、苦しく感じる夜もある。変化を求める情念が、行き場を見いだせないまま胸の奥にくすぶっていた。
(山野辺太郎 著『大観音の傾き』より)




No.2384『tupera tupera のアイデアポケット』

 著者のtupera tuperaというのは、2人組のクリエイティブユニットだそうで、絵本だけでなく、イラストや商品の企画デザイン、さらにはテレビや演劇の仕事もしているそうで、まさにマルチな活動をしているそうです。
 この本では、本をつくるアイデアの出し方として、「中川 この本をつくるにあたって、これまでの作品を改めて振り返ってみたら、私たちのアイデアの出し方は大きく2つあるなと思いました。……中川 「コトバ」。言葉あそびやダジャレ的なもの。つくるもののタイトルなど、言葉あそびから入るものがあります。亀山 その考え方は、絵本でもたくさんあるよね。もう一つは? 中川 「カタチ」。ふつうに形を見るだけじゃなくて、ちょっと見立てる。「あれ?。これってこっちの角度から見るとこんなふうに見えない?」ということを考えたりして。亀山 なるほど。おもに「コトバ」と「カタチ」というのが僕たちのアイデアの出し方の大きなポイントです。」と「はじめに」のところで書いています。この中川と亀山というのが著者の名前で、その掛け合いのなかで話しが進みます。
 つまり「コトバ」と「カタチ」から入るということですが、これはとても参考になると思います。子どもたちと遊んでいると、どこでもできるのが「しりとり」で、著者たちも『うんこしりとり』という絵本を作っています。そこでは「こいぬのうんこ→こうしのうんこ→こどものうんこ→こうちょうのうんこ→こっそりうんこ→こおったうんこ→こいのぼりのうんこ……」と続くそうです。「こ」というのは意外とつくりやすいし、子どもたちにとっては「うんこ」のつくドリルなどがあるぐらいなじみのキーワードです。
 このような文字遊びは、車などの移動中でもなんの準備がなくてもできるので簡単ですが、「カタチ」のあるものは大きさにもよりますが、どこでもできるとは限りません。でも、この本を読むと、たとえば私も子どものころには河原で何かに似ている石を探して遊んだり、木の枝を使って、何かを見立てて遊んだ記憶があります。ただ、今は勝手に河原から石を拾うことも野山で植物を採取することもなかなかできない時代です。
 だとすれば、この本に書いてあることで遊ぶことはできます。たとえば、このなかの「仕事であそぶ」にあったものですが、それは西鉄久留米駅近くのフリースペース、久留米シティプラザという激情の1階部分だそうです。そこに「カタチの森」ということで、「亀山 丸三角四角のカタチを組み合わせて、動物や植物を表現しています。「カタチ」というのは人間のそれぞれのカタチ、関係のカタチということも意味していて。老若男女、多種多様な使い方ができるいろんなカタチがこの空間から生まれたらと。中川 この柱のように立っている三角柱が回るんですよ。そろえる面の角度に よって風景が変わります。動物型の家具もデザインしました。親子連れが食事をしたり絵本を読んだり、中高生が宿題をしにきたり、イベントに使われることもあるし、商店街の会合をすることも。地域の人たちによって、カタチの森がどんどん育っていってくれたらと思います。」と書いてあり、これからのフリースペースも誰かが企画をして作ってしまうというよりは、地域の皆が参加してみんなで作り上げるということがこれからは大切だと感じました。
 下に抜き書きしたのは、「参加が楽しくなる ワークショップ」にあったものです。
 これは、茶道のなかにもあり、お茶って強い縛りのなかで作法していると思う方も多いと思いますが、時には暑くてとか寒くてどうしようもないときがあります。そんなときには、融通無碍で流れを変えてしまうこともあります。また、昔はなかったんでしょうが、クリスマス茶会というのを何度もしていて、お菓子も「聖夜」という菓銘を使うこともあります。
 つまりは今の時代に合わせることも必要で、これからはもしかして、ハロウィンに仮装をしてお茶会をするようになるかもしれません。

(2025.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
tupera tupera のアイデアポケットtupera tuperaミシマ社2024年10月23日9784911226100

☆ Extract passages ☆

亀山 そして、キーワードから自由にイメージを広げて、ベースのトットラに色を塗ったり顔を描いたりして各自仕上げていきます。
中川 最初のくじ引きで自分がつくる方向性を勝手に決められちゃうことで、みんな迷いなくつくり始めます。自由でなんでもいいよと言われても何つくっていいかわからないですよね。適度な縛りがあるからこそ、個性が出しやすく、自分の想像を超えるものができあがります。
(tupera tupera 著『tupera tupera のアイデアポケット』より)




No.2383『インドの正体』

 おそらく、一般の人たちにとっては、インドというと思い出すのはお釈迦さまが生まれたところとか、マハトマ・ガンディーがインドの独立をしたこととかではないかと思います。あるいは、今、世界一の人口を抱える国というもあるかもしれません。また、旅行好きな人たちにとっては、インドというのは好き嫌いのはっきりと分かれる国というのもあり、私はどちらかというと好きで、5〜6回ぐらいは行ったと思います。
 そのなかでも一番印象に残っているのは、2012年12月5日から13日までのインド仏跡の旅で、これは岩波文庫から出ている『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村 元 訳、を読みながら、その足跡を追う旅でした。ときどき通訳の方をお願いし、なるべく一人で旅をしましたが、いろいろな出会いがありました。
 それ以前にもインドにネパールの友人と仏跡をまわったことがあり、もし、彼がいなければ今ここにいないというような経験もしました。だから、インドの怖さとか不思議さとかも知ってしまうと、インドを理解するのは一筋縄ではいかないと思います。そういう気持ちもあって、この本を読むことにしました。
 今でも、インド人にとってはマハトマ・ガンディーは、「インドには誇るべき思想や理念のシンボルがある。インドの政治指導者たちが、事あるごとに世界に向けて強調するのが、「ガンディーの国」というアピールだ。非暴力を実践した平和主義者であり、宗教間の融和を説いたマハトマ・ガンデイーは、インドのモラル、良心を体現する偶像として位置づけられている。1998年の核実験、中国やパキスタンに対する軍事力増強と対決姿勢、モディ政権下のヒンドウー・ナショナリズムとマイノリティ弾圧といった動きは、これとまったく矛盾するように思えるかもしれない。」ということです。
 私も行ってみて分かったのですが、「ガンディーの日」があり、毎年10月2日は国家の父マハトマ・ガンディーの生誕記念日で、休日になっていました。私はこの日に南インドにいたのですが、お店が休みなので買いものも食べることもできず困りました。その日のテレビを見ていると、今でも絶大な人気があり、モディ首相なども初代首相のネルーの宥和的な政策を否定してますが、ガンディーには限りない称賛を与えているのです。
 たしかに、世界各地で戦争や紛争が起こっている状況からみると、今こそガンディーのような平和主義者がいてほしいと思いますが、ではインドでは紛争がないのかというとそうではなく、先の抜書きのなかにもあるように、差し迫った問題もあります。
 よく、インドというと、日本人は「カースト」の国だという認識もありますが、じつは、「インドにおけるカーストは「生まれ」であり、ひとびとは長く、みずからの置かれたその「生まれ」を甘受して暮らしてきた。それはさまざまな矛盾を抱えた巨大な国のなかで、社会を安定化させる装置として、つまり社会秩序として機能してきたのではないか。だとすれば、現代のわれわれの目線からは、議会や政府の失政、あるいは不作為に映る貧困や差別が、インドの誇る民主主義制度と共存してきたとしても不思議はない。」と著者も書いていますが、私の理解では家業と深く結びついていて、それに護られているという側面もあります。
 たとえば、クリーニング屋はクリーニング屋になる、運転手は運転手になる、というように、いわば決められていることで将来の生きる術を身につけるということです。ただし、現実問題としてお金や食物などを人からもらって生活する人たちにとっては、そこから抜け出すことは非常に難しいのです。なりたい仕事につくということは、いろいろな障がいがあり、大変なことで、だからもともとなかったITなどの仕事は、そのようなしがらみがなく、誰でもなれるので人気があるのです。自分のカーストから抜け出ることもできます。ただ、結婚とかになると、憲法では禁止されていても、現実にはあると聞いたことがあります。
 だから、私の知り合いは、これではとても結婚できないと思い、国外に出たのですが、子どもが生まれると、仕方ないということで認められて帰国しました。その子どもたちも成人しましたが、今でもときどきその違いを感じることがあると話してくれたことがあります。
 下に抜き書きしたのは、第4章「インドをどこまで取り込めるか?」にあったものです。
 おそらく、最近のインドを取り上げるときに多いのがこのような話しで、特にこれからはインドを抜きにして国際関係を論ずることは難しいと思います。そういう意味では、とてもわかりにくい国ではありますが、しっかりと理解しておかなければならないと思います。

(2025.1.9)

書名著者発行所発行日ISBN
インドの正体(中公新書ラクレ)伊藤 融中央公論新社2023年4月10日9784121507938

☆ Extract passages ☆

 実際のところ、この20年ほどの世界は、全体としていえば、インドの望むような多極化に向かった。アメリカの覇権はもはや絶対的なものではなくなったが、中国がアメリカの地位に取って代わったわけでもない。かつての栄光を夢見るプーチンのロシアは、ウクライナで無謀な戦いをはじめたが、アメリカと西側世界は、これを簡単に蹴散らすことができなかった。各国の国力が拮抗し、せめぎあいがつづく世界で、どの国にとっても、インドの戦略的価値が増大した。
 これまでにインドは世界のすべての主要国、新興国と「戦略的パートナーシツプ」関係を宣言し、関係を拡大深化してきたが、いずれもインドが頼んだのではなく、各国から「言い寄られた」、という印象が強い。どの国も交渉で大幅な譲歩をしてでも、インドを引き込むことに躍起になった。
(伊藤 融 著『インドの正体』より)




No.2382『面白くて眠れなくなる理科』

 「面白くて眠れなくなる」というのは、私の興味のある理科に関してはそうでしたが、あまり関心のないことについては読んでいても眠くなることもありました。
 それでもぜんぶ読んでしまうと、なるほどという気持ちになり、このように難しいことを簡単に説明してもらうとわかりやすいと思いました。そういえば、井上ひさしの座右の銘である「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」という言葉を思い出しました。
 たとえば、今まで「溶ける」ということに関しても、なんとなくわかっているような気持ちでいましたが、「溶けること(溶解)は自然現象の中で大きな役目を果たしており、人間の生活と生産の中でも、さまざまな形で利用されています。家庭生活における「溶解」の大きな利用の一つは、食物の味つけに食塩や砂糖を使うことです。食塩や砂糖が水に溶けなければ、辛い、甘いなどの味は感じられません。漬け物に食塩を使うのは、水に溶けた食塩が微生物の繁殖や植物の組織に及ぼす微妙な働きを利用しています。また、着物や服のえりなどの汚れをベンジンでふき取るのは、からだから出る皮脂がベンジンに溶けることを利用しています。」と書いてあり、まさに溶けるということはとても大切なことだと理解できます。
 よく、地球は水の惑星、という表現がありますが、水が「非常に多くの種類の物質を溶かす性質を持っていること」だからで、そのことがすべての生命の誕生に寄与していると考えることができます。このように考えると、「溶ける」ということがいかに大切なことかということがわかります。
 どうも、私はアイスクリームが溶けるのと、生命体が誕生するのと同じレベルだとはなかなか信じられませんでした。でもよく考えてみると、溶けるということだけを考えれば、同じことです。
 この本のなかで、磁石について書いてありましたが、「磁石の「磁」は、もともとは中国で「慈」という字でした。「慈石」とよんでいたのです。「慈」は「慈しむ」という言葉通り「大切にする、いとおしむ、かわいがる」という意味です。磁石が鉄を引きつける様子を、まるで母親が子どもを抱くようにやさしくかわいがっている様子にたとえたのです。」とあり、なるほどと思いました。
 「磁」と「慈」はよく似ていますが、このような関連性があるとは思いもしませんでした。ところが、聞いてみると、なるほどというよりは、これで一生忘れることもないはずです。
 下に抜き書きしたのは、Part 2「世界はふしぎに満ちている」のなかの「人類の工夫の所産――イネ」に書いてあったものです。
 だいぶ前に、地元のJA婦人部の方々にイネの話しをしたことがありましたが、そのときのことを思い出しました。まさにイネは、品種改良の歴史でもあります。もともとは熱帯の植物ですから、寒いところは苦手なのですが、今では北海道でも栽培できるようになりました。ところが、最近の猛暑の影響などで不作が続き、これからは、もう一度暑さに強い品種を目指して品種改良をしなければならないそうです。
 このような話しを聞くと、イネも人間との関わりで右往左往しているのではないかと思ってしまいました。

(2025.1.6)

書名著者発行所発行日ISBN
面白くて眠れなくなる理科(PHP文庫)左巻健男PHP研究所2016年8月15日9784569765945

☆ Extract passages ☆

 野生のイネは自分の花粉がめしべについても受精せず、ほかのイネの花粉がめしべにつくと受精する「他家受粉」という性質を持っています。これは常にほかのイネの花粉がついて種子が雑種になるようになっているのです。
 そのほうがいろいろな性質の種子ができ、環境の変動や病害虫などが原因で一斉に死に絶えるリスクが小さくなります。つまり、どれかが生き残るという点で、野生のイネにとっては大切なことなのです。
 しかし、イネを栽培する人類にとっては、やっかいな性質といえます。なぜなら、雑多な種子ができてしまい、均一な性質の種子ではなくなるからです。
 長い栽培の歴史の中で、この性質は完全になくなり、花が咲くとすぐに自分の花粉がめしべにつく「自家受粉」をして受精し、種子ができるようになりました。
 そのため、すべてが同じ性質を持つイネになり栽培しやすくなりましたが、そのぶん環境の変動や病害虫などに弱くなったともいえるのです。
(左巻健男 著『面白くて眠れなくなる理科』より)




No.2381『人生のことはすべて山に学んだ』

 私も高校生のころは山岳部だったので、毎週のように山に登っていました。そして登る時間がとれなくなってからは、ビーパルなどを読んで、野外生活の楽しさなどを知識として味わっていました。
 これらの本は、自宅を改築したときに大量に処分してしまい、ほとんど残っていませんが、今でも椎名誠さんの本に書かれたイラストなどを思い出します。どちらかというとほのぼのとして、ヘタウマの絵が多かったようです。
 また、似たような題名の本で、ロバート・フルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」などもありますが、いろいろな場所で学ぶこともできますし、自分の好きなところで学ぶということも大切なことです。
 この本は、もともとは海竜社から2015年11月に刊行された単行本「人生のことはすべて山に学んだ 沢野ひとしの特選日本の名山50」を改題し、加筆修正して文庫化したものです。生まれは1944年ですから、私より5歳ほど上ですが、「文庫本あとがき」で「さてこの十年ほど山から下りて里のあたりをぶらぶら歩いている。設備の良くなったテント場で、息子や孫たちと、2、3日滞在している。滞在中、山里の歴史を聞いたり本で調べたりすると、これまで知らなかった土地の文化に驚く。長野県は満州開拓団が多かったことを知り、その碑も各地にある。若い頃は山の頂上にしか興味がなく、クライミングに夢中になっていた。だが歳を取ると、しだいに山の麓のことを知りたくなってくる。」と書いています。
 また、私のような歳になってくると、「山のコラム9」のなかに書いてあった「山で事故が起こるのは、登りより下る時のほうが比べられないほど多い。体が萎えてくる頃の転落事故が後をたたない。山では最後の平らな道へ下りてくるまで油断しないことだ。……下りで膝が震えだしたら、ストックが役に立つ。カーボン素材を使った軽量モデルがたくさん出ているが、中高年登山者にとっては必携品と言えよう。さらに膝のサポーターも強い味方になる。この2つであと10年先まで山でがんばれるはず。」とあり、私ももう少しはがんばれそうと思いました。
 そういえば、昨年の7月に大雪山の旭岳の麓を歩きましたが、もしやと思い持っていった膝サポーターが、とても役立ちました。これはだいぶ前に整形外科に受診したときにもらったもので、たしかに膝が痛くなったときには有効です。もともと小さいので、リックに入れて行っても邪魔にはなりません。
 そのときも感じたのですが、著者も「山登りの良いところは、 へとへとになっても一歩前に進めば、いつかかならず頂上が現れることだ。誰に対しても裏切ることなく達成感を山は与えてくれる。杖をついて登ってきた年輩者のザックを見知らぬ人がいたわるようにして下ろしている。小屋付近からの眺望は、どっしりと雪を被った富士山や南アルプス、大菩薩峠に奥秩父、奥多摩とまるで山々が「見てください」と自慢げに連なっている。」書いていますが、たしかに一歩一歩で風景が変わり、お花畑を進んでいると、自然と歩けます。
 ただ気を付けなければならないのが、宿に着いてから痛みが出てくることです。だから、最近はなるべく長距離は歩かず、時間も早めに下山するようにしています。そして、もしもう少し先に行きたければ、翌日に体力の回復を待って行くようにしています。やはり、絶対に無理はしないことです。
 下に抜き書きしたのは、第5章「宝物が隠されている山」にあった言葉で、たしかにそうだと思いました。
 私は、最近は一人旅をする機会が多くなり、それもなるべくなら電車に乗ってみたいと思うようになりました。電車だと勝手に目的地に運んでもらえるし、その土地の人たちが乗ってくると方言なども聞くことができます。駅弁を食べる楽しみもあります。風景を眺めながら本を読むこともできます。
 一人旅は、誰にも邪魔されずに自分の時間を持つことができます。
 ますます、限りある時間を、有効に大切に使いたいと思ってます。

(2025.1.3)

書名著者発行所発行日ISBN
人生のことはすべて山に学んだ(角川文庫)沢野ひとしKADOKAWA2015年7月25日9784041092064

☆ Extract passages ☆

 都会の喧噪と騒音に慣れた者にとって山は沈黙の世界だ。山に入るとその静けさに耳を傾ける。鳥のさえずり、林を抜ける風の音、植物の匂い、岩のざらつきと、五感が鋭くなってくる。とりわけ一人の時は、自然の持っている緊張と穏やかさが刻々に増大していく
 バス停を下りて歩きだすと林の匂い、水の匂い、針葉樹の松の匂い、やがて森林地帯を越えると、硫黄や鉱物、さらに3000mの頂上に立つと大袈裟だが宇宙の匂いさえする。
(沢野ひとし 著『人生のことはすべて山に学んだ』より)




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