☆ 本のたび 2024 ☆



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
 また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。もちろん、今でも、自分用のカードは手書きですし、それが何万枚とあり、最高の宝ものです。
 なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。



No.2335『自動車の社会的費用』

 何気なく図書館で手に取ったのですが、この本は第1刷が1974年6月20日で、2020年12月15日に改版され、第46刷になったそうです。ということは、50年も読み継がれてきた本ですから、もしかするとおもしろいかもと思い借りてきました。
 序章などは、あまりにも昔の話しで、今ではピンとこないところもありますが、依然として解決されていない問題もあり、興味を持って読みました。たとえば、自動車の普及と道路網の整備について、「現在、乗用車とトラックとを合わせて一億台を超える自動車が走り回り、全労働者の30%がなんらかのかたちで自動車と関連した産業に雇用され、都市面積の20%以上が道路と駐車場に使われていると推定される。人々の移動のうち、じつに85%が自動車によっておこなわれている。その結果、自動車の所有を前提しないかぎり、アメリカの社会で生活することはきわめて困難になってきている。」と書いています。
 この本が出たときにもすでにアメリカなどではこのような状態でしたから、今では考えられないこともあります。昔はアメリカでは家庭に何台も車があると言われていたのが、今の日本では成人のほとんどが運転免許証を持ち、1台ずつ持っているような生活をしています。特に地方では、その状態が顕著で、もし免許証を返却したら日常生活に支障をきたすとさえいわれています。
 そして、この本を読んでいて、学生のころに学んだケインズの『雇用,利子および貨幣の一般理論』や経済政策論などを思い出し、今でも日銀の金融政策で使われている、景気が悪くなったときはあえて利子率を下げ、新たな事業に投資するよう促して景気をよくするなどの考え方です。そのケインズ的な一般理論で、自動車の社会的費用を算出しようとしたのがこの本です。
 そういえば、私は大学で社会会計を専攻しましたが、それはこのような自動車の社会的費用を算出しようとするときには、とても有用な考え方です。卒論もたしかそのようなもので、担当教授が退官されたときに、その卒論が送り返されてきましたが、それまでは教授室で誰でも見ることができるようになっていたそうです。
 もし、このような自動車通行の社会的費用を内部化するということは、「ここに定義された社会的費用を自動車通行者が適当な方法によってすべて負担するときに実現される。すなわち、自動車通行は市民の基本的権利を侵害しないようなときにのみはじめて許され、しかも、そのような道路建設なり交通安全施設の整備・維持費がすべて自動車通行者によって負担されているときにはじめて、自動車通行にかんして社会的費用が内部化された」ということになります。
 しかし、それが困民全体の理解がえられるかといえば、少し無理があります。
 著者がいう市民の基本的権利を侵害しないような道路というのは、「まず、歩道と車道とが完全に分離され、しかも並木その他の手段によって、排気ガス、騒音などが歩行者に直接に被害を与えないように配慮される必要がある。また、歩行者の横断のためには、現在日本の都市で作られているような歩道橋ではなく、むしろ車道を低くするなりして、歩行者に過度の負担をかけないような構造とし、さらに、センターゾーンを作ったりして、交通事故発生の確率をできるだけ低くする配慮をすることが要請される。と同時に、住宅など街路に沿った建物との間にもまた十分な間隔をもうけ、住宅環境を破壊しないような措置を請じなければならない。」としています。
 たしかに、このような道路ができればそれにこしたことはないのでしょうが、行政が硬直化すると、山の中のほとんど人が歩かないところにも歩道を作ったりしてしまいます。やはり一筋縄ではいかないのが現実です。
 最近、日本でも少しずつ取り入れられてきた環状交差点(ラウンドアバウト)というのは、信号機がなくてもいいので、非常に合理的な方法です。これは、交差点の中央に円形の中央島のようなものがあり、一時停止の交通規制などにも頼らず、進入した車両は環状の道路を右回りで走行し、目的の方向へ出ていくというやり方です。これだと、電気が止まってもスムーズに動けますし、一時停止もないので時間的なロスもありません。ただ、私も海外で運転したときに、ある程度の慣れが必要ですから、交通量の少ないところから実行するといいようです。
 下に抜き書きしたのは、第U章「日本における自動車」に書いてあったものです。
 この横断歩道橋というのは、初めて見たときには混み合う道路を横断するよりは安全だと思っていましたが、いわれてみれば、これぐらい歩行者に無理を強いるものはありません。最近は、年を重ねて足腰が弱ってきたから特に思います。そういえば、中国の大都会に行くと、横断歩道橋にもエレベーターがあり、とても便利でしたが、今は日本でも駅などを中心に設置するところが増えてきています。
 ただ、著者がいうように、歩くところをまっすぐにし、車道を地下をもぐるようにするという発想は、今のゲリラ豪雨の時代にはそこに汚水がたまり通れなくなるばかりか、エンストの原因にもなり、交通障害になってしまいます。
 そういう意味では、新しい時代の「自動車の社会的費用」というのが考えられてもいいように思いました。

(2024.8.24)

書名著者発行所発行日ISBN
自動車の社会的費用(岩波新書)宇沢弘文岩波書店1974年6月20日9784004110477

☆ Extract passages ☆

 この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設計がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。あの長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋を渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さとをおもい、このような人々が日本の道路の設計をし、管理をしていることをおもい、一種の恐怖感すらもつのである。
(宇沢弘文 著『自動車の社会的費用』より)




No.2334『エイジング革命』

 エイジングにはあまり興味がなかったのですが、副題に「250歳まで人が生きる日」とあり、たしかに100歳はあまり珍しくもなくなってきましたが、250歳というのは意外でした。
 そこですぐに、長生きできればいいとは思えないものの、そんなことが実際に起きるとも思えないままにこの本を読みました。
 テレビや新聞などでは、敬老の日近くなると、長生きしている老人に、長生きの秘訣はなんですかなどと質問をしますが、その答えは、「くよくよしない」とか「適度な運動をする」とかなどで、秘訣というほどのものでもないようです。
 しかし、この本には、「P85」と書いてあり、「若いままで歳月を過ごしていける」とさえ、言います。
 ただ、私などは、アンチエイジングというと、抗加齢と思い、年に抗ってまで生きるということが潔いとは思えないんです。年齢というのは、自然に歳を重ねた結果であり、人は必ず死んでしまいます。それが運命だとさえ思います。
 ただ、この本のなかで、アメリカで「アルトス・ラボ(Altos Labs,Inc.)」というベンチャー企業が起業したときに、「2021年秋の起業時には30億ドル、すなわち日本円にして約4500億円もの資金が集まりました。通常のベンチャーであれば、スタートアップに集まる資金は数千万円レベルといわれます。特に有望視されるベンチャーでも、数億円にとどまります。しかしアルトス・ラボには、途方もない資金が集まったのです。」と書いてありました。
 この企業は若返りをテーマにしたライフサイエンス企業ですから、いつの時代も、超富裕層にとって「若返り」は、大金をつぎ込んでも叶えたい願望のようです。
 さらに、この「アルトス・ラボ」の上級科学アドバイザーに、2022年の1月に日本の山中伸弥教授が就任し、そのときに、「近年、細胞をプログラミングして若返らせることが科学的に実現できるようになってきており、全く新しい病気の治療法開発につながる可能性がある」と話したというから、いかに注目されているかわかります。
 ということで、私も読んで見たくなりました。
 では、そもそも老化というのはどのようなものかと問われれば、ほとんどの人が成長段階から時の流れによって変化する現象と思っていますが、アメリカ国立老化研究所(NIA/National Institute on Aging)の定義によれば、「老化は「動的変化」です。動的な変化とは、時間の経過と共に起きる生理的、神経的、行動的、社会的な変化のことです。ですから赤ちゃんとしてこの世に生を享けてから起こる変化、それは一定の歳月までは「成長」ですが、成長段階を超えると基本的に「老化」となる。つまり私たちは、日々動的な変化をしている、老いつつある存在だということです。」と書いてあるそうです。
 言葉にすれば、同じようなものですが、その変化を前もって科学すれば、治療できると考えることもありえます。
 だとすれば、老化も自分でコントロールできると考えてもいいわけで、この本を最後まで読むと、まさに夢物語みたいな話しになります。
 たとえば、その1つは、「すでに何らかのタンパク質が老化スィッチに影響を与ぇていることはわかってきており、具体的な候補物質もいくつか見つかっています。いずれ研究が進めば、たとえば20 代や30代の段階で、"老化スイッチ・タンパク質"の状態を自らチェックできるようになるかもしれません。そればかりか、20代のまま変わることなく、その後30年も40年も生きていく未来さえ可能になるでしょう。」と書いてあり、もし興味があれば、自分でこの本を読んでみてください。
 下に抜き書きしたのは、第3章「老化を見える化する科学」に書いてあったマウスの実験からみた孤独も老化の要因になるという話しです。
 たしかに、ストレスにさらされ続けると長生きできないという話しも聞きます。しかし、まったくストレスがないというのも困ったもので、人と交われば必ずソーシャルストレスは受けます。でも、人は社会的な生き物である以上は、仕方のないことです。
 そういう意味では、このマウスの飼育も参考になるものではないかと思い、ここに掲載させてもらいました。

(2024.8.20)

書名著者発行所発行日ISBN
エイジング革命(朝日新書)早野元詞朝日新聞出版2024年5月30日9784022952660

☆ Extract passages ☆

 単独で過ごす。すなわち孤独も、脳内ストレスの一要因となります。
 人によって程度は異なりますが、孤独のもたらす悪影響は、マウスレベルの実験で明らかにされています。……仲間のマウスと一緒に飼育されている場合と、生まれたときから一匹で飼育されたマウスでは、明らかに寿命が異なります。孤独なマウスは、短命なのです。その理由は、脳の神経機能の低下です。脳の神経細胞は、他者との交わりによって活性化されます。その交わりが失われると、活性化しなくなる。すなわち機能自体が低下し、全身のホルモン制御機能にも悪影響が生じてくる。ひいては免疫機能も弱り、感染症にも罹りやすくなる。そして長く生きることなく、死に至るのです。
(早野元詞 著『エイジング革命』より)




No.2333『壊れても仏像』

 今回は旧盆ということもあり、この『壊れても仏像』を選びました。副題は「文化財修復のはなし」で、著者は、東北芸術工科大学を卒業し、財団法人美術院国宝修復所や吉備文化財修復所に勤務した経験もあり、この副題になったようです。
 たしかに、今までたくさんの仏像を拝んだりしましたが、なかには頭部だけだったり、それも壊れていたりしても、大切にされてきたことがわかります。たとえば、国宝の興福寺の「銅造仏頭」ですが、天武天皇の御代ですから白鳳時代です。しかも、応永年間にお堂とともに被災し、現東金堂の本尊の台座におさめられていたそうで、日の目を見たのが昭和12(1937)年のことです。つまり、それまでは忘れられていたことになります。私は2013年の東京藝大美術館で開催された「興福寺創建1300年記念 国宝 興福寺仏頭展」で見たのですが、大きさも1m近くあり、後方から見ると大きく破損していました。
 つまり、この本の『壊れても仏像』ということで、それも興味を持った理由のひとつです。
 この本のなかに、「仏像が時を越えていくのは、その仏像を残していきたいという人の想いの故であり、古い像はそれだけ人の想いが長く切れずに続いた結晶のようなものなのだ。途中で想いが切れてしまったり途絶えてしまえば、残念ではあるが、その仏像は壊れても修理されずに捨てられたり燃やされたりして、消えていくのが運命だ。」とあり、仏像はやはりそれを信仰する人たちの想いとともに残ってきたと私も思います。
 だからこそ、時代の重みというか、それが広い意味での文化だとも思います。
 そういう意味では、その想いを形として残そうとする仏像の修復作業は、たしかに地味かもしれませんが、とても意義のある大切な仕事だと思いました。
 また、ときどきニュースにもなりますが、仏像のなかにお経やその仏像がどのような経緯で造られたのかなどという記録が見つかることがあります。私も、ネパールや中国奥地を旅したときに、仏具などをバザールで見つけることがあり、たとえばブータンでは手でまわすマニ車のなかにお経が書いた紙が入っていて、それを1回まわすと1回読んだと同じ功徳があると言われてますが、それと同じかと思っていたのですが、日本の場合は少し違うようです。
 この本には、「仏像は多くの場合、木材が割れないようにするための空洞を内側に彫り込む。これを内刳りというが、その空洞に入るものだったら、何であっても中に入れることが可能なのだ。……仏像の中に仏像が入っていたり、経文や仏舎利(釈尊の骨とされているもの、実際には水晶など、宝石類が多い)の他、かなり個人的なもの――たとえば髪の毛や歯などが入っていた例もある。そして、これら仏像の体の中に入っているものを「胎内納入品」という。こういった納入品は、仏像を造るときにいっしょに入れるわけで、一度入れてしまえば取り出すことは不可能。」だと書いてあり、いわば仏像は「日本版タイムカプセル」だといいます。
 もし、どうしても取り出したければ、仏像自体を壊すか壊れるのを気長に待つしかないとも書いてます。だから、タイムカプセルだという発想になるようです。
 ただ、問題は、その納入された品にはっきりと年号などが書いてあればわかりやすいのですが、それがいつの修理のときなどかがわからなければ、むしろ混乱しそうです。むしろ、一度も修理されていない仏像のなかから納入されたものが見つかれば、まさに宝物になりそうです。
 下に抜き書きしたのは、「仏像のお医者さん」の「29 仏像に積もる魔法の粉――大切なホコリの話」に載っていました。
 仏像は身近に感じてはいても、仏像を修理したり補修したりすることは、なかなかそれに触れる機会もありません。ただ、せっかくの古色あるお姿をこんなにきれいにしては有難みが少なくなると感じたことはあります。また、東南アジアのミャンマーなどに行くと、ピカピカな仏像や、電飾が施されたお堂もあり、なぜか手を合わせるのにも抵抗を感じます。
 しかし、このホコリの話を読み、なるほどと思いました。おそらく、ほとんどの人がこの話しのようなことを聞いたことはないと思うので、ここに掲載させていただきました。もし、興味のある方は、ぜひ、お読みください。

(2024.8.17)

書名著者発行所発行日ISBN
壊れても仏像飯泉太子宗白水社2009年5月20日9784560031995

☆ Extract passages ☆

 修理で新しく造った箇所や修理した場所は、そのままだと違和感があるために、絵の具や漆、木の粉など、それはもういろいろな素材を使って、古い部材の色や質感になじませる。これを、「色合わせ」とか「古色」というのだが、この色合わせ作業の一番最後に、パラパラッと隠し味にホコリを振りかけると……あら不思議、古い部材と雰囲気がよくなじむのだ。うまくいけば、どこを新しく造ったのか、ちょっと見ただけでは見分けがつかないほどになる。
 ホコリは、料理でいえばコショウや塩みたいなものだ。あくまでもホコリを使う前の色合いや質感を、ある程度のレベルまで合わせておかなくては、ホコリを使っても意味がない。だが、絵の具を使ってどれだけ古い筒所に色を近つけても、最後にホコリを一振りするかしないかでは、出来映えが一味も二味も違ってくる。
(飯泉太子宗 著『壊れても仏像』より)




No.2332『別冊 NHK 100分 de 名著 宗教とは何か』

 旧盆だからというわけでもないのですが、このNHKの「100分 de 名著」シリーズは読みやすいこともあり、見つけるとよく読みます。
 表紙裏のこのシリーズをみて、意外と読んでなかったものもあるという印象です。印象に残っているのも、この本を読むと、やはり多角的な視点がおもしろいと改めて思いました。
 この本では、4冊の本が取りあげられていて、第1章「人間と宗教のメカニズム」では、フェスティンガーほか『予言がはずれるとき』を釈徹宗氏が読み説き、第2章「信仰に生きるということ」では、『ニコライの日記』を最相葉月氏が、そして第3章「絶対的な「信ずる心」と戦争の時代」では、陸軍軍人の杉本五郎著『大義』を片山杜秀氏が読み説きます。そして第4章「神はどこにいるのか」では、遠藤周作氏の『深い河』を中島岳志氏が読み込んでいます。
 それぞれにおもしろかったのですが、私が学生時代のときに御茶ノ水駅を使っていたこともあり、ニコライ堂はよく知っています。そこで、確認の意味もあり、グーグルで調べてみると、現在は「東京復活大聖堂」となっていて、ニコライ会館も同じ敷地内にあります。ニコライ堂というのは、この堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼び方で、正しくは「日本ハリストス正教会教団 東京復活大聖堂」というそうです。
 このニコライ、本名はイワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンというそうですが、初めて日本に来たのは1861年25歳のときだったそうです。この本によれば、「ニコライが訪日することになった直接的なきつかけは、1855(安政3)年に日露和親条約が結ばれ、函館にロシア領事館が設置されたことでした。領事館付き司祭の役職の募集があり、これに手を挙げ採用されたのです。他にも何人かの候補者がいましたが、 ニコライは唯一の独身者だったため、身軽に伝道活動ができると考えられたようです。また、……すでに人格者として周囲からの評価も高かったことが、採用を強く後押ししたのではないでしようか。」と書いてあり、この日記については、「彼の日記から伝わってくるのは、高潔な聖人の姿″だけ"ではありません。時には愚痴も漏らせば、怒りの感情も抱く一人の人間でもありました。」と書いてあり、まさに自分の本心を書き連ねたもののようです。
 だからこそ、ニコライのことだけでなく、その当時の日本人やその生活などが子細にわかるようです。
 ただ、彼の立場としては、日露戦争のときなどは、日本という国に強く関わろうとすればするほど誤解なども生じ、日本人の信者たちも苦難をしいられたようです。それでも、ロシア正教会を守り抜いたようです。ただ、今現在は、ロシアとウクライナの戦争をめぐり、立場としては難しくなっているようです。そして、現在の日本正教会の府主教であるダニエル主代郁夫氏は、ロシアのモスクワ総主教庁に属する自治教会という立場を守り、独立はしないそうです。
 また、興味を持ったのは第4章の「神はどこにいるのか」で、イギリスの人類学者、ティム・インゴルドの「輸送と散歩」という話しです。
 つまり、散歩は「目的があるわけではなく、ただ歩くこと自体を味わう。そのなかで、たとえば「花が咲いている、きれいだな」と気づくことがあるでしょう。これが世界に対する「応答(response)」だと言うのです。そうして世界に応答し続けることこそが、真剣に生きることであり、生きていることの責任(responsibility)を果たすことでもある。それに対して、周りの風景を見もしない「輸送」的な人生は、世界に応答してもいなければ、責任も果たしていないと言うのです。」と書いてありました。
 じつは、高校生のときに、部活が山岳部で、私が部長だったときに、置高連というスポーツ大会に参加したとき、何時間で登ったとかテントの張り方とか、いろいろと記録を付けて競うわけです。しかし、登山というのは、同じスポーツでも優劣を付けられる競技ではないとして、ゆっくりと周りの景色や高山植物を見たりして登りました。結果は、当然ながら下位でしたが、部活の先生には嫌みを言われましたが、私としては満足でした。
 この話しを読んで、このときのことを思い出しましたが、今でも部員のみんなを巻き込んだのは良かったのか悪かったのかはわかりませんが、自分では納得していました。
 下に抜き書きしたのは、第1章「人間と宗教のメカニズム」のなかの『考察「信じること」について 「成熟した宗教的人格」とは何か』に書いてありました。
 現在大きな問題になっている新興宗教や昔からの神社仏閣においても、今の価値観からすれば差別的だったり、マイノリティの抑圧につながりかねないものがあれば、そのまま認められない時代です。やはり、社会や家庭においても価値観のすりあわせが必要で、古くからの宗教団体でも必要なことです。
 そういえば、少し前の話になりますが、部落問題がクローズアップされたときに、差別的な戒名が問題になったことがありますが、それも同じです。
 これからは、むしろ宗教団体こそが率先して成熟した宗教的人格を目指すという視点が必要になってくると、私は思いました。

(2024.8.13)

書名著者発行所発行日ISBN
別冊 NHK 100分 de 名著 宗教とは何か釈 徹宗 他著NHK出版2024年7月30日9784144073151

☆ Extract passages ☆

 仏教における「信じる」の原語は、「アディムクティ」「シュラッダー」などです。これは「身も心も納得している」といった意味です。ですから、「信解」と翻訳されたりもします。俗に言う「イワシの頭も信心から(どんなものでも、信じればありがたいものになり、強い力になる)」というのは、少なくとも仏教では信仰・信心とは言えないわけです。きちんと教えを受け取って、納得し腑に落ちた状態が、信じている姿だと考えます。
 しかし、その血肉化した信仰・信心もまた、常に揺らぎ続けているものなのです。
(釈 徹宗 他著『別冊 NHK 100分 de 名著 宗教とは何か』より)




No.2331『凱旋』

 パラリンピックのパリ大会は、2024年8月28日から9月8日までの12日間にわたり、世界中から4,400人もの選手たちが集まり開催されます。前回の東京大会のときも、特にパラリンピックでは、さまざまな障がいを抱えながら必死にプレーする姿に感動しました。
 そのまかでも記憶に残るのが、東京パラリンピックの日本代表選手団の主将を務めた国枝慎悟選手37歳でした。彼は男子シングルスで、2008年の北京、2012年のロンドンに次ぐ、2大会ぶりの3度目のシングルス金メダルを獲得しました。もちろん、それだけではなく、グランドスラム優勝32回、年間グランドスラム5回などの結果を出し、座右の銘は「俺は最強だ!」だそうです。しかしながら、2023年1月22日に引退を表明しましたが、その後に続くのが、この本の著者、小田凱人選手です。
 名前の「凱人(ときと)」というのは、父親が「ときと」という名前を先に考え、後からパリの凱旋門の「凱」という漢字を当てたのだそうです。自分も気に入っているといい、辞書で調べてみると、「戦に勝った時の喜びの声」や「やわらぐ」「楽しみ」「なごやか」「おだやか」などの意味もあるそうです。彼は、1月29日付のITF男子車いすテニス世界ランキングで堂々の1位です。この本の副題も「9歳で癌になった僕が17歳で世界一になるまでの話」です。
 著者は、9歳で癌になり足が不自由になるまで、サッカー選手になりたくて、毎日トレーニングをしていたそうです。しかし、病気になり、それを諦めざるを得なくなってとき、意外と早く車いすテニスのプレーヤーになることを考え、そしてトレーニングを始めたそうです。もちろん、本には書けない様々な苦悩があったのではないかと想像しますが、著者は、「病気にかかることはネガティブに思われがちだが、決して良くないことだけではないと僕は思っている。重い病気にかかり、それを克服したことで、僕の中での価値観が変わった。車いすテニスは障がい者が楽しむスポーツだ。健常者にはできない。僕はそこに価値を感じている。難病にかかりながらもそれを克服し、車いすテニスの頂点に立った僕のことを「悲劇のヒーロー」として取り上げられることも少なくない。でも僕自身は、自分のことを「悲劇のヒーロー」だと思ったことはただの一度もない。なぜかと言うと、病気になったことを悲劇だとは捉えていないからだ。むしろ、「車いすテニスプレイヤーになるための良い転機になった」としか思っていない。誤解を恐れずに言うと、「9歳で病気にかかってラッキーだった」とさえ思っている。」と書いています。
 まさに、「9歳で病気にかかってラッキーだった」というのが本音だとすれば、それはすごいことだと思います。おそらく、ほとんどの人が、先々のことを考え、悲嘆に暮れると思いますが、そういう意味でも、彼のようにすべてを前向きに考える人がいということは、生きる励みになると思います。
 病気になってよかったというのは、生涯を掛けて挑む目標が生まれたからだと思いますが、それをすぐに実行することも、見習うべきことです。
 著者は、CHAPTER:6の「憧れの存在から託された車いすテニス界」のなかで、「子どもの頃の僕は「ヒーローになりたい」という願望を持っていた。特に好きだったのは仮面ライダーだ。ライダーのように子どもの目の色を変えられるような人になりたいと本気で思っている。僕はプロ転向宣言時の記者会見で、「病気と戦っている子どもたちのヒーロー的な存在になりたい」と発言した。その気持ちはずっと不変のものだ。ただ病気の人のためだけのヒーローになるつもりはない。悩んでいたり、困難に直面したりしている人は、病気の人だけではないからだ。僕のプレーや言動で、多くの人を勇気づけたいと考えているし、それがプロ車いすテニスプレイヤーとしての僕の役割だ。僕は誰からも憧れてもらえるみんなのヒーローになりたいといつも思っている。」と書いていますが、本気でヒーローになろうとしています。
 もし、このパラリンピックパリ大会で金メダルをとれば、まさにヒーローです。誰も夢見るヒーローをとやかくいうことはできません。しかも、パラリンピックのパリ大会で車いすテニスの男子シングルスで金メダルをとれば、パラリンピックロンドン大会で国枝慎吾選手が28歳でとったのと10歳も若くしてとるということになります。まさにヒーローで、その結果が楽しみです。
 下に抜き書きしたのは、CHAPTER:2「突然の病魔。入院中に知った車いすテニスの魅力」書いてあったものです。
 このあとに、「入院生活すら楽しんじゃえ」とあり、この明るさが前向きの考え方を支えているような気がしました。おそらく、大きな病気を抱えると、もうそれだけで気が滅入ってしまい、すべてが悪いほうに考えてしまいます。それでは、病気の思うつぼです。
 私が入院したときも、これを早く治して、どこへ行こうかと計画を立てたりしました。治るとか治らないと考えるより、必ず治ると思って、いろいろなことを考えると、なんとかなるものです。もちろん、できなくなることもあるはずですが、そんなことを考えるよりは、これからできることだけを考えたほうが明るい未来につながります。
 彼の下の文章を読んで、そのときのことを思い出しました。

(2024.8.10)

書名著者発行所発行日ISBN
凱旋小田凱人ぴあ2024年6月30日9784835646954

☆ Extract passages ☆

 松葉杖を使えば歩けるし、足がなくなったわけでもない。同じ病気で足を切断してしまった人もいることを考えれば、自分はまだ良い方ではないか。そんなことをぐるぐると頭の中で考えていた。
 確かにサッカーができなくなることは残念だけど、それを良くないことにするかどうかは自分次第。「できなくなってしまった」といつまでも落ち込んでいるよりは、「できることを見つけよう」と前を向いたほうがよっぽどいい。
 もちろん、すぐに前向きになれたわけではない。葛藤の末、現実を受け人れ、その中で自分自身を良い方向へ導く術を見つけ出していった。
(小田凱人 著『凱旋』より)




No.2330『コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語』

 コーヒーは好きですが、この真夏の暑い盛りに、「ホッと」温まることもないのですが、たまたま図書館から借りていた本を読み終わり、本棚の前に積んでいたなかにこの本がありました。
 これも何かの縁と思い読み始めると、暑い中でもさらっと読むことができ、心も温まりました。
 たとえば、赤信号みんなで渡ればこわくない、というコントがありますが、悪いことだと思いながら、みんなもやっていることだしと言い訳をしながらしてしまうことがあります。しかし、不正は不正だし、みんながやっているからという理由は、やはりダメです。昨今のスキャンダルの多くは、気の緩みによるちょっとした行動からすべてを失ってしまうことを示しています。
 この本では、「イギリスには「プリンシプル」という言葉があります。「原理」「原則」「根本」「主義」「信条」などの意味を持つ単語ですが、英国紳士がもっとも重視する考え方なのだとか。意訳すれば「不正をせず、筋を通す」でしょうか。」とあり、たとえイギリス紳士でなくても、「プリンシプル」を心がけることは大切だと思います。
   そういえば、今現在、フランスのパリでオリンピックが開催されていて、2024年7月26日から8月11日までの日程です。
 この本にも2018年の平昌冬季オリンピックの話しが載っていて、いい話しだと思いました。それは、ボブスレー男子2人乗りの決勝戦のことですが、カナダとドイツのチームの2回の合計タイムが3分16秒86と、100分の1秒まで同じタイムだったそうです。そこでこの2つのチームに金メダルを授与しました。それが掲示板に記録が出た瞬間、「4人は敵味方なく抱き合い、お互いの金メダルを喜び合ったのです。感想を聞かれたときのカナダ選手の言葉が特によかった。「同タイムの金メダルは素晴らしい。だって、自分と同じ幸せな人間が、もう2人増えるんだから!」と答えたそうです。しかも、この4人は、長年のライバルであるだけでなく、友人同士だったそうで、いくらスポーツの世界は勝負の世界だといっても、これがオリンピツクの素晴らしさです。
 つい、パリオリンピックの映像を観ていて、この話しを思い出しました。
 下に抜き書きしたのは、『ブラックコーヒーと楽しむ「目が覚める、少しほろ苦い話し」』にあった話しで、なるほどと思いました。
 つまり、要は考え方次第だということです。私は幸せだと思うと、幸せになれるし、私はいつもいいことばかりあると思えば、いいことだけが記憶に残るということです。
 これって、とてもお手軽だし、とても簡単なことですが、とても意義のある効果だと思います。この「スコトーマ」というのは、「盲点」という意味で、この機能がないと脳を使いすぎてしまうのが人間なのだそうです。つまり、入ってくる情報のすべてを認識しないように遮断してくれる機能で、使いすぎると、死んでしまうこともあるそうですから、やはりほどほどが大切です。
 じつは、私も「自己充足的予言」も「スコトーマ」という言葉も知りませんでしたが、いつもこのように考えていたことは事実です。

(2024.8.7)

書名著者発行所発行日ISBN
コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語(PHP文庫)西沢泰生PHP研究所2018年10月15日9784569768588

☆ Extract passages ☆

「さあ、今日もいい1日になるぞ!」
 これ、「自己充足的予言」と呼ばれるもので、脳科学的にその効果が認められている方法。
 つまり、「さあ、今日もいい1日になるぞ!」って、口に出して宣言することで、脳にそのイメージを植えつける。
 その結果、何が起こるかというと、その日、脳は勝手に、「いい出来事」だけを認識して、「悪い出来事」を「スコトーマ」によって遮断する、という実に都合のいい状態になるのです。
 悪いことが起こっても、右から左へ受け流し、いいことが起こったときは、「ほらね。やっばりいいことが起こった」って思える。
(西沢泰生 著『コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語』より)




No.2329『植物園へようこそ』

 私も植物園には興味があり、この本にも出てくる植物園協会に属する研究者との繋がりもあり、楽しく読ませていただきました。
 もちろん、研究をするためには押し葉にした標本も大切で、私もインドや中国などの世界の標本館を見せてもらったことがありますが、やはりイギリスのキューガーデンの標本館が素晴らしかったです。そこで、100〜200年前に採取された標本を見せてもらうと、時代の感覚がマヒしそうになります。そして、名のあるプラントハンターの採取したものを見ると、その息づかいさえ感じられるほどです。
 それと、各国の植物園のつながりで標本の交換などがあり、思いがけない標本に出合うこともあります。たとえば、スリランカのパラデニアの標本館で、ジョージ・ワットが東インドで1881年から82年にかけて採取したシャクナゲの「マッデニー(R.maddeni)」の標本を見つけたときには、びっくりしました。まさか、ここで出合うとは思ってもいなかったからです。おそらく、これはイギリスのどこかの標本館と交換したのかもしれないと思うと、その出逢いも不思議な縁です。
 このように押し葉にした標本も大切ですが、それと同じように、生きたままの植物も大事です。この本には、この生きたままの植物を保つということの意義を、「研究のためのリソースを多く収集することにとどまりません。それぞれ異なる環境に適応して異なる生育特性をもつ植物を栽培管理している植物園には、必然的に植物栽培のノウハウが多く蓄積することになり、これによって、多様な植物の栽培や、天然での生育条件に関する情報を集約することが可能になります。このような情報は、たとえば絶減危惧種となっている植物の保全の現場で、どうすれば植物が枯死することなく定着するか、繁殖が成功するにはどのような手助けが必要かといった手立てを考える際に、大いに役立つのです。」と書いてありました。
 私は趣味家ですから、やはり生の植物が相手で、それを如何に生かすかが大切です。そのためには、その植物が育っている環境を見ることが役に立ちますが、年を重ねてくると、高山に登ることができなくなります。そのときこそ、植物園です。ここに行けば、ほとんどの植物を居ながらにして見ることができます。
 ただ、それでもなかなか見ることができない植物もあり、たとえばショクダイオオコンニャクの花もそうです。昨年の12月に小石川植物園で咲きましたが、たまたま担当者から連絡があり、咲く直前の姿を見ることができました。しかし、国立科学博物館の筑波実験植物園では、5月19日と27日に咲いたそうで、しかも受粉し結実もしたそうです。
 そのときのことを、この本には、「ショクダイオオコンニャクは、同じ個体では受精しません。今回は、偶然にも2個体が5月19日と27日に連続して花を咲かせたので、花粉を採取して人工授粉させ ることができました。花は夜に咲くので、授粉も夜の作業で、強烈な腐敗臭が充満する中でおこないます。6月中旬には実ができ始めたことが確認できました。徐々に実は大きく成長していき、11月上旬には先端の果実から赤く柔らかくなり、熟してきました。実は全部で736個もできていました。大きいものでは4センチもあります。柔らかく熟した実から種子を取り出してまいたところ、12月12日に芽が出てきました。こうして発芽能力のある種子であることが確認でき、次世代へといのちをつなぐことに成功しました。ショクダイオオコンニャクが結実し、種子が得られたのは日本では初めてのことでした。」と書いてます。
 私が小石川植物園で見たのは12月6〜7日でしたから、同じころに芽が出たことが確認されたようで、種子が採れれば、さらに増やすことができるので、近いうちに全国の植物園でもショクダイオオコンニャクの花を見ることができるかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第7章の「植物園を未来につなぐ」の最後に書かれていた「植物園のこれから」です。
 これを読むと、今までの植物園よりも環境に対する新たな取り組みも大切になってきているようです。特に、人間の活動による開発や環境汚染など、さらには地球温暖化による影響などもあり、絶滅危惧種が増えてきたようです。
 そういえば、今年の山形県内のサクランボ生産は、昨年の高温や水不足などの影響もあり、さらには5〜6月の高温障害により双果や腐れなどが多発したそうです。今までは山形の環境がサクランボの生産に最適だったので全国一になれたのだそうで、これからはもっと北の涼しいところが適地になるかもしれないということです。だとすれば、米なども同じで、今までは耐寒性を備えた品種改良が主流だったのに、これからは耐暑性のある品種改良になるのではないかと思います。

(2024.8.3)

書名著者発行所発行日ISBN
植物園へようこそ(岩波科学ライブラリー)国立科学博物館 筑波実験植物園岩波書店2024年5月15日9784000297264

☆ Extract passages ☆

 植物園は、葉草(ハーブ)を栽培し維持・利用する資源を維持管理する実用的な場として生まれましたが、後にガーデニングなどの生活に安らぎやうるおいを与える場所として発展してきました。さらに、社会全体の多様化やインクルーシブ重視によって、多くの人が楽しめ、学べる場所としてのはたらきが備わってきたのです。これらの機能は現在でも変わることがありませんが、今日ではさらに生物多様性の重要性を学ぶ場所としての機能が求められています。
 一方、ヒトの存在によって、環境に大きな変化がもたらされています。人間の活動による開発や環境汚染に始まり、ヒトの移動にともなって自然にはありえなかった生物の移動が生じるなど、地球が46億年で経験したことのない変化がもたらされています。……絶減危惧植物を守るばかりでなく、すでに絶減してしまった植物の記録をとどめ、人類全体の記憶として後代に伝えることも、これからの植物園に課せられる機能なのかもしれません。
(国立科学博物館 筑波実験植物園 編著『植物園へようこそ』より)




No.2328『風の中に立て――伊集院静のことば――』

 伊集院 静が亡くなったのは2023年11月24日で、例大祭も終えた比較的静かになったときのことで、今でもはっきりと覚えています。あの風貌ですから、まさか73歳でと思ったのですが、この本にも「人は寿命で、この世を去るのである」と書いてあり、ならば仕方ないと思いました。
 というのも、これは「大人の流儀 名言集」ですが、このシリーズは何冊も読んでいて、スパッと言い切るので納得しやすいのです。この本の初出は、『週刊現代』2009年7月18日から2023年12月16日号で、そのなかから抜粋、修正したものだそうです。
 ということは、亡くなられてからも出ていたということですから、その間際まで書いていたということです。
 たとえば、この本の最後の「さよならも力を与えてくれるものだ」という文のなかで、「人の出逢いは、逢えば必ず別離を迎える。それが私たちの″生"である。生きていることがどんなに素晴らしいことかを、さよならが教えてくれることがある。」と書いてあり、どこで聞いた「さよならだけが人生さ」というのを思い出しました。
 そういえば、今月初めに北海道の旭岳付近の高山植物を見に行きましたが、植物だけでなく、人との出逢いも、自分から出かけなければそもそもないに等しいものです。この本には、「歩くことは何かに出逢うことである。ひとつ所にじっとしていて何かがむこうからやって来ることなど決っしてない。葡萄の実のひとつにしても、手を差しのべていなければ、たわわに実った葡萄の房は手の中に落ちて来ない。歩くことはまた、よく考えることができる時間でもある。私が若い人たちに、旅に出なさい、と言うのは、旅をすればさまざまなことに出逢えるからである。たしかにスマホをかざせば、遠い国での出来事に日の前で接しているように思えるが、それは画面の中でうごめくただの情報でしかない。人間のぬくもりや、嘆き、怒り、歓喜、失望というものは、自分の目で、五感で捉 えねば、喜怒哀楽の底にあるものが見えない。」とあります。
 よく「百聞は一見に如かず」とかいいますが、そのような格言を知ってはいても、最近は特にスマホで検索をしたり、画像を確認しただけで見たような気分になってしまいがちです。しかし、それはまったく違います。
 だから、昔はノートパソコンを持って旅をしましたが、それはそれで巡礼のときには便利でしたが、最近は宿の確保や道案内などはスマホでも間に合いますし、それすら邪魔になることもあります。
 つまり新鮮な出逢いというか、感動が少なくなるような気さえします。
 さらに、この文章のあとに、「私が言う、旅に出よ、ということには必須の条件がある。それは一人、独りで行くことである。……それは自分というものを見つめる時間を得るということだ。」と書いてあります。
 この北海道の旅は、一昨年前に同じところを一人で回ったところなので、今回はまさに道案内をするような気持ちを連れ合いといっしょの二人旅でした。これもまた、新たな出逢いがあり、新たな発見もありました。
 つまり、出かけさえすれば新たな発見があると思います。
 そうそう、スマホやパソコンのことですが、AIも便利ですが、最後は自分自身の五感で判断するようにしています。だから、こういう本も丁寧に読み、いいところは抜き書きしたり、さらにどこがどのようによかったのかを書きだしています。
 そうすると、読みっぱなしよりは印象に残りますし、何かをきっかけにして思い出しもします。
 このような『本のたび』も、ほかの人の役に立つとは思いませんが、少なくとも、自分にとっては大切なことです。だから、これからも、ずっと続けていきたいと思っています。
 下に抜き書きしたのは、第6章の「理不尽なことに出逢ったら」に書いてありました。
 これは、著者が同級生の一人に、あいつのオヤジは人を殺したという噂話を聞き、それを母親にその話しをしたときに、下のように言われたそうです。この話しを読み、いかに子どものときの教育が大切なのかを、改めて感じました。まさに、一生の宝物になります。
 人の嫌がる話しをするのは、私もそうですが、気持ちのいいものではありません。だから、マスコミのゴシップ記事もまったく関心がありませんし、週刊誌も読んだことがありません。だいぶ前にある医院に行った時に、手持ち無沙汰で待合室にあったのを読んだことがありますが、まったくおもしろくもなく、それ以来、待ち時間があるようなときには、読みたい本を絶対に忘れずに持って行くことにしています。

(2024.7.31)

書名著者発行所発行日ISBN
風の中に立て――伊集院静のことば――伊集院 静講談社2024年3月11日9784065353741

☆ Extract passages ☆

「よく覚えておくのよ。誰かを悲しませる嫌な話や、噂話があったら、あなたの胸で皆止めるの。この先ずっとそうして下さい」
 以来私は、他人の噂話はいっさいしない。雑誌の中傷記事も読まない。
 その類いのことに徹して来たら、普段どんなに人柄の良い人であっても、噂話をしている時の彼等の顔がなんとも醜いとわかった。
 数十年過ぎて、本を読んでいたら、
『流言は、智者に止(とど)まる』(荀子)の一行を見た。
―なるほど昔からこういう考えがあったのか、と感心した。
(伊集院 静 著『風の中に立て――伊集院静のことば――』より)




No.2327『新・世界から戦争がなくならない本当の理由』

 今現在も戦争状態にあるところもあり、第二次世界大戦後も世界のどこかで戦争が起こっていました。もちろん、ニュースなどで知る限りですが、それ意外にも報道で取りあげられない争いごともあったのではないかと思います。
 この本を読んで、改めて戦争が続いてあったことを知り、愕然としました。まさに、なぜ、戦争はなくならせないのだろうかと思いました。
 考えて見れば、ソ連がウクライナに侵攻したときに、こんなにも長く戦争が続くとは思っていなかったと思います。そして、ときどき核兵器を使うに躊躇しないと発言するなど、まさに泥沼化しています。もし核兵器が使われれば、世界が滅びるといわれ続けていますが、一番いいのはお互いに核兵器を放棄すればいいのです。しかし、それができなくて、現実はまさに「恐怖の均衡」というやり方です。この本では、「双方が相手に破滅的な損害を与えられるほどの核兵器を持つと、攻撃すれば自分たちも滅びてしまうので、お互いに相手国ヘミサイルを撃ち込むことができない。その「恐怖の均衡」保つ仕組みのことを、「相互確証破壊」と言います。 一方が核兵器を使えば、最終的に双方が核兵器によって完全に破壊し合うことをお互いに確認するのです。この相互確証破壊が成立すれば、理論上、その二国間で戦争は起きません。しかし、これほど恐ろしいバランスもないでしょう。ちなみに「相互確証破壊」は英語で「Mutual Assured Destruction」。その頭文字は「MAD」となります。「狂気」です。まさに狂気をはらんだ危うい戦争回避方法と言わぎるを得ません。何らかの形で相手の核攻撃を無力化することができれば、あっという間にその均衡が崩れて核戦争になる可能性が生じてしまうのです。」とあり、たしかに砂上の楼閣のようなもろさをはらんでいます。
 だからこそ、そのことを発言し、相手に脅しをかけるのです。
 やはり、このようなことが続けば、戦争がなくなるということはあり得なくなります。また、自分の国や親兄弟が敵国に殺されたとすれば、その怒りはいつまでも心の奥底に残ってしまいます。
 私もイスラエルの歴史についてはっきりとはわからなかったのですが、「紀元前10世紀頃には、エルサレムを中心とするユダヤ人国家のイスラエル王国が繁栄していました。しかしこの王国は、周辺国の侵略によって減亡し、神殿も破壊されます。その後、ユダヤ人はエルサレムに神殿を再建しますが、ローマ帝国によって減ぼされ、ユダヤ人たちはエルサレムから追放されます。4世紀になると、エルサレムはローマ帝国が公認したキリスト教の聖地となりましたが、7世紀になるとイスラム帝国が進出。この時点で、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの宗教の聖地となりました。11世紀には十字軍が攻め込んで、エルサレム王国というキリスト教国家をつくりますが、12世紀後半には再びイスラム勢力がエルサレムを奪い返しました。それ以降、パレスチナの地は基本的にイスラムの勢力圏となります。16世紀にはオスマン帝国の支配下に入りました。現在も残るエルサレム旧市街を囲む城壁は、大半がオスマン帝国時代に築かれたものです。それが大きく転換したのは、20世紀に入ってからのこと。第一次世界大戦がきっかけです。」とあり、紀元前からの長い話しになり、しかもいろいろな国が征服を繰り返したようです。
 つまり、そこにはいつも戦争があり、多くの人たちの命が失われてきた歴史でもあります。
 つまり、まさに戦争の歴史でもあり、この流れを見ただけでも、世界から戦争がなくならないのではないかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第1章「なぜ世界から戦争がなくならないのか」に書いてあった「アフガニスタンど過ちを繰り返す大国たち」の話しです。
 これを読んで、改めて、アフガニスタンで長い間人道支援に携わってきた医師の中村哲さんのすごさがよくわかります。2019年12月4日、東部ナンガルハル州で銃撃され亡くなられましたが、なぜという思いが今もあります。
 それでも、中村医師の遺志を継ぎ、現在も新たな用水路などの活動に取り組んでいる人たちがいるそうです。そういう活動を、なぜ、世界の大国が支援をしないのか不思議です。戦車や弾薬などを使うより、安上がりだしみんなにも喜ばれます。
 そして、世界中の人々がそういう気持ちになれば、戦争など起きないと私は思います。

(2024.7.28)

書名著者発行所発行日ISBN
新・世界から戦争がなくならない本当の理由(祥伝社新書)池上 彰祥伝社2024年3月10日9784396116972

☆ Extract passages ☆

1842年には、そのイギリス・インド連合軍がアフガニスタン兵の襲撃を受け、1万6000人が全滅するという大事件が起きます。たったひとりだけが命を助けられ、「おまえは生かしてやるから、部隊が全滅したことを本国に伝えろ」と釈放されたという逸話も残っているぐらいですから、完全にアフガニスタンに弄ばれたような状態だったのでしょう。これに懲りて、イギリスでは「アフガニスタンには手を出すな」と言われるようになったのです。
 しかし、その教訓が他国には共有されていません。先ほど紹介したとおり、20世紀終盤には、まずソ連がアフガニスタンに手を出し、痛い目に遭いました。ソ連という国が崩壊するきっかけのひとつにもなったのですから、きわめて深刻なダメージです。
 さらにアメリカも、イギリスとソ連の失敗に学ぼうとはしませんでした。9・11のテロの報復のために、彼らもまたアフガニスタンに介入し、失敗してしまったのです。そこには、もうアフガニスタンに手を出したくなかったはずのイギリスも巻き込まれました。うっかり介入したばかりに、軍隊を引き揚げたくても引き揚げられない泥沼になり、多数の兵士が死んでいく悲惨な状態になってしまったのです。
(岡倉登志 著『新・世界から戦争がなくならない本当の理由』より)




No.2326『なぜ、クリエイティブな人はメンタルが強いのか?』

 この本の題名の『なぜ、クリエイティブな人はメンタルが強いのか?』というのは、考えなくてもクリエイティブなことをしている人はメンタルも強いと私は思っていました。だから、なぜ「?」がついているのか不思議でした。
 たとえば、私もよく笑顔でいることが幸せを呼び込む最良のことだと話しますが、まさか山形大学医学部で「40歳以上の日本人1万7152人を対象にした研究(通称「山形スタディ」)で、その答えが明らかになりました。この研究では、声に出して笑う頻度(週1回以上、月1回以上/週1回未満、月1回未満)に応じて、参加者を3群に分け、6年間、追跡調査しました。6年間の追跡調査期間中に、257人が亡くなったのですが、分析すると、週1回以上、声に出して笑う人に対して、月1回未満の人は、死亡リスクが約2倍であることがわかりました。また、声に出して笑う回数が多い人は、喫煙率が低く、アルコール摂取量が少なく、運動の機会が多いことも明らかになりました。つまり、声に出して笑うことは他の健康行動にも関連する可能性があるということです。」という研究をしているとは知りませんでした。
 よく、つくり笑いでさえも、同じような効果があるといわれています。だとすれば、笑うことは何にも増して幸せを呼び込むためには大切だとわかります。「笑う門には福来る」といいますが、つまりはつねに笑顔を心がけるから福がやって来るということで、今も昔もかわらないと思っています。
 また、疲れたときには自然のなかに身を置くといいというのも、よくいわれます。この本でも、自然とつながっていたいという人間の本能的な欲求を「バイオフィリア」という概念で説明していますが、人は自然環境のなかにどっぷりと浸かってみたいという気持ちがどこかにあります。
 この本の第5章「ウェルビーイング」のなかに、「アメリカのカンザス大学心理学部の研究者らは、56人の成人(平均28歳)を対象に、自然環境の中にいるとクリエイティビティが向上するか、実験を行いました。実験の参加者は4日間、アメリカの大自然の中でデジタル機器を一切使わずに過ごすように指示されました。参加者は2つのグループに分けられ、1つのグループは、大自然で過ごす前に、クリエイティビティを測定するテスト(3つの単語から連想される1単語を回答する遠隔連想テスト)を受け、もう1つのグループは、大自然での4日目の朝に同じテストを受けました。つまり、大自然で過ごすことによる影響が出る前と後を比べました。クリエイティビティのテストスコアを分析した結果、大自然での4日目の朝にテストを受けたグループのほうが、大自然で過ごす前にテストを受けたグループよりも、クリエイティビティのスコアが50%も高いことが明らかになりました。」といいます。
 そして、ときどき自然環境のなかに身を置くということよりも、自然環境のなかにどっぷり浸かった状態、つまり4日目の朝のクリエイティビティのスコアがよかったという事実です。
 やはり、人というのは、アフリカの大自然のなかから生まれたようですから、そのような中にときどき身を置きながら考えるということが必要なようです。しかも、そこは大型動物もいるわけですから、メンタルも強くなければ生き残れません。そこにさまざまな工夫が必要で、デジタル機器も使えません。
 しかし、今は、本当の大自然のなかで暮らすことは無理です。でも、つくり笑いと同じように、つくられたような大自然だとしても、それなりの効果が期待できるのではないかと、私は期待しています。
 下に抜き書きしたのは、第1章「メンタル・リソースの充実@ ポジティブ感情編」に書いてありました。
 私は昔から「案ずるより産むが易し」という考えですが、このようなデータを読むと、さらにそのように思いました。
 たしかに不安材料をなくすことも大切ですが、将来のことですから、いくらなくそうとしてもなくならないものです。だとしたら、最後はポジティブに考えて、最初から取り越し苦労はしないことです。
 でも、なんとなくというよりは、このように見える化することは大事ですね。

(2024.7.25)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ、クリエイティブな人はメンタルが強いのか?板生研一クロスメディア・パブリッシング2023年8月11日9784295408659

☆ Extract passages ☆

 アメリカの認知行動療法の専門家であるロバート・L・リーヒ博士の研究によると、アメリカ人の約38%の人が、毎日のように不安を感じているようですが、リーヒ博士は実験の参加者に、何が心配なのか、そして、この先何が起こると思っているかについて、2週間、頭に浮かんだことを記録してもらいました。
 そして、記録してもらった心配事と実際に起きたことを分析した結果、心配事の85%に対して、実際には「良いこと」が起き、さらには、悪いことが起きた残りの15%の場合でも、そのうちの79%は、予想よりも良い結果につながっていることが明らかになりました。これらを計算すると、実に、97%の心配事は取り越し苦労だったのです。
(板生研一 著『なぜ、クリエイティブな人はメンタルが強いのか?』より)




No.2325『何もなくて豊かな島』

 6月30日から北海道を旅行したときに持って行った1冊です。やはり、旅行には文庫本や新書版が軽くてどこでも読めるのでいいのですが、今回はフェリーに乗り、車での移動なのであまり重さや大きさは気にならないのですが、やはり、いつものクセでついついこのような本を選びました。いつ買い求めたかさえ記憶にはありませんでした。
 しかし、No.2320『大雪山のお花畑が語ること』とは違い、いつ読んでもいいので、ときどき開いては読むものの、旅行中には読み終えませんでした。それで、今ごろになったのです。
 この本の副題は「南海の小島カオハガンに暮らす」で、どこの国にあるのか、小島といってもどのぐらい小さな島なのかもわからず読み始めましたが、表紙の写真を見ただけで読んで見ようと思いました。しかも、この小島をまるごと買ってしまったということから話しが始まるので、フェリーに乗りながら読むのには最適でした。
 この本の題名は『何もなくて豊かな島』ですが、このなかにあるジョークが載っていて、「太平洋の小島に金持ちがヨットでやって来た。島民が「お金があっていいなあ」と言うと、金持ちは「冗談じゃない。私は一生懸命働いて、お金を貯め、やっと休暇をとって南の島にやってきたのだ。あんたたちは初めからここに住んでいるじゃないか」というものです。
 たしかに便利なものに囲まれて暮らすのもいいですが、そのためにあくせく稼がなくてはならないのでは大変です。だいぶ前にブータンに行ったことがありますが、ある古老に「幸せですか?」と聞いたことがありますが、その返答は「昔は一生懸命働いて生活を守ってきましたが、今はのんびりと祈ることができるので幸せだ」ということでした。
 つまり、彼らは祈る時間がたっぷりあることが幸せなことで、そういえば、祈るときのマニ車は、水で動く水車のようなものから、風で動く風車のようなものまであり、まさに祈りの世界に浸っているように感じました。
 人間の幸福の尺度をこの本で紹介してますが、「欲望が分母で、その人の持っている物、財産が分子だ」というと、分母が大きくなりすぎるとたくさんの物に囲まれてしまうということで、そのために死に物狂いで働かなければならないということになります。このカオハガンでは、少ないもので暮らしているので、物を増やすことをしなくても幸せだということになります。たとえば、毎日の食事でも、「食事の時、どこの家をのぞいてみても、だいたい同じようなものを食べている。聞いてみると「ティノア」と「イノンウナン」と呼ばれる二種類のおかずだそうだ。「ティノア」は汁の多いスープ、「イノンウナン」は汁の少ないスープという言い方をする。作り方はシンプルだ。まずティノア。捕ってきた魚介類を鍋に入れる。トマトとタマネギを少量、島で採れる野菜カムンガイをたくさん入れる。カムンガイは直径1センチほどの丸い木の葉だが、島では野菜に分類されている。つまみ菜のような味がする。まだ青いパパイヤの実、かぼちゃや苦瓜を加えることもある。たっぷりと水を入れ、煮る。味付けは、塩と多めの酢、そしてグリーンのとうがらし。酢ととうがらしのハーモニーがこのスープの特徴だ。タマリンドの木の実をいれると、独特の甘酸っぱさが加わる。イノンウナンの中身は魚のみ。酢、塩、醤油で味をつけ、椰子油を加える。日本の煮物より多めの水で煮る。」と書いてあります。
 そういえば、私がホームスティしていたネパールの家でも、ほぼ毎日、同じものを三度三度食べていました。そこで、毎日同じものを食べて飽きないですか、と聞くと、これほどおいしいものを毎日食べられるなんて幸せだといいます。ある意味、外のものを食べたことがないので、それが食事だと思っている節もありますが、それで幸せなら他の国の人がとやかく言う筋もありません。
 これなどは、今の日本人も考える必要がありそうです。世界の各地から食料を買い集め、飢餓で苦しんでいる人たちを尻目に、飽食の限りを尽くしているのが今の日本人です。北海道のホテルに泊まったときに、ほとんどがバイキング形式の食事でしたが、あの品数を見たら、カオハガンやネパールの人たちはびっくりしてしまい、何を食べていいのか迷うはずです。そして、この残ったものはどのようになるのか、心配するはずです。
 そのようなことを考えながら、この本を読み終わりました。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「北東の季節風「アミハン」が吹き始める」に書いてあつたもので、これが島の生活のようです。
 つまり、島では、「必ず、今、しなければならない」ということは考えないので、人の出会いも自然の流れに任せながら、なんとなく1日が過ぎていくというものだそうです。
 そして、明日があるからと考え、穏やかに時間が過ぎていくようで、まさに『何もなくて豊かな島』です。ただ、心配だったのは、この本が単行本として出版されたのが1995年ですから、それからの世界の変化を考えると、今もそのままなのか心配にはなります。
 たとえば、新型コロナのときとか、地球の温暖化で海面上昇がなかったのかとか、そうそう気楽なことだけではないのです。しかも、自分たちの努力だけではいかんともしがたいことなので、知らず知らずのうちに巻き込まれてしまいます。
 この本を読んで、このカオハガンの今を知りたくなりました。

(2024.7.22)

書名著者発行所発行日ISBN
何もなくて豊かな島(新潮文庫)崎山克彦新潮社1998年11月1日9784101372211

☆ Extract passages ☆

 自然に身をゆだねると、良い時が過ぎて行く。先のことなど考えず、今のこの時を生きて行くのだ。
「何と単調な、意味のない生活なんだ」と思われるかも知れない。しかし、島には島の時間が流れ、島特有の文化があるのだ。
 都会では、時間に追われて仕事をし、食事をし、金を貯め、時間に追われて旅をしがちだ。しかしカオハガンはちがう。自然を押し退けて、物の「量」を求める文化でなく、自然に身をゆだねて、時間の「質」を楽しんでいるのだ。
(崎山克彦 著『何もなくて豊かな島』より)




No.2324『岡倉天心『茶の本』の世界』

 岡倉天心のことはある程度知っていると思っていましたが、この本を読むと、意外と知らなかったということがわかりました。
 しかも、この本の著者は、岡倉天心の曾孫であり、近現代の国際関係史を専門としているそうで、ある意味では最適な入門書のようです。たまたま見つけたのですが、それも何かの縁ではないかと思いました。
 また、ここには曾孫だからこそ知り得る話しも載っていて、たとえば、「では、岡倉家における茶の湯とはどのようなものだったのか。『茶の本』岩波文庫版で弟の由三郎は、翻訳の経緯や天心と茶の湯(あえて「茶道」とせず)のこぼれ話を語っている。今で言えば中学一年で茶の湯(大江戸千家の石塚師の稽古)に行き、「いたずら盛りの小せがれ、かく申す自分も、ちょこなんとお相伴して、窮屈な茶室にしびれを切らせながら、結構な御ふくあいなどと、こまっちゃくれた挨拶を無意識に口にしていた」という。筆者は5歳頃、五浦の天心墓地の前にあった「茶室」で、九月に松の幹・枝越しの月見という風流な「茶会」を天心の愛娘(当時は70歳代)と両親ともったが、「茶より羊羹」であった。」ということなどは、私もお茶をしていて、孫にもまねごとをさせたことがあり、このようなことだったのではないかと少し反省しました。
 それと、今年は辰年で、この本のなかに、「西洋のドラゴンと異なり、東洋の龍は恵みの雨をもたらすため、雷神と同様に敬われ、雨乞いと言えば仏教の八大龍王や十大龍王が想起される。中国では北宋の徽宗が1110年に青龍、赤龍、黄龍、自龍、黒龍を五方向の守り神とし、尊貴な神として祀ったという。日本にも神代から、雨を降らせる巫女かそれに準じる者が存在したが、万葉の時代から は歌の力もあった。小野小町や源実朝は雨乞いとともに、洪水から守るためにも歌を詠んだ。実朝は「時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」と詠んでいる。」とあり、たしかに今年は沖縄の梅雨では例年の何倍もの雨量を記録したそうで、これからの季節、雨が多くなるのか少ないのか、それも大きな問題になりそうです。
 そういえば、東日本大震災で壊れてしまいましたが、いつかは天心の六角堂に行ってみたいと思っていました。それが中国成都にある杜甫草堂がお手本だとはこの本で初めて知りました。それによると、「天心は、1893年の中国旅行で見た成都の社甫草堂を意識して、六角堂を設計した。成都の浣花渓の畔の草堂寺は杜甫が4年間住み、多くの詩を詠んだ場所であり、元・明・清の各時代に整備が行われ、公園化されていた。杜甫も草堂から錦江(揚子江)を眺め、ときには水檻という釣殿から、眼前に開ける錦江に向かって釣り糸を垂れたという。天心はこれに倣い、海に面して大きな窓を作って観瀾亭と命名し、六角堂落成式の案内状には「今般五浦に草堂を営み候」としたためた。」と書いてありました。
 私も杜甫草堂には二度ほど行っており、特に2015年5月のときには、気楽な旅だったこともあり、時間をかけてゆっくりとまわりました。もし、六角堂が壊れる前で、さらにこの本と出合ってから杜甫草堂に行けば、その相似点などや違いなどもわかり、さらに楽しめたのではないかと思います。今、思い出すのは杜甫草堂で、日本円と中国元の両替を変なおばさんに頼んだことなどです。でも、両替率はよかったようでした。
 下に抜き書きしたのは、第2章「宗教と哲学から『茶の本』を読む」に書いてあったものです。
 岡倉天心はセントルイス講演で、「政治体制の変化はしばしば悲劇を生み出しました。戦争は多くの美の花園を荒らしました。」と言ったそうですが、現在のロシアとウクライナ、またパレスチナのガザ地区の戦争なども、同じことが繰り返されています。
 テレビ等でしか知り得ないのですが、立派な建物が次々と破壊され、豊かな田舎の風景が戦車で踏み荒らされています。まさに戦争は多くの美の花園を荒らしています。
 ここでいう花は、植物の花についてですが、天心は茶とおなじように花にも強い関心を持っていたようです。この文章を読むだけでも、その思いが伝わってくるようです。

(2024.7.19)

書名著者発行所発行日ISBN
岡倉天心『茶の本』の世界(ちくま新書)岡倉登志筑摩書房2024年5月10日9784480076267

☆ Extract passages ☆

 天心はァメリカで日本文化が受け入れられることを推進する一方で、差別的な扱いや無理解に対しては厳しい姿勢で臨んだ。「活け花論争」はその一例である。
『茶の本』で天心は、しばしば格別の熱情をもって「花」について語った。彼の「花」への思いは深く熱く、そこに傾けられた情愛は、「茶」に勝るとも劣らない。第1章第2段落には「わが田夫(農夫)は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛でるに至った」とある。
 磯崎新も「『茶の本」と題されることになったが、隠れた意図として「花の章」を重視したかったのだという説に納得する。
(岡倉登志 著『岡倉天心『茶の本』の世界』より)




No.2323『アウトオブ民藝』

 たまたま、NHKの『先人たちの底力「知恵泉(ちえいず)」』を見ていたら、6月4日は「柳宗悦 多様性社会をどう築くか?」でした。柳宗悦といえば、まさに民芸運動の中心人物で、文筆で稼いだお金を注ぎ込み全国の忘れ去られようとしていた生活用具を収集し、それらを「民藝」と名付け、光を当てました。その番組がおもしろかったので、翌週の予告を見たら次の6月11日は、「柳宗悦 反発をチカラに変えよ!」でした。これも、しっかりと見ましたが、沖縄の方言問題や長男柳宗理との話しなど、とても興味深い内容でした。
 そして、この本を図書館で見つけ、すぐに借りてきました。いつもISBNを記すのですが、この本はどこを探してもないので、初めて空欄にしました。そのかわり、装丁もちょっと異彩を放っています。
 では、そもそも民藝運動の流れはというと、この本の「まえがき」に、「研究ではなく、ただただ好きで調べ続けた結果、連想ゲームのように広がったその世界は、人と人の繋がり、時代背景や人間関係、様々なことを教えてくれた。そして「アウト・オブ」には「アウト・オブ」である理由が色々とあったのだ、とも今は理解できた。」とあり、この本のなかで、民藝運動が始まる前からの流れを追っていく必要があると書いてました。
 よく民藝という言葉は、民衆的藝術をつめたものと説明されていますが、民衆が作ったものはすべて藝術かというとそうでもないようです。その当時の文章のなかに、「貴族的工藝」などという言葉もあり、今では差別用語とでも言われかねないかもしれませんが、その意図するところは、NHKの『先人たちの底力「知恵泉(ちえいず)」』を見ても理解できます。
 それと、柳宗悦が重要視していたのが「郷上玩具は商品である」ということで、それを販売する民藝店「たくみ」を吉田璋也がつくりましたが、その店に寄せた文章に、「私達は今日迄何が正しい作物なのか、何処に正しい作物が在るのか、どうしたら正しい品物を新たに産む事が出来るのか、是等三つの事に努力を集中し、雑誌「工藝」をその機関として発行した。幸いにも凡ては順調に連び、最後に残った問題は、生まれてくる品物をどうして社会に届けるかの方法であった。」と書いていて、やはり、大衆の手で作ったものを大衆に届けることも大切だといいます。
 そういえば、私も学生のころに「たくみ」に行き、コーヒーカップを買ってきたことがあります。そして、たまたま山陰を旅したときに玉造温泉近くの湯町窯で、そのコーヒーカップと同じ焼きものを見つけ、びっくりしたことがあります。
 まったく同じものを探したのですが、釉薬は同じでも形は少し違いました。それでも記念にと思い、マグカップや花瓶などを買い、今も使っています。
 そういえば、中村裕太さんが、「お店が一つのハブになって、作家たちやいろんな出版関係の人々が交流していたわけですね。冒頭でお話した夢二が展覧会場に奪われた美術が手に取れるようなも のになって、暮らしを彩るものとして売られているというのが面白いですよね。」と書いていますが、ガラス越しに美術品を見るのと、自分の手に取って楽しめるのとでは、まったく違います。
 下に抜き書きしたのは、柳宗理が雑誌『民藝』の連載初回に書いたものだそうで、この文章を読むと、父柳宗悦とのわだかまりも解消しているようです。
 さらに、軸原さんは、「万人のために量産するために機械と手工をいかにして合わせていくのかということは、タウトに始まり、ベリアンもそうでしたし、柳宗理が実践したことでもあります。「健全な」とか「健康な」という柳宗悦を紡彿とさせる表現を柳宗理も多々使っていますが、このときは民藝館の館長になっていた頃ですからね。今につながるのはアノニマスなデザインとか機能的なジーンズ、必然的に生まれてきた野球のボールのようなものこそが用の美である、と。」と書いています。そういえば、『先人たちの底力「知恵泉(ちえいず)」』の6月11日での放送のなかで、「柳宗悦 反発をチカラに変えよ!」でしたが、宗理のデザインしたバタフライスツールを評価し、手紙を書き送っているそうで、このスツールも紹介していました。
 この作品は、山形県にある天童木工が製作していて、今もローズウッド板目とメープル板目の2種を57,200円で市販しています。備考の欄には、「Design : 柳宗理」とあり、グッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞とあります。さらにグリーン購入の適合製品で、まさに息の長い作品です。

(2024.7.16)

書名著者発行所発行日ISBN
アウトオブ民藝軸原ヨウスケ・中村裕太誠光社2019年5月11日

☆ Extract passages ☆

「今日の生活用品は殆ど機械製品であり、機械製品を良くしなければ、我々の将来は到底救われないということは言うまでもないだろう。そして機械製品でも、民藝の心を持てば、必ず素晴らしいものになり得るということを、これから毎号、この頁を借りて執拗に論じ、叫び、その例をここに続けて挙げていきたいと思う。」
(軸原ヨウスケ・中村裕太 著『アウトオブ民藝』より)




No.2322『読む寿司』

 寿司は好きな食べものですが、回転寿司が多くなると、さらに日常的な食べものになつたような気がします。
 以前は、お品書きに「時価」などと書いてあると、支払いが気になり、つい少ししか食べることができませんでしたが、今では一皿いくらですから、安心して食べられるようになりました。
 さらにコロナ禍で回らない回転寿司も出てきて、昔からの寿司屋さんは大変だろうなと思います。それでも、好きな寿司をほとんど待たずに自分の此の身で食べられるのは、有難いものです。だから、まだお腹が空いてないと思っていても、先ずは食べられるだけと思いながら、つい、いつもと同じように食べてしまいます。
 この本は、まさに寿司に関する話しが満載で、たとえば、にぎり寿司を考案したのは華屋与兵衛という人物だったそうで、その孫にあたる文久子という方が明治20年(1887)ごろに書いた「またぬ青葉」に、その握り寿司を考案する動機が載っているそうです。それによると、
1 押し寿司は飯の量が多く下品。
2 作るのに3、4時間かかり、3日間作り置きしたものを販売する店もあった。
3 この製法の悠長さを与兵衛が嫌った。
4 さらに魚の脂が身から抜けて飯に移ることで魚本来の味が損なわれていた。
 と書いています。でも、決定的な動機というわけでもなく、だんだんとにぎり寿司に近づいていったというような印象です。
 ただ、軍艦巻きについては、しっかりした動機らしきものがあり、軍艦巻きを始めたのは昭和10年(1935)創業の老舗「銀座久兵衛」だそうで、その創業者である今田寿治さんが『わが道わが味―食べもの屋に生涯を捧げた男たち』池田宗章著(今は絶版になっているようです)で語るには、「昭和17年頃ですよ、釧路からお客さんが生うにを樽でもってきましてね。これをすしにしてみろよ、(中略)海苔を細く切って、握ったまわりにすっと巻くのがいいと思ってやったんですよ。そしたら非常に喜ばれて、外人なんかが来て、スカートはいたおすしをお宅でやってるんでしょなんて言われてね。ところがNHKの放送で、『この頃銀座にグテ物扱う店ができて、うにのすしをやったり、ナマコ、かき、をやったりして、どうも江戸前のすしも丸つぶれだ』みたいな事を放送したんですね」といいます。
 なんでもそうでしょうが、最初から拍手喝采などというのはほとんどなく、それでもだんだんと認知されてくると誰も何も言わなくなるものです。
 そのウニ繋がりで、下に抜き書きしたのは、36「開けてみないとわからないから生きたウニより箱ウニ」に書いてありました。
 そういえば、仙台市の仙台場外市場「杜の市場」のなかに片倉商店があり、ここの名物は店長自ら水揚げするウニで、私も何度か生うに丼を食べたことがあります。ここのウニは、みょうばんを一切使用しないので、自然のウニそのままの味です。
 ところが、海がしけたりすると漁に出られないので、そのときに行くと、当然ながら生うに丼はありません。私も3月11日と12日に行きましたが、両日とも漁ができないということでメニューにはありませんでした。
 とはいうものの、なぜみょうばんが関係するのかまったくわからなかったのですが、ここを読んでよくわかりました。

(2024.7.13)

書名著者発行所発行日ISBN
読む寿司河原一久文藝春秋2019年4月20日9784163910154

☆ Extract passages ☆

 ウニは時間の経過と共に身が溶け出してしまうため、それを避けるための処置を行っているが、そもそも生きたウニを仕入れて、それを握る前に捌けば超新鮮なウニが食べられるだろうし、実際、漁船に同乗して獲れたてのウニを食べるのが最高だ、といった声もよく聞く。
 ではなぜ流通するウニは箱に並べた箱ウニが主流なのかというと、ウニが生きたままの状態では中身の善し悪しがわからないからだ。つまりウニは「開けてみなければわからないもの」なのである。
 そこでウニを開き、善し悪しによって選り分けがなされ、グレード別に箱に並べられる、ということになっているのである。
(河原一久 著『読む寿司』より)




No.2321『鴎外の花』

 森鴎外の「鴎」の正式な漢字は、環境依存文字なのでホームページでは認識されませんので、ここでは一般的な鴎外で表記しますので、ご理解ください。
 さて、森鴎外が植物に興味を持っていたというのは作品を読んでもなんとなくそうかもしれないと思っていましたが、400種以上の植物、延1,500ほどの植物名が記されているとは考えてもいませんでした。
 しかし、この本を読み進めるにしたがって、たしかに相当な関心を持っていたということがわかりました。たとえば、山形出身の斎藤茂吉もオキナグサが好きだったそうですが、鴎外も明治38年の妻の森しげ子宛の手紙に「草ではおきな草といふ紫の花が一番多くさいている。此中におきな草を一りん入れてある」と書き送っています。そして、返信があったらしく、「おきな草を送ってやつたら園芸雑志を見て知つてゐるなんぞは実に意外だ。」とさらに書き送っています。
 このように手紙などや日記にも植物や庭についても書いていますし、ときには学名などにも触れています。さすがはドイツに留学した鴎外らしいと思います。
 そういえば、長女の茉莉は、実家の「花畑」の花々はドイツ留学のときを思い出させるものばかりだと話しています。それを「ドイツでの思い出を形として残すこと。それは、三つの小説を書くに加えて、「花畑」をつくることによって達成されたと見ることができる。初期の三部作がドイツ留学なしには生まれなかったように、「花畑」もまた、ドイツ留学なくして観潮楼にはできなかったであろう。小説家を目指して留学したのではないように、鴎外は当初はガーデエングなど考えてもいなかった。だが、彼の亡くなるまで「花畑」に花の絶えることはなかった。鴎外はドイツ留学の思い出を心から大切にしていたのである。」といいます。
 特に花見に行ったのは小石川植物園で、日記にもなんども出てきます。そのなかでもおもしろいと思ったのは、大正元年9月に三越呉服店の宣伝誌『三越』に発表した『田樂豆腐』です。
 最初は田楽豆腐についての話しかとも思ったのですが、実はまったく違いました。読んでみるとすぐにわかりますが、「木村(主人公の苗字)は印東の西洋車花なんぞを買つて来て調べてゐたが、中には種性の知れないものが出来て来た。そこで植物園に往つて、例の田楽豆腐のような札に書いてある名を見て来ようと思ひ立つたのである。」とあり、この田楽豆腐のような札とは、つまり植物名などを記した植物ラベルのことです。
 たしかにそういわれれば田楽豆腐に似ていますが、最近のラベルはQRコードが印刷されていて、花が咲いてなくても花や実などもスマホで検索できるようになっています。
 この本も、植物がよくわかるように、ところどころに掲載されている植物がカラー写真で載っています。
 下に抜き書きしたのは、明治28年に発表した「園芸小考」に書いてあるそうで、園芸の効用は美しさだけではないといいます。
 この後に、園芸と建築の関係にも論を進め、だからこそ、自分の住まいにも庭と建物の調和を図るべく設計したようです。これに関する話しもこの本にはよく出てきたので、興味のある方は、ぜひ読んで見てください。

(2024.7.10)

書名著者発行所発行日ISBN
鴎外の花青木宏一郎八坂書房2024年4月25日9784896943641

☆ Extract passages ☆

 園芸の効用は美しさだけではなく、「明白に美の外なる目的あり、実用あり。園芸はおほよそ人の逍遥遊覧の時に発すべき興をば残ることなく発すべきものなり。目に若葉の緑を見、耳に禽鳥の声を聞くは、猶高等なる官能を介し享くる所あるものとすべけれども、いろいろの花はいふもさらなり、木立より草むらまで、そのめぐりなる空気に香を伝へて人の臭官を快からしめ、涼しき風は人の膚を爽にす。この疲れを癒し労を忘れしむる功は、固より美術的受用と同じからず。園芸に実用あることも復た疑ふべきにあらざるべし」とある。
(青木宏一郎 著『鴎外の花』より)




No.2320『大雪山のお花畑が語ること』

 先月6月30日に仙台からフェリーに乗り、苫小牧港から旭川まで来て泊まり、7月2日から4日まで旭岳温泉のホテルに滞在しました。そして旭岳ロープウェイに乗り、姿見ノ池付近の高山植物を見てまわりました。2009年7月のときには、シャクナゲの仲間たちと富良野岳や旭岳などに登りましたが、2022年7月のときには一人旅でしたので、それこそのんびりと旭岳周辺を楽しみました。
 しかし、今回は連れ合いとの二人旅なので、さらにのんびりと北海道の高山植物をひとつひとつ写真を撮りながら見ることができました。そして、このときに持って行ったのがこの本です。
 この本は、「生態学ライブラリー」の10巻目で、副題が「高山植物と設計の生態学」です。私は月山に行くといつも思うのですが、雪が消えるとすぐに新芽を伸ばし花を咲かせ、ほどなくして実をつけます。まさに離れ業のように、春から秋の動きを短期間でしてしまうわけですから、びっくりです。だから、いつ月山に登っても花が咲いてますし、実も成っています。つまり、いつ登っても花を楽しめる山です。
 ということは、この本には、その秘密が書いてあると思いながら読み進めました。旭川市の「OMO7旭川 by 星野リゾート」だけが1泊で、旭岳温泉も富良野も2泊ずつして、7月6日の夕方には苫小牧フェリーターミナルに着き、太平洋フェリーで翌7日に仙台港で下り、帰宅しました。フェリー内でも、時間はたっぷりあるので、何度も読み返したところもあります。
 ここ大雪山の主要な高山植物群落を大雑把に分けると、「風衝地植物群落、ハイマツ群落、雪潤植物群落、雪田植物群落の4つに大別できる。風衝地群落を特徴づけるのはハナゴケと呼ばれるサンゴのように枝分かれした白い地衣類と、イワウメ、ミネズオウ、ガンコウラン、チシマツガザクラ、クロマメノキ、ウラシマツツジなどの矮生低木種の優占である。白雲岳の南に延びる高根ヶ原は、大雪山を代表する広大な風衝地群落が広がっている。ここには部分的に永久凍上が存在し、周氷河地形の一つであるパルサ(泥炭地に発達する永久凍上丘)が日本で唯一見られる場所でもある。」と書いてあり、このパルサを初めて発見したのは、当時同じ北海道大学環境科学研究科の院生であった高橋伸幸さんと曽根敏雄さんだったそうです。
 そういえば、2022,yのときもたくさん見たのですが、「雪田植物の代表選手である常緑性低木のエゾノツガザクラとアオノツガザクラは、ともに雪解けの遅いところでは年によって開花が起こったり起こらなかったりするのであるが、面白いことに開花するしないは種間で同調している。そして雪解けの早い場所に比べて遅い場所では、数年に一度大量開花が起こり、そのときの開花密度は雪解けの早い個体群の10倍以上にも達するのである。」とあり、毎年通っているのではないので、今年は大量開花なのかどうかはわかりませんでした。
 しかし、このような開花の変動や同調が起こるのかは、わかっていないのだそうです。もし、事前にわかれば、あらかじめ計画を立ててその大群落を見ることもできるのにと思いました。そして、もし、私も若ければ、この大雪山をくまなく歩き回りたいのですが、若い時には仕事が忙しくその時間はなく、時間に余裕ができてくると、その体力がなくなってしまい、なかなか思うようにならないのが現実のようです。
 そして、まさか、この『大雪山のお花畑が語ること』のなかに、第7章「季節のない世界へ」で、キナバル山のシャクナゲの話しが出てくると思いもしませんでした。だいぶ前に読んだ『死をふくむ風景』(岩田慶治著)のなかにキナバル山が出てきます。それは、「ボルネオ島北部にキナバル(約4000メートル)という山があります。キナバルとは、あの世の山ということです。この辺の人は、死ぬと魂がこの山に登っていく、花同岩のごつごつした山ですが、そこへ死んだ人が登っていくというのです。そこが死者の国で、死者はそこで何年か過ごしてから、また戻ってくる。死者の魂はまず赤い花になって咲き、村の若い女性がその花を摘んで、食べる。魂は、この花を食べた女性の子どもとなって生き返る。魂があの世とこの世を往復する、そういう考えなのです。」と書いてあり、もしかすると、この赤い花はシャクナゲではないかと思いました。
 そして、死に臨んだときに流れる河の岸に立つとか花咲く原野が見えるとかいうのは、あり得ることではないかと思いました。いろいろな臨死体験の本もありますが、それだって、ちゃんと死んでから戻ってきた訳ではないのですが、それでもそのようなところがあったほうがあの世を理解できそうです。
 そこで、このキナバル山に行きたいと思ったのですが、なかなかその機会がなく、インドネシアの知り合いの結婚式がカリマンタンであり、そこに招待されたのを機会にインドネシアのボゴール植物園に行くことができました。そこには何種類かのビレアが植えてあり、それらを見せていただきました。そのときは、自生地でもないのでただ見るだけでしたが、この本に、「熱帯高山植物の繁殖スケジュールは、予想以上にゆっくり進んでいた。ブクシフォリウムシャクナゲを例にすると、肉眼で観察できるほどの花芽が形成されてから開花に至るまでに半年ほどかかり、開花してから果実が成熟するまでに9カ月ほども要するのである。開花から結実まで2〜3カ月かかる中緯度高山やツンドラのシャクナゲ類に比べると、ものすごくゆっくりである。調査地の平均気温は年間を通じて5〜6℃であり、日最低気温が2〜4℃、日最高気温が7〜10℃ほどで、最初思っていたほど日変動がなかった。平均気温は大雪山の六月上旬の気温に相当し、かなり低い。この低温により、繁殖スケジュールの速やかな進行が妨げられているのであろう。」と書いてあり、目の前でみたキバナシャクナゲの群落と比べてしまいました。
 いつも思うのですが、キバナシャクナゲは株いっぱいに花を着けることは少なく、枝先にあちこち着けます。というのは、満開になったときにもし霜が下りたり、強風で花がだめになったとしても、次に咲く花が結実すればいいのです。だから、時間差があれば、どんな気候になったとしてもいくつかは花が咲いて結実するという戦略のようです。それでも大量開花を見てみたいと思いながら、今年もここまで登ってきたわけです。
 下に抜き書きしたのは、第4章「花粉媒介を巡る植物と昆虫の相互作用」のキバナシャクナゲの研究のところに書いてあったものです。
 今回行った旭岳の姿見ノ池周辺も、一部は風衝地で、キバナシャクナゲやエゾツガザクラの大群落があるところです。この風の強いところにも昆虫は訪れるようで、だからこそ高山植物も花を咲かせ、結実し、子孫を残せるわけです。
 ここで花々を眺めているだけで、自然の営みを身を以て感じることができました。

(2024.7.7)

書名著者発行所発行日ISBN
大雪山のお花畑が語ること工藤 岳京都大学学術出版会2000年8月18日9784876983100

☆ Extract passages ☆

 風衝地では、まだ気温の低い六月初旬からウラシマツツジやコメバツガザクラの開花が始まる。その後、ミネズオウ、キバナシャクナゲ、イワウメと順々に開花が起こり、最終ランナーのチシマツガザクラは八月上旬に花期を終える。自然状態の結実率を見てみると開花の早い種で低く、遅い種ほど高い結実率を示す明瞭な傾向が現れた。いくつかの種で袋かけや人工他家受粉処理をしてみたところ、いずれの種も自動的自家受粉効率は低く、高い結実率を得るためには昆虫の訪花が必要であることがわかった。そして結実率の低かった早咲き種は、潜在的には高い結実能力を持っているものの、強度の花粉不足のために実際の結実が阻害されていることが明らかになったのである。キバナシャクナゲの研究で見られたのと同様、訪花昆虫の活性の季節性が植物の繁殖成功に大きく関係していたのである。
(工藤 岳 著『大雪山のお花畑が語ること』より)




No.2319『旅ごはん』

 この本が出版されたのは2020年3月ですから、新型コロナが流行り始めたころで、まさに人々が不要不急の外出をしないようにといわれたころです。
 ということは、この本の題名の『旅ごはん』は、ある意味、できないことの裏返しで、興味を持たれたのではないかと想像しましたが、初版され再版はなかったようなので、そうでもなかったようです。もともとは、月刊『MOE』の2017年11月号から2020年3月号に連載されたものだそうです。
 よくイギリスの料理はおいしくないといいますが、ドイツなどもそうらしく、ここには「おそらく、私が思うに、ドイツ人というのは自国の料理に対して、それほどのプライドは持っていないのだろう。だから、よその料理も寛大に受け入れる。トルコ料理だけでなく、イタリアンをはじめ、韓国、ベトナム、タイなど、世界中の料理が手軽に食べられる。特に国際都市のベルリンは、それが顕著だ。せっかくドイツに来たのだから、やっぱりおいしいドイツ料理が食べたい、という人には裏技がある。オーストリア料理の店を探せばいいのだ。ドイツ料理とオーストリア料理は、ほとんど内容は一緒だが、なぜかオーストリア料理になるとおいしくなる。かなり、皮肉ではあるけれど。だから私も、おいしいドイツ料理が食べたい時は、オーストリア料理の店に行くようにしている。」と書いてありました。
 しかし、私は何度目かのイギリスの旅で、2014年7月にイーリーに行ったときでしたが、「The Old Fire Engine House」というところに小さなのメニュー表が額縁になっていて、歩いているときに見つけました。そこに、ウサギ料理が載っていて、とてもおいしそうだったので入ってみました。入口には花が活けてあり、庭もきれいになっていてお昼ならここででも食べられそうでした。
 よくイギリスはチップ&フィッシュしかないような書き方をする人もいますが、おそらく、地方にまで足を伸ばすことがなかったのではないかと思います。たしかにチップ&フィッシュもおいしいところはありますし、スコットランドでは朝のパン屋さんの朝食がとてもおいしかったのが記憶にあります。ここには、3度も食べに行き、とうとう顔を覚えられてしまいましたが、今ではいい思い出です。
 著者は山形県出身なので、山形のことにも触れていますが、銀山温泉は今では海外からの観光客も多く、今年の冬も賑わっていたようです。著者は、「都びた温泉宿で、大正ロマンという言葉がまさにぴったりの風情だ。最上川の支流である銀山川の両岸に三、四階建ての古い旅館が建ち並んでいるのだが、その建物が和風とも洋風とも言えない徴妙な和洋折衷建物で、なんとも独特な郷愁を醸し出している。どこにいてもさらさらと川の音が響き、川底には川魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。夕涼みができる夏もいいが、私が好きなのは断然冬の銀山温泉だ。しかも、真冬がいい。銀山温泉に、雪景色はとても似合う。誰が撮ってもそれなりの風情の写真になるのも、銀山温泉の魅力のひとつだ。」と書いてあり、そのまま銀山温泉の広報に使えそうです。
 おそらく、インバウンドの人たちも、この冬景色の映像に誘われたようで、私も数年前に行った時よりもテレビなどで見ると、多いようでした。
 この本は旅で出会ったごはんが中心ですが、最後の「蜂蜜の羽音に導かれリトアニアへ」の十字架の丘がすごく印象に残りました。というのは、もともとリトアニアは日本と同じように自然をとても大切にし、そこに霊性を感じる人たちが多いと聞いたことがあります。もちろん、現在は国民の8割以上がローマ・カトリック教の信者だそうですが、もともとの多神教の教えも残っています。著者は、リトアニアを訪ねたときに、「ある晴れた日、ヴィリニュスから車で十字架の丘を訪ねた。麦畑と原っぱに挟まれたなだらかな丘に、無数の十字架が立っている。その数は、五万本とも言われている。誰がそこに最初の一本を立てたのかはわからないが、いっしかこの場所は十字架の丘と呼ばれるようになった。宗教弾圧のあった旧ソ連時代には、幾度となくブルドーザーがやってきて、丘をならし、十字架はことごとく焼き払われた。十字架を立てようとする者には罰金が課せられ、投獄されることすらあった。それでもまた、そこに誰かが新しい十字架を立てる。その行為は決して止むことなく、今も新たな十字架が立てられ続けている。……驚くのは、十字架の丘が、キリスト教だけでなく、 ユダヤ教やロシア正教など、多くの宗教の垣根を越えた信仰の場となっていることだった。来るものを決して拒まず、しなやかに異文化を受け入れるのは、リトアニア人ならではの寛大な心ゆえという気がした。大切なのは、祈りの形ではなく、中身なのだということを教えてくれる。」と書いてありました。
 なぜか、リトアニアはバルト三国のひとつでラトビアやエストニアといっしょに考えてしまいますが、その隣はベルラーシでそのすぐ隣はウクライナです。この十字架の丘の話しを聞いて、すぐにウクライナのことを考えました。
 今はまさに戦争のさなかにいますが、いくら無数の十字架をブルトーザーで押しつぶしたとしても、必ずや復活する日がやってくると思います。それが信仰の力ですし、国民の切なる願いではないかと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「6.市場のおいしいもの」に書いてありました。
 これは、外国でどうしても行きたくなるのが市場だとあり、私は外国でなくても国内でも市場は大好きです。コロナ禍前は、中国の奥地でもミャンマーの地方でも、よく市場やバザールに行きました。そこに行くと、いろいろなものがあり、特に日本ではお目にかからない珍しいものがあります。
 そういえば、今から20年ほど前にネパールに何度か行き、山に入る前には市場でいろいろなものを買いました。そこでは、日本でもなじみのワラビなどの山菜もありましたし、ほとんど見たこともないような果物もあり、それらを食べ歩きしながらシェルパといっしょに買い出しをしました。それが楽しみの1つでした。
 国内でも、仙台の仙台朝市商店街に行くと、山形にはない食べものもあり、保冷庫に入れて何度か持ち帰りました。
 著者が言うように、その町の人たちの顔が見えるような感じがしました。

(2024.7.1)

書名著者発行所発行日ISBN
旅ごはん小川 糸白泉社2020年3月11日9784592733027

☆ Extract passages ☆

 外国に行くと、どうしても行ってみたくなる場所がある。市場だ。旅先で生鮮食料品を買うことは難しいし、言葉も通じない場合がほとんどだけど、それでもその町の、そこに暮らす市井の人々が日常的に買い物をする場所を訪れるのは、外国を旅する際の大きな喜びのひとつである。市場をのぞくと、その町の人たちの本質が見えるようで、愉快な気分になるのである。
(小川 糸 著『旅ごはん』より)




No.2318『こいしいたべもの』

 著者の本は、「日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―」が最初で、自分もお茶を50年ほど続けていて、いろいろな経験のなかから教えてもらったことがたくさんあり、それで読もうと思いました。さらに映画にもなり、黒木華さんが主演で、樹木希林さんや多部未華子さんなども出て、その四季の変化など映像ならではのおもしろさも感じました。
 それをひきづったまま、この本も読みましたが、1018年の第3刷でした。
 やはり、あちこちにお茶のことも出ていて、たいへん興味深く読みました。たとえば、『「練習だ」と、思った。お土産一つにも、心を行きわたらせるには練習がいる。先生のようにお菓子一つで人を喜ばせたいと思ったら、正面から取り組んで、自分を磨くしかないと思った。デパートや旅先で、センスのいい和菓子を見かけたら、必ずメモか切り抜きをするようになった。おいしい和菓子を食べたら、包み紙をもらって、机の引き出しにストックした。和菓子の図鑑を買い、雑誌の特集記事には必ず目を通した。十五年が過ぎた頃、切り抜きや包み紙で、引き出しがあふれた。』と書いていて、実は私もお茶の先生が和菓子事典の索引に鉛筆で食べた菓子名に印を付けていたので、自分も真似をしたことがあります。
 最近は、食べた和菓子と点てたお抹茶を並べて、写真を撮るようになりました。さらに、その写真をSNSに載せると、自分の記録にもなり、いわば私の和菓子日記になっています。
 また、前回読んだ『季語と俳句』の流れからみると、「俳句は、自然の風景や日常の一瞬を五・七・五の十七文字に切り取った「世界一短い詩」と言われるが、小豆、求肥、寒天、葛などの素材で季節を切り取った上生菓子は、五感で味わうひとロサイズの芸術品だ。風に膨らむ柳、清流をよぎる鮎、葉陰の青梅、あじさいに降る雨など、月ごと週ごとに変化して、風の匂い、せせらぎの水音、雨の匂いなどを思い出させてくれる。」と書いてあり、梅雨のころになると必ず和菓子屋さんに出てくる「梅雨の花」もアジサイで、5月23〜24日に下野三十三観音の旅のときも、日光市内のお菓子屋さんで同銘の上生菓子を見つけ、その晩に泊まったところでお抹茶を点ていただきました。
 そういう意味では、食べものはいろんなところで結びつきやすいと思います。
 私の連れ合いは、和菓子も好きですがケーキや焼菓子も好きで、コーヒーを豆から挽いて丁寧に入れて食べることもあります。なかでも「ダクワーズ」が好きなようで、ケーキ屋さんでたくさんありすぎて選べないときには、ダクワーズにします。だから、私も洋菓子を買って帰るときには、知らず知らずのうちにこれにしてしまうこともあります。
 ただ、この洋菓子がどのようにして作られるのかは知りませんでした。すると、この本には、「ダクワーズは、アーモンド風味のメレンゲを使った小判型の焼き菓子である。表面はカルメ焼きのように乾いて、軽石のようにも見えるが、一口囓るとサクッと壊れ、予想外のふわっとした食感と、アーモンドの香ばしさに出会う。」とあり、なるほどと思いました。
 たしかに、カリッとしていても中はふわっとしていて、その歯ざわりの違いも美味しさにつながっているようです。この文章のとなりに、このダクワーズの著者自身の画が載っていて、そのまわりに、「ダクワーズ。名前そのものが食感になったようなお菓子。」と書いてありました。
 たしかに、著者が書いているように、「名前がおいしそうな洋菓子は、絶対おいしい」のかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、「一筋の梅の香り」に書いてあったものです。
 たしかに、ほとんどの人は知っていると思ってはいても、本当に知っていることは少ないようです。でも、そこそこ知っているだけでも生きてはいけます。そうでなければ、いつも考えてばかりでは気も詰まりますし、心から楽しむ余裕もなくなってしまいます。
 私も自分が知り得たものを大切になんども味わいながら生きていければいいと思いました。

(2024.6.29)

書名著者発行所発行日ISBN
こいしいたべもの(文春文庫)森下典子 文・画文藝春秋2017年7月10日9784167908942

☆ Extract passages ☆

……何かを本当に知ることは、一つ一つ時間がかかる。私は今まで、一体いくつのことを本当に知っただろう。たぶん、知ったつもりで素通りしたものがほとんどで、本当に知ったことは数えるほどしかないにちがいない。そして、きっと一生をかけて、ほんのわずかなことを本当に知っただけで、死んでいくのだろう。
 だけど、それでいいと思った。数少なくとも、本当に知ったことだけを大切に味わいながら生きていきたいと……。
(森下典子 著『こいしいたべもの』より)




No.2317『季語と俳句』

 2023年9月中旬に信濃三十三観音巡りをしたときに、あちこちに句碑が立っていて、さすが小林一茶の生まれ故郷だと思いました。この地は道祖神もたくさんあり、せっかくなのでと句碑や野仏なども撮ってきて、信濃三十三観音の旅にまとめたいと思っています。
 このシリーズは、信達三十三観音の旅では観音経のそれぞれをちりばめたり、越後三十三観音の旅では良寛さんの歌などを入れたりしてきましたが、この信濃三十三観音の旅では、小林一茶の句を中心に取り入れたいと思っています。
 そのような気持ちから、この本を見つけ、読むことにしました。副題は「毎日の暮らしが深くなる」と書いてあり、たしかにそうかもしれないと思います。
 たとえば、コロナ禍の時には毎日マスクをして外出しましたが、帰宅してマスクを外すとすごく息づかいが楽になったものです。そのマスクを詠んだのが、著者の「はづしたるマスクはつかにふくらめる」です。
 マスクは冬の季語だそうですが、解説には、『「はつかに」は、わずかにの意。 マスクをはずすと、わずかにふくらんでいる。家に帰りマスクを外してその辺に置いたとき、ふと気づく。着ける前は平らだった。このふくらみは他ならぬ自分の顔の形、湿りは自分の息によるもの。生地に疲れが見えるとしたら、自分の疲れ。 一日を共にしてきたのだ。それだけのことだが、外した瞬間の小さな発見である。』とあり、たしかにそれだけのことではありますが、それに気づくことも潤いにつながると思いました。
 以前は、俳句の季語というのはなぜ必要なのかとか、それは誰が季語として認定するのかとか気になりましたが、この本のコラムのなかに、「季語って、誰が決める?」というのがあり、「よく引かれる例が「万緑」という夏の季語だ。草木の生命力の盛んなさまをいう、昭和生まれの季語である。もとは漢詩にある言葉で、中村草田男が俳句に用いたところ、読んだ人の多くが共感し、以降季語として使われるようになった。逆に編者が、何かの言葉を季語として載せたところで、共感され使われなければ定着していかない。詠む人と読む人がいて、編者は後追い的にジャッジするのが自然なありかたに思われる。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 つまり俳句を詠む人とそれを読んで味わう人との双方向性のものだと知り、納得しました。
 そういえば、鈴木三重吉の『岡の家』いついて書いていますが、題名を聞いてもあらすじを読んでも私には覚えがなく、初めて知りました。でも、なるほどと思ったので、自分の記憶のためにも、多くの人たちにもしってほしいと思い、ここに抜き書きすると、「岡の上に一軒の貧しい家があった。その家の少年は毎日よく働いて、夕方遠くの岡に金の窓の家を見るのが習わしだった。日が沈むときいつも金色に輝いていた。よく働くごほうびに、ある日親が休みをくれた。少年は金の窓の家を訪ねてみることにした。歩きに歩いて着いた家には少女がいて、自分も毎日金の窓を見ているという。指さしたのは他ならぬ少年の家。少年は家路を急いだ。帰り着いたとき辺りはすっかり暗くなっていた。窓にはランプの灯や炉に焚く火が温かく点って。少年は自分の家にも金の窓があると知った。」というものです。
 たしかに、幸せというのは遙か彼方にあるものではなく、すぐ近くにあるというのは青い鳥と同じですが、つい忘れがちです。この鈴木三重吉の『岡の家』というのは、とてもわかりやすく、短いので思い出しやすいのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、秋の季節に書いてあったもので、たしかに誰もが最後は一人になります。だとすれば、一人になったも楽しめることを今から見つけておくことが大切です。そのときに探そうでは、やはり遅すぎます。
 今から、慣れ親しんでおくことがなによりも大事なことだと思い、私も今の読書の習慣をできる限り続けたいと思いました。

(2024.6.26)

書名著者発行所発行日ISBN
季語と俳句岸本葉子笠間書院2024年3月5日9784305710093

☆ Extract passages ☆

 いずれ誰もがひとりになる。本は時空を超えてさまざまな人と対話できる。自分との対話にもなる。ひとりが苦にならず、むしろ貴重に思える。
 日記もまた自分との対話だ。 一日のできごとを振り返り、あのときの気持ちは悔しさか、でも悔しさにとらわれているのは自分らしくない、代わりにできることは何だろう、などの自問自答を文字にすることで、堂々巡りから抜け出せる。
 来るべきひとりの人生のためにも、秋の夜長を機に読み書きの習慣を持ちたい。
(岸本葉子 著『季語と俳句』より)




No.2316『牧野富太郎と、山』

 私が読んだのは、初版第4刷ですから、ほぼ2ヶ月で4刷までというのは、おそらく、昨年のNHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』の影響だったのではないかと思います。
 私も、その放送の始まる前に、四国に行ったのですが、特に高知県は牧野富太郎で盛り上がっていました。たまたま、その『らんまん』の撮影現場にも同行しましたが、あんなにも多くのスタッフが陰から支えていると知り、ロケ弁を食べながら、いろいろと考えました。
 また、牧野富太郎の生まれ故郷の佐川町は、町すべてが『らんまん』一色で、放送前から高知県立牧野植物園は多くの方々で賑わっていました。たまたま、その年の12月に高知県立牧野植物園の研究者と小石川植物園で会いましたが、開園以来の最高の人出だったそうで、それを維持するのがこれからの課題だと話してくれました。
 この牧野富太郎という植物学者は、この本でも語られていますが、あまりにも型破りな研究者で、それだけにドラマ化しやすかったのではないかと思います。
 この本にも書かれていましたが、彼は小さいときから植物が好きで、「この金峰神社の庭の西に向かったところが石垣になっていて、私の若かりし時分には、その石垣の間にタマシグが生えていたことを思い出す。それはもとより人の植えたものではない。元来、タマシダは瀕海地にぁる羊歯だが、それが全く山いく重も隔て、海からは四里余りも奥のこの地点に生えていることはまことに珍らしい。残念なことには、今日、それがとっくに絶減してしまっていて、すでに昔話になってしまったことである。」と、「佐川の山野」にも書かれていました。
 私も佐川町に行ったときに、その金峰神社に上ってみましたが、石垣も残っていて、鬱蒼とした森になっていました。その先に、現在は牧野公園になっていて、牧野富太郎のお墓も建っていました。やはり興味があるからこそいろいろなところに目が行くし、そして調べるからわかってくるので、さらに深く知ろうともするわけです。佐川町立青山文庫には小さいときからのいろいろな資料や使っていたものなどが残っていて、「牧野富太郎のいろいろ」という特別展が2023年10月21日から3月10日までありましたが、行く機会がなく、残念でした。
 この本に、彼が初めて四国に持ち込んだソメイヨシノの話しが出てきますが、「私は、自分の送った桜が、かくも大きくなり、またかくも盛んに花が咲くにかかわらず、いつもその花を観る好機を逸し、残念に思っていたが、遂に意を決し、昭和十一年四月、久しぶりで帰省し、珍らしくもはじめてその花見をした。そしてわが送りし桜樹が、かくも巨大に成長したのを眺めて喜ぶと同時に、自分もまたその樹齢と併行して、正に三十余年を空過し、樹はこのように盛んに花をつけたが、われは一事の済すことなくいたずらに年波の寄するを嘆じ、どうしても無量の感慨を禁ずることができなかった。」と書いてあり、彼自身が故郷のサクラに名を付けながら、ソメイヨシノにもいろいろな感慨を感じていました。
 そういえば、彼はねっからの植物大好き研究者だと思ったのが、「夢のように美しい高山植物」のなかに出てくる「コマクサ」についての記述です。コマクサは、漢字で書くと駒草ですから、駒、つまり馬の顔に似ていることから名づけられたというのが一般的ですが、ここには、「これは高山のごく頂上の「ざれ」地すなわち砂礫地に生育していて雑草の中などには見られない。こまくさの葉は細かに裂けていて色が奇抜なので、高山の砂礫地に行くとすぐに気が付く。葉は白い粉のついた緑色をしていて、花茎は痩せたの一本、多いのは数本もあって葉より高く伸び、けまんそうのような花が咲く。鯛のようでその先が二つに分れ、それがひっくり返って錨のような格好をしていて、色が非常に美しい。けれどもこれを平地に持って来ると育てることがきわめて困難である。」と書いてあり、駒の話しには一言も触れていません。
 下に抜き書きしたのは、「利尻山とその植物」に出てきたものです。
 私はもともとシャクナゲが好きなので、つい、このような文章に惹きつけられるのですが、このキバナシャクナゲはとくに高山に自生していて、北海道などでは大群落になります。
 私自身、その群落を何度か見ているのですが、来月には連れ合いといっしょに旭岳のキバナシャクナゲを見る計画を立てています。お互い、年を重ねてきたこともあり、山道を長く歩くことは大変なので、ここだと姿見ノ池近くまでは旭岳ロープウェイで行けます。一昨年は、ここから裾合平らまで行きキバナシャクナゲを見ましたが、そこまで行かなくてもたくさんの高山植物を堪能できます。
 今から、なるべく歩くことが少ない自分の車で行くことを考え、フェリーなどを予約しています。

(2024.6.23)

書名著者発行所発行日ISBN
牧野富太郎と、山(ヤマケイ文庫)牧野富太郎山と溪谷社2023年3月20日9784635049634

☆ Extract passages ☆

 この辺には、イワツツジが沢山に生えていた。もちろん花は既に稀であったが、このイワツツジの果実は赤い色のもので、食うことも出来るしまた芳わしい香があるのである。それから花はないが、この辺には既にキバナノシャクナグも沢山自生していた。その外にはエゾフスマなどが生じておったと思う。この辺から先はほとんど峰伝いに頂上に向かって進むという有様である。ここがおそらく薬師山と称せられる峰であるだろうと思う。もしそうであるとすれば、標高四千尺くらいの所に一同は既に達しているのである。
(牧野富太郎 著『牧野富太郎と、山』より)




No.2315『味なニッポン戦後史』

 戦後、生活が大きく変わったのは間違いありませんが、それにともなって食生活も激変しました。私が生まれたころは、まだ配給制が残っていたようですが、それ以外にも手に入らない食料はたくさんありました。
 今でも印象に残っているのはバナナで、病気をしたときでもなければ食べられませんでした。それと東京の叔父さんが帰郷のときのお土産は、いつもバナナ1房で、その包み紙に「百果園」と書いてあり、東京に初めて行ったときにまわったのは、上野のアメ横の百果園でした。まさに憧れの場所だったのです。
 そのときの印象もあり、台湾の植物調査に行ったときには、台湾バナナをご飯代わりにたくさん食べたいと思ったのですが、まだ収穫には早いと聞き、とても残念で、次はバナナの収穫にあわせて行きたいと思っています。
 それはさておき、味というと、「いい塩梅」などといいますが、この塩に関して、家康の側室だったお梶の方(英勝院)の逸話が載っていました。それは、『家康が「この世で一番うまいものは何か」と家臣たちと雑談していたときのことだ。側にいたお梶の方にも尋ねたところ、「塩」と答えた。その理由は「塩がなければ、どのような料理もおいしくできないから」。さらに家康が「一番まずいものは何か」と訊くと、お梶の方はまたも「塩」だと答える。「どんなにおいしいものでも、塩を人れすぎたら食べられない」という答えに、一同は感服したという。』であります。
 でも、塩は食べものかといわれると違うような気がしますが、味を変えるものとしてはとても大切で、多くても少なすぎてもだめで、まさにさじ加減です。それがうまくいけば「いい塩梅」になるわけで、その加減も時代とともに変化します。
 この本は、この時代による変化を戦後という時代に限定してとらえたもので、まさに自分が育った時代の味の変化を知ることができました。自分が体験しているわけですから、とても納得できますし、目からうろこの部分もありました。
 たとえば、レモンはビタミンCの代表選手だと思っていたのですが、実はそうではなく、「ビタミンCが豊富な酸っぱい果物といえば、レモンのほかにもビタミンC含有量ナンバーワンのアセロラや、1997年(平成9)に本格的に輸入が始まったアマゾンのスーパーフルーツ、カムカムなどが浮かぶ。でも、それらはみな赤い。赤は完熟した果実を連想させるため、甘さをイメージさせる。対して黄色の明るさは、若さやフレッシュさを思い起こさせ、酸っぱさと結びつきやすい。あざやかなレモンイエローとさわやかな酸味、つまり見た目と味とがぴったり重なるからこそ、レモン神話が定着したのではないか。そしてそれは、広告がカルチャーとしてもではやされた1980年代を通じ、さらに強固なイメージとなっていったのだ。」とあり、なるほどと思いました。
 じつは、私が毎日飲んでいるる抹茶のほうが、お茶そのものを飲んでいるわけで、ビタミンCは確実に多く含んでいるそうです。
 下に抜き書きしたのは、第5章「【苦味】日本の麦酒と珈琲は「大人の味」か」に書いてあったものです。
 昔からお焦げが好きで、茶懐石などでも湯桶に玄米を炒ったものより、本当に釜の底に残った焦げ飯が入っていると、やはり風味が違います。また中国などに行くと、とくに四川料理ではこのお焦げのあんかけがあり、料理名は忘れましたがよく食べました。
 またコーヒーの苦味が、焙煎のメイラード反応から生まれることもこの本で知りました。そういえば、このコーヒーの嗜好も、戦後はいろいろと変わり、この本には「日本は、昭和の純喫茶からチェーンのコ―ヒーショップ、コンビニまでさまざまな場所で好みや気分に合わせ、多種多様なコーヒーを味わうことができるようになった。最近では、サードウェーブの揺り戻しからか、トルココーヒーやベトナムコーヒーなど苦味の強いコーヒーにミルクや砂糖を入れて飲むのも話題になっている。人々の嗜好は、酸味と苦味の間を行き来し、思い思いにその味を楽しんでいるのが現状だ。戦争の断絶によって、苦味の弱いものが一世を風靡したのはビールもコーヒーも同じだった。だが、そのあとが違った。コーヒーの現状をみるに、決して若い人は「苦味嫌い」とは言えないのである。」と書いてありました。

(2024.6.20)

書名著者発行所発行日ISBN
味なニッポン戦後史(インターナショナル新書)澁川祐子集英社インターナショナル2024年4月10日9784797681406

☆ Extract passages ☆

 焦げの正体は、加熱によって糖とアミノ酸などが結合するメイラード反応だ。この反応によって食品は褐色になり、香ばしい風味を生じる。カラメルやご飯のおこげを想像してもらえるとわかる通り、ほどよい焦げには、心地よい苦味がともなう。コーヒーの苦味も、じつは焙煎時のメイラード反応から生まれる。総じて好き嫌いが分かれる苦味のなかで、「焦げ」は数少ない万人受けする味といえるだろう。
(澁川祐子 著『味なニッポン戦後史』より)




No.2314『【新版】悠久の時を旅する』

 この新版が出たのは2020年10月25日ですが、今では2024年4月6日に第5刷が出ていますから、今でも人気があると思います。
 私も著者の写真や文章をいろいろと見たり読んだりしていますが、1996年8月8日にロシアのカムチャッカ半島のクリル河畔でヒグマに襲われて亡くなったとの報道には、ほんとうにびっくりしました。43歳でした。
 しかも、若くしてアメリカやメキシコ、カナダをバスやヒッチハイクで独り旅をし、それから大学に入り、自分でシシュマレフ村へ手紙を出し、それが縁で、シシュマレフ村のウェイオワナ一家と約3ヶ月を過ごしたり、まさに行動する人でした。だから、なんども危機を乗り越えてきたと思うから、まさかヒグマに襲われるとは考えてもいませんでした。
 私が今思うに、アラスカのグリズリーとロシアのヒグマでは、生活環境の違いなどで性質も違っていたのではないかと思います。本人も『シベリアの日誌より』の7月27日の日付けで、「夜、1頭のクマがbase campに現れ悩まされる。ちっとも逃げないのだ。」と書いてあるぐらいですから、ある程度は気づいていたようです。
 あらためてこの本を読んでみて、著者でなければできないことばかりで、おそらくこれからもこのような写真は撮れないのではないかと思います。だから、この本を見たり、読んだり、なかなか先には進めませんでした。
 この本の最後のほうに、NHK自然番組の元プロデューサーの村田真一さんの話しが載っていて、そこに、『「待つ」というのは星野さんの動物の撮影における核ともいうべきポリシーです。一カ月待ったものの結局、カリブーは姿を見せず、撮影空振りに終わった過去の経験が、星野さんの文章では幾度となく語られています、星野さんは、そうやって自然の中に一人で入っていき、自然と一体となることで、「自然の中で生きる命」というものを五感で丸ごととらえることができたのだと思います。そこから時間をかけて熟成され、紡ぎだされた言葉が、命輝く写真と相まって人の心を揺さぶるのでしょう。』と書いています。
 たしかに、この1枚の写真を撮るために、何日、何年待ったのかと思うような写真が何枚もあります。自分が通ると予測したところでも、空振りだったことが何度もあったはずです。ある動物写真家が、撮るということは待つことだというコメントを読んだことがありますが、まさにそうだと思います。
 この本のなかに掲載された写真やエッセイなどは、別な写真集や本でも読んだものがありましたが、ヘラジカの交尾については初めて読みました。著者自身が「シャッターを押す指が震えた」というぐらいですから、待ちに待った瞬間でした。それを抜き書きしますと、「その日、朝から観察していたヘラジカの群れに変化がおきてきた。雄ジカと雌ジカの相互のなき声がひんぱんになってきたのだ。夕方、小雪の降る中で、雄ジカが突然前足のひづめで地面に穴を掘りだした。するとどうであろうか。これまで採食をしていた十一頭の雌ジカがいっせいに頭をあげ、その雄ジカの行動をじっと見つめだした。何かが起ころうとしていた。雄ジカが穴を掘った地面に排尿を始めるやいなや、すべての雌ジカが集まってきた。そして我先にとばかりにその場にしゃがみこみ、雄ジカの排尿した場所に体をすりつけ始めた。それはワローイング(Wallowing)と呼ばれる交尾期の行動であり、発情した雄ジカと雌ジカが、お互いの体の匂いを交換するという働きをもっているといわれている。この行動がそのまま交尾に続きやすく、ぼくはかたずをのんで、じっと観察していた。入れかわりたちかわり、雌ジカはその穴場にしゃがみこみ、雄ジカは立っている雌ジカの排尿器の匂いをかぎながらフレーメンのような行動をとりはじめた。しばらくすると、雄ジカが一頭の雌ジカを誘い出すかのように離れさせ、二頭のヘラジカはトウヒの木立の中に入っていった。……二頭のヘラジカは立ち止まり、雄ジカは雌ジカの背に顔をのせた。しばらく静上した後、雄ジカはその後ろ足で一気に立ち上がり、その巨大な体が一瞬宙に浮きあがったように見えた。」といいます。
 成熟した雄のヘラジカの体重は800sもあるそうですから、近ずくのもこわいと思いますが、そのような恐れはみじんも感じられず、シャッターチャンスをじっと待っている著者の姿しか浮かびません。だから、このような写真が撮れるのだと思います。
 下に抜き書きしたのは、「早春」という題で書いてあったものです。
 著者は、冬が一番好きだとも書いてありましたが、春も長いキャンプ生活に入ることから、その道具を引っ張り出し、修繕したり買い直しをしたりする時期です。そのような希望に満ちるときに、つぶやいた一言です。
 こういう一言こそ、本音ではないかと思います。

(2024.6.17)

書名著者発行所発行日ISBN
【新版】悠久の時を旅する星野道夫(株)クレヴァス2020年10月25日9784909532435

☆ Extract passages ☆

 小さな焚き火が揺れている。パチパチパチパチ、僕の気持ちをほぐしてくれる。熱いコーヒーをすすれば、もう何もいらない。
 やっぱりおかしいね、人間の気持ちって。どうしようもなく些細な日常に左右されてゆくけど、新しい山靴や、春の気配で、こんなにも豊かになれるのだから。
 人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
 夜になり、星が出た。ランタンに火をともし、日記をつける。今年もまた始まった。
(星野道夫 著『【新版】悠久の時を旅する』より)




No.2313『糸暦』

 これは、連れ合いが図書館から借りてきた本で、山形出身の作家で、山菜の出羽屋の話しも載っているといわれ、読むことにしました。
 西川町には、山菜料理店として有名なのがこの出羽屋と玉貴があり、恥ずかしながら、私はどちらにも行ったことがありません。もともと出羽屋では、山菜ソバも出していたようで、調べてみると、今も1500円だそうです。ただ、山菜がメーンの懐石料理や宿泊ともなれば高くなるのは当然です。
 この本のなかに、笹巻き作りが出ていましたが、これはわが家の作り方と同じようです。それは、「まずは前の晩から餅米を水につけておき、それを大きなザルにあげ、水を切った餅米を笹の葉で包む。わたしが好きなのは、その形である。美しい、三角形をしているのだ。二枚の笹の葉を上手に使い、中に餅米を詰めて三角の形にし、その三つ角をそれぞれイグサで留めてある。祖母も母も手慣れたもので、形の整った三角形に仕上げるのはお手のものだったが、幼いわたしには、その構造がまるでわからなかった。わたしは、いつになく祖母や母を尊敬の眼差しで見つめていたように思う。それを、熱湯で茄でて、一晩風に当てて冷ましたら、完成だ。これに、砂糖と塩で味付けしたきな粉をまぶして食べる。」とあり、わが家では連れ合いと息子の嫁さんと孫娘の三人でつくります。
 このなかで、なるほどと思ったのは、「角が少しでも空いていると、そこが空気に触れて、カビが生えてしまう。だから、丁寧に餅米を包まないといけない。」とあり、いくら笹の葉に殺菌作用があったとしても、隙間なく笹の葉で包まないとダメなようです。
 これも、いわば保存食の一種だったのでしょうが、今では季節の風物詩になったようで、わが家では笹の葉がちょうどよい大きさになったときに作っているようです。
 あるとき、その笹巻きを知人に送ったら、その笹の葉を三角にして包みイグサで巻き上げたのがとてもきれいだとお礼の手紙に書いてありました。たしかに、この本でも著者の母親が、そのひな形を小さな笹で順をおいながらやり方を説明した紙を送ってくれたそうで、見ただけでは難しいと思います。
 この本のなかに、雪が多いほうが山菜の味には好都合だと書いてあり、その理由として、「日光に当たらない分、苦味やポリフェノールが長く蓄積される。雪が解けてくると、山菜は太陽に向かってグンと背伸びをするように顔を出す。」からとありました。ここ西川町も雪の多いところで、月山などでは夏スキーもできるほどです。
 ところが、最近は山形県内でもクマが街中まで出没するので、山に行くのもこわいときがあります。熊鈴などを身につけたりしますが、それでも熊が出てきたらどうしようもありません。出羽屋の四代目の佐藤治樹さんは、「山菜は熊の好物でもある。だから、山菜を食す熊と山菜は、当然相性がいい」と考えているそうですが、たしかにそれはそうだと思います。
 そういえば、今年の第47回三沢春の山野草展で、たまたま熊肉の差し入れがあり、熊肉の入った山菜汁を食べましたが、とてもおいしくて、展示会を見に来た方にも食べていただきましたが、初めて食べたかたもいて、たいへん好評でした。だから、山菜と熊の相性がよいというのもよくわかります。
 下に抜き書きしたのは、本編の暦とは別の「山形県・出羽屋」のなかの「秋の出羽屋さんへ」に書いてあったものです。
 私は、自分の山で山菜をとることもできるし、採り立てのたらの芽を天麩羅で食べることもできるので、この本に出てくるような感動はあまりないと思います。ある意味、自分で採った山菜を自宅で料理できれば、それが一番の美味しさです。
 ただ、キノコだけはここに書いてあるように採り立てがおいしいわけでもないので、それは食べてみたいと思います。

(2024.6.14)

書名著者発行所発行日ISBN
糸暦小川 糸白泉社2023年4月8日9784592733133

☆ Extract passages ☆

 そもそも、キノコは採れたてがおいしいわけではない。干したり、茄でたりすることで、旨味が増し、おいしくなるのだ。だから、それぞれのキノコの特徴を知り尽くし、それぞれに合った手を加えることで、極上の一品になる。
 ヌキウチはサルノコシカケ同様とても硬いキノコで、戦前は土の中に埋めて腐らせ、柔らかくしてから口に入れていたという。そんな調理法も、キノコ仲間との情報交換で知り得たもの。傘が閉じている方がおいしいか、はたまた開いている方がおいしいかもそれぞれのキノコによって異なり、キノコの世界はとにかく奥が深い。
(小川 糸 著『糸暦』より)




No.2312『あんこの本』

 たまたま図書館でこの本を見つけ、あんこ大好き人間としては、先ずは手に取って、サラッとみたら読んでみたくなりました。それで借りてきた1冊です。
 特にこれを食べて見たいと思ったのは、表紙の写真で、なかを読むと、葛城市當麻の中将堂本舗の「中将餅」です。『この界隈では、お正月やお祭りの時に、各家庭で手のひらほどもある大きなあんつけ餅を作って食べる習慣があるそうで、おじいさんは、そのあんつけ餅をひとロサイズにして売り出した。「あんこをぼたんの花びらの形にしたのがいつ頃かは聞いていませんが、あんつけ餅をひと口大にしてみたら、ぼたんの花びらに見えるなぁということで、こういうデザインにしたようです。」』と書いてありました。
 つまり、餅にあんこをつけたお菓子で、その濃いよもぎ餅と赤みの強いあんことのコントラストは絶妙です。
 しかも、當麻寺は、尼僧になった中将姫がひと晩で織り上げたといわれている當麻曼茶羅など多くの国宝や重要文化財がある古刹です。さらにボタンでも有名で、だからあんこをぼたんの花びらの形にしたというのも納得です。
 たとえば、このように餅にあんをつけた赤福も有名ですが、私も伊勢参りをしたときに赤福本店で食べましたが、この中将餅も店先で食べてみたいと思いました。
 この中将餅は、今では1年中打っているそうですが、いまでもこの界隈ではぼたんの開花期だけ「あんつけ餅」を売る家があるそうで、それらを食べ比べながら歩いて、お腹がいっぱいになったら當麻寺のボタンでもゆっくり見てみたいものです。
 そういえば、京都市出町柳の「出町ふたば」の豆餅も食べて見たいひとつです。並ばないと買えないと聞いているので、せっかく京都に行っても行きたいところが優先し、まだ食べたことがありません。ここは餅屋さんだそうですが、豆餅といってますが、いわゆる豆大福です。だからなかにあんこが入っていて、このあんこと餅の微妙なあんばいがいいそうです。
 3代目の黒本平一さんは、「こしあんは、主に餅の中に入れるものに使います。おはぎなど、あんが表に出るものは粒あんがおいしいと思いますね。でも炊く量は大部分がこしあんです」と答えています。著者によれば、「実は、お餅屋さんで、こしあんまで自家製のお店は稀である。京都の和菓子屋さんには、意匠に凝ったその店独特の菓子を出す上生菓子屋さん、饅頭や最中を出すおまん屋さん、餅や餅菓子を出すお餅屋さんの3種類ある。おまん屋さんやお餅屋さんは、粒あんは自家製でも、こしあんは仕入れという店が意外に多い。」と書いています。
 この本のなかにも、こし餡をつくるのはなかなか手間のかかるという話しがなんども出てきます。だからなのかはわかりませんが、製餡所というのが各地にあり、そこから仕入れるそうです。
 この小豆と砂糖をいっしょに炊いたのは、和三郎という菓子職人だそうで、小倉山のふもとの二尊院に「小倉餡発祥之地」という石碑が立っているそうです。この本のなかに、「大同4年(809)、空海が唐から持ち帰った小豆の種を和三郎が栽培し、弘仁11年(820)頃、その小豆と御所から賜った砂糖を煮詰め、御所に献上した、それが、日本で最初の「甘いあん」であり、つぶした小豆も粒のままの小豆も混在した、いわゆる「小倉あん」の始まりだという。」という話しが載っていました。
 おそらく、これは俗説でしょうが、「小倉あん」とつながって、それなりの体裁をとっています。
 下に抜き書きしたのは、「あんこの栞」に書いてあったものですが、ちくま新書に「万葉集と古代韓国語 : 枕詞に隠された秘密」という本がありますが、古代韓国の言葉と日本の言葉の関係から枕詞を説明しています。
 当たらずとも遠からずとも思いますが、この場合の古代韓国語というのは、つまりは高句麗や百済、新羅などの言葉で、今の韓国のハングルとはちょっと違うようです。
 それでも、「中の物」を「(ここにハングル文字が書いてありますが)アンコッ」というのは、おもしろいと思います。著者もご存じの方はご一報ということなので、ぜひ教えてもらいたいものです。

(2024.6.12)

書名著者発行所発行日ISBN
あんこの本姜 尚美京阪神エルマガジン社2010年3月15日9784874353165

☆ Extract passages ☆

 「あんこ」の「こ」とは何なのか。広辞苑には「餡こ」、ウィキベディアでは「餡子」と表記されているが、由来は説明されていない。ある製あん所の社長は「さらしあんが小豆の粉みたいだから″餡粉"じゃないか」と推理していた。ちなみに韓国語で「中の物」を直訳すると「アンコッ」ことなるのだが、何か関係はあるのだろうか。
(姜 尚美 著『あんこの本』より)




No.2311『「植物の香り」のサイエンス』

 このNHK出版新書のシリーズの「牧野富太郎の植物学」がおもしろかったので、この本を見つけ読むことにしました。つまり、植物つながりということです。
 副題は「なぜ心と体が整うのか」で、子どもたちの山野草体験などのときにフィトンチットなどの話しもしますが、ほとんどの人が山や森に入ると、なぜか爽快になるといいます。だから森林浴 なんですよというと、納得してくれます。
 私も一時、これに凝って植物の香料を部屋で楽しんだことがありますが、一番多かったのがラベンダーで、カモミールやペパーミントはお茶として飲んでいました。そういう経験があったので、この本の内容もすんなりと理解できました。
 この本では、香りとは何かについて、「小さな粒子です。どのくらい小さいかというと、ウイルスよりも小さく、数10ナノメートル(100万分の1ミリメートル)くらいです。私たちが香りを感じるとき、その粒子は気体になって空気中を漂っています。ただ漂っているだけでは香りを感じることはできませんが、その粒子が鼻の中に入って、鼻の中の「嗅覚受容体」と呼ばれる場所にくっつくと、脳に信号が送られます。そうして初めて私たちは、香りを感じることができるのです。……たとえば花の香りの場合は、花びらや葉や茎の中に、香りの粒子が混じっていて、そこから一部が気体になります。気体になった香りの粒子は、空気中に拡散されて薄まっていきます。ですから、花に近づけば強く香りますし、遠くであれば香りの粒子がたどり着く量が少なくなるので、香りも薄まります。」と書いてあります。
 たしかに、香りとはなにかと、直接聞かれると答えに詰まりますが、これでよくわかります。
 だから、風邪を引いて鼻がつまったり、自分で鼻をふさげば、香りの粒子が嗅覚受容体にくっつくことができませんから、香りを感じなくなるわけです。
 そういえば、一昨年の7月に北海道の旭岳に登ったとき、帰りに富良野のラベンダー畑に寄りました。たまたまでしょうが、日の出公園にはあまり人はいなかったので、ゆっくりとラベンダーのなかを歩きましたが、その日は富良野ホップスホテルに泊まり、ゆつくりと眠ることができました。この本によると、ラベンダーは良い睡眠を得るために昔から使われていたそうです。その主成分の酢酸リナリルとリコナールが含まれているからだそうで、その実験結果もグラフになって出ていました。
 その翌朝は、ぐっすりと眠ったせいか朝早く目覚め、朝食前にもう一度、日の出公園に行くと、人っ子一人いないラベンダー園のなかで、何万株ものラベンダーを独り占めできました。このときの気分は、最高でした。
 この本のなかに睡眠についても書いてあり、「睡眠不足の弊害は、日々のパフォーマンスを落とすことに留まりません。睡眠不足の人は認知症の発症リスクが高まるという研究報告もあります。また複数の研究から、死亡率も慢性的な睡眠不足によって上昇することが示されています。さらに睡眠不足は、心臓病や脳梗塞、うつ病など、重大な病気を引き起こす引き金にもなります。」と書いてあり、すやすやと眠れることはたいへん有難いと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第6章「医療現場で利用される香り」に書いてあったものです。
 この新潟県五泉市には、知り合いがいて、おそらくこのような話しを聞いたことがないと思うので、ここに抜き書きし、後から読んでもらおうと思いました。
 私もそうですが、それなりに年を重ねると、一番心配なのが病気などの健康に関するものです。そのなかでも、やはりこわいのがガンですから、ここにも書いてありますが、やっと研究が始まったばかりのようですが、この香りでガン細胞が小さくなったり、なくなったりすれば、これぐらいいいことはありません。ある意味、期待を込めて、多くの人たちにも読んでもらいたいと思います。

(2024.6.9)

書名著者発行所発行日ISBN
「植物の香り」のサイエンス(NHK出版新書)塩田清二・竹ノ谷文子NHK出版2024年3月10日9784140887165

☆ Extract passages ☆

 私たちは桜の中でも、新潟県五泉市に咲く八重桜「五泉桜」に注目して、その葉の抽出成分を詳しく調べました。また、その際に、五泉桜の持つ成分をより自然な状態で抽出するために、低温真空抽出法という方法を用いました。そのおかげで、香り成分をより多く含む五泉桜の抽出液を手に入れることができました。
 そして、五泉桜の葉の抽出液のヒトの体への作用を、ヒトのがんの培養細胞を使って調べました。すると、がん細胞は通常の培養条件では増殖していきますが、五泉桜の抽出液を入れると増殖が阻害されたのです。また、五泉桜の抽出液は、がん細胞の細胞死を誘導しました。
 これらの結果は、五泉桜の葉の抽出物の中に、ヒトのがん細胞に作用する新しい成分が存在することを示しています。がん細胞に直接投与した実験結果ですので、桜餅の葉を食べたからといって、がんに対して効果が期待できるわけではありません。しかしながら、これまで人間が利用していなかった成分が植物から見つかることで、新たな治療薬開発の可能性が広がります。
(塩田清二・竹ノ谷文子 著『「植物の香り」のサイエンス』より)




No.2310『海の見える風景』

 著者の早川義夫という名前を図書館で見て、思い出せずに借りてきて読むと、だんだんと記憶が蘇ってきました。そういえば、いろいろなアーティストがリリースしていますが、「サルビアの花」というのは、相沢靖子が作詞し、早川義夫が作曲したものです。私は「もとまろ」の歌が好きで、今も想いだしたように聴いています。
 おそらく、それで著者の名を覚えていたようですが、ウィキペディアには「日本のシンガーソングライター、著述家。1960年代後半にロックバンド、ジャックスのメンバーとして活動。解散後はソロとして活動を継続している。」と書いてありました。
 この本のプロフィールには、「1947年東京生まれ。和光大学人間関係学科中退。元歌手、元書店主、再び歌手、歌ったり書いたり休んだり。アルバムに『この世で一番キレイなもの』『恥ずかしい僕の人生』『歌は歌のないところから聴こえてくる』『I LOVE HONZI』。著書に『ラブ・ゼネレーション』『ぼくは本屋のおやじさん』『たましいの場所』『生きがいは愛しあうことだけ』『心が見えてくるまで』『女ともだち』などがある。」と書いてありました。
 でも、このプロフィールを読んでみても、なかなかその姿が浮かばず、それでも最後まで読むと、なんとなく少しだけわかるような気がしました。
 この本のなかで、『「人間にはA面とB面があって、相手のB面に惚れている夫婦は長続きするんです」と心理学者の植木理恵さんが『ホンマでっか!? TV』でおっしゃっていた。A面はその人の長所で、B面は弱点や欠点だ。好き同士で結婚したはずなのに、やがて離婚したくなってしまうのは(夫婦に限らないけれど)、あとからB面が気になり出すと、会話が成り立たなくなり、欠点ばかり見えてきて、すべてが不潔に思えてきてしまうからだ。』というのは、ある意味、人間の心理を突いているようです。
 人は長所も欠点もいろいろと持っているのが当たり前ですから、むしろ欠点を欠点とも思わないことが長続きする秘訣のようです。
 おそらく、著者も、そのような気持ちで生きてきたようで、いつも最後は、「どうして、しい子(妻の名前)とはうまくやって行けたのだろう」と思ってしまうのです。
 私が思うに、一番気にもせず、サラッとかわしながら生きていたのは、しい子さんではなかったのかと思います。何があったとしても、「私が一番面白いでしょ」と言ったそうですから、そう言われれば、なんとも返答はできません。それは、A面とB面でも同じです。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書いてありました。
 その「あとがき」の最初に、「面白いことがなくて、何を楽しみに生きていけばよいかわからなくなった。」とあり、この本の最初に、「妻に先立たれて、こんなにも寂しくなるものだとは思わなかった」とあったところをみると、妻に先立たれたことによって何を楽しみに生きていけばよいかわからなくなったようです。
 だからこそ、この抜き書きした文章が特に印象に残りました。
 そして、本のなかでもなんども妻の話を思い出すところが出てきて、私もそのようなことがないようにしたいと思いました。

(2024.6.5)

書名著者発行所発行日ISBN
海の見える風景早川義夫文遊社2023年12月10日9784892570797

☆ Extract passages ☆

 ご夫婦とカップルの男性に伝えたい。彼女がいるのが当たり前だと思ってはいけない。好き勝手なことをやっていたら、いつ別れを切り出されるかわからない。ある日突然、がんの宣告を受けてしまうかもしれない。ずっと仲良しで丈夫でいられるよう、健康には気を遣い治療方針まで決めておこう。
 妻が亡くなってから僕は初めて気づいた。誰よりも何よりも妻が生きがいだったのだ。後悔しないよう、悲しみが身体に染み込んだままにならないよう、今の十倍も百倍も千倍も優しくしておいた方がいい。
(早川義夫 著『海の見える風景』より)




No.2309『行基の見つめた国』

 行基という方は、もちろん知ってはいましたが、行基の師の道昭についてはまったく知らず、しかも道昭が玄奘三蔵の弟子となり、直接学んでいたことを知りました。そのことは、「道昭は629年河内国丹比郡の生まれ、船恵釈の子であり百済系渡来氏族の出身であると言われている。653年に遣唐使の船で学問僧として入唐し、玄奘の弟子となり玄奘から三蔵(経典・戒律・仏教学)を広く学び、他方玄奘の紹介により隆化寺で恵満に禅学を学んだと伝えられている。661年遣唐使の船で帰国。飛鳥の法興寺(飛鳥寺、後の元興寺)東南の隅に禅院を建てて禅を広め種々の経典を説いたと伝えられている。」と書いてありました。
 ということは、行基は玄奘三蔵の孫弟子になるわけで、法相宗や利他行などを学び、さらに徳光禅師より山林修行を学んだそうです。というのも、徳光禅師のいた高宮寺は金剛山の中腹にあり、近くには役行者が修行したところもあります。そのような縁で、徳光禅師より受戒を授かってもいます。おそらく、このような経験があって、薬草を使った施薬もできたのではないかと想像します。
 行基は次第に自分の教えに同調し協力してくれる人々を集め、布施屋と呼ばれるものを作っていきます。これは、街道筋に、「食料に欠乏した人々にとり食事を提供してくれる処や雨風をしのげる施設」で、だんだんと各地につくられていきます。この布施というのは、六波羅蜜の1つで、布施をすることによって貪瞋痴を離れるという修行であり、それが人々の助けにもなります。
 そういえば、行基というと、インフラの整備もありますが、これは相当な知識や力がなければできません。この本には、「道昭は河内国丹比郡出身で族姓は船連氏。船氏は百済系の帰化人である。大化改新のとき蝦夷宅で自害に立ち会い、焼失から歴史書を持ち出し中大兄皇子に献上したと伝えられている。船氏は歴史書の編纂に携わっていたとも考えられる。「フミヒト」としての役割を持っていた集団と考えられるが、「テヒト」と言われる技術力を持ち合わせている方面に助力を得られる帰化人の集団と接点を持ち合わせていないと、事は成し遂げ難い。こういう集団が存在していると明言出来ないが、協力者はいたと考えて良いのではないかと思う。行基も道昭の指導の下で利他行の意義や必要性を感じ取っていたと思う。今後自分が実行していくときにはどういうやり方がある のか、大きい課題を与えてもらったと感じていたと思う。」と書いています。
 つまり、井戸を掘ったり、道路や水路を造ったりの技術的なことはもちろん、その経済的な援助も大切なことで、それらをバックアップしてくれる存在も必要です。だから、布施屋からはじまったさまざまな救済事業も、国ではなかなかできないことでも宗教心と多くの人たちの支えにより、今に伝えられるような行基菩薩となったのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第1章「戒そして三階教に導かれる」に書いてあったものです。
 これを読むと、なぜ行基が人々を救済するために布施屋や施薬院のためのお寺をつくるだけでなく、生活のためのインフラの整備も行ったのかがよくわかります。行基年譜には、自院49院、架橋6ヵ所、池15ヵ所、溝6ヵ所、直道1ヵ所、堀川4ヵ所、船息2ヵ所、布施屋9ヵ所とあるそうですが、それだけでなく、どの程度関わったのかははっきりしませんが、聖武天皇の大仏建立にさいしても、その開眼の導師を依頼されながらも菩提遷那を推薦したということです。
 おそらく、考えようによっては、大仏建立より庶民の生活を最優先したいという思いがあったのかもしれません。それでも、行基の弟子の景静が都講を務めたそうですから、やはり相当な影響力は持っていたものと思います。
 読み終わって、著者のプロフィールを見ると、1948年に山形県鶴岡市で生まれ、福島大学経済学部を卒業後、神奈川県内の民間会社に勤務されたそうで、現在は福島に戻ってきているそうです。

(2024.6.2)

書名著者発行所発行日ISBN
行基の見つめた国長谷川 仁東京図書出版2024年3月9日9784866417295

☆ Extract passages ☆

 行基は菩薩たらん事を目指して以下の事柄の正覚(仏道の悟りをきくこと)を目指して「善行を納める修行僧たらんとする事」「利他の願を以て衆生救済を図る事」「民衆に仏法を説き仏道の縁を結ばせる伝道者たらんとする事」を念じて道昭の指導を受け、修行の道を深化させ、人々の救済の拡大に努め、仏の法を広く受け入れてもらえるように修行僧としての自己を高めるために精進に努めたと考えられる。
 道昭は師である玄奘より「経論は奥深く微妙で究め尽くす事は難しい、それよりもお前は禅を学んで、東の国日本に広めるのが良かろう」と禅の修行を進められ、道昭はそれを守ったと伝えられている。
(長谷川 仁 著『行基の見つめた国』より)




No.2308『教師 宮沢賢治のしごと』

 この本は、もともと1988年11月に小学館から単行本として刊行されたもので、文庫初版は2017年2月12日で、私が読んだのは2020年9月20日に第2刷のときの文庫本です。
 それでも、著者は、宮沢賢治に直接教えてもらった人たちを訪ねてこの本を書いたそうで、それから36年も経っていますから、このような実体験に基づいた本は書けないので、とても貴重な本だと思いました。それと、今の教育現場と比べると、いかに違うのかもわかり、とても興味深く読みました。
 たとえば、今年の春の入学試験で、福岡県にある私立博多女子中学校の担当者が願書を出し忘れ、この学校の生徒3人が希望する高校の入試を受験できなくなってしまったという問題がありました。その根っこには、今の先生があまりにも忙しすぎるということもあるでしょうし、高校側の硬直化した制度上の問題もありそうです。
 ところが、この本に出てくる話しはまったく違います。語ってくれたのは長坂俊雄さんで、「初め長坂は、自分の進路をまだ決めかねていた。それで、農学校を受験するという友だちについてきただけなのだ。時間がきて、友だちは試験場に入っていった。手持ぶさたになった長坂は、しかたなく校舎の脇にしゃがんで、石ころを拾ったりぶつけたりしていた。「そしたら、そこへ、廊下から一人の先生が出てきて、わたしを見つけたのですよ」彼は言う。「わたしを見つけて手招きするんですよ。で、行くと、『どうしたんだ』と訊くのです。それでわけを言ったんです。そしたら、『それでは退屈だろうから、君も試験を受けちやいなさい』と、いたずらっぼく言われたのです。それが賢治先生だったのです」。」と言います。
 このとき宮沢賢治は教師になったまだ3ヶ月しか経っていないのに、それなのに、『それでは退屈だろうから、君も試験を受けちやいなさい』と言えるのですから、なんと自由な雰囲気だったのかと、今の教育現場と比べてみて、とても新鮮でした。もちろん、長坂俊雄さんはこれをきっかけにして花巻農学校で2年間を過ごし、大きくその運命をも変えてしまったそうです。
 この本のなかの「或る農学生の日誌」のなかに、修学旅行の話しが出てきますが、自分の小学生の時のことを思い出しました。この本には「5月11日 日曜日 曇 午前は母や祖母といっしょに田打ちをした。午后はうちのひば垣をはさんだ。何だか修学旅行の話が出てから家中へんになってしまった。僕はもう行かなくてもいい。行かなくてもいいから学校ではあと授業の時間に行く人を調べたり旅行の話をしたりしなければいいのだ。北海道なんか何だ。ぼくは今に働いて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルヘでも行って見せる。」と書いています。
 これはだいぶ前の話で、修学旅行は県の規則で、全級の三分の一以上が参加しないと取りやめになったそうです。私たちのときでさえ、行けない人はいましたし、私自身もなかなか修学旅行の納付金を親からもらえず、期限までおさめられなかった苦い経験があります。結局は行けましたが、クラスで何人かは行けない人もいて、おそらく、このようなイヤな思いをしていたのかもしれないと感じました。
 このような話しを今の子どもたちにしても、まったくわかってもらえないし、いつの時代の話しなんだと思われるかもしれませんが、たかだか60年ほど前のことです。
 そういう意味では、このような話しを載せるということは、たいへん有意義なことだと思います。
 著者は、「後記」のなかで、「問題の本質は、この国では、賢治が花巻農学校で教壇に立った六十数年前といささかも変わっていない。むしろ教師の仕事のやりにくさは、六十年前の賢治の時代の方が、もっとひどかったとも言えるかもしれない。そんな中で、賢治は、今でいう○×式の授業法に真向から反対し、イメージと、ゆとりと個性を尊重する、はじけるように生き生きとした授業を、実践したのである。あのころの紅顔の生徒たちももう八十。貴重な証言を埋没させてはならないと、歩き、聞き、推理を重ねてこの本が出来た。間に合ってよかったとほっとしている。」と書いていますが、私もその通りだと感じています。
 下に抜き書きしたのは、第13章「非行問題・学力試験」に書いてあったものです。
 私も非行少年たちとの接点があるからわかりますが、そのほとんどは家庭の問題だったり、友人問題だったりして、ねっからの悪い人はほとんどいません。
 だから、賢治のように親身になって対応してくれると、その子もその後の人生も、ガラッと変わります。私にも同じような経験があり、親に勘当までされたのですが、結婚し子どもが生まれたとき、その勘当したはずの親といっしょにわが家を訪ねてきたときには、ほんとうにうれしかったです。

(2024.5.31)

書名著者発行所発行日ISBN
教師 宮沢賢治のしごと(小学館文庫)畑山 博小学館2017年2月12日9784094063974

☆ Extract passages ☆

 ある年の2年生に盗みの非行をくり返して問題になっている生徒がいた。学校の職員会議は、ついにその生徒を退学処分にすることを決めた。
 が、賢治は連日警察に通い、その生徒を不起訴にしてもらい、校長以下職員たちも説得して、退学処分を解かせている。
 そうやって救い出した生徒を、自分の盛岡高等農林時代の先輩で樺太豊原にいる人を訪ねて、就職させるところまで面倒をみている。
 誰か生徒と向き合うとき、それが勉強の場であっても、こうした人生の歩み方の場であるときにも、常に賢治は、今日の前にいる生徒を、今日の前に見える姿ではなく、手がかくあるはずだという理想の形に置き変えて話していた。
 それが賢治の人間教育の基本であった。
(畑山 博 著『教師 宮沢賢治のしごと』より)




No.2307『養老先生、病院に行く』

 もともと東大の解剖学者で、つまりは医師なのに、病院に行くのが嫌いだそうです。だから、この本の『養老先生、病院に行く』という題名も生まれたわけで、病院へ行くだけで話題になるなんて、考えて見ればおもしろいと思います。しかも、飼っていたネコ、「まる」というそうですが、亡くなったときにニュースにもなったというから、びっくりです。
 つまり、ある意味、著名人だからこそのエピソードで、私が病院は嫌いだといっても、「あ、そうですか」と言われるだけです。
 それでも、読んでみると、いろいろとおもしろいことが書いてあり、ときどき元医者なのにと思ってしまいました。
 では、なぜ病院に行くのがいやなのかというと、第5章の特別鼎談のなかで、2人に著者に、現在イタリアに住んでいるヤマザキマリさんが加わり、そのなかで本音らしきものが書いてありました。それは、「今、病院に行こうとしたら、医療というシステムに参加せざるをえません。いわば今まで野良猫のように生きていた自分が、家猫に変化させられるようなものです。そうすると、甘いものは食べるなとか、タバコをやめろとか、自分の小さな行動まで点数化されてしまいます。まるでコロナの自粛下における、さらなる自粛の強制みたいなものです。だから、医者に行く決意をするにあたって、いろいろ考えざるをえなかった。まあ、もう歳だから、野良猫として暮らそうが家猫だろうが、残りの人生は長くはない。そう観念して、古巣の東大病院(東京大学医学部附属病院)に行く決心をしたわけです。」です。
 たしかに、私もそうは思いますが、やはり病院に行かないと治らない病気やケガもあります。猫が自分でケガをした足をなめて治すこともありそうですが、人間はそんなことはできません。そういえば、先日のテレビで、オランウータンが薬草を自分でかんで、その汁を目のわきのケガをしたところに塗って治したという報告が放送されていました。だから、昔は人間だって自然のものを使って病気やケガを治していたでしょうが、今は特に高度医療が必要な場合はそんなことはいってられません。
 おそらく、養老先生の場合は、いつでも駆けつけてくれる名医がいるから安心でしょうが、私たちはまったく病院に行かないよりは、少しだけお近づきになっていた方がいいと思います。  そういえば、私も昔からかかりつけ医がいたのですが、その先生が亡くなり、今はその息子さんにお世話になっています。海外に行くときには破傷風の予防接種もしてもらいましたし、新型コロナのワクチンのときも、そこで接種しました。やはり、なんでも相談できるお医者さんがいるということは安心です。
 この本には、「医者選びの基準は「相性」です。現在の医療は標準化が進んでいますから、基本的に誰が主治医になっても同じ治療が行われます。一方、人には好き嫌いがあるので、相性が重要です。夫婦や、教師と生徒の関係にも似ています。もう1つ、医者選びは自分と価値観が似ているかどうかも重要です。例えば、もう延命は望まないと思っているのに、主治医が延命を勧めたら、ストレスになってしまいます。もう治療はここまでという私に対し、じゃあこのくらいにして、あとは様子を見ましょう、と言ってくれる医者でなくてはいけないのです。」と書いてあり、主治医的な立場の中川先生は、第2章のところで、「養老先生は何も変わらなかったというようなことを言っていますが、……入院中は「医療もよいものだ」と考えていたのではないでしょうか。」と書いています。
 やはり、病気になったら病院で治してもらうことはむしろ当然なことで、嫌いだから病院には行かないと言っていられるだけ、健康だということです。
 下に抜き書きしたのは、第1章の「病気はコロナだけじゃなかった」に書いてありました。
 著者の話しには、猫のことがよく出てくるのですが、ここでも飼い猫の「まる」の話しです。そういえば、猫は家につく、犬は人につくといいますが、そういう意味では猫は自分中心なのかもしれません。
 私も、この「身体の声にしたがって生きる」のは、とても大切だと思うので、これからもなるべく薬を飲まずにすませればいいなと思っています。ちなみに、今現在は、病院からもらう薬は、飲んでいません。市販薬もそうですが、それでもビタミン剤は飲むことにしました。

(2024.5.28)

書名著者発行所発行日ISBN
養老先生、病院に行く養老孟司・中川恵一(株)エクスナレッジ2021年4月7日9784767828817

☆ Extract passages ☆

 動物は意味ではなく感覚だけで生きています。猫が日当たりのよいところにいるのは、そこにいるのが気持ちよいからです。すべての猫を見たわけではありませんが、少なくともうちの猫(まる)は正直です。そこにいたいからそこにいる。身体の声に従って生きているのです。
 ただ、身体の声を聞こえるようにするには、自分が「まっさら」でなければなりません。私は花粉症がありますが、症状がひどくても、これまで薬は飲まないようにしてきました。薬で症状を抑えてしまうと、身体の声が聞こえなくなるのではないかと思うからです。
(養老孟司・中川恵一 著『養老先生、病院に行く』より)




No.2306『旅は人生を変える』

 私も旅が好きなので、ついこのような題名の本を手に取ってしまい、最後まで興味深く読んでしまいます。しかも、この著者は、ロンリープラネットの元CEOで、まさに旅のエキスパートです。
 しかも、著者がインタビューをしている方々も旅のエキスパートですから、みなそれぞれに個性のある旅ばかりで、いつかはこのような旅をしてみたいと思うばかりです。
 最後まで読んで、『旅は人生を変える』というより、旅で自分の人生を変えてきた人たちばかりのような気がしました。だから、旅イコール人生で、それを切り離すことができないようです。なかには、私も強く印象に残った場所が出たりすると、ついその時に撮った写真を見かえしたりして、つい思い出にふけってしまいました。なので、いつもより、読書時間が長くかかったようです。
 そういえば、だいぶ前に、旅を英語でトラベルというけど、それはトラブルが多いからだそうだと聞いたことがあります。でも、私の場合はそれほどトラブルに巻き込まれたことはないのですが、マダガスカルに行ったときに、国内線に乗ったら乗客のほとんどの荷物が載ってなくて困ったことがあります。一番困ったのはカメラの電池が充電できないことで、私の場合は、たまたまフロントの方が同じスマホを持っていたのでそのコードを借りて、カメラ本体で充電できたからよかったけど、友人はそれができなくて、あまり写真が撮れなかったといいます。しかも、ここはマダガスカルのハイライト、バオバブ並木があるところで、撮影スポットがたくさんあるのでちょっと残念でした。着替えなどは、現地でTシャツとパンツを買えば、夜のうちに洗濯をして、朝にまた着ればいいし、もともと水は現地調達なので問題はありません。
 この本のなかで、ビューティフル・デスティネーション創業者でCEOのジェレミー・ジョーンシーさんが著者のインタビューに答えて、「旅を通じて自分で本当に経験しないとそのことは理解できないでしょう。つぎに言いたいのは、世界には未知のことがたくさんあるということです。そして旅をすると、珍しいことがたくさん起こります。そうした経験を自発的に行うことで、完全に、根本から人生が変わります。旅を恐れ、旅をしたくない人は、悪い変化が起こることを心配しているようです。わたしはこれまでどんなときも、たとえ短期的には悪い経験をしたときでも、それを乗りこえたことは長期的にはよい影響を及ばし、人生を豊かにしてくれたと思います。」と話しています。
 つまり、旅のどんな経験でも、旅に出ないよりはいいということです。しかも、もし心配なら、気が済むまでじっくりと計画を立てることもできます。しかし、それでもたまにはトラブルがあるとすれば、それも新しい経験だと思えばいいわけです。
 そして不思議なことに、そのトラブルが後になって考えると、意外と楽しかったことと結びつきます。あの台風に出合ったから、あんな素敵な風景が見られたんだというように……。
 下に抜き書きしたのは、ティファニー・アンド・カンパニーのチーフ・サスナビリティオフィサーのアニマ・カマドリ・コスタさんの話しです。
 アニサさんは、サステナビリティの責任者で慈善事業の専門家だそうで、企業間の提携にも関わっています。そして、子どものころから両親の仕事の関係もあり、旅をしてきたそうです。
 そのなかで、「最近になって気づいたんですが、仕事で旅しているときに迷うことを、大変なことだと思う必要はありません。公共交通機関を使うのは環境にやさしいだけでなく、現地の人であれほかの旅行者であれ、人と会って話をするいい機会になります。人は気づかないうちに自分を孤立させてしまうことがあるので、わたしはそうした状況を変えようとしてきました。家族と、あるいはひとりで旅をしているときは、仕事のときにいつも利用するホテルとは別のところに泊まります。以前はずっと同じホテルにしていたんですが、そうしたことをもっと考え、意識するようになりました。」といい、やはり、旅に出ることでも変わりますが、自らも意識的に変えようとする自覚が必要だと感じました。

(2024.5.25)

書名著者発行所発行日ISBN
旅は人生を変えるダニエル・ホートン 著、岩崎晋也 訳A&F2023年6月15日9784909355379

☆ Extract passages ☆

ときどき思うんですが、アメリカ人はさまざまなものを取りいれます。たとえばィンド料理があります。もちろんそれはインド料理です。でもインドや中国では、数多くの特別な料理や地域ごとの特色があって、現地に足を通ばないとそれを食べる機会はないんです。
 だから、人々に会い、場所や空間の美しさを自分の目で見ましょう。歴史的な建造物や自然の美はさまざまな国にあります。わたしたちはそれを当然のように思っているのではないでしょうか。わたしは北極圏の、アラスカ州のブリストル湾に行けたのはとても幸運だったと思っています。それぞれの場所に、それぞれの美しさがあります。地域の文化が、地形や気候の影響を受けていることや、地形や気候は祭りや食べ物と関連していて、観光の呼び物となっていることを知るのはとても面白い。わたしはいつも、自分がどこかへ行きたいと思っても、そのすべてに行くことはできないという心配をしているんです。
(ダニエル・ホートン 著、岩崎晋也 訳『旅は人生を変える』より)




No.2305『世界は経営でできている』

 この本の題名を見て思い出したのは、企業と同じように政府の施策も会計的な手法を使って損得を可視化すべきだと思い、大学では社会会計学のゼミに入ったときのことです。その当時は、社会会計学を研究していたのは中大の合崎先生しかいなくて、そこに入るために受験勉強をし、またゼミの試験は苦手な英語が中心だったので、とても苦労したことを思い出します。
 今でも、卒論を先生に製本してもらい、研究室に置いてあったのですが、退職を機に私の手もとに戻り、現在も大切にしています。それほど、社会会計というものに関心があったということです。
 この本は、世界は経営でできているということで、「はじめに」のところに、「日常は経営でできている」と書いています。そして、この本で言いたいことは、
@本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。
A誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。
B誰もが本来の経営概念に立ち返らないと個人も社会も豊かになれない。
 ということで、いかに経営というものが大切かがこの本を読めばわかるといいます。しかも、その問題意識を「令和冷笑体エッセイ」にするということで、ちょっと意味不明ですが、先ずは読むしかないということです。
 たとえば、「3 恋愛は経営でできている」のなかに、「マッチングとしての恋愛から脱却する方法として「気が合う人を最良の恋人だと思い込む」という手がある。すなわち、理想の人がいないと嘆くのではなく、自分の行動と思考を変えることで相手との理想的な相互作用を生み出していくのである。他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる、という発想だ。」とあります。
 つまり、世の中に自分の理想通りの相手はなかなかいないので、それを相手に求めるより、自分のほうが相手に気に入られるように変わるということらしいのです。たしかに、よくこのような考え方を書いている本もありますが、それができればいいけど、できない人だっています。私も相手に合わせてまで付き合いたいとは思いませんし、まして、結婚しようとは考えもしません。しかし、時代は変わってきてますから、これから先のことは、もしかするとこのようになるかもしれません。
 また、「12 老後は経営でできている」には、「老後をめぐる悲喜劇の数々に共通する特徴の一つは、「目的と手段の不整合」「目的と手段の転倒」だ。これはまさに経営問題といえる。目的と手段の位置づけを誤って、自分に配慮して欲しくて自慢話をするが、そのせいでますます配慮を得られないような状況に陥る人はあまりに多い。」と書いてあり、だからいろいろな問題を起こすとあります。
 しかし、別な見方をすれば、前回のNo.2304『老年を愉しむ10の発見』で読んだように、老人というのはそのように考えるようになり、子どもと同じように自分中心になりやすいものです。だから、むしろ、そうならないように注意すべきだとは思いますが、これが経営問題と同じかといわれれば、ちょっと違うのではないかと思います。
 たしかに、「2 家庭は経営でできている」や「8 仕事は経営でできている」などは経営感覚も大切だとは思いますが、それだけで割り切れるものでもなく、だから人生はおもしろいのです。まさに、人生いろいろ、人もいろいろです。
 下に抜き書きしたのは、第5章の「虚栄は経営でできている」に書いてあったものです。
 たしかに、虚勢や虚栄はエサを奪い合う野生のサルの本能のようで、身につけているブランドを誇示しているようなところがあります。
 それでは、あまりにもサル真似のようで、見苦しいところが感じられ、むしろしらけてしまいます。だいぶ前にある本に、人がダメになったのは3つの庫があるからだという話しが書いてありました。その3つの庫というのは、金庫、倉庫、冷蔵庫です。つまり、人はため込むようになるからダメだという発想です。たしかに、これも一理あり、過度にならないようにと心がけています。
 最後の謝辞に、「本書は他力でできている」と書いてあり、確かにその通りだと思いました。しかも、読者に読んでもらわなければ何も伝わらないのだから、最も大切なのは読者ではないかと私もパロディ的に考えました。

(2024.5.21)

書名著者発行所発行日ISBN
世界は経営でできている(講談社現代新書)岩尾俊兵講談社2024年1月20日9784065346440

☆ Extract passages ☆

 霊長類の中でも昆虫を含む広義の動物を食べる雑食のサルは、動物というエサを得られる機会が比較的少ないことから、常にマウンティング行動をとって上下関係を確認しているとされる。そうしなければ、狩猟を終えるたびに肉という限りある資源の配分をめぐって激しい争いが巻き起こり、種の生存が脅かされるからだ。
 一方で、そこら中に無尽蔵に生えている植物を主に食べるゴリラはこうしたマウンティング行動はとらない。それどころか、自分が食べている植物を欲しがる他のゴリラが周囲にいたらそれを惜しみなく分け与えるそうだ。……だとすれば尊敬という価値を「有限の奪い合い」から解放して、協働しながら「無尽蔵に創造」していけばいい。
(岩尾俊兵 著『世界は経営でできている』より)




No.2304『老年を愉しむ10の発見』

 年をとっても何でも愉しみたいと思い、この本を読むことにしました。著者はドイツのヴィルヘルム・シュミットで、訳者は津崎正行、そして解説は養老孟司です。なぜか、活字の大きさは著者と解説者が大きく、訳者は少し小さいのが気になりました。
 「解説者のことば」は最後のところに『「老いを語る」とは、「生きること」を語ること』という題で、5ページほど書いてありました。
 さて、著者は「はじめに」のところに、「老化をそのまま受け入れ、それを抗わないこと」だと書いています。そして、「アンチ・エイジング」より「アート・オブ・エイジング(年をとる術)」を身につけることが大切だといいます。要するに、いろいろ考えても年はとるものだから、自然体で過ごしなさいということのようです。
 ただ、それでも「年をとる術」はあるのだから、少しは愉しむことをこの本にまとめています。第1章は『人生には「さまざまな階段」がある』、第2章は『「自分に起こる「変化」と折り合いをつける』、第3章は『「「心穏やかに生きる」のに欠かせないもの』、第4章は『「受け入れ、愛せる」人』、第5章『アクシデントとどう向き合うか』、第6章『「触れ合う」ことで満たされていく』、第7章『人生を豊かにする「つながり」』、第8章『深い思慮がもたらすもの』、第9章『「そのとき」を迎える心構え』、第10章『「生きる意味」について』、です。
 つまり、この10章に書かれていることをヒントに老年を愉しむ発見をしてほしいというわけです。
 たとえば、第4章の『「受け入れ、愛せる」人』に、「人生はあまりにも短すぎて、まずいコーヒーを飲んでいる時間などない」と書いてありました。私も毎日、自分で抹茶を点てて飲んでいますが、昔は値段と相談して飲んでいましたが、最近はなるべくならちょっといいものを飲んでいます。つまり、いつまで飲めるかわからないからという理由付けです。
 著者はこのあとで、「大量に飲むことができなくなればなるほど、コーヒーの一滴一滴がいっそうおいしく感じられるようになる。「泰然とした落ち着き」とは、このような喜びに満たされることだ。」と書いていますが、まさにその通りです。誰に呼ばれることもなく、ゆっくりと湯を沸かし、お菓子を準備し、お抹茶を点て、その写真を撮ってからいただきます。それが毎日の愉しみでもあります。
 また、この写真を撮ることと同じですが、記録というか、思い出を残す工夫もしています。著者は、「年をとってから大きな意味を持つようになるのは、思い出を楽しもうとする気持ちだ。視線が前を向いているうちは、それが大きな役割を果たすことはない。しかし年を重ねていき、しだいに過ぎ去ってしまったことに関心が向けられるようになると、これまでの人生で体験したことや、なしとげたことを振り返って楽しむようになる。思い出にふけることがいっそう楽しいのは、結末がすでにわかつており、「最後にどうなるのかわからない」という不安に、もう耐えずにすむからだ。」と書いています。だから、私も昔はアルバムを作っていましたが、家を建て替えることになったときに、本当に大切なものはスキャンし、すべてデジタル化しました。カメラも早くからデジタルカメラにして、撮ったものはすぐに補正し、最初はCDやDVDなどに入れ、今はブルーレイと外付けのハードディスクに入れています。
 だから、いつでもパソコンのディスプレイに出せるので重宝しています。おそらく、旅行に行きたくても行けなくなったら、これらを見ながら、思い出にふけるのではないかと思ってます。
 そういえば、解説の養老孟司氏の話しで、「生老病死はヒトの自然である。すべての人が例外なく、この自然を通り過ぎていく。ただし、それを意識する機会があまりない。たいていの人は、日常を忙しく働いているからである。だからたまには本を読んで、考える機会を作ったらいい。」とあり、働き盛りは忙しさも必要だし、老いのさまざまな局面に触れてきたら、そのときに考えればいいというのはたしかにそうです。むしろ、日本人にはよくわかることです。
 下に抜き書きしたのは、第2章は『「自分に起こる「変化」と折り合いをつける』にあったものです。
 たしかに、今までの積み重ねが花開くときでもありますが、少しずつ老いの兆候も出てきます。一時は、これは老いだからではないと自分にいい聞かせながらも、やはり老化現象だと気づきます。自分が子どもだったときのことを考えれば、赤いちゃんちゃんこを着るというのは、子どもに帰るということでもあります。
 だとすれば、徐々に他の人に面倒をみてもらわないと生きてはいけなくなります。それを早く納得するしかなさそうです。

(2024.5.21)

書名著者発行所発行日ISBN
老年を愉しむ10の発見ヴィルヘルム・シュミット 著、津崎正行 訳三笠書房2017年10月25日9784837957812

☆ Extract passages ☆

 子供は、幼いうちこそ他人に面倒をみてもらわなければ生きていけないが、成長するにしたがって、徐々に自分のことは自分でできるようになる。
 一方、老年期の人々の場合は、これとは逆のプロセスをたどる。つまり、自分でできたことができなくなり、徐々に他人に面倒をみてもらわなければならなくなるのだ。
 年を重ねる中で、私たちは多くの点において、生まれてからこれまでの成長をもう一度、繰り返す。
 ただし、今回は進む方向が逆なのだ。
(ヴィルヘルム・シュミット 著、津崎正行 訳『老年を愉しむ10の発見』より)




No.2303『厨房の哲学者』

 たしか今年の1月だったと思うけど、「Mr・サンデー」で脇屋友詞シェフを取りあげた特集があり、「中華の革命児」とか「人生突破術」などと表現されていました。そのなかで、「重要なのは、何かを選ぶこと。選ばなければ、人生は始まらない」という言葉で、たしかに先ずは何かを選ばなければ先に進めません。
 そして、人生のなかで自分探しみたいなことをいつまでも続けていても、探し続けるだけはだめで、先ずはやってみることです。著者が、お袋からとにかく3年は我慢しなさい、もし3年必死にがんばってもダメなら、何でも好きなことをしてもいいといわれたそうです。おそらく、ほとんどの人は、3年もやり続ければ、何かおもしろいことが見つかるはずで、著者はお袋のその言葉で50年やってこれたといいます。
 このテレビはとても興味深いもので、覚えていたのですが、この本を図書館で見つけて、そのときのことを思い出しました。たしかに、多くの人たちとの出会いから今の脇屋友詞シェフがあると思いました。
 たとえば、中国料理では1名分のコースメニューはなかったのですが、著者は、「中国料理店にはなかったというだけで、フランス料理でも日本料理でも、それが当たり前だったし、逆に中国料理店はなぜそれをやらないのか不思議なくらいのことではあった。それでも業界の常識に反して、他の店のやっていないことをやるのは、実際にやってみてわかったことだけど、結構な決断が必要だった。お客さんが入らなくて困っていたから思い切ってやれたのだ。そういう意味では立川に行ったのは僕の幸運だった。『楼蘭』が都心の店で、最初から上手くいっていたら、きっとそんなことはやらなかっただろうから。」と書いています。つまり、お客さんが入らなかったから、入ってももらうために1名分のコースメニューをつくったわけで、それほど期待していたわけでもなく、宣伝や告知もほとんどしていなかったそうです。
 でも、私も少人数で中国料理を食べると、品数が限定され、もっといろいろ食べてみたいと思っていたのですから、多くの人たちも同じように考えていたようです。そして、予約が入り始め、お客さんにも喜ばれると、まさに人気に火が点いたようです。
 しかも、中国料理は無尽蔵にあるようで、最初に入った『山王飯店』は201品、『楼蘭』は293品がメニューに載っていたそうで、立川のリーセントパークホテルの『楼蘭』はグランドメニューは181品だそうです。
 そういえば、今は少し変わってきたと思いますが、中国の奥地に行くと、料理をする材料が並べられていて、それを見てお客が選び、たとえば炒めるとかゆでるとかの料理法を指示するのです。だから、それだけ考えても、相当数のメニューがあります。この本には、「内容で困ったことはない。そもそも中国料理のレシピはほとんど無尽蔵にある。調理法も多種多様だ。焼く、炒める、揚げる、蒸す、茄でる、窯で焼く……。同じ焼くにしても炒めるにしても、さまざまな焼き方炒め方がある。調味料も香辛料も、北の産物から南の産物まで驚くほど豊富で、味つけも千変万化。中国料理には地球上のありとあらゆる食材を料理する方法がある。……中国料理の歴史は、極言すれば、自然の産物である食材と人間の格間の歴史だ。単に食べるためではなく、いかに美味しく食べるかに、時として命さえかけるのが中国の人々だ。何百、何千という食通たちの食に対する愛情と工夫の積み重ねが、中国料理という豊穣な文化を育んだのだ。」とあります。
 たしかに、中国には地球上の10%の植物と、14%の動物の種類が存在しているともいわれていますから、食材がとても豊富です。そして、人口が多いこともあり、災害や飢饉などに苦しめられながら生み出された多種多様な食文化もあります。また、宗教の食に関する制限も少なく、目立つことが好きな人も多く、つい誰も食べていないような料理を注文することだってありそうです。
 下に抜き書きしたのは、「プロローグ」に書いてあったものです。
 これは中卒で『山王飯店』に入って、その日から毎日中華鍋を洗い続けたときのことです。「Mr・サンデー」でとりあげられた「3年は我慢しなさい」という仕事のことで、先ずはこのような経験がなければ一人前にはなれなかったし、それ以上の高みに上ることもできなかったと思います。
 今の時代は、あまり苦労をせずにお金が入ることがいいという風潮がありますが、仕事の喜びに結びつくということはなさそうです。
 ただ、この本の題名が『厨房の哲学者』というのは、いかにも幻冬舎らしいと感じました。

(2024.5.18)

書名著者発行所発行日ISBN
厨房の哲学者脇屋友詞幻冬舎2023年12月5日9784344042100

☆ Extract passages ☆

 何かに根気良く取り組む力、逆境に立ち向かう闘争心、あるいはユニークな発想や野心、そういう僕の中に潜んでいた能力とか、もしもあったとするなら僕の才能を引き出してくれたのが中国料理だった。
 中華鍋に出会わなければ、僕はおそらく本当の自分と出会っていなかった。つまり自分の天職と巡り合うことはなかった。
 そして何よりも、中国料理という驚くほど豊穣で、神秘的なほど奥行きのある料理の世界を知ることはなかった。
(脇屋友詞 著『厨房の哲学者』より)




No.2302『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』

 ある程度の年齢の方で、NHKの下重暁子さんといえば、ほとんどの方が知っていると思いますが、最近の若者は知らないかもしれません。とても歯切れが良く、もともとはアナウンサーですから当然でしょうが、すっきりとした話し方をされる方です。
 しかも、今は作家を生業にしているそうで、そういう意味では清少納言に惹かれるのもわかるような気がします。昔は、紙はとても貴重品で、誰でも彼でも手に入るものではなかったようで、それを手に入れて書くということは、知識以上に地位もなければならなかったようです。この本には、「特に女の場合、男の判断が大きく物を言った。男達は、中国から渡って来た漢詩や漢文を学ぶために必須のものとして貴族や知識人のみが持つ特権である紙は行き渡っていた。しかし女達、いかに才ある宮仕えの女性でも紙を手に入れることは困難だった。定子や彰子など皇后や中官になる女達はそれ相応の教養を身に付けるために手に入れることができただろうし、清少納言や紫式部はその教育係として、日頃から紙を手に入れる方法はあったのだろう。」と書いています。
 だとすれば、紫式部の「源氏物語」も、その長い物語を記す紙がなければならないわけで、まさに時の権力者である藤原道長がいなければ完成しなかったのではないかと想像されます。
 だから、「枕草子」のなかに、『この草子を、「人の見るべきもの」と、思はざりしかば、「あやしきことも、憎きことも、ただ思ふことを書かむ」と思いしなり。』と、第134段に書いてますが、著者は、それはないといいます。いくら清少納言がこの草子は人の目に触れることなど思いもしなかったから、下品なことも不快なこともただ思いついたことを書いた、といっても、貴重な紙を使う以上は人の目に触れることは意識していたはずだし、それを望んでもいたといいます。
 考えてみれば、「紫式部日記」も「和泉式部日記」も、いわば日記文学であって、だからこそ現代まで残ってきたわけです。おそらく、貴重な紙を使うということだけではなく、何らかの参考にもなるというような思いもあったのではないかと想像します。
 この「枕草子」からちょっと離れますが、著者が早稲田大学で近世文学を学んだのが暉峻康隆先生で、その人の思い出がとても印象に残りました。それは、「その先生(暉峻康隆)が一度だけ俳句ができなかったのは奥様に先立たれた時、「あの時だけは俳句ではなく短歌しか作れなかった」という言葉にこそ、俳句と短歌の違いが表れている。その心の内には五七五ではとでも言い足りないものがあったのだろう。悲しみや心の奥の苦しみ、嘆きをつい吐露したくなったのだと思う。その時の先生の表情を忘れない。人は俳句人間と短歌人間の両面を抱えながら自分の道を日々模索しているのだ。」という文章です。
 私も俳句も和歌も、そして短歌も好きですが、この文章を読んで、その違いがはっきりと意識できました。
 ということは、私もその両面があるということで、それぞれにその良さがあるということです。
 下に抜き書きしたのは、第5章「ひとりになったら、ひとりにふさわしく」のなかに書いてありました。
 この文章のなかに、「限度を決めずおめでたくあること」というのがありますが、この少し前に、「おめでたいということはその人の持つ才能だと私は考えている」といい、つまり"いつか必ず"と思えることが自分を信じているからこそだといいます。
 そういえば、昨年のWBCの決勝戦の前に大谷翔平選手が「憧れるのをやめましょう」といいましたが、憧れていてはその憧れの選手には勝てないのは当然です。その限度を打ち破ってこそ、新たな世界が開けてくるもので、おそらく、この思いは同じではないかと思いました。

(2024.5.15)

書名著者発行所発行日ISBN
ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考下重暁子草思社2024年2月29日9784794227065

☆ Extract passages ☆

 期待は自分にするものである。他人に期待したら、不平と文句ばかりつのるが、自分に期待する分には期待はいくら大きくてもいい。できなければ自分にもどってくるだけだし、必ずとは言えないが思いはかなえられるものだ。自分のオ能を勝手にここまでと決めてしまってはいけない。そう決めた人は自分で決めたのだから、そこが限度だ。限度を決めずおめでたくあること、清少納言の、他人を気にしないのびやかな物言い、独断と偏見であろうとひるまず発言するおおらかさ、時にそれがまさつの原因ともなるけれど、それでこそ清少納言の清少納言たるゆえんなのである。
(下重暁子 著『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』より)




No.2301『あっぱれ! 日本の新発明』

 日本のものづくりがあぶない、という話しを何度か聞きながら、なぜ、どのように危ないかなどとは考えたこともなかったので、ついこの本を手にしてしまいました。
 ところが、この本を読んでみると、日本の研究者も技術者もすごいと思いました。この本は、産業儀出総合研究所が協力したこともあり、とてもユニークな新発明が10編も載っていて、それぞれにおもしろく、まさに今までの流れを覆すかのようなものばかりでした。
 先ずは第1章の「冷やすメカニズムを根底から変える」では、冷蔵庫の冷やす仕組みを気化熱を利用したものから、磁気を使ったものに変えるということでした。しかも200年も前からこの気化熱を利用した冷蔵が続いていたのに、フロンガスの問題とかいろいろあったようで、磁石と温度との関係も理解できませんでした。そういえば、エントロピーというのは知っていましたが、磁気を使うというのは、「液体が気体になるときに熱を吸うのも、ゆるゆると結合していた分子がバラバラになるからです。つまり分子であれ、電子であれ、秩序あるものがバラバラになるときに、熱変化を起こすんですね。そのバラバラ具合のことを、熱力学では『エントロピー』と呼んでいます。バラバラになるとエントロピーが高くなり、熱を吸収するわけです」ということだそうです。
 それでも、なんとなくわかるというか、深くまで理解できていないような感じです。
 そういえば、この10編の話しそのものも、わかるところもありますが、なかなか理解できないということは、今までの考えを変えるということが難しいからかもしれません。それを研究者は、その固定観念を取っ払って新しいものを発明するわけですから、まさに「あっぱれ!」です。
 そもそもこの10の研究テーマは、「世界を変えるイノベーション」ということで、産業技術総合研究所の12人の研究者の現在の成果です。この産業技術総合研究所、略して産総研は1882年に創設された農商務省地質調査所を発祥とする国立研究開発法人のことで、ここの協力を得てこの本が作られました。
 どれもこれもおもしろかったのですが、たとえば、耐熱レンガの開発も興味深かったです。というのも、焼きものにも関心があり、その窯は耐火レンガを使っているのが多いそうで、ここでいう耐熱レンガとは違うようです。たとえば、98%の断熱性があるということは、その耐熱レンガの上では下から加熱してもパンも焼けないほどだそうです。レベル開発者の福島さんによると、「これは、300℃に熱した鉄板の上に3時間、レンガを置いて加熱したものです。サーモカメラで撮影すると、市販のレンガ(上)は黄色になっていますが、われわれが開発したレンガ(下)は青く、室温程度です。勇気を出して手に収ってみましたが、やけどをすることもなく普通に持つことができました(笑)」、と言います。
 これはたしかにすごい耐熱レンガで、ゴミ焼却炉や鉄工所などでも効果が期待できます。というのも、現在のものは、この熱エネルギーの98〜99%は捨てられていると同じだそうで、いかに熱効率が悪いかすぐにわかります。それが、この耐熱レンガを使えるようになると、燃料費が大幅に削減できるだけでなく、環境にも優しいということになり、地球の温暖化の対策にもなります。
 また、第5章の「接着剤の謎が見えてきた」というところで、まだ瞬間接着剤がくっつく原理がわからないと書いてありました。
 それを読んで、ちょっと不思議に感じたのですが、この本には、「接着剤がくっつく基本的なメカニズムについては、昔から3つのモデルが考えられてきたという。……アンカー効果は、いわば「機械的」な接着。くつつけたいものの表面がザラザラしていると、その凹凸に接着剤が入って固まり、相互にからみ合うようにしてくっつく。分子間力は、静電気のプラスとマイナスがくつつくような静電的相互作用だ。そして化学結合は、基材表面の物質と接着剤の物質が、共有結合や水素結合などによってくっつくとされている。」と書いてあります。
 つまり、どのような作用でくっついているのかはっきりとわかっていないそうで、それがわからないと究極の接着剤の開発はできないようで、たとえば、クルマや飛行機の部品を接着するというような安全に関わるものには使えないといいます。なるほど、くっつけばいいと私は思いますが、科学の世界では、なっとくできなければ結果オーラィというわけにはいかないようです。
 下に抜き書きしたのは、第8章「クルマが感情を読む!「自動運転」の驚くべき未来図」のなかに書いてありました。
 そういえば、昨年にクルマを買い替えましたが、半導体不足などで半年以上も納車を待っていました。それでも早かったんですよ、と言われましたが、実際に乗ってみると、今までのクルマとまったく違います。ナビも1ヶ月に1回程度更新してつねに新しい地図が出ますし、クルマの中でWi-Fiも使えます。前後左右にたくさんの目があるようで、信号機でちょっとスタートが遅れると、「前方をご確認ください」といわれ、後部座席に荷物があり、クルマから出ようとすると、「荷物の忘れものはありませんか?」といわれます。もう、あらゆる方向から監視されているような雰囲気ですが、これも安全運転のためと思い、今では慣れました。
 そういえば、中国に行ったとき、電動バイクが出始めたころで、すぐ後ろまで近づかれてもエンジンの音がないので、こわい思いをしたことがあります。今では、もともと無音ですが、音を出すような仕掛けがあるそうで、これなども歩行者には必要なことだと思います。
 しかし、これからのクルマの自動運転は、安全だけではなく、乗り心地とか乗る喜びみたいなものもあるそうです。この話しは、自動車ヒューマンファクター研究センター 生理機能研究チーム主任研究員の木村健太さんです。
 大型連休の期間中もこの本を読んでいましたが、日本のもの作りもたいしたものだと思いました。

(2024.5.12)

書名著者発行所発行日ISBN
あっぱれ! 日本の新発明(ブルーバックス)ブルーバックス探検隊講談社2024年1月20日9784065346938

☆ Extract passages ☆

「自分がそれを『コントロールできている』と感じることは、人間にとって本質的な『快』なんだと思います。いま、テクノロジーはその『手応え』も用意しようとしているわけですが、ユーザーがそれに気づいてしまうと、主体感が高まらないことも研究からわかっています。
 だからこれからは、機械がすべてやっていると気づかれないように『さりげなくアシスト』することが、大事なテーマになってくると考えています。このことは自動車にかぎらず、バーチャル・リアリティの研究でも重視されています。その意味でも、これから工学の分野では心理学の出番が多くなると思いますよ」
(ブルーバックス探検隊 著『あっぱれ! 日本の新発明』より)




No.2300『灰と日本人』

 この本を手にして読み始めたとき、その文体に古さを感じました。それもそのはず、最初は1984年にリプロパートから「灰の文化誌」として刊行し、それを1998年にNTT出版から「灰に謎あり 酒・食・灰の怪しい関係」として再刊され、この文庫版はその「灰に謎あり 酒・食・灰の怪しい関係」を改題し、底本としたそうです。
 そういえば、だいぶ前に聞いたのですが、京都のお茶の家元で、火事になると一番最初に持ち出すのが灰だそうで、それだけ大事にしているとのことでした。お点前でも、炭をつぐときにまき灰をすることもあり、炉の景色にもなります。この本を読むまでもなく、日本の文化と灰は、いろいろな関係があり、そこに興味を持ちました。
 読んでみると、さらにこんなところにも灰が使われているのかと知り、ますますその奥深さに感じ入りました。しかも、今回がNo.2300で、なんとも区切りの良いときに、おもしろい本に出合えてついうれしくなりました。
 もともと、火を使い始めた人類は、当然ながら灰が出るので、それも利用したはずです。肥料に使ったり、あく抜きや中和や殺菌などにも使うようになり、焼きものの釉薬や紙漉きなどにも使い、灰はなくてはならないものとして利用されてきました。もちろん、民間治療薬としての利用もあり、実用のものだけでなく、まじないや占いなどにも使われてきたといいます。
 びっくりしたのは、火山などで噴出する灰や溶岩などにも触れていて、初めて「火山灰層位学」というものを知りました。これは、「火山溶岩層や火山灰層は当時の状況を今に物語ってくれる重要な実証伝達の一つでありますが、これを利用して年代学を追究する「火山灰層位学」は、考古学上、大変に重要な学問なのであります。例えば関東ロームなど日本各地でロームと呼ばれている赤土層は、その大部分が洪積世中、後期に形成された風化火山灰土で、この中には軽石やスコリヤの単層から成る火山灰層が整然と堆積していて、最も信頼のおける年代指示者としての役割を果たしています。この火山灰層位学が考古学上クローズアップされたのは、関東ロームの研究グループが戦後の岩宿遺跡の発掘などに於いて、ローム層を層位学的方向から研究を進め、人類の足跡をこの層の中から詳しく知る術を確立したからであります。」とあり、ポンペイを思い出しました。これはイタリアのナポリ近郊のベスビオ山のふもとにあった古代都市で、西暦79年のベスビオ噴火による火砕流により地中に埋もれてしまったものです。
 ここは現在、「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコ世界遺産にも登録され、さまざまな本やテレビなどでも取りあげられています。
 そういえば、茶道の本にもお点前で使う灰のことに触れていますが、この本にはその作り方が載っていて、「まず生木灰を細かい篩で通し、砂利や小石などを分けました後、これを水の入った桶の類に入れてよく攪拌し、浮き上った小さい屑や塵埃を上水とともにすくいとって捨て、さらに水を加えて攪拌し、別の容器に移して静置すると、砂などは一番底に沈みます故、これを除きます。次に灰の部分を蓆の上にあけ、これに丁子(香本の一種)または番茶の煮出し汁などをかけては日光で乾かし、これを数回繰り返しますときめの細かい灰となります。さらにこれを絹篩でふるって壷の中に入れ、密封して暗所に貯え使用いたすのです。さらさらと乾ききったものは良くなく、少し湿つていてポットリとしたものを良しとします。」と書いてあり、やはり最初に書いた通り、火事になると一番最初に持ち出すというのがよくわかります。
 また、この文章を読むと、今の文体よりは古さを感じると思いますが、それもまたひと味になっています。
 下に抜き書きしたのは、第3章「灰の恵み」のなかの「やきものと灰」に書いてあったものです。
 というのも、30年ほど前になりますが、米沢市成島の陶芸家が私のところを訪ねたとき、途中の中山峠でいい土が見つかりナイロン袋につめていました。それで、その土でわが家の湯飲みを作ってほしいと頼み、3年ほど待ちました。なんとかできたという連絡が入り、持って来てもらうと、リンゴの木の剪定した枝を燃やして灰にしたのがよく発色しないので、いろいろと試してみたら、紅玉という昔ながらの品種の木の灰が少し赤みがさし、その釉薬を使ったということでした。作品も小槌の絵の部分が土見せになっていて、ところどころにぽっと赤みがさしていて、いい雰囲気に仕上がっていました。
 これを読みながら、今もその湯飲み茶碗を使っていますが、そのことを思い出しました。

(2024.5.9)

書名著者発行所発行日ISBN
灰と日本人(中公文庫)小泉武夫中央公論新社2019年3月25日9784122067080

☆ Extract passages ☆

それらの名窯では独特の姿、光沢、色釉の陶器が焼き上げられて、高度の芸術性を誇りあっているのであります。そしてそのかげには、これまで述べた灰の役割を無視することはできないのであります。瀬戸、美濃にみられる、鉄分を多く含む岩石と木灰、同じく木灰に鬼板を多量混ぜて釉とした天目釉、木灰にわずかの鬼板を含ませた黄瀬戸などは、いずれも木灰を主成分とした灰釉であります。また天目釉は多くの酸化鉄を含んだ鉄釉で、マグネシュウムを多く含む灰とでまことによく黒を出し(黒釉)、瀬戸黒などの名陶も生まれるのであります。そしてこの黒とは対照的な白の代表、志野特有の白やきは、瀬戸黒が木灰を主成分とした灰釉であるのに対し、天然の岩石を主に、灰を従として焼き上げるものであります。
(小泉武夫 著『灰と日本人』より)




No.2299『生き物の「居場所」はどう決まるか』

 よく「子どもの居場所」とかいうので、もちろん生き物には居心地の良い居場所があるはずです。私も小さいときには、なんとなく狭く囲まれた場所で本を読んだり、耕作をしたりするのが好きで、そこが私のゆっくりできるところでした。
 しかし、この本の居場所というのは、結果的にそのような場所が決まっていくというような感じで、サブタイトルは「攻める、逃げる、生き残るためのすごい知恵」とありました。
 よく進化論では、生存競争の結果引き起こされる現象が自然淘汰で、最大の要因だとダーウィンは考えていたようですが、この本を読むとそれだけではないようです。そういえば、ロンドンの自然史博物館に行ったときに、2階への踊り場に大きな大理石のダーウィン像があり、今でも多くの尊敬を集めているようです。また、2017年9月にエジンバラ標本館でビーグル号に乗ったときに採取した標本を見せてもらい、その前後に、何冊かのダーウィンに羹する本を読み、最初に進化論を唱えたのは誰かということも知りました。
 この本では、ダーウィンとウォーレスの共著論文について書いてあり、「共著論文の題は「変異の永続性と種の分化に果たす自然淘汰の役割」といい、3部に分かれていた。第1部はダーウィンの進化論の試論。第2部はダーウィンがアメリカ・ハーヴァード大学の植物分類学者エイサ・グレイに宛てた私信である。ダーウィンは、テルナテ論文を受け取る前年の1857年に、グレイに対して進化論に関する手紙を書いていた。この手紙はダーウィンがウォーレスのアイディアを盗んだのではないことを証明するために挿入された。第3部は、ウォーレスが1858年2月にダーウィンに送ったテルナテ論文である。」とあり、やはりダーウィンはウォーレスのことをだいぶ気にしていたということです。
 でも、このような共著論文を出したり、ウォーレスがダーウィン没後7年目に「ダーウィニズム」という台の本を出版して、進化論の解説をしているところをみると、ダーウィンが気にするほどウォーレスは気にしてなかったようです。人というのは、自分が気にするほど相手はほとんど関心がない場合もあります。
 それでも、大崎直太氏の場合は、彼のアイディアを利用したと思われるような記述があり、その相手と偶然に会ったときにばつの悪そうな態度をしたというこか、これは確信犯だったのかもしれません。
 よく、すき間などのことをニッチといいますが、その語源は、「ニッチの語源は西洋の古典的建築意匠の壁龕で、ゴシック建築などの壁面にある装飾用のへこみのことである。そこには聖像や壷や書物を置いた。現代建築でも、壁面にへこみを作り、飾り棚として利用している。ニッチは建築物のへこみ以外に、岩のヘこみや隙間などを指し、「狭い場所」という意味がある。つまり、生物の居場所は、広大な環境の中の、ある特定の狭い場所なのである。」と書いています。
 この本でも取りあげていますが、経済界などでも「ニッチ市場」とか「隙間産業」とかいいますが、この生態学でいう狭い居場所と同じような使い方で、広い市場経済の小さな特定のニーズを持つ規模の小さい市場のことをいいます。
 下に抜き書きしたのは、第4章「競争は存在しない」に書いてあったものです。
 1996年にヨーク大学のウィリアムソンとフィッターが提案した「外来種の10分の1の法則」というのがあるそうで、それは「人為的に持ち込まれた外来種の10分の1が管理地から逸出し、その10分の1が自然界で野生化して定着し、その10分の1が害獣・害虫・害草になるという仮説だ。したがって、管理地から逸出した外来種の10分の9は野生化できずに絶減していく。その原因は様々で、気候条件に適応できないとか、適当な食物資源が存在しないとかの、生存のための絶対的な条件に欠ける場合もあるだろう。」ということです。
 つまり、その法則を抜け出して拡がるというのは、そうとう強いということです。

(2024.5.6)

書名著者発行所発行日ISBN
生き物の「居場所」はどう決まるか(中公新書)大崎直太中央公論新社2024年1月25日9784121027887

☆ Extract passages ☆

各植物は独自の防衛化学物質を持っているので、周囲の海から移入した昆虫が適応して利用するのは難しく、その多くは去っていくか減んでいく。たとえば、アメリカから南アフリカに移植したウチワサボテンは、移植後250年経って広大な地に広がったが、いまだに上着の昆虫が全く利用していない。100年前にオーストラリアからカリフォルニアに移植したユーカリは分布を幅広く広げたが、オーストラリアでは昆虫による食害が大きいのに、カリフォルニアでは全く被害がない。この2種の植物は化学的毒性が極めて強い植物なので、土着の昆虫が適応するまで膨大な時間がかかるものと思われる。
(大崎直太 著『生き物の「居場所」はどう決まるか』より)




No.2298『人間はいちばん変な動物である』

 サブタイトルは「世界の見方が変わる生物学講義」で、口語体なので、ほんとうに講義を聴いているような雰囲気で読むことができました。
 もともとは、京都清華大学の客員教授をされていたときに、同大学で行った半年間の講義をまとめたもので、最初は2010年10月に『ぼくの生物学講義――人間を知る手がかり』(昭和堂)として発刊され、これを改題、再編集して文庫化されたものが本書です。ですから、学生に話すように書いてあり、わかりやすいのも納得です。
 著者は、翻訳家でもあり、この本のなかで、チョムスキーの生成文法に触れたところがあり、これって語学習得に役立つかもしれないと思いました。それは、「文法ってのはだいたい決まってます。"The postman kicked the dog"という文章を、日本語で言ったら「郵便屋さんがイヌを蹴ったよ」。英語では「郵便屋さんが蹴ったよ、イヌを」と言ってますね。ちよつと言葉の順番は違うけど、言ってる中味は一緒です。英語の文法だと、主語、動詞、ともうひとつ、相手がきますね。ある動作をしている「ひとつの主体」を主語、動詞という順番に分けている。"postman""kicked"と。じゃ何を蹴ったかということで、そこに、"dog"をつけるわけです。この子どもがもしも「ぼくのイヌを蹴ったよ」つて言おうと思ったら、この"dog""the"じゃなくて"my"とする。で、そのイヌがもしも赤かったら"red"とか、大きかったら"big"とかいう言葉をつけます。ひとつの主体が何かをする。それはまず二つに分かれる。それがどういうものをというのが次にくる。そのどういうものに形容詞がまたつきます。で、順番にいうと、二つにまず分けられてから、だんだんにくっついてながーい文章になっていくわけですね。」といいます。
 たしかに、文法ってめんどうくさいと考えていましたが、たったこれだけだとすれば、簡単なものです。このように、チョムスキーは「文法というものの本質はつくりあげられていくものである」ということから、生成文法と呼んでいるそうです。
 先ずは2つに分け、それに形容詞とか副詞とかをくっつけて長い文章にするだけで、先ずは主語と動詞を考えればいいとすれば、意外と単純化されそうです。
 そういえば、ここ最近、小町山自然遊歩道でもウグイスの鳴き声が聞こえてきますが、このウグイスについいて、「ウグイスの場合には、母親も父親も両方ともやって来て巣をつくります。ですが、雛に餌を持ってきてくれるのは母親だけなんです。父親はそこにいるんですが、ぜんぜん雛に餌を持ってこようとはしない。父親は「ここは俺の縄張りだ、入ってくるな」ということを言ってまわっているんです。そのために一所懸命「ホーホケキョ、ホーホヶキョ」と鳴いてるわけ。で、雛の方は、父親がなんのために鳴いてるか知らんが、とにかく「ホーホケキョ」って声だけは間くわけ。それを聞いて学習しちゃうんですね。ところが、ウグイスの父親が「ホーホヶキョ」と鳴くのは、巣をつくって雛がいる時に限ります。繁殖期が終わっちゃったら、もう「ホーホケキョ」とは鳴きません。だから、その場所を父親が守りながら縄張り宣言をしている時に、それを聞かなくちゃいけない。それ以外の時期には、学習はできないっていうことになります。」と書いてあり、何気なく聞いていた「ホーホヶキョ」にも意味があると思いました。ところが、さらにおもしろいことに、最初にカラスの「カーカー」という声を聞かせたら、その雛は知らん顔をしていたといいます。しかし、「ホーホヶキョ」というテープを聞かせると、そっちを向いてじっと聞いていたそうで、おそらくは遺伝的に雛は学習すべきお手本を知っているのではないかと著者はいいます。
 しかも、ウグイスの雛は、なんらかの事情で「ホーホヶキョ」という鳴き声を聞けないと、大きくなっても言えないそうです。つまり、学習しないとだめということで、ウグイスの父親もそれなりの子育てをしていると知り、うれしくなりました。
 下に抜き書きしたのは、第10講「人間は集団が好き?」に書いてありました。
 たしかに、私の子ども時分には、外に出てみんなで遊び、通りがかった人たちに声を掛けられながら育ったものです。なかには、理不尽なお年寄りもいたり、おやつをくれる優しい方もいたり、地域の全員に見守られていたような気がします。
 ところが、10年間ほど前から、個人情報の保護とかプライバシーなどといわれ、子どもたちに気軽に挨拶もできないような雰囲気になってきました。もちろん、子どもたちも少なくなり、外で遊ぶこともなくなり、どのような子どもたちがこの地区にいるのかさえわからなくなってしまいました。
 この文章を読み、人間はいろいろな人たちから刺激を受け育っていくものだと強く感じました。もうちょっと穿った見方をすると、西欧のプライバシー重視が、相手をわからなくし、疑念が沸き起こり、いつの間にか疑心暗鬼に陥り、戦争になってしまうのではないかと思ったりします。もちろん、そうではないと思いながら、このような思いを吹っ切れずにいます。

(2024.5.3)

書名著者発行所発行日ISBN
人間はいちばん変な動物である(ヤマケイ文庫)日敏隆山と溪谷社2022年3月5日9784635049399

☆ Extract passages ☆

 人間という動物は、かなり背から非常に変わった大集団をつくって、その中でいろんな変わった人たちと付き合いながら、いろんなものを学び取って覚えていくということをやってきた。自分の子どもであろうがなかろうが、「だめなものはだめ」と言ったり、「それはよくできた」と言って褒めたりとか、そういうふうなことを、ずっとやってきたんじゃないか。それが、世の中というものをつくってたんだろうという気がするんです。
(日敏隆 著『人間はいちばん変な動物である』より)




No.2297『植物はなぜ毒があるのか』

 1989年に昭和天皇が亡くなったのをきっかけに生まれたのが「みどりの日」です。ところが、2007年になって、やっぱり「昭和」という名前を残したいということから、4月29日が「昭和の日」になり、「みどりの日」は5月4日に移されました。
 考えてみれば「みどり」というのは植物が中心なので、適応力があり、どこに移されてもなんとかなります。そういえ意味では、この本の副題が「草・木・花のしたたかな生存戦略」というには、なるほどと思います。
 私が小さいとき、蚊を殺す蚊取線香は人間にも何らかの影響があるかもしれないと思っていましたが、この本のなかに、蚊を退治するのは、これに含まれるピレトリンという物質がナトリウムによって蚊の神経細胞の調節を狂わせるからだそうです。ところが、このがピレトリンは人間の場合には神経細胞に届く前に身体のなかで分解されてしまうので、毒性がなくなるのだそうです。しかも、これは人間だけでなく、部屋のなかで飼っている犬や猫などにも毒性が現れないというから不思議です。
 そういえば、植物の毒で最も有名なものは「トリカブト」で、魚なら「フグ」です。この両雄の毒がアコニチンとテトロドキシンですが、その働きは逆なのだそうです。
 つまり「トリカブトの有毒物質であるアコニチンは、細胞の外側に高い濃度で存在していたナトリウムを、内側に流し込みます。それに対し、フグの有毒物質であるテトロドトキシンは、細胞の外側にあるナトリウムが内側に入るのを妨げます。二つの有毒物質の働きは、逆です。でも、いずれの場合も、ナトリウムの正常なバランスを崩してしまいます。そのため、肺や心臓の細胞が正常に働けなくなり、人間は中毒症状に陥るのです。」と書いてあります。
 この本のユニークなところは、このことをよく理解すれば、もし「トリカブトの毒とフグの毒をいっしょに飲むと、どうなるのか」と考えることです。普通に考えれば、毒と毒とが重なり合って、もしかすると中和してしまうように思えます。ところが、この後に、「実際には、二つの毒の働きがぶつかり合って、一旦は毒が働いていないような状態になります。しかし、その状態はいつまでも続きません。時間の経過とともに、毒は他の物質に変化し、毒性が消えていきます。そのため、どちらか一方の毒の量が少なくなったときに、もう一方の毒の働きだけが現れ、その毒による中毒症状が現れます。」とあり、やはり毒で毒を制することはできないとわかります。
 ところが、この作用を利用してアリバイを作ったのが1986年に発生した「トリカブト保険金殺人事件」です。つまり、夫は死亡推定時刻にはかなり遠く離れたところにいたので、普通に考えれば、トリカブトの毒を飲ませたとは考えられません。しかも、死亡するまでは何ごともないように動いていたわけですから、なおさらです。しかし、結果的には遺体を解剖したときの血液から、トリカブトの毒のアコニチンとフグの毒のテトロドキシンが見つかったのです。もちろん、夫は殺人の有罪判決が出て、刑務所に入れられたのですが、えん罪を主張したまま獄中で病死したそうです。だから、真相はわかりませんが、著者はこの2つの有毒物質を使ったのではないかと考えているようです。
 また、最近はコーヒーが健康にいいという話しを聞きますが、だとすれば同じ嗜好品の緑茶はどうなのかと私も考えます。すると、この本には、「緑茶には、主にカテキン、タンニンというポリフェノールが含まれています。国立がん研究センターの研究では、「コーヒーを1日に何杯飲めばいいか」とともに、「緑茶なら、1日に何杯飲めばいいか」が調べられています。同じように、5つのグループに分けて調べられたのですが、緑茶でも、「ほとんど緑茶を飲まない」というグループに比べて、多く飲むグループの方が死亡リスクは減りました。ただ、 コーヒーの場合、「1日3〜4杯」のグループがもっとも死亡リスクが低かったのですが、緑茶の場合は、「1日に5杯以上」のグループが、もっとも低い死亡リスクになりました。」と書いてありました。
 ということは、緑茶から「1日に5杯以上」ですから、ある程度、何杯飲んだとしてもいいということで、御茶好きにとっては、有難い研究です。
 下に抜き書きしたのは、第2章「人間以外の生き物に毒になる物質」に書いてあったものです。
 だいぶ前のことですが、「フィトンチッド」という言葉が脚光を浴びたことがありますが、森林浴がもてはやされたころです。この「フィトン」というのは植物で、「チッド」というのは殺すものという意味で、ロシア語です。つまり、植物の幹や枝葉から香りもので、それが抗菌や殺菌作用があり、ストレスまで軽減してくれるといいます。それを2012年に千葉大環境健康フィールド科学センターの報告として、「Forest Medicine (森林医学)」に掲載されたのが抜き書きした部分です。

(2024.4.30)

書名著者発行所発行日ISBN
植物はなぜ毒があるのか(幻冬舎新書)田中 修・丹治邦和幻冬舎2020年3月25日9784344985858

☆ Extract passages ☆

 この研究では、20代の男子学生12人を6人ずつの二つのグループに分けました。一方のグループの6人には、1人ずつ別々に、森林の中を約15分間、歩いてもらいました。また、別のグループの6人には、1人ずつ別々に、街の中を約15分間、歩いてもらいました。
 その結果、森林を歩いたグループのメンバーでは、街の中を歩いたグループのメンバーに比べて、唾液中のコルチゾールの濃度が15.8パーセント低くなったのです。唾液中のコルチゾールの濃度は、ストレス状態の高さを示すものと考えられています。
 ですから、コルチゾールの濃度が低下したのは、森林浴がストレスを緩和したといえます。同じような形式で、この研究は、日本全国35カ所で、延べ人数420人を対象として行われ、この傾向は確認されました。
(田中 修・丹治邦和 著『植物はなぜ毒があるのか』より)




No.2296『お話について』

 この本は1996年10月20日に初版が発行され、これは2023年12月15日に発行された新版です。著者の松岡享子さんは、1935年生まれで2022年に亡くなられていますから、その後の新版発行となります。
 この本に出合って、初めて著者を知ったのですが、1974年に石井桃子さんたちと財団法人東京子ども図書館を設立し、2015年6月まで同館の理事長をされ、その後は名誉理事長をされていました。
 その他に絵本や児童文学の創作や翻訳などを手がけ、語りにも情熱を注ぎ、この本は「レクチャーブックス 松岡享子の本1」として出版されています。
 この本の「はじめに」のところに、仕事について書いてあり、「仕事は、いったんはじまってしまうと、次から次へといろんなことが起こってくるものですから、いつもそのとき、そのとき、目の前にあることを精一杯やっていて、それがつながって何年かたつということが、なかなか頭に浮かびません。私には、一所懸命なそのとき、そのときがあった、ということだけでした。」とあり、なるほどと思いました。私も今の仕事をして50年になりますが、ほとんど振り返ることなく進んだこともあり、気がついたらもう50年にもなっていたんだというだけです。そういえば、お釈迦さまは、「今日すべき事は明日に延ばさず、確かにしていく事こそ、よい一日を生きる道である」というような意味のことを最後に言い残したそうですが、まさにその通りです。過去はすでに過ぎ去ってしまったことですし、未来はまだ来てはいないのですから、今の今をしっかりとやるしかないのです。
 さて、この本を読んで、文字も大事ですが、子どもの時には直接触れ合うコミュニケーションのほうがとても大切だと気づかされました。この本の最後のほうに、「字が読めるということ自体が悪いわけではありませんが、子どもたちがコミュニケーションの基本的なかたち――つまり、目と目を見合わせ、声によってことばを伝え、それが通じたという喜びの感情を体験すること――に充分習熟することなしに、文字を身につけてしまうことは、よいことだとは思えないのです。」と書いてますが、そういえば、ハイハイすることも少なく、立ち上がってしまうのもよくないと聞いたことがあります。やはり、早熟だからいいわけではなく、それなりの過程を経なければならないようです。
 そういう意味では、今の社会は何でも早ければいいとか、あまり働かずにお金が入ればいいとか、ちょっと安直過ぎるような気がします。やはり、時間をかけて進むことも必要で、高速道路ばかり通っていると、一般道を走る楽しさがわからなくなります。結果よりもその過程のなかに興味を引くものがたくさんあります。人生も同じです。
 この本のなかに、「こう選ぶべきか、ああ選ぶべきか、という岐路に立たされたとき、自分の物語を生きている最中は、自分のことがよく見えませんけれども、そういうところをくぐり抜けた、もうすでに完結した他の人の物語を読むと、自分のおかれている立場がよくわかることがある。そういう意味で、私たちは、自分という物語を生きるために、自分以外の人の物語を必要としている、といえると思うのです。それは本のかたちになった物語である場合もあるし、あるいは身近にいる他の人の生き方という、なまの物語であるかもしれないし、あるいはニュースに出てくることだとか、雑誌に出てくることだとか、人の噂話だとか、そういうことかもしれない。でも、それは、みんなある意味では物語なのであって、私たちはその物語を参考にして、自分の物語をつくっていくといえます。」とあり、だとすれば最初から結論ありきだけのお話しでは、おもしろさに欠けます。
 意外と子どもたちは大人たちを見ていて、それなりの判断をしているような気がします。いつもいい加減なことばかり言うと、本当に大切な相談はしなくなるそうです。だとすれば、子どもだからという構えではなく、1人の人間としていつも話しをしなければならないと思います。
 下に抜き書きしたのは、この本は、もともと1984年6月19日に東村山市立図書館開館10周年の記念として行われた「お話について」の講演をまとめたものだそうですが、このように書かれたものを読んで、話したり聞いたりすることの大切さを改めて感じました。

(2024.4.27)

書名著者発行所発行日ISBN
お話について松岡享子東京子ども図書館2023年12月15日9784885690211

☆ Extract passages ☆

 私たちが音声を発するときには、発声器官を動かす命令が、脳から発せられるわけですけれど、それが神経を伝わって、発声を司る筋肉にまで届く。このときの筋肉の動きを、そこに電極をあてて筋電図というのにとって見ることができるのだそうですけれども、私たちが黙ってものを考えたり、文章を黙読したりしているときでも、筋電図には発声しているときと同じような変化があらわれるそうです。大人と子どもを比べると、大人のほうが変化が小さいということや、むずかしいものに比べて、やさしいものを読んでいるときには変化が小さいということもわかっているそうです。
 文字を読みとるとき、使うのは目だけかと思っていましたが、実は、発声器官も中で動いているのですね。そして、目だけではわからないとなると、幼い子の場合のように、実際声に出してみて、その声を聞いて理解するという方法をとる。私たち大人でも、ひらがなやカタカナばかりで書かれている文章を読むときには、同じことをやりますよね。「はなののののはな」は、声に出すと「花野の野の花」だとわかるというように。
(松岡享子 著『お話について』より)




No.2295『科博と科学』

 著者の篠田謙一氏は、2021年より国立科学博物館の館長で、「はじめに」に書いていますが、今までの20人の館長のなかで、初めて内部の研究者として館長職に就いたそうです。つまり生え抜きで、科博に勤めて他に所属したことがないということになります。
 ということは、国立科学博物館のことは良くも悪くも隅々まで知っていると思うので、とても興味深く読みました。
 それと、昨年の8月7日から始めたクラウドファンディングが、たった1日もかからずに目標金額の1億円を越え、1週間ほどで4億円を越え、3ヶ月で9億2千万円を集めて、56,000もの方々が支援してくれたそうです。金額もさることながら、これだけ多くの方々が支援してくれたということは、「地球の宝を守れ」というスローガンがみんなの心にも響いたということかもしれません。
 この本で初めて知ったのですが、「上野本館の歴史の中で、科博の管理が一度だけ他所に移ったことがあります。それは1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を機会に陸軍に接収された時です。終戦までの数ヶ月でしたが、疎開できなかつた標本類は軍によって全て破棄されてしまいました。いつの時代でも戦争の犠牲になるのは立場の弱いものですが、博物館の標本類もその例外ではありません。世界中の自然史博物館も戦争によつて多くの被害を受けた歴史を持ち、かつて日本で採取された貴重な標本が失われてしまった例もあります。」ということですから、本当に戦争だけは絶対にしてはいけません。
 現在、ウクライナでもガザ地区でも、おそらくテレビでは放送されないところでも、戦争などの暴力はあります。もちろん人命もそうですが、貴重な文化財や生活するための施設なども無残に破壊されます。何百年と大切に守られてきたものでも、一瞬にしてなくなります。
 人間というのは、なんとも不思議な生きものだと思います。たとえば、自分ではどうしようもないこともありますが、自分の行く先を自分で決められないこともあります。
 この本のなかに、おもしろい話しが載っていましたが、それは、DNAの二重らせん構造の発見者のひとりであるフランシス・クリックのことです。彼は「第二次世界大戦中はソナーの研究をする物理学者でしたが、戦争が終わった後、自らの進路を選ぶ際に、自分が1週間の間に話した内容を分析して、その中で最も頻繁に話題にした分野を選択したと言います。自分が無意識に考えていることを顕在化させたのです。それが生物学だったわけで、その選択がノーベル賞に輝く大発見につながりました。」とあり、このような進路の決め方もあると思いました。
 下に抜き書きしたのは、「PART2 博物館の役割」の「分類の専門家集団」のなかに書いてあったものです。
 国立科学博物館で収集された標本は、500万点近くだそうですが、上野の科学博物館で展示しているのは約2万点ほどです。では、なぜ、これだけの標本があるのかといいますと、標本は「科学的にものを考える」材料だからです。
 そういえば、海外の植物園や研究施設に行くと、ほとんど標本館があり、貴重な植物標本などが収蔵されています。今まで見せていただいたなかで最も印象に残っているのは、2017年9月5日にイギリスのエジンバラ植物園の標本館に行った時に見せてもらったダーウィンが自ら採取した標本です。これには、「Collected by Charles Darwin Voyage of the Beagle 1832-1836」と書いてあり、ビーグル号で世界一周をしたときに採取したものだとわかります。この標本館では、その他にキングドン・ウォードやジョージ・フォーレストなどが採取したシャクナゲの標本など、たくさん見せてもらいました。
 だから、標本というのは、「標本は「科学的にものを考える」材料です。様々な時代にいろいろな場所で収集された標本・資料を幅広く保管することで、データをより多く積み重ねることができ、調査研究に基づく仮説の精度を高めることが可能となります。例えば、生物は短期間ではごくわずかしか変化しませんから、正確にものを知るためには大量の標本が必要です。いますぐ役に立つかどうかわからなくても、将来のために残さなくてはなりません。現在の日本は、アマチュアや大学の先生が集めた標本が捨てられてしまう危機に瀕しています。地方の博物館を含めて、引き取ってほしいという話がたくさんあるのですが、それに応えることができなくなっているという現実があります。まさに瀬戸際の段階になっている……」ということで、とても切実な問題だということがよくわかります。だから、「地球の宝を守れ」というスローガンも心に響きました。
 現在の国立科学博物館の研究者は、60人ほどだそうですが、イギリスの大英自然史博物館は300人ですから、単純に比較すれば5倍もいるわけです。ここには私も何度か行きましたが、圧倒されるような展示で、見るだけでも何日もかかるようです。

(2024.4.24)

書名著者発行所発行日ISBN
科博と科学(ハヤカワ新書)篠田謙一早川書房2024年2月25日9784153400207

☆ Extract passages ☆

 こう考えると、博物館は過去と未来をつなぐ存在であることも分かります。過去の研究者が集めたものを保管し、自分たちの代で新たな標本を付け加え、それを未来の研究者に託しているのです。残念なことに今の日本は、過去や未来にお金を使うことを嫌います。日本では、いかにして今お金を稼ぐか、ということを最優先にして国の多くの政策が決定されるので、過去や未来に関わる博物館は運営に苦労することになります。日本よりも経済規模も人口も少ないイギリスで、大英自然史博物館(ロンドン自然史博物館)は300名の研究者を擁しています。
(篠田謙一 著『科博と科学』より)




No.2294『酒場詩人の美学』

 酒場詩人の吉田類さんを知ったのは、NHKの「にっぽん百低山」を見てからですが、山は標高1500m以下の低山でも魅力的な山はあり、今の自分の体力なら登れるかもしれないと思わせる番組です。
 調べてみると、2020年から続いている番組だそうで、語りは池田伸子さんで、日本各地の低山ならではの魅力を伝えてくれます。
 そして、たまたま図書館に行くと、この本を見つけ、もともとは俳人だそうですから、おもしろそうだと読み始めました。ところが、若い時は絵描きになりたかったそうで、今ではイラストレーターの肩書きもあるそうです。そういえば、焼物にも絵付けをして個展を開いていることがこの本にもあり、山登りの姿しか浮かんでこなかったのですが、本もイラストも見てみたいと思いました。
 そういえば、今年の元旦に能登半島で大きな地震があり、たいへんな被害が出ましたが、この本に珠洲市の酒蔵の話しが出ていました。そこを抜き書きすると、「能登空港へ降り、その足で珠洲市 の「櫻田酒造」、能登町の「松波酒造」と2軒の酒蔵へお邪魔した。珠洲市周辺が能登杜氏の発祥地とされ、奥能登だけでも11軒の酒蔵がある。それだけ優秀な酒の造り手たちが多いのだろう。2軒の酒蔵で体験した櫂入れが独特だった。櫂を圧し込んでは引き上げてモロミを攪拌させる。櫂をかき回さず、上下に動かして混ぜるのだ。この後に、それぞれの蔵のお薦めを試飲させてもらった。単に蔵の酒を居酒屋で頂くのとは違う親しみやすさが加わる。双方の蔵とも母屋の玄関からモロミ入りの木桶まで何の気兼ねもなく通される。至って明け透けな雰囲気、蔵人も大らかだ。」とあり、豊かな自然のなかで酒造りがされていた情景が浮かびました。
 それと同時に、今現在、11件の酒蔵は酒造りを再開できているのだろうかと心配にもなりました。
 このように本のなかに描写されていると、いろいろな情景が浮かび、楽しいこともあれば苦しいこともあることがよくわかります。まさに人生そのものが凝縮されているように感じました。
 ここは水がよいと聞いたことがありますが、たしかに酒は米と水がなければできませんが、その他に酵母や杜氏の技量などもあり、この本のなかにも「金比羅酒の一度まわれば」のところに「楠神」という特別純米酒の話しが出てきます。これは酒蔵の中庭にある樹齢900年ぐらいのクスノキに棲みついている天然酵母菌をもとに造ったものだそうで、まさにクスノキとともに悠久の時を生き続けてきた底知れぬ力強さを感じます。
 また、おもしろいと思ったのは、京都府亀岡市にある穴太寺(あなおじ)の本堂に安置されている釈迦涅槃像で、これに布団がかけてあり、参拝者は自由になでることができるそうで、「なで仏さん」として親しまれているそうです。このような釈迦涅槃像はあちこちで見ていますが、布団がかけているのは珍しく、著者は「ありがたい仏さまが風邪を引いては大変というわけだ。釈迦は入滅後なので風邪の引きようもないが、なんとも素朴な信仰心が微笑ましい。」と書いています。そして、さらに「もし、釈迦涅槃像がガラスケースに納まって安置されていたなら、これほどのリアリティーは感じられないかもしれない。お釈迦さまでありながら、ともすれば添い寝できそうな布団に包まれている。庶民に人気なのもそんな親しみやすさからだろう。老いには、枯れていく美学が必要だと決め込んでいた。釈迦涅槃像に初恋のようなときめきを覚えてしまうとは、我ながら困惑した。それでも、枯れてしまっていた恋心に光が差したようで生きる悦びが湧く。我がライフワークの一つである酒場めぐり。それにかこつけて遠くまで来た甲斐があったというもの。」と続けて書いてあり、なんとも著者らしいと思いました。
 そして、テレビで見る吉田類さんとは違った面がわかって、この本を読んでよかったと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「月夜にぽんと弾けたる」に出てくる多摩川にあった渡し場「菅の渡し」の近くで83年も営まれていた茶店「たぬきや」の話しです。
 多摩川には私も行ったことがありますが、このような風景には出会ったことがなく、想像すらできません。でも、もし、このようなところがあったなら、私は下戸なのでお酒とは縁もないのですが、お抹茶でも点てて自服で飲んでみたいと思います。そういえば、昨年に車を買い替えたときに、100Vの電源も使えると聞き、さっそくその車で素晴らしい風景のところまで行き、お抹茶をいただきたいと思い、電気ポットと木のテーブル、長いコードなどを買い込みましたが、とうとうその機会が訪れませんでした。
 いつかはと思いながら、車のトランクにいつも入れておいたのですが、冬になり雪掃きなどを入れるのに邪魔になり、部屋に持ち帰りました。
 この描写を読み、今ではこの「たぬきや」もまわりの風景もまったくなくなったそうで、そうならないうちに今年こそは実現したいと思いました。

(2024.4.20)

書名著者発行所発行日ISBN
酒場詩人の美学吉田 類中央公論新社2020年8月25日9784120053283

☆ Extract passages ☆

 この茶店を知ったのが14〜15年前。店の前には小島のような中洲が広がっていた。菜の花が覆い尽くす春は格別。茶店を包む風景は″菜の花浄土″と化す。外来種の草花が原色を露わに咲き競う初夏。オニグルミやニセアカシアの木立の奥で、カワラナデシコ(河原撫子)は密やかに勢力を温存する。夏草が生い茂れば茶店の半分を隠してしまう。月見草が揺れて僕らを催眠する。ふと顔を上げれば茶店はすっかり迷彩に埋もれ、輪郭さえも分からない。昼酒に心地よくほろ酔うて帰路につくも、もう茶店の記憶は朦朧の中。
(吉田 類 著『酒場詩人の美学』より)




No.2293『そこにある山』

 この本の著者の角幡唯介氏は、『空白の五マイル』を読み、たまたまミャンマーとの国境線に近い片馬から怒江大峡谷の近くまで行ったことがあり、今でもその情景が浮かびます。しかも、その翌年にはそのさらに奥の高黎貢山保護区まで入れる許可をもらっていたのですが、新型コロナウイルス感染症の影響で、予約していた航空券もキャンセルになってしまい、今でもパソコンの片隅にそのときの航空予約券が残っています。
 いつ消去しようかと思っているのですが、まだ心のどこかにその辺境の地の残像があり、できないでいます。
 さて、この本の副題は「結婚と冒険について」で、著者が言うまでもなく、冒険と結婚とはまったく相容れないと思っていましたが、「結婚を意志による選択だとみなし、合理性を優先してしまえば、結婚は偶然性に身をさらすことそのもの、リスクそのものと切りすてられ、結婚しないという選択肢をとらぎるをえなくなる。でも、それでは他者との関係をつうじてえられる実存の確かさを経験することはできなくなり、河童になってしまうのである。」と書いてあるのを読み、なるほどと思いました。
 それと、私は犬橇に乗ったことがないのでまったくわからなかったのですが、気楽に犬に引っ張ってもらいながら雪原を走るというようなものではないそうで、とても危険を伴うようです。著者は、「犬橇の危険は外側の自然にではなく、その内側にある。具体的に何が危険なのかというと、犬が混乱して瞬間的に暴走してしまうことだ。犬たちがひとたび暴走をはじめると、人間にはコントロール不能となる。そればかりか、たぶん、犬たち自身も自分の行動をコントロールできなくなるようだ。……暴走は、全頭が同時に駆けだしてはじまるわけではないし、犬たちに走ろうという明確な 意志があって起きることでもない。往々にしてそれは一頭の何気ないふるまいからはじまる。…… つまりどの大にも暴走しようという意図などないのだが、最初の一頭の前に行こうとする小さな一歩が引き金になり、それが一頭一頭の思惑を超えて制御不能な雪崩と化し、全体が一塊の複雑系のカオスとなって大たちは暴走するのである。」ということだそうです。
 これは、やはり経験してみないことにはわからないことで、映画などで雪原を犬橇に乗って雪煙を上げながら進んでいるところを見て、いいな、と思うのと現実は違うということです。著者は、終章の「人生の固有度と自由」のなかで、「事態にのみこまれることで、理性により事前にイメージしていた生き方と現実の人生はズレをきたしていく。そのズレこそが、その人生にのみ生じるズレであり、年々、ズレが累積していくことでそれぞれの人生は特有の方向性をしめし、結果、固有的なものとなっていく。事態を直視し、思いつきに忠実に生きることで、人生はその人だけのものになる。」と書いていますが、まさにその通りのようです。
 しかも、それは後から感じるもので、無我夢中で走り続けているときには、なかなか気づかないことです。だとすれば、意識的にでも、事態をときどき見つめ直し、考えなければならないと思います。
 下に抜き書きしたのは、第5章の「人はなぜ山に登るのか」に書いてあったものです。
 この年齢にたいする焦りというのは、私にもよくわかります。この文章の前に、植村直己がテレビ朝日の大谷映芳ディレクターにインタビューされたときのことが載っていましたが、これからマッキンリーに登ろうとするときになぜか南極に行きたいという話しをするのです。考えて見ると、その前の1982年についにアルゼンチンの軍部から協力を取り付け、南極半島にある基地から南極点を往復する犬橇旅行と、南極大陸最高峰のウィルソン・マシフの登山許可を取得したにもかかわらず、出発前にフォークランド紛争が勃発し、基地から出られないまま越冬して終わりだったそうです。
 その翌年2月のマッキンリーですから、南極に植村の気持ちが向いていたと考えても不思議ではありません。著者は、その熱烈な思いが年齢にたいする焦りではないかというのです。
 この言葉の後の方に、「死が動かしがたいことは私が母胎よりこの世界に生まれ出たときから決まっていた宿命であるが、しかしその宿命は山頂にむかって登り一辺倒だった四十二歳までは不覚にも見えていなかった。全然気にならなかった。迂闊なことにすっかり忘れていたのだ。ところが人生の山頂に達した途端、この避けられない死は嫌でも目に入る。」と書いています。
 たしかに、もっと早く気づけばいいものですが、意外と過ぎ去ってから気づくことの方が多く、冒険をしようなどという想いも、そのようなものではないかと思いました。

(2024.4.17)

書名著者発行所発行日ISBN
そこにある山角幡唯介中央公論新社2020年10月25日9784120053498

☆ Extract passages ☆

植村が、彼にとってまったく本質的ではない冬のデナリにむかったのは、おそらく年齢にたいする焦りが強まっていたからだ。植村はまもなく四十三歳になろうとしていた。私もこの原稿執筆時点で四十三歳だ。四十歳をすぎると、人間、いやでも肉体の衰えを自覚する。体力の低下は避けられないし、それよりも実感されるのが気力の衰えだ。三十代までなら、どんなに厳しい活動でも、事態にのみこまれて次にやるべきことを思いつきさえすれば、その瞬間にはっと旅立つことができる。しかし加齢とともに腰は重くなり、厳しいことをやるのが億劫になる。いろいろ言い訳を見つけて先延ばしにする。肉体の内側から噴き出す炎、すなわち生命力が低下してくるのである。
(角幡唯介 著『そこにある山』より)




No.2292『日本の暮らしの豆知識』

 仙台駅のエスパル仙台東館の3階に「中川政七商店」というお店があり、まったく偶然に、前から欲しいと思っていた麻布があり、買ったことがあります。
 この本の「はじめに」に、 中川政七商店のバイヤーの細萱久美さんが「創業以来300年にわたり、手績み手織りの麻織物を作り続けている中川政七商店は、伝統をしっかり継承し、また新しい時代の文化も積極的に取り入れていきたいと考えます。作る人の想いや暮らしを垣問見ることで、読者のみなさまにより一層、愛着をもって暮らしの道具を使っていただけたら、こんなにうれしいことはありません。」と書いてあり、もともとは300年もの間、麻織物を作り続けてきたところと知り、読んでみたいと思いました。
 ちなみに、私の買ったものは「花ふきん」といい、たしか「本麻 御茶巾 厚手」と書かれた袋に入っていたと記憶していますが、もう一つ、御茶巾には緯糸に手績みの麻糸を使った「薄手」というのがあるそうです。しかもこの花ふきんは、端かがりは一つひとつ手縫いで仕上げているそうで、本当に味があります。
 そういえば、千利休は、茶巾は白く新しいものがよいと語り、茶巾を吊すやり方にも決まりがあります。奈良は昔から「奈良晒」という麻織物の産地でしたから、まさにこの御茶巾は中川政七商店の原点ともいえるものです。
 この本葉、1月睦月から12月師走まで、12ヶ月に分けて書いていて、最初は正月の飾りです。そのなかに鏡餅については、「鏡餅は、旧年を越せたことに感謝し、年神様を迎えて新年の幸せを願うため、家族の集まるリビングや和室の床の間、台所など、家の大切な場所にお供えするといいそうです。また、鏡餅の名称は、神様が宿るという円形の鏡や「望月」とも呼ばれる満月が由来といわれ、九い形は円満の象徴として尊ばれてきました。そして、 1月11日(4日や20日などの地域も)に鏡開きをします。包丁などで切ることは縁起が悪く、木槌で叩いて「開く」ことが本来の風習です。」と書いてあります。
 卯月のところには、「卯月八日」の話しが載っていて、「旧暦の4月8日は、「卯月八日」と呼ばれ、五穀豊穣を祈願する大切な休日だったそうです。この日は野山へ出かけて宴を開き、料理や酒で山の神様をもてなしました。この行事が花見の起源ともいわれています。また、戦国時代の大名たちも、春になると野遊びや狩などに出かけ、茶会を楽しんでいました。茶道の秘伝書「南方録』には、千利体が豊臣秀吉のために松林でお茶を点てたことが記されています。」とあり、お寺ではこの日はお釈迦さまの誕生日なので、灌仏会を行います。
 私の住んでいるところでは、「高い山」と称し、近くの小高いところまで料理や飲み物などを持って上り、お花見のようなことをしましたが、現在はそのような風習を知らない若い人たちも増えています。また、場所によっては、この日から農作業をするというところもあります。
 この本では、「卯月八日は野点ピクニック」と書いていて、たしかにこの時期は外は気持ちがよいので、野点もいいかもしれません。お点前はあまり道具にこだわらず、お抹茶と茶碗と茶筅さえあればできます。茶杓などはプリンに付いてくる茶さじのようなものでも代用できますから、後はおいしいお菓子があればそれだけで十分です。
 12ヶ月の後には、「工房を訪ねて」には「堀田カーペット」「漆琳堂」「三宅松三郎商店」の3ヵ所が載っていて、最後の「三宅松三郎商店」だけは名前からではどのような物を作っているのかわかりませんが、花ムシロだそうです。そういえば、岡山県南部はい草栽培の盛んなところで、この工房は倉敷市にあります。倉敷といえば民芸運動とも関わりがあり、染色家の芹沢_介氏がデザイン図案にかかわった工房だそうです。今でも三宅家には、芹沢_介直筆の図案帳「花むしろ図案集写」があるそうです。
 下に抜き書きしたのは、この「三宅松三郎商店」のところに書いてあったものです。
 昭和19年11月号の日本民藝協会発行の『民藝』は、この花むしろの特集で、この本にもその表紙が花むしろの上に乗っています。そして先代の創業者三宅松三郎さんにこれらの花むしろのデザインを提案したようです。
 これらのデザインは、今でもモダンな雰囲気を持っていますから、生活に密着した美というのは、ほとんど色褪せないものだと思いました。

(2024.4.13)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の暮らしの豆知識中川政七商店 編著PHP研究所2016年6月29日9784569833750

☆ Extract passages ☆

 現在は、隆さんと奥様の操さんのふたりで工房を切り盛りしているため、多くは作れません。また国産の良質ない草も年々減少しています。けれど、「作り続けてほしいとの言葉をいただくからには、体が続く限りは作りますよ」といいます。
 芹沢氏のデザインは、図案を描き起こした当時の織り機に対応したもので、熟練の職人の手を加える必要があります。手仕事の道具にこそ美は宿るという民芸の思想が、三宅さん夫婦の花むしろにもしっかり息づいています。
(中川政七商店 編著『日本の暮らしの豆知識』より)




No.2291『諜報国家ロシア』

 今年のロシアの大統領選挙も、投票の妨害や票の積み増しとか、いろいろとささやかれているので、たまたまこの本を図書館で見つけ、読みたくなりました。
 2024年03月14日のニュースでは、ロシア石油大手ルクオイルのビタリー・ロベルトゥス副社長(53)が急逝したと発表しましたが、死因は公表されてません。しかし、同社の幹部経験者はウクライナ侵攻開始以来、今回で4人目だそうで、2022年9月には当時の会長が病院の窓から転落死し、さらに10月に現職の会長が「急性心不全」で死亡しています。このように続くと、やはり不思議です。
 また、3月29日の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、30日でロシアで同紙の米国人記者エバン・ゲルシコビッチ氏の拘束が発表されて1年となることから、1面トップを空白にして発行したそうです。これはまったくの異例なことで、この空白の部分には、本来は彼の記事が載るべきだという強いメッセージが込められているそうです。そして、最終面には、「われわれは決然と踏みとどまっている」と表明する家族のメッセージと本人の写真を大きく掲載しました。
 このような記事を見ると、なぜと思うのは私だけではないと思います。この本の副題は、「ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで」となっていて、KGBの始祖といわれている「チェーカー(Cheka:反革命・サポタージュ取締全ロシア非常委員会)というソ連の秘密警察から書き起こしています。
 このKGBというのは、「創設時の正式名称は「ソ連閣僚会議附属国家保安委員会」であった。この名称からはあたかも閣僚会議(政府)に属すような印象を与えるが、実際にはKGBは政府には報告義務がなく、ソ連共産党の最高意思決定機関である政治局の指示に従う「政治機関」であった。」とこの本には書いてあります。それでも、国境警備兵をのぞく職員数はソ連末期には50万人前後で、予算も人員も秘密だそうですから、詳しくはほとんどわからないようです。
 ほとんどの国のクーデターが軍部が動いて起きているようですが、今回のウクライナ侵攻の際も、一番被害が大きかったのは軍関係だと思うのですが、まったくそのような気配もなさそうです。何度か外国のニュースでは、それらしい話しも出てきますが、ロシア国内からは出てきません。そのことについて、この本のなかに、「革命を成功させたボリシェヴィキは自らの軍隊を労働者農民赤軍と命名した。しかし、労働者と農民だけで軍が編成できるはずはない。実際の部隊の指導は、元帝政ロシア軍将校に委ねざるを得なかった。しかし、これらの者は、いつ白軍に寝返るとも分からない。そこで、軍人を監視するために設けられたのが、チェーカーの「特別部」である。その規模は、チェーカー全予算の三分の一が充てられるほどで、軍人に対する逮捕権だけでなく、戒厳令の下では裁判なしで処刑する権限も与えられていた。第二次大戦の独ソ戦の最中は、特別部はスターリン直属とされ、「スパイに死を!」を意味する「スメルシ」に改称された。スメルシは、軍内部のスパイ摘発、脱走兵の取り締まり、帰還兵の監視まで行い、味方からも恐れられた。」と書いてあり、これでは軍内部もいつも監視されているわけですから、謀反を起こすような人は先に潰されてしまいます。
 それが、ソ連がつくられた当時からあったといいますから、おそらく軍人もそのことはしっかりとわかっていることだと思います。
 それと、もともとあったKGBが、ソ連崩壊後は新たなFSBという組織に編成されますが、その性格はほとんど同じだそうです。たとえばKGBの第一局防諜作戦部は、そのまま存続しているそうですが、KGBの第二総局は、FSB第一局全体としては違ってきているといい、「ひとつは、暗殺である。ウクライナ保安庁(SBU)は、2017年に同庁やウクライナ国防省情報総局(GUR)の複数の職員が暗殺された事件は、FSB第一局による犯行であるとの見方を示している。もうひとつの違いは、ハッカーの活用である。FSB第一局の編制下には、IT犯罪やハッカーの取り締まりにあたる情報セキュリティセンターが入る。同センターは、検挙したハッカーを国内の権力闘争や西側諸国へのサイバー攻撃の協力者として利用する。」と書いてありました。
 たしかに、時代が変われば変わることもあり、たとえばハッカーの活用などもそうですが、暗殺はとんでもないことです。これでは、国外に逃亡したとしても一度狙われたら必ず殺されてしまうということです。たとえば、ロシア石油大手ルクオイルの場合は、ロシアによるウクライナ侵攻直後の2022年3月の取締役会で早期停戦などを呼びかける異例の声明を公表してから会長など幹部経験者が相次いで亡くなっています。しかも、そのほとんどが死因不明です。
 この本を読みながら、ここまで書いてもいいのか、もしも似たようなことが起きないのかと心配もしましたが、著者は、「本書が売れたら筆者もコンプロマントの標的になるかもしれない」と書いていました。このKGBの使うコンプロマットというのは、「西側の政府、政治家、社会活動家や反ソ亡命組織に倫理的・政治的ダメージを与えるため、予め用意された情報(誹謗中傷)を西側の記者を通して拡散するもの」だそうです。
 まあ、それだけなら、それほど心配でもないのでしょうが、私ならちょっとはビビってしまいそうです。そして、この本を最後まで読んで、このような世界はスパイ映画にあることとほとんど同じだと感じました。
 下に抜き書きしたのは、第3章「戦術・手法――変わらない伝統」に書いてあったものです。
 ここを読んで思ったのは、だいぶ前に北朝鮮を訪ねた方の話しで、案内するところは全部前もって決まっていて、その途中の道路も写真を撮れないほどスピードを出していて、いつも監視されているように感じたといいます。
 おそらく、このようなところも、同じような社会主義の国ですから、習い覚えたのかもしれません。
 ちなみに、露土戦争というのは、18〜19世紀の間にロシア帝国とオスマン帝国の間の一連の戦争のことで、ロシアが不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざしたことで起こったと言われています。また、ついでですが、「過去500年の歴史を振り返れば、ウクライナは、帝政ロシア、ソビエト・ロシア、現代ロシアから計11回侵略されている」そうで、これでウクライナの人々にロシアを信用しろといわれても無理だと思います。

(2024.4.10)

書名著者発行所発行日ISBN
諜報国家ロシア(中公新書)保坂三四郎中央公論新社2023年6月25日9784121027603

☆ Extract passages ☆

 18世紀後半の露土戦争でロシアは黒海北岸を獲得したが、この戦争を指揮した軍人ゴリー・ポチョムキンは、クリミアに行幸するエカテリーナ2世に獲得地が豊かで繁栄しているように見せるため、張りぼての村を作ったとされる。このように、訪間者に対し実態とは異なる現実を見せることを俗に「ポチョムキン村」と言う。ソ連を訪問する外国人に対し、社会主義の「偉業」を見せるために選ばれた特定の工場、農場、研究所、文化施設をKGB内部では「陳列用施設」と呼んだが、これも一種のポチョムキン村である。外国人に何を見せるかは党幹部が決定したが、KGBは「陳列用施設」の選定や案内ルートの決定、「ソ連の現実について誤解を与えるような欠陥」を取り除く役目を担った。
 別の言い方をすれば、ソ連を訪問する外国人が「見たいものを自由に見た」、「自ら結論を引き出した」という幻想を作るのがKGBの非公然の活動である。
(保坂三四郎 著『諜報国家ロシア』より)




No.2290『涙にも国籍はあるのでしょうか』

 東日本大震災の死者行方不明者は、平成24年1月12日現在で、死者は15,844名、行方不明者は3,394名だそうで、いかにすさまじい大震災だったのかと思います。しかし、この数字に外国人は含まれているのか含まれていないのかはわかりません。
 著者は、「東日本大震災では、日本は発生直後から世界各国の救援隊などの活動によって支えられ、その後も日本赤十字社などを通じて3700億円を超える多額の義援金を海外から受け取っている。日本政府は国際会議に出席する度にそれらの支援に対する感謝の気持ちを海外に表明しているが、その一方で、大震災によって外国人の大切な命が失われているのにもかかわらず、それらを正確に把握しようともせず、結果、弔ってもいない。その不作為は今後、多民族国家へと突き進んで行かざるを得ない日本において、あまりにも不平等であり、何より不正義であるように思われた。死者を生者以上に敬い、弔う。それがこの国が古来脈々と培い、引き継いできた美徳であり、文化ではなかったか――。」という思いから、このような調査を始めたそうです。
 著者も書いていますが、どうも日本人は欧米人には優しいし親切だとは思いますが、東南アジアやインド人、アフリカ人などにはけっこう冷たいと思います。おそらく、それは日本人にあまりにも似てたり、まつたく違っていたりするので、警戒してしまうところもあります。
 たまたま、私がネパールの友人を連れて米沢市内のレストランに入ったとき、近くのテーブルに座っていた方がうさんくさそうに見ていたのが気になったことがあります。
 でも、私がネパールに行ったときには、向こうの人たちは歓迎してくれたし、となりの人が「ナマステ!」と挨拶してくれたこともあります。しかも、お金を払おうとしたら、「友だちだから安くしてとくよ!」と言い、メニューに書いてあった金額より値引きしてくれたこともあります。
 やはり、日本人は島国根性なのか、疑り深いのかはわかりませんが、これからのインバウンドの時代には、そろそろ改めたほうがいいのではないかと思います。
 それはさておき、第2章の「職人たちが中国人青年に伝えていること」に、とても感動的なことが書いてありました。
 彼は郭偉励さんという方で、現在は千葉市に住んでいますが、大震災前は岩手県大槌町に住んでいたそうです。もともとは中国の黒竜江省で育ち、日本人男性と再婚した母親を頼って16歳のときに日本に来ました。彼は来日後、義父の親族が経営する建築用の足場設営の会社で働き、言葉がわからないこともあり、半年ほどで見よう見まねで仕事を続け、少しずつ職人たちの話しの輪に加わることができたといいます。そして、2年も経たない2011年3月11日の大震災で母を失い、日本での滞在許可も取り消されてしまったそうです。しかも、その間に中国にいる実父と実兄も事故死してしまい、天涯孤独の身になってしまいました。
 彼の上司が弁護士を雇って交渉してくれ、いろいろな人たちが日本にいられるようにと働きかけてくれたそうです。ついには、父兄の死によって中国に帰っても身寄りがないことが確認され、日本にいることができました。
 それから12年、それでもなかなか日本語はうまくならず、婚約者の通訳で話しをしてくれたそうです。そのなかで出てきた話しですが、『今でも時々、大槌町の職場の上司や職人たちからスマートフォンに連絡が来る/「元気か?」「どうしている?」/そんなたわいのないやりとりに/時々涙がこばれそうになる……/「どぅして、涙がこばれそうになるのですか?」かみ締めるように話す郭に向かって、私はあえて愚間を挟んだ。その質問に郭が涙ぐみながら答えると、隣で通訳していた若い婚約者がワッと細い指で顔を覆った。「だって……」婚約者は郭の台詞を必死に日本語に通訳した。
「あの日からずっと、彼らは僕に『お前は一人じゃないんだぞ』って伝え続けてくれているんですよ。』と。
 ここは、何度も読み返し、日本人も捨てたものではないな、と感じました。
 下に抜き書きしたのは、第7章「それでも神父は教会に戻った」に出てくる話しです。
 私には「てんでんこ」という言葉はすぐに理解できますが、それぞれにとかばらばらにとかいう言葉です。私のところの方言では、「てんで」といい、たとえばそれぞれにするということを「てんでにする」などといいます。
 このことは、東日本大震災でもよく聞かれたことで、集団行動で大きな被害がでたことが教訓になったと思います。しかし、これは地元の古老によると、「家」を残すための教えだと知り、びっくりしました。つまり、家族が全滅すると一家を継ぐ人がいなくなるから、誰でも1人でも助かれば「家」は存続するという考えです。
 私にしてみれば、1人だけ助かればかえって不幸ではないかとも考えますが、昔の家督ということからすれば、それでも仕方のないことと考えたようです。
 この本を読んで、改めて大震災の怖さを思い起こしました。

(2024.4.07)

書名著者発行所発行日ISBN
涙にも国籍はあるのでしょうか三浦英之新潮社2024年2月20日9784103555612

☆ Extract passages ☆

 東日本大震災の取材を続けていると、震災発生直後は安全な場所に避難していた人物がその後、身内を助けに自宅に戻ったり、貴重品や携帯電話を取りに職場に向かったりして、命を落としている事例があまりにも多いことに驚かされる。
 我が子はもちろん、両親や親類が自宅に残っていると知らされたとき、人はたとえ自分の身が危険にさらされることがわかっていても、津波が及ぶ場所へと戻ってしまう。
 その本能的な行動を戒めるために、東北地方の沿岸部では古くから「てんでんこ」の教訓が引き継がれてきた。
 〈大地震が起きたら、津波が来る前に「てんでんこ」(ばらばらになって)で逃げろ〉
(三浦英之 著『涙にも国籍はあるのでしょうか』より)




No.2289『京都食堂探究』

 副題は『「麺類・丼物」文化の美味なる世界』で、私も麺類も丼物も好きですし、京都に1年ほどいたこともあり、また行ってみたいと思っていたこともあり、読んでみたいと思いました。
 そして、読み進めるにしたがって、やはり京都と私の住むところではいろいろなことが違うと感じました。これは京都食堂について書いてある本ですが、たとえば、京都のかつ丼はどんぶり飯の上にとんかつをのせるのだそうで、それにも2種類あり、ソースかつ丼はそれにソースを掛けるかソースにくぐらせたとんかつをのせるのだそうです。もう1種は「玉子とじかつ丼」で、とんかつとタマネギなどを甘辛い汁で煮て、玉子でとじてそれをどんぶり飯の上にのせます。
 そういえば、会津で広く食べられているソースカツ丼は、大正時代から親しまれてきた会津庶民の味だそうで、これはどんぶり飯の上に千切りキャベツを敷いて、その上にソースを浸したとんかつをのせたものです。
 しかし、近くの「とん八」で食べたときには、「とんかつ丼」は煮込んで玉子でとじたもので、メニューには「本格かつ丼」と書いてありました。さらに、この他に「ひれかつ丼」や「上ロースかつ丼」もあり、さすが山形県内の平牧三元豚を揚げたもので、とてもおいしかったです。
 この本では、「ソースと「とじ」とに大別される「かつ井」のうち、京都食堂で供されているのは、いっけんすると後者の「玉子とじかつ丼」のように思われる。井がはこばれてきたら、がっつく前にじっくりと目でも味わいながら、ゆっくりと箸を入れてみてほしい。見た日はふつうの「王子とじかつ丼」であるが、玉ねぎだけでなく九条ねぎも使われていて色あざやかだ。玉ねぎの入らない店も多い。王子とじの下からあらわれる五、六切れにカットされたとんかつを箸でひっばりだし、 一口食べてみる。すると、おもいのほか出汁がしみこんでいないことに気づかされるだろう。それどころか、よくみると、とんかつが王子でとじられていないこともわかる。」と京都食堂のかつ丼の特徴が書かれています。
 ところが、京都には中華かつ丼というものがあり、それは器に飯を盛り、とんかつをのせ、そこにご飯が見えなくなるほどたっぷりとあんをかけるのだそうです。まさに天津飯のかつ丼版のようなもので、京都では中華そばにもあんかけがあるそうで、「あんかけ中華」というそうです。そういえば、米沢南駅の近くでレストランをしていた方が、ラーメン好きが高じて、この「あんかけ中華」みたいなものを食べたことがありますが、名前は忘れましたが、冬の寒いときにはとても身体があたたまりました。
 思い出すと、たかが「麺類・丼物」でも、時代によっても地域によっても変化があります。
 そういえば、今はほとんどの人が「ラーメン」といいますが、私の小さいときには「支那ソバ」といいましたが、それから「中華そば」になり、中学生のころには小ぶりな「学中華」もあり、安く食べられました。そこには馬肉とメンマと渦巻きのナルトが入っていましたが、今では馬肉はチャーシューに変わり、ナルトはほとんど見られなくなりました。
 そういえば、この「支那そば」や「中華そば」は、もともとは「中国の「面条(ミェンティアオ)」に類する「蕎麦」を名称に取り込んだのが「支那そば」で、いまやそれは「中華そば」としてすっかり定着している」といい、その流れもよくわかります。
 下に抜き書きしたのは、第4章「食堂と町中華の不思議」の最後に書いてあったもので、この京都食堂の典型的なお店も時代の流れから少しずつ閉店しているそうです。
 その原因はいろいろあるでしょうが、やはり食生活の変化もあります。和食の店が少なくなり、イタリアンや郊外型の何でも屋の店が増えたり、ファーストフードも増えているので、選択肢は多くなっていますが、逆に幅は狭まっているようです。また、後継者の問題もあり、「あとがき」に書いてあったのは、ほとんどが後継者がいなくて高齢のためにお店を閉めるというのが多かったようです。
 でも、お店も味も均質化して、特徴がなくなってしまうような気がします。そういう意味では、こういう本が出て、記録にとどめておくということは意義があると思います。

(2024.4.4)

書名著者発行所発行日ISBN
京都食堂探究(ちくま文庫)加藤政洋・〈味覚地図〉研究会筑摩書房2023年11月10日9784480439208

☆ Extract passages ☆

 食堂は、だれもが気軽に入ることのできる食事処である。だが、ひとたび店に入ると、客はだれしも食べたい物を食べることに妥協がない。抜いたり足したり、あれこれ組み合わせながら、限られたメニゥから最良の選択をすることに余念がないのだ。
 そして、どれだけ難儀な注文にも寛容に寄り添い、たんたんと料理を提供する店には粋さえ感じられる。わたしたちは今日も食堂を愛してやまない。
(加藤政洋・〈味覚地図〉研究会 著『京都食堂探究』より)




No.2288『大作家でも口はすべる』

 4月1日は「エイプリルフール」ですが、もともとはイギリスやフランスなどで互いに悪ふざけして楽しもうとする伝統のようなものです。
 だから、副題の「文豪の本音・失言・暴言集」というのは、この季節柄、これはおもしろそうだと思い読み始めました。先ずは太宰治で、第1章の「口がすべって大目玉をくらう」の最初にも出てきますが、第3章「原稿をめぐるいざこざ」でも取りあげられていて、これは原稿を転売し編集者に侘びたときの誓言手記で、「盗人ナラヌ三分ノ理、七月末日マデ、家郷ノ兄ヨメアテ、五十円、返送スレバ、二百円マタ、アラタメテ、拝借可能ノ黙契有之、ワレ、日頃ノ安逸、五、六ノ友人、先輩、師ヨリ、少カラザル、借銭アリ、読書、思索、執筆、モシクハ、 一家談笑ノ、ユトリ、失イ、古キ、知己、一人去り、二人去り、針ノ山、火ノ川、血ノ池、サカサニ吊リサゲラレテ居ル思イニテ、寝夕間モ地獄、五十円、ノドカラ手ノ出ルホドニ、枯渇、アサマシナド、忘却、狂乱ノ二十八歳、」と長々と新潮社の編集者に書いて送っています。
 この内容を読むと、まったく勝手な言い分で、最後に太宰治と署名し、印鑑まで押しています。
 しかし、これを読むと、昔の文士の生活は大変だったようで、もともとは津軽の大地主の息子ですから、お金にも頓着なく使っていたようです。
 また、坂口安吾の破天荒な飲みっぷりは有名で、毎日のように「ウインゾア」というバーに飲みに行きケンカをしたりするので、この店には誰も寄りつかなくなり潰れてしまったそうです。しかも自分でそれを書いているのですからやはり作家です。
 これは「私は誰?」に書いてあるそうですが、「私は文壇というところへ仲間入りをして、私の二十七の時だったか「文科」という雑誌をだした。発行は春陽堂、親分格のが牧野信一で、同人は小林秀雄、河上徹太郎、中島健蔵、嘉村磯多、それに私などだったが、このとき私は、牧野、河上、中島と最も飲んだが、文学は酔っ払って語るもの、特にヤッツケ合うものというのが当時流行の風潮で、私にそういう飲み方を強要したのは河上で、私もいつからか、文学者とはそういうものかと考えた。小林秀雄が一番うるさい議論家で、次に河上、中島となると好々爺、好々青年か、牧野信一だけは議論はだめで、酔っ払うともっぱら自惚れ専門で、尤も調子のかげんで酔えないことの方が多い気分家だから、そういう時は沈んでいる。彼の酔った時はすぐ分る。まず自分を「牧野さん」とさんづけでよんで、自分の小説の自慢をはじめるからである。」と書いています。
 さらに酒に酔っぱらって、「からんだり、からまれたり、酒をのめば、からむもの、からまれるもの、さもなければ文学者にあらず」とあり、今なら間違いなくひんしゅく者だといわれ、店から追い出されること間違いなさそうです。
 また、別のところで、「文学などというものは大いに俗悪な仕事である。人間自体が俗悪だからで、その人間を専一に扱い狙うのだから、俗悪にきまっている。」と書き、いかにもその当時のデカダン的な雰囲気が感じられました。
 下に抜き書きしたのは、第4章「愚痴や文句が喧嘩に発展」に書いてあったもので、夏目漱石が大学教師を辞めて朝日新聞社に入社したときのことを「入社の辞」のなかにあります。
 さすがというか、大学にいるときには周囲から博士になることを当然視しされていたようですが、入社後に当時の文部省から博士号を授与する話しがあったときに、それを辞退しています。たしかに、この文章を読むと、大学の仕事にだいぶ嫌気がさしていたようです。
 漱石には、いろいろな逸話が多く、漱石が帝大講師だったときに授業中に懐手を組んで、右腕しか出さない学生に、「腕を出せ」と叱りつけたところ、彼は事故で腕を失っていたと知り、それでも「ぼくも、ない知恵をしぼってこうして講義をしているんだ。君も無い手を出したまえ」と言ったそうです。
 さすがに申し訳ないと思いながらも、つい負けん気からこのような言葉が出てきたようですが、これは『漱石と隻腕の父』魚住速人、に書いてあるそうです。
 この他にも、教科書にも出てくるような文豪も掲載されていて、本音でものを言ったり、ときには暴言といえるようなことまで書いているわけで、このような本もおもしろいものです。先ずは、自分で読んでみると、その時代の文士の生き様などが見えてくるかもしれません。

(2024.4.1)

書名著者発行所発行日ISBN
大作家でも口はすべる彩図社文芸部 編彩図社2024年1月22日9784801307018

☆ Extract passages ☆

 大学では講師として年俸八百円を頂戴していた。子供が多くて、家賃が高くて八百円では到底暮せない。仕方がないから他に二、三軒の学校を馳あるいて、漸くその日を送って居た。いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。その上多少の述作はやらなければならない。酔興に述作をするからだと云うなら云わせておくが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。それだけではない。教えるため、または修養のため書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱に陥ったのである。……
食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるなと云ってもやめて仕舞う。休めた翌日から急に脊中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入って来た。
(彩図社文芸部 編『大作家でも口はすべる』より)




No.2287『耳は悩んでいる』

 意外と人は何でもないときには意識しないのに、いざ耳が聞こえにくいと思うと、やけに気になるものです。
 私の場合も、なるべく音楽を聴くときにはイヤホンなどは使わないようにしているのですが、ある時、耳が何かでふさがれたようになり、耳鼻科に行きました。というのも、私の知り合いが急性難聴になり、いつか治るだろうと思い、そのままにしていたら、ほとんど聞こえなくなり、いまも不自由だといいます。彼によると、早くさえ耳鼻科にかかると治ることもあるそうで、3割ぐらいは完治するそうです。
 そんなことをだいぶ前に聞いたことがあり、耳って知っているようでほとんど知らないし、意識すらしなかったと思い、この本を図書館で見つけ、読むことにしました。
 音が脳に伝わって聞こえたり理解できるわけで、この本には、「音やことばは目には見えないが、空気の振動(音波)として空気中を伝搬し、耳に入る。耳に入った音波は、外耳道というトンネルのような道を通り、鼓膜へと伝わる。続いて、音は鼓膜から耳小骨という小さな二つの骨へと伝わる。耳小骨のある空間は、中耳と呼ばれる。中耳の奥は内耳と呼ばれ、蝸牛とぃうカタツムリのような形をしており、音波を電気信号に変換する。その後、電気信号は脳へ到達し、処理されるという。音やことばが空気の振動であるということは、空気がない真空の中では音は伝わらないということだ。真空管の中で音を鳴らしても、私たちはその音を聞くことはできないのである。」とあり、そういえば、宇宙空間は沈黙の世界だという話しを聞いたことがありますが、たしかにこの話しを聞くと、音が伝わらないからだと納得しました。
 声が聞こえるというのは、このような複雑な伝わり方をして、最後は脳に到達し処理されて理解できるわけで、すべては脳が働いて聞こえたということになるわけです。No.2285『まちがえる脳』で読んだのですが、ニューロン間の信号伝達が固定されていないということで、構造と機能ともに柔軟だということも、人間の身体というのは微妙なバランスの上に成り立っていると思いました。
 最後の「「おわりにかえて」まで読んで、この『耳は悩んでいる』という題名に、納得しました。おそらく、監修者の「ただでさえ孤独になりがちであった高齢で独居の方はコロナ禍の外出制限により、より社会から隔絶され、直接他人と会話をする少ない機会でさえもコミュニケーションに不自由を生じてしまうことになってしまったわけである。そのような方が耳鼻咽喉科の外来へ久しぶりに受診すると、長い問他人と会話をする機会がなかったために会話の聞きとりの力がガクッと落ちてしまっている。あらためて、対面で聞き、会話をすることが人間にとってとても大切なことなのだと思い知らされた。耳の重要な機能の一つである聞こえの具合が悪くなると、周囲とのコミュニケーションから隔絶されたような大変な孤独感と、必要な情報を得ることができない不安など、不使という言葉で済ますことはできないことが起きるのだが、足の骨折などのように他人から一目でわかる症状とは異なり、自分から伝えなければ誰にも気づいてもらえない。そのため、耳に悩みをもつ患者さんは人知れずつらさを抱えていることが多い。」と書いてあり、つまり耳に悩みをもつ患者さんが多いということのようです。
 考えて見ると、もし、私も聞こえにくくなると、つい話しをするのが億劫になったり、話しかけられても聞こえないと思えば会話も少なくなりそうです。つまり、人との触れ合いがなくなれば、1人でいる時間が増えてきます。
 この少し前にに書いてあったのですが、コロナ禍のなかで、みんなマスクをしたりアクリル板の設置などが進み、耳の間こえにくい人たちは非常に不自由になったといいます。なぜかというと、「耳が聞こえにくい方は、相手の表情や口元を自然に見ていて、音声だけでなく、表情や口元からの視覚情報をプラスして会話の内容を理解している」からだそうで、たしかに手話ニュースを見ていたとき、なぜかマスクではなく透明なものを着けてしたのが印象的でしたが、それもこの話から理解できます。
 下に抜き書きしたのは、「V耳のはたらき」に書いてあったもので、前から不思議には思っていたのですが「カクテルパーティー効果」という名前は初めて知りました。
 たしかに耳が2つあるから効果があるということですが、目だって2つあるから距離感がつかめるのだし、肺などは2つあるから片方が使えなくなったとしても大丈夫のようです。そう考えると、人間の身体というのは、とてもよくできていると思います。
 もし、片耳だけ難聴になると、騒音下での会話が聞きとりにくいなどの問題が生じるだけでなく、方向感もわかりにくくなるというから大変です。
 この本を読んで、私自身も耳をもっと大事に長く使いたいと思いました。

(2024.3.28)

書名著者発行所発行日ISBN
耳は悩んでいる(岩波新書)小島博己 編岩波書店2023年12月20日9784004320005

☆ Extract passages ☆

 騒がしいパーティーや会合で、なぜ自分の間きたい人の声がきちんと聞こえるのか不思議に思ったことはないだろうか。カクテルパーティー効果とは、名前の通リパーティーなど騒がしい場所でも、たとえば自分の会話している相手の声に注意を向け、会話の内容を聴きとることができる現象のことである。この現象は、耳が二つあることでより効果を発揮できる。
(小島博己 編『耳は悩んでいる』より)




No.2286『アメリカのイスラーム観』

 イスラエルとハマスの戦争は、ガザ地区に住む多くのパレスチナ人にとっては、人的被害はもちろん、その閉塞感はとても想像すらできない状況ではないかと思います。
 この本の著者は、現代イスラム研究センター理事長だそうで、初めて聞く名前で、律と書いて「おさむ」と読むそうです。私の場合は、あまり著者のプロフィールなどは読まないのですが、最後まで読んでから、このようなイスラムの見方というのもあるのだと思い、現代イスラム研究センターという法人をネットで調べると、「この法人は、イスラム地域に関心をもつ者、あるいは世界事情を知ろうとする者等に対して、現代イスラム地域の調査・研究に関する事業を行い、日本のイスラム地域研究の深化・発展に寄与することを目的とする。」と書いてありました。
 たしかに、中東の話しのほとんどは欧米からの流れてくるのが多く、しかもテロなどのこわい話しが中心なので、どうしても構えてしまいます。だいぶ昔の話しになりますが、海外旅行もまだしたことがなかったのに、花の桃源郷といわれるフンザには行きたいと思ってました。また、パキスタンのラホール博物館の「菩薩苦行像」は一度でいいから拝んでみたいと思ってました。これはシクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の伽藍跡から出土した2〜3世紀ごろの像で、インドのブッタガヤの近くの洞窟にこもって6年間ほど苦行をしたときのお姿です。その洞窟を見たくて、2012年12月5日から13日まで、インド仏跡の旅をしたこともあります。
 ある意味、その付近には憧れのようなものがあったようです。しかし、いつの間にか、いつでも紛争が絶えないとか、自爆テロがあるとか、ちょっとこわいような印象ばかりになってきました。それでも、アフガニスタンで中村哲医師のような方がボランティアをされていることを知りましたが、2019年12月4日に武装勢力の銃撃を受け亡くなられました。
 この本には、「中村医師はアフガニスタンの人々にとって「自由」とは、信仰心の篤さとともに、自らの伝統や文化に対する誇りであると述べ、そのマドラサやモスクがタリバンの活動の温床になるという理由で爆撃されるなど活動が制限されることにアフガニスタンの人々は自由が奪われていると感じていた、と語っている。中村医師は、こうした宗教施設の建設に支援の手を差し伸べてくれたのはサウジアラビアの他には日本しかなかったという現地の人の声を紹介し、冒頭の日本に対する称賛の言葉を喜んでいる。アフガニスタンに侵攻したアメリカはアフガンの人々に本当の自由をもたらすことがなく、アメリカによる破壊と殺戮がアフガン人の記憶に強く刻まれることになった。」と書いています。
 ただ、それほどアフガン国民に敬愛されていた中村医師が武装勢力によって銃撃されなければならなかったのか、ちょっと理解できません。
 それと、今現在も、イスラエルとハマスがガザ地区で端から見ると一方的な戦争状態ですが、この本のなかで、政治哲学者のハンナ・アーレントさんの話しが載っていて、「ユダヤ人が自分たちを排除した国民国家の原理で国家を建設すれば、今度は自分たちが他民族を排除する側に回ってしまうと説いた。彼女はユダヤ人がパレスチナに自らの国家を建設するならば、アラブ難民というかつての自分たちと同じ故郷喪失者を生み出すことになることを見通していた。また、イスラエルのユダヤ人たちが隣人であるアラブ人を敵視することになったら、敵対する民族に取り囲まれて暮らし、少数民族や他国の国民に対して抑圧的・排他的になっていくだろうと予見していた。そうなれば、イスラエル人は古代スパルタ人のように、兵士種族になるしかないし、世界中のほかのユダヤ人からも孤立することになるだろうと警鐘を鳴らした。」とあり、まさに今のような状況になることをはっきりとわかっていたように思います。
 あまり情報もなく、知らないことが多い私でさえも、国もなく世界中をさまよっていたユダヤ人も大変だったと思いますが、その人たちがパレスチナに入り込んで今まで住んでいた人々を追い出してしまったら、結局は今までの自分たちと同じような境遇にしてしまうだけでなく、大きな反感を生み、争えば争うほど泥沼化してくるのは見に見えてわかります。まさに、ハンナ・アーレントさんが言うように、「イスラエル人は古代スパルタ人のように、兵士種族になるしかない」と危惧します。
 戦争というのは、いつの時代も憎悪を生み出します。だから、どのような宗教も憎んだり暴力を振るったすることを禁じています。ところが、その宗教のなかから聖戦などという勝手な解釈をして争いごとを起こす人が出てきます。本当に困ったことです。
 下に抜き書きしたのは、「おわりに」の「アメリカのイスラーム観」を振り返る、に書いてあったものです。
 現在、アメリカのムスリム人口は増加しているそうで、キリスト教に次いで2番目に宗教人口が多くなると予想しているそうです。だとすれば、そろそろ争ったり反目したりするよりも融和する方向に舵を取らなければならないと思います。
 でも、著者が1990年代にアメリカ国防省を訪ねたときに、そこの官僚たちは「テロリスト」の主張を理解しようともしないし、テロ対策として中東イスラーム世界の福利の向上なとも考えていなかったといいます。しかし、これからはこの下に抜き書きしたようなことを考えなければならないと私は思います。

(2024.3.24)

書名著者発行所発行日ISBN
アメリカのイスラーム観(平凡社新書)宮田 律平凡社2024年1月15日9784582860481

☆ Extract passages ☆

 アメリカなど欧米諸国がテロを爆弾で封じ込めようとすればするほど、テロで報復を考える勢力は現れ、その形態もますます過激になり、生物・化学兵器など大量破壊兵器を用いる可能性すらある。……
彼らがテロ対策として優先していたのは、テロリストに関する情報の蒐集や軍事的制圧だった。日本はJICA(国際協力機構)やアフガニスタンで活動した中村哲医師のように、様々なNGO(非政府組織)が教育や医療などの生活支援を中東イスラーム世界に対して行ってきた。アメリカの対テロ対策に求められているのは日本のような民生支援だが、アメリカの政府指導者たちがそれに気づく様子がいっこうに見られないのは、兵器で利益を得ようとする軍需産業の意向や、第一次、第二次世界大戦やベトナム戦争など力で敵をねじ伏せてきたアメリカの政治的伝統やメンタリティーがあるに違いない。
(宮田 律 著『アメリカのイスラーム観』より)




No.2285『まちがえる脳』

 この本は、第77回毎日出版文化賞自然科学部門で受賞したそうで、その当時の新聞を読むと、2023年11月3日の文化の日に発表され、贈呈式は12月18日午後2時から東京都文京区のホテル椿山荘東京で開催されたそうです。このときの特別賞は、いつか読みたいと思っている「杉浦康平と写植の時代 光学技術と日本語のデザイン」阿部卓也著(慶応義塾大学出版会)です。
 読み始めると、そのいい加減な信号伝達といわれても、どのように動いているのかとか、どのようにしてそれを調べているのかという基本的なことがなかなか理解できず、ちょっと諦めかけましたが、第2章の「まちがえるから役に立つ」あたりから、だんだんとおもしろくなり、なんとか読み終えました。今は、本当におもしろかったと思います。
 たとえば、「脳の神経回路の構造と機能は共にいいかげんである。しかし見方を変えてみると、神経回路の構造と機能は固定されておらず、柔軟であるともいえる。これは電子回路にはない脳の特性である。そしてこの脳の柔軟性が、動物が生存する上できわめて有益であることもわかってきた。それが、脳がもつ独特の冗長性、つまり部分的な損傷を受けても影響を受けなかったり、大きな損傷でも回復するという特性である。すなわち、特定のニューロンだけが信号を伝達するのではなく、多数のニューロンが協力して伝達するということが、また、記憶をつくるときと同じように、経験により信号伝達の確率や経路が変わるということが、損傷に対する脳の頑健さと回復力を生み出しているのである。」といい、だから記憶も変容しやすく、脳が損傷を受けても回復するのだそうです。
 私は、脳というのはとても大切なもので、そこが損傷を受けてしまうと身体全体に影響を及ぼすと考えていました。しかし、小さいときに水頭症になり、そのままほとんど普段の生活に支障がなかったのに、たまたま何かの検査で水頭症だとわかることもあるそうです。つまり、頭蓋骨のなかのほとんどが脳脊髄液で満たされていたとしても、数学者になった人さえいるそうです。この本に、脳画像の写真が載っていましたが、ほとんどが黒くなっていて、一般の人の10〜20%しかなくても生活する上にはほとんど何の不自由もなかったといいます。
 ということは、いかに脳というのは構造と機能ともに柔軟で、ニューロン間の信号伝達が固定されていないということでもあります。
 つまり、脳には機能代償の働きがあり、もし事故などで脳に損傷を受けたとしても、しばらくするとそれに近い動きをするようになるそうです。これはとても大切なことで、そういえば、私の友人も脳梗塞で右手がまったく使えなくなりましたが、その後のリハビリで少しずつ動くようになり、今ではほとんどわからないほどまでに回復しました。
 もちろん、皆がみな、回復するわけではないでしょうが、こういう本を読むと、希望が湧いてきます。
 また、記憶力についても書いてあり、記憶が良すぎても大変なのだそうです。ある1920年代のソビエト連邦時代にロシアで見つかった「シィー」と呼ばれた青年は、本当にいつまでも忘れなかったそうです。たとえば、15年まえに1度覚えただけの系列をそのとおりに再現したそうで、彼は忘れるためにいろいろと工夫したといいます。その1つが忘れるために書いたものを燃やして、その燃えていく光景を像として残すことで忘れようとしました。しかし、どのような努力をしても、忘れることはできなかったそうで、他の人からみれば奇妙な努力としかいいようがありません。
 下に抜き書きしたのは、第2章「まちがえるから役に立つ」に書いてあったものです。
 まさに失敗したりまちがったりするからこそ、そこからアイディアが生まれてくるといわれれば、なんとも心強いものがあります。しかも、脳そのものの仕組みから考えてもそうだとすれば、あまりエラーにこだわっていることはなさそうです。
 さらに、このあとに、「このような脳が創造を生むプロセスは、生物の進化のプロセスと似ているかもしれない。」といい、遺伝子の突然変異などもコピーミスであり、そこからまれに環境への適応力がより優れている個体が現れることがあり、人としての個体がさらに子孫を増やしていくところに進化もあるといいます。ということは、コピーミスこそが人間が今まで生存できた由縁かもしれません。

(2024.3.20)

書名著者発行所発行日ISBN
まちがえる脳(岩波新書)櫻井芳雄岩波書店2023年4月20日9784004319726

☆ Extract passages ☆

要するに、多くの失敗、つまリエラーの中から発明が生まれるということらしい。このことは、「失敗は成功のもと」や「失敗は成功の母」という有名な格言もあることから、わたしたちの社会では、きわめて当然のこととして広く受け入れられているが、脳の信号伝達の実態から見ても、きわめて当然といえる。脳の信号伝達は不確定で確率的であるため、必ずまちがいも起こるが、多くのまちがいの中から、斬新なアイデアつまり創造も生まれるということである。
(櫻井芳雄 著『まちがえる脳』より)




No.2284『豆腐の文化史』

 私も豆腐が好きですが、その豆腐だけで1冊の文化史を書けることに驚きました。しかし、考えて見ると、そもそも豆腐はいつから、どのようにして日本に来て、それからどのように広まっていったのかなど、ほとんどわからないことに気づきました。それで、この本を読むことにしました。
 この本には、豆腐の伝来は、「豆腐はすでに平安末期に中国から僧侶たちによってもたらされ、鎌倉期には地方へと伝わり、室町・戦国期になると、地方の村々に豆腐屋が存在していたことに間違いはない」そうで、まさに古くから日本人に馴染んできた食べものです。この本の「はじめに」の一番最初に松平治郷(はるさと)の掛軸から話しを始めています。それは、「豆腐は不思議な食べ物である。出雲松江藩7代藩主松平治郷(1751〜1818)は、もともと茶の湯を好み、藩政改革にも尽力したが、とくに引退後は不昧と号して、茶と禅に明け暮れて悠々自適の生活を送った。その不昧に、「世の中は まめで四角で丸らかで とうふのようにあきられもせず」という「豆腐自画賛」の一幅がある。この歌意は、世の中(人生)というものは、豆(働き者)でかつ四角(実直)で、和かつまり適応力があり、豆腐のようにあきられないのが一番よい、ということだろう。この一首とまったく同じ表現が、二重県東部の山間地帯の人々の間にも伝承されている。ほかにも隠元禅師に同様の歌があるというから、豆腐礼賛の定型句として広く知られていたようである。」と書いています。
 そういえば、隠元禅師といえば「インゲン豆」を日本に持ち込んだというだけでなく、中国の堅豆腐の製法を日本にもたらしたことでも有名で、「黄檗豆腐」とも呼ばれています。「味国記」という本には、「京に三豆腐あり」といい、1つは嵯峨と南禅寺の湯豆腐、2つ目は祇園の田楽豆腐、そして3つ目は宇治の黄檗山万福寺に近い松本平四郎の豆腐羹だと書いています。この豆腐羹こそが、隠元禅師のもたらした「黄檗豆腐」です。
 そういえば、昔の本を図書館で見ていたときに、『豆腐百珍』という名前を知り覚えていたのですが、「つまり『豆腐百珍』を読めば、二百三十数種の豆腐料理のみならず、豆腐に関する知識を手にすることが可能となる。これは『豆腐百珍』が、豆腐料理を舌で味わうというよりも、知識を駆使して頭つまり観念の上で料理を楽しむという性格の料理本であったことを意味している。」と書いてあり、まさに豆腐の百科事典のような存在です。
 この続編の『豆腐百珍続編』には、京都六条の「六条豆腐」の記述があり、「高野豆腐」の作り方と違うと書いてあるそうですが、山形県西川町、昔の岩根沢で「六浄豆腐」を作っていましたが、それと似ているそうです。私も小さいときに祖父のお土産で食べたことがありますが、これが豆腐かと意外だった印象しかありません。そのときに、これは京都六条から出羽三山に来た旅の修験者が作り方を伝授したという話しでした。この本を読んで、そのことも思い出しました。
 まさに、豆腐はその土地ならではの創意工夫で、いろいろに変化したことは間違いなさそうです。
 この本でも、「自ら作るといっても、その工程は単純ではなく手間がかかる。その上、どうしても欲しい時期は、盆や正月、年中行事や人生儀礼の物口などに集中する。しかも大量に必要となるため、数軒が集まって組となったりして豆腐作りが行われる。あるいは一軒の場合でも、作る時はそれなりの量を作るが、余った豆腐はなるべく保存させたいと考える。また作った豆腐は、冷や奴などのようなその場限りの食べ方ではなく、しっかりと味の付いたご馳走でなければならず、食料の乏しい地域では増量も一つの課題となる。こうした豆腐だけに、全国的にみれば、地域ごとにさまざまな種類があり、そこには風土に応じた生活の知恵が働いている。」と書いています。
 ある意味、だからこそ『豆腐百珍』のような本が生まれたわけで、地方を旅する楽しみでもあります。そういえば、京都に行ったときに、たまたま乗ったタクシーの運転手さんに、「京都のお土産で一番は何ですか?」と尋ねると、すぐに豆腐ですかね、という返事でした。そのときは、まさかいくらおいしいとはいえ、山形まで持ち帰ることは考えもしませんでしたが、今なら、そのおいしさがわかるようになり、持ち帰るかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第1章「大豆から豆腐へ」のなかにあったニホンコウジカビ菌についてです。
 つまり、この菌こそが日本の味を生み出すもとであり、日本でのみ繁殖し生きている大切なものです。今までは、なんとなく感じていたのですが、初めて「ニホンコウジカビ菌」という名前を知りました。

(2024.3.16)

書名著者発行所発行日ISBN
豆腐の文化史(岩波新書)原田信男岩波書店2023年12月20日9784004319993

☆ Extract passages ☆

……すでに18世紀後半には、日本の醤油が大量にヨーロッパに輸出されている旨を述べている。
 これはアミノ酸発酵などを引き起こすコウジカビ菌の優秀性に由来するもので、とくにタンパク質やデンプン質類に対して高い分解能力を有するニホンコウジカビ菌(アスペルギルス・オリゼー)を利用しているため、美味しい味噌・醤油・日本酒・酢が製造されている。この種の菌は、日本の国菌として認定されており、わが国独自のコウジカビ菌で、日本でのみ繁殖している。これは長年にわたり選抜育種の成果であり、先人の努力によって創り出された独自のコウジカビ菌ということになる。こうしたすぐれた醸造技術によって、大豆を原料とした味噌や醤油などの重要な発酵調味料が生み出されたのである。
(原田信男 著『豆腐の文化史』より)




No.2283『親切で世界を救えるか』

 この本の題名は『親切で世界を救えるか』ですが、私の第一印象は、親切で世界を救えるようにしたいと思いました。というのも、今現在もロシアとウクライナ、そしてイスラエルとハマスで戦争が起こっていますが、おそらくマスコミで報道されないだけで、各地でも争いは起こっているかもしれないのです。だとすれば、人々を思いやったりケアしたりという気持ちがあれば、争いごとは少なくなるような気がします。
 副題は「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」ですが、毎日をキリキリと過ごしていてはケアの気持ちも生まれてこないかもしれません。
 この本のなかに、ケアの倫理として、「下は上に常に従属すべきであるという儒教道徳が抜けきらないまま自由にふるまおうとすると、それはハラスメントになってしまう。子供の欲望をケアしない学校道徳にも、女や目下の人間を欲望のはけ口にすることが反体制的でかっこいい行動だと信じる中高年にも、ケアの倫理は不在だ。常に自らの欲求よりも他者・社会・国家を優先することが正解とされる学校道徳と異なり、ケアの倫理においては自分も含めた個々の感情や欲求もケアの対象となる。勤労、正直、愛国心など過度に一般化されたルールや義務を刷り込む道徳の授業に納得していない人にも、ケアの倫理は開かれた概念になるのではないだろうか。」といいます。
 これを読んだとき、岐阜県岐南町の町長さんも、女性職員に対する時代的な錯誤があったのではないか、だから調査した弁護士3人の第三者調査委員会の報告書でも少なくても99件の言動をセクハラやパワハラ行為と認定したのではないかと思いました。しかも、町職員の8割以上がこのような行為を受けていると感じたと調査に答えているので、これからは上に立つ立場の人たちは相手に対する「ケア」を常に心がけなければならないと感じました。
 そういう意味でも、この本はとても参考になりました。同じことをしても、今と昔ではとらえられ方が違いますし、今の若い人たちと接するときも、大切な心構えです。
 だから、この本のなかに冷笑文化という言葉があり、「冷笑文化で才能を発揮できるのは、ケアをしない人々だ。若くて権力を持たないうちは、人を人とも思わない不遜さがかっこよく見えることもあるだろう。だがそんな彼らが加齢で権力を握れば、苦しむ人々が増える。現代において社会を牛耳っているのは、まさにケアすることを知らずに育った層である。そんな社会の事情も、嘲笑・いじめ的ではないお笑いや、ケア要素のあるカルチャーが若者たちの人気を集める原因のひとつとなっているのかもしれない。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 今、今までのお笑いで先頭を走っていたのに、裁判を起こされているのも、このような問題かもしれません。もちろん、どちらがどうということはわかりませんが、そのような時代は終わったと思います。
 これからはケアもできない人たちは、今まで問題にされてこなかったようなことでも責任を背負わされるようになります。これはぜひ注意してほしいことでもありますし、相手をケアしようとすることで、新しい生き方が見えてくるような気さえします。
 下に抜き書きしたのは、「あとがきにかえて――こねこのぴっちが家出をした日」に書いてありました。
 こねこのぴっちというのは、著者の次女がとても大事にしていたぬいぐるみで、唯一話が通じる、たった1人の相棒だそうです。ところが、小学2年生のある日、バスのなかにこのぴっちを置き忘れてしまったそうです。Twitterなどでも呼びかけたりしていろいろ手を尽くし、1ヶ月後にそのバスの運転手さんから直接連絡をいただき、無事に戻ってきたそうです。
 この文章のなかにある「この事件」というのは、このことであり、このことがこの本を書くきっかけにもなったようです。

(2024.3.13)

書名著者発行所発行日ISBN
親切で世界を救えるか堀越英美太田出版2023年12月25日9784778319021

☆ Extract passages ☆

 この事件以来、私は少し変わった。障害児の親は毎日が戦いだとよく言われる。支援は黙っていても与えられるものではないので、自分で調べ、関係各所に出向き、主張し続けなくてはいけない。送迎義務があって家に一人で置いておけない小学生がいたら勤めは退職せざるをえない。さらに母親に自己犠牲させたがる宗教右派と関係が深いPTAが個々の母親の事情を汲んでくれるはずもなく、障害児を家に一人で置いて役員となって奉仕活動をせよ、特別扱いは認めないとごり押ししてくる。家族以外の周囲が敵ばかりに見えていたあの時期に、縁もゆかりもないのに個人として我が子をケアしてくれる人々をまのあたりにしたことで、自分も世界にやさしくしてみようかなと素直に思えたのである。本書で「ケア」という不得意分野を深掘りしたくなったのは、このできごとも関係していたのかもしれない。
(堀越英美 著『親切で世界を救えるか』より)




No.2282『どうしてそうなった!? いきものの名前』

 名前って、なんか奥が深くて、特に植物の名前などはなぜそのような名前なのか、とても興味があります。この本の副題は、「奥深い和名と学名の意味・仕組み・由来」とあり、それをみただけで、読みたくなりました。
 よく、くさっても鯛などといい、まさに鯛は縁起ものですし、何とか鯛というのも多そうですが、日本周辺の海にいるといわれる魚、およそ3,700種といわれていますが、その1割が「タイ」とか「ダイ」が種名の語尾につくそうです。この本には、「そのうち、真のタイといえるタイ科のものは、マダイ、クロダイ、チダイ、ヘダイなど13種しかいません。そのため、アマダイ、イシダイ、コブイ、スズメダイ、キンメダイなどほとんどのタイは、ニセモノのタイだといえます。とはいっても、もともと垂直方向に「平たい」魚をタイと呼んでいたようなので、分類など関係なく「○○ダイ」という名前の魚が多いのは仕方がありません。」と書いてありました。
 やはり、生きものの名前というのは、おもしろいと思いました。ちなみに、植物名で一番長いのは「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」で、漢字で書くと「龍宮の乙姫の元結の切り外し」で、乙姫さまが髪を束ねていた紐を切ったもの」ということで、海に生えている細長い草ということだそうです。
 もちろん、一番短いのは「イ」で、イグサのイですが、あまりにも短いので、普通は「イグサ」と読んでいます。
 この本のなかに出てくる名前でおもしろいのは、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」で、正式な和名ではなく俗称ですが、国立科学博物館の特別展「昆虫」に展示され、「この和名は『俗称』です。定まった種にあてられているものではありません。」と註釈が付けられていたそうです。これは、もともとは「トゲナシトゲトゲ」なのに、後から鞘翅の後方にわずかなトゲを持つものが見つかり、それを「トゲナシトゲトゲ」なのに「トゲ」があるということで、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」というそうです。
 そういえば、植物の世界にも、「クロユリ」というのがありますが、その花が黄色いので「キバナクロユリ」というのがあります。私も何年か栽培したことがありますが、ちょっと珍しかったようです。
 よく、植物などは標本を作って保存しますが、新種に名前を付けるときに使った標本は、「タイプ標本」と呼ばれます。これは、この本によると、「記載論文で学名が指し示すものは、「その生物の基準」となるタイプ標本です。そのため、学名を担うという意味で、ホロタイプを「担名タイプ」といいます。担名タイプは「その生物の基準」ですから、新たに近似種を記載する際にも比較対象となる重要なものです。そのため、「担名タィプ」は公開可能な状態で管理する必要があり、個人所有のものであっても、博物館などに寄贈あるいは寄託するのが慣例となっています。」と書いています。
 私も海外などで標本館があると見せてもらうのですが、「タイプ標本」は赤い枠がついています。今まで一番印象に残っているのは、イギリスのエジンバラ植物園のなかにある標本館で、ダーウィンがビーグル号に乗って海外で採取した標本です。その日付けやビーグル号に乗ってなどという書き付けがあり、ワクワクしながら見せてもらいました。
 下に抜き書きしたのは、第2章「学名を知ろう」に出てくるものです。
 これを読むとわかりますが、素人が新しい生きものをみつけたから自分で名前を付けようと思ってもできません。先ずは新種を発見するのにも相当な知識がないとできませんし、さらにそれが世界のどこかですでに発見されているのかどうかを調べなければなりません。
 そして、それを新種たる由縁を論文にまとめ、発表しなければならず、しかも学術的なものを英語で書くのですから、大変です。
 でも、もし、新種を発見し、自分の好きな生きものの名前に自分の名前が残るとすれば、これはロマンです。

(2024.3.9)

書名著者発行所発行日ISBN
どうしてそうなった!? いきものの名前丸山貴史 著、岡西政典 監修緑書房2023年12月30日9784895319409

☆ Extract passages ☆

新種を発見し、命名規約の形式に則り命名したとしても、それはまだ学名ではありません。新しい種である証拠とともに論文に記載し、それが公開されて初めて学名となるのです。
 論文が掲載されるメディァは、「学術雑誌(ジャーナル)」が望ましいとされます。それは、「査読」があるからです。査読とぃぅのは、投稿された論文を該当分野の専門家たちが読み、それが掲載されるにふさわしいものか判断する作業のこと。この掲載基準は、有名な学術雑誌ほどハードルが高く、それだけ信頼性も高いといえます。
 また、こぅした論文は、英語で書かれるのが一般的です。せっかく論文を発表するのであれば、日本人以外にも読んでもらいたいですからね。ただし2012年までは、植物やキノコの記載論文を執筆する場合、記載文をラテン語で書くことが求められていました。
(丸山貴史 著『どうしてそうなった!? いきものの名前』より)




No.2281『生活はクラシック音楽でできている』

 指揮者の小澤征爾氏が2024年2月6日に88歳で亡くなられたそうで、追悼番組も各局でありました。
 それを聴きながら、指揮者によってこんなにも違ってきこえるのかと改めて思いました。それとそれらを聴きながら、どこかで聴いたことがあると思い出すことも多く、この本は、今年の1月5日に発行され、米沢市立図書館に入ったのが1月18日なので、さっそく借りてきました。
 第2章の「家電とクラシック音楽」のところに出てくるノーリツ社のお湯張り完了を知らせる「人形の夢と目覚め」のメロディの音源製作についての話しで、「当初は他の家電製品の大部分がそうであるように、楽譜をパソコンに読み込ませて、電子音でメロデイを作っていたとのことですが、改良の際には人の演奏をベースにした音源に変更されたそうです。いったんシンセサイザーの生演奏をコンピユーターに保存し、その演奏音を鉄琴の音に変換したものが現在製品から聴こぇている音楽です。これについて、開発者は「人が弾くものをそのままデータにしたほうが耳馴染みがよかった」からだと説明しています。」ということです。
 そういえば、アンドロイドの話す言葉がどこかぎこちないのと同じではないでしょうが、それに近いものがあるのではないかと思います。だから、楽譜があったとしても、指揮者によって演奏されたものが違ってくるというのもわかります。
 自分の経験からいっても、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーヴェンの交響曲でも、小澤征爾氏とヘルベルト・フォン・カラヤン氏が指揮したのとは違います。むしろ、だから聴く楽しみがあると思います。
 それとこの本には、音楽家のさまざまなエピソードもふんだんに取りあげられていて、とても興味深く読むことができました。たとえば、ジョアキーノ・ロッシーニは、オペラ〈ウイリアム・テル〉序曲・第4部「スイス軍隊の行進」が有名ですが、彼は37歳で作曲をしなくなり、美食家としてサロンを運営したそうです。そして、「作曲をやめる際にも、「トリュフを探す豚を飼育したいから」と周囲に言っていたのだとか。その食に対する好奇心と熱心さが垣問見えます。こうした美食サロン活動ができるのも、 ロッシーニ自身が、作った楽曲やオペラが演奏されるたびに自分に著作権の使用料が入るように興行主と交渉し、楽譜に対しても作家に印税が入るようにビジネス上も強かに生きていたからでもあります。」とあり、音楽家も一生それに従事した人だけではなく、いろいろな生き方があったと知りました。
 それと、作曲した交響曲などにも、さまざまなエピソードがあり、グスタフ・マーラーは自分の恋人アルマに交響曲第5番を贈っているそうで、「アルマと出会って激しい恋が芽生え、その想いによ って作りかけていた交響曲に楽章を増やしたのです。作曲家として、また指揮者、ウィーン宮廷歌劇場の総監督として、クラシック音楽界の頂点に若臨する40歳を越えたマーラーは、ある日社交界の花であった20歳を過ぎたばかりの美しいアルマの虜になります。出会ってすぐ、熱く思いを伝えてくるマーラーをアルマも受け入れます。マーラーはその時制作中だった交響曲第5番に、アルマのため に作ったこのアダージェットを組み込んだのです。」とあり、さすが音楽家は情熱的だと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第8章「アレンジされたクラシック音楽」に書いてあったものです。
 これが第8章の最後の部分ですから、おそらく著者が言いたかったことをまとめたのではないかと思いました。たしかに、この本を読んでみると、順風満帆で人生を生きた音楽家より、多くの苦悩を抱えながら作曲した方のほうが多いようです。自分が経験したからこそ、それを表現できるわけで、生きるための大きな支えになることは間違いなさそうです。
 それと、この本は、これって聞いたことがないと思うような曲でも、すぐ聞けるようにQRコードが付いていて、スマホですぐに聞くことができます。だから、聞いたことがないと思った曲でも、意外と聞いていたことがあったりして、とても便利な仕掛けだと思いました。

(2024.3.6)

書名著者発行所発行日ISBN
生活はクラシック音楽でできている渋谷ゆう子笠間書院2024年1月5日9784305710031

☆ Extract passages ☆

 クラシック音楽の作曲家はそれぞれに人生の苦悩を抱えながら作由してきました。その辛さを超えた先に生まれた音楽は時を超え、多くの人たちに愛されて今に残っています。そのメロディはいつまでも私たちの心に温かく残っています。そしてそれが音楽のジャンルを超え形を変えても、本質は決して変わらずに、今も人々にそっと寄り添い、勇気を与え、そして心を静かに動かしていく力を持っているのです。
 生活の中にそっと馴染んでいるクラシック音楽に気がつけば、きっとその曲の美しさ、変わらない人間の想いにまたひとつ心が豊かになることでしょう。クラシック音楽は遠い存在で、自分には関係がないと思っていた人でも、実はこうして数多くの曲に囲まれているのです。
(渋谷ゆう子 著『生活はクラシック音楽でできている』より)




No.2280『ブッダという男』

 この本の題名の「ブッダという男」って、たしかにブッダは男かもしれないが、ちょっと失礼な言い方ではないかと思いました。私は仏陀とかお釈迦さまとかいいますが、何かほかの意図でもあるのかと考えました。副題は「初期仏典を読みとく」ですから、尊師と呼ばれる前の話しかもしれないと思い、読むことにしました。
 著者のプロフィールをみると、「2013年、佛教大学大学院博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などをつとめる。著書に、『阿毘達磨仏教における業論の研究――説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』(ともに大蔵出版)がある。」とあり、生年月日はないので詳しくはわからないのですが、若い研究者のようです。
 そして、神話のブッダではなく、歴史のブッダを追い求めるとして、「ブッダは平和主義者でもなければ万人の平等を唱えたわけでもなかった」として、これらは人々の期待が生んだ神話に過ぎないというとかもしれないとして初期仏典を読みといていきます。たしかにそれは大切なことですが、やはり「男」という言葉に最後まで引っかかったというのが本音です。
 たとえば、今の現実世界でも起こっている戦争についても、この本には、「初期仏典において、戦争の無益さが説かれることはあっても、戦争そのものが否定されることはない。起こるべき定めの戦争は避けられないものとして理解されている。この背景には、インドにおいて、@武士階級が征服戦争を起こすことは彼らに課せられた神聖な生き方であると認められていたこと、A業報輪廻の世界において戦争の惨禍は避けられないものと信じられていたこと、の二点があると考えられる。以上の記述を素直に受け取るならば、ブッダが、現代的な意味で「暴力や戦争を否定した」わけではないことは明白である。」とあります。
 たしかに、それは文字通りの解釈かもしれませんが、戦争の無益さを説くということが大切で、もし、今の時代にお釈迦さまが生きていれば、必ず平和の大切さや全ての人が平等だと説いたと思います。
 この本を読んで、だいぶ昔に読んだことを思い出しましたが、それは「紀元前四世紀末ごろにインドヘ派遣されたギリシャ人外交官メガステネースが残した断片から確認できる。つまり、当時のインドは厳格な階級社会であり、異なる階級間での結婚はもちろん、生まれ持った階級(仕事)を変更することも許されていないが、どんな階級に生まれても「哲学者」になることはできたという。ここでの「哲学者」とは、仏教ゃジャイナ教などの沙門宗教に出家した修行者が合意されている。また、仏教教団内の序列は、出家前の階級に基づくのではなく、出家してからの年月に応じて決まる。よって、出家1年目の元司祭よりも、出家10年目の元隷民のほうが上座となる。」と書いてありました。
 それは今でも同じで、先に出家した僧はあくまでも先輩で、座るときも上臈年寄り順です。この上臈というのは、昔の江戸時代の幕府や大名に仕える奥女中の呼び名からきているそうですが、最上位のものを「大上臈」というそうです。
 つまり、世俗社会ではカースト制度による差別があったとしても、出家教団内部では「生まれ」による差別はなかったということになります。インドでは、1947年にイギリスからの独立し、1950年に制定した憲法には、カーストに基づく差別の禁止と、不可触民制の廃止が規定されています。しかしながら、今現在もカースト制が習慣化され、いろいろなところに残っています。それを2500年前の釈迦の時代に出家集団だけでもそれがなかったというのはすごいことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、終章「ブッダという男」に書いてあったものです。
 このなかの、「煩悩こそが業を活性化させる燃料になっている」という言葉に、なるほどと思いました。つまりは、この後に出てくる「瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、 一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は国果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる目己原理に相当するものはない)と認識すること」、これが悟りの知恵であり、これによって「煩悩が断たれて輪廻が終極する」のだといいます。
 それでも、最後の最後まで、「男」という言葉が気になりました。

(2024.3.2)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダという男(ちくま新書)清水俊史筑摩書房2023年12月10日9784480075949

☆ Extract passages ☆

 ブッダは、個体存在を分析しそれが五要素(五蘊)から成り立つこと、しかもその要素すべてが無常であり苦であるから、バラモン教やジャイナ教が想定するよぅな恒常不変の自己原理など存在しないことを主張した。これが無我説である。その無我なる個体存在は、原因と結果の連鎖によって過去から未来に生死輪廻し続けているのであり、この連鎖が続く根本的原因は無知である。したがって、悟りの知恵によって無知を打ち払い、すべての煩悩を断てば、輪廻も終極する。ブッダは、輪廻を引き起こす主要因が業であることを認めながらも、煩悩こそが業を活性化させる燃料になっていることを突き止めた。
(清水俊史 著『ブッダという男』より)




No.2279『文化財の未来図』

 副題が「――〈ものつくり文化〉をつなぐ」で、おもしろそうだと思いました。
 私も学生時代から古い陶磁器に魅せられ、その縁から茶道を習い始め、現在も毎日お茶を点てて飲んでいます。もちろん、茶碗は、ほぼ毎日あるだけのものでとっかえひっかえしながら使っています。やはり、茶碗はお茶を点て、飲んでみると、その口当りから伝わってくるものや手に取ってみたときの肌触りなどが感じられ、とても楽しみです。
 その流れから考えると、茶碗も情報の基本である5W1Hが大切で、どのような材料で、どのように、いつ、どこで、誰が、何のために、の情報が必要です。さらに、茶碗の場合は故事来歴が大切で、たとえば利休や織部が所持していたとか、秀吉があるお茶会で使ったとなれば、それだけで価値が上がります。また、その箱にいろいろな情報、つまり箱書きがあればこれも同じです。
 だから、この本では「文化財は、生まれた時の制作に関わる「ものつくり」の歴史と、文化財がその後に生きてきた歴史の双方の情報を秘めていることになる。文化財の価値は、この両者の相関によって決まるといっていいだろう。オリジナルな「ものつくり」の観点からは特別な存在でなくても、それがどう利用されてきたか、例えば、歴史的な人物の遺愛品であったのかというようなことから、特別な付加価値が付いていることもよくあることである。文化財が秘めているオリジナル情報と経年情報の双方は、文化財が「もの」としての耐用年数を超えて、その存在を「保存」し、「活用」していくために維持しなければいけないのである。」と書いてあり、お茶会などの茶席では、その来歴を伺うと、その価値が何倍にも上がるような気がします。
 もちろん、気がするだけではなく、それも文化財のひとつの価値だと思います。
 この本をどのように書いたのかという話しが「あとがき」にあり、「本書は、「文化財」という言葉へのこだわりから始まり、文化財保護の歴史を探るとともに、修理の重要性を説き、複製の効用と可能性にも言及した。そして、私が、特に拘っているのが、未指定文化財の将来であることも強調した。文化財保護は「保存」と「活用」が両輪であるが、日本の未来を考えると、水、そして空気と同様にその保全を必要とするのが文化財であると強い思いに駆られるのである。文化財は日本人の「心のインフラ」である。」とあり、インフラとはこの本の初めに、「交通、通信、電力、上下水道、公共施設など、社会や産業の基盤」であることは間違いないし、能登半島地震のニュースを見ていても、先ずは生活のインフラをどうにかしないことには再建などできません。つまり一番大切なことですが、それと同じように文化財も「心のインフラ」だという主張はなるほどと思いました。
 もちろん、生活のためのインフラの整備が第一に優先すべきですが、心のインフラも忘れてはいけないと思います。
 下に抜き書きしたのは、第2章『「文化財保護法」と日本文化』の『「災害頻発時代の文化財』に書いてあったものです。
 たしかに、今年の1月1日に起きた能登半島地震もそうですし、世界に目を向けてもウクライナでの戦争も同じです。そういえば、第二次世界大戦下で日本の奈良や京都が大きな戦争被害を受けなかったと聞いたことがありますが、それだってもっと戦争が長引けばどうなったかわかりません。
 今まさに災害がどこで起こってもおかしくないような状況なので、早めに未来に向けた取り組みをしなければならないと感じました。

(2024.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
文化財の未来図(岩波新書)村上 隆岩波書店2023年12月20日9784004319986

☆ Extract passages ☆

 建造物や、さまざまな美術・工芸品としての文化財はもとより、生活雑器に至るまで、日常の営みの中で劣化して自然に消えていくことは当然であるが、必然性が無いのに突然消失してしまう要因としてまず挙げられるのが、地震、風水害などの自然災害である。
 さらに、自然災害だけではなく、人為的な災害も文化財消失の大きな原因である。過去の歴史を振り返ると、戦争による被害は枚挙にいとまがない。奈良東大寺の大仏殿は戦火で二度も焼失し、現在の京都の寺社の多くも応仁の乱などで焼失後、再建されたものである。また、第二次世界大戦末期には日本列島の多くの都市でアメリカ軍による空爆を受け、廃城令を乗り越えて生き残った名古屋城、広島城などの城郭や、二〇六棟にのぼる国宝建造物が焼失した。戦争被害ではないが、鹿苑寺金閣が放火によって消失したことも人為的な災害の事例である。
 戦争ではない人為的な文化財破壊行為としてとりあげなくてはいけないのが、明治維新に伴う「廃仏毀釈」のムーブメントである。
(村上 隆 著『文化財の未来図』より)




No.2278『免疫学夜話』

 前書きは「遺伝子が語る」で、副題が「事故を攻撃する体はなぜ生まれたか?」です。
 今年の初めまで猛威を振るっていた新型コロナウイルス感染症のこともあり、興味を持って読みましたが、予想以上におもしろいことが書いてあり、あっという間に読み、それから何度か引き返しながらも読みました。最近では珍しく、抜き書きカードも10枚近くなりました。
 著者は、自己免疫疾患を専門とする医師で、ではなぜ自己免疫が起こるとやっかいなのかについて、「感染微生物に対して免疫が攻撃するときは、その微生物がいなくなれば戦いは終わります。ところが、「自己」を相手に免疫が戦いを始めた場合は、その戦いは「自己」の臓器を破壊しつくすまで終わらない、という点です。そしてその結果、生体にとって大切な臓器の機能が失われてしまうのです。例えば1型糖尿病では、膵臓が自己免疫によって攻撃、破壊されるため、膵臓が分泌しているインスリンという物質を全く作れなくなって、糖尿病になってしまいます。そのため、この病気になった人は一生、インスリンを打ち続けなければなりません。あるいは関節リウマチでは、関節が免疫の主たる攻撃対象になって壊されますので、患者さんの身体機能が大きく障害されます。」と書いてあり、知り合いに糖尿病なのでインスリン注射を打っている方がいますが、これで納得です。つまり一生し続けなければならないということは、大変なことです。
 日本に初めて天然痘が入ったときの話しは、とてもインパクトがあります。この前の新型コロナウイルス感染症のときもそうでしたが、世界中が大きなパニックに襲われ、今までの生活が一変してしまいました。孫たちも学校に行けなくなり、不要不急の外出はできず、買いもの難民も生まれました。何もかも初めての体験でした。
 しかし、同じようなことが昔にもあったわけで、津波と同じように何百年も経てば忘れてしまいます。そこで、これを抜き書きしますと、「日本でも、奈良時代の天平9年(西暦737年)に天然痘が初めて入ってきたときは、当時の日本の人口の約30%に当たる100万〜150万人が死亡する大惨事となりました。続日本紀の天平9年是年条には、「是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて、 夏を経て秋に渉る。公卿以下、天下の百姓、相継ぎて没死ぬること、勝げて計うべからず。近き代より以来、未だこれ有らざる也」と書かれています。当時権力の絶頂期にあった藤原四兄弟もこの天然痘で死にました。この未曾有の大疫禍を受け、聖武天皇が仏教の力でこれを退散させることを願い、巨大な毘盧遮那仏の建立を詔勅したことはよく知られています。」  おそらく、今までこのような未曾有の大疫禍は何度か繰り返されてきたと思いますが、徳川時代の初期にはあまりなかったそうです。考えて見れば、鎖国をしていたこともあり、海外との交流はほとんどなく、新型コロナウイルス感染症の流れをみていても、外国から入ってくることが多いので、今のように公共交通機関が世界中に張り巡らされていればあっという間にまん延してしまいます。
 だからといって、今さら、海外にも行かず、なるべく動かないというのも現実的ではありません。だとすれば、この本に書いてあるような知識を身につけて、気をつけなければならないのですが、ある意味、いつ誰が自己免疫疾患になるか、あるいはガンになるかはわかりません。だからといって、ときどき人間ドックに行って調べるとしても、むしろ不安になったりします。
 このような病気に関しては、なってから考えるという選択肢もあってもいいのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第7章「清潔」という病に書いてあったものです。
 そういえば、私の小さいころには寄生虫を体外に出すということで虫下しを飲ませられ、太陽が黄色く見えるなどと話していましたし、青洟を垂らして袖口をベタベタにしている子どももいました。今では考えられないような環境でしたが、笹で作った鉄砲に杉の実をなめてから詰め込み、パチッとはじいては楽しんでいました。
 この本を読んで、だから私たちの時代には花粉症がなかったのだと納得しました。
 下の1989年のベルリンの壁の話しは、すごく納得できました。そして、今の子どもたちに、私たちが育ったときのような生活をしてほしいとは思いませんが、あまり清潔にこだわり過ぎないことも大切だと話したいと思います。

(2024.2.25)

書名著者発行所発行日ISBN
免疫学夜話橋本 求晶文社2023年12月20日9784794973993

☆ Extract passages ☆

 1989年のベルリンの壁の崩壊によっても、興味深いことがわかりました。壁の崩壊前、西ドイツは東ドイツよりも経済状況がよく、西ドイツ市民は東ドイツ市民に比べて衛生的な環境に住んでいました。また、東ドイツでは石炭などによる大気汚染も西ドイツよりもはるかにひどい状態だったのです。ところが、東ドイツと西ドイツの住民を比べると、西ドイツに住んでいる人たちのほうが、気管支喘息などのアレルギー疾患の発症が多かったのです。
 そして、ベルリンの壁の崩壊の翌年に東西ドイツが統一され、東ドイツの衛生環境も大幅に改善しました。ところが、この壁の崩壊後に、東ドイツでアトピー性皮膚炎や気管支喘息などのアンルギー疾患が多発したのです。そしてアレルギーの発症は、その人たちが生まれた年によって大きな違いがありました。壁が崩壊したときに、すでに3歳以上であった人たちの間ではアレルギーは増加せず、それ以降に東ドイツで生まれた人たちの間で、アレルギーが多発していたのです。
(橋本 求 著『免疫学夜話』より)




No.2277『ブッダに学ぶ 老いと死』

 著者の本は何冊かは読んでいますが、この本は昨年末に出版されたので、92歳になるそうです。
 だとすれば、宗教学者としてよりは、今まで生きてきてこれから迎える「老いと死」の話しになるかもしれないと思い、読むことにしました。お釈迦さまもそうですが、あの当時に80歳まで生きるということは、今の100歳より何倍もすごいことだと思います。
 しかも、最近は西洋の「ゆりかごから墓場まで」という福祉施策が拡がり、たしかにいいこともありますが、老人も赤ちゃんと同じように公的に面倒を見なければならない存在になってしまいました。しかし、東洋の考え方としては、敬老思想があります。これは介護しなければならないというよりは、いわば落語の世界でいえば、ご隠居さんです。落語を聴くと、熊さんや八っつあんにいろいろ教えてやったり、夫婦喧嘩の仲裁をしたり、町内の世話役をしていました。まさに、いなければならない存在だったわけです。
 特に日本の翁崇拝は、著者も書いてあるように「たとえば、日本の仏教の中にはお浄土は山の中にあるという山中浄土観がありますが、それはこの伝統に列するものと言えます。死んだ人の魂は山に登る。それが供養を受けると、やがて氏神になる、山の神になる。いわゆる山岳信仰です。要するに日本では、伝統的に神は人間がなるものなんですね。翁は人が年を取った姿だから、人と同じように神さまも無数に存在するわけです。これが日本の宗教的土壌です。さて、人の一生の中で一番死に近い、つまり神に近いライフステージはどこか。それは老人の段階です。年を取り、老いていくことはそれだけ神に近づいている。老人であればあるほど神への最短距離にある。これが日本の翁崇拝の基本です。」と書いています。
 そういえば、だいぶ昔に読んだ本に、熱帯のある部族人々は、老人が亡くなると高い山に葬るそうですが、娘たちはその山に赤い花を摘みに行くと身ごもるそうです。おそらく、亡くなられた人がまた娘さんの子となって再生するという思想ではないかと思ったことがありますが、いかにもアジア的です。こういう輪廻転生もあるのかなと思いました。
 この本でおもしろいと思ったのは、インドのヒンドゥー教の考え方で、四住期というのがあります。それは第1が「学生期」で学びの期間、第2が「家住期」で家に住み仕事をして家庭を営み活動する期間です。第3は「林住期」で家督を譲り家を出て自由な生活を送る期間です。そして第4が「遊行期」で死ぬための準備をします。とくにこの「林住期」的な生き方として、中国では仙人などにそれに近い生き方がありますが、日本の場合は、「林住期という人生観の特徴は、世俗的な生き方と聖的な生き方が入り混じっているところがあることです。欲望の世俗的世界に徹底するわけでもなく、禁欲の聖的世界に徹底するわけでもない。中途半端に俗と聖を出たり入ったり、行ったり来たりする。その意味では、自由気ままで遊戯的な生き方です。この点、日本には古来、「半僧半俗」「非僧非俗」という仏教者たちの生き方があります。それは平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』に「遊びをせんとや生まれけむ」とあるような人生観です。これが日本に継承されている林住期的生き方です。」と書いています。
 私もそのような生き方ができればと思います。あまりにも禁欲の世界に徹底するのでもなく、だからといって自分が欲するままに生きるというのでもなく、いわば中道を歩くようなものです。そして老いながらも、死を迎えるまではそのように生きたいと願っています。
 そういえば、一世を風靡した100歳のきんさんは、息子さんの成田幸男氏によると、「きんさんの大往生は2000年、107歳だった。自宅でいったん起床したが「眠てえで、もうちょっと寝てるわあ」と言って再び目を閉じた。30分後、そのまま息を引き取った。」そうで、まさにこれこそ生ききったといえるのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第1章「ブッダの教えを体感する」の最初に書いてあったものです。
 実は、私もなんどかインドの仏跡を歩いたことがあり、この本を読みながらそれらを思い出しましたが、今は簡単にクルまで移動できますが、お釈迦さまはほとんど歩いて移動していました。すると、歩きながら考えたりできます。
 そういえば、私自身も山に登ったり、野原を散歩したりすると、いろいろと考えます。つまり、歩くということは、考えることだとあらためて思いました。

(2024.2.21)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダに学ぶ 老いと死(朝日新書)山折哲雄朝日新聞出版2023年12月30日9784022952455

☆ Extract passages ☆

 旅の道中では、インド古来のバラモン教(ヒンドゥー教)の経典をはじめ、さまざまな書物を読んでいたことでしょう。何に向かって生きたらよいのかというような人生問題について、先人たちが何を主張し、何を考えていたのか。勉強する中で一つひとつ吟味しながら自分の考えを深めていったはずです。
 歩いては読み、読んでは考え、考えてはまた歩き出す。釈迦は家出後、そんな生活をずっと繰り返していたと想像できます。
 私が特に注日するのは、私たち現代人と異なり、釈迦にとって歩くことが日常生活の上で重要な役割を占めていたという点です。
(山折哲雄 著『ブッダに学ぶ 老いと死』より)




No.2276『井上ひさしの読書眼鏡』

 この本の最初に、「その日に届いた書物を、書庫から仕事部屋へ運んで、「すぐ読む」「そのうちに読む」「いつか読む」の三つの山に分ける。読み終えた書物は、これもまた、「机の近くに置く」「後日のために書架に並べる」「郷里の図書館、遅筆堂文庫に送る」の三種に分ける。これがわたしのもとへ届いた書物の、おおよその動きです。」と書いてあり、私はその遅筆堂文庫に泊まるという企画があり、井上ひさしの作品が並んでいるスペースの下に寝袋を広げて寝たことがあります。
 もちろん、夜遅くまで手当たり次第に持って来て読み、朝もまだ明けきらない時間が図書館のなかを歩き回ったことを思い出します。過去に2回、同じような企画があり、2回とも参加しました。
 これほどの本に囲まれて眠るということは至福の時間で、まさに本の海にうたた寝をしてしまったような感覚でした。もし、これからもこのような企画があれば、ぜひ参加してみたいと思っています。
 この『井上ひさしの読書眼鏡』は、解説の松山巌氏によると、読売新聞の書評欄に2001年から2004年にかけ断続的に書いたものを集めたものだそうです。ですから、今では手に入らない本もありますが、これは読んでみたいと思う本もあり、さっさく注文しました。
 そのなかで、経済学者の金子勝氏と社会学者の大澤真幸氏の『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)に書いてあるという「〈沖縄県が基地を引き受ける代わりに公共事業の増分を求める思考法は、危険=リスクの発生源である原子力発電所を引き受ける代わりに、補助金の増額を受けるケースに似ている。要するに、危険を引き受ける代わりに多くの公共事業を割り当ててもらうという発想である。……問題は、「危険物」を引き受ける代わりに、多くの公共事業と補助金を受けるという「論理」は、永久にその「危険物」を必要とするようになるという点にある。〉」と書いてあり、このときに思い出したのが、ある原発近くのお年寄りがテレビの取材で聞かれて、「このお弁当が補助金で100円で買えるんです」と話していたことです。
 もちろん、どこの弁当屋さんに行っても買えるような弁当ではなく、しかも各家に配達してくれるというから、ほとんどが補助金暮らしです。
 人は、見たくないものは見たくないから、自分に都合のよいところだけを見るようになります。だから、将来に禍根を残すということであっても、なるべみ触れないようにしたがるのです。
 それと似たようなことですが、「軍事裁判に三つの意義」というところに、アメリカの歴史家、ジョゼフ・パーシコの『ニュルンベルク軍事裁判』(原書房)があり、このなかにヘルマン・ゲーリング(航空相・国家元帥)が、つぎのような話しをしたといいます。「〈もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。 一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと場り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ。〉」と書いてありました。
 まさに、今現在も行われている戦争も、まったく同じような図式です。今でも一般国民は絶対に戦争を望んではいません。それでもなぜ戦争が起こるのか、その思考法は今も昔もまったく同じような気がしました。
 下に抜き書きしたのは、「未来見据える知者の英知」に書いてあったものです。
 その根拠となる本は、山崎正和氏の『二十一世紀の遠景』で、それを読むとたんなる物知りか英知を創り出すことのできる真の知者かがわかるといいます。そして、そのような人は思いのほか少ないと井上ひさしはがっかりしてしまいます。
 たしかに、その通りです。昨年、NHKの『らんまん』で牧野富太郎博士の人生がモデルになったのですが、彼は東大では助手でした。つまり、研究者というよりは、昔の本草学者のような植物をたくさん知っている方です。そのとき、知り合いの植物研究者に彼との違いを聞いたときに、今の植物の研究は、ある植物に着目して、それを徹底的に研究しその生態系や生き方を調べ、全容解明を目指すということでした。
 この話しを聞き、「未来見据える知者の英知」とクロス部分があり、なんとなく納得できました。

(2024.2.19)

書名著者発行所発行日ISBN
井上ひさしの読書眼鏡(中公文庫)井上ひさし中央公論新社2015年10月25日9784122061804

☆ Extract passages ☆

自分の知っていること、学んだこと、考えたことを、揉んで叩いて鍛えて編集し直して、もう一つも二つも上の「英知」を創り出すことのできる真の知者が、思いのほか少ないのでがっかりしてしまうのです。
(井上ひさし 著『井上ひさしの読書眼鏡』より)




No.2275『庭仕事の神髄』

 2023年12月16日に朝日新聞の書評に載っていたり、その前にもタイムズ紙に「今年読むべき1冊」として紹介されたり、何かと話題になった本です。
 しかし、実際に手に取ってみるとずっしりと重く、368ページもあり、原書柱や引用文献も30ページあり、よほど根気よく読まないと続かないと思いました。以前なら、そんなことを考えずに読み続けられたのですが、最近はそうもいかず、つい、諦めてしまいます。
 ところが、この副題が「老・病・トラウマ・孤独を癒やす庭」で、私自身もだんだんと直面する話題なので、節分が終わってから、腰を落ち着けて読むことにしました。
 イメージとしては、私自身も植物を育てたり、土に触れたりしていると楽しいし、自然と触れ合っているという気持ちにもなります。著者は、イギリスの精神科医で心理療法士です。また夫は世界的に有名なガーデン・デザイナーだそうで、庭仕事に人間の深層的な癒やしがあるのではないかと思いました。
 第1章「始まり」のところで、「庭はしっかり守られた物理的な空間であり、精神的な空間のありかを教えてくれる。そして静寂の中で自分自身の考えに耳を澄ませることができる。手を使う作業に没頭すればするほど、自分の内面で自由に感情をより分け、それを処理することができるのだ。最近私は、心を静め、心にのしかかる圧力から自由になるために、庭仕事に向かう。どういうわけか、バケツが雑草でいっぱいになるにつれて、私の頭の中でジャングルのようにからみ合いせめぎ合っていた考えはすっきりと片付いていくのだ。眠っていた考えが浮かび上がってきたり、ほとんど形を取ることのなかった思いが、結合し合って、予想に反して具体化することもある。このような時、ありとあらゆる身体的な活動と並んで、私は自分自身の心のガーデニングをしているように感じる。」と書いてあり、「心のガーデニング」という言葉はいいなあ、と思いました。
 私の経験からも、修行から帰ってきてから小町山自然遊歩道を作り始めましたが、時間を見つけては外に出ていました。今のようにスマホもなかったので、何度山まで呼びに来られたかわかりません。それでも冬の夕方に誰も来なくなってから、林業用の一本はしごで杉の木に上り、下枝を落としましたが、そのお陰もあって、木々のすき間もでき、下草も元気に育っています。やはり、今も元気に育っているのを見ると、うれしくなります。
 この本のなかで、特に印象的だったのは、戦争で深い傷を負ったり、人間性を破壊するような衝撃を受けた軍人たちの話しです。今も世界のどこかで戦争が行われていますが、どこでも殺戮と破壊の連鎖が起きています。戦争の救護所に所属していた司祭ジョン・スタンホープ・ウォーカーは、「これほどまで破壊された人間性を見つめながら働くことで、ウォーカーは断続的にひどい無力感に襲われた。回復期の患者のほんのわずかしか彼の礼拝に出席しようとせず落胆した。ウォーカーの説教は傷病兵たちの興味をひかなかったが、彼のつくった庭には関心が集まった。七月半ば、彼はこう書いている。「庭は花々で本当に輝く明るさだ。エンドウマメの最初の一列はもう食べられる。血まみれの兵士たちが皆、大きな豆の鞘を大いに褒めてくれる。緑のトマトは形になってきたし、それに小さなカボチャ、ニンジンはとてもいいものができた」。彼の庭への称賛は他の宿舎からも届いた。」とあります。
 いかに戦争というのは人間性に深刻なダメージを与えることか、でもそれを癒やすのに自然や植物たちの新鮮な輝きが大切で、しかもそれが口に入る野菜たちだと直感的に興味を引きます。人間、いかに植物たちの存在が大切かがわかるエピソードです。
 下に抜き書きしたのは、第2章「病院からの眺め」に書いてあったものです。
 そういえば、だいぶ昔に、心臓病の患者の手術に際し、1日も早く治るように祈願をするという実験を聴いたことがありますが、この場合も同じように手術から回復するときに花や緑の植物たちが手助けになるという話しです。
 これはカンザス大学の研究チームが最近行った研究結果ですから、それなりの信頼性はありますし、私も長年植物たちと接してみて、そうだと思いました。

(2024.2.16)

書名著者発行所発行日ISBN
庭仕事の神髄スー・スチュアート・スミス 著、和田佐規子 訳築地書館2021年11月10日9784806716266

☆ Extract passages ☆

患者は全員テレビを持っていて、半分の患者はさらにベッドの近くに花の咲いている植物があった。合計で90人の患者が虫垂を切除されたあと、ランダムにどちらかのタイプの病室に割り当てられた。手術からの回復期に、花が部屋にある患者のほうが、機嫌がよく、不安も少ないし、血圧も、心拍数の測定値も他方のグループよりも低いと報告された。また、鎮痛剤の投与も明らかに少なかった。この調査から、花の咲いている植物は「手術からの回復期の患者のための廉価で効果的な薬」であると結論づけられた。他にも、実験参加者たちは植物の存在を、病院はいたわってくれる場所だという印なのだと解釈していたという報告もあった。言い換えると、緑の植物や花の存在は信頼感や安心感を強めてくれるということなのだ。
(スー・スチュアート・スミス 著『庭仕事の神髄』より)




No.2274『ぼくは猟師になった』

 忘れもしないのですが、2023年11月13日に会議があって田沢に行くので中山峠を通ろうとしていたのですが、その手前の簗沢の作業場で、でクマの解体作業をしていました。もちろん初めて見たので、つい声を掛けると、写真を撮ってもいいということでした。そこで、何枚もスマホで撮りましたが、帰り際にその解体したばかりのクマのヒレ肉を持っていって食べてみろといわれ、だいぶ断ったのですが、それでもナイロン袋に入れて手渡されました。
 そういえば、この本でも、「野生動物というだけで、イノシシやシカの肉が「臭い」「硬い」と思われ、敬遠されるのは残念なことだと思います。それぞれの動物の肉には、それぞれの特徴があって味も異るのが当然です。こういった誤解をなくすには、たくさんの人においしい野生動物の肉を食べてもらうのが一番です。そのためにも、狩猟で獲った肉の処理施設や受け入れ態勢の整備が望まれます。そうやって多くの人がその肉のおいしさに気づき需要が増えれば、猟師もよろこんでより多くの獲物を獲るでしょう。その結果増えすぎた野生動物による農業被害なども減り、すべてがうまく回っていくはずです。」と書いてあり、食べたこともないのに敬遠ばかりしていては誤解も生じます。
 この本には、主にイノシシやシカなどの話しは出てきますが、クマは著者のテリトリーにはあまりいないのか、まったく出てきません。昨年の秋には、野生のクマが人里に下りてきて、多くの人たちがケガをしたり命を落としたりしたので、ある程度の頭数制限や人間はこわいということを教えることも必要ではないかと思います。
 この本は、いろいろな野生動物たちの話しが出てきて、とてもおもしろかったのですが、スズメを無双網で獲るときにおとりのスズメやカラスの剥製を使うとは知りませんでした。「カラスは賢い鳥のため、スズメはカラスがいる場所を本能的に安全な場所だと察知するらしく、カラスと一緒にいることが多いです。その習性を利用します。ただ、カラスのすぐそばは怖がって近寄らないので、設置場所には注意が必要です。スズメが下りて欲しくない藪などが近くにあれば、そこに設置することもあります。風向きなどでカラスを置く向きなども気をつけないとスズメに不自然だと思われてしまいます。カラスは風上を向いていなくてはなりません。」と書いてあり、やはりカラスは賢いとスズメたちも思っていることを知り、鳥の世界にも弱肉強食だけでない世界もあると思いました。
 そういえば、小学生のころ、ケガをしたカラスを見つけ、駐在所に届けたら、しばらく手当てをしたみたらといわれ、飼ったことがあります。私が学校から帰ってくるとわかるらしく、ガァーガァーと鳴きました。傷も治り、戸を開けっぱなしにしていてもなかなか外に出ないので、そのままにして学校へ行くと、いつの間にかいなくなりました。しかし、帰ってくると、近くの木に止まっていたカラスが何日か鳴いていましたが、いつのまにかそれもなくなりちょっと寂しかったことを思い出しました。もちろん、カラスの識別はできないのですが、おそらく、その傷の手当てをしたカラスに違いないと思っていました。
 下に抜き書きしたのは、「あとがき」に書いてあったものです。
 そういえば、魚を釣っては逃がすという釣りがあるそうですが、別な釣り人は釣った魚を調理して食べなければダメだともいいます。これはとても難しい問題ですが、私は人間というのは動物でも魚でも野菜でも、その命をいただいて生きていますから、きれいことだけではすまされないと思っています。だから、食事のたびごとに「いただきます」と言うわけだし、著者のいうこともよくわかります。
 私は、近くの農家の方たちが野生のサルやイノシシなどに農作物を荒らされていることを知っていますから、野生動物が増えすぎると困ることもわかります。しかも最近はそれら動物たちが人をおそれず、かえって襲ってくることもあり、子どもたちの登下校も不安です。この本を読んで、若い人たちにも猟師になる人が少しでも増えてくれればいいのではと思いました。

(2024.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
ぼくは猟師になった(新潮文庫)千松信也新潮社2012年12月1日9784101368412

☆ Extract passages ☆

 七度目の猟期を迎えて思ったのは、やはり狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるが故に、自分自身の存在自体が常に問われる行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、そのひとつひとつの命の大切さもわかるのが猟師だと思います。
(千松信也 著『ぼくは猟師になった』より)




No.2273『歴史は予言する』

 この本は、もともと週刊新潮に連載された「夏裘冬扇」(2019年5月2日号から2023年5月4日号)に連載されたものだそうです。
 この「夏裘冬扇」というのは、「はじめに」のところに解説があり、これは万葉集にある柿本人麻呂の「とこしへに夏冬行けや裘(かわごろも)扇放たぬ山に住む人」からとったそうです。そして「仙人は夏にも冬にも獣の厚い皮のコートと扇子の両方を持っている。そういう意味だろう。夏にも暖房、冬にも冷房の用意を欠かさない。さすが仙人!浮世離れした行動だ。調子っ外れもなんのその。斜め目線で妄言を述べるコラムの題名に相応しい。だが歌のままでは長い。そこで漢字だけに縮めて「夏裘冬扇」はどうだろう。」と書いています。
 ちょっとテレもあるのでしょうが、令和という年号も出典は万葉集だから、という話しもおもしろいと思います。
 また、この本には、意外と知られていることでも、その由来は聞かれるとわからないことが多いのですが、たとえば、日本サッカー協会のシンボルマークの八咫烏もそうです。この本には、「烏のキックカは並人抵でない。しかも八咫烏となると神話に登場するこの世ならぬ烏だ。脚が3本もある。きっと蹴転がしの天才だ。そのうえ八咫烏は導きの神でもある。日向の国から大和の国への神武天皇の東征を成功させるべく、高天原から遣わされた烏なのだ。蹴るだけではない。ゴールヘの道筋も機敏に見つけられる。これぞ攻撃力の権化。」とあり、八咫烏のことは知っていても、ゴールへの道筋も機敏に見つけるというのは、初耳でした。
 たしかに、サッカーはボールを蹴るだけではだめで、それをネットに押し込まなければ得点になりません。またおもしろいと思ったのは、サッカー上達のための祈願所が京都の白峯神官で、日本サッカー協会もボールを奉納しているそうです。
 もともと、この神社は崇徳上皇を祀っていて、常光の側近に公卿の難波頼輔おり、彼が蹴鞠に優れていたので、保元の乱の際の罪も赦されたそうです。そして、子孫に蹴鞠の技を伝え、頼輔の孫の雅経が飛鳥井家を開き、その屋敷跡に白峯神宮を建て代々精大明神と呼ばれる蹴鞠の精を祀ったことによります。
 このような話しは聞かないとまったくわからず、初めて知りました。
 この本のなかで、政治向きの話しは、いろいろと予言のような話しは書いてありましたが、もともと政治家というのは時の流れによって紆余曲折するのは常の話しで、ほとんど政治評論家の話もあたらないことが多いようです。だからあまり興味を持って読みませんでしたが、新型コロナウイルス感染症流行の話しはつい最近までのことなので、よくわかります。
 たとえば、平安時代の物忌みの話しですが、あのコロナ禍のときの不要不急の外出自粛の話しとよく似ています。著者は、「要するに物忌とは、外来との接触を一切断つ生活様式だ。平安期の約100年のあいだに疫病は、どうやら100回以上、大流行している。新型インフルエンザか新型コロナか、しゃくりあげるような咳に苦しめられた挙句の果てに多くが死に至る病の長期流行だけで、最低7回もある。細菌やウイルスが発見されていなくても、邪気とは伝染するものだという観念は共有されていた。元気がなければ、もののけに負ける。そこで不調時には物忌する習慣も生まれる。しかし物忌は退屈だ。そこで詩歌づくりに楽器の稽古にと励み、碁や双六に耽る。平安期に文芸や雅楽やゲームが発達したのは、巣ごもり生活が多かったせいなのだろう。」と書いてあり、私も外出できずに自宅で本を読んだり音楽を聴いたりしたことを思い出しました。
 下に抜き書きしたのは、コロナ禍についての話しで、「コロナ禍は人間不要の鬨の声」に書いてありました。
 たしかに、あのときの不要不急の外出を遠慮するように政府からの話しがあり、買いものさえためらうこともありました。また、お店によっては、一家から一人だけ代表してきてほしいというのもあったりして、あるお店では、一人ずつの来店をお願いしますというのもありました。
 いままでの、ワイワイと品定めするような買いものではなく、レジでさえ黙って黙々と買いものをする風景が当たり前になってきました。そのうちに、セルフレジになり、さらに普通のお店でも、合計した金額を自分で機械に入れ、おつりもそこから出てくるというようなシステムになったりしました。
 つまり、この「3つの不要」は、全てに通じるもので、いったん入らないとわかれば、すべて省力化されていまう性質のものです。たとえば、結婚式だって、今まで多くの人たちを招待して、盛大にやっていたものでも、簡単に身内だけでやっても同じだと思えば、多くの人たちがそのようになっていまいます。こうなれば、「非常時が去っても、元には戻れまい」と思います。

(2024.2.7)

書名著者発行所発行日ISBN
歴史は予言する(新潮新書)片山杜秀新潮社2023年12月20日9784106110214

☆ Extract passages ☆

第一に人が要らない。技術革新で、仕事によっては従来の7割も8割も減らせる。第二に場所が要らない。役所や会社で一堂に会して働くのは、そうしなければ連携が難しく、効率が上がらぬとされてきたからで、事情が変われば、場所代を節約するのが資本主義だ。第三に移動が要らない。リニア新幹線的な大量高速移動の発想は時代遅れになる。……
 もちろん「三つの不要」は、疫病禍という非常時への緊急対応の中で顕在化した。が、無理やりに、ではない。条件は整っていた。既にそうできて当たり前だった。疫病禍はきっかけに過ぎない。一度みなが気づいてしまえば、非常時が去っても、元には戻れまい。
(片山杜秀 著『歴史は予言する』より)




No.2272『わたし、世界を走っています』

 副題は「20代で43ヵ国のマラソンを走って見えてきたこと」で、最初にこの本を見たときには、だからなんなの、と思いました。
 でも、読んでみると、そのマラソンがすべて42.195qだというから、驚きました。しかもほとんどすべて自分でお金を工面して、エントリーして、そのマラソンの会場まで行くわけですから、度胸もあります。読んでいるうちに、もしかすると、あまり深く考えないからできたのかとも思いましたが、そうではないようです。
 もし、それを自分に置き換えてみると、そもそもフルマラソンだけではなく、走ることすらできないし、コロナ禍もあったこともあり、海外に一人で行くことも億劫になってしまいました。以前は、一人で海外にも行ったし、仲間たちを連れて、ネパールにも行ったことがありますが、だんだん体力がなくなってくると、自分の荷物を持つだけでも大変になってきます。
 だから、一人で海外に出かけて、フルマラソンを走るというのは、単純にすごいと思うようになりました。
 この本のなかで、ビクトリアの滝マラソンに参加したとき出会ったサンフランシスコ在住の中国人のアナリストの話しが載っていますが、「お湯が使える、きれいなベッドで寝るよりも、知らない人と過ごす共同生活のほうが価値があるのだろうか。そのときのわたしは、「お湯が使えるほうが絶対にいいと思うなあ」と返答したんだけど、そこから5年以上が過ぎた今、彼の言わんとすることもちょっとわかるようになった。普段出会わない人と会うためには、自分が動かないといけない。しかも、本来なら出会わないはずの人と会うと、知らなかったことを知ることができて、自分の生きている世界が少しずつ広がっていく。」ということも、さまざまな経験から少しずつ分かってくるのではないかと思いました。
 この本には、コロナ禍でどこへも行けなくなったことも書いてあり、「海外のレースはもちろん軒並み中止で、エントリー済みだったウィーン、プラハ、ルクセンブルクマラソンからはキャンセルのメールが届いた。状況を加味したら仕方のないことだけど、あらためてメールの文面に目を這わせると、やっぱりつらい。なんだか自分を取り巻く環境が、いい方向に流れ始めた途端のこれだから、いかんせん悔しくなった。」と書いてます。
 私だってそうで、仕事を息子に譲って、これから自由に海外に行けると思った矢先に、新型コロナウイルス感染症が流行り始めました。実は、2020年3月2日から中国雲南省に行く予定で、航空券も予約していました。しかし、受け入れ先の中国科学院の先生からも延期したほうがいいというメールがあり、乗る予定だった中国東方航空からもキャンセルの連絡があり、それでも全額を払い戻してもらったからいいものの、それから先は海外に行くことは難しくなりました。今でも、そのときの「eチケットお客様控え」を持っています。
 これは誰もが同じですから、ある意味、仕方のないことですが、なかなか納得できませんでした。
 この本の著者は、「どうあがいても変えられないけれど、ここから何かを生み出すことによって"未来"を明るいものにすることくらいはできる。大きなことはできなくても、日常に花を添えることで、日々の彩りを多少なりとも鮮やかにすることができると信じた。」そうで、先が見えないというつらさはみんな同じだと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「エピローグ」に書いてあったものです。
 よくマラソンは目標達成や自己実現のツールだとかいいますが、著者は、楽しいから走っただけで、いわば、「フェスのような雰囲気、イケてる音楽、そして陽気な人々に囲まれて走るレースは、わたしの魂を躍動させた」と書いています。
 おそらく、長続きするのは楽しいからで、そうでなければ、どこかで止めてしまうかもしれません。そういう意味では、楽しむための秘訣みたいなものがありそうで、ついつい最後まで読み通しました。

(2024.2.3)

書名著者発行所発行日ISBN
わたし、世界を走っています鈴木ゆうり徳間書店2023年12月31日9784198657536

☆ Extract passages ☆

 わたしにとってマラソンは、人間が同じであることを教えてくれる大切なツールだ。
 世界を変えるのは難しい。わたしが寝ている間にも、戦争や貧困、さまざまな理由で人は亡くなつていく。
 それでも、わたしなりに、世界が少しでもよくなるために、できることをしていきたい。
(鈴木ゆうり 著『わたし、世界を走っています』より)




No.2271『昭和の青春』

 私もいわば団塊の世代ですが、著者も昭和25年生まれですから、この世代の1歳したということになります。でも、ほとんど同じ世代なので、考え方やものの見方なども似通っているようです。
 副題は、「日本を動かした世代の原動力」で、良くも悪くも同年代が多いので、動かす力もあります。ちなみに私の生まれた年代が、2,696,638で出生率が最高で、2022年は770,759人ですから、その差は歴然です。何をするにも人が多いので、受験も生活も大変でしたが、ボリュームのメリットもありました。
 おそらく、このような本が出版されるのは、私達のような団塊の世代が高齢化を迎え、若き日の想い出が蘇ってくるからかもしれません。昔はやった音楽を聞いたり、昔読んだ本をまた読みたくなったり、昔旅行したところを訪ねてみたり、いわば想い出に浸りたいのです。そういう私も、時々そのような想いに駆られます。
 たとえば、「トマト。私が子供の頃はトマトに塩をかけて食べていました。その頃のトマトはとても酸っぱかったので、少しでも甘みを引き出すためです。ご馳走だったのはマクワウリですが、若い人は見たことがないかもしれません。あっさりした甘さの小さいメロンのようなものです。その後、メロンが店に並ぶようになると、その濃厚な甘さにびっくりしたものでした。現在は安い値段で購入できるバナナは高級品で、特別な贈答品に使われていました。輸入制限が設けられていたためで、63年に輸入が解禁されて一般に普及していきました。」と書いてあり、そうそう、とつい頷いてしまいました。
 トマトは、栽培している畑の近くへ行くと、その匂いだけでわかりますし、マクワウリはお盆のときに仏さまにお供えするので、そのときだけ食べられました。またバナナは、病気をしたときとか誰かからいただいたときだけ食べられる高級な果物で、今のように安売りされるようなものではありませんでした。
 もう、思い出すだけで頷くばかりですが、学校帰りの道草で、クワゴやグミなどを食べたことがあり、それは載っていませんでした。おそらく、どこにでもあるものではないのでしょうが、私は今でもよく覚えています。ただ、今食べても、マクワウリと同じようにあまりおいしくはないと思いますが、少しばかり酸っぱくても苦くても、お腹に入ればいいと思っていました。それほど、お腹が空いていたのかもしれません。
 そういえば、高度経済成長の基でも、男女平等ではなかったようです。私は勤めたことがなかったので知らないのですが、「月刊誌『文藝春秋』の最後には、「社中日記」という編集部内の出来事を面白おかしく書くページがあります。当時、個人の名前が出ているのはすべて男性の編集部員で、女性は「女性社員」としか表記されませんでした。それが変わって女性の名前が登場するようになるのは男女雇用機会均等法ができて、女性も編集部員として採用されるようになってからのことです。」とあり、そんなに後までそのようなことが残っていたと知り、びっくりしました。
 おそらく、今では、あの「文春砲」で一撃にされることは間違いありません。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「青春の昭和文化・社会風俗」のなかに書いてあったものです。
 著者は1973年にNHKに報道記者として入局していますから、ある程度は放送の現場のことも知っていると思います。この新しくておもしろいものをつくるのは「はぐれ者」というのは、私もその通りだと感じています。
 あまりにも順風満帆に来た人とかよりは、少し屈折した生き方をしてきた者のほうがむちゃなこともできます。
 もし、他の時代の生き方なども、機会があれば読んでみたいと思いました。

(2024.1.31)

書名著者発行所発行日ISBN
昭和の青春(講談社現代新書)池上 彰講談社2023年11月20日9784065331064

☆ Extract passages ☆

 テレビ放送が始まったばかりの頃、放送局の本流はラジオでした。ですからまだ海の物とも山の物ともつかないテレビ制作に送り込まれたのは、放送局のはぐれ者たちでした。
 本流のラジオ放送を担うエリートとは異なる、扱いに困るような連中を押し付けて始まったテレビ放送は、はぐれ者たちがめちゃくちゃな番組をつくってヒットを生み出していきました。
 これはインターネットの草創期と同じ構図です。エリートは本流であるテレビを担当し、可能性が不明なインターネットにははぐれ者が送り込まれ、ユニークなことを始めて面白がられる、という具合です。世の中で新しいものができるときは、だいたいそんなものなのでしょう。
(池上 彰 著『昭和の青春』より)




No.2270『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』

 この本の監修は三橋健氏で、神道学者だそうです。著者は渋谷申博(のぶひろ)氏で、日本宗教史研究者だそうです。
 どちらの方も知らなかったのですが、この題名の『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』というのに惹かれ、おみくじに裏も表のないと思っていたので、読むことにしました。
 「はじめに」のところで、おみくじは、「自分の状況や何を願って引いたかをよく考えた上で、お告げ文を正しく読み解く必要があります。吉凶や願意(何を占いたいのか)別の運勢などは、そのための参考意見にしかすぎません。そのお告げ文を使って神様はあなたに何を伝えようとされているのか、あなた自身が読み取らなければならないのです。神様はお告げ文という形で、現状をどう理解し何をなすべきかを伝えています。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 たしかに、人それぞれの願いや思いは違いますので、この読み取るということはとても大切です。この文の前に、もし「雨が降る」というお告げがあったとして、もし明日が遠足という子どもにとっては凶かもしれませんが、日照りで困っている農家の人にとっては大吉です。このように人それぞれにとって、凶にも吉にもなるわけで、ただそれだけで判断することはできません。
 この本では、お告げ文のほとんどは和歌の形式で、その一例としてあげると、万葉集に載っている有名な志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも」という和歌があります。それをおみくじの解釈で考えると、「この場面は志貴皇子が住んでおられた館の近くではないでしょう。山の中の風景に違いありません。ワラビ採りのために出かけた時の思い出なのかもしれません。つまり、山道を登るという努力を経て、この光景を目にしているのです。このことは、あなたが今甘受しようとしている「春」は、あなたの努力の結果だということを示しています。そのご褒美がワラビなのですが、ワラビは毒があって生では食べられません。成果から実利を得るには、もう一段上の努力が必要だと告げているのです。」と解釈しています。
 この歌を春がきたことを寿ぐものと思っていたのですが、このような解釈もできるとはおもしろいものです。つまり、ある意味、どのような解釈をしてもいいということになります。
 おみくじについて、監修者の三橋健氏は、「監修者あとがき」のところで、おみくじは、「「お」「み」「くじ」からなる大和言葉で、 これに漢字をあてると「御御籤」「御神籤」となる。「御(お)」も「神(み)」も、神さまに関するものにつく接頭語で、ここでは「籤(くじ)」を尊敬または美称している。たとえば、「おみこし(御御輿。御神輿)」「おみき(御御酒・御神酒)」なども同じである。……「籤」という漢字には、さまざまな意味がある。そのなかで興味を引かれるのは「ものを数えるときの竹の棒」「物をさし通す竹串」との説明である。さらに伝間であるが、「くじ」を古くは「孔子(くじ)」と表記し、その意味は「子どもが生まれ出ようとしている穴」の意という。」と書いてあり、そういえば、おみくじを引くときに箱を振って小さな穴から出てくる竹串の番号であてるということと似ています。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「なりわいの言葉」のなかの「山深みなお影寒し春の月 空かき曇り雪は降りつつ」という新古今和歌集に載っていて嘉陽門院越前の和歌について書いてあったものです。
 たしかにあまりよいお神籤ではありませんが、どうにもできないときはじっとやり過ごすしかありません。そういうときでも、ちょっとしたゆとりがあれば、次によいことがきっときます。

(2024.1.28)

書名著者発行所発行日ISBN
成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!渋谷申博かんき出版2019年12月2日9784761274559

☆ Extract passages ☆

 古代中国の思想家荘子は「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ」と言いました。すなわち、窮地に至った時もその状況を楽しみ、うまくいっている時もその状況を楽しむのです(正確には「窮」は貧乏なことをいうそうですが)。……
 でも、苦しさをアピールしても自分のダメさを宣伝するようなものです。やせ我慢でも窮地を楽しんでいるように装えば、人はあなたに余裕があると思います。新たに仕事を頼むとしたらどちらか、言うまでもないことです。
(渋谷申博 著『成功する人は、おみくじのウラを読んでいる!』より)




No.2269『「逆張り」の研究』

 この本の題名の『「逆張り」の研究』の「逆」の文字が逆に印刷されていて、最初は何と読むのかわかりませんでした。そこで中を少しだけ読むと、「逆」だとわかり、次はこの「逆張り」って何と思いました。
 この本に、その説明が載っていて、「逆張りは相場の流れに逆らって売買する手法のことだ。株価が下落したときに買って、上昇したときに売る(その反対に、株価が上昇したときに買い、下落したときに売ることは「順張り」である)。たとえば、「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェットは逆張りで知られている。2009年のリーマンショックでは、経営危機に陥った資産運用会社ゴールドマン・サックスに巨額の投資をして、莫大な利益をあげた。」と書いています。
 ということは、人と同じことをしたり考えたりしていてはダメということで、そこに「逆張り」も大切だということになります。
 そういえば、「いじめ」問題もこれと同じように、流れに乗ってしまうという一面がありそうです。この本では3つの認知バイアスというのを第6章で取りあげていますが、それは道徳的な非難を回避するための「思考のクセ」だとか、「行為者と行為のあいだに距離を置く」ことだとしていますが、いわば責任逃れでもあります。この3つのバイアスというのは、「不作為バイアス」(人は何かをするよりも何もしないほうを選ぶ)、「副作用バイアス」(主要な目標が害をもたらさないようにする)、「非接触バイアス」(危害をくわえられている人に触れるのを避ける行動をとる)、の3つですが、行動を起こしてそれに巻き込まれたり大変な結果になるよりは傍観者になってしまうということです。
 この本では、「何も行動しなければ、「気づかなかった」「わからなかった」「知らなかった」「何もしていない」といくらでも言い訳できる」と書いてあり、まさに傍観者そのものです。
 ということは、逆張りの立場で流れに乗らないということも、大切です。3つの認知バイアスが傍観者の立場をつくるなら、そのような認知ではなく、逆張りも大切な役割です。そして、自分が逆張りに立っているという自己認識も必要ではないかと思います。
 これはいじめだけの問題ではなく、政治でも同じです。自分一人がどうのこうのといっても何もかわらないと言ってしまえば、先に言ってしまったほうに流れてしまいます。
 これはポピュリズムでも同じで、訳すると「大衆迎合主義」ともいい、民主主義にはあまり好ましいものではないといわれます。しかし、あのアラブの春だって、ラテンアメリカの人民解放だって、その大きな力になったことは間違いありません。
 しかし、この本には、「ポピュリズムは、ぼくたちの部族主義的な本能を利用している。ぼくたちの脳は「われわれ」(味方)なのか、「あいつら」(敵)なのかを自動的に判別する。そして「われわれ」(味方)をひいきして、「あいつら」(敵)を蹴落とすような傾向がある。敵か味方かを判別する目印には、性別、年齢、人種、民族などがなりやすい。とはいえ、Tシャツの色でグループを分けただけでも、同じ色のTシャツを着た人には「われわれ」という仲間意識を持ち、ちがう色のTシャツを考た人には「あいつら」と敵意を向けるようになる。ポピュリズムはぼくたちのこのような本能を利用して、敵への憎しみをかきたてるわけだ。」と書いていて、どちらかというと、色分けして考える傾向が強いようです。
 ただ、多くの人たちにわかりやすくするには、これも必要なことですが、現実には民族主義的な方向に片寄りつつあります。たとえばデンマークやオランダなどでは、福祉や環境をめぐって先駆的政策を実現する傍ら、移民・難民の規制が厳格化しているようです。
 だから、この逆張りということも、この本を読んで思いました。
 下に抜き書きしたのは、第9章の「逆張りは多数派の敵でありつつ、友でなければならない」のなかにあったものです。
 私も、こうして『本のたび』を書いたり、別のホームページに各地の三十三観音霊場巡りを書いたりしているのでわかるのですが、時間があれば少しそのままにしておいて、しばらくしてから読み直すようにしています。そうすると、そのときに気づかなかったことや、別な表現にしたりしると、なんとなく文章が締まって見えます。
 おそらく、「原稿が育つ」というのも、同じようなことなのかもしれない、と思いました。

(2024.1.25)

書名著者発行所発行日ISBN
「逆張り」の研究綿野恵太筑摩書房2023年6月30日9784480823830

☆ Extract passages ☆

言葉がある一定の量を超えるとコントロールが効かなくなる。ぼくの意思ではどうもできない、自立した「もの」になる。もちろん、実際に書いているのは自分だ。しかし、こっちが絶対に主導権を握れない。植物が成長したり、食べ物が発酵するのと同じように、あっちのスピードに合わせるしかない。ぼくにできるのは手入れをしたり、寝かせたりするぐらいで、基本的には文章が育ってくれるのを待つしかない。
 もしかしたら、たくさんの言葉を前にして脳が処理できる情報量をオーバーするために生まれる錯覚なのかもしれない。しかし、そんな錯覚に付き合うのも楽しいものである。
(綿野恵太 著『「逆張り」の研究』より)




No.2268『あまカラ食い道楽』

 初出雑誌は、いずれも月刊誌『あまカラ』で、1953年から1964年までの間の執筆で、よく知られた方々ばかりです。
 ある意味、昔の文人は、どのようなものを食べて飲んでいたかを知りたいという気持ちもあり、なぜ今ごろになって出版するのだろうかと興味を持ちました。
 今は、食べものも飲みものもかなり洋風になり、その当時にはまったくなかったものもありますし、同じ麺類でも鰻などでも、その味などはかなり変わってきたのではないかと思います。
 たとえば、酒についても、今は日本酒や洋酒などという区別よりも、麦酒やウイスキー、それも銘柄などによる嗜好もあり、好みが多岐にわたっています。吉野秀雄の「凡人の酒」には、彼の父親が酒について話したことが載っていました。それは、「一つは、酒をうまく飲みたければまめに手足を動かして腹を空かせろという平凡な感想だが、今も時折思い出してはうなずく。も一つは、酒の銘柄にばかり気をとられるのは酒道の初歩で、どんな酒にしろ、うまいまずいはむろんあるにしろ、それぞれの個性を見てやれば結局はうまからぬ筈はないというのであったが、これも七割まで同感できる。」と書いています。
 味覚というのは、人それぞれに違うのが当たり前で、うまいとかまずいというのも、みな違うように思います。だから、旅番組や料理番組などで、「うまい〜」と連発するのはどうかと思います。でも、そう言ってしまうと、番組をつくれないので、仕方の無いことかもしれません。
 そういえば、名取洋之助の「筋の通ったはなし」のなかに、「旅先などでは、知らないこともあり、気軽にやたらな店に飛びこむこともできるのですが、東京は自分のホーム・グランドだと考え、慎重になり、食でもまずい物を食べては損と思って冒険をせず、結局、いつも行きつけのところへ行ってしまうことになります。」と書いてあり、これには納得しました。
 私も同じで、旅先ではほとんど情報がないので、行き当たりばったりで食べるものを選んでしまいますが、それでも和菓子などは、その土地の銘菓などを検索して、そのお店を探し出して買います。そして、ホテルなどに着いて、さっそくお抹茶を点てて、その和菓子を食べます。それが旅先での習慣です。
 だから、茶碗と茶筅と抹茶は必ず持っていきます。海外に出かけるときも同じです。また、移動する列車のなかでも抹茶を飲むことがあり、そのときには水筒にお湯を詰めて行きます。
 下に抜き書きしたのは、窪田空穂の「京阪と和菓子」のなかに出てくるものです。私も和菓子が大好きで、ほぼ毎日お抹茶を点てて飲んでいるので、実感としてもよくかわります。
 たしかに、煎茶の場合はお菓子がなくてもいいかもしれませんが、抹茶の場合は菓子がないとその味も変わってしまいそうです。
   このなかの表現で、「眼も口もほしくなる」というのは、まさにその通りだと合点しました。

(2024.1.22)

書名著者発行所発行日ISBN
あまカラ食い道楽谷崎潤一郎ほか河出書房新社2023年11月30日9784309031521

☆ Extract passages ☆

 私は菓子という物を尊重している人間の一人である。菓子はいわゆる茶菓子で、茶とは離れられない物である。私は煎茶好きで、日に幾度も滝れかえて飲んでいるものであり、茶が実用品であると共に、菓子も実用品である。実を言うと、茶は菓子が無くても飲めるのであるが、無いとさみしくほしくなる。ほしがるのは、菓子は実用品だけではなく芸術品であり、その芸術味を、眼も口もほしくなるからのことである。
(谷崎潤一郎ほか 著『あまカラ食い道楽』より)




No.2267『わたくしが旅から学んだこと』

 この本は、ちょっと出かけたときとか、待ち時間のあるときとか、時間のすき間に読んだもので、いつから読み始めていつ読み終わったのかもさだかではありません。
 考えて見れば、『兼高かおる 世界の旅』というテレビ番組も、小さいときに見た記憶はあるのですが、いつごろなのかどこの国だったのか、まったく記憶がありません。でも、あの独特の語り口と見たことのない国の風景は覚えています。私が外国に行ったのは1985年5月20日から30日まで中国雲南省でした。そのときは、シャクナゲ愛好者訪中団の一行に参加し、空路にて香港から広州を経由して昆明に入り、そこを起点に車で楚雄、大理、麗江へと車で移動しました。
 麗江は、この年に初めて外国人に開放され、世界の花好きがほぼ同時に行ったようで、泊まるところも麗江県第一招待所という政府の役人の宿舎でした。トイレも離れたところにあり、ほとんど仕切りもないところで、暗くなってから、懐中電灯を持って行ったことを思い出します。そのときの玉龍雪山や蒼山の風景は今でもしっかりと覚えていますし、その後、何度かここを訪ねただけでなく、さらにその奥地へまでも足を運びましたが、やはり最初の第一印象は強烈でした。
 ですから、この『兼高かおる 世界の旅』は、1959年から1990年まで続いたそうですから、旅を続けることの大変さは、私が経験した以上に困難の連続だったかもしれません。だからこそ、テレビを見ている人たちに感動を届けられたようです。たとえば、「ロケの現場ではハプニングはつきもの。でも、何が起きても落ち着いて対処することが肝心です。慌てると事態は収拾せずに、さらに悪化していきます。わたくしは子どものころから独立心が旺盛で、何が起こるかわからないスリルを心から楽しめましたし、とっさの事態には機転が利きました。そういう意味では、「世界の旅」の仕事はとても自分に向いていたと思います。それまでのわたくしは、あまり物事に熱中するほうではなかったので、母は「世界の旅」の仕事もすぐ飽きるだろうと思っていたようでしたが、結局、当時のわたくしには飽きる暇さえなかったのです。」と書いていますが、旅には向き不向きがあるようです。
 そういえば、何度目かの中国雲南省に行ったとき、外事弁公室の方が通訳や行く先ざきの手配などをしてくれたのですが、自然といろいろなことを話すようになり、個人でも彼のところに行くことがありました。彼の本職は、外国との調整や交渉、出入国管理などをするようですが、それ意外の話しをするときは小声になりました。でも、日本語ができることもあり、日本に興味もあり、いろいろなことを聞いてきます。
 この本のなかでも、「外国人の皆さんは、そういう日本の文化について興味を持って話を聞いてくださいますし、また、おもしろい質問も飛び出します。まずは母国の歴史、文化を知る。それを基礎として相手の国について質問し、日本と比較して互いの国の違いと共通点を学ぶのです。外国の方から自国の文化にっいてお聞きする。相手が自分の国に興味を持ってくれているとわかれば、気持ちよく教えてくれるものです。これこそ、お互いがお互いの国について知る、国際交流の第一歩です。」と書いてあり、なるほどと思いました。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「旅をしながら見えてきた世界、そして、日本」のなかに書いてあったものです。
 私も、若い時に行ったところを訪ねると、懐かしさだけでなく、また違った味わいを感じることがあります。そういえば、自分の子どもたちの修学旅行に行くときの挨拶で、旅行というのは行く前の計画段階から始まっていて、旅行そのものはもちろん、帰ってきてからお土産を渡したり、写真を整理したり、友だちと旅の思い出話しをすることも楽しいものだから、そのためにはたくさん楽しんできてください、と話したことがあります。
   さらに、同じようなところに行くことができれは、さらに旅のおもしろさに深みを増すと思います。

(2024.1.19)

書名著者発行所発行日ISBN
わたくしが旅から学んだこと(小学館文庫)兼高かおる小学館2013年3月11日9784094088069

☆ Extract passages ☆

 日本も世界も変われば、自分自身の考え方や見方も変わります。
 若いときに旅した地をもう一度訪ねてみる。懐かしさを味わうとともに、新しい感動があるでしよう。
 わたくしもアメリカやイギリスには何度も何度も訪れて、そのときどき、年齢なりの味わいを楽しんできました。そして、これからも。
 こんなふうに旅の楽しさは尽きることがないのです。
(兼高かおる 著『わたくしが旅から学んだこと』より)




No.2266『異邦人のロンドン』

 私は、イギリスにまだ二度しか行ったことがなく、ロンドンのヒースロー空港に下り立つので、ロンドンにも二度ということになります。それでも、イギリスのスコットランドに行ってもまたロンドンに戻ってくるので、そのたびごとに市内を歩き回りました。
 しかし、著者はロンドンに住んでいるので、そこに住んでみないとわからないことも多く、最後までイギリス人ってわからないな、と思いながら読みました。
 たとえば、イギリス人は犬を大切に飼うというのは知っていましたが、それは「その昔、犬を飼うことがステータス・シンボルだったから。ヴィクトリア朝に確立した良き家庭のイメージに犬が欠かせなかったから。イギリス人は誰かを従属させるのが好きだから。散歩が好きな国民なので連れ合いとして。核家族化が進んだイギリス社会において絆の役目として、等々。最近聞いた説明に次のようなものがあった。なかなか説得力のある説だ。イギリス人は恥ずかしがり屋だがいつも誰かとの会話を求めている。空模様を会話のきっかけに使うのはよくある手だが、天気は自然現象にすぎず、話者の感情が乗らない。だが犬に関することがらだとイギリス人はガードをはずすことができ、感情をちょっと出しても恥にはならない。イギリス人にしてみたら稀な機会である。つまり、イギリス人にとって、大はよそよそしくない会話を始めるための便利な小道具なのである。」だそうで、なるほどと思いました。やはり、そこに長く住んでみてわかることです。
 最近は、日本でもただ歩いているだけではサマにならないという理由で、犬を連れて散歩する人がいると聞きました。おそらく、犬の散歩にかこつけて、歩くのも楽しんでいるようで、意外と人間の考えることは同じだなと思いました。
 また、イギリスは階級社会が今でも残っているといいますが、それは旅行者にはイマイチわかりません。聞くところによると、英語の発音も違うといいますが、もともと英語がよくわからないので、発音の微妙な違いがわかるはずもありません。イギリスの個人宅にお邪魔したことがありますが、それだって相手はお客さんと思って接してくれるので、そういうものかとしか考えません。
 ところが、長年ロンドンに暮らしている著者でさえ気づかないことが、彼の娘さんは気づいているようで、イギリスの南北の違いを尋ねると、「娘は「まずは言葉」と言い、「次に食べ物かな」と言った。北部出身の学生はヘビーな朝食を好む。いわゆるフル・イングリッシユュ・ブレックファストで、ロンドンっ子はポリッジとかコーンフレーク、シリアルなどの軽い朝食を好むらしい。蛇足ながら、すでに述べたディナー問題についていうと、北部の人は昼食をディナーと言い、夕食をティーと言う場合が多い。」とありました。
 ということは、私がウイズレーガーデンに行ったときに、そこの研究者の家で午後のティーに誘われたとき、3時のおやつにしてはこんなにも出るのかなと思ったのですが、それが夕方までゆっくりと食べるのです。これが、もしかすると「夕食をティーと言う場合が多い」にあたるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、「日本を憎んだ人たち」のなかに出てくるもので、ちょっとショックを受けました。これは、シャーウィン裕子さんが話したことで、彼女は日本を離れて60年以上もイギリスのウィルトシャー州に住んでいる作家だそうです。
 日本人は、意外と忘れっぽいと思うこともありますが、イギリス人のなかにはこんなにも古いことにこだわる人たちもいるということがわかりました。そういえば、韓国の人たちのなかにも徴用工問題を今でも考えるのと同じで、昔のことにいつまでも心にとどめているようです。
 私は、世の中には忘れるということも大切なことだと、あらためて思いました。そういえば、エジンバラである男の老人からどつかれたことがありますが、もしかすると、彼も日本の捕虜になった経験があったのかもしれません。
 
(2024.1.17)

書名著者発行所発行日ISBN
異邦人のロンドン園部 哲集英社インターナショナル2023年9月30日9784797674354

☆ Extract passages ☆

「捕虜になった英連邦の兵士たちの体験記、どれくらいあるかご存じ?」
「どうでしょう、三十冊……四十冊?」
「ゆうに百冊は超えるでしょう。日本人として読むのがつらいのはわたしも同じですよ。でもなかには日本人の悪口をひとことも語らず、逆境のなかで前向きな精神を維持した人もいる。そういうのを読むと、気分が高揚してきます」
 ある学者によると、英国で書かれた日本関連本としては、経済や文化などよりも、日本軍捕虜収容所での体験を書いたものが一番多いらしい。僕がVJデイに無知だったのと同時に英国人たちが「根に持っている」ように感じたという非対称的認識を裏から照射するような情報だ。
(園部 哲 著『異邦人のロンドン』より)




No.2265『文庫旅館で待つ本は』

 久しぶりに小説を読みましたが、何より、この『文庫旅館で待つ本は』という題名に興味を持ちました。文庫旅館って、なに、と思いました。
 私も旅行へ行くときには、必ず文庫本を持っていきますが、その文庫のある旅館というのは、図書館でも併設されているのだろうかとも思いました。でも、文庫と限るのは、なぜ、と思います。やはり、読んでみないことにはわからないということです。
 久しぶりの小説ということで、一気に読みました。文庫旅館というのは、主人公の凧屋旅館の若女将、丹家円さんの曾祖父の丹家清さんの戦友の海老澤呉一が集めた文庫本を一括購入して「海老澤文庫」として旅館の一角に設置してあるからで、誰もなぜこの文庫がここにあるのかわからないといいます。そして、最後になり、そのいきさつが明らかになるわけです。
 これは書き下ろしだそうで、文庫本は、川端康成の「むすめごころ」、横光利一の「春は馬車に乗って」、芥川龍之介の「藪の中」、志賀直哉の「小僧の神様」、夏目漱石の「こころ」の5冊です。それぞれが1つの物語で、最初の1冊目と5冊目がつながっているというのが後からわかります。
 ただ、この手の本は、種明かしをすると読んでもおもしろくないので、興味のある方は読んでもらうしかありません。
 私にとっては、とてもおもしろくて、5冊目のどんでん返しというか、されなりのつながりがわかって、推理小説を読むより、あらすじだけでなく興味を持ちました。そしてなにより、文庫旅館という不思議な設定も、また主人公の丹家円さんが本を開くとなぜか「鼻がツーンとして目がチカチカして涙が出て、読めない」というのはとても理解できませんでした。
 しかし、5冊目の最後のところで、それがなぜなのかがわかり、そして普通に本を開いて読めるようになったところなど、なるほど、そういう設定だったのかとわかりました。
 人というのは不思議な存在で、まさに、いろいろなことに左右されながら生きているということがわかります。彼女も、直接にはなんの関係もないのに、そういうことになったようで、人というのは先祖からの様々な思いで生きているのかもしれないと思いました。
 下に抜き書きしたのは、5冊目のところに出てくる海老澤呉朗さんの台詞です。そして、ここには2冊目の芦原の奥さんも出てきて、なんとなくつながっている気配もします。
 それにしても、痴呆症も含めて、忘れるということは、とても大切なことだと思いました。

(2024.1.14)

書名著者発行所発行日ISBN
文庫旅館で待つ本は名取佐和子筑摩書房2023年12月15日9784480805133

☆ Extract passages ☆

「海老澤の血も丹家の血も混じり合った今、私達はもうお互いに償いを終え、赦し、赦されている。私達の人生は誰かの懺悔や復讐のために存在するのではない。私達の人生は私達のものだ。わかったな?」
(名取佐和子 著『文庫旅館で待つ本は』より)




No.2264『旅の人、島の人』

 著者の「サラダ記念日」や「チョコレート革命」などを読んでいますが、東日本大震災のときに仙台市から沖縄に移住したと聞き、たしかにいろいろな問題があったとは思うけど、なんとなく、逃げたという印象が拭いきれませんでした。
 それでしばらくは遠ざかっていたのですが、たまたま図書館でこの本を見つけ、久しぶりに読んでみることにしました。
 やはり、女性はわが子を守るというのは本能のようで、なんとなく納得し、この本のなかに出てくる短歌にも共感するところがありました。そういえば、この本に、東日本大震災のときに仙台市から沖縄の那覇に行き、それから知り合いを頼って石垣島に移住したことが書いてありました。それによると、「東日本大震災のあと、余震と原発が落ち着くまでと思い、息子と私は、住んでいた仙台をひとまず離れた。那覇に2週間ほど滞在していたのだが、不安定な私の精神状態が影響したのだろう。息子には指しゃぶりや赤ちゃんがえりの症状が出はじめた。これはまずいと思い、石垣に移住していた友人を頼って、島に来たのだった。こころよく迎えてくれた友人夫婦が連れていってくれた近くの海。そこでモズク採りをした。海に足を浸し、夢中になってモズクを探す 密集しているところを、息子は「モズクの森!」と呼んで、 おおはじゃぎ。食べられると聞いて、海水で洗ったモズクをおそるおそる日にしたときの、「うめえ!」の顔が忘れられない。同じ浜辺に来ていた近所の子どもたちと、鬼ごっこや砂のかけあい。ほんとうにその一日で、息子は劇的に蘇った。」と書いてありました。
 たしかに、あの東日本大震災は多くの人たちの人生を狂わせてしまったようです。NHKが2023年3月に発表した資料によると、これまでに確認された死者と行方不明者は、避難生活などで亡くなった「震災関連死」も含めると、22,212人だそうです。さらに、慣れない避難生活をせざるをえない方なども含めると、ものすごく多くの方々が直接的な影響を受けたことになります。
 だとすれば、それ以外の間接的な影響まで含めると、まさに未曾有の大震災だったと思います。そのなかで、いろいろな苦悩や葛藤があったのは間違いないことで、著者もその1人でした。
 そういう意味では、いいとか悪いとかという問題ではなく、そうせざるを得ないことだったと思いますし、ある意味、できるからこそだとも思いました。経営コンサルタントの神田昌典さんは、「安定とは、焼け野原でも紙とペンがあれば、翌日から稼げる能力である。」といいましたが、まさに著者にとってはその通りです。しかも、今の時代だからこそ、どこに居ても原稿をメールに添付して送ることができます。
 それにしても、著者の感覚はおもしろいと思いました。その一つは、「人間、誰しも優しい面と意地悪な面を持っている。そして美人に遭遇した場合、多くの人は優しい面を彼女に向ける。みんなに優しくされれば、みんなにも優しくなれるのが人というものだろう。結果、私の仮説にたどりつくというわけだ。もちろん、逆は必ずしも真ならず。美人じゃなくても性格のいい人はたくさんいる。美人じゃないほうの立場を代表して言わせてもらえば、人に優しくされる前に、こちらから優しくすればいいのだ。ほうっておいても好かれるわけではないが、こちらから好きになっていけば、たいていの人は、やはり優しい面をこちらに向けてくれる。そうなれば、あとは、美人と同じ仕組みと展開が待っている(と信じたい)。」と書いてます。
 でも、ある人に聞くと、美人はいつも優しくされることになれてしまい、それが当たり前になってしまい、感謝の心を忘れがちだといいます。
 つまり、どっちもどっちだというわけで、人それぞれのような気がします。
 下に抜き書きしたのは、「カヤック体験」のなかに書いてあったもので、著者の息子さんが石垣島の自然について書いた作文が観光協会章をもらったその副賞で、親子でカヤック体験をさせてもらったそうです。
 20年も前に釧路湿原の取材でカヌーに乗ったことがあり、そのときには、「蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと」という短歌を詠んだそうです。
 そして親子でのカヤック体験では、短歌は載っていなかったのですが、「いずれは彼も、この舟を降りる日がくるのだろう」と子育ての楽しさと一抹の寂しさが感じられました。

(2024.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
旅の人、島の人俵 万智ハモニカブックス2014年8月30日9784309920269

☆ Extract passages ☆

 カヤックは二人乗りで、息子と気持ちを合わせて漕がなくてはならない。
「おかあさん、右、右! あっ行きすぎだよ、少し左にもどして」など、前方の息子が指示を出し、主に私は方向の調節係ということになった。まっすぐのところでは、息子が精を出して漕いでくれる。
 釧路では、川の蛇行に人生を感じたが、二人乗りのカヤックは、それそのものが人生の小舟という、まあ陳腐ではあるけれど、どうしてもその比喩が思い浮かんでしまう。今はこうして、二人で力を合わせて進んでいるが、いずれは彼も、この舟を降りる日がくるのだろう。
(俵 万智 著『旅の人、島の人』より)




No.2263『ようこそ! 富士山測候所へ』

 副題は「日本のてっぺんで化学の最前線に挑む」で、富士山の頂上に観測所があるということだけは知っていましたが、そこで誰がどのようなことをしているのかはわかりませんでした。もともと気象庁の観測所なので、おそらく気象観測はしていると思っていましたが、2004年10月1日に職員は山を下り、無人になったそうです。というのも、職員が山頂にいなくても、自動観測機器があれば観測が可能になったからです。この有人観測は、1932年に林寺富士山頂観測所が開設されてから72年の年月が経ち、さらに野中至・千代子夫妻が冬の富士山頂で観測を試みたときから109年も経っていたことになります。
 しかし、日本一高い富士山だからできることは、気象観測だけではありません。この本では、地球温暖化や大気汚染など、さまざまなデータもここでしか集められないとして、「NPO法人富士山測候所を活用する会」が2006年に発足し、現在も活動しているそうです。
 そのときの様子を、この本には、「ただし、富士山測候所から気象庁の職員は去りましたが、今ではこの建物を活用する人がまったくいなくなったかというと、そんなことはありません。夏の2か月間だけ滞在して、地球温暖化や大気汚染、雷、高山病などについて研究している科学者や学生たちのグループが気象庁から建物を借りて、ここでさまざまな観測に取り組んでいるからです。かれらは「気象庁が富士山測候所を無人化することを決めた」というニュースを聞いた直後から、「このまま富士山測候所を閉鎖させるわけにはいかない」と動き出しました。「気象庁にとって、富士山測候所は重要ではなくなったかもしれないけれども、自分たちには必要な存在だ。なぜなら富士山頂でしかできない研究があるからだ」と考えたからです。そこで国に一生懸命働きかけて、測候所を借りられるようにしたのです。」と書いてありました。
 なくすのは簡単ですが、それを維持するのはとても大変なことで、それでも、「富士山頂でしかできない研究がある」という思いがみんなを動かしたに違いありません。
 富士山といえば、夏になれば20〜30万人ほどの人々が登るといわれていますが、なかには軽装でサンダル履きという外国人もいるようです。登山家でもある山本正嘉さんは、登山家の死亡率や事故率を減らしたいという思いから、富士山でいろいろな実験をしているそうです。それによると、深呼吸や腹式呼吸を心がけると酸素不足になりにくいことや、1時間に300メートル以下のペースで歩くと、心臓への負担が小さくなるそうです。もちろん、これらには個人差もあり、私などはブータンの4千メートルを越える峠で走り回ったこともあり、ある程度高山病には強いと思ってますが、友人などは2,700メートルを越えると急に頭が痛くなったり、吐き気がしたりするそうです。
 ですから、富士山は3,776メートルありますから、そこで長時間仕事をするというのはかなりの負担になります。この本のなかで、富士山測候所で働く職員のなかに南極に行きたいという希望者がいるといいますが、この本には、富士山測候所の元所長の佐藤政博さんの話しとして、「……実際に希望が通った人を見てみると、協調性が高い人が多かったそうです。南極も富士山測候所と同じく、集団で長期間生活することになるので、協調性が重視されていたのです。ちなみに佐藤さんが、南極観測隊から帰ってきた何人かにたずねたところ、多くの人が「富士山頂と南極とでは、富士山頂の勤務のほうが大変だった」と答えたそうです。寒さは南極のほうがきびしいですが、気圧が低く、空気が少ない富士山頂のほうがつらかつたというのです。」とあり、たしかにそうだと思います。
 富士山頂に登ってちょっとだけいて、すぐ下るのとは訳が違います。そこで観測業務をこなしながら生活もするのですから、かなりの身体的負担になります。
 下に抜き書きしたのは、富士山で最初に気象観測をした野中至と千代子夫妻の話しです。もちろん、この前に富士山でひと冬を越した人はいませんし、そのようなことを考える人さえもありませんでした。それなのに、野中至は1895年10月1日にどの組織にも属さない28歳の青年が、いちおう中央気象台から富士山頂の観測機器を借りることで、あとは全て自費だったそうです。しかも、その12日後に妻の千代子が小さな子を実家に預けて富士山に登ってきたのですから驚きです。
 それでも、心配した中央気象台の和田雄治たちが富士山頂まで来て、下山するよう強く説得して担ぎ下ろしたそうです。それは12月22日のことで、その観測期間は82日間ということになりました。

(2024.1.9)

書名著者発行所発行日ISBN
ようこそ! 富士山測候所へ長谷川 敦旬報社2023年10月10日9784845118403

☆ Extract passages ☆

気象台から借りていた温度計や風力計などの器械が、富士山の過酷な自然環境に耐えられず、動かなくなったりこわれたりしたのです。また富士山頂は予想以上に気圧が低かったため、持ってきた気圧計では正確な気圧が測れないといったことも起きました。
 さらにふたりをおそったのが、体の不調でした。11月はじめに、まず千代子がのどの痛みや熱などがでる扁桃腺炎になり、お湯や水を飲むのもつらい状態になりました。ようやく治ったと思ったら、今度は全身がむくみ出し、歩くのもむずかしくなりました。そして次には至にもむくみが生じます。むくみは野菜不足が原因でした。
 結局富士山での観測活動は、82日間で終えることになります。至たちのことを心配した中央気象台の和田雄治たちが富士山頂にまでやってきて、下山するように強く説得して担ぎ下ろしたのです。
(長谷川 敦 著『ようこそ! 富士山測候所へ』より)




No.2262『農はいのちをつなぐ』

 著者は「はじめに」のところで、「百姓」という呼び名のことと、生きものの名前の表記について説明をしています。
 この「百姓」というのは、以前はマスコミなどで差別用語ではないかということで、あまり使わなくなりました。ところが、若いときに山形大学の中国から留学している学生に中国語を習い、その実践も兼ねて中国旅行をしたことがあります。そして、蘇州から杭州まで運河を船で航行中に、ある乗り合わせた中国の人に、「われわれ百姓は‥‥」という話しになり、農家の方かと思ったのですが、お茶の仲買人でした。つまり、われわれ国民はという意味のようで、もともと姓名の数が少ないから、百の姓名であればほぼ国民の多数になるという話しでした。
 だとすれば、著者がいうように、百姓は差別用語でもなんでもなく、むしろ誇りを持って使うべきだと思います。
 また、生きものの名前は、1946年に政府の内閣告示により漢字制限と「当用漢字表」のまえがきで「動植物名はかな書きにする」と指示ことがはじまりで、それが今も定着しているようです。でも、漢字で書くと、その名前の由来やおもしろさが伝わってきて、よくわかることも多いようです。
 そういえば、前回のNo.2262『種をあやす』で在来種のタネを採る話しでしたが、この本には稲のタネを採る話しが載っていました。それは「私は翌年に播く稲のタネを、わが家の田んぼから採っています。タネ採りの時に目立った変異を見つけると「これもタネ採りをして、増やしてみよう」と思います。そうやってヒノヒカリという品種から、長・宇根ヒノヒカリと短・宇根ヒノヒカリを選抜して、もう25年も栽培しています。以前は、私が発見した新品種だと自慢することもありました。しかし、よくよく考えてみると、稲とミツバチが力を合わせて生み出した新品種であって、私はただ気づいたにすぎません。あらためて、稲とミッバチにお礼を言いました。」とあり、なるほどと思いました。
 昨年、NHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』で主人公が植物の新種を発見するところがありましたが、考えてみるとあれだって、以前からあったのに人が気づかなかったに過ぎない話しです。
 では、これからの農業はどうすればいいのかというと、この本ではドイツの農業政策を紹介しています。『「農」は、市場では評価できないもの、つまり市場価値(経済価値)がないので「取引できないもの=めぐみ」を生み出しています。このことの大切さにドイツの人たちは気づいただけでなく、それを評価する新しい行動を始めたところがすごいと思いました。「農」は他の産業とは決定的に異なる本質・原理を持っているからこそ、このように人を動かすのです。』といいます。そして、ドイツの人たちは農業を守るために税金から「環境支払い」が始まったといいます。日本でも、水が不足しないのは水田があるからだとか、田んぼこそが日本の原風景だといいますが、それらは自然に備わっているかのように考えています。昔は水と空気はタダと考えていましたが、今ではお金を出して水を買っています。ということは、日本の原風景はタダではなく、守っていかなければならないものです。だとすれば、ドイツのように、その環境を守っていくためにそれなりの負担は必要ではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第3章の「いのちといのちをつなぐ田んぼ」に書いてあったものです。
 たしかに、「かえる」という言葉は不思議です。インドでは、お釈迦さまが雨安居をするようになったのは、雨季の期間は外出するのが大変だということもありますが、もともとは雨季に動植物が生き生きとするそのときに歩いて踏みつけたり、殺したりするのを防ぐためだと聞いたことがあります。そして、お盆は『仏説盂蘭盆経』に基づく行事ですが、この雨安居を終えたときにあたり、仏弟子の目連尊者が餓鬼道に落ちて苦しむ母親を救うために、お釈迦さまに教えられた通りに雨安居後の僧たちに供養し、その功徳でもって母親を救ったという話しから自分たちの先祖も供養するようになったものです。
 また、インドにはジャイナ教という仏教と同時代に開かれた宗教があり、徹底して不殺生の実践を重視することから、口に入れる食材に対しても非常に気をつかいます。だから、農業に従事することはなく、多くは商業、とくに宝石や貴金属を扱う仕事に十字しているようです。
 この抜き書きを読みながら、インドのことなどを思い出しました。

(2024.1.6)

書名著者発行所発行日ISBN
農はいのちをつなぐ(岩波ジュニア新書)宇根 豊岩波書店2023年11月17日9784005009787

☆ Extract passages ☆

いのちを奪われた生きものたちは、土に「かえる」のですが、時間を経て次の世代が生まれてきます。すると、百姓たちは「また今年も生まれてきたね」「また今年も会えたね」と出会いを喜ぶことができるからです。「かえって」きた生きものの姿を見ることで、自分が奪ってしまったいのちが、またいのちをつないでかえってきた喜びに出会えるからです。その一方で去年のことをすっかり忘れてしまえるからです。このことで私たちはどれほど救われているかしれません。
「かえる」という言葉は実に不思議な言葉です。死んでいく時だけでなく、生まれてくる時にも使われます。鳥の雛や、虫たちが、卵から孵化するのも「かえる」と言います。
(宇根 豊 著『農はいのちをつなぐ』より)




No.2261『種をあやす』

 著者のことを知ったのは、10月2日の夜に放送されたNHKのEテレ「タネの箱舟」を見てからです。世の中には、すごいことを淡々とこなしている方がいるというのが第一印象です。
 この本の副題が「在来種野菜と暮らした40年のことば」で、ひとつのことをやり続けることの大切さを知りました。今年は辰年ですが、辰という字は手偏をつけると「振」になり、まずは動かすことにつながります。つまり、小槌などを振り上げて行動することです。
 著者は、有明海を望む長崎の雲仙に住み、在来種野菜のタネを採ろうとした最初のきっかけは「黒田五寸ニンジン」だそうです。現在は50種類ほどの在来種野菜のタネを護っていますが、私もシャクナゲのタネを採ったことがあるのでわかりますが、品種改良とかではないので50種類を守り続けるというのは大変なことです。まさに、野菜の命を未来につなぐ「箱船」です。
 ほとんどの農家で使っているのはF1の種子で、それを翌年に播いてもほとんど収穫はできません。この種子は、形や味がよくそろい、収穫時期も予測がつきます。これは、よく学校で習うメンデルの法則のなかで、優性の法則である「顕性の法則」と「分離の法則」が関係しています。つまり、雑種、ハイブリッドですから、毎年新しくF1種のタネを購入しなければならないということになります。
 しかし、固定種である在来種は自家採種が可能で、地域のブランド伝統野菜などとしてつながっていきます。ただ、農家が自分たちで種取りして繰り返し栽培しなければならず、その野菜を自分たちで売っていかなければならないのです。それでも、最近は、農家のお店、ここらはJA米沢直売所『愛菜館』などがあり、地元特産の野菜なども売っています。
 しかし、タネを採取し育てていくというのは大変で、著者は、「農法のなかでも種はとても地味で、当時、誰からも見向きもされていませんでした。だからこそやってみたいと思ったのです。毎年欠かさず採ることで、種は年々よくなっていく。それは自分の目で確かめることもできますし、できあがった野菜の質でちゃんと答えを出してくれる。そうやってコツコツと地道に取り組むことも、自分の性格に合っているように思いました。少しずっ変化しながらも、種をつないでいくことにはけっして終わりがありませんでした。種には限界がないのです。そしてもうひとつ、種は品種の多様性にもあふれていました。各地域に、それこそ日本全国、いや世界じゅうで固有の、伝統的な種が存在する。」といいます。
 たしかに、そう考えれば、たくさんのタネがあり、そのタネを守り伝えていくのが大切になります。著者は、「守るということにはふたつあって、ひとつは種をつなげて守ること。そしてもうひとつは種を外に出さず、地域のなかできちんと流通させながら守ること。どちらも同じくらい大切で、そうやっていかないと種を維持していくことは難しい気がしています。」といい、タネを外に出さずに地域で守っていくことも大切だといいます。つまり、自分たちの宝物だから守っていかなければという強い気持ちです。
 おそらく、この両方のことがなければ、せっかく守ってきたタネも農家の一代限りで消えてしまうのかもしれません。だからこそ、地域の文化として伝えて行くような気持ちが必要なのではないかと思います。
 下に抜き書きしたのは、第2章の「野菜の一生」に書いてあったものです。
 たしかに、人のことを考えれば個性というのは当たり前ですが、それが長崎地方に伝わる黒田五寸人参にも当てはまるというから驚きです。この考え方というのは、とてもよくわかります。そして、とても大切なことだと思います。
 今年は、どんなものにも個性があり、それを大切にしなければならないと思いながらこの1年を過ごしたいものです。

(2024.1.3)

書名著者発行所発行日ISBN
種をあやす岩ア政利亜紀書房2023年5月4日9784750517636

☆ Extract passages ☆

 でも、厳しくやればやるほど、だんだんと毎年、種の採れる量が減ってきてしまったのです。なぜなのか、その理由を考えました。もしかすると、純粋ないいものばかりを選んでいたために、ニンジンそのものの生命力が弱くなってしまったのではないか。
 これではいけないと、それからは選ぶ母本の姿に少し幅をもたせるようにしてみました。たとえば、少し大めのエンジンなども取り混ぜて、母本を選ぶことにしたのです。そうした種を蒔くようになると、しだいに元気なニンジンヘと戻っていきました。
 そこでやっと、ニンジンにはニンジンの世界における多様性があるということに気がついたのです。
(岩ア政利 著『種をあやす』より)




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