★本のたび 2016★
若いころから読書カードを作っていましたが、近年、読書離れが続いているということを聞き、こんなにも楽しいことからなぜ離れてしまうのかと思い、この掲載をはじめました。
でも、自分が読んだ本について語るということは、自分の本棚を他人に見せるようなものですし、もう少し踏み込んで言うと、自分の心のうちをさらけ出すようなものです。それは、とても恥ずかしいかぎりです。
でも、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさ、本と遊ぶおもしろさをなんとか伝えたいと思うようになりました。
2014年9月30日に1,000冊を超えましたが、これからも本とたびを続けて行きますので、ときどきはのぞいてみてください。
ここが、本のワンダーランドになれば、本望です。
また、抜き書きに関してですが、学問の神さま、菅原道真公が49才の時に書いたと言われる『書斎記』のなかに、「学問の道は抄出を宗と為す。抄出の用は稾草を本と為す」とあり、簡単にいってしまえば学問の道は抜き書きを中心とするもので、抜き書きは紙に写して利用するのが基本だ、ということです。でも、今は紙よりパソコンに入れてしまったほうが便利なので、ここでもそうしています。
なお、No.800 を機に、『ホンの旅』を『本のたび』というわかりやすい名称に変更しました。最初は「ホンの」思いつきではじめたコーナーでしたが、こんなにも続くとは自分でも本当に考えていませんでした。今後とも、よろしくお願いいたします。
No.1323 『未来国家 ブータン』
著者の本は、『腰痛探検家』や『アヘン王国潜入記』などを読んでいますが、どれもユーモアがあり、探検に伴う悲壮感などみじんも感じられませんでした。そして、そのような気質がなければ、辺境の地に入ろうとは思わないかもしれないと考えました。
それで、偶然にも図書館で見つけ、即、借りてきました。
もういくつ寝るとお正月ですが、今の時期、今年の10大ニュースという企画があり、自分でもいろいろと考えますが、今年は日本とブータンの友好30周年記念の年だそうです。ということは、ちょうど30年前に私もブータンに行きました。
この本にも出てくる西岡京治さんとも会い、いっしょに食事をしたり、パロの空港までお見送りもしていただきました。そしてなにより、自分が通ったことのある道や訪れた地方名などが出てきて、とても懐かしく感じました。たとえば、私が行った一番奥はウラ峠でしたが、この道は南のほうのタシガンまで続いているということでした。
著者は、タシガンの先のメラやサクテンまで行ったようですが、この辺りはブータンでも秘境のまた秘境のようなところです。ぜひ、これからでも機会があれば訪れてみたいところの一つです。
では、著者がなぜブータンに行ったかというと、ブータンの農業省の国立生物多様性センターとのプロジェクトの一環として行き、とくにフィールドワークに適した場所を探すためだったようです。だから、「ブータンは、標高200メートルの熱帯から7000メートルの高地まで、ひじょうに多様な環境にある。つまり生物資源(あるいは生物多様性)に富んでいる。世界の生物資源の約6%はブータンにあると見込まれているという。それだけではない。ブータンは古くからチベット世界で「薬草の国」と呼ばれている。伝統的知識はひじょうに期待できる。ここで問題なのは生物資源はあくまで「資源」であるということだ。石油や鉄鉱石と同じで、外国の企業や政府が勝手に手を出してはいけない。その国に所有権がある。」という認識でもあります。でも、著者自身は、『幻獣ムベンベを追え』という本も書いているように、ヒマラヤの雪男にも関心があり、今回のことも、むしろ、だからこそ行こうという気になったようです。
その著者も、ブータンでたいへんなことがいろいろあり、ついには病気平癒の祈祷をうけることになります。それが終わって、「ずいぶんと心も体も楽になっていた。力みや凝りがほぐれたとでもいうのだろうか。なるほど、自分で体験すると祈祷の意味がわかる。自分の悩みや苦しみが周囲の人々にきちんと伝わる。それだけでも大きい。処方箋も受け、こ
れからどうすればいいか教えてもくれる。あとはそれに従うだけで、周囲もそれを理解してくれる。そして何より、大きな流れに身を委ねるような安堵感。何百年、いや千年以上も前からつづく長い長い歴史の中に受け入れられる心地よさがある。鳴呼、素晴らしきかな、祈祷。これぞ幸福大国の象徴だ。あとは仏のなすがままに旅をつづけるだけ――。」と書いています。
下に抜き書きしたのは、ブータンがなぜ幸せなのかに言及するところです。さらに、この後に、ブータンを「周回遅れのトップランナー」と呼ぶこともありますが、たしかに環境保全とかロハスということに関しては、むしろ進んでいます。
さらに著者は、後出しジャンケンのように、先進国のよいところだけを取り入れて、悪いところを避けているので、他の国と違う進化を遂げているのではないかといいます。つまり、そこがこの本の題名の「未来国家」という意味につながるのではないかと思いました。
(2016.12.31)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
未来国家 ブータン | 高野秀行 | 集英社 | 2012年3月30日 | 9784087714432 |
☆ Extract passages ☆
ブータンを一カ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だから個人に責任がなく、葛藤もない。
シンゲイさんをはじめとするブータンのインテリがあんなに純真な瞳と素敵な笑みを浮かべていられるのはそのせいではなかろうか。
アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくなる。教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。
でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこのい国にはできあがっている。
ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。
それこそがブータンが「世界でいちばん幸せな国」である真の理由ではないだろうか。
(高野秀行 著 『未来国家 ブータン』より)
No.1322 『人はいくつになっても生きようがある』
表紙の顔写真は、昔よくテレビなどに出ていた方とすぐわかりましたが、著者が書かれていないと、名前まではわからなかったようです。
副題は「老いも病いも自然まかせがいい」で、どっちにしても任せるしかない、と私は思っています。いくらじたばたしたとて、どうなるものでもありません。やっと、還暦を過ぎ、少しは病気などもして、そのような境地に近づきつつあります。
だから、同感するところもいろいろあって、サラッと読み終えました。もう、数時間もかからなかったのではないかと思います。
いいと思ったのは、モノは時間というところで、「モノは、買った場所や使う人、シーン、思い出までをふくんだ文化であり、そして文化は時間であるといってよいでしょう。どう暮らしていくかを考えるとき、まず大切にしたいのは有意義に使う「自分の時間」を手に入れること。そのためにモノをどう選び、どう配置すればよいかを逆算していけば、おのずと必要なものが見えてくるのではないでしょうか。」と書いてあり、つまりは「モノは単なるモノではない」ということだそうです。
また、「若い頃には許されなかったことを大目に見てもらえるのも、年をとったよさかもしれません。もの忘れでも何でも、「もう年なので」「お年だからしょうがないわね」で、ある程度は許してもらえる。年を重ねて社会的な義理を欠くことを平然とできるようになったのは、私にとってはすごく楽なことなのです。」とあり、確かにそうだなあ、と私も思います。
だから、著者も今はこれといったストレスはないそうです。
やはり、年を重ねていくと、しようと思ってもできないことはたくさんありますし、したくないことだってあります。
だからといって、したくないことを無理無理することもないと思います。これなども、さわやかな年の重ね方をしていると思いました。
下に抜き書きしたものは、この本の一番最後の「自然のままに生きて、いまを楽しむ」というところに書いてあります。
おそらく、これが本音ではないかと思います。また、本当にこのように生きて死ねればいいと私も思います。
(2016.12.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人はいくつになっても生きようがある | 吉沢久子 | さくら舎 | 2016年9月10日 | 9784865810691 |
☆ Extract passages ☆
私はもう長く生きてきましたから、いまでは無理にあがいて何かをしようとも考えていません。ぼけるのも死ぬのも自然にまかせるしかない。ただただ自然のままに生きて、いまの生活の中で楽しめればそれがいちばんです。
だから、食も楽しむし、夕日もゆっくり見て楽しみ、鳥や植物との会話も楽しみます。そして、当たり前の何でもない日常を少しでも長く楽しむために、ほんの少しの工夫や努力を惜しみません。あとは、あるがままに生きて自然に消えていけたらいいなと思っています。
(吉沢久子 著 『人はいくつになっても生きようがある』より)
No.1321 『風邪の効用』
何度も刷られているようで、いわばロングセラーのようなので、ちょっと興味を持ちました。しかも、正月を前にして、ここで風邪などひいたら困ってしまう、とも思いました。
つまり、風邪をひかないようにするにはどうすればよいのか、という本なのかもしれない、と勝手に思っていました。
ところが、読んでみると、風邪をひく人は長生きするとか、脳溢血や癌などにもかかりにくいと書いてあり、それが風邪の効用なのかとも思ったりしました。
しかし、世の中には、いろいろな人がいますし、後から著者の略歴を見ると、あの野口式の整体の産みの親でした。
私が本を読むときには、あまり著者を知らないほうがいろいろなジャンルの本を読めるし、興味深いことに巡り会うこともたくさんあります。なかには、自分が想像していたこととまったく違うことが書いてあったりして、それもまた、楽しいことです。
しかし、「石鹸をつけて洗うというのは、大便が毎日出ているのに浣腸しているようなものです。浣腸すれば全部丁寧に出るけれども、それを習慣として繰り返していると、浣腸しないと大便が出ないような体になることは御存知ですね。それと同じように、いつも石鹸をつけて丁寧に洗濯していると、皮膚の排泄するはたらきをすっかり鈍らせ、弱らせてしまう。自分の体のはたらきで掃除ができないようになり、汚れやすくなる。同時に皮膚の呼吸作用も鈍ってくる。だから風呂に入っては洗い、洗ってはまた入るというような行き方や、石鹸をつけてゴシゴシこするような行き方は、風邪を引きやすい体に誘導する方法である。ちょうど浣腸しているのと同じような、体を鈍くしていく方法で、本当は感心できない。ただ余分な油や白粉などを塗っている人達は、それを除くために使うにはよいのでしょうが、そういう皮膚にくつつけてある物質を除く目的で石鹸を使うだけでなく、汚れてもいない処を一生懸命に、木綿物を洗うようなつもりで洗っている人がありますが、それはあまり感心しない。」というところを読んで、たしかにあまり神経質に洗うことはないけど、ある程度はお風呂に入り、ゆっくり温まり、身体をきれいに洗うというのは、気持ちのよいことだと思っているので、いささか違うと思いました。
そこから、読み流してしまいました。
下に抜き書きしたものは、風邪というのは治療することよりも、経過させることの方が大切だという説のところです。
ただ、このことも、なるほどと思う人もいれば、そうかな、と疑問に思う方もいるでしょう。おそらく、この本を読めば、そのどちらかには分かれるような気がします。
(2016.12.26)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
風邪の効用(ちくま文庫) | 野口晴哉 | 筑摩書房 | 2003年2月10日 | 9784480038074 |
☆ Extract passages ☆
頭を使い過ぎて頭が疲れても風邪を引く。消化器に余分な負担をかけた後でも風邪を引く。腎臓のはたらきを余分にした後でも風邪を引く。とにかく体のどこかに偏り運動が行なわれ、働かせ過ぎた処ができると風邪を引く。だからお酒を飲み過ぎて絶えず肝臓を腫らしている人は肝臓系統の風邪を引く。ふだん余分に栄養物を摂って腎臓を腫らしている人は腎臓の系統の風邪を引く。しょっちゅう心配している人は神経系統の風邪を引く。そうやってそれぞれその人なりの風邪を引くと、その偏って疲れている処がまず弾力性を快復してきて、風邪を経過した後は弾力のあるピッチリした体になる。
だから風邪というものは治療するのではなくて、経過するものでなくてはならない。
(野口晴哉 著 『風邪の効用』より)
No.1320 『触れることの科学』
著者はジョンズ・ホプキンス大学の医学部教授で、神経科学者だそうです。主に細胞レベルでの記憶のメカニズム研究に取り組んでいて、一般向けの解説本も出しているといいます。
おもしろいと思ったのは、最初の「プロローグ」のところで、五感のなかでひとつ残して全部なくなるとしたらどれを選ぶという質問があり、なかなか選べなかったという少年の時の出来事を書いています。たしかに、どれといわれても、私もなかなか選べないと思います。
副題は、「なぜ感じるか、どう感じるか」とあり、これはどういう意味なのかと考えました。だから、興味を持って読もうとしたのかもしれません。ちなみに、原書の題名は『TOUCH : The Science of Hand,Heart,and Mind』で、2015年に出版されました。
読んでみて思ったのは、人は触れ合うために生きているっていうか、触れ合うことで幸せを感じることが多いということです。下に抜き書きしましたが、ネズミを使った実験でも、つねに子ネズミを世話する母親に育てられると、いろいろなことにチャレンジしようとするそうです。しかも不思議なことに、世話をしない母親ネズもに育てられたメスの子ネズミが母親になっても、やはり世話をしないことが多いそうです。つまり、ある意味、遺伝するということのようです。
それとこの本を読んで初めて知ったのですが、パキスタン北部の辺境に住むクレシ族の子どものなかに、まったく痛みを感じないのがいるそうで、これはこれでたいへんなことだそうです。つまり、「痛みを感じなければ、さぞのんびり暮らせるだろうと思われるかもしれないが、現実はそういうものではない。痛みというのは、組織にダメージを与えるような刺激への反応として生じる。痛みがなければ、刃物や熱湯や有害な化学物質を避けることも学べない。先天性の無痛症の人は常時けがをしている。知らないうちに自分で舌を噛み、骨を折り、関節をすり減らし、ゴミの入った目をこすって角膜を傷つける。成人になるまで生きている者は少ない。パキスタンで屋根から飛び降りた少年のような派手な亡くなり方は多くない。むしろ、日常的な組織の損傷から死に至ることが多い。たとえば合わない靴を履いていて足を痛めたり、熱すぎる飲み物で食道を傷つけたりするのだ。きつすぎる下
着が腹部の皮膚を傷つけたという例まである。患者には、こうした傷から感染症に至る危険が常にある。」ということで、このような先天性無痛症の人たちは、有効な治療法もないので、若くして死ぬ場合が多いそうです。
また、それと逆で、発作性激痛症というのもあり、母親になった女性に聞くと、分娩のときの痛みより強いそうで、それだけを聞いただけでもすごい痛みだとわかります。しかし、現在では、「カルバマゼピン」という薬で完全に治る場合もあり、多くの患者は痛みの発作の回数や重篤度が軽減されるそうです。
この他に、この本では、痒みなどについても書いてあり、たしかに皮膚というのは身体全体を覆うぐらいの面積もあるので、いろいろなことがあるものだと関心しました。つまり、感じ過ぎても困るし、感じなくても困るということで、その閾値がどこにあるかは個人差があります。
たとえば、快適な温度にしても、「経験上、皮下脂肪が薄い人は暖かい方を好むことは分かっている。これは深部体温調節という観点から理に適っている。また、活動的な人は(落ち着きがないだけの人も含む)、筋肉の収縮が熱を生み出すため、涼しい方を好むということを私たちは知っている。子供や若者がコートを着たがらない理由の一端はここにあるかもしれない。」と書いていますが、たしかに個人差はあります。
だからこそ、このような触覚を科学するのは大変なことのようです。この本を読むと、それがよくわかります。
でも、だからといって科学しないとわからないこともたくさんあるわけで、少しずつでもわかっていくことが大切です。そして、全体像がつかめていくような気がします。
下に抜き書きしたものを読むとそれが実感できますが、もし、自分があまり世話をしない母親に育てられたら、意識的に子どもに関わるようにすればいいわけで、やはり、知ることと知らないことには、大きな違いがあるように思います。
(2016.12.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
触れることの科学 | デイヴィット・J・リンデン 著、岩坂 彰 訳 | 河出書房新社 | 2016年9月20日 | 9784309253534 |
☆ Extract passages ☆
あまりリッキングやグルーミングをされなかった子供が成体になると、多くの世話を受けたラットに比べて、空間学習能力が低く、ものを恐がる行動が多くなる。知らない環境を探索したり、食べたことのないものを試してみたりすることは少ない。擬人化して言えば、弱虫になるのだ。このタイプのラットの恐がり行動は、ストレスホルモンの信号に関係している可能性がある。リッキングとグルーミングをあまりしない母親の子供たちは、成熟後も生涯にわたり、ストレスに対するホルモン反応が増大しているのである。……
これらの実験結果には、もうひとつ不思議な点がある。人間にも見られることだが、リッキングとグルーミングをあまりしない母親から生まれたメスのラットは、母親になったときにやはりリッキング/グルーミングをあまりしないのである。
(デイヴィット・J・リンデン 著、岩坂 彰 訳 『触れることの科学』より)
No.1319 『珍樹図鑑』
この本を初めて見たときに、珍樹って、おそらく珍しい樹、つまりはそんじょそこらにはない珍しい樹だろうなと思いました。でも、この本を読んで見て、というか見てみて、「幹や枝などに現れる動物やキャラクター、さらには芸能人や政治家の顔の表情にそっくりな模様や形を「珍樹」と呼んで、公園や森などを日々探索しながら、それらをカメラに納め続けている。」のだといいます。
たしかに、この本を見ているだけで、なんとなくほほえましくなります。まさに、「そういわれれば、なるほど、似ているなあ!」という感覚です。
ここに掲載されているのは、動物や鳥、あるいはキャラクターや有名人など、多種多様です。なかでも、一番おもしろいと思ったのは、文字です。なんで、このような形になったのか、不思議なものばかりです。
この珍樹になりやすい樹は、「まず、圧倒的に珍樹の発見率が高いのはアオギリ。枝が落ちた痕などがとくに人間の目のような模様になることが多いため、私はアオギリを人面樹(人の顔のような表情が見られる樹木)の宝庫と呼んでいる。アオギリほどではないが、イイギリ、ユリノキなども目のような模様になりやすい。また自ら幹肌に個性的な模様を作る樹木がユズリハ。樹皮のよれ具合が絶妙で、目や口にとどまらず顔の輪郭まで描くことがある。そのほか、コブシ、ホオノキなどが属するモクレン科、クロガネモチ、イヌツゲなどのモチノキ科をはじめ、カエデ、エノキ、ミズキ、ヤマモモ、エゴノキ、ドングリがなるブナ科ではシラカシやマテバシイなどが見つけやすく、庭木としても知られるモツコクやヤブツバキも狙い目だ。」と書いています。
つまりは、「樹皮があまり荒れずに割と幹肌が滑らかな樹木の方が、おもしろい節の形や珍しい模様がより際立って見えるため、イコール珍樹を見つけやすいことになる。」のだそうです。
しかも、山などの自然樹より、町中の公園などの人手がかかっている樹だそうで、前回読んでいた『街の木 ウオッチング』にも相通じるものを感じました。
この本を見て、樹のどこに出やすいかなどを考え、公園や街路樹などを見てまわれば、森林浴だけでなく歩くことで体力増進にもつながるような気がします。まさに一石二鳥です。
下に抜き書きしたのは、「あとがき」の部分ですが、私も写真選びで苦労するのでこの気持ちはよくわかります。
(2016.12.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
珍樹図鑑(文春新書) | 小山直彦 | 文藝春秋 | 2016年10月20日 | 9784166611034 |
☆ Extract passages ☆
樹木におもしろい形を見つけ、それに名前をつけることで、そこに存在価値が生まれる。だから生みの親のように、珍樹ひとつひとつにとても愛着がある。作業と並行して珍樹ハントに出かけると、珍樹たちが「私も本に載せて〜」とアピールするかのように締め切り間際まで現れる。どれを掲載するか、すべて愛着があるだけに、切り捨てていく写真選びが一番つらかった。
(小山直彦 著 『珍樹図鑑』より)
No.1318 『街の木 ウオッチング』
著者は樹木医で、いろいろな木とつき合っていて、そこからおもしろい発見があったようで、副題は「オモシロ樹木に会いにゆこう」です。
一番最後の「あとがき」で、「木は環境をつくる存在です。たとえ1本でも、いろんな生き物に居心地の良い環境を提供します。人も例外ではありません。木を眺めて、笑ったり、感心したり、幸せな気持ちになったり、癒されたりすることができます。木のことを知り、木を思いやることは、私たちの環境をよりよくすることにつながるのです。」とあり、木と上手につき合うことが環境にも優しく、自然と楽しくお付き合いする方法ではないかと思いました。
この本のなかで、なるほどと思ったのが、「木は倒れたら、光が十分に得られなくなり、生きていけません。傾いたら、倒れないようにバランスをとろうとふんばります。このふんばり方に針葉樹と広葉樹では少し違いがあります。針葉樹は傾いた側の根が深くなり、年輪も傾いた側が太くなります。この支えようと太る部分を「あて材」といいます。広葉樹は傾きの反対側にあて材を作ります。」と書いてありましたが、雪国では、斜面などは雪に押されて、地面から1メートルぐらいは斜めになっていて、そこから上がまっすぐに育ちます。その場合も針葉樹と広葉樹が違うのかお聞きしたいと思いますが、それは書いてありませんでした。
でも、針葉樹と広葉樹では、「あて材」が違うと知り、ちょっとビックリしました。
また、公園などでは支柱などで大きな木を支えますが、そのような助けを借りている木を「頼り木」と呼ぶそうですが、それが長く続くと、「木は支えられると「支えてくれるんだから頼っちゃえ」と、どんどん枝を伸ばしたり、もたれかかったりします。甘えん坊というか抜け目ないというか……。もともと自然は易きに流れるものなのでしょう。木だって目先のものに飛びつくのです。先のことを考えてがまんするなんてことはしません。」と書いてあり、まったく人間と同じだと思いました。
優しくばかりするとひ弱になったり、強くあたると変な方向に進んでしまったりと、ほとんど子育てと同じようなことが、この本にもたくさん書かれていました。まさに木を育てるのも、人を育てるのも、根は一緒なのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、並木と街路樹の歴史です。
世界最古の並木は、インドのカルカッタとアフガニスタンを結ぶ幹線だとは知りませんでしたが、その途中を通ったことがあり、そこにはマンゴーが植えられていました。ここにも書かれていますが、昔から果樹を植えて旅人の飢えをしのいだといわれているそうですが、私がインドで聞いたのは、その道路脇のマンゴーは入札で決められた個人が管理していて、収穫もその個人がしているそうです。
だとすれば、旅人が勝手に手を伸ばして果実を採ることはできないということになります。
(2016.12.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
街の木 ウオッチング | 岩谷美苗 | 東京学芸大学出版会 | 2016年9月16日 | 9784901665476 |
☆ Extract passages ☆
並木は街道の安全・快適な通行を目的に植えられてきました。世界最古の並木は、ヒマラヤ山麓のグランド・トランク(インドのカルカッタとアフガニスタンを結ぶ幹線)にあるとされ、およそ3000年の歴史をもっているといわれています。
日本では、6世紀ごろから並木がみられますが、奈良時代の759年に、遣唐使の僧侶の進言がきっかけとなり、当時の公文書である太政官符によって街道の並木が整備されました。並木は飢えをしのぐためにモモやナシなどの果樹を植えることもあったようです。ミ工戸時代には火事が多かったため、火避けとしてイチョウが植えられました。ちなみに、植樹から約400年の歴史をもつ日光の杉並木は、長さ35.41kmを誇り、世界最長の並木道としてギネス世界記録に認定されています。
(岩谷美苗 著 『街の木 ウオッチング』より)
No.1317 『漬物を食べないと腸が病気になります』
この健康人新書は、石原著「野菜だけで病気を治す」や青柳著「一日一万歩はやめなさい!」など、何冊かは読みましたが、センセーショナルな題名の割には、なるほどということが書いてあり、とてもおもしろかったのを覚えています。それで、この本も読んでみようと思いました。
副題の「植物性乳酸菌が腸の免疫力を上げる」という、その植物性乳酸菌って、いったになんなのかを知りたいとも思いました。すると、最初のほうに、「”植物性乳酸菌は動物性乳酸菌に比べ、胃液や腸液で死滅することなく、多く生き残って大腸まで届く力が強い”ということです。いっぼう、ヨーグルトに含まれる動物性乳酸菌は、動物の乳の中のような栄養豊富な恵まれた環境で生きてきたために、大腸に届くまでに死滅してしまうものが少なくありません。つまり、過酷な状況でも生きぬく力を持っているのが植物性乳酸菌であり、大腸まで生きて到達した植物性乳酸菌が、小腸での免疫機能を高め、大腸内で善玉菌の割合を増加させることによって、腸内をクリーンにしてくれるのです。」と書いてありました。
この本では、この他に排便のことも詳しく書かれていて、私にはあまり関係ないのですが、便秘などで困っている方には切実な問題なのかもしれません。
ついでに、排便のステップをここに抜き書きしてみると、
◎第1投階……結腸全体に強い収縮運動が起こります。
これを「大蠕動(だいぜんどう)」と呼びます。この収縮によって結腸内の便は直腸に移動するのですが、この大蠕動は1日に数回しか生じません。とくに起こりやすいのは、朝食後1時間以内であり、通常は10〜30分しか持続しません。
次に起こるのは半日から1日後で、この大揺動が起きているときに排便のタイミングを逃すと、便秘の原因になってしまいます。これは皆さんも体感したことがあるのではないでしょうか。
◎第2段階……直腸に便が流入すると、その刺激が脳に伝わり、便意が起こります。
脳からの信号である便意が今度はおなかに伝わり、腹筋の持続的な収縮などによって、便を直腸に向けて前進させます。
◎第3段階……直腸の中を便が進み肛門に近づくと、直腸と肛門が一直線となります。
この状態で意識的に外肛門括約筋を弛緩させると排便されます。
と書かれていました。
これを読むと、たかが排便といっても、なかなか複雑なもので、どこかで調子が狂ったとすれば、なかなかうまくいかないというのもうなづけます。
下に抜き書きしたのは、最近よく聞く「腸内フローラ」についてのことです。医学用語では「腸内細菌叢」というそうですが、叢といえば「叢林」という言葉もありますが、これは禅寺をいいます。でも、もともとの意味は藪とか林のことです。
そのような意味のほうがフローラという言葉よりはわかりやすいような気がします。
でも、この本を全部読んでみても、この本の題名にある『漬物を食べないと腸が病気になります』というのは、ちょっと極端すぎるのではないかと思いました。むしろ、著者の提案する「地中海式和食」、つまり日本の和食とオリーブオイルを多用する地中海式食生活のいいとこどりのほうが、わかりやすいような気がしました。
(2016.12.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
漬物を食べないと腸が病気になります(健康人新書) | 松生恒夫 | 廣済堂出版 | 2016年9月8日 | 9784331520550 |
☆ Extract passages ☆
腸内フローラ(腸内細菌叢)とは、一言でいえば、腸内に生息する細菌の集団のことです。この腸内フローラの菌の数は膨大で、なんと細菌が便1gあたり1000億個、ヒトの消化管全体で100兆個の菌が生息していることが判明しています。……
腸内フローラの有益な作用としては、外来病原菌の排除、免疫増強作用、消化吸収を助ける、などの働きがあげられます。
ただし、腸内フローラが有害に働く場合もあります。これには、腸内細菌の代謝による毒性物質の発生、発がん物質の生成、腸内に定着している日和見菌感染症などがあげられます。
(松生恒夫 著 『漬物を食べないと腸が病気になります』より)
No.1326 『屋久島で暮らす』
この本は山渓叢書のNo3で、副題が「あるサラリーマンの移住奮闘記」とありました。そして、この屋久島に移り住んだのが2005年4月4日と書かれていたのですが、実はこの年に私も初めて屋久島を訪ねたのでした。
その理由は、ヤクシマシャクナゲは10年に1度ぐらいしか満開には咲かないと鹿児島大の先生からお聞きし、数年前からその時を知らせてくれるように頼んでいました。それと、一人でゆっくりと登りたいので、ガイドさんもお願いしていました。
その連絡が入ったのが、2005年5月で、ヤクシマシャクナゲの花芽を確認してからのことでした。私が屋久島を訪ねたのが5月31日で、宮之浦岳に登ったのが6月1日から2日にかけてで、ある若者に案内されて白谷雲水峡からこの本にも何度か出てくる太鼓岩にも行きました。
そして、6月4日の午前中に屋久杉でお盆を作らせてもらい、時間ギリギリで午後の飛行機に乗り屋久島を後にしました。ですから、著者たちと少しだけクロスする部分があり、とても楽しく読むことができました。
たとえば、私が屋久島で借りたレンタカーは、まだ500qしか走っていない新車でした。聞くと、この島では海水で車が錆びるのが速いので、車の買い換えも早いのだと聞きました。でも、この本では、「いっぽう嬉しい誤算だったのは、洗車の必要があまりないこと。これまで雨が降るとクルマは汚れるものだと思っていたが、屋久島では激しく降りつける清らかな雨が、クルマをきれいにしてくれる。しかも頻繁に降るのでクルマはそれはど汚れない。島のカーライフには、不便もあれば便利もあるのだ。」とあり、どちらが本当なのかと思いました。
また、プロパンガスが比較的高いので、お風呂を薪でわかす家庭も多いそうです。というのは、「ガスはプロパンで、電気もそうだが料金は決して安くはない。だからというわけ
ではないのだろうが、今でも風呂は薪で沸かす家が結構多い。森に囲まれた屋久島の里には、燃料となる薪は豊富にある。手間ひまはかかるが、薪の風呂はお湯がやわらかく、体が芯から温まるという。新築の家でも、薪と灯油のハイブリッドタイプの風呂にする人が少なくない。意外だったのは、「追い焚き」機能のある風呂を見ないこと。水だけは豊かで安価だからということか……。」と書いてあり、これなどはなるほどと思いました。
やはり、数日しか滞在しない旅人にはわからないことがたくさんあると思いました。また、憧れていたときと、住んでみたときのギャップもあるのではないかと思いました。
下に抜き書きしたのは、著者が住んでみたからこそわかることです。地域に溶け込もうといろいろな地域の行事に家族で参加し、しかも、ちゃんと次の目標をとらえていることが素晴らしいと思いました。
(2016.12.18)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
未来国家 ブータン | 菊池淑廣 | 山と渓谷社 | 2008年11月1日 | 9784635480024 |
☆ Extract passages ☆
田舎に憧れてこの島に暮らすようになった僕たちだが、3年にわたる島暮らしを通じて、島の若者が都会に憧れる気持ちもまた、一方では理解できるようになった。まさに隣の芝
生は青く見えるもので、あと十数年もすれば、我が子らも都会に出たいと口にするかもしれない。彼らが島を出ることを望むなら、それはそれでいい。狭い島社会だけにとどまるよりも、もっと広くできるだけ多くの世界を見たはうが本人のためだ。彼らが将来この島を離れたとき、自分たちの過ごしたこの島の豊かさを改めて知り、そしていつかはこの島に帰ってこようと思える、そんな故郷に屋久島がなることを、僕たちは願っている。そのためにも、いずれはこの島のどこかに土地を求めて、確固たる拠り所を構えたいと思う。それが僕たちの次なる目標だ。
(菊池淑廣 著 『屋久島で暮らす』より)
No.1315 『旅客機を見れば世界が分かる』
今、南の島にいますが、この本を読むと、副題の「航空業界は世界情勢の縮図だった!」というのが、よくわかります。
今まで、たんなる輸送手段のひとつという認識しかなかったのですが、ほんとうにおもしろいように、世界情勢の動きが見えてくるような気がします。
それと、久しぶりにロイヤルネパール航空機の写真を見て、とても懐かしかったですね。ネパールに行くときには、いつも関空から乗っていましたが、2008年に王政が廃止されてからは、社名もロイヤルがなくなり、ネパール航空となったようですが、一度も乗ったことがありません。この本には、関空で2006年に撮ったのが載っていますが、私が最後に乗ったのは2007年でした。
今いるここも、昔は日本人観光客で大賑わいだったそうですが、これも航空業界の再編やLCCの就航で違ってきているそうです。この本では、「P34」と指摘していました。
また、よく船の船籍が問題視されますが、飛行機にだってそうだそうで、たとえばアエロフロート・ロシア航空の機体を見ると、エアバスやボーイング機材は「VP-B」から始まるバミューダ国籍だそうです。この国は北大西洋にある諸島で、イギリス領です。ここがタックス・ヘイヴンとしても有名なところで、金融や観光などの産業が盛んだそうです。
それと同じようにビックリしたのは、放置されたままの飛行機があるのだそうです。自転車や車なら、わからないでもありませんが、あの大きなジャンボ機です。
これは2015年のニュースにもなったそうで、クアラルンプール国際空港に3機のボーイング747ジャンボ機が1年以上放置されたままだったので、空港当局が「持ち主は速やかに名乗り出るように」と新聞広告を出したそうです。あの大きな機体の持ち主が分からないというのも不思議ですが、しかも駐機料だって相当な金額になるのでしょうが、だからといって、3機ものジャンボジェット機を置きっぱなしというのは素人にはなかなか理解できないものがあります。
それと日本の空港って、ほんとうに騒々しいなと思っていたら、世界には「サイレント・エアポート」を目指しているところもあるそうです。日本の場合は、空港係員が個人名で呼び出しをしたり、大声で呼び歩いていたりしますが、勝手に遅れている人をそこまでしなくてもと思うときがあります。そういえば、イギリスに行ったときに感じたのですが、意外と静かなのです。この本では、サイレント・エアポートとして、ヘルシンキ空港やサンフランシスコ国際空港、そしてロンドン・シティ空港などをその例に挙げていますが、ある意味、自己責任が徹底しているからだといいます。
下に抜き書きしたのは、昔、ある本で読んだ飛行機に乗って世界一周の旅をするという話しを思い出したので、ここに記しました。このことだけを考えても、世界の空の旅は、大きく変わってしまったような気がします。
それともう一つは、航空会社の栄枯盛衰です。ここに出てくるパン・アメリカン航空(通称パンナム)です。まさに航空界の覇者として君臨していたのに、1991年に倒産してしまいました。ところが不思議なことに、「1991年に倒産したが、1996年〜1998年に第ニパンナムが、1998年〜2004年に第三パンナムが設立されて運航していた。その後もコミューターエアラインのパンナム・クリッパーコネクション(2005〜2008年)、マイアミの水上飛行機会社がパンナム・エアブリッジ(1996〜1998年)を名乗ってパンナムブランドを使用したが、全ての会社が倒産という末路を辿っている。」ということです。
おそらく、日本の会社なら、一度倒産した会社の名前は縁起が悪いということで、あまり使わないような気がしますが、アメリカでは、何度も倒産しても使い続けるというから不思議なものです。
(2016.12.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅客機を見れば世界が分かる | チャーリイ古庄 | イカロス出版 | 2016年10月30日 | 9784802202329 |
☆ Extract passages ☆
1980年代前半、成田空港の出発案内表示を見ると、パンナムの便で行先のあとに「Around the World」という世界一周便の表示があった。当時は世界一周なんて夢のまた夢の時代であったことと思う。
資料によるとパンナムの世界一周便は東京、香港、バンコク、デリー、カラチ、テヘラン、フランクフルト、ロンドン、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルル、東京というルート。
1967〜1972年には日本航空も世界一周便を運航しており、西回りでは東京を出ると、香港、バンコク、ニューデリー、テヘラン、カイロ、ローマ、フランクフルト、ニューヨーク、サンフランシスコ、ホノルル、東京というルートで、時代によつてはフランクフルトがロンドンやパリの時もあったそうだ。……
現在は各社がそれぞれのアライアンスに加盟したことにより、同じアライアンス内のエアラインとコードシェア便を運航することが多くなったことで、1社で世界一周便を運航することは無くなった。また、各アライアンスが世界一周航空券を販売するようになったことで、同じアライアンス内の数社をつないで世界一周の旅をするのがスタンダードになっている。
(チャーリイ古庄 著 『旅客機を見れば世界が分かる』より)
No.1314 『読書と日本人』
12月11日に出発し、今、南の国にいます。平均気温は28℃だそうで、毎日寒さで震えていたのが、ウソみたいです。
今回はどのような本を持っていこうかと、何日も悩みましたが、いつも持っていくその国の旅関連の本も、今回はあまり縁がなさそうです。そこで、つい、読書に関する本を何冊か持ってきました。
その1冊が、この『読書と日本人』です。源氏物語の時代から始まって、現在の活字離れや電子ブックまでをたくさんの資料から読み説くもので、とても興味深く読むことができました。
私はよく図書館を利用するのですが、本屋さんでは本の定価通りで買ってきますし、古本屋さんでも、だいぶ定価よりは下がっていたとしても、それなりの金額を払って手に入れるわけです。ところが、図書館から借りて読むのはタダですから、よく本屋さんがこれを許してくれるものだと感じていました。最近では、これを問題視する出版関係者もいるそうですが、いわゆる通常の商取引から考えれば、それもありえるわけです。
この本では、それを「本にはじつはふたつの顔がある。ひとつは商品としての顔。そしてもうひとつが公共的な文化資産としての顔です。出版社は本を売り買いする商品として生産し、図書館はその本から商品性をはぎとって、だれもが自由に利用できる公共的な文化資産としてあつかう。だから書店では金を支払って買わなければならない本も、図書館に行けばタダで読めてしまう。このふたつの顔の実現不可能とも思える共存を、出版社と図書館の双方がそろっておおやけに承認した。(見知らぬ他人たちとともに本を読む)という二十世紀読書の基盤には、ひとつには、そうした二重性をゆるす寛容さと大胆な制度的決断があったのです。」と書いていて、さらに私見として「考えられる答えはひとつしかない。かれらの同意には大正デモクラシーという底のほかに、もう一枚、別の底があった。(本を読む大衆)が増えつづけてくれないかぎり、われわれのビジネスに安定的成長はないという確信がそれです。そのためには小学校の義務教育だけでは足りない。はかにも貧富の差なく、すべての人びとが日常的に本に触れ、読書する習慣を身につけることのできる開かれた場が必要だ。とすれば、たとえ多少の損失をこうむろうとも、われわれの商品を例外的にタダで利用させる権利を図書館にあたえるのを拒む理由はない。おそらくそれがあの寛容性をささえる出版産業側のもうひとつの認識だったのでしょう。」とあります。
たしかに、そういわれれば、そうだと思います。でも、現在では本を読む人が増えるということは考えにくく、むしろだんだんと減っていくというのが現実です。子どもが少なくなることで、幼稚園も学校も、定員割れが日常化しています。
だとすれば、近い将来、図書館の有料化もあり得るのではないかと思います。そうでないと、経費節減の影響で、図書館の室の低下も問題視されているからです。
下に抜き書きしたのは、紙などに印刷された本とパソコンの画面に表示する電子本についての話しです。私もそうですが、今までの本とこの電子本を比べると、やはり不確かなものを感じてしまいます。ここでは、「こんな頼りない本に(紙の本)の読書に親しんだ人びとがたやすく心身をゆだねてしまえるわけがない。」と書いてますが、たしかにそうです。
でも、電子辞書は私も重宝に使っていますから、どちらか一方ということではなく、その両方の特性にあわせて使うというのが、現実的だと思います。
(2016.12.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
読書と日本人(岩波新書) | 津野海太郎 | 岩波書店 | 2016年10月20日 | 9784004316268 |
☆ Extract passages ☆
……多様な本のすべてに共通して、読む者の信頼をささえてきたのが(定着)という特性です。すなわちテキストや画像を長期にわたって、ちょっとやそっとでは消せないものとして保存しっづけること――。
このようなものとしての本を読む時代が五千年以上もつづいたのち、二十一世紀の冒頭にそれとはまったく異質な本が、とつぜん大量販売用の商品としてのすがたをあらわした。手写や印刷ではなく、テキストを明滅する光の点として携帯可能な小型コンピュータの画面に表示する本。表示するだけですよ。定着はしないし、できない。それが電子本なのです。
(津野海太郎 著 『読書と日本人』より)
No.1313 『ダライ・ラマ 子どもと語る』
著者のクラウディア・リンケ氏は長年、国連に所属し、アフリカやニューヨークで勤務していたと紹介に書いてありましたが、現在はベルリンで対話や参画を専門とした助言者団体で活動しているそうで、そこがダライ・ラマとのつながりになったのではないかと思います。
もともとこの本は、ドイツ語で書かれていて、タイトルの直訳は、「子どもたちがダライ・ラマと語る――より良い世界のつくり方」だそうです。
この本を読んで、なるほどと思ったのは、「私たち人間には誰かを抱きしめるための腕はあっても、猛獣のような鈎爪はありません。猫の爪だって、人間のよりは鋭いでしょう? 人間の手は、何かを打つよりも撫でるのに適しているのです。そこからわかるのは、人間が基本的には攻撃の生き物ではなく、平和の生き物だということです。みなと一緒に働いたり、協力しあったりするのは、人間の自然の理にかなっているのです。」のところです。
このような簡単な言葉で、もともと人間は基本的に平和な生きものだといわれれば、なるほどというしかありません。
それて、日本では、インドのブッタガヤの菩提樹の下で覚ったといわれる内容を、くわしく解説してある仏教入門書はありません。この「ますます深く自分に没頭し、何時間も何日もすぎたころ、シッダールタは、目覚めていながらも平穏な状態に到達した。心の平安を得たのだ。精神が「落ち着き、清められ、従順で、安定し、ぐらつきがない」と、のちにシッダールタはそのときの体験を僧侶に語っている。この数週間にわたるピッパラ樹のもとでの成長は、一言でいえば、「かぎづめの先やくちばしを使って卵の殻を割っていき、ようやく光を得たヒナ」のようだったそうだ。シッダールタはあらためて精神を集中し、心を研ぎ澄ませ、幾夜も眠らずに最大の疑問に対するさらに深い答えを探した。まず重要だったのが、前世を認識することだった。インドでは、青から生まれ変わりが信じられている。シッダールタは数多くの命と人生を思い出すことができた。二晩めに、生と死の大きなつながりに「夢中になって」精神を注いだ。もっぱら生前の行ないが、生まれ変わる条件を決定することを知った。三晩めに、苦しみの解放に集中し、決定的な洞察に到達した。「四諦(四つの聖なる真理)」がひらめいたのだ。この四諦が、のちに仏陀の教えの基本となる。圧倒的な幸福感が心の中に広がり、よろこびの声を上げた。「私は解放された!」目
的を達成したことがわかった。シッダールタのこの精神的な体験を「悟り」という。」と、具体的に書いています。
これなら、ほとんどの人に、あるいはこの本の読者の子どもたちもわかるのではないかと思います。たとえ、四諦などという言葉は難しいとしても、その概要は理解できるのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、ダライ・ラマの教えをもっとも簡単な言葉で表現しているところです。
これこそ普遍的で、しかも非宗教的な倫理であるとして、「すべての宗教が、人はどのように人生を送るべきかについての考えをもっています。けれども私が関心をもっているのは、宗教に依存しない世俗の倫理を伝えることです。それは、宗教の影響を受けない、科学的な認識と良識にもとづく倫理です。もちろん、世俗の倫理が宗教に勝るという意味ではありません。そうではなく、宗教的価値観はその宗教の信者のみにかかわるのに対し、普遍的な非宗教的倫理は人類全体に当てはまり、誰ひとりとして除外されません。はぼすべての人がこの価値観を受け入れることができます。結局のところ、大きな宗教には似たような基本的な価値観があります。思いやりと寛容というメッセージは、あらゆる宗教でみられます。キリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうとユダヤ教徒であろうと仏教徒であろうと無宗教であろうと関係ありません。70億人のうち10億人以上が、自分は信仰をもっていないと言います。神を信じていなくても、みな親切で友好的な人間です。」とも書いています。
(2016.12.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ダライ・ラマ 子どもと語る | クラウディア・リンケ 著、森内 薫・中野真紀 訳 | 春秋社 | 2016年8月8日 | 9784393134085 |
☆ Extract passages ☆
ひとつめは、「他者を助けなさい」。そしてもうひとつは、「もしそれができないなら、少なくとも他者に害を与えてはいけません」ということだ。その説明として、チベットの智慧の師であるダライ・ラマは、こうつけ加えている。「二つめの教えは、仏教倫理の基礎をなしています。この教えは、他者を害するのをやめるということにあります。どちらの教えも、愛と思いやりの思想に基づいています」
(クラウディア・リンケ 著 『ダライ・ラマ 子どもと語る』より)
No.1312 『沈黙すればするほど 人は豊かになる』
副題は「ラ・グランド・シャルトルーズ修道院の奇跡」とあり、本の題名とともに、これには何を書いてあるのかと思いました。
それを知るためには、読むしかないと思い、読み始めました。やはり知らないことを知らないままにしておくのはイヤな性格かもしれません。
この本を最後まで読むとわかりますが、実際に一般の人がこの修道院に入ることはできないので、記録映画『大いなる沈黙へ――グランド・シャルトルーズ修道院――』を通して見るというような感じになっています。
この映画の監督はドイツのフィリップ・グレーニングですが、修道院の許可を得て単独で修道院に住み込み、春夏秋冬の様子を撮影したフィルムをナレーションも音楽もない2時間40分の映像に編集したものだそうです。
しかも、監督が撮影許可を求めたのがラ・グランド・シャルトルーズ修道院創立900年に当たる1984年だったそうです。しかし、その修道院からの回答が「早すぎる・たぶん11年後から13年後に」というものだったそうで、実際に「準備ができた」と電話連絡があったのは16年後だったそうです。そして、2002年から2003年にかけて撮影を行い、2005年にドキュメンタリー映画として放映されたのです。
この映像で修道院の責任者として振る舞っている人が、撮影を許可した72代目修道院院長マルセランではないかといわれています。そして、この映画の最後に、「マルセラン修道院長へ」の謝辞が載っているそうです。
著者はこの映画を観て、「個室に生きる修道士たちの姿からは、歯を食いしばって苦行を耐え抜いているのではなく、充実した個室の生活を満喫している様子が伝わってきます。夏から秋にかけての季節に、個室でひざまずいて祈りを捧げるディスマ修道士(現在の修道院長)の姿をカメラがとらえているのですが、彼は祈りを終えて立ち上がると、われわれに充実感あふれる微笑みを向けて画面から消えてゆきます。この映像に、この個室の生活が900年ものあいだ続いてきた理由を垣間見た思いがしました。」と語っています。
たしかに、厳しい自然のなかで修行するわけですが、日本の場合はその自然といわば一体になって修行するというような感じですが、ここの修道院では、自然とともに生き、自然に感謝しながら祈るとはいうものの、最終的には神と真正面から向かい合うというようなものだそうです。それが東洋と西洋との違いにも感じられました。
下に抜き書きしたのは、ヨーロッパで公開された『大いなる沈黙へ――グランド・シャルトルーズ修道院――』という記録映画のワンシーンについてで、著者はここに修道院の生活の目的が描かれていると考えています。
まだ、この映画は観たことがありませんが、ぜひ観てみたいと思いました。
(2016.12.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
沈黙すればするほど 人は豊かになる(幻冬舎新書) | 杉崎泰一郎 | 幻冬舎 | 2016年7月30日 | 9784344984233 |
☆ Extract passages ☆
『大いなる沈黙へ』の最後で「幸福」について語る老修道士の姿が思い返されます。神に近づくほど人は幸福になり、すべては魂の幸福のためで、神はそれをお助けくださる、といった趣旨の言葉です。修道院の生活の目的は、特別な技術や能力(霊力や魔力を含めて)を習得することでも、難行を達成した充実感を味わうことでも、聖人として後世に名を残すことでもなく、幸福に生きることなのかもしれません。修道院で生きる日々の暮らしが、彼らにとって最大の幸福なのでしょう。
(杉崎泰一郎 著 『沈黙すればするほど 人は豊かになる』より)
No.1311 『登山外来へ ようこそ』
私もときどき山へも行くのですが、この本の題名の「登山外来」という言葉は初めて聞きました。それが読もうと思ったきっかけにもなったようです。
ある意味、知らないのは当然のようで、著者が日本で最初に始められたもので、著者の勤める札幌市の病院で開設しているそうです。そこでは、山に登るための検査や治療だけではなく、著者自身が山で失敗したことや、救助隊や遭難した人から学んだことも伝えているそうです。
そういえば、No.1230 『私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか』三浦雄一郎著、で出てくるのがチームドクターですが、それがこの著者だったようです。この本を読むと、ただお医者さんだからできるのではなく、登山家でもなければその大切な役割は果たせないようです。だって、C2、つまり標高6,500mで待機して、医学的なアドバイスをするわけですから、相当大変な役割です。
また、大きな判断を迫られることもあります。この三浦さんのエベレスト登山の帰路も、最終的にはC2からベースキャンプまでヘリコプターで下山しましたが、それだって当然本人が判断したのでしょうが、チームドクターのアドバイスもあってのことだったと思います。そのことについても、第5章の「エベレスト登頂と下山」で書いています。
やはり、山に登るということは、「生きる」ことでもあり、最後はなにがあろうとも生きて下山することだと思いました。
それにしても、やはり登山をしている著者だからこそのアドバイスもあり、トイレを我慢することも悪いとはっきりと指摘しています。なぜかというと、「ふだん三時間に一度、トイレに行くとすれば、山の中でも同じようなべースでトイレに行きたくなるのが正常です。それをしないのは水分が足りていないことを意味します。体の老廃物は一定時間ごとに出てくるものなので、それを体の外に排出するためにはおしっこをする必要があります。おしっこをしないで老廃物を溜めて脱水状態になると、腎不全を起こす場合があり、人工透析をして老廃物を出さなければならなくなったり、ひどくなると死に至ります。」ということだからだそうです。
また、携帯する食べ物も、少しでも軽い物と考えがちですが、「自分が好きでカロリーが高いものを持っていきましょう。自分が食べたいと思えるおいしいものでなければ積極的に食べたくはなりません。極限状態ではそんなことは言ってられないと思われるかもしれませんが、そういうときこそ嗜好性が大切になります。低体温症が進むと自分の意志で何かを食べようとできなくなるので、一人でいるときはとくに注意すべきです。それが単独登山者が遭難しやすい理由にもなっています。」といいますから、好きなものでカロリーの高いものも考えておきましょう。
下に抜き書きしたのは、高山病について書かれていたところです。
私は高山病は、高山だから起きるのだと思っていましたが、そうではないそうです。もし、高いところに登るときがあれば、ぜひ参考にして欲しいと思います。
(2016.12.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
登山外来へ ようこそ(角川新書) | 大城和恵 | KADOKAWA | 2016年8月10日 | 9784040820736 |
☆ Extract passages ☆
高山病は酸素が少ないからなるのではなく、低酸素に慣れていないことから起きます。ハアハア登っているときは呼吸の回数が増えるので酸素をたくさん取り込むことが出来ます。小屋について休憩したり、夜寝てしまうと呼吸がゆっくりになったり、浅くなります。高山病は、動いている時より小屋に着いてからのほうが起こりやすくなります。
山小屋に到着し、夜の六時頃に就寝します。いったん眠ったあとに具合が悪くなり、夜の九時や十時に診療所に来る人が出てきます。これは就寝中に呼吸が浅くなったからです。
(大城和恵 著 『登山外来へ ようこそ』より)
No.1310 『災厄と信仰』
以前、この三弥井民俗選書の1冊を読んでおもしろかったので、この本も読むことにしました。
そして、予想通り、興味のあることが多くあり、たのしく読むことができました。たまには、このような民俗学の本を読みながら、自分たちの先祖が何を考え、どのようなことをしてきたのかに思いを馳せるのもいいことだと思いました。
でも、この本の最初から最後まで全部興味あるかというとそうではなく、特に「疫神の鎮送と食物」や「七福神の伝承」などはゆっくり読みましたが、「疫神の詫び證文」などはところどころ飛ばして読みました。
本というのは、興味があれば隅々まで読みますが、あまり興味がなければ飛ばすことだってあります。読書は、今更、勉強のために読むわけでもないから、まさに興味本位に読んでいるようなものです。楽しいから読む、いわば趣味のひとつですから、勉強のために読むわけではありません。
読みたいように読む、だからこそ長続きするのかもしれません。
読みたい本しか読まない、だからこそ楽しいのです。
この本のなかで、おもしろいと思ったのは、山形県新庄市の「鬼の宿」という聞き取りで、一般的な豆まきは鬼を払うのが目的ですが、ここはその払われた鬼を自分の家に迎い入れてもてなすという行事です。「新庄市上金沢町の広野家は、二十年前に山形市城西にうつりすんでからも、なお古来のしきたりを守って、節分の夜には、鬼を追いはらうための豆をまかないで、鬼を迎えいれてその宿をひき受けるというのであった。すなわち、よそで豆をまきおわって、すっかり夜がふけてから、その家の主人が、羽織袴で提燈をつけて、いくらか離れた川の堰までいって、みなにはらわれた鬼を迎えてくる。そして、あたかも生きた人に対するように、丁重に家の中に招きいれて、そのまま奥の座敷にお通しすると、家内が無事に過せるようにと、床の間にお燈明をあげて拝み、正式にお膳をととのえて出し、お神酒、お頭つき、煮物、お汁、ご飯など、心をこめて一つ一つとってすすめ、桝の中には炒豆を入れてあげる。つぎの朝早く、その家の主人が、前と同じ川の堰までいって、さきに迎えた鬼を送りだすが、そのおみやげとして、藁の竜にご馳走を入れて、川の中に投げて、別にお神酒を流していたという。」と「疱瘡神の宿」の項に著者自身が書いているそうです。
これがいつの時代まで続いていたのかはわかりませんが、これを読むと、この世の中は良いことばかりでもなく、悪いことだってあるわけで、その悪いことさえも祀ることによって良くしてもらおうという、切実な気持ちが伝わってくるようです。また、人から追い払われた鬼をも優しくもてなすという意味にもとれ、ほほえましくも感じられます。いわば、清濁併せ呑むというようなものです。
下に抜き書きしたのは、『民間伝承』16巻12号に載っているそうで、丹野正氏の「厄神の宿」という山形市山寺の柏倉家の例として紹介されていました。これも山形県内に残る貴重な伝承だと思い、ここに掲載させてもらいました。
(2016.12.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
災厄と信仰(三弥井民俗選書) | 大島建彦 | 三弥井書店 | 2016年9月28日 | 9784838290925 |
☆ Extract passages ☆
それによると、大晦日の年取りにかかるのに、前もってその家の主人が、紋付・羽織・袴で提燈をもって、村境の橋のたもとに出て、「厄病の神さま、早かったなす。お疲れだべす。なんぼか寒かったべす。どうか、おら家さござってけらっしやい。お迎えに来たっす」と、丁重に挨拶のことばをのべて、そのまま自分の家まで、その厄病の神を迎えてくる。まず奥座敷の座蒲団にすわらせ、一つ一つお膳のご馳走をすすめて、さらに年取りの餅を供えてから、しずかに客用の蒲団にやすませる。そして、暗いうちに橋のたもとまで、この厄病の神を送って、「お粗末しました。また来年ござってください。今年はもうござらねでけらっしやい」と、丁重に挨拶のことばをのべてから、これに供えたものを流してしまうという。
(大島建彦 著 『災厄と信仰』より)
No.1309 『若者はなぜモノを買わないのか』
この題名を見て、そういえばそのような気がする、と思いながらも、なぜなのかがわかりませんでした。それで、読み始めました。
読み進めると、モノを買わないのではなく、無駄なモノを買わない、本当に欲しいモノしか買わない、ということがわかってきます。やはり、私たちが育った時代とは、考え方も違えば、消費行動も違うようです。
でも、そのほうが合理的なように思えるし、共感するところも多々ありました。たとえば、今どきの若者は付き合いが悪いとよくいいますが、実はそうではなく、「彼らにとって、お酒は大切なコミュニケーションツールという位置づけですが、一杯目から、カクテルでもハイボールでも、自分の好きなものをバラバラに注文します。「とりあえずビール」と合わせたりもしますが、それは手っ取り早く乾杯するため。以後、お酒の種類もピッチも、マイペースで飲みます。また、体質的に飲めないわけでもないのに、あえて「ウ一口ン茶」「コーラ」といったソフトドリンクで飲み会を楽しむのも平成男子の特徴と言えるでしょう。…… 彼らは、お酒をストレス解消の手段にしていません。大切なのは雰囲気を楽しむことで、何を飲むかではなく「誰と飲むか」に価値を置きます。「酔っ払う意味がわからない」と言うメンバーもいるくらいです。」といいます。
そういえば、昔は酒を飲んで酔っ払うために飲むという人もいたようで、今どきの若者たちとは、やはり考え方も違うようです。ちょっとスマートになったような気もします。
そして、お酒もたくさん種類があり、個性もあり、選ぶ楽しみもありそうです。だから、一人一人が違うお酒を注文するというのも、うなづけます。価値観が多用な時代に育ったことも影響しているのかもしれません。ある一部の人は勝手気儘だと評することもありますが、そうではなく、育つ時代が違うから、なんでも選べる時代だからということもあります。
また、よく最近は本が売れないといいますが、たまに東京などに行ってみると、人が入っている本屋さんはあります。買うか買わないかというところまではわかりませんが、人が入るということは、それなりの購買につながるのではないかと思います。
著者は、これからの本屋は、「もしかすると、もう本屋に足を運ぶ目的は、「本を買いに行く」のではないのかもしれません。ヴイレヴアンには「遊びに行く」、B&Bには「居心地のいい空間に行く」。その延長上に本がある、ということなのでしょう。デパートのアパレルが売れない現象と同じで、画一化した売り場には魅力がありません。「本」そのものの価値を訴えかけるのではなく、「本屋」という”場”を最大限活用して新しい価値を伝えていくことが求められています。」と考えているようです。
下に抜き書きしたのは、若者たちが求めているモノとは何か、という著者なりの結論です。
それはいつの時代でもそうだと思いますが、必要とするモノは買わなければならないはずで、その買おうとする気持ちを刺激するのは何かということです。読んでみると、あまりの単純さに唖然とするかもしれませんが、その単純さこそありえることだと思います。
(2016.12.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
若者はなぜモノを買わないのか(青春新書) | 堀 好伸 | 青春出版社 | 2016年10月15日 | 9784413044981 |
☆ Extract passages ☆
いいモノを提供することは大前提ですが、それが他のモノとどう違うか、どんなふうに優れているかを、消費者である若者たちに伝え、その商品やサービスによって実現する、よりよい暮らしをイメージさせることなのです。
新しい付加的な価値や機能ばかりを打ち出しても、そのモノの本質がかえってわからなくなっていくのでは本末転倒で、結局のところ、"本質回帰"が、若者にも求められているのではないかというのが私の結論です。
食品や飲料なら「それはおいしいの?」ですし、家電なら「それは必要なの?」ということだと思います。
(堀 好伸 著 『若者はなぜモノを買わないのか』より)
No.1308 『HAPPY MOUNTAIN 山で見つける50の幸せ』
一番最初の「はじめに」のところに、「一生に一度は見てみたい山の景色、ありませんか? 本書はそこでしか見られない風景や花、動物など「山で見つける幸せ」をぎゅっとまとめました。お散歩気分でふらりと出かけたくなるような山から、いつかはチャレンジしてみたい山まで、さまぎまな場所を紹介しています。山が大好きな人も、ちょっとだけ興味があるという人も "MY HAPPY MOUNTAIN" がきっと見つかるはず。」と書いています。
この文章を読んだだけで、そうだそうだ、と思いました。読んでみると、かつて登ったことのある山もありましたし、これから登ってみたいと思っていた山もありました。
しかも表紙の写真は、かつて登ったことのある屋久島の宮之浦岳の登山道で、なんとも懐かしく思い出しました。そのときは、ヤクシマシャクナゲは10年に1度ぐらいしか満開に咲かないので、今年来なければあと10年はみられないぞ、という言葉に誘われて行きました。
あのときは、本当に山一面がヤクシマシャクナゲの花で埋まっていました。しかも、低いところは葉が大きなヤクシマシャクナゲで、登るにしたがって葉がコンパクトになり、裏毛も厚くなるを確認しながら歩きました。
やはり、百聞は一見に如かず、です。
そういえば、北海道の大雪山もそのような話しから行きましたし、福島県の安達太良産もそうでした。でも、北海道の礼文島は、学生のころに行ったので、ただ歩くだけで、植物を観察するというようなことはまだしていませんでした。
だから、この本を見ながら、もう1度行ってみたいと思うところがいくつかありました。
それと、この本には写真や道案内だけでなく、技術レベルと体力レベルが☆で示され、自分の山の経験や体力にあわせてチャレンジできるようになっています。
この年になると、やはり気になるのは体力です。登ってみたいところと、この体力のすりあわせで、できるかできないかを決めるしかありません。やはり、若いときのようなむちゃはできませんし、それで他の人に迷惑を掛けたくもありません。
下に抜き書きしたのは、ハッピー登山の心得としての5箇条のひとつで、「見直そう、自分の体力、技術力」です。
その他は、「余裕をもとう、時間とお金」、「山の中、元気に楽しく、気持ちよく」、「パックより、大事なことは、パッキング」、「お出かけは、ひと声かけて、鍵かけて」です。
この書き方からすると、この本は高齢者で、やや女性向けの内容のような気がします。
(2016.11.29)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
HAPPY MOUNTAIN 山で見つける50の幸せ | 山と渓谷社 編 | 山と渓谷社 | 2016年8月25日 | 9784635241151 |
☆ Extract passages ☆
行きたい山があるとき、まず考えたいのは「自分の力で登って帰ってこられるか」ということ。山には迷いやすい道、難所、天候の急変などあらゆる危険が潜んでいます。さらに高山は空気が薄く、体調も変わりやすいので注意。たとえば「夏に富士山に登りたい」という目標があるのなら、まずは低山に登り、経験を積みましょう。
(山と渓谷社 編 『HAPPY MOUNTAIN 山で見つける50の幸せ』より)
No.1307 『人は皮膚から癒やされる』
著者は山口創さんで、創と書いて「はじめ」と読むそうです。肩書きは桜美林大学教授で、臨床発達心理士、研究はスキンシップケアの鉱化やオキシトンについてだそうです。
つまり、この本はその研究の成果ということです。たしかにスキンシップは子育てのときや、今現在孫たちと暮らしていて、とても大事なことだと思いますが、ではなぜに、と問われると答えようがありませんでした。でも、この本を読むと、その問いに対する一つの回答の道筋が見えてくるような気がしました。
たとえば、「米国の心理学者サイモン・シュナルたちは、実験参加者を傾斜のある坂のふもとに連れていき、その坂の角度について推測してもらった。面白いことに、友人と一緒に推測した人は一人で推測した人に比べて、傾斜の角度を「緩い」と判断した。さらに友人による傾斜の緩和効果は友人関係が親密であるほど大きかった。つまり、物理的にはまったく同じ傾斜の坂でも、親しい人がそばにいるだけで、それほど険しく感じなくなるわけだ。これと同じ現象は、「駅までの道のりの判断」、「重い荷物を背負って上る階段の高さ
の判断」、そして「痛みに耐えられる程度」などについても起こり、親しい人が寄りそっていてくれるだけで、負担が軽く感じられることがわかっている。」のだといいます。
つまり、いっしょにいるだけで、安心感があるということです。しかも、その親密度の違いによって、それも変化するというのも、なんとなく納得できます。
そういえば、スキンシップそのものも長い進化の過程で獲得してきたそうです。その持つ意味についても、「生まれたばかりの赤ん坊の体温が低下しないように、養育者が触れて保温することだった。もともとスキンシップは生命を維持するために必要だったのだ。一方でそのように温かい身体で触れられることは、情動レベルでは赤ん坊にとって、養育者に守られて安心できる快の体験でもあった。抱かれるたびに安心することを幾度となく繰り返す経験をした結果、それは不安や恐怖、ストレスなどの不快な心を癒す行為と結びついていった。さらにそこから発展して、触れて安心させてくれる人に特別な愛情の絆である愛着関係を築いて、その関係を強め、そういう人を信頼するようになった。これが認知レベルである。」という具合に、階層構造をなしているといいます。
この本では、それをピラミッドのような図で説明していますが、底辺を身体レベル、真ん中を情動レベル、頂点を認知レベルとしています。
よく、図にするとわかりやすいといいますが、たしかにそうです。ふれ合い効果にも階層のレベルがあるわけです。
下に抜き書きしたのは、西欧流の個人主義と日本の間人主義についてです。おそらく間人主義という言葉は初めて聞く方もおられるかもしれませんが、読むとなるほどと思います。最近の若者の考え方のちぐはぐさが、これでなんとなく見えるような気がしました。
(2016.11.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人は皮膚から癒やされる | 山口 創 | 草思社 | 2016年7月27日 | 9784794222145 |
☆ Extract passages ☆
西欧の文化は、すべてを個人の力と責任で成し遂げることに価値を置くものであり、それには自己を律する強い自我が必要である。このように西洋の「個人主義」では、人に依存するよりも個々人が独立して社会を生き抜くことに価値を置く。……
それに対して日本人は、自己を他から独立した「個人」ではなく、「間人」として捉えている。自分を、人と人との「間柄」に位置づけられた相対的な存在であると感じ、社会生活を自分一人の力で営むのは不可能だと感じている。自立ではなく、相互依存こそ人間の本態だという価値観なのだ。この相互に信頼し助け合う価値観こそが「問人主義」なのだ。これは、対人関係を自己の生存のための手投として捉える「個人主義」とは、対照的な価値観だろう。
(山口 創 著 『人は皮膚から癒やされる』より)
No.1306 『脳はあきらめない!』
だいぶ前の話で覚えているのは、脳は小さな子どもの時にほぼ成長し、後はどんどんとダメになっていくということでした。つまり、先細りだということで、なんか夢のない話しだと思いました。しかも、子どもの時といわれても、それを意識しているのはほとんどいないわけで、それでは困るとも思いました。
ところがその後、脳は死ぬまである部分は成長するという話しを読み、このほうがなんとなく安心できると感じました。
ところがこの本の題名は、脳はあきらめないですから、もっと先に希望が持てるということになります。これは読まなければと思いました。
それと、気になるのは遺伝のことです。辺りを見渡すと、頭の良い親の子は、なんとなく頭の良い子が多いですし、脳もやはり遺伝的な要素が大きいのかな、と思います。この本では、「脳の性能、機能の半分以上は遺伝に影響されると言われています。ただ、その領域によって遺伝の影響を受ける程度が違うということがわかっています。脳は、頭の後ろにある後頭葉から、だんだん前に向かって発達していきます。後頭葉から頭頂菓、側頭葉と発達し、最後が前頭葉といった具合です。その中で、比較的遺伝の影響を受けやすいのが後頭葉。「ものを見る」働きを持っている部分で、生まれて数か月から1、2年で発達し、年をとっても最後の最後まで機能が保たれるところです。反対に、人間らしさをつかさどる前頭葉では、遺伝的要因は後頭葉に比べると少ないと言われています。前頭葉は、高次認知機能をつかさどる領域で、コミュニケーションをしたり、深く物事を考えたりといった働きをしています。この前頭葉が、遺伝的要因だけでなく、後天的なものが非常に影響する部分というわけです。」と書いてありました。
だとすれば、少し安心しますが、それでも遺伝的な部分が多いと知り、ちょっと複雑です。
おもしろいと思ったのは、最初のほうに書かれていた「身なりがきちんとしている方の脳は、実際には70代の方でも50歳から60歳の脳にしか見えないほど若々しい。逆に身なりがよれっとしていたり、全然気を使っていなかったりする方だと同じ70歳でも、脳の萎縮の進行が見られます。だらしなかったり、身なりが老け込んでいる人は、脳も老け込んでいます。お酒落な方、言葉がしっかりしている方の脳は実際に若いです。身なりに頭を働かせられるから脳が健全なのか、その道なのか。因果関係はまだわかりませんが、相関があるのは確かです。同年代でも、驚くほど脳画像に差が出るのです。」ということで、これならすぐに明日からでもできると思いました。
やはり、気の持ち方ひとつで、脳もあきらめることはないと思いました。
下に抜き書きしたのは、脳にとって一番よいことは知的好奇心だということだそうで、たしかに現実でもそのように感じるときがあります。ぜひお読みいただきたいと思います。
(2016.11.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
脳はあきらめない!(幻冬舎新書) | 瀧 靖之 | 幻冬舎 | 2016年7月30日 | 9784344984240 |
☆ Extract passages ☆
人が生きていくうえで一番重要なのは「知的好奇心」だと思っています。
脳にとって最高の栄養素、それこそが「知的好奇心」。何かを「知りたい」「見たい」「聞きたい」「やってみたい」といった具合に、ワクワクしている状態が脳の健康にはとても効き目があり、良いことなのです。
ワクワクすることがなぜ、脳に良いのか。
脳には「扁桃体」と呼ばれる、アーモンド形の直径1センチほどの小さな領域があります。見る、聞く、喚ぐ、味わう、触るといった五感で得た情報が扁桃体に伝わると、好き・嫌い、心地よい・そうでもない、といったさまざまな感情に仕分けされていきます。この仕分けの際、「うれしい」「楽しい」「美味しい」といったことを感じると、扁桃体は報酬系という神経器官に指令を出し、神経伝達物質を放出させます。
この報酬系の神経伝達物質がドーパミンです。意欲を感じたり作ったり、心地よいという気持ちや達成感などを生み出すものです。
(瀧 靖之 著 『脳はあきらめない!』より)
No.1305 『花と樹木と日本人』
このような題名の本を読んだことがありそうだと思い、発行日を見たら、今年の9月26日でした。では、まだ読んでいないと思い、読むことにしました。
このような本は、読書週間にでもと思っていたのですが、そのときにはなぜか忙しく、落ち着いて時間がなかったので、手元にあり簡単に読み切れるものを読みました。
でも、早く読みたいと思ってたら、例大祭の前後になってしまい、時間の隙を見て読み進めました。
著者は、1937年に岡山県で生まれ、1956〜93年まで、大阪営林局におつとめだったそうで、いわば実務派のようです。だからなのか、読んでいても自分で実際に見たことのある木の話しや実務的な経験がなければわからないような話しなどもあり、とても楽しく読むことができました。
題名のわりには、取りあげている樹木は少なく、ウメ、サクラ、スギ、マツ、ヤナギ、ツバキ、カエデとモミジ、フジの8種です。でも、だからこそ、丁寧に1種ずつくわしく書いています。
たとえば、サクラの染井吉野という品種についてだけでも、「明治34年(1901)に松村任三がプルヌス・エドエンシス(Prunus yedoensis)との学名を付けてから、学会でその素性の探索がはじまった。当時は伊豆大島が原産地で、染井の植木屋が持ち帰り、吉野桜としてこれを売りさばいたと曝されていたが、三好学・牧野富太郎など何人も大島で探索したものの自生を見つけることが出来なかった。大正元年(1912)に、朝鮮半島南方の済州島に自生するとの報告があった。竹中要は、昭和26年(1951)から、交雑試験をはじめ大島桜を母とし、江戸彼岸を父とする雑種であることを突き止めた。そして伊豆半島で自然交配により生まれたと結論付けた。ところが元筑波大学農林学系教授の岩崎文雄は、竹中の自然交配説を否定し、江戸染井の植木屋の四代目伊藤伊兵衛政武が作りだしたと1993年に発表した。小川和佑は、江戸末期に川島権兵衛が創出したとの説を出した。これにより、再び竹中の研究以前の「江戸時代末期に染井の植木屋が作った」ことに戻ったのである。」とその素性の探索の模様を描いています。
たしかに、最初に言われていた染井の植木屋が作ったと戻ってはきたのですが、その間のいきさつがわかり、とても興味深く読みました。
下に抜き書きしたのは、吉野山のサクラがなぜ今のように全山サクラに埋め尽くされるようになったのかについて書いています。もちろん、修験道の霊木だからということもありますが、サクラ苗を売り、それを子どもたちが植えていたという話しは初めて聞きました。
平成15年4月に、西国33観音霊場巡りに出かけたおり、この吉野山のサクラを見に行ったことがあります。それは、たまたま前日に奈良に泊まっていて、その夜のニュースで、明日は天気もよく、吉野山のサクラが一番の見頃を迎えというのを聞いて、行ったのです。ですから、たまたまでしたが、今でもときどき思い出すほど、全山サクラづくしでした。
(2016.11.21)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
花と樹木と日本人 | 有岡利幸 | 八坂書房 | 2016年9月26日 | 9784896942262 |
☆ Extract passages ☆
天正11年(1583)2月にここを訪れた宇野主水の日記からは、吉野山の山口から奥の果てまで桜樹で埋め尽くされていた様子がわかる。その理由を主水は「ワカ木ノ花ヲ毎年ウフル事ナガカリシナリ」と記している。人びとは願望成就のため、数えきれないほどの数の桜樹を植えこんでいたのである。太閤となった豊臣秀吉は、青野山で花見を挙行し、そのお礼として桜樹一万本を金峯山寺に寄進している。
江戸時代には、公卿の飛鳥井雅章も明暦4年(1658)に来山した記念に桜樹を植えている。このころは桜見物にくる庶民が増加し、地元の人たちはこの人たちに蔵王権現に捧げる神木として桜苗を売り、客も吉野山に来た記念にと桜苗を山内に植える風習が出来上がっていた。貝原益軒も、吉野山への道筋では脇道でも本道でも子供たちが桜苗を売っており、往来の人はこれを買い子供に植えさせて通ると、旅行記に記している。
(有岡利幸 著 『花と樹木と日本人』より)
No.1304 『鳥獣害』
たしかに、私の住む地域でも鳥獣害が深刻で、わが家にも畑があり、楽しみながら野菜を作っていましたが、今はやめています。野生のサルが晩秋になり山から下りてくるのが、いつも定住しているようになり、最初はトウモロコシなどしか食べなかったのですが、この頃ではジャガイモやトマト、ダイコンまで、ほとんどの野菜を食べるようになってきました。食べないのは、ピーマンやトウガラシなどだけです。
この本のなかでも、滋賀県湖北部の西浅井町での取り組みが紹介されていましたが、「サルの嫌いな作物一覧表」を作ったそうです。その中にはトウガラシ、コンニャクイモ、クワイ、ゴボウ、サトイモ、ピーマン、シュンギク、ウコン、葉ダイコン、ショウガなどが掲載されているそうですが、だからといって、これだけを作って食べていけるかというと、そうではないように思います。
やはり、適度な調整が必要だと思います。
ただ、日本人には動物を殺したり、植物をむやみに痛めつけたりしない素朴な気持ちがどこかにあります。この本にも、「日本には昔から全国いたるところに牛や馬、クジラやイルカ、犬や猫、鳥や虫、さらには針や衣服にいたるまで、供養のための塔や儀式があり、日常的な光景となっている。仏教思想に由来する供養塔の広範な存在は、人と自然界の身近な繋がりを示しているといえよう。クジラを捕獲する地域での供養も多いが、それはクジラへの感謝の意を捧げることと理解されているという(『日本人の宗教と動物観』)。そして今もなお日常的なこととして、引き継がれているのである。そこには、生きとし生けるものどうしの、広範で親密な感謝、畏敬、祈りの世界が広がっている。」と書かれています。
私が住むここ米沢市内にも草木供養塔があり、現在江戸時代に建立された17基が市の有形民俗文化財に指定されています。そして、そのお祭りもいくつかの塔で今も行われています。
この本を読んでビックリしたのは、すでにお米と魚の食事から、パンと肉の食事の割合が高いのだそうです。「2011年には、家計支出金額(2人以上世帯)が、米27,435円、パン28,321円となり、パンの消費額が米のそれを超えた。2000年来和食の主座を占めてきた米は、その地位を退いたのである。また米と並んで、日本の伝統食を彩ってきた魚も、量的には2008年に肉が魚を上まわった。また、2013年に魚が78,739円、肉が79,327円となり、肉の消費額が上まわった(総務省「家計調査統計」2014年)。」ということです。これでは、もう「パンと肉」の国へと、本質的な転換をしたといっても言い過ぎではないような気がします。
しかも、お米の消費量も、一番食べていたときには1人当たり年間140Kg弱だったそうですが、現在では60Kg弱ですから、それだけでも半分以下に落ち込んでしまったといえます。これでは、いくら減反をしても間に合わないわけです。どちらが先かというような問題ではなく、これなども抜本的な考え方を変えていかないことには、鳥獣害と同じように、大変なことになってしまうかもしれません。
下に抜き書きしたのは、「日本農業新聞」の2016年4月17日に掲載されていたものだそうで、日本の大学教授で、アメリカ人のジェフ・バーグランド氏のお話しです。たしかに、日本人の「いただきます」という言葉には、日本人の心や文化が色濃く残っているものだと改めて感じました。
(2016.11.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
鳥獣害(岩波新書) | 祖田 修 | 岩波書店 | 2016年8月19日 | 9784004316183 |
☆ Extract passages ☆
「米国では、食事の前にお祈りをして、神様に感謝します。日本の「いただきます」は、大地や、お天道さまや、雨や、農家の人、料理を作ってくれた人への感謝、そして動植物の命を頂くことへの感謝の気持ちですね。とても深くて、そして分かりやすい。初めて聞いた時、人と食べ物のつながりを感じました。そのころ、米国では、「You are what you eat.(あなたの食べるものがあなたになる)」がはやっていたので、日本の「いただきます」が、とても心に響いたのを覚えています」(『日本農業新聞』二〇一六年四月一七日)。
(祖田 修 著 『鳥獣害』より)
No.1303 『サックス先生、最後の言葉』
この本の著者の名前も経歴も知らなかったのですが、この最後の言葉という題名に興味を覚えました。
人は、最後の最後に、どんなことを考えるのだろうかと思うからです。しかも、文筆家なら、それを上手に表現できるに違いないと思いました。ところが、読んでいてわかったのですが、神経科医でした。だからこそ、自分のことを淡々と語ることができたのかもしれません。
彼の経歴は、1933年にロンドンで生まれ、オックスフォード大学クイーンズ・カレッジで学んだ。サンフランシスコのマウント・ザイオン病院とUCLAで医学研修を終えたあと、
ニューヨークに移り、そこでほどなく出会った患者たちのことを、著書『レナードの朝』に書いている。サックス医師はほぼ50年間、神経科医として働き、『妻を帽子とまちがえた男』、『音楽嗜好症』、『見てしまう人びと』など、自分の患者の奇妙な神経学的苦境および疾患について、多くの本を書いた。≪ニューヨーク・タイムズ≫は彼のことを「医学界の
桂冠詩人」と呼び、彼は長年のあいだに、グッゲンハイム財団、全米科学財団、アメリカ文学芸術アカデミー、英国内科医師会などから、さまざまな賞を受賞している。回想銀『道程−オリヴァー・サックス自伝−』は彼の死(2015年8月30日)の直前に出版された。」と最後のところに書かれていました。
この本は67ページで、まさに扉のところに「私はいま死ぬことと向き合っているが、まだ生きることを終えてはいない。」という言葉通りに、自分の身体をいたわりながらかいていることが伝わってくるようです。
そして、「怖くないふりをすることはできない。しかし、いちばん強く感じるのは感謝だ。私は愛し、愛され、たくさんもらい、少しお返しをした。読み、旅し、考え、書いた。世人と交わり、とくに作家や読者と交わった。」といいます。
たしかに、怖くないという人はいないでしょうが、自分の人生に満足して生を全うする人も少ないのではないでしょうか。
そういう意味では、感謝こそすれ、悔いなど少しもなさそうです。
そして、「そもそもほかの人と同じような人間などいないのだ。人が死んだとき、誰もその人に取って代わることはできない。埋められない穴が残る。なぜなら、ほかの誰でもないひとりの人であること、自分自身の道を見つけること、自分自身の人生を生きること、自分自身の死を迎えることば、あらゆる人間の運命――遺伝学的・神経学的運命――だからである。」と言い切るのは、長く精神科医として生きてきたからこそだと思います。
たしかに薄くてページ数も少ない本ですが、読んで良かったと思いました。この上の引用文が、とても心に残りました。歌の世界にも「世界に一つの花」というのがありますが、その死が「埋められない穴」だとすれば、私もいつまで生きることができるかわかりませんが、精一杯生きたいと思いました。
下に抜き書きしたのは、最後の作品となった「安息日」の最後の言葉として書かれたものです。
このエッセイが公表された2週間後の2015年8月30日に永眠したそうです。
(2016.11.14)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
サックス先生、最後の言葉 | オリヴァー・サックス 著、大田直子 訳 | 早川書房 | 2016年8月25日 | 9784152096319 |
☆ Extract passages ☆
そして癌のせいで弱り、息が切れ、かつてがっちりしていた筋肉も消え失せたいま、考えることが多くなっているのは、神の力や宗教についてではなく、充実した有意義な人生を送ること、そして自分自身の内に安らぎを感じることの意味についてである。ふと気づくと、いつの間にか安息日について考えている。それは休息の日であり、週の七日めだが、おそらく人生の七日めでもあり、仕事をやり遂げたと感じて、安らかな気持で休むことができる日である。
(オリヴァー・サックス 著、大田直子 訳 『サックス先生、最後の言葉』より)
No.1302 『「衣食足りて礼節を知る」は誤りか』
この本の題名を見たとき、たしかに今の時代のように衣食は足りたとしても、礼節を知るというところまでみんないくのかな、と思いました。そして、副題が「戦後のマナー・モラルから考える」とあり、興味を持ちました。
たしかに、私たちの小さいときには、温泉地ということもあり、お酒を飲んで大声を出したり、あるいは暴れたり、駐在所から警官が駆けつけることもありました。でも、最後は酒の上でのことだからと、なんとなく納めたような気がしました。とくに、消防団の宴会はすごく、私の家まで聞こえてきました。たまたま、他の地区の消防団と会えば、ときには喧嘩になることもありました。
そして、卒業して家で仕事をするようになると、地区の会議では、ほとんど時間通りに始まらなくて、1時間程度遅れることはザラでした。もういらいらして待つしかありませんでした。そこで、自分がその長になったときには、人が集まらなくても時間通りに会議を始めて、サッサとおわすことにしました。ひどいときには、会議が終わって、みんなが帰ってから来た人もいたと後から聞きました。それを何回か繰り返すと、いつの間にか、いつも定刻通りに始めるようになりました。
この本を読みながら、そのようなことも思い出し、とくにお酒などは、「元来、酒は味や香りを楽しむものではなく、もっぱら酔うために飲まれていました。宴会に招いた客を酔いつぶすことは、「成功」とさえ言われていたということです。かつては、相手を酔わせることこそがある種の「マナー」だったわけです。時代とともにそうした「マナー」は変化
していきますが、好き嫌いにかかわらず他人に酒をすすめることをよしとする文化、そして酔った人が起こした迷惑行為を許容するという文化はなかなか廃れることがありませんでした。」とあり、なるほどと納得しました。
たしかに酒を酌み交わすことによってお互いに打ち解け、人間関係が円滑になるということはありますが、それが度を超してしまうと、潤滑油ではなくなってしまいます。むしろ、害悪をもたらすことにもなります。
この本の中で取りあげられている説話の一つがとても気になりましたが、それは「むかしあるところで、大きな吊り鐘をつくつたが、それをどうしても吊り下げることができない。村の人は困ってしまった。その時、ひとりのこどもが、まず鐘にあわせて鐘楼〔鐘撞き堂〕をつくるがよいと教えた。鐘の龍頭〔吊り鐘をかけるための吊り手の部分〕を鐘楼の梁に吊り下げておいて、鐘の下の土を掘ってゆけば、おのずから鐘を吊り下げることができるというのである。なるほどと感心した村の人たちが、いわれた通りにやってみると、見事に鐘を吊り下げることができた。しかし、そんな利口なこどもは将来なにをしでかすかわからない、というので、村人はそのこどもを殺してしまった。(牧田茂『人生の歴史』1976年、91〜92ページ)」というものです。
これでは、新しいことも悪いことを改めることも、何もできません。そのようなことがまかり通っていたことに驚きさえ覚えます。ある意味、世間という言葉のなかにこのような意識が少しは残っていると感じることもあります。
下に抜き書きしたのは、昔の日本人によく見られた「旅の恥はかき捨て」についてです。
よく、最近では中国人の旅行マナーの悪さがネットなどでよく語られていますが、実は、日本人だって30年前は、ほとんど似たような状態でした。とくに、この本を読みながら、そうそう、そうでした、と思い出すのがたくさんありました。
だから、今どきの若者は、なんてことはあまり大きな顔をして言えないお年の方も多いのではないかと思います。
ぜひ、機会があればこの本をお読みいただき、本当に「衣食足りて礼節を知る」って本当なのかと自分でも考えていただきたいものです。
(2016.11.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「衣食足りて礼節を知る」は誤りか | 大倉幸宏 | 新評論 | 2016年7月10日 | 9784794810427 |
☆ Extract passages ☆
村という「世間」のなかでは集団の秩序維持が重視され、なによりも平穏無事であることが求められていました。そこでは、秩序を乱す可能性のある要素、突出した存在は排除されていきます。好むと好まざるとにかかわらず、これが受け継がれてきた慣習であり、その慣習に異を唱えることも許されませんでした。村のなかで生きていくためには、これに従わざるを得なかったのです。
ただ一方で、秩序を守る必要性を感じない「世間」の外では、当然、周囲の人に対する同調志向はもたれません。「他人」に対して気遣いをする必要はないわけです。「世間」の規範が及ばない場所では、「手前勝手と横着、自分さえよければという態度、人に迷惑を与えて顧みないという所行」をしても制裁を加えられることはありません。
ここから、「旅の恥はかき捨て」という意識が表に出てきます。
(大倉幸宏 著 『「衣食足りて礼節を知る」は誤りか』より)
No.1301 『世界のトイレ』
「何度でも行きたい」とあるけれど、トイレは生理的欲求でもあるので、行かないわけにはいかないし、必ず使うのだから、気持ち良く使いたいという気持ちもあります。
初めて、あるホテルでハイテクトイレを使ったとき、こんなにも気持ちの良いことはない、とまで思ったので、自宅を改築したときには、当然これを設置しました。
そして、ときどき読んでいた本をそのまま持って、トイレをしながら読むこともありますが、この本はそのような場合に最適ではないかとさえ思いました。
しかも、この編集はロンリープラネットで、あの有名な旅行ガイドブックの出版社です。だから、このような世界のトイレを解説できるのだと思いました。しかも、このロンリープラネットというシリーズには、「南極」などもあり、まさに世界を網羅しています。本社はオーストラリアのメルボルンにあるそうで、これらのガイドブックなどのほかに、写真集や旅行用の会話集なども出版しているそうです。
この『世界のトイレ』も、どちらかというとガイドブックというよりは写真集に近いもので、見ているだけで楽しくなります。トイレの写真を見て楽しくなるなんて、と思う方もいるかもしれませんが、実際に見てみるとこの気持ちがわかります。
まず、一番に行ってみたいのは、カリブ海のブラセンシア沖に浮かぶ小さな島で、この本では「トイレの島」と名付けていますが、まさにそのような感じです。ヤシの木が10本ほどといくつかのベンチ、そこに真っ白なトイレがあるだけの島です。解説に、「トイレットペーパーが切れてしまったら、近くには買いにいける店がない」と書かれていますが、まさにその通りです。
次に行ってみたいのは、インドのラダックにあるティクセ僧院のトイレで、その窓から見る風景は雄大な広がりを持っています。ここで修行僧たちは「空観」得るために修行をしているそうですが、トイレにいるときも修行しているかのようです。
三番目は、アメリカワシントン州のシュクサン山のサルファイド氷河ベースキャンプのトイレで、囲いも何もないトイレです。でも、その真正面にはノース・カスケード国立公園の山々がそびえています。ここは、座っているだけでも気持ち良さそうです。
ちなみに日本のトイレは、東京のジョイポリスの「トイレッツ」で、おしっこを的にあてて量や勢いを計測し、そのデータを直前の使用者と競うことができるというゲーム感覚のハイテクトイレでした。日本のハイテクトイレは、世界でも珍しいようで、2ページにわたって掲載されていました。
下に抜き書きしたのは、最初の「究極のトイレガイドをお届けいたします」というところに書かれていたもので、なるほどと思いました。そして、この本を読み終えて、さらに納得しました。
トイレには、お国柄があり、国民性があります。
これからは、もっともっとトイレにも関心をもたなければと思わせてくれる1冊でした。
(2016.11.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世界のトイレ | ロンリー・プラネット 編、中島由華 訳 | 河出書房新社 | 2016年9月30日 | 9784309277196 |
☆ Extract passages ☆
しょっちゅう旅行に行く人ならご存知のように、トイレを見ればその土地のいろいろなことがわかってくる。手洗い、便所、かわや、御不浄、化粧室、WC、……。呼び名はどうあれ、トイレはその土地の隠れた本質を覗きみることのできる窓だ。その窓は、不透明な場合もあるけれど、たいていは大きく開け放たれている。
(ロンリー・プラネット 編 『世界のトイレ』より)
No.1300 『5億年の記憶 植物化石』
72ページで、しかも変形本で、カラー写真がテカテカとコーティングされていて、その写真も今まで見たことのないようなものばかりで、それが目を引いたのかもしれません。
この本の初版は2010年3月15日で、これは第2初版本です。そういえば、福島県立博物館にもこのような植物化石がたくさん展示されていましたし、上野の東京国立科学博物館にも展示があり、たまたまアズマシャクナゲの植物化石があり、何枚も写真を撮ってきた記憶があります。
でも、この本のように、圧縮化石や印象化石の区別をして、さらに鉱化化石なども写真で掲載しているのは初めて見ました。そして、これらの化石から見えてくる進化のドラマを描いているのが「化石が語る進化のドラマ」です。これらは章立てもなく、最後に「古生物学者・三木茂の仕事」で終わっています。
ちなみに、最初は「植物化石の世界へ」から始まっています。ここで植物化石についての基礎知識を解説しています。
そうそう、「化石が語る進化のドラマ」のあとに西田治文氏の「悠久の植物史に魅せられて」という文章も入っています。
この副題ともいえる「5億年の記憶」というのは、地球が誕生したのが46億年前といわれていますから、植物の営みが生まれたのが5億年前です。だから、「41億年ものあいだ緑がなかった地上の環境を豊かにし、動物たちと共生しながら進化を遂げてきた。」と書いてあるのもうなづけます。
そして、「現生している植物の直接の祖先が出始めるのが、新生代新第三紀中新世のころ、およそ2300万年前である。人類が誕生したのがおよそ700万年前だから、そのはるか昔から現生植物の祖先は子孫をつなげてきたことになる。現在、もっとも繁栄しているのが被子植物。飛躍的な繁殖力を武器に生育地を拡大し、多くの種を生み出し、その仲間は25〜
30万種といわれる。」といわれています。
そう考えれば、植物の営々とした営みがあったからこそ、私たち人間も他の動物たちも生きていけるわけです。
その長い歴史の一コマを見せてくれるのが、これら植物化石というわけです。
下に抜き書きしたのは、三木博士がなぜメタセコイアを発見することができたのかという理由です。
まさに、化石から「生きている化石」になることができたスゴイ発見のいきさつです。ぜひお読みいただきたいと思います。
(2016.11.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
5億年の記憶 植物化石 | 塚越 実 監修 | LIXILギャラリー | 2016年8月10日 | 9784864807135 |
☆ Extract passages ☆
その理由は、それまでセコイア属とされていた球果化石、そしてヌマスギ属とされていた小枝化石は、同一の植物と考えたのです。バラバラに産出するために、異なる植物と考えられていた球果と小枝を同じ植物と認定し、化石であるにもかかわらず、それらが落葉樹であることを示し、その本性を明らかにしました。そのために岐阜県土岐市や和歌山県橋本市などに分布する粘土層から何千もの圧縮化石を採集し、根拠となる標本を世界の植物化石研究者に示しました。
こうして、スギ科の新しい属であるメタセコイア属が設立されました。
(塚越 実 監修 『5億年の記憶 植物化石』より)
No.1299 『日本まじない食図鑑』
著者は「日本各地に残る、素朴な祈りと結びついた食べ物」をまじない食と定義しています。そして、それらを俯瞰すれば、「日本人が何を恐れ、何を願ってきたか」が見えてくるのではないかと考えた、と「はじめに」に書いてあります。
そして、その自問自答のなかから、神社で働きたいと思いつき、タウンページを見ながら、片っ端から神社に電話をかけて、巫女として働きたいと伝えたそうです。そのなかの数社から1度来てみてくださいという返事をいただき、アルバイトながらも巫女として神社で奉仕をすることになったそうです。
その行動力はすごいものです。現在は、後ろの著者略歴をみると、「旅ライター・旅エッセイスト」とあり、各種会員誌などに旅エッセーや食文化コラムなどを書いているそうです。
副題は「お守りを食べ、縁起を味わう」とあり、今でも各地にこのような縁起のよい食べ物とかまじない食のようなものがあるのではないかと思いながら、読むことにしました。
読み進めてみると、世の中には食べ物と縁起がつながったものがあることあること、いろいろと各地に伝わっています。キュウリやナスや大根を初め、鯛や鱈までいろんなものが厄落としになったり祈願のための供え物になったりしています。
この山形にもいろいろなまじない食といえそうなものがあり、たとえば小正月の行事のだんごさしやお祭りに振る舞う餅など、たくさんあります。むしろ、そうして昔から伝わっている食べ物があるから、季節感があるといっても過言ではなさそうです。
ニュースを見ていると、この日本はとても災害が多い国の1つです。だからこそ、このようなまじない食というものも多いのかもしれません。それのルーツを訪ねる旅、この本もそのような本だと思いました。しかも旅ライターですから、旅はお手の物、さらに写真も自分で撮られるようですから、それらの写真も添えられているので、その雰囲気がはっきりと伝わってきました。
下に抜き書きしたのは、うそつき豆腐のところに出てくるもので、これはこの豆腐を食べるとウソが帳消しになるというもので、誓文払いと関わりがあるそうです。
さらにこれらの風習が歳末大売り出しの起源にもなったというから驚きです。
(2016.11.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
日本まじない食図鑑 | 吉野りり花 | 青弓社 | 2016年9月12日 | 9784787220660 |
☆ Extract passages ☆
うそつき豆腐を食べる風習は、誓文払いと関わりがあるようだ。誓文払いとは京都の呉服屋から始まった風習で、商売のために嘘をついた商人が四条京極の官者殿(かじゃでん)に参拝し、一年分の嘘を帳消しにしてもらうというもの。このときに罪滅ぼしのために安売りをすることが、歳末大売り出しの起源にもなった。京都や大阪、博多など、誓文払い行事が祭りとして残っているところも多い。
(吉野りり花 著 『日本まじない食図鑑』より)
No.1298 『すごい駅!』
世の中には、鉄道ファンがいて、電車の写真を撮ったりするのを鉄ちゃんなどと呼んだりしているようです。
でも、駅を見ることを無常の楽しみにしている方がおられると知り、ちょっとビックリしました。読み進めていると、「駅舎ファン」という言葉があるようで、ファンというよりマニアだろうと思いました。著者の一人横見浩彦さんは、全駅下車達成者で、もう一人の著者牛山隆信さんは、秘境駅訪問家だそうです。
この肩書きは、この本に書いてあったので、おそらくそう呼んで欲しいという願望も入っているようです。
ここにはそのような駅が100選ばれているそうですが、そのなかでも珍しいと思ったのが、駅が間近に2つあるそうで、1つは「津軽二股駅」で、もう1つは「津軽今別駅」だそうです。というのは、「津軽二股駅」はJR東日本の駅舎、「津軽今別駅」はJR北海道の駅舎です。つまり別会社なので、駅も2つあるということなんだそうです。この本には、「階段を上れば、すぐそこは別の駅」と書いてありますが、歩くと1分ほどかかるそうです。
すごいといえば、おそらく風景もそのなかに入りますが、駅からの眺めが素晴らしいのは篠ノ井線の「姥捨駅」で、ここはスイッチバックの駅でもあるので、いろいろと楽しめるのだそうです。駅名がちょっととおもうのですが、近くに姥捨山があり、小説の『楢山節考』にも描かれてあり、それからきているようです。しかも駅舎も明治33年に建てられたもので、平成22年にリニューアル工事が行われていますから、ちょっと行ってみたい駅ではあります。
また大井川鐵道井川線の「奥大井湖上駅」は、その名の通り長い鉄橋の間の湖に突き出した半島のところにつくられた駅で、まさに陸の孤島のような駅舎だそうです。もちろん、どこからも車でも近づけないそうで、その鉄橋のわきに歩道があるそうです。
世の中には、ちょっと考えられないようなところにも駅があるようです。
ただ、ちょっと残念なのは、それらの駅の写真がたくさん載ってはいるのですが、すべてモノクロです。今の時代ですから、これがカラーだともっとよかったのではないかと思います。それでも、表紙の写真はカラーでしたが、それこそ駅だかなんだかわからないものですが、そこに「秘境駅、絶景駅、消えた駅」と書かれていて、すごい臨場感があります。
ここから一番近い駅で、この本に取りあげられているのは、奥羽本線の峠駅です。しかも、ここの「峠の力餅」は絶品と評価されていて、ここで買ってきたのを食べたばかりなので、とても納得しました。
この本のなかで、小さい駅でも残っているのは、道路が整備されていないので需要があるからで、いい道ができると路線もなくなる可能性は大だといいます。
つまり、道路網が整備され、それにつれて地方の鉄道路線がなくなってきているという現実がありそうです。
下に抜き書きしたのは、牛山隆信さんが「あとがき」に書いているもので、すごい駅がどんどんと消えていってるのだそうです。
だから、この本の中に出てくる駅も、すでになくなっているものや廃線になってそのまま駅舎だけが取り残されているところもあるといいます。やはり、それでは駅ではありません。
それらを見て歩く余裕は今のところありませんが、いつ興味がわき、見たくなるかもしれません。それまで、この本は本棚に残しておこうと思いました。
(2016.11.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
すごい駅!(文春文庫) | 横見浩彦・牛山隆信 | 文藝春秋 | 2016年8月10日 | 9784167906870 |
☆ Extract passages ☆
「すごい駅」は、未来永劫に安泰とは言い難い状況です。老朽化のために貴重な木造駅舎はどんどん数を減らし、利用者がいなくなると容赦なく廃駅にされてしまう。それだけに留まらず、自然災害を受けると復旧されることなく、そのまま廃線になってしまうケースも増えている。いわば最後の「さよなら列車」さえも運行されることなく、突然廃止される状況に何ともやるせない気持ちにさせられます。言い換えれば、私たちはいま、いつなくなってしまってもおかしくない状態の駅を、そのまま見過ごそうとしているのです。本当になくなってしまったら、写真や映像でしか見ることができません。
(横見浩彦・牛山隆信 著 『すごい駅!』より)
No.1297 『限界の正体』
この本は、体育の日から読み始め、その後、別な本を読んでいたので、やっと今日、読み終わりました。
アスリートの本というのは、自分がその素質がないのでとても興味がありましたが、ほんとうにおもしろかったです。まさに自分では経験できないことが、いろいろと書かれていました。そういう意味では、とても参考にもなります。
副題は「自分の見えない檻から抜け出す法」で、やはり、何度も限界に挑戦した著者だからこそ書けるような内容でした。
たとえば、限界とは思い込みだとして、1マイル4分の壁について「ロジャー・バニスターが1マイル4分を切ってから、1年のうちに、23人もの選手が1マイル4分の壁を破ったのです。これまで人類の限界ととらえられていた、1マイル4分とは、決して肉体的な限界ではありませんでした。一度、成功者を見たことで、この壁は破れないという思い込みが解除されたのでしょう。バニスターによって、限界が取り払われたのです。ここからわかるのは、1マイル4分の壁は、人の頭と心が決めたメンタルブロックであり、「できない、ダメだ、無理だ」という思い込みによって作り上げられた限界だったということです。」と書いていますが、これなどもアスリートだからこそわかることではないかと思います。
また、自分で無意識のうちにレッテルを貼り、自分で自分の行動に制限をかけてしまうといいますが、これなどもなるほどと思いました。たしかに、もう若くないからとか、そんなことは絶対にできないとか、自分にこだわればこだわるほど、そのレッテルから抜け出せなくなるような気がします。
この本を読んで、たしかに自分にもこのように考えることがあるかも、と反省しました。
また、成功体験による誤学習についても触れていて、1度でも大きな成功をしてしまうと、それがいつの間にか確固たるものとして定着してしまい、やはりそこから抜け出せなくなるといいます。その様子をラットの実験から描いていますが、「3分に1回、エサが出るしくみの檻の中に、ラットを用意します。するとラットは、最初にエサが出たときに行っていた行為と、エサが出ることを頭の中で勝手に結びつけてしまう。首を振っていたラットは「首を振ればエサが出る」と誤学習して首を振り続け、檻を噛んでいたラットは「檻を噛めばエサが出る」と誤学習して、噛み続けます。」と書いていて、たしかに人間にもこのような行動が見られると思いました。
下に抜き書きしたのは、身体の反応と脳との関係で、たとえば、右手を曲げようと意識したタイミングの3分の1秒前に脳が準備を始めているということから、意識するよりも動作の方が早いということがわかったそうです。つまり、笑顔なども、行動が先にあって、後付のように感情を決めているようなものだとしています。
だとすれば、「笑う門には福来たる」というのも、流れとしては正しいといえます。
(2016.10.31)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
限界の正体 | 為末 大 | SB Creative | 2016年8月2日 | 9784797385410 |
☆ Extract passages ☆
表情筋の研究で、割り箸を口にくわえて漫画を読むと、おもしろさが20%増したという実験結果があるそうです。
なぜ、おもしろさが増すのか。
それは、割り箸を口にくわえると口角が上がって、人間の脳がそれを笑顔と認識するからです。自分の顔が笑ったのだから、楽しいのだろうと脳が間違った判断をして、実際におもしろく感じてしまうのです。
この実験から、感情が行動を決めているのではなく、行動が感情を決めていることがうかがえます。楽しいから笑うのではなくて、笑うから(笑った表情をつくるから)楽しくなるわけです。
(為末 大 著 『限界の正体』より)
No.1296 『福を招く お守り菓子』
今年の読書週間は、10月27日から11月9日までの文化の日を中心にした2週間です。そして、一般公募から選ばれた今年の標語は、「いざ、読書。」だそうです。
なんか、ちょっと気負い立ったような、さあ読むぞという気迫みたいなものが感じられます。
でも、この本は、いつから今年の読書週間は始まるのかな、と考えているうちに読み終わり、次の本こそ、「いざ、読書。」という気持ちでいろいろな本を見比べながら選ぼうと思っています。
さて、この本ですが、お菓子好きなので、各地を旅行すると必ずその土地の銘菓といわれるものを買ってくるのですが、ここでいうお守り菓子みたいなものも見つけることがあります。たとえば、左沢の「穴子煎餅」で、稲わらで穴の空いた煎餅を結んで売っていました。また、今年のひな祭りのときには、庄内のお菓子屋さんから、鯛やタケノコの形をした祝い菓子を通販でとって食べました。そういえば、新庄の「くぢら餅」も有名です。
読んでみると、けっこう身近にもこのようなお守り菓子があることに気づかされました。小正月につり下げる「フナ煎餅」などもそうです。
著者は、「意外なことに、南東北でいえば、製菓業でない方が煎餅をつくつていることが多いようです。会津では農家、山形では造園業の方が、冬の仕事として餅を抱き、焼いているようです。でも残念ながらつくるお宅が年々減っています。東北地方は、自然環境もきびしいため、豊穣への願いは強く、神さまにうんとアピールしなくてはなりませんから、過剰なほどの稔りの姿を念入りにつくります。粟も稗も蕎麦も、あれもこれも、どうぞどーぞ、お願いいたしますという気持ちにあふれています。」と書いています。
このフナ煎餅は、最近ではスーパーなどで買ってくるので、どこで製造しているのかはわかりませんが、小正月近くになると、お店に並ぶようです。
下に抜き書きしたのは、子どもの日に食べる柏餅が、なぜいつ頃からこの日に食べられるようになったのかと思っていた疑問に、当たらずとも遠からずのような答えが書いてあったからです。
やはり、由来というのは、昔の話しが多いから、今では推定するしかないので、このような答えになってしまうのではないかと思いました。
(2016.10.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
福を招く お守り菓子 | 溝口政子+中山圭子 | 講談社 | 2011年11月21日 | 9784062172776 |
☆ Extract passages ☆
ちなみに柏餅は、江戸時代から端午の節供菓子の定番になっていたもの。柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから子孫繁栄の意味を持つため、柏餅もこの日にふさわしかったのでしょう。
(溝口政子+中山圭子 著 『福を招く お守り菓子』より)
No.1295 『となりの生物多様性』
副題は「医・食・住からベンチャーまで」で、このベンチャーに、山形県内の鶴岡市を拠点にしているベンチャー企業「Spiber社」が取りあげられていたのは強く印象に残りました。
この企業は2007年に設立されたのですが、クモ糸の研究では世界トップレベルで、2013年5月には世界で初めて人工合成クモ糸の量産化に成功しました。そして、現在では金属やガラス、ナイロン、ポリエステルなどに代わる新世代バイオ素材の研究も進めているそうです。
この本は、「はじめに」でも書いていますが、生物多様性というキーワードから、私たちの生活や社会を見つめ直し、その将来を考えることを意図しているそうです。だからなのか、この生物多様性という、なんとなくわかったようなわからないようなものを、具体的にわかりやすい事柄を提示しながら、書き進めているように感じました。
たしかに、生物が多くいるということは大切なことだとわかるのですが、この生物多様性という概念もいささかわかりにくいと思っていました。
しかし、この本では、たとえば、「ソバにはいろんな昆虫が蜜を求めて飛来する。茨城県での調査によれば、百種近い昆虫が記録されている。」といい、著者の経験からも、ソバ畑に行くと、確かにミツバチやらハエやらがたくさん飛んでいると書いています。やはり、研究ではこのような結果が出ているというだけでなく、自分でもこのような経験をしているといわれれば、さらに信憑性が上がるような気がします。
また、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智さんの紹介で、「長年にわたり土壌中のさまざまな微生物を探索し、それが生み出す物質から新たな医薬品を次々に発見した」とありましたが、では、なぜ微生物が病原菌を殺す物質やガンに効く物質をもっているのだろうか、と思いました。
この本では、「その理由は簡単で、微生物も微生物同士でし烈な生存競争をしているからである。時に私たちに致命的な結末をもたらす恐ろしい病原菌といえども、万能ではないはずだ。微生物同士の争いでは、むしろ弱者かもしれない。微生物は進化の長い歴史を通して、他の種類の微生物の増殖を抑え、殺す物質を獲得してきたに違いない。私たち高等生物のように、武器を持ったりできないのであれば、分泌物を使って相手を撃退する術を獲得してきても不思議はない。なにしろ彼らは、すさまじい速度で増殖し、世代を繰り返すことができる。だから、私たちの想像をはるかに超える試行錯誤の末に、思いもしない方法で相手を撃退する物質を獲得してきたのだろう。」と書いています。
たしかに、人間社会でも、あの人には強いが、あの人には弱いということもありますし、あの猛毒のハブでさえ、マングースにはかなわないそうです。
下に抜き書きしたのは、生物多様性が損なわれてくるのは困ることだが、それと同じように「経験の絶滅」ということも大きな問題だと提起しています。とくに、今の子どもたちの場合は大きな問題だと思います。
毎年、近くの小学生たちに野外体験学習をしていますが、自然豊かな環境にいながらも、なかなか親しむ機会がないのではないかと感じます。その機会がなければ、自然そのものがますます遠い存在になり、どうでもよくなるのではないかと危惧しています。
(2016.10.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
となりの生物多様性 | 宮下 直 | 工作舎 | 2016年8月10日 | 9784875024750 |
☆ Extract passages ☆
最近、自然体験や生き物体験の消失が問題になっている。なにが問題かというと、都市生活で自然との触れ合いがなくなると、自然や生物を守ろうという動機が薄れ、目先の利益や利便性にだけ目が向いてしまうということである。絶滅の危機に瀕している生物がたくさんいることは周知のとおりだが、人間の生き物体験も「絶滅危倶」になっていて、それが生物の減少を加速させる悪循環を招いている可能性がある。
この悪循環に「経験の絶滅」という言葉をつけて警鐘を鳴らしたのは、アメリカのロバート・パイルという蝶の愛好家である。彼は、「相手のことを知らない人は相手を気にかけない、一方で、相手を気にかければ相手を守りたいと思うはずだ」という名言を残している。
(宮下 直 著 『となりの生物多様性』より)
No.1294 『植物は命がけ』
この本は文庫本なので、いつも手元に置きながら、暇を見つけては読むということで、いつの間にか読み終えていました。
だから、いつから読み始めて、いつまでに読んだか定かではありません。今年の読書週間の標語は、「いざ、読書。」だそうですが、「なんとなく読書」だっていいと思います。そして、なんとなく読み終えて、それらを抜き書きしながら、その印象をまとめてしまうということもいいのではないかと思っています。
この本は、もともとは2000年9月に中公新書『つぼみたちの生涯 花とキノコの不思議なしくみ』を加筆・改題して『植物は命がけ』としたもので、副題は「花とキノコの不思議なしくみ」として残されたようです。
最初のほうで、なぜ花は春と秋に咲くのが多いのだろうかという質問に、「それは、植物たちにとって、夏の暑さ、冬の寒さが都合の悪い環境だからです。冬の寒さを種子で過ごすためには、秋に花が咲き、夏の暑さを種子で過ごすためには、春に花が咲かねばなりません。だから、草花には、秋と春に花を咲かせるものが多いのです。」と答えていて、なるほどと思いました。
著者は、何気ない植物たちの動きを謎解きしていて、それがこの本の楽しさなのではないかと思います。
たとえば、アサガオはどこで暗闇を感じているのかを知るために、「からだのどの部分で夜の長さを感じるのかを知るため、葉っぱ、茎、芽、根のいずれかだけを覆いかくして、長い暗闇を与えます。どの部分を暗くしたとき、つぼみが生まれるかを調べるのです。すると、葉っぱに長い暗闇を与えた場合にだけ、つぼみは生まれます。それゆえ、植物が夜の暗闇を感じるのは葉っぱであることがわかります。」ということを調べたのです。
この本を読んで、植物ってすごい、ほんとうに命がけで生きていると思いました。
このような本を読むと、私たち人間も負けてはいられないと思います。そういえば、他の生物たち、たとえば昆虫たちだって、まさに死にものぐるいで生きているような気がします。
下に抜き書きしたのは、今まで不可能とされてきた青いバラの花が誕生したときの紹介です。しかも、その花言葉が「夢かなう」ですから、やはり夢は見るものです。
ただし、このコラムを書かれたのは2012年ですから、今から4年前ということを頭に入れて読んでみてください
(2016.10.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
植物は命がけ(中公文庫) | 田中 修 | 中央公論新社 | 2014年4月25日 | 9784122059399 |
☆ Extract passages ☆
青色のバラの花というのは、古くから、「ありえないこと」や「不可能」の代名詞として使われるほど、「つくり出すことはできない」と思われていました。ところが、ついに、青色の色素のアントシアニンをつくる遺伝子がパンジーから取り出され、バラに入れられて、花の中で青い色素がつくられたのです。その結果、青い色のバラの花が誕生しました。
2009年11月3日には、「拍手喝采」を意味する「アプローズ」という商品名で、青い花が切り花として市販されはじめました。青い花のバラの花言葉は、「夢かなう」となりました。はじめの売り出し価格は、1本3150円という高値でした。発売後、数年が経過した現在も、この価格のままで、「予約がいっぱい」という人気が続いています。
(田中 修 著 『植物は命がけ』より)
No.1293 『夢から生まれた美術館の物語』
きれいな装丁の本、というのが第一印象でした。
副題は「諏訪湖畔のハーモ美術館に癒やしを求めて」とあり、まったく普通の主婦だった著者が美術館をつくられたという話しです。もともと、私も美術館や博物館には興味があり、出かけたその場所にあれば、時間が許す限り訪ねています。
でも、諏訪湖畔には行ったこともなく、ハーモ美術館という存在する知らなかったのですが、この本を読んで、行ってみたくなりました。
しかし、なんとなく著者だけでなく、この美術館の広報のような書き方が気になり、出版社を調べてみると、「日経BPの専門性とリソースを企業・団体の皆様に提供いたします。コンテンツマーケティング、広報誌・会員誌・書籍・Webサイト・映像の企画・編集、調査・コンサルティングで、企業コミュニケーションをサポートします。」とあり、いわゆる自費出版のような感じがしました。
人間というのは、いったん、「こうかもしれない」と思うと、なんとなくそう思えてきて、さらにはたしかにそうに違いないと気持ちが傾いてくるようです。
だから、この本も、いわゆる広報誌みたいなものではないかと思ったら、すべてが広報を目的として書いているような気がしてきました。
ただ、真相はわかりませんが、昔はこのような本は「寄贈」という判が押され、とてもわかりやすかったのです。
でも、だからといってこの本がダメだということではなく、たくさんの絵の写真も素晴らしいものでした。とくに巻末の「美めぐりでのアートとの出会い」は、世界地図を取り巻くように名画の写真がちりばめられていて、どこの国のどの美術館にあるかを一目瞭然に指し示してくれます。
その中には、私も行ったことがある美術館も含まれていて、いつかはこれらの美術館を見て歩く旅でもしてみたいな、と思いました。そういえば、小学館から「地球紀行 世界美術館の旅」という本もあるぐらいですから、そう考えている方も多いのではないかと思います。
そういえば、イギリスの画家ウィリアム・ターナー(William Turner 1775〜1851)の絵をテート・ギャラリーで見た後、その夕焼けの色と同じようなイギリスの夕焼けに出会い、とても感動したことがあります。そのような旅を、いつかはしてみたいと思っています。
下に抜き書きしたのは、ハーモ美術館のコンセプトについて書いてある、最初のところの文章です。
これなども、著者のいいたいことがそのままストレートに出ていると感じた部分でもあります。
(2016.10.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
夢から生まれた美術館の物語 | 関 たか子 | 日経BPコンサルティング | 2016年7月12日 | 9784864430920 |
☆ Extract passages ☆
ハーモ美術館は「芸術と素朴」をコンセプトとした美術館です。素朴派と称されるパントル・ナイーフは、アカデミックな理論や技法により描き出された絵画ではありません。純粋な視点から、独自の技法によってその画風は表現されています。ドイツ人美術史家ヴィルヘルム・ウーデは、アンリ・ルソーと出会い素朴画家を発見していきました。素朴派の画家たちは育成される画家ではなく発見されるアーティストなのです。これらの珠玉の作品は見る人を安らぎへと誘います。
(関 たか子 著 『夢から生まれた美術館の物語』より)
No.1292 『世界の本屋さん図鑑』
この本はカラー版で、110ページほどの小さな本ですが、世界45カ国、50店舗の本屋さんを見てまわったものです。
私も本屋さんが好きで、この本屋さんの本のレイアウトがいいと思いながらも、写真を撮るのをためらいがちになります。でも、この本は正式なルートで許可を取って撮影したようで、見ているだけでも楽しくなる本です。
これだけ掲載された本屋さんなのに、私が行ったことのあるのは、イギリスのロンドンにある「フォイルズ書店」とネパールのカトマンドゥにある「ピルグリムズ書店」だけでした。これからは、少し時間をつくって、海外の本屋さんも見て歩きたいと思いました。
この「ピルグリムズ書店」では、自分好みの装丁に替えてくれるというので、ちょっと贅沢に皮装にして作ってもらいました。たしか、2,000円ぐらいだったと思いますが、自分の名前も金色の活字で入っていました。この本は、もう一生の宝物にして、今も本棚の一番いいところに鎮座しています。
世界にはおもしろい本屋さんもあるもので、たとえばスウェーデンのストックホルムの「アカデミー書店」には、スウェーデンには入学試験も宿題もなく、さらに年間45%が休暇だそうで、だから学習参考書のコーナーはないそうです。ところが韓国の安山の「大東書店」には、韓国の受験熱の高さを反映してか、受験書が店内に一杯あるそうです。
つまり、その国の文化や経済を知るには、本屋さんに行くのがいいかもしれません。
でも、今の時代は、本屋さんが抱えている問題も多く、日本と同じように閉塞的状況だそうです。でも、ヨーロッパのように薬の販売免許を持つ書店などは、薬だけでなく、文具なども扱っているそうで、ある意味、本屋さんとしての本業を支えてくれています。
また、おもしろいと思ったのは、スリランカのコロンボにある「レイクハウス書店」では、一番売れるものは「弁当箱」だそうで、この国では給食がないので、新学期直前の文具売り場には、弁当箱を買い求める親子の行列ができるそうです。ということは、ここでも本屋さんとしての本業を弁当箱が支えてくれているのかもしれません。
このように本だけを売っている本屋さんは少ないようで、たとえばポーランドのワルシャワにある「エムピック書店」は、ジュンク堂書店とマツモトキヨシとスタバとヴィレッジヴァンガードがいっしょになったようなものだと表現していました。つまり、ポーランドの人たちは、書店というのは本も売っている生活館というイメージだそうです。
ビックリしたのは、ロシアのサンクトペテルブルクにある「ドムクニギ書店」で、入口には警備員がいて、本を買ったときには必ずレシートをもらっておかないと、店から出してもらえないそうです。私などは、会計してもレシートをもらわないときがあるので、ここの本屋さんに行ったときには、気をつけなければと思いました。
また北朝鮮にも本屋さんがあるそうで、ピョンヤン市内は17の区に別かれているそうで、それぞれにひとつの本の施設があるそうです。でも、並んでいる本は、挑戦共産党の機関紙、新聞、宣伝雑誌、金日成全集や選集、金日成伝記、労働党史、党綱領、など、そして市街地図や国旗やバッチなども売られているそうで、まさに「国営書店」だそうです。
さらにドイツでは、マイスター制度が残っているようで、書店を経営するためには国家試験に合格しなければならないそうです。そのための学校がドイツのフランクフルトにある「メディアキャンパス(ドイツ書籍業学校)」です。
下に抜き書きしたのは、ここメディアキャンパスについてのことで、やはり専門的な知識が、本屋さんには必要だと思いました。
ぜひ、下を読んでみてください。
(2016.10.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世界の本屋さん図鑑 | 能勢 仁 | 出版メディアパル | 2016年7月25日 | 9784902251630 |
☆ Extract passages ☆
ドイツのマイスター制度は書店にもある。つまりドイツでは書店を経営するためには国家試験に合格しなければならない。そのために作られた学校がメディアキャンパス(ドイツ書籍業学校)である。この学校はフランクフルト郊外(中心地より20キロ)にある。1学年20名、修業年限2年、全員寄宿舎生活で、男女比は3対7で女性が多い。
創立は1851年で、ライプチッヒで誕生した。1961年フランクフルトに移転した。
すでに160年以上の歴史のある学校である。学校は二階建て(一部3階)の建物が5棟連結している。教室、セミナー室、コンピュータ学習室など9種類の専門室がある。
特徴的なことは、模擬書店(約20坪)があること。コンピュータ室には15台のパソコンがある。30万冊の本が登録されている。図書館も充実している。
(能勢 仁 著 『世界の本屋さん図鑑』より)
No.1291 『自分の価値に気づくヒント』
ついつい、また軽い本を選んでしまいましたが、書いてある内容がなんとなく想像できるので、スラスラと読んでしまいます。でも、そのなかにある気づきの言葉があったりすると、なるほどと思います。
やはり、知っていることとできることは、違うようです。
おそらく、普通に生活していると、自分の可能性などということはあまり考えないかもしれませんが、ほんとうはとても大事なことだとこの本は気づかせてくれます。たとえば、「人生を挑戦の連続と考えよう。自分の潜在能力を発見し、開発し、活用して、新しいことに積極的に挑戦すれば、無限の可能性が開けてくる。普通のピアノには88の鍵盤がある。しかし、その中のほんの少しの鍵盤しか使わないなら、退屈なメロディになってしまう。もっと多くの鍵盤を使ってみよう。そうすれば素晴らしいメロディを奏でることができるはずだ。」とあり、たしかにピアノ鍵盤もそうですが、車のスピードメーターも日本では道交法上時速100Kmしか出せないのに、180Kmぐらいまで表示されています。
これなども、そのぐらいスピードが出せる余裕がなければダメだということではないかと思いました。
また、笑うことも事態を好転させるきっかけになるとして、興味深い事実を紹介していますが、それは
・健康の増進に役立つ。笑うとエンドルフィンが分泌され、気分がよくなるだけでなく免疫系を強化することができる。
・おたがいのコミュニケーションの潤滑油になる。明るい笑いを取り入れると、ほとんどの会話はなごやかに進行する。
・人生に取り組む姿勢を改善することができる。いらいらや不快感を解消してリラックスするのに役立つ。
・寿命を延ばすことができる。一般に、よく笑う人はそうでない人よりも長生きすることが知られている。
・怒りを鎮めることができる。私たちは怒りながら笑うことはできない。」と書かれいます。
そういえば、「笑い」は薬だともいわれますが、これを読むとまさにその通りではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、いつもネガティブに考えているとますます悲観的な状況になるし、いつもポジティブに考えているとますます人生も楽しくなるということです。つまり、今考えているように自分の人生はなってしまうということでもあります。
これはぜひとも、気をつけたいことです。
(2016.10.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
自分の価値に気づくヒント(ディスカヴァー携書) | ジェリー・ミンチントン 著、弓場 隆 訳 | ディスカヴァー・トゥエンティワン | 2016年8月10日 | 9784799319413 |
☆ Extract passages ☆
日ごろポジティブなことを考えて過ごしていると、ますますポジティブな人間になり、ますます人生が楽しくなる。その結果、ポジティブで楽しい人や状況を引き寄せる。
「類は友を呼ぶ」ということわざがある。周囲を見渡して、自分がどんな環境にあるか、どんな人間とつきあっているかを調べてみよう。そうすれば、この格言が真理であることがわかる。今までと違う状況に身を置き、今までと違う人とつきあいたいなら、今までと違う思考をする必要がある。
ブツダは「人間は自分の考えているものの結果である」と説いた。邪悪な思考をしているなら、苦しみは避けられない。それに対し純粋で幸せな思考をしているなら、幸せな人生を送ることができる。
(ジェリー・ミンチントン 著、弓場 隆 訳 『自分の価値に気づくヒント』より)
No.1290 『「水」のように生きる』
『心とはなにか』などという気分的に重い本を読んだ後は、明快でわかりやすいものを探していたら、この本を見つけました。
私はほとんどテレビを見ないのですが、たしかNHKの大河ドラマで黒田官兵衛をしたことがあり、彼は隠居してから「如水」と名を改めたようです。まさに「水の如く」で、彼自身も「水五訓」と呼ばれる人生訓を作って、子孫や家臣たちに与えました。
それは、意訳ですがこの本に載っていて、
1. 水はみずから動いて、他のものを動かす。
2.水はいつも進路を求めて、止まることなく動いていく。
3.水は、障害に出合うと、その勢いを百倍にも増す。
4.水は、みずから清らかな存在である。そLて、あらゆる汚れたものを受け入れながら、その汚れを洗い流して清らかなものにする。
5.水は、広い海となり、蒸発しては雲となり、雨や雪にも姿を変え、霧ともなり、水面はものを映す鏡にもなる。しかし、どのように姿を変えても、水としての本質を失わない。
まさに、水のように生きるという黒田如水の考え方そのものです。
これは、『老子』のなかにも「上善、水の如し」とあり、「人間にとって最善の生き方とは、水のように生きること」だということです。
この水というのは、流れる川という意味にもなり、だから、この前の台風のようなものすごい被害をもたらすことにもなります。しかし、流れる水は腐らない、ともいいますから、まさに、禍福はあざなえる縄の如し、です。
やはり、気持ちを腐らせることなく、少しずつでも前に向かって進んでいけば、必ず希望の光も見えてきます。やはり、自分自身の価値に気づき、先ずは進んでいくしかないようです。
下に抜き書きしたのは、柔軟な発想を心がけることの一つの例として、茶道の「見立て」について書いています。
私も見立てることは好きで、もともとの使い方と違う使い方をすると、ある種の新鮮みが感じられます。ぜひ、味わって読んでみてくさい。
(2016.10.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「水」のように生きる | 植西 聰 | ダイヤモンド社 | 2016年8月4日 | 9784478100363 |
☆ Extract passages ☆
日本人は、元来、とても柔軟な発想力を持っていました。
茶道には「見立て」という言葉があります。「見立て」とは、「あるものを、従来とはまったく異なった、別の用途に使う」という意味です。
たとえば、茶道の創始者である千利休(1522〜91年)は、ヒョウタンを花入れとして使いました。
当時、ヒョウタンは水筒として使われていました。それを花入れにして使うなど、誰も思いつきませんでした。しかし、利休は、「このヒョウタンに花を生けてみたら面白いのではないか」と思いつき、さっそく実践してみたのです。
柔軟な発想ができないと、このようなことはなかなか思いつきません。「ヒョウタンは水筒にしか使えない」という考えにとらわれてしまっていては、それを花入れに使うなどという発想は生まれなかったでしょう。
(植西 聰 著 『「水」のように生きる』より)
No.1289 『心とはなにか』
『仏教と気づき』や『口ずさむ 良寛の詩歌』などを読んだ後でいろいろと考えると、なぜかでは心とは何かという原点にかえってしまいます。つまり、自分自身の存在やそのよってたつ基盤などを考えると、一番大事な心とはなんだろうかと考えてしまいます。
そこで手に取ったのがこの『心とはなにか』というそのものずばりの本です。副題は、「仏教の探求に学ぶ」で、「あとがき」を読むと、著者が仏教の説く心をめぐって自由に語り、あとでそれを起こして1冊の本にしたことが記されています。だから、書き方が語り口のようになっていると後からわかりました。
でも、たしかにこのほうがわかりやすいですし、もともと難解な心の問題を扱っているので、なおさら有り難いと思いました。
それでも、いつもより、だいぶ時間をかけて読みました。
とくに興味を持ったのは、第4章の「日本仏教に見る心」で、ここまではインドの仏教などを中心に心をどのように分析するかを見てきたのですが、ここでは、浄土教と禅宗と密教、密教は真言宗を取りあげて、明快に心をテーマに書いています。
たとえば、浄土教は「親鸞の心の見方で非常に興味深いところは、自分の心を自分でどうこうしようとしてもできない、できるはずがないと考え、しかもさらに一歩進んで、その必要が何もなかったことに気づき安心を得たということです。その点が、大きな特徴だと思います。一遍は名号だけ称えれば何も考える必要がないという教えでした。こちらもさっ
ぱりした大安心です。日本の浄土教では必ずしも死んだ後に極楽浄土に行くことだけではなく、今・ここで自分をどうこうしようとしなくても大丈夫だった、というように自己に対するはからいをすべて手放す境地が開けて救われるという方向へと展開したのです。これは日本浄土教の大きな特色です。」と、浄土宗や浄土真宗、そして時宗など、日本の浄土教をざっくりと解説してくれます。これは、とてもわかりやすいと思いました。
また、大乗仏教の基本的な戒律については、三聚浄戒がひとつの標準だとして説明しています。「1つ目は摂律儀戒、悪をなさないという戒です。2つ目は摂善法戒、善い行いをしたり修行をしたりするという戒です。三つ目が、餞益有情戒(にょうやくうじょうかい)、人々を利益していく、助けていくという戒です。要するに、悪をしない・善を行う・他者を助けるの三つが大きな指針になります。この三聚浄戒のうち、悪をしないについては、……十善戒を持つことがよいと思います。……一方、善を行うことは六波羅蜜でよいでしょう。餞益有情戒は四無量心を考えるのがよいと思います。」と具体的に答えています。
このなかの十善戒は、不殺生・不倫盗・不邪淫・不妄語・不悪口・不両舌・不椅語・不貴著・不険悪・不邪見で、いわゆる身口意などの基本的な心構えを説いたものです。
下に抜き書きしたのは、第1章の「心とはなにか」に書いてあることで、これも『華厳経』を引き合いに出してはいますが、仏教の立場から考える心というものに言及しています。ぜひ味わってみてください。
(2016.10.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
心とはなにか | 竹村牧男 | 春秋社 | 2016年8月20日 | 9784393135891 |
☆ Extract passages ☆
仏教はどちらかというと唯心論の立場に立ちます。知られるものは、知るもののなかにあるのだという考え方が基本にありますので、私たちが自覚している体とか心は、それをさらに包み込むような大きな心の世界のなかにあると考えます。『華厳経』に、「心は工(たく)みなる画師の如し、種々の五陰(物質的・心理的諸要素)を画く。一切世界中、法として造らざる無し」とあります。ここから、〈いのち〉を見たときに、〈いのち〉はもの・心を包む心と一体化していきます。そこで、「三界唯心」とか、「心外無別法」とかいわれます。つまり、根源的な〈いのち〉が現象的な働きに展開している、というように、非常に深い心の世界において〈いのち〉を見る構造になっていきます。
(竹村牧男 著 『心とはなにか』より)
No.1288 『口ずさむ 良寛の詩歌』
本当に小さな本で、ポケットに入れていつも携帯できそうです。しかも全110ページですから、書かれている詩歌、これには「うた」とルビが振られていますが、そうとう厳選されています。まさに、これこそが良寛さんの詩歌ですよ、という具合です。
「あとがき」に、「まず声を出して読んで見て下さい。朗唱し暗誦することによって、視覚聴覚を刺激しっつ深く脳裡へ刻み込まれてゆくことでしょう。そして次第に良寛へのアプローチとして甦ることが期待されるものと思います。掲出した詩歌に解説や評釈を敢えて付けなかったのは、先ず原文を暗誦朗読することによって、余分を介入させることなく原文自体を脳裡に強く染み込ませることが先決であると考えられるからであります。意味を理解しても原文の記憶のないままでは、千慮の一失として無意味なものとなりましょう。原文をしっかりと記憶していれば、やがていつか折りに触れ、事に当たって、ふとした機会に本旨を会得するといった経験は、誰にでもよくあることではないでしょうか。」と書かれてありました。
たしかに読書百遍意自ずから通ずといいますから、最初は意味などわからなくてもいいと思います。特に漢詩の場合は、韻も大事なので、それも味わいなのです。
たとえば、私も何度も訪ねている「五合庵」という題の漢詩は、
索索五合庵 実如懸磬然 戸外杉千株 壁上偈数篇 釜中時有塵 甑裏更無烟 唯有東村叟 頻叩月下門
ですが、これだと、ほとんどの方は読めないどころか、まったく意味すらわからないと思います。でも、
索々(さくさく)たる 五合庵 実に 懸磬(けんけい)の如く然り
戸外(こがい) 杉千株(せんしゅ) 壁上(へきじょう) 偈数篇
釜中(ふちゅう) 時に塵有り 甑裏(そうり) 更に烟無し
唯(ただ) 東村(とうそん)の叟(おきな)有りて 頻(しき)りに叩く 月下の門
と、読み下しにすると、すぐには内容がわからなくても、何度か読んでいるうちに理解できるようになるのではないかと思います。
おそらく、この本は、それを狙っているようで、しかも少しは良寛さんを知っている方がこれを求めるのではないかという想定のように感じました。
章立ては、はじめに、花の章、鳥の章、紅葉の章、雪の章、戒語、良寛の生涯、さくいん、あとがきの順序です。花の章では、次の和歌が取りあげられ、
じんばそに 酒に山葵に 賜るは 春はさびしく あらせじとなり
(神馬藻とは、五月飾りや食用にする海藻、だそうです。
何となく 心さやぎて 寝ねられず 明日は春の 初めと思へば
から始まります。いかにも良寛さんらしい作風が感じられます。
また、俳句も3首あり、
盗人に とり残されし 窓の月
秋日和 千羽雀の 羽音かな
焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな
です。特に最後の句はとても有名で、良寛さんの落ち葉を掃く画とこの句の書かれた色紙を私も買ったことがあります。
下に抜き書きしたのは、「はじめに」の最初に書かれている言葉です。今の先が読めない時代だからこそ、優游たる人生を送った良寛さんに憧れるのかもしれません。ちなみに、私の遊印は、「清游」を彫ってもらって使っています。
(2016.10.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
口ずさむ 良寛の詩歌 | 全国良寛会 編 | 考古堂書店 | 2016年7月15日 | 9784874998502 |
☆ Extract passages ☆
良寛は、財産や名誉・権力など人間をまどわす一切の想念を取り払って、物質的にはこの世で最も貧しい生活を続けながら、清らかで美しく優しい心をもって、風雅を友としつつ、芸術の境地にひたりながら、優游たる人生を送りました。
(全国良寛会 編 『口ずさむ 良寛の詩歌』より)
No.1287 『仏教と気づき』
この本を読もうと思ったきっかけは、これを出版している武蔵野大学出版会を知らなかったことです。そして、武蔵野大学って当然のことながら武蔵野市にあるとはわかったのですが、その沿革は知らなかったのでネットで調べてみると「本学は、1924年、世界的な仏教学者で文化勲章受章者でもある高楠順次郎博士によって、仏教精神にもとづいた浄土真宗本願寺派の宗門関係学校として設立されました」と入学案内に書いてあり、宗門系の大学だと知りました。
だから、必修科目に「仏教概説」があるのだと、理解できました。また、この本の著者も学者であり、僧侶でもある方がいて、なるほどと思いました。
著者は編著者のケネス田中さんをはじめ、5人の方々で、副題は「〈悟り〉がわかるオムニバス仏教講座」です。
話しの最後に、これは「2015年2月26日・講義より」と書かれていますので、これらの話しは講義で実際に話された内容をまとめられたもので、とてもわかりやすいものでした。また、たとえもいろいろと出ていて、それもわかりやすくしているようです。
なかでも、最後のケネス田中さんの「求道者の気づき」のなかで紹介していた「溺れる船乗り」という説話は、初めて聞きました。いかにもアメリカで聞いたというような話しで、とても具体的でわかりやすいものです。これは、船乗りが乗船する、つまり人生を歩み始めるというところから話しが始まります。次に、船から落ちてしまい、それが人生で遭遇する四苦八苦で表現されています。でも、それでも泳がなければ死んでしまうので島を目指して一生懸命に泳ぎます。これが苦の解消に励むという段階です。でも、もがけばもがくほど目標が定まらなかったり、疲れたり、壁にぶつかったりして「自分はもうダメだ」と思ってしまいます。
ところがあるとき、力を抜いて波に任せることで、楽になることを知ります。そして、「これでなんとかなる」という安心感が生まれます。つまり、自分の気持ちが変わったことで、周囲への感じ方も変わり、周りの状況も見えてきたようです。余裕を持って泳ぐので、自分のことだけでなく、もしかして他の仲間たちも船から落ちなかっただろうかと考えたりします。
そして、とうとう水平線の向こうに島が見えてきました。つまりは、これが仏教的な目標です。この島にたどり着けたことで、助かります。さらに大切なことは、島にたどり着いて助かったことで、今度はボートに乗って、「自分は助かったけれど、他におぼれかかっている人がいるかもしれないから彼らを助け出そう」と他者の救いの行動を起こします。これが「悟り」だと著者はいいます。
つまり、最初は乗船し、2番目は落船し、3番目は求泳し、4番目は放浮し、5番目は歓喜し、6番目は楽泳し、7番目は解脱するというストーリーになっています。
下に抜き書きしたのは、小山一行さんの「〈悟り〉の智慧、智慧の〈信心〉」のなかに出てくる言葉です。
とてもわかりやすい言葉のなかに、なるほどと考えさせられる大きなヒントがあります。
ぜひ、お読みいただければと思います。
(2016.10.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
仏教と気づき | ケネス田中 編著 | 武蔵野大学出版会 | 2016年9月1日 | 9784903281292 |
☆ Extract passages ☆
生まれてきたときはみな、「おめでとうございます」といわれて人生が始まります。そして最後は、「ご愁傷さまです」で終わります。「おめでとう」で始まって「ご愁傷」で終わるのが人生なのです。「若くて、健康で、長生き」ということが「幸い」であって、「年をとって、病気をして、死ぬ」ということが「不幸」だと思っているなら、人生はだんだん不幸になって、不幸の頂点で人生が終わることになります。
このような考えでいいのでしょうか?
「幸」と「不幸」を分けて、自分の都合のいいことを幸せだと思うために、このようなことになるのです。自分の人生が不幸で終わる人は、真実を見ていないのです。
若いものは年をとり、健康な人は病気になり、生まれたものは死ぬという、そういう人生を私たちは生きています。それが「真実(まこと)」なのです。幸せとか不幸せという問題ではありません。
その真実を受け入れられずに、自分の都合で世界を見て、自分の都合を満たそうとして生きていることが、「苦」を生み出します。
これが「苦の根源」だということに気づいたのが釈尊の「悟り」です。
(ケネス田中 編著 『仏教と気づき』より)
No.1286 『格安エアラインで世界一周』
この格安エアラインには以前から興味があり、この本を買ったのも数年前で、そのまま積んでおいた1冊です。
この格安エアラインを実感したのは、今年3月の台湾行きのときで、ある大学院生の買った格安チケットは、米沢駅から東京駅の往復山形新幹線のチケットよりだいぶ安かったことです。それを聞いて、たしか格安エアラインの本があったことを思い出し、今、その本を読んだのです。
この格安エアラインは、通称「LCC」といい、ローコストキャリアの略だそうです。つまり運賃がさまざまな節約の末に安くできたもののようで、その節約法もおもしろかったです。
たとえば、この本には、「飛行機を降りた僕らは歩いてターミナルへ向かう。節約のために、ボーディングブリッジはなく、バスも使わないのだ。ときに空港を襲うスコールに備えて、大量の傘と屋根付き通路が用意されていた。」と書いてありましたが、台湾でいっしょになった大学院生の帰りのチケットは、夜中の12時ころのフライトだそうで、成田に早朝に着くので、電車が動き出すまで、空港のなかで寝ながら待っているしかないのだそうです。
つまり、安いには安いだけの理由があり、高い航空会社にも、それなりの高い理由があるということです。
私が聞いていた格安航空券というのは、団体用に買っていたチケットが、余ったのでそれを格安で売りさばくとか、予定していた人数が集まらず旅行そのものがキャンセルになり、あわてて売り出したとか、ほとんどが団体用の安いチケットをばら売りするようなものでした。だから、この格安エアラインのように、最初から安く売り出すというのは、とても有り難いことです。
でも、このようなことができるようになったのは、パソコンのインターネットで世界中どこでもつながるようになったからです。この本でも、「激しく分裂する細胞のようにコンピュータは普及し、旅行会社は、自らホームページをつくり、格安航空券の情報を伝えはじめていく。この環境の変化は、情報誌系の雑誌を直撃していった。パッケージツアーや航空券の価格情報だけでなく、旅の情報もインターネットで得られるようになっていく。情報誌のいくつかは、ネットの世界に移行していった。『エイビーロード』も雑誌の発行をやめ、ネットのホームページだけになった。」と書いてあり、たしかにこれで旅行の形態も変わってしまったと思います。
以前は国内旅行でも、新幹線のチケットは駅に行くか旅行会社に行くかして買っていたのですが、今では自宅のパソコンで座席まで指定して買うことができ、旅行に出かけたときに駅で受け取ればいいわけです。さらに、今ではチケットレスにすれば、それすらも不要になります。泊まるところは、ネットで探せますし、付近の食事処もネットで選り取り見取りです。
また海外でも、昨年5月に中国四川省に行ったときには、行く前にネットで到着の日と帰国の日だけホテルを予約し、後は向こうに着いてからその日その日の予定を立て、予約しながら旅を続けました。もちろん、航空券も価格を比較し、自分のマイルがたくさん貯まるような方法で予約しました。もう、そのような時代なのです。
下に抜き書きしたのは、LCCを使うことで再び旅の自由を取り戻したという部分です。現在では、さらにさまざまなLCCの使い方でさらに旅の自由度は高まっていると思います。だから、これからの若い人たちは、このような本に頼ることなく、自らの使い方を編み出してほしいと思いました。
(2016.10.1)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
格安エアラインで世界一周(新潮文庫) | 下村裕治 | 新潮社 | 2009年7月1日 | 9784101315522 |
☆ Extract passages ☆
LCCを使うことで、僕らは再び旅の自由を手に入れた。いや、旅とはそもそも、自由なものなのだ。既存の航空会社や旅行会社が繰り広げる安売り競争のなかで、旅はずいぶん歪められてしまった。安いことはありがたいが、出発前から帰国便を決め、変更することもできないという不自由さのなかに放り込まれてしまっていたのだ。
だがLCCの旅は、陸路の気まぐれ旅とは環境がずいぶん違う。未舗装のラテライトの道をがたぴしと走るバスではなく、まがりなりにも空を飛ぶ飛行機になった。片道切符を探す場所も違った。かつて、僕が両替レートで換算しながら見つめていたのは、バスターミナルや駅舎に掲げられた行き先表示や料金表だった。しかしLCCを探すために見つめているのは、インターネットでつながったコンピュータの画面である。
(下村裕治 著 『格安エアラインで世界一周』より)
No.1285 『旅とオーガニックと幸せと』
副題は「WWOOF農家とウーファーたち」ですが、このWWOOF(ウーフ)というのは、「旅人が、有機農業やオーガニック的生き方を学ぶために、農家へ行き、短期間、家族のようになって手伝いをして、食事と寝る場所を提供してもらう、お金のやり取りのない交換の仕組み。双方が会話や文化交流を楽しみ、自分自身を向上させていく」ということだそうです。
また、「ウーファー」というのは、WWOOFに人を表すerをつけて、上で意味しているような旅人を指しているそうです。
ちなみに、このWWOOFは、 World Wide Opportunities on Organic Farms で、直訳すると、「世界に広がる有機農場での機会」だそうで、その頭文字です。
この日本の事務局を運営しているのが、著者だそうで、2002年にはウェブサイトも開始されたそうです。つまりは、人と人との出会いを農業という架け橋でつなごうということではないかと思います。
だから、この本のような題名がつけられたのかな、と思いました。
この本のなかで、「物があることで幸せな気持ちを持つことには、通常は限度がある。パソコンは2〜3台あってもよいかもしれないけれど、普通の生活をしているなら10台も必要ないので、多いことで幸せな気持ちは感じない。高級そうな濃厚チョコレート生地のスウィーツをもらうとうれしいが、連日もらい続けると、もういいです、だ。物にはこのように通常限度があり、それを超えると幸せは感じられなくなるようだ。」というのは、確かにそうです。
今の時代は、物で幸せを感じるのは難しく、では何でといわれるとなかなか幸せってなんだろうということになってしまいます。
この本では、幸せを考えるうえで必要な項目は大きく4つに分け、
@経済――経済的に満足できること
A自分自身――心と体がうまく機能していること
B他者との関係――安心できる場所があり、必要と思われていること
C自然と社会――環境と社会制度が良好に保持されていること
たしかに、このように具体的に書き出すとわかりやすいと思いますが、どうも幸せとはなにかをつかむのは難しいと思います。さらに、その度合いを示すのは、さらに困難です。でも、ある程度、基準のようなものを示さないと、話しができないので、このような大きな区分けも意義があると思いました。
この本の題名のオーガニックという言葉を農法において最初に使った方は、イギリスの農学者ウォルター・ノースボーン卿だそうで、1940年に出版した自らの本でした。
下に抜き書きしたのは、有機農家であり、埼玉大学非常勤講師でもある舘野康幸さんの考える「有機農的な生き方」についてです。とてもわかりやすいので、ここに掲載しました。
(2016.9.29)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅とオーガニックと幸せと | 星野紀代子 | コモンズ | 2016年8月1日 | 9784861871368 |
☆ Extract passages ☆
有機農的な生き方には、価値観の転換が必要だと説き、「大きいより、小さい」「多いより、少ない」「早いより、遅い」「強いより、弱い」「新しいより、古い」「純より雑」「結果より、過程」だと述べている(『有機農業みんなの疑問』筑波書房、2007年)。
ガガンと心に深く響いてくる。通常、そんなふうに教育を受けないし、人間は本能的にも、大きなものをより多く、早く得よう、強くて新しくて混じりつけなしのピュアなものでなくてはならない、と思う存在だから。
(星野紀代子 著 『旅とオーガニックと幸せと』より)
No.1284 『巡礼日記』
ぱらぱらっとめくりながら、著者が国立がんセンター名誉総長であり、公益財団法人日本対がん協会会長という立場で、自分の妻をガンでなくされたと知り、そのお気持ちは如何だろうか、と思ったのが読むきっかけです。
しかも、私もいつかは四国八十八ヶ所をめぐってみたいと思っていることも、きっかけにはなったようです。
つい最近、『フランスからお遍路にきました。』を読んだばかりなので、頭の中に四国八十八ヶ所の道筋が浮かんでくるようでした。それでも、昭文社の『旅の森 四国八十八ヶ所巡り』などを引っ張りだし、その札所のお寺などを見ると、実際の雰囲気が伝わってきます。
四国では、お接待という風習があるらしく、それを著者は、「巡礼地やその周辺では、巡礼者を歓待することは、空海を歓待するのに等しい。たとえば、巡礼者に無料で提供される宿は「善根宿」と呼ばれるが、「善根」とは仏教用語で、よい報いを招くもとになる行為や、さまざまな「善」が生じるもとになるものを指すという。「善根宿」の提供者は、結果的に仏教における功徳を積むことになるわけだ。……また、巡礼者はお接待を施した人に、納札を渡すが、この納札を受けると、お接待をした人も巡礼を行ったと同程度の功徳を積むことができると考えられている。」と書いていました。
また、歩くのが大変なときにでも、海を眺めながら、その白い波をすごくキレイだと思ったりするそうです。でも、そのような体験は私にもあり、今年の7月に標高4千メートルを超えて高山病になるようなところでも、そこに自生する高山植物を見ただけで、一気に苦しさを忘れてしまいます。やはり、人は、どんな苦しいときでも美しさを感じるもので、それが生きる力にもなるのではないかと思いました。
この本の副題は「亡き妻と歩いた600キロ」で、まだ半分程度の道のりです。それでも、この巡礼をすることで、「精神と肉体のバランスがとれ、心と身体の一体感が生じた」といいます。
だから、おそらく、来年か再来年にでも、残りをお詣りして歩かれるのではないかと思います。もし、それも本に書かれるなら、その後編も読んでみたいと思いました。
下に抜き書きしたのは、この四国八十八ヶ所をめぐってみたいと思ったきっかけのひとつでもありますが、「グリーフ・ワーク」ということについてです。グリーフ(grief)という丹後を辞書で引くと、「深い悲しみ。悲嘆。嘆き。」という意味が出てきます。著者は、妻を亡くした深い悲しみから立ち直ろうとして、いろいろなことをやってきたそうです。
ガンの専門医でさえ、ガンで妻を亡くすとここまで悲嘆に暮れるのかと思いました。でも、冷静になって考えれば、たしかにそうです。どんな人でも、伴侶を失えば、深い悲しみに襲われます。そこから救ってくれるのが「グリーフ・ワーク」です。
(2016.9.26)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
巡礼日記 | 垣添忠生 | 中央公論新社 | 2016年8月10日 | 9784120048760 |
☆ Extract passages ☆
「グリーフ・ワーク」とは、悲しみ・悲嘆から立ち直るために自ら積極的に行う行動を指す。今も続けている。山もカヌーも、居合も、仕事も、そしてこの巡礼もそうだ。他事に夢中になることで、その瞬間は悲しみを忘れよう、悲しみをうっちゃろうとしてきた。
一方、グリーフ・ケアというのは、苦しんでいる人に他者が提供する支援、ケアを指す。西欧諸国ではチャプレンという訓練を受けた専門家がこの役割を果たしている。
(垣添忠生 著 『巡礼日記』より)
No.1283 『鴨長明』
前回の非常時のようなことが、この鴨長明の時代もそういえるかもしれません。生きた時代は平安末期で、京の都を数々の厄災が襲い、政治も宗教も混沌としていました。
そのなかで、自由に生きようとしたのが鴨長明で、この本の副題も「自由のこころ」です。
鴨長明というと『方丈記』ぐらいしか知らなかったのですが、『無名抄』や『発心集』などもあり、生い立ちも下鴨社の禰=A長継の次男ということで裕福な生活をしていたそうです。しかし、父の長継が亡くなり、時代も平氏が台頭し、動乱の世の中になりつつありました。
経歴などは、どのような本にも書いてあるので、それを読めばすぐにわかりますが、この本の特徴は、生き方をどのように捉えるかということです。まさに、このような時代にあっても、自由を求めていたということです。それを、『「人を頼めば、身、他の有なり」。権門を頼れば、自分が他人の所有物のようになってしまうというのだ。後鳥羽院の代案を蹴って、身を隠した長明を家長が「気が狂ったか」と誰かにもらしたことが、長明の耳に届いていたかもしれない。『方丈記』は、終わり近くでも、友との付き合いについて語りながら、琵琶と和歌だけを友としているのが一番と説き、それに紛らせるようにして、繰り返している。』と書いています。
この本では、白居易なども彼の考えに大きな影響を与えているといいますが、あまり中国では評価されていないようです。それが不思議でしたが、この本のなかに「白居易の評価は、中国より著しく高い。なぜか。白居易は詩を書くたびに近所の老婆に見せて難解なところを直したという逸話が残るほど、平易な詩文を心がけていた。加えて、儒学・仏教・道教の三教一致論に立ち、晩年には仏教の信仰に篤かったことが、神仏習合し、かつ道家思想にもなじんだ平安朝貴族に浸透しやすかった大きな要因だろう。」と書いていて、なるほどと思いました。
いくら漢詩に堪能だったとはいえ、異国の詩ですから、そう簡単には理解できなかったのではないでしょうか。それが平易な詩文となれば、ほとんどの方が理解でき、それを暗唱することも容易だったと思われます。
下に抜き書きしたのは、いわば著者が考える『方丈記』についての思いです。節の題名は「精神の贅沢への道標」としていますが、なぜか、今の時代にも通じることのように思います。
この本の最後の最後に「今年は、鴨長明が没して、ちょうど800年にあたる。」と書いて終わっています。ということは、よく、時代は繰り返すといいますが、まさにそうかもしれません。
(2016.9.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
鴨長明(ちくま新書) | 鈴木貞美 | 筑摩書房 | 2016年5月10日 | 9784480068934 |
☆ Extract passages ☆
鴨長明『方丈記』は、あたかも神仏が人びとをさとすために演出したかのような京の都を襲う厄災の数かずから逃れるすべを、住まいへの執着と他者への恩愛を断ち切る境地に求め、閑適にこそ訪れる精神の贅沢をうたっていた。そして、それを漢文と和文という異なるふたつの書き言葉に橋をかけ、流れるようにしくむという超絶技巧によって提示していた。それこそ、「かういふこともあるのかと思はせる性質」のものであり、ひとつの文化の創出だった。
(鈴木貞美 著 『鴨長明』より)
No.1282 『非常時のことば』
この本の副題は「震災の後で」ですから、この非常時というのは東日本大震災のことです。
たしかに、あのときには、言葉は無力のような気がしたし、言葉で何ができるのかと思いました。だから、何もできない私は、あの非常時に行ってはいけないと思っていました。そこで、マスコミなどで知るしかないのですが、そこには無力感しかありませんでした。やはり、自分の目で確かめたいという強い思いがあり、それをいつも押し込めてきたように思います。
それが、今年の8月に気仙沼に行く機会があり、リアス・アーク美術館で開催されている「東日本大震災の記録と津波の災害史」を拝観しました。ここには写真だけでなく、被災した生活道具なども展示されていて、さらにその威力のものすごさが伝わってきました。
そこに展示してある写真の1枚のコメントに、「研修などで行くのははばかれると思うかも知れないが、一人でも多くの人たちにこの現実を見て欲しい」と書かれていて、なるほどと思いました。私たちにできることは、この大震災を風化させないこと、伝え続けることだと思いました。また、唐桑半島にも行き、唐桑半島ビジター・センターの隣にある「津波体験館」ではその怖さなどを疑似体験しましたが、この施設がオープンしたのは1984年(昭和59年)7月7日だそうで、今回の大震災のだいぶ前と聞いてびっくりしました。それでも、大震災後の2013年4月にリニューアルし、津波体験館の映像も少し新しくなったそうです。
ここ唐桑半島ビジター・センター内では、過去の地震や津波などの資料を展示したり、テレビでは今回の大震災の生々しい映像を見ることができました。さらに、唐桑半島の自然や暮らし、津波の歴史等の展示や、四季を彩る植物などもパネル写真で紹介しています。
そのときに聞いたのですが、ニュースなどでも流れていますが、あの巨大な防波堤を作るべきか作らないほうがいいのかという問題がいまでもあり、各地区に一任されたということでした。私たち山国に住む人間には考えてもわからないことですが、津波体験館で疑似体験をした後では、自然の猛威には人間は絶対に対抗できる力はないということだけはわかりました。
もちろん、言葉もそうだと思います。でも、言葉で伝えていかなければ、映像だけでは困ります。この本では、「映画や写真は、「文章」よりも遥かに生々しく、人間の体や表情を、あるいは、ものや風景を、ぼくたちの前にもたらすけれども、もちろん、それは、実物ではない。どれほどすさまじく、悲惨で、正視に耐えがたい映像であっても、ぼくたちは、とりあえず、それは単に映像であるにすぎない、といいきかせることができる。だから、映像よりももっとずっと間接的な表現である「文章」によって表現されたものは、ぼくたちよりうんと遠くにあるのだ。そのように、ぼくたちは考えるのである。」と書いてはいますが、その他の例をあげて、「非常時」の「文章」がこんなにも素晴らしいものになりうるといいます。つまりは、文章だからこそ、伝わるものがあるということです。
下に抜き書きしたのは、その書くことについてですが、まさに書くというのは選ぶことだと思いました。そして、そのことは、すべてに通じることだと感じました。
(2016.9.21)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
非常時のことば(朝日文庫) | 高橋源一郎 | 朝日新聞出版 | 2016年6月30日 | 9784022618627 |
☆ Extract passages ☆
「ウソを書く」のではなく、現実のままでは混乱して理解することなんかできない、この世界のことを書くために、ぼくたちは「選ぶ」のだ――そう考えることもできるだろう。
たくさんの可能性の中から、たった一つの「道」を、自分の責任で「選ぶ」こと、それが、「書く」ということの意味だ。だから、ぼくたちは、なにかを書いてしまった瞬間、それ以外の「可能性」をすべて捨ててしまうのである。
ぼくたちは、みんな、そうやって書いている。当たり前のことのようにして、一つを選び、他を捨てる。そして、捨ててしまった可能性のことを忘れるのである。
でも、それは「書く」時だけじゃない。ぼくたちは、生きる時、いつも、なにかを(誰かを)、選ぶ。それは、それ以外の可能性(誰か)を捨てることでもある。「書く」ことは、「生きる」ことに、なにより似ているのである。
(高橋源一郎 著 『非常時のことば』より)
No.1281 『花からわかる野菜の図鑑』
この本は、読むというよりは図鑑ですから見るという感じです。でも、野菜をこれだけ豊富な写真で紹介するのは、あまり例がないのではないかと思います。
それと、私もだいぶ前から、野菜の花はきれいだと思い、いろいろな野菜の花を撮ってきました。その度ごとに、感動してきました。
この本では、一番最初にニンジンの花の写真が載っていましたが、まさにレースのように繊細な白い花です。これを下から撮ってるので、まさに日傘のパラソルのような感じです。
もちろん、いろいろな野菜の花や果実、さらにはその生長段階の写真など、ほとんどフルカラーの図鑑という装丁になっています。副題が「たねから収穫まで」とあり、まさに野菜をたねから収穫されるときまで、さまざまな写真が載っています。
この本を見ただけで、1ページずつ、開いてみたくなりました。
著者は、自然写真家という肩書きだそうですが、花や風景といったジャンルを超えた写真を撮っているようで、まさに自然そのものを撮っているかのようです。その自然のなかに野菜もあるということです。
そういえば、今年の7月に中国雲南省に行ったのですが、そのときに、とても辛いアオトウガラシがあり、塩をつけて食べました。もう、ちょっとかじっただけで、むせてしまいました。そこで、世界には、これより辛いトウガラシってあるのかなと思い、この本で調べてみました。
すると、その辛さをあらわす単位があるらしく、SHU(スコヴィル値)というそうです。つまり辛さの量をこの単位であらわします。それによると、世界一辛いトウガラシは「カロライナ・リーパー」といい、3,000,000SHUだそうです。その次が「トリニタード・モルガ・スコーピオン」で2,000,000SHUですから、その単位差からかんがえると、世界一辛いのは、ほんとうに辛そうです。写真でみると、表面は細かいこぼこやシワがあり、つぶれてしまっているかのような形をしています。見るからに、辛そうです。というより、辛いと思って見るから、辛そうだと思うのかもしれません。
また、今の時期になると、ナスも皮がやわらかくなり、美味しくなります。このナスも世界中にはいろいろあり、縞模様の「洋ナス」から、ヘビのように長い中国産の「ヘビナス」もあります。日本産では、「味しらかわ」というひもナス系があり、長さ20〜30pの白い長なすでアクが強いそうです。また埼玉には、「埼玉青大丸ナス」があり、緑色で300〜450グラムもあるそうです。
それらを、すべて写真で見ることができますから、とてもわかりやすく、おもしろかったです。
下に抜き書きしたのは、このナスの解説の一部です。
(2016.9.18)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
花からわかる野菜の図鑑 | 亀田龍吉 | 文一総合出版 | 2016年6月1日 | 9784829972113 |
☆ Extract passages ☆
原産地は不明だが、インド東部が有力とされる。ビルマ経由で中国に渡り、奈良時代にはすでに日本での栽培記録がある。国内では、一部の例外はあるが基本的に南ほど果実が長大な品種が多く、北へいくほど小さい傾向がある。温暖な地域を中心に、世界には1,000近くの品種があるといわれ、近年、日本でも洋ナスや新品種が多く出回っている。旬は7〜9月。高知県、熊本県、群馬県が生産量ベスト3。世界では中国、インド、イランの順(2013年)。
(亀田龍吉 著 『花からわかる野菜の図鑑』より)
No.1280 『フランスからお遍路にきました。』
いつかは四国八十八ヶ所霊場へ行きたいと思っていたこともあり、「お遍路」とあっただけで、すぐに四国のお遍路だとわかりました。
そういえば、だいぶ前のことですが、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の本を読んだこともあり、そのことも思い出しましたが、それをまわっているときにいろいろな出会いがあり、さらには四国の巡礼紀行を出版しているレオ・ガントゥレと知り合ったり、目的が定まると自然に進む方向が決まってしまうようです。
私も巡礼というのは、きっかけだと思います。それは人との出会いだけでなく、人生の大きな節目だったり、その人によって様々です。でも、結局は巡礼の旅に出てしまうようです。でも、それがフランス人だから、不思議といえば不思議なことです。
でも、外国人だからこそ、日本人ではわからないところや感じ方の違いがあると思いました。たとえば、日本人はツアーでお遍路する方が多いようですが、外国人は自分のリズムを大切にします。それを、「たとえ「時間厳守」が日本社会の重要事項であり、それを欠くことが無礼だとしても、それでもわたしは、「急いで」という言葉があらゆる場面で使われ、みんなその先に何があるのかよく分からないままに走り回り、予定帳が目安ではなく規則となって行動を縛りつけたり、生活を重圧で支配するような、そんな緊急性の独裁には屈したくない。わたしは、時間の所有権を取り戻し、そして、自分の内なるリズムに敬意を払いながら、慌てずに、この一歩一歩の歩行のなかに生きることを、激しく求めている。」と書いています。
おそらく、日本人は知らず知らずのうちに時間に縛られてしまっているようですが、このような本を読むことによって、時間を自分の使い勝手の良いように変化させることはできます。たしかに、時間で人に迷惑をかけては困りますが、自分の時間にまで縛られたままでは、それにも問題があります。この本を読んで、改めて時間の問題を考えさせられました。
でも、外国の人から見るとおかしなこともありますが、まったく日本人と同じような感覚もあり、たとえば、「これでわたしの納経帳は、歩き続けた者の豊かな移動の跡が残された、たくさんのご朱印でいっぱいになった。ときに大胆で、ときに軽快な墨書の筆の運び。これを開けば、それぞれのページからたくさんの顔や、親愛の情にあふれる感動的な出会いや、万華鏡のようにめくるめく鮮やかな色彩や、夜明けに光る朝露のしずくや、変化に富む虹色の風景が飛び出してくる。」と書いてありますが、おそらく、ご朱印を集めている方は、このような感覚は理解できるでしょう。私も、そのような思いで、ときどき既にまわったところのご朱印帳を開いて見ることがあります。
しかし、「苦痛を、疑念を、驚嘆を、恩寵の瞬間を、時間の流れにうわぐすりをかけた、ちょつとしたよろこびの小片の数々を感じとらえるだろう。生きることの濃縮物が、両手のなかで突然活気づくだろう。」という感覚までには、なかなか至りません。
これは、おそらく著者が言語治療士という仕事をしているからこそ、感じることなのかもしれませんが、そこまで考えるよすがになるとすれば、ご朱印帳もすごいものです。
下に抜き書きしたのは、キリスト教のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路と日本の四国八十八ヶ所の巡礼との違いを的確に表現している部分です。ぜひ、お読みいただければと思います。
(2016.9.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
フランスからお遍路にきました。 | マリー=エディット・ラブァル 著、鈴木孝弥 訳 | イースト・プレス | 2016年7月14日 | 9784781614502 |
☆ Extract passages ☆
明日は第一番の札所に戻る。八十八ケ所を回り終えた結願後の慣習に従って、当初の出発地点に戻って巡礼を仕上げるのだ。この長旅の円環状の様相――曼荼羅のような――は、ただあるわけではない。象徴的に、円環は無限を、完全を、絶対を、天上的なものを、上昇を体現している。巡礼者が明確に定まったひとつの場所を目指すサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路とは違い、四国では、遍路は一点の最終目的地に向かって歩くのではない。遍路は、死と復活の輪廻をともなう命の車輪に似た輪舞(ロンド)に加わるよう誘われるのだ――自覚を増し、自己再生へと向かうロンドに。この循環的な運動は、軌道を見失った自分と更新された自分との間の連結符のようなものであり、「人間」を「仏教的に悟った人間」へと向かわせる運動だ。
(マリー=エディット・ラブァル 著、鈴木孝弥 訳 『フランスからお遍路にきました。』より)
No.1279 『哲学者に会いにゆこう』
この本の表紙のイラストに惹かれました。丸いテーブルに肘をのせマイクを差し出し、気軽な感じで、というか音楽を録音するかのような雰囲気で、その下にはネコが丸くなって寝転んでいます。
これが哲学を聴く雰囲気ですかと、と聞きたくなります。
でも、ほんとうは、哲学というのは、このようなありふれた日常のなかで聴ければいいと思っていたので、このイラストを見て納得したのです。
しかも対談形式なので、ちょっとはわかりやすいかな、とも思いました。
しかし、それは完全に裏切られました。やはり、何度も何度も読まないと、わからないことだらけでした。
たとえば、永井均さんが最初に自分の著書を読んだところですが、「人間は動物ですから、生物学的な理由で生まれてきます。生物としての人間の一器官である脳は意識を生み出すので、脳があれば人間としての精神状態や心理状態が生まれます。ですから、世の中に人間がたくさんいて、多くの脳が意識を生み出していることは不思議ではありません。これは科学的に説明できる事態です。しかし、一つ不思議なことがあります。そのように意識をもつたくさんの人間のうちの一人が、なぜか私である、ということです。多くの人間がいて、様々な精神が存在するが、その中で私であるという特別な在り方をした人間はただ一人です。どうして、そんな例外的な在り方をしたやつが、一人だけ存在しているのでしょう」といいますが、やはり哲学は私という個人の概念をしっかり持たないとその先には進めないものなのかもしれません。
それと、おもしろいと思ったのは、バンド活動をしながら障害者の自宅介助員として働いている風間コレヒコさんの哲学と音楽の違いについて述べたところで、「これって哲学と音楽の違いだなって思うんですけど、哲学ってどんだけ引いて客観的に見れるかというところが勝負だったりするじゃないですか。誰かの意見に対して一歩引いて、それはどういう意味なんだろうって考えて、批判して。今度はその自分の批判がどういう立場から言ってるんだろうと、もう一回自分で引いて。どんどん引いていってメタ的な視点で捉えていくつていう作業をしてると思うんですけど。音楽って、自分を引いて客観的に捉えるっていうことをしないほうがいいと思うんですよ。音楽をやってるときって。「引くな引くな」、「押しちゃえ押しちゃえ」、「間違ってていいから進んじゃえよ」みたいな感じのほうが面白いことができるっていうか。そこが違いかなって思いますね。」と書いていて、なるほど、たしかにそういうことってあるかも、と思いました。
哲学って、あってもなくてもあまり生活には困らないと思ってましたが、やはり、持っていたほうが自分の考えをしっかりとまとめることができ、意外と重宝するかも、と思いました。やはり、考え方というのは、大事です。
下に抜き書きしたのは、同じ風間さんが、自分が哲学をしようと思ったきっかけの話しです。この他にも、大検を受けて、千葉大文学部で哲学を学んだ人などもいて、さまざまな人たちの哲学を紹介しています。
もし、機会があれば、読んでみてください。哲学っておもしろいと思いますよ。
(2016.9.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
哲学者に会いにゆこう | 田中さをり | ナカニシヤ出版 | 2016年4月30日 | 9784779509926 |
☆ Extract passages ☆
哲学自体の興味っていうのは、永井先生の『(子ども)のための哲学』を、高校を卒業してプラプラしているときに見て。それまで、何かその、哲学ってのを全然知らなかったんですよ。あの本を読んで「これが哲学なんだ」と思って、ちっちゃいころにものすごく考えていたことだなと思ったんですね。僕ちなみに、そのときにその本読んですぐ千葉大に電話かけて、「すいません、永井先生っていう方、いらっしやいますか? 話がしてみたいんですけど」みたいな電話かけてるんですけど、事務所のお姉さんに「受験してください」って言われて、でも本当に受験して、ゼミに行くようになったんですけど。
(田中さをり 著 『哲学者に会いにゆこう』より)
No.1278 『挑み続ける力』
たまたまですが、NHK出版の本が続いてしまいましたが、つい手に取っただけの話しです。
副題は「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、そのスペシャルとして放映された『挑み続ける力』をまとめたものです。この言葉は、2006年1月10日に「プロフェッショナル 仕事の流儀」としてスタートして以来、すでに300名を越える方々が登場されたそうです。
その方々をもう一度登場していただき、その後を語っていただくというようなものです。でも、不思議とその仕事の流儀を続けている方が多いとのことで、この『挑み続ける力』というタイトルになったようです。
そのメンバーは、将棋の羽生善治、星野リゾート代表の星野佳路、リンゴ農家の木村秋則、元半導体メーカー社長の坂本幸雄、歌舞伎の坂東玉三郎、作業療法士の藤原茂、建築家の伊東豊雄、バレリーナの吉田都、サッカーの三浦知良、囲碁の井山裕太、の10名の方々です。
少しは知らない方もいますが、ほとんどが超有名人です。しかも、今現在も活躍されている方々です。
この本のおもしろさは、すでに「プロフェッショナル 仕事の流儀」で取りあげた方を、再度取りあげ、その間のことなどをつまびらかにしながら、続けることの大切さや大変さなどを描き出していくことです。いわば、「あの人は今?」みたいなものです。
でも、すごい人たちの考え方は意外とシンプルで、たとえばリンゴ農家の木村秋則さんは、「「私はよ、壁は自分が作ってると思うの。他人が作った壁というのは少ないと思うよ」。そして、そもそも「壁」は「乗り越えるものではない」と、木村さんは言う。「自分に不安あるとさ、越えられないよ。自分にもっと自信を持つべきだと思うのな。乗り越えようとするのが駄目なの。自信さえ持てば、壁なんていつの間にか消えるのにな」。自分に自信を持つ。そう、それこそ木村さんが何年もの間、やり続けたことだった。誰もが「無理だ」と言うなかで、必ず答えがあると、自分に言い聞かせていたのだ。」といいます。
たしかに、壁なんて、自分でそう思っているだけだと思います。でも、現実にできそうもないことをやってきた人が言うと、本当にそうだと思うから説得力があります。
また、バレリーナの吉田都さんの言葉も、いったんは引退まで考えたとは思えないような様子で、「肉体の衰えは避けられない。だが、歳をとっても、できることは、まだたくさんある。人はこんなにも変われるし、強くなれるのだ。「歳をとるのもいいなって思います」と深い感慨をこめて語る吉田さんの瞳に、崖っぷちの毎日を闘っていた頃の、あの力強い輝きが再びきらめいていた。」といいます。
やはりバレリーナは体力もそうだし、いろんなことで歳をとれば欠点として出てきそうです。でも、それを否定せずに「いいな」と言えるということはすごいことです。
下に抜き書きしたのは、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんのことで、幼い頃に小児麻痺を煩い、さらに女形としては背が高すぎたので腰を曲げたり、膝を折ったり、いろいろな苦労の連続だったようです。それでも、「役をいただけるのは有り難いこと」と必死に頑張ってきたみたいで、そんなにアのことまでは考えられなかったといいます。
だから、このような言葉になったようです。
それと印象的だったのは、引き際のことですが、フェードアウトがいいと言います。つまり、「あっ、そういえば最近出演が少ないね」という感じだそうです。私もこれは理想だと思います。「あっ、最近あまり見かけないね」、と言われたときには、もうこの世の中にはいなかったというぐらいな感じです。
(2016.9.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
挑み続ける力(NHK出版新書) | NHK「プロフェッショナル」制作班 | NHK出版 | 2016年7月10日 | 9784140884928 |
☆ Extract passages ☆
一日一日、まさしく崖っぷちを歩くような想いで過ごしてきて辿りついた境地、それが「遠くは見ない、明日だけを見る」だったのだ。
「今日と明日、明後日のせいぜい3日後ぐらいまでを充実すれば、自然と10年先、20年先に導かれるんじゃないかという気がします。一日一日、明日のことだけ考えてやって
きて、振り返ったら、あっという間に50年以上が過ぎた、という感じですね」
玉三郎さんはさらりと言うが、それはつまり「毎日が全力疾走」という日々を半世紀以上も続けてきた、ということだ。まるで、短距離走のトップスピードでマラソン以上の距
離を走り続けるように。
(NHK「プロフェッショナル」制作班 著 『挑み続ける力』より)
No.1277 『ブッダ 最後のことば』
お釈迦さまの最後の旅を追体験したのは、2012年12月でしたが、それ以前もなんどかお釈迦さまの足跡を訪ね歩いたことがあります。
そのときにも考えたことですが、お釈迦さまの教えはたったひとつしかないのに、なぜ上座部と大乗というまったく違う教えに変わっていったのか、不思議でした。そして、スリランカやミャンマーに行く機会があり、上座部の仏教に触れれば触れるほど、その違いに愕然としました。それほど、違うのです。
この本は『ブッダ 最後のことば』で、旅ではなく、その旅のなかでお釈迦さまが語られた言葉を書いているらしく、しかも副題は「正しい教えは滅びない」とあります。
これはぜひ読まないと、と思いました。
この上座部の仏教を、この本では「釈迦の仏教」と呼び、その違いを明確にしています。たとえば、慈悲という考えひとつにしても、「両者の違いは、動物の行動にたとえると分かりやすいでしょう。親鳥は子どもの前でエサを取って見せますが、それを見た雛鳥は、親に倣って自分でエサを取るようになります。つまり、エサを取る自分の姿を子どもに見せることが、結局は子どもを助けること、すなわち教育になるこれが「釈迦の仏教」でいう慈悲です。対して大乗では、たとえば飢えたトラを助けるために「私を食べなさい」とトラの前に身を投げる。それを慈悲だと言うのです。自己犠牲の心ですね。」と言います。
たしかに、これはわかりやすいたとえです。でも、これだけでは、私はどちらも大切な心だと思います。
しかも、この本で取りあげている『涅槃経』も、「仏教世界に二本の異なる『涅槃経』が存在しており、釈迦というブツダを一人の人間とみる阿含『涅槃経』はスリランカや東南アジア仏教国の人々の思想形成に大きな影響を与え、他方、釈迦も含めたすべてのブツダは永遠の存在であり、実はそれがそのまま私たち自身の姿でもあると唱える大乗『涅槃経』は、日本をはじめとした東アジア仏教国の世界観を形成してきました。」とあり、複数の存在を指摘しています。
実際に、この他にも古代インド語で書かれたものが数本、さらにはチベット語に翻訳されたものもあるそうで、現存する資料だけでもかなりあるそうです。
もちろん、それらすべてを参考にするわけにはいかないので、私は岩波文庫の『ブッダ最後の旅 大パリニッパーナ経』中村 元訳、しか読んだことがありません。じつは、それを持って、それを読みながらお釈迦さまの最後の旅を追体験したのでした。
帰ってきてから、それに類する本を集めましたが、現在手元にあるだけでも、10数冊はあります。それ以外にも、たとえば、五木寛之『仏教への旅』インド編にも、くわしく載っていますし、瀬戸内寂聴『釈迦』や中村 元『ブッダの生涯』にも取りあげられています。
ということは、この『涅槃経』は、とても重要な経典であるということです。
下に抜き書きしたのは、「仏教とはなにか」と問われた時の答えです。これはとても大切なことなので、ここに記しました。この考えには、上座部も大乗もないと思います。
(2016.9.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ブッダ 最後のことば | 佐々木 閑 | NHK出版 | 2016年6月25日 | 9784140817018 |
☆ Extract passages ☆
仏教には万国共通の絶対的定義が決まっていることをご存じでしょうか。「仏教とはなにか」と問われた時の答えです。……すなわち三宝です。「仏」とは文字通り、ブツダのこと。「法」とはブツダの教えです。そして3つめの「僧」とは修行のための組織であるサンガを意味します。ブツダとブツダの教えとサンガ、この三つで仏教は成り立っているというわけです。3番目の「僧」は日本ではお坊さんのことだと勘違いされがちですが、それは後代の間違った解釈で、本来は組織の名称です。サンガというインド語が「僧伽」と漢字で音写され、それが一文字に省略されて「僧」となったのです。ですから「仏教とはなにか」と問われたなら、「ブツダ(仏)を信頼し、ブツダの教え(法)に従って暮らす修行者たちが、サンガ(僧)を作って誠実に修行生活を送っている状態です」と答えれば100点です。
(佐々木 閑 著 『ブッダ 最後のことば』より)
No.1276 『必笑小咄のテクニック』
講演を頼まれた時には、聞く方がどの世代なのか、性別は、あるいは特定の趣味を持つ方なのかなど、ある程度のことがわかっていないと話しにくいものです。
一番大変なのは子どもたちで、小学1年生と6年生では、知識も考え方もまるっきり違います。だから、同じような話しをしても、まったく興味ないかわからないかのどちらかです。でも、唯一わかるのは、笑ってもらえるような内容ではないかと思います。
私も講演会では、少しでも笑いがあるようにと心がけていますが、この笑わせるということが意外と難しいのです。よく、喜劇役者はほんとうに頭が良く回転も速いといいますが、たしかにそうだと思います。
だから、著者の「3年も前のことになるが、第9章で紹介したイタリア語通訳界の大横綱、シモネッタ.ドッジこと田丸公美子さんと聴衆を前に対談した。テーマは通訳という稼業について。対談の依頼を引き受けた時点で、田丸さんとわたしほ話し合いを持った。田丸さんはサービス精神が旺盛な人で、せっかくお金と時間を費やして話を聞きに来てくださる方々には、ぜひ満足してもらいたい。できれば、その満足の度合いを目に見える形でつかみたい。その最も手っ取り早い方法は、笑い。笑いは、舞台と聴衆、またその日その場で初めて居合わせた聴衆の一人一人を一瞬にして一つにしてくれる、と考えている人である。田丸さんとわたしの見解は、この点で完全に一致した。」と書いていますが、まさにその通りです。
もともと、パロディーという語源は、この本にも書いてありましたが、「語源はギリシャ語のpara(疑似)+oide(歌)=paroidia――と名付けている。有名な文学作品の文体や形式を模しながら、内容をすり替えてからかったり風刺したりする方法」ですが、子どもの替え歌なども似たようなものです。だから、小学生にも通じるのです。
でも、それを講演会で使うのは意外と難しく、使いすぎても品位を落としますし、使わないと退屈して飽きられてしまったりします。だから、品が良く笑いもとれるような話しはないか、と思って読み始めたのです。
下に抜き書きしたのは、著者が書いているオチをつくるセオリーです。
そして、このセオリーに準じた小咄も掲載してあります。
でも、これはやはり読んでいただかないとわからない部分もありますので、ぜひお読みいただきたいと思います、ちなみに、この本はブックオフで購入したのですが、108円でした。
おそらく、少なくとも、これ以上の価値はある本だと思います。
(2016.9.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
必笑小咄のテクニック(集英社新書) | 米原万里 | 集英社 | 2005年12月21日 | 9784087203233 |
☆ Extract passages ☆
1、オチが最後に来ること。これは絶対条件。2、オチを成立させるための前提条件を先行させること。3、オチも前提条件もあたかも必然であるよう、要するに取って付けたような感じがしないよう取り繕うべく他の情報の順序に配慮すること。4、最後のオチまで付き合ってもらえるよう、謎と答えを小出しにしていくこと。5、できれば謎解きとミスリードをシンクロさせること。6、そして理想は、最大の謎の氷解とオチとを一致させること。
(米原万里 著 『必笑小咄のテクニック』より)
No.1275 『「盆栽」が教えてくれる人生の答え』
何気なく手に取った本でしたが、とてもおもしろかったです。
というのは、生まれたときから盆栽に囲まれて育ち、いつも見続けてきたことや、さらにひとり娘だったこともあり、そのまま盆栽園「清香園」の五代目になったようです。
もちろん、ある程度の紆余曲折はあったにせよ、まさに習わぬ経を読むということです。しかも、名前の一字に「清香園」の「香」が付いているぐらいですから、なるべくしてなったように思います。
私も植物は好きですから、いろいろとなるほどと思うところがありましたが、そのひとつに、「世の中には数字では表現できないもっと大きな世界があります。盆栽もその中のひとつ。たとえば盆栽で花の咲く木は、満開でなくてもいいんです。たくさんの花が咲かなくても、たった一輪の花でいい。その一輪がものすごく愛おしい。それは手をかけ信頼関
係を築いた仲だからこそ味わえる美しさです。」と書いてあり、つい、「そうそう!」と頷いてしまいました。
今の世の中は、成果主義というか、ほとんどが数字で表される世界です。数字であらわされないと、無視されたりします。でも、この世の中のほんとうに素晴らしいものは、ほとんどが数字で表し得ないような気がします。
この本を読んで、実際の栽培に役立つものとして感じたのは、素焼き鉢と釉薬のかかった化粧鉢の扱いです。私はほとんど素焼き鉢で育てていますが、そのほうが植物にとって過ごしやすいと思っているからです。
盆栽屋の五代目に、「弱った木を素焼きの鉢に植え替えてあげると深呼吸しているように見えるんです。「はぁー、少しラクになったぁ」と。」と言われると、やはり納得します。見せる盆栽でさえ、そうなんですから、普通の植物はなおさらです。
さらに、「お客様のところで根腐れして、水をやっても吸い込まずに土が乾かなくなった場合も、お預かりして素焼きの鉢に植え替えてあげます。そうするとまた元気になっていくのです。元気になった木を見て、思います。人も窮屈さを感じたときには、深呼吸できる場所に行くのもいいかもしれないなぁ、と。」と書いてあり、人も植物もやはり生きものなんだと思いました。
下に抜き書きしたのは、日本人のお花見の風習についてです。
そういえば、ここに出てくるイギリスの植物学者の話しは、どこかで読んだような気がします。
(2016.8.31)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「盆栽」が教えてくれる人生の答え | 山田香織 | 講談社 | 2013年2月26日 | 9784062182041 |
☆ Extract passages ☆
お花見も桜のみならず、あらゆる花見があったそうです。桜が咲いたといえば酒を飲み、菖蒲が咲いたといえば菖蒲園に行き、朝顔が咲けば市を立てて品評会を行って。もう、遊ぶための口実です。植物は春夏秋冬の移ろいを見せてくれて、生活を彩るものとして、いつも身近にあったのです。
「毎日を楽しむこと」――そのヒントは江戸文化にありそうです。火事が多く、一晩で何もかもを失くしてしまうはかなさを知っていたからこそ、日々を楽しもうとしたんでしょうね。
当時、園芸先進国といえばイギリスでしたが、イギリスの有名な植物学者が江戸に来て驚愕したそうです。
「市井の人々までが植物を愛し、植物を身の回りに置き、植物のデザインをあらゆるものにちりばめて日常を楽しんでいるという点では、わが国よりも日本国民は優れている」と。
(山田香織 著 『「盆栽」が教えてくれる人生の答え』より)
No.1274 『英国ファンタジーをめぐるロンドン散歩』
2014年7月にイギリスに行ったので、この本をパラパラとめくっただけで、とても懐かしく感じました。
写真もきれいで、そのとき行ったところが鮮明に思い出されました。あまり、ファンタジーものは読まないのですが、一種のロンドンの観光案内という気持ちで軽く読みました。
やはり、百聞は一見に如かず、といいますが、行ってみないとわからないこともたくさんあります。たとえば、日本では、ホテルなどは高層階ほど宿泊料は高いのでなかなか泊まれないのですが、イギリスでは逆なのです。この本には、「イギリスの建物の最上階は使用人や子どもたち専用なのが習わし。要は、身分の低い人のためのフロアだ。歴史ある高級ホテルではその名残で、広々としたアッパークラスの客室が低層階に位置する。出張でロンドンを訪れた生真面目な日本のビジネスマンが「社長よりも上の部屋で眠るなんて……」と困惑していた、などという話を某所で聞いたこともある。」といいます。そういえば、私が泊まったところも、安かったせいか屋根裏部屋のような感じでしたし、エレベーターがないので、荷物を持って階段を上がるのは大変でした。
この部分を読んで、そのときの印象が蘇ったほどです。
そういえば、スリランカのキャンディで泊まったホテルも、古い建物で、かつてはイギリスの総督の住まいだったそうですが、私が泊まった1階の部屋は、とてつもなく広く、むしろ落ち着かないぐらいでした。
この本を読みながら、イギリスに行ったときのことが地図や写真で思い出され、つい、そのときに撮った写真を見てみました。ほぼ、同じ位置から撮った写真もあり、あるいはピカデリー・サーカスにあるフォートナム&メイソンで食べたときの2階の「ザ・パーラー」なども少し違ってはいましたが、懐かしかったです。
下に抜き書きしたのは、コラムに書いてあった「花とともにあるイギリス人の暮らし」の1節で、なるほどと思いました。
私がイギリスで訪ねたところのほとんどが植物園ということもあり、そこを散歩しながら花を愛でていた方々を思い出しました。たしか、ロンドンの町中にも、花が多かったように思います。
だって、植物園にはほとんど売店があり、そこでも苗木や花たちが売られていましたから、それを買い求めた人たちは自分の玄関や庭に植えたはずですから。
(2016.8.29)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
英国ファンタジーをめぐるロンドン散歩 | 山内史子 文、松隈直樹 写真 | 小学館 | 2016年7月4日 | 9784093884723 |
☆ Extract passages ☆
花は人にやさしい魔法をかける。……とはいえ、冷涼な気候のイギリスは、昔から花にあふれていたわけではないのだとか。大航海時代の冒険家や研究者たちによって世界各地の種子が集まり、研究が重ねられて、多彩な品種が根付いていったそうだ。
ヴィクトリア朝の産業革命もまた、花ある風景にひと役かっている。当時、田舎からロンドンに移り住んだ人たちが、自然豊かな故郷を思い出し、貧しいながらも花を飾りはじめたのだという。冬の天気も、影響しているかもしれない。
(山内史子 文、松隈直樹 写真 『英国ファンタジーをめぐるロンドン散歩』より)
No.1273 『はつみみ植物園』
植物関係では、最近、マスコミ露出が高いので、話題性があり、製本もCDサイズのユニークさが目立つので、図書館から借りて読みました。
本の左側に活字、そして右側に「はつみみ工房」の画があり、半分は読み、半分は見て楽しむようでした。さらに後半のほとんどは、自分がやってきたことの紹介で、自己紹介のページがこれだけのスペースのある本は初めてでした。
でも、「はじめに」に書いてある「6度の出版延期」というのが事実だとすれば、ただ忙しかったからというだけの話しかもしれません。
ほとんどのことはすでに知っていることですが、もしかして知らない人がいれば、そのネームバリューだけで手に取った人だとすれば、おもしろいかもしれません。たとえば、「さて問題。ニンジン、ハクサイ、ナスビ、ジャガイモ、ゴボウ、この中で海外からやってきた野菜はどれでしょう。……答えはすべてである。じつは、日本に出回っている野菜のうち約95%は海外から伝来した野菜だと言われているのだ。日本原産とされる野菜で確実なのは、フキ、ミツバ、ウド、ワサビ、アシタバ、セリぐらいで、それ以外のおれたち日本人が日常的に食べている野菜は海外から導入されたものであり、その原産地はじつにさまざまである。農業が始まった弥生(やよい)時代以来、中国大陸や東南アジア各地から、野菜をいろいろ導入して種類を増やしたのだ。日本中にはその地域地域の"伝統野菜"なるものが存在するが、じつはそれもほとんどは海外の植物なのである。」などは、野菜好きなら、おそらくは既成事実だと思います。
だいぶ前に、このなかに出てくるゴボウなどは原産地の中国では食べないそうですから、それが日本原産ではないというのが不思議でした。しかも、戦時中に捕虜にこのゴボウを食べさせたのが虐待ではないかという話しも残っているぐらいですから、なおさらです。
下に抜き書きしたのは、野菜はおいしくないが果物はおいしいという話しです。たしかに、このような考えというのは、著者らしいと思いました。
(2016.8.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
はつみみ植物園 | 西畠清順 | 東京書籍 | 2016年7月6日 | 9784487808823 |
☆ Extract passages ☆
野菜とは、埴物でいう根っこや茎、葉っぱなど自分の体そのもの。だから"食べられたくない"ワケだ。植物にとって自分の体そのものを誰かに食べられるメリットなどどこにもないわけである。道理で、不味くなるわけだ。
一方、果樹が実らす果物(果実)は、その中に種があるので、鳥や小動物に食べられることで種を遠くまで運んでもらうため、"食べられたい"のである。だからおいしくなる理由があるのだ。
日本では、食欲の秋という言葉があるが、たしかに秋になると樹々の実もいっそう甘みを増してくる。これには前述のように鳥などに食べてもらいたい理由以外にもう一つワケがあって、それは樹々が寒い冬を乗り越えるための身支度である。植物は、寒い冬に自分の細胞の中が凍ってしまわないように、気温の低下を感じると糖類を細胞内に蓄えて冬を乗り切るのだが、その結果、実が甘くなるというのもあるらしい。
(西畠清順 著 『はつみみ植物園』より)
No.1272 『日常を探検に変える』
ここ何冊かページ数の多い本を読んでいますが、昔よりはだいぶ時間がかかるようになってきました。それに、抜き書きするスピードも遅くなってきたようで、万年筆にインクを入れることも、ちょっと面倒くさいと感じるようになってきました。
でも、書くときぐらいは、万年筆を使いたいので、それも仕方ありません。以前はカートリッジのインクを使ったこともありましたが、なにせすぐなくなるので、やはりインクビンのほうが経済的です。それと、たくさんのインク瓶から選べることも楽しみのひとつです。
この本のもともとの題名は、「The Natural Explorer: Understanding Your Landscape」ですから、自然を頼りにする、つまりは計器などを使わずに、五感が受け取る情報を頼りに旅をする方法というような意味合いのようです。
だからこそ、読んでみたいと思いました。ところが読み始めると、意外と時間がかかり、それなりの探検に関わる文学などの素養がないとなかなか読み進められません。その結果、400ページほどの本を1週間程度、かかったようです。でも、読んでよかったと思いました。
つまりは、日常生活においても、興味や関心さえあれば探検しているときのようなワクワク感があることを教えられました。たとえば、自然の色使いについて著者は、「色は、生命の兆しの乏しかったところに、命の息吹をもたらし、喜びの源となる。長い間、雪の白と不毛な岩とに閉ざされていた平原に緑が満ち、やがて紫や金銀の花々がほころんでいくさまは、無上の美しさであると、シベリアを訪れたある旅人が記している。だが色は、実は見つけようと思えば、たとえ往々にして無愛想な山岳地帯というキャンバスにさえ見出すことができる。やすやすと立ち現われてはこないかもしれないし、あふれるほどに見つかるものでもないけれども、時が経過し、光が移ろうにつれ、ほんのつかの間でも色は現われる。」と書いています。
このことは、北国の人たちにとっては、すぐ理解できることだと思います。真っ白な雪がとけて、自然が柔らかな緑色に染まるときの喜びは、なにごとにも変えられないほど新鮮です。また抑圧されてきた冬の季節から解放される心の軽やかさは、もう、言葉にできないほど嬉しいものです。
この色の識別と文化についても、書いていますが、それは下に抜き書きしました。
また、これはありえるかもしれないと思ったのは、サンダルが誕生した秘話に関するものです。インドでは、祇園精舎を建てるために必要な土地を買うのに、そこに金貨を並べたという話しがあるほどですから、このような話しがあったかもしれないのです。それは、「その昔、古代インドのある国王が、毎日王国の荒れた地面を歩かなければならない臣民を気遣った。王は慈悲ぶかい人で、事態をなんとかいい方向へ向けたいと考え、解決策をひねり出した。領土の地面という地面に柔らかな獣の皮を敷きつめ、臣民のか弱い足の裏を守ればいいと思いついたのだ。賢明な側近のひとりが勇を鼓して別の手立てを提案した。獣の皮を小さく切って足にくくりつければ、もっと安くて簡単に、同じ結果が得られるのでは? こうしてサンダルが誕生した。」というのです。
これはおもしろいと思いました。もし、興味のある方は、ぜひお読みください。
(2016.8.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
日常を探検に変える | トリスタン・グーリー 著、屋代通子 訳 | 紀伊國屋書店 | 2016年7月15日 | 9784314011389 |
☆ Extract passages ☆
色の識別に文化がどれほど関わっているか、最も端的に示してくれるのが言語だ。色名の語彙が少ない言語を母語として育った人は、色の違いにあまり敏感ではない。ナミビア北部の遊牧民、ヒンバ族の人々は、目にするすべての色を表わすのに、たった五つしか単語を持たない。「ブロウ(burou)」という語で表わされる色は、緑、青、紫で、実験によると、ヒンバ族の人々は、緑と、さまざまな色合いの青とをほとんど区別しない。このように言語と認知の結びつく例は世界中で見られる。状況はまったく別だが、これと同じ事情で、ピンクと茶色を表わす単語ほウェールズ語にはもともとなく、移入されたものと考えられる。
(トリスタン・グーリー 著、屋代通子 訳 『日常を探検に変える』より)
No.1271 『子どもは40000回質問する』
この、子どもが40000回質問するという、この数字の根拠はあるのかな、と先ず考えました。家の孫たちもいろいろな質問をしますが、その質問の数を数えたこともないし、その数に意味があるとも思えません。たしかに、質問の数は多いと想像できますが、やはりこの質問の数字が気になりました。
その根拠は、この本に書いてあったのですが、「ハーバード大学の教育学教授のポール・ハリスは、子どもの問いに関する研究をしている。彼はシュイナードのデータに基づいて計算した結果、子どもは2歳から5歳のあいだに「説明を求める」質問を計4万回行うと推定している。「途方もない数です」と彼は言う。「これは、問いかけという行動が認知能力を発達させる重要な鍵であることを示唆しています。」と書いていました。
そして、この本の副題ともいえるのは、『あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』です。
この表紙の言葉が、この本を読むきっかけになりました。
そして気づいたことは、好奇心はそのままの成り行きにまかせておくと、つまりは歳をとるにしたがってしぼんでしまうという現実です。たとえ、子どもだってそうだそうです。やはり、好奇心を持ち続けるためには努力も必要だということです。
たとえば、パソコンでネットにつなげれば、いろいろな情報だけは手に入ります。昔のように図書館に行って調べることもないのです。
よく、無意識のように「検索する」という言葉を使っていますが、この検索するというのはサーチという言葉の翻訳です。もともとのサーチの意味は、「苦しみの伴う探究の旅に出ることを意味した。そこには疑問がさらなる疑問を呼ぶという含みもあった。途中で障害にぶつかり、道に迷い、求めていた成果を得られないこともあるが、旅の途中で何かしら学ぶことがあるだろう。頭のなかでは「知覚の領域」が地図のように広がっているはずだ。」と書いています。
でも、現在使っている検索というのは、グーグルなどのページにキーボードで言葉いくつか入力して、ほとんど瞬時に答えを導き出す作業です。ほんとうに簡単で安易な作業にしか過ぎません。
やはり、使えば使うほど便利なものですが、はたしてそれが正確な答えかどうかというと、それも問題です。まさに玉石混淆の世界のようです。それがインターネットの世界です。
下に抜き書きしたのは、ルービックキューブを発明したエルノー・ルービックが2012年にCNNのインタビューに応じたときの言葉です。
ここにパズルとミステリーの違いが鮮明に出ています。やはり人は、先がほとんど読めないようなミステリーにこそ興味を持ち、好奇心を奮い立たせるようです。わからないから、わかろうとする、そう思います。
(2016.8.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
子どもは40000回質問する | イアン・レズリー 著、須川綾子 訳 | 光文社 | 2016年4月20日 | 9784334962142 |
☆ Extract passages ☆
たとえばジグソーパズルは、時間をかけて取り組んで、完成したら終わりです。しかし、キューブは1つの解決法が見つかったからといって、すべてを発見したことにはなりません。スタート地点に立ったにすぎないのです。挑戦するたびに新しい発見があり、解決法に磨きをかけることも、解決までの時間を短くすることもできる。いくらでも深め、知識をはじめ多くのことを手に入れることができます。
(イアン・レズリー 著、須川綾子 訳 『子どもは40000回質問する』より)
No.1270 『お祓い日和』
たまたま図書館で手に取った本ですが、お盆にこのような本を読むのもどうかと思ったのですが、パラパラと開いたページに、「香と祓いの関係は、飽くまで仏教を中心とした東洋で育まれていったのだ」と書いてありました。
そもそも日本は、神道や仏教だけでなく、道教や陰陽道などもいわば共存していて、それらが複雑にからみあっているといってもいいような国です。だとすれば、お盆にお祓いの本を読むのもいいのではないかと考えました。しかも、副題は「その作法と実践」ですから、何ごともわかればすぐに実践できたほうがいいわけです。
たとえば、その香の用法ですが、「香が心を清めるからこそ、身に纏うことが喜ばれ、精神的なものに重きを置いた「道」の文化に昇華したのだ。日本における香の尊び方は、世界一といってもいいだろう。実際、香には祓いと共に心を癒す効果がある。香を喚ぐことで、我々の脳内にはβエンドルフィンが出、脳波はα波を描くのだ。その用法はふたつに分かれる。空間を清めるためたくか、心身浄化のため、身につけるかだ。」と書いてあり、「道」とは香道のことを指していると思います。
私は植物が好きで、見ることも育てることもいいのですが、この理由を「考えてみれば、少し前まで我々は緑に囲まれて暮らしていたのだ。海の上にでも行かない限り、我々の目にはいつでも植物が映っていた。だから、それらと隔絶した今の生活こそが不自然なのだ。」とあり、なるほどと思いました。
また、第2章の「お祓い暦」も、年中行事だけではなく、そのときどきで食べるものの由来や地方色などにも触れていて、これもなるほどと思いました。たしかに日本はこの年中行事が多いように思いますが、毎日のよどみを打破するのがこれらの行事だとする考え方にも興味を持ちました。
また、第3章の「厄年生活」も、神社でつかう「厄祓い」と仏教系でつかう「厄除け」との違いや、そのことをそれぞれの専門家に尋ねるということでその役割などを明らかにしています。なかでも、厄は祓うよりも自らの内で善に転じるという考え方はおもしろく、「厄は転じるもの、溶かしてしまうべきもの」と大船にある定泉寺のご住職は話されたそうです。なるほど、これも一理ありそうです。
下に抜き書きしたのは、厄年についての考え方です。
たしかに、次の土地に渡るための細い丸木橋を渡るようなもの、というのはおもしろい表現です。
(2016.8.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
お祓い日和 | 加門七海 | メディアファクトリー | 2009年7月24日 | 9784840128575 |
☆ Extract passages ☆
厄年は人生の節目に当たる。この節目という移行期は、次の土地に渡るため、細い丸木橋を渡るようなものと、私は考えている。
だからバランスも取りづらいし、場合によっては、川に落ちてずぶ濡れになったり、怪我をする人も出てくるわけだ。そうならないため、または怪我を早く治すため、私たちは
様々な手段を講じる。
場合によっては、これらの手段は痛みを伴うこともある。手術となれば痕も残るし、重すぎる荷物を背負って橋を行くならば、大事な物のいくつかを捨てねばならないときもあ
ろう。
だけど、それは悪ではない。傷は病巣がなくなったという証だし、捨てた荷物は下流の人へのプレゼントになることもある。
(加門七海 著 『お祓い日和』より)
No.1269 『ブッダと歩く神秘の国スリランカ』
今日から旧盆ですが、だからといって、この本を選んだわけではありません。
たまたまですが、私がスリランカに行った時は2011年3月10日で、それがとても強烈な印象として残っています。
それを思い出したので、少し冷静になって読んでみたいと思いました。この本に掲載された写真を見て、いくつか思い出したこともあります。
たとえば、キャンディに泊まったホテルは、すごく立派だなあ、と思ったのですが、この本を読むと、かつてはイギリスの総督の住まいだったそうです。そして、キャンディという町の名前は、もともとは現地の言葉で山上を意味する「カンダ・ウダ・ラタ」と呼ばれていたそうですが、その名前が長くて発音もできなかったので、山を意味する「カンダ」を彼らが呼びやすい「キャンディ」にして使ったことが始まりだそうです。
ここの仏歯寺は歴史があり、私も早朝にお詣りをさせていただきました。たしか、5時に行ったのですが、それでもお釈迦さまの歯がおさめてあるところの扉はあっという間に閉まってしまいました。しかたなく、その扉の前でお経を詠んでいたら、中から扉が開かれ、招き入れてもらいました。そして、その階段を上り、歯がおさめてある小さなパゴダのようなところの前でお詣りさせていただきました。もう、大感激です。
そのほかにも、この本には、私の行ったところがたくさん載っていて、ほんとうに懐かしく思い出しました。
でも、行く前は、学校ではセイロンという国だと習ったのですが、それが1972年からスリランカという光り輝く島という意味の国名に変わったようです。でも、なぜ、昔はセイロンという国名だったのかは知りませんでしたが、この本に、「この語源は、予期せぬ発見や出会い、それらを見つける能力を指すセレンディピティという言葉」だと書いてありました。
どちらの国名も語源をたずねるとなっとくできますが、正式には「スリランカ民主社会主義共和国」というのが今の正式国名だそうです。
そういえば、日本ではお釈迦さまの誕生日は4月8日となっていますが、スリランカでは、「満月の中でも、5月はさらに特別です。スリランカでは、ブツダが生まれた日と、悟りを開いた日、入滅(亡くなった)の日が、5月の満月の日だったと信じられているからです。5月の満月の日には、ブツダの生涯を祝う「ウェサック」という名の祭が、スリランカ中で盛大に開催されます。」とあり、この5月の満月の日にお釈迦さまが生まれたというのは、ネパールでもそうでした。
だから、4月8日にネパールのルンビニに行ったときには、あまり人はいなくて、ちょっと拍子抜けしたことを思い出しました。
下に抜き書きしたのは、スリランカの寺院になくてはならない3つのものについてです。しかし、日本ではこの菩提樹は寒くて育たないので、植えたくても植えられないのです。さらに、日本の仏教は大乗仏教で、しかも宗派の影響が強いので、どちらかというと宗祖を重んじる風潮があり、お釈迦さまが前面に出るということは少ないような気がします。
だからこそ、この部分を読んでほしいと思います。
(2016.8.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ブッダと歩く神秘の国スリランカ | にしゃんた | キノブックス | 2015年9月25日 | 9784908059186 |
☆ Extract passages ☆
寺院には必ず「仏像」「仏舎利塔」「菩提樹」があります。仏像はいわずして師であり、仏舎利塔はブッダにまつわる仏舎利(ブッダの遺骨、遺灰)などを収めている場所。菩提樹は、ブッダが悟りを開く際の背もたれにした聖なる樹木です。
お寺ならば、この三点が絶対に必要となります。日本の寺とはずいぶん違いますね。逆にいうと、敬虔なスリランカ仏教徒が日本にやって来ても、日本のお寺をお寺とは思えず、苦労する人が多いのです。
(にしゃんた 著 『ブッダと歩く神秘の国スリランカ』より)
No.1268 『旅に出よう』
またまた岩波ジュニア新書ですが、たまたま新しい図書館に行くと、夏休みということもあり、「旅」がテーマのコーナーがありました。
しかも、副題が「世界にはいろんな生き方があふれている」ということで、読んでみることにしました。そして、読んでみると、とてもオモシロかったです。
とくに、ただ旅の話しだけでなく、その旅で出会った人たちの話しを書き入れることで、旅に深味が出るように思いました。通りすがりの旅ではなく、少し腰を落ち着けた旅のような雰囲気も感じられました。
実際に、著者の略歴をみても、オーストラリアと中国に在住し、東南アジアとユーラシアを横断とあり、各地で旅と定住を繰り返したとあります。つまり、そこに少しの間でも住んでみたわけで、だからこそわかることもあります。
しかも、日本という軸足があるから、他との違いも鮮明に描き出せるのかもしれません。
たとえば、外国を旅行していて、危険な思いをしなかったかということに関しても、「日本の住みなれた場所にいるときに比べて、旅をしているときは、いろんなことに注意を払うことは大切です。いま自分がいるのはどんな場所なのか、自分は現地の文化を尊重した行動をとっているか、いかにもお金を持っている風に見えてないか、などを常に意識する必要はあります。でも、そういうことをきちんとして、常識的に行動すれば大抵の危険は避けられるはずで、外国だからといって決して恐れる必要はありません。また、外国を旅して、そのように身の安全に注意しながら行動することは、とても貴重な経験にもなります。そういう経験をすることで、自然に危険に対する嗅覚ができていくものです。」と書いていますが、たしかにその通りで、とくに今の時代はそのような経験も必要だと思います。
また、日本に帰ってきてからの生活も、「しんどいことも少なくないし、いつも若干の不安もあるけれど(それは誰でも同じだと思いますが)、旅での五年間を通じて、どんな状況でも「まあ、なんとかなるさ」と思えるようになったことは、自分にとってとても大きなことだと感じています。いまは、むしろ先がどうなっているか分からない状態こそを、未知の世界が待っている旅のようで、楽しく思えるようになっています。」ということも、私も実感です。
下に抜き書きしたのは、旅に出るときに必要なものについてです。私自身もそのときどきの持って行くリストを作りますが、それは忘れ物をしないというよりは、持って行くものをギリギリまでそぎ落とすためです。最初のころは、もしかすると使うかもしれないというものまだ持っていきましたが、そういうものは、ほとんど使わずにただ持って歩くようです。それなら、最初からもって行かない方が荷物が軽くなります。
だから、身軽になり、自由に動き回れるということにつながります。
(2016.8.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅に出よう(岩波ジュニア新書) | 近藤雄生 | 岩波書店 | 2010年4月20日 | 9784005006533 |
☆ Extract passages ☆
毎日バンを運転しながら、生きていくためには何が必要なのかを実感する一方で、実際に生きるために必要なものってじつはそんなに多くはないんだな、ということを感じるようになりました。必要なものというのは、すなわち、水、食料、ガソリンなどですが、それらを必要な量だけ持って広大な大地をひたすら駆け抜けていると、自分たちが一切何にも束縛されていないような、本当に自由な気持ちになれるのでした。
(近藤雄生 著 『旅に出よう』より)
No.1267 『オリーブの歴史』
これは『「食」の図書館』シリーズの1冊で、今までパンやカレー、キノコ、お茶、スパイスなどが出版されていますが、今回はオリーブです。
朝食にパンを食べていて、以前は植物性のマーガリンを塗っていましたが、カリマンタンに行って、その原料となるアブラヤシのプランテーションを見てから、マーガリンを使うのを止めてしまいました。
そのとき、思いついたのがオリーブ油とココナッツオイルです。どちらも使ってみましたが、好みとしてはオリーブ油で、ほぼ毎日使っています。でも、同じオリーブ油といっても、まったく味も値段も違い、いまはまだ試行錯誤している状態です。だから、いろんな国のいろいろな銘柄などを試してみていますが、未だこれだというオリーブ油には出会っていません。
だから、つい、この本を手に取ったのかもしれません。
この本は、『「食」の図書館』のシリーズ本ですから、オリーブに関するほぼすべてを網羅するように取りあげています。だから、これ1冊を読めば、なんとなくオリーブのことが理解できます。
一番、わかりやすいのは、訳者の伊藤さんが「訳者あとがき」で書いているもので、「オリーブの木は非常に長生きで、最高3000年も生きるという。生命力がきわめて強く、幹を切り倒しても切り株から新しい枝を出して生きつづける。オリーブは太古の昔から豊饒と再生、平和、純潔、強さを象徴するとともに、「聖なる木」として崇められ、宗教や神話と深く結びついてきた。大洪水のあとにハトがオリーブの枝をくわえてもどってきたという有名な旧約聖書の「ノアの箱舟」の逸話をはじめ、オリーブは聖書やコーラン、ギリシア神
話はもとより、『イリアス』『オデュッセイア』のような文学作品にも数多く登場する。とりわけオリーブの実から搾られるオリーブ油は、神殿の灯明の油や塗油のための香油、聖油など宗教儀礼に欠かせないものとして古くから尊ばれた。のちにオリーブ油は明かりの燃料や化粧品、医薬品のほか、調味料としても利用されるようになり、現在にいたるまで地
中海沿岸地域に住む人々の食生活において中心的な存在になっている。」といいます。
やはり、訳者というのは、その本を書けるぐらい、そのことに精通していないと訳せないこともあると思います。そういう意味では、著者と同じぐらい大事な役割だと私は考えています。
下に抜き書きしたのは、訳者の言葉と少しダブりますが、オリーブの樹の生命力についてです。おそらく、このような強い生命力が、人間にも強い影響力があると感じさせたのではないかと思います。
もし機会があれば、この他の『「食」の図書館』も読んでみたいと思いました。
(2016.8.8)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
オリーブの歴史 | ファブリーツィア・ランツァ 著、伊藤 綺 訳 | 原書房 | 2016年4月27日 | 9784562053179 |
☆ Extract passages ☆
オリーブは長い年月をかけて成長し、ほぼ永遠に生きつづけるという事実も、オリーブが象徴的力をもつようになったことと無関係ではないはずだ。イタリアのことわざにもこうある。「私はブドウの木を植え、父はクワの木を植えた。だが祖父はオリーブの木を植えた」
オリーブはまた栽培が容易で、あまり手がかからず、乾燥した気候とやせた土壌を好む。丈夫な果樹で、ソポクレスがこう述べているように、驚くべき生命力をもっている。「オリーブの木を切ったり焼きはらったりしても、すぐに新しい枝が出てくる」。最古の文明以来、オリーブの木とオリーブ油は多くの理由から、地中海沿岸地域において呪術的地位を与えられている。
(ファブリーツィア・ランツァ 著、伊藤 綺 訳 『オリーブの歴史』より)
No.1266 『自分の顔が好きですか?』
この岩波ジュニア新書のシリーズはとても読みやすく、難しい問題をわかりやすく解説してくれるので、好きな新書です。
この新書も、副題『「顔」の心理学』ということで、顔といういっけんとらえどころのない部分を心理学的な切り込みをしていて、とても興味深く読みました。
著者は、心理学の分野でも専門は実験心理学で、とくに赤ちゃんの認知発達や顔認識などの実験をしているそうです。だからなのか、「顔の学習は、なんと30歳になるまで続くともいわれています。とても長い学習であることが、わかります。ただし、淡々と学習が続くだけではなく、重要なターニングポイントがいくつかあるようです。それは、生後8か月と、その次が学童期、思春期、そして最後が30歳です。それぞれの時期でなにが変わるかというと、本人にとって大切な対象、記憶しなくてはいけない対象が切り替わることでしょう。赤ちゃん時期では、大切な顔はお母さんや家族でした。それが小学校に上がれば、クラスメートや友人に変わります。思春期になれば異性のパートナー、その後は家族を持てば家族に、大切な対象と状況は刻々と変化していきます。さまざまな顔と出会い、その状況が変わっていくことが、成長のポイントなのかもしれません。」と思いました。
また、お母さんは子育てをしながらお母さんになっていくと思っていましたが、「生まれてからの赤ちゃんとお母さんの行動を丁寧に観察した研究から、意外なことがわかってきました。赤ちゃんとお母さんは、生まれつきウマが合うわけではないのです。赤ちゃんがお母さんの目を見る時間と、お母さんが赤ちゃんの目を見る時間を、生まれた直後から観察すると、発達的な変化がみられたのです。赤ちゃんの注視時間だけでなく、お母さんの注視時間も、だんだんと長くなっていったのです。赤ちゃんの発達は先に説明した通りで、視線の発達とともに、新生児の開いた目への好みから、視線の合った目へと、視線を見る感度も高まり、自然と目を見る時間は長くなっていくのです。それに合わせてお母さんも発達することが、データの中からわかったのです。赤ちゃんの目を追うスキルがアップしていくのです。お母さんは、最初からお母さんになれるわけではなく、子育てしていくうちにお母さんになっていくのです。」のように、実験的な結果を示されると、本当に納得できます。
たしかに顔は重要だと思いますし、体のほとんどが隠れているのに、顔だけはむき出しのままです。一番先に他の人が見るのも、おそらく顔ではないかと思います。
しかも、その顔の表情のなかでも、とくに大切なのは笑顔だそうです。笑顔の顔と名前の記憶は、前頭葉にある眼窩前頭皮質が記憶にかかわる海馬とともに働くそうで、それは金銭的な報酬をもらったときに活動するのと同じところです。ということは、笑顔もお金と同様に大きな報酬の感覚があるということです。
下に抜き書きしたのは、顔はつくりではなく表情だと書いてあるところです。たしかに、そうです。
でも、ほとんどの人はつくりの方を気にしますが、表情には無頓着のような気がします。自分からいい表情ができるようにすると、いい顔になるのではないかと思いました。
(2016.8.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
自分の顔が好きですか?(岩波ジュニア新書) | 山口真美 | 岩波書店 | 2016年5月20日 | 9784005008315 |
☆ Extract passages ☆
ここで質問です。親しい人の顔を思い起こしてみてください。
どんな顔が思い出されますか?
友達の笑った顔、先生の怒った顔……、思い出すのは、さまざまな表情がついた顔ではないでしょうか。逆にいえば、無表情の顔を思い出すのは難しいでしょう。
つまり親しい人の顔は、表情付きで覚えているのです。口を大きく開けて楽しそうに笑う友人、はにかみがちに笑う友人、それぞれがよく見せる表情で覚えています。表情には、その人の人となりがより強くあらわれるのです。その人の顔とは、その人がよくする表情なのです。
ふだん元気でエネルギーに満ちて美しかった友達が、ふと見せるぼんやりした無表情の顔を見て、印象が全く違って驚いたことはないでしょうか。無表情の顔には、魅力も個性もそぎ落とされてしまった印象があるように思います。顔はつくりではなくて、表情なのです。それには表情をつくる筋肉の動きが、大きく貢献しています。
(山口真美 著 『自分の顔が好きですか?』より)
No.1265 『草と暮らす』
この前見た映画が「植物図鑑」で、そのなかに野草を使ったいろいろな料理が出てきのを思い出して、この本を読むことにしました。
副題は「こころと体を整える雑草レシピ」です。その「植物図鑑」の原作本には、野草を使ったレシピも最後のほうに掲載されています。なかには、食べたこともあるのもあり、いつかは食べてみたいと思ったのもありますが、野草は季節によるので、1年間は待つしかないのもあります。
この本のなかでは、「小花かきあげ」です。材料はスズメノエンドウ、ムラサキカタバミ、シナガワハギですが、ほんとうに彩りがきれいです。
だいぶ前のことですが、三沢の「春の山野草展」のときに、ある方がフジの花をかき揚げにして出してくれたことがあります。これもきれいでした。食べておいしいというわけではないのですが、むしろ、これも食べられるという感覚だったような気がします。
この本にも、野草のいろいろな食べ方が載っていて、楽しそうです。やってみたいのが、いろいろとありました。
たとえば、おむすびです。ご飯そのものにカラシナとスミレの葉を細かく刻んだのを混ぜ合わせ、おむすびにして、そのおむすびにそれらの花をのせる、というだけのことです。
たったそれだけで、野趣あふれるおにぎりが出来上がるのです。それを曲げわっぱかアンティークな皿に盛れば、さらに雰囲気がでます。
つまりは、自然といかに触れ合うかという問題でもあります。自然は自然、私は私といってしまえば、いくらたっても平行線で交わるところはありません。でも、ちょっと視点をずらし、草たちの目線に合わせれば、新たな草とのふれ合いが生まれます。おそらく、この本は、さまざまな草たちとの新たなふれ合いのきっかけを書いたものではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、たしかにこのように見ているかな、と思ったからです。つまり、自分の立場や見方から、相手を見ているのが普通です。自分は自分なのですが、相手はさまざまな立場から見ているので、いろいろに見えてくるのです。
当たり前のことですが、このように言葉にすると、はっきりと理解できます。
これが本を読むひとつの楽しみであるかもしれません。
(2016.8.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
草と暮らす | かわしまようこ | 誠文堂新光社 | 2016年4月15日 | 9784416616321 |
☆ Extract passages ☆
草はじゃまと思えば雑草になりますが、可憐な表情にこころ動けば花となり、おいしさを生かせば野菜になり、知恵を身につければ心身の不調を調える薬草になります。
ひとりの女性が、子どもからはお母さんと呼ばれ、会社では上司や部下となり、気のおけない仲間からは友人として親しまれるように、どんなふうに向き合うかで、革も役割や呼ばれ方は変わってきます。
花として向き合うときは、花の表情を見ながらたのしく摘みましょう。
野菜として向き合うときは、やわらかくておいしそうなものを、薬草として向き合うときは、秘められたエネルギーを感じながら摘みます。
(かわしまようこ 著 『草と暮らす』より)
No.1264 『やっぱり見た目が9割』
だいぶ前ですが、同じ著者の「人は見た目が9割」というのを読んで、ちょっと身も蓋もない話しだが、たしかにそういえるかも、と思ったことがあります。よく、人は見た目だけで判断してはならない、といいますが、つい見た目だけで判断することが多いから、そのような警句が生まれたのかもしれません。
たとえば、どんな服を着ているかで判断するのかについて、ホルトという心理学者は次のような実験をしたそうです。それは、「まず、知り合い同士を使って実験をする。被験者は知人についての社会的な地位を評価する。ここで低い評価を受けた相手には正装に着替えてもらう。高い評価を受けた相手には普段着を着ておいてもらう。そのうえで、再度、その知人を見てもらい、評価を尋ねてみる。結果は、一回目の評価と変わらないものだつた。当然だろう。優れた人は、普段着を着ても優れて見える。ダメな人は、格好だけよくしてもダメなのである。
しかし、今度は同様の実験を被験者が知らない相手を用いて行ってみる。つまり見ず知らずの人について、まずは第一印象で評価をしてもらう。その後で、低い評価を与えた相手には正装に着替えさせ、高い評価を受けた相手には普段着を着ておいてもらう。そうして再度、評価を尋ねてみると、今度は変化が現れた。正装をすると評価は上がり、普段着に着替えると、評価は下がった。知らない相手に対しては、見た目が評価に大きく影響するということである。」ということです。
つまり、知っている人では、ある程度中身も知っているわけで、その場合にはほとんど服装で評価は変わらないということです。
でも、もし、まったく知らない人であれば、やはり服装である程度評価が変わるということをこの実験であらわしているようです。それは、現実の場合も同じで、ある程度知っている人たちの中では服装で評価が変化することはほとんどありませんが、もし、初対面だったとすれば、そうとう変わるかもしれません。
そういう場合には、『やっぱり見た目が9割』になるかもしれないのです。
たしかに、見た目で判断するのはちょっと如何なものかと思いますが、やはり知らなければこのように見た目や格好で評価する場合が多いということです。だとすれば、少しは着物を考えないとダメのような気がします。
また、笑顔も大事だということで、著者が勧めている顔のストレッチというのがあります。それを抜き書きしますと、
@額やこめかみ、頻のマッサージ。軽い刺激で構わない。一瞬でも、そこに意識を向けてやるだけでも効果はある。
A瞬きの練習。目を強くつぶり、思い切り大きく見開く。眉毛で瞼を引っ張り上げる感覚を持つと目が開く。これを三度ほど繰り返す。
B頬の筋肉のストレッチ。ちょっと硬めのガムを噛むイメージで、口を上下させる。ガムの固さを感じながら(実際には「空気」を噛むのだが)、奥歯、犬歯、前歯、さらに反対側とすべての歯でまんべんなく噛む。一通り済むと、頬は緩んでくる。
そうです。たしかに、役者さんの顔は生き生きしています。これぐらいは、マネをしてもバチは当たらないと思います。
下に抜き書きしたのは、笑顔が危機から救ってくれたというお話しです。これは、イラク侵攻というまさに戦争状態のような時にでも笑顔が大事だということです。
このクリストファー・ヒューズ中佐の笑顔作戦こそ、次世代に伝えていきたいとものです。
(2016.7.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
やっぱり見た目が9割(新潮新書) | 竹内一郎 | 新潮社 | 2013年7月20日 | 9784106105296 |
☆ Extract passages ☆
米軍が二度目のイラク侵攻をしたときのこと。米軍の一団がモスク(イスラム教の教会)に向かった。地元のイスラム教指導者の協力を得て、救援物資を届けに行ったのである。そこにイスラム教徒が多数集まった。米軍はイスラム教指導者を捕まえに来たのではないか。そう疑った数百人のイスラム教徒が米軍を取り囲み怒号をあげた。一触即発の状況である。
米兵とイラク人では言葉が通じない。指揮官のクリストファー・ヒューズ中佐は、兵士に片膝を地面につき、ライフルの銃口を地面に向けるように命令した。次に「にっこり笑え」と命じた。兵士は無理に笑った。それを見て群集の大多数は――少数は大声を上げていても――笑顔でこたえた。ヒューズ中佐は、群集に笑顔を向けたままで、ゆっくりと後退するように命じた。
こうして、その場は収まった。
ヒューズ中佐は、まずイラク人たちの表情や動作から、ただならぬ雰囲気を一瞬にして読み取った。そして言葉の通じない相手に対して、敵意がないことを表情と動作で示したのである。
(竹内一郎 著 『やっぱり見た目が9割』より)
No.1263 『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』
今、平凡社から『改訂新版 日本の野生植物』全5巻が刊行中で、第1巻は2015年12月17日に発行され、編者から贈呈されました。
見てみると、植物分類もAPGVによる新しい分類体系で、写真も多く載っていて、とても楽しい植物図鑑になっています。刊行記念特価で本来は定価24,000円(税別)ですが、3月31日までは20,000円(税別)でした。
たしかに高い本ですが、それだけの内容はあります。おそらく、これからはこの本が植物分類の新しい基準になっていくのではないかと思われます。
だから、この流れのなかで、この『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』が STANDARD BOOKS の1冊として出版されたのではないかと思います。このシリーズは、百科事典の平凡社が提案する新しい随筆シリーズだそうで、第1作は寺田寅彦だそうです。
これを読んでみて思ったのですが、ただ植物が好きだけでなく、熱狂的に好きで、まさに植物と心中してもいいとさえ思っていたようです。しかも、その少年のような思いが、94歳まで続いたのですから、まさに永遠の少年のような心を持ったというべきでしょう。
とくに最後の「漫談・火山を割く」という随筆は、漫談とは断っているものの、心底そう思っているような節も感じられます。自分は大正12年9月1日の関東大地震を経験はしたものの、身体に感じた肝心かなめの揺れ方がどうもはっきりと覚えていないとして、もう一度大地震に出会ってみたいというのは、やはり子供じみています。あの大きな大被害を考えれば、そのような不穏当な発言はできないでしょう。
でも、それを平然として書いているわけですから、良い意味での探究心はあるのでしょう。
著者は、この植物を趣味とすれば慈愛心を養うとして推奨していますが、彼の随筆によると、「世人はわが本業のかたわら、娯楽として草木に趣味を持つようにしたらどんなものだろう。もし世人がしかせんものと思わばこの趣味深き草も木もいたる処に吾人を待っている。植物に趣味を持つようになれば植物を愛するようになる。植物は意味の深き天然物である。この微塵の罪悪も含まぬ天然物を楽しむことから、どれほど吾人の心情を清くかつ貴くするかほとんど量られぬ。醜悪なる娯楽よりこの清浄なる娯楽に転ずることは、人間として最もたいせつなることである。我輩はこのごとく天然物を娯楽の目的物として大いに高潔なる心情を養われんことを世人に勧めたいのである。草木を愛するようになればこれによりて確かに人間の慈愛心を養うことができると信ずる。植物は生物である。生長するものである。これを好くようになればそれが可愛くなる、可愛く思うのはすなわち慈愛心の発動である。一たび発動すればこれを助長することができる。すなわちついには大慈悲の心を養うことができると思う。人間同士に慈悲慈愛の心ができれば世の中は無事太平である。国平らかに天下治まるのである。」と書いています。
私も植物を栽培することなどを楽しみにしていますが、このようにいわれれば、なるほどと思います。
下に抜き書きしたのは、植物学を極めながらも、生活苦と闘い続けた様子が彷彿とさせる1節です。
今どきの学者とはまったく違うような雰囲気ですが、いかにも明治時代の気骨のある植物学者の一面を垣間見ることができると思います。ぜひ味わってみてください。
(2016.7.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
牧野富太郎 なぜ花は匂うか | 牧野富太郎 | 平凡社 | 2016年4月8日 | 9784582531558 |
☆ Extract passages ☆
私は来る年も来る年も、左の手では貧乏と戦い右の手では学問と戦いました。その際そんなに貧乏していても、一時もその学問と離れなく、またそう気を腐らかさずに研究を続けておれたのは植物がとても好きであったからです。気のクシャクシャした時でも、これに対するともう何もかも忘れています。こんなことで私の健康も維持せられしたがって勇気も出たもんですから、その永い難局が切り抜けて来られたでしょう。そのうえ私は少しノンキな生まれですからいっこう平気で、とても神経衰弱なんかにはならないのです。
(牧野富太郎 著 『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』より)
No.1262 『アジアを歩く』
灰谷健次郎さんと石川文洋さんの両名が著者扱いになっていますが、灰谷さんが文章を書き、石川さんが写真とキャプションを担当していて、この本は灰谷さんが2006年11月23日に亡くなられた後に出ていますから、いわば追悼の書でもあるようです。
最初は、今回の旅で持って行こうと思ったのですが、カラー版でたくさんの写真が載っているので本も重く、帰ってきてから読もうと思っていました。おそらく普通の文庫本の3倍程度は重いような気がしました。それで、帰国してから読み始めました。
でも、読み始めると、写真も多く、文章もあっさりとして、とても読みやすく感じました。しかも、私が行ったことのある国もあり、地方もあり、つい「そうそう」と相づちをうつこともありました。
やはり、そこに立ってみないとわからないことがたくさんあります。だから、旅は大事だと思います。
たとえば、ミャンマーのバガンのパゴダ群について、「果てしもなく広がる天空と大地、林立する廃嘘のパゴダは、なにびとかの血の意志でもあるかのように、宙に刺さっている。巨大なパゴダもあれば、堂のようなものもある。しかし、その圧倒的なパゴダの数は、そこが、まだ、わたしたちの知らない宇宙そのものに思われた。……11世紀から13世紀に建てられたものがほとんどで、廃墟であることが、いっそう、その神秘性を漂わせているのであった。」という描写は、なるほどと思いました。
私もその1つのパゴダに上って大地に沈む夕陽を眺めましたが、すべてがあかね色に染まり、2時間以上もそこにいました。
おそらく、同じようなところから撮った写真も載っていましたが、旅の本はやはりたくさん写真が載っているほうが楽しいようです。そのほうがストレートに読者に伝わります。まさに「百聞は一見に如かず」です。
ただ、私の場合は、あまり写真を撮りつつけてばかりいると、その印象は薄まるような気がします。だから、ある程度時間をかけてその風景を楽しみ、それからおもむろにカメラを取り出して撮る、ということが多いようです。
下に抜き書きしたのは、旅について書いてあるところです。これは「アジアを生きる」のあとがきで、題名は「アジアの試行錯誤」に書いてあります。
著者はやく半年かけて、毎月アジア各国を訪れるという取材旅行で、たしかに大変だったが、とても楽しかったといいます。それは、アジアが好きだったことと、同行した石川文洋さんの人柄に支えられたからと言っています。
たしかに、旅は道連れが大切だと改めて思います。
(2016.7.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
アジアを歩く(笊カ庫) | 灰谷健次郎・石川文洋 | 竢o版社 | 2007年12月10日 | 9784777908929 |
☆ Extract passages ☆
およそ半年かけて、毎月毎月アジア各国を訪れるという今回の取材旅行は、肉体的経済的負担がはなはだしく、大変だったといえなくもないのだが、ふりかえってみると、そんな思いよりも、たのしかったことや感動したことの方が多かったように思われる。
なによりアジアが好きだったこと、この仕事の共同者である石川文洋さんの人柄に支えられたことなどが、その要因だろう。
旅というものは、たとえ、どのような目的があろうとも楽しくなければとても続けられるものではない。
食べる楽しみや人に会う楽しみ、新しいことを知ったり発見したときの喜び、そしてそれを語り合うことのできる同伴者がいて旅は最高のものとなる。
(灰谷健次郎・石川文洋 著 『アジアを歩く』より)
No.1261 『「超」旅行法』
著者の名を見て、すぐに、あの「超」整理法シリーズを思い出しました。そういえば、この本にも「超」の文字が使われていて、そのシリーズの1冊かもしれません。
もともとは1999年11月に新潮社から単行本として出されたものが、文庫本にされたようですが、カラーページもあり、読み応えもありました。まさに、個人旅行者にとっては、今でも役に立ちそうな手引き書です。
これも、スーツケースに入れてきた1冊です。以前は、読むかどうかもわからない本まで持ってきて、そのまま読まずに持ち帰ったこともありますが、今では厳選して持ってくるからなのか、持ってきた本はすべて読み切ってしまいます。だから、旅に出かける前の本の選定は楽しみでもあり、ある意味、苦しみでもあります。
ちなみにこの本は、文庫版の発行は2003年ですが、この元になった単行本の発行は1999年で、そういう意味からいえば、旅行法のノウハウもいささか古いと言わざるをえません。しかし、旅そのものの本質はあまり変わっているとは思えず、参考になることも多々ありました。
たとえば、旅の印象は泊まったホテルにあるという指摘は、なるほどと思います。今回、昆明で3泊したホテルは、昆明植物研究所で会議が開催されるということもあり、この近くの「昆明晟世仟和酒店」で、部屋も広々としていて、なかの設備もしっかりとしていました。ゆったりしたバスタブもあり、日本から持って行った入浴剤を入れて、ノンビリと温泉三昧をしました。
このようなことを経験すると、やはり旅の印象はホテルでかなり左右されそうです。
ただ、このような古い本では、まったく参考にならないこともあり、たとえば、著者が提案する「ヴァーチャル・ツア」は、今ではグーグルの「ストリートビュー」でそれ以上の臨場感で体験できますし、地図だって、その付近の写真がたくさん掲載されています。
また、個人旅行も様変わりして、日本にいるときに海外の宿をインターネットで確保できます。もちろん、格安航空券だって、価格比較して、一番安いチケットを手に入れることもできます。
おそらく、このインターネットというものは、旅行を確実に手軽にしてくれたと思います。
今回の私の旅行では、ノートパソコンを持たずに、スマホ1台ですべてこなしてくれました。でも、途中でスマホの電池が切れると困るので、乾電池も1台余分に持っていき、途中で内蔵電池を交換できるようにしました。これでほとんどのことができました。
下に抜き書きしたのは、一人旅の魅力について書いてあるところです。このような旅の意義は、今も昔も同じではないかと思います。
(2016.7.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「超」旅行法(新潮文庫) | 野口悠紀雄 | 新潮社 | 2003年4月1日 | 9784101256245 |
☆ Extract passages ☆
異国を一人で放することの本質は、(孤独になること)だ。周りには、知り合いも顔見知りもいない。言葉も自由には通じない。一日中、一言もしゃべらないことさえある。日本のニュースも入ってこない。周りの人々の生活に、私の存在は何の意味ももたない。私は、文字通りのエトランジェなのである。
(野口悠紀雄 著 『「超」旅行法』より)
No.1260 『インパラの朝』
副題が「ユーラシア・アフリカ大陸684日」とあり、アフリカは行ったことがないし、しかも684日も旅を続けるというのはどういうことなのかという、興味もそそられました。
もう、読むしかありません。そこで、スーツケースに入れてきたのです。
そして、旅の途中で、少しずつ読みました。約半分ぐらいはユーラシアのことで、残りはアフリカのことでした。ミャンマーやネパールのことは、行ったこともあり、なるほどと思うところも多く、とくにインドのところでは、「お金持ちには見えないから」パキスタンにも行けるよという話しはありえることだと思いました。
私もインドでバクシーシーという声がかからないぐらい、日本人には見えなかったようですから、物を持ち、お金を持ち、身なりもさっぱりとしていれば、やはり人目をひきますから狙われるかもしれません。でも、あまり目立たない普通の人たちのほうが、安全ということは間違いありません。たとえ、狙われたとしても、盗まれるものは少なくてすみます。
また、国を超えて旅行するときには、入国のことや出国のことなど、あるいはビザの必要なこともあり、なかなか大変です。それでも、とくにアフリカなどは植民地支配をしてきた国が勝手に国境を線引きしてきたと想像していたのですが、トーゴとペナンの国境で出国のスタンプもなしにペナンの入国のスタンプを押すこともあり、地元民にとってはその程度のことかと納得しました。そして、著者は、そのことで、「トーゴやペナンや周辺国には、いろんな部族や民族がいて、土地に合った暮らしをしていた。トーゴとペナンの問には、特に『線』など見当たらず、入国審査も適当だった。地図の上に引かれた線は、地元の人が引いたのではなく、植民地支配を競った国が、勝手に書いたものだった。そして私が刺したピンの、針の尖端が破った範囲は、実質的には広大で、そこへは異なる民族や、さまざまな人や価値観や、文化や暮らしや宗教が数限りなく含まれていた。私は地図の奥に広がる、ピン穴の向こうの多様性を、想像できていなかったのだ。」と書いています。
やはり、どんな国でも、実際に行ってみなければわからないことは、たくさんあります。
今、訪ねている中国雲南省だって、昆明はほとんど中国のどこにでもあるような大都会ですし、大理は少数民族であるペー族が多く住んでいますし、麗江はナシ族の都です。そして、金沙江を渡ると、そこは西蔵文化圏ですから、それまでの文化的雰囲気はまったく違います。
ここまでの行程を、20年前に来たときには2泊できたのですが、今では高速道路が麗江まであり、1日で来ることができます。まったく旅というより、旅行感覚です。
でも、シャングリラまでは来たことがあったのですが、それから先は未知のところで、白馬雪山の峠まで来たときには、ヒマラヤの青ケシを見つけて、息苦しさを忘れてしまいました。
そのとき撮った写真は、これから整理するのですが、旅というのは、行く前の楽しみと行ってきてからの楽しみがあると、つくづく思います。
下に抜き書きしたのは、ケニアの灼熱の砂漠でトラックに乗せてもらったときのことです。そして、一部の人たちは、いろいろな事情からそこから下ろされてしまい、そこに置き去りにされてしまったときのことです。
(2016.7.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
インパラの朝(集英社文庫) | 中村安希 | 集英社 | 2013年1月25日 | 9784087450293 |
☆ Extract passages ☆
圧倒的な自然を前に、人も草木も動物たちも、それから地中の虫たちも、すべてを受け入れ分け合って、喉の渇きを潤していた。言語や示唆的行動はあらゆる意味で力を失い、連帯感を意図的に確かめる必要は一切なかった。パイプの上の人々は、車体の揺れを黙って受け止め、それぞれの時を生きていた。あるがままの流れに沿って、いつも通りの顔をして。
後ろの荒野に残された『心』有する民を想った。きっと大地に脆き、彼らは夕陽を背に浴びて祈りを捧げているだろう。
(中村安希 著 『インパラの朝』より)
No.1259 『旅の理不尽』
アジア悶絶篇とあったので、中国もアジアだしという程度の気楽さで持って行ったのですが、あまりにもお気楽な本で、もう少しもの思いに更けさせてくれるような本を選べばよかったかも、と思いました。
でも、移動中の電車や飛行機のなかで読むには、何も考えることもないので、たしかにお気楽といえばそうでした。
しかも、私が行ったことのある所も多く、今来ている中国のことも書いてありましたが、中国はあまりにも広く、この地域との違いにむしろ本当かよ、とさえ思いました。
この本は、もともと自費出版として1995年11月に新風舎より刊行され、1998年2月小学館文庫に収録されました。それをさらにちくま文庫の1冊として2010年5月におさめられたということは、日本の有名な出版社からも認められたということです。
それにしても、今から20年以上も前に出された旅の本が、今でも読み継がれていることにビックリしました。また、これらの体験が今でもそのままありそうな雰囲気に、これまたビックリです。
たとえば、中国への旅ですが、昨年の5月、私も友人と二人で四川省に出かけましたが、やはり不安はあり、この本にも、
@中国語を喋れないのに、どうやって意思を伝えるのか。(言葉の問題)
A生水は飲んではいけないというが、いちいち水を飲みに食堂に入ったり、喉が渇くたびに民家に水くださいとか言うのか。(飲み水の問題)
B予約なしで、ホテルや列車がとれなかったらどうするのか。(予約の問題)
C金持ちの日本人は暴漢に狙われたりしないのか。(治安の問題)
Dそういえば、日本はかつての侵略国であり、いきなり日本人というだけでボコボコにされたりしないのか。(国民感情の問題)
と書かれていました。でも、行ってみるとなんとかなるもので、数年前の日本人に対する怒りもすでになくなりつつありましたし、今はどこでもペットボトルの水を売っているので、飲み水の心配はありません。しかも、予約はほとんどがパソコンやスマホでできるので、なんとかなります。
ただ、気になったのは、都市部には冷たいジュースなどもあるのですが、地方に行くと冷たい飲み物はほとんどなく、常温か温かい飲み物だけでした。間違っても、冷たいウーロン茶は売っていませんでした。それも、この本には書いてあります。
下に抜き書きしたのは、ブータンに行ったときのことです。私が行った1986年にはほとんどのゾンには入れたので、その後、外からしか拝観できなくなったのかもしれません。いくら海外だからといっても、旅の恥は掻き捨ててはいけません。
そして、国も時代とともに変わっていくし、旅のあり方もそうです。しかし、その中でも、今でも変わらない何かがあり、それがこの本に書いてあるから、読み継がれているのかもしれないと思いました。
(2016.7.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅の理不尽(ちくま文庫) | 宮田珠己 | 筑摩書房 | 2010年5月10日 | 9784480427090 |
☆ Extract passages ☆
ゾンはどこも昔は旅行者にむかって開放されていたらしいが、旅行者たちの勝手に写真は撮る煙草は吸う落書きするなどといった傍若無人な振るまいが目にあまったため、今は外からだけの拝観しか許されなくなっている。
(宮田珠己 著 『旅の理不尽』より)
No.1258 『熱帯感傷紀行』
新幹線のなかでちょっと読もうかと思って持って行ったのですが、早々に読んでしまいました。
というのは、200ページ少々の文庫本ですし、旅のプランもあまりないような失恋旅行記みたいなもので、ときどき相手を思い出すことはあっても、あとは旅の疲れがあちらこちらで出てしまうようなものでした。副題は「アジア・センチメンタル・ロード」とありましたから、そのようなものなのかもしれません。
旅というと、移動しながら目新しいものを見て歩くような旅と、あまり動かず一か所に滞在するような旅もありますが、著者は移動型の旅が好きだそうです。なるほど、いくら体調が悪くても、すぐ移動を考えてしまっていますから、そうかもしれません。しかも、移動手段もなるべく飛行機などというものは使わず、その国の人々が普段に使っているバスや鉄道などを使うそうで、この本のなかにも、そのようなシチュエーションがたくさん出てきます。
じゃあ、私はというと、移動することも好きですし、一か所でゆっくりと滞在するのも好きで、ネパールのカトマンドゥでは、友人宅にホームスティしながら午前中は本を読んだりパソコンをいじったりして、昼食を食べに市内に出て行って、そのままぶらついたりもしていました。しかもそのときは帰りの航空券は持っていましたが、オープンなので帰りたいときに予約をすればよかったのです。
また、著者が「自分は今あきらかに異国にいるという実感、あの心細さで血が泡立つような感覚に支配されながら、路地から路地を漂流していく。異国で迷子になるということは、自分の正体が消えてなくなるということだ。はんの数分間にせよ、国籍も年齢も職業も喪失した、ただの不安の塊になる。学歴も知識も経験も役に立たない、嗅覚だけが頼りの世界。そういうエア・ポケットに紛れ込むためにわざわざ旅をしているのかもしれない。」と書いているように、旅には心細さもあります。だって、まったく知らない国でまったく知らない人たちしかいないわけですから、それは当然です。ある意味、そのような状況を楽しみたいから出かけるようなものです。
また著者は、ジョグジャカルタのボロブドウールに行った時の体験から、「この世界最大最古の、謎だらけの仏教遺跡を見学するには、わたしたちはあまりにも下準備が足りなかった。」と後悔していますが、たしかに下準備をしていくと、あまり取りこぼしはないようです。でも、私はほとんどその手の案内書は見ていかないことにしています。というのは、逆にそれに足を引っ張られてしまうこともあり、偶然に出会う楽しみも少なくなります。やはり、旅は偶然の出会いの連続であってほしいと思っています。
著者は、ところどころで食欲に負け、つい食べてしまうといいますが、それでお腹を壊したら悲惨です。しかも何度かそれを繰り返しました。氷はそのへんの水を凍らせて使っていますから、慣れない日本人は氷の入ったものは絶対に食べてはいけません。
そういう意味では、絶対にダメということを繰り返してしまう悲惨さというのが、この本の裏テーマかもしれない、とさえ思いました。
下に抜き書きしたのは、著者が持つ「旅に出たい病」についてです。このフレーズは、最初のほうに出てくるので、この旅のきっかけになったと思われます。
じつは、私にもそのような傾向がありそうですが、というより、今もその旅の真っ最中ですから、この「旅に出たい病」の気持ちがよくわかります。ぜひ読んでみてください。
(2016.7.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
熱帯感傷紀行(角川文庫書) | 中山可穂 | 角川書店 | 2002年9月25日 | 9784043661015 |
☆ Extract passages ☆
わたしは昔から厄介な持病をもっている。「旅に出たい病」である。潜伏期間は長く、発病すると進行は驚くほど早い。何年かに一度、ふとしたはずみで発病する。それは一枚
の写真だったり、小説の一節だったり、音楽のワンフレーズだったり、さまざまだ。今回はこんな文章がわたしの背中を押してくれた。
『なぜ私はこんなに不自然な現状に、おどおどと義理立てして、留まろうとしていたのか。旅に出よう。旅に出ることは独りになることであるし、独りになることは規制から脱落して本来の実相に帰って安堵するキッカケをつかむことではないか』
小川国夫の『マグレブ、誘惑として』という小説の中の文章だ。わたしの中の何かがほどけ、何かに火がつくのを、抑えることはできなかった。
(中山可穂 著 『熱帯感傷紀行』より)
No.1257 『世界の野菜を旅する』
前々回に『キャベツにだって花が咲く』を読み、そういえばもう少し野菜関係の本があったかもしれないと思い、探し出したのがこの本です。
今日の午後には上野経由で成田まで行くので、どっちみち新幹線のなかは本を読むか寝るかなので、昨夜はゆっくりとこの本を読みました。表紙には「この一冊で野菜通!」と書いてあり、さらに「起源、伝播の歴史からおいしい料理法まで」とあり、ミニトマトのイラストもいいものでした。
読者は、内容が良ければそれだけでいいとは思わないはずで、装丁も活字もすべてが気に入らなければならないはずです。それが本です。だから、少なくても今のところ電子ブックには興味がありません。
さてこの本ですが、野菜の起源やどのようにして伝播していったかだけではなく、その野菜を使って料理をすることまでを丁寧に書いています。たとえば、キャベツなどは、レタスやハクサイなどとどのように違うかとか、サラダにして食べるというときのサラダの由来はとか、まさに微に入り細に入り、詳しく書いています。おそらく、この本を1冊読めば、野菜通だけでなく、これらを使った料理通にもなれるのではないかと思いました。
おもしろいと思ったのは、ある講演で質問されたコンブを研究している大学の先生は、「コンブとワカメは、どう違うのですか」という問いに、しばらく考えてから、「店でコンブといって売っているものはコンブ、ワカメといって売っているものはわかめです!」と答えたそうです。たしかに、その区別はかなり微妙なものだそうですが、この答えはあまりにもウイットに富みすぎています。
そうそう、以前から食事のあとのデザートを、なぜデザートというのか気になっていたのですが、この本に『デザートという言葉の意味は、「サービスする(食器を並べる、料理を出すなど食卓の用意をする)」の反対語で、食卓の上をいったんかたづける、テーブルの上に出ているものをすべて下げる、という行為をいう。つまり、さあ、これで前半戦は終った、これからがお待ちかねの後半戦だ、という、食事の区切りを意味する言葉である。』と書いてありました。
だとすれば、食事の時間を2時間とすれば、1時間強で前半戦が終わり、1時間弱が後半戦で、いかにデザートが大事かということがこれからもわかります。もちろん、デザートを食べるだけでなく、コーヒーを飲んだりおしゃべりをしたりとそれ以外の要素もあるでしょうが、やはりデザートは楽しみだということです。
私も、いろいろなデザートがきれいに盛り付けされ出てくると、ついニコニコになります。それで、話しが盛り上がることだってあります。
下に抜き書きしたのは、ナスについてのことです。私は中国で白いナスを見たことがあり、それがナスの英語のエッグプラントになったと思っていましたが、インドにも白いナスがあり、それが語源の基になったようです。
そういえば、ナスの原産地はインドのようで、サンスクリット語ではナスのことを「ヴァタン・ガナ」というそうですが、これは古語なので、そうとう古くから利用されていたという証拠にもなると思います。
(2016.7.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
世界の野菜を旅する(講談社新書) | 玉村豊男 | 講談社 | 2010年6月20日 | 9784062880558 |
☆ Extract passages ☆
インド北部の高原地帯には、ナスの原種と目される植物が、潅木のように生えているという報告がある。その実は小さく、辣が非常に鋭くて、味はきわめて苦いという。色は自
で、完熟すると黄色くなるそうだ。
イギリスに伝わったナスも、白かったらしい。だから、最初に見た人は、これはタマゴの生る木だ、といった。エッグプラント、という名はそのときに生まれた。
私の農園でも白いナスを栽培したことがあるが、本当にタマゴのような大きさとかたちの品種がある。市販のタマゴの容器に、緑色のへタを見えないように下にして並べておくと、たいていの人が本物のタマゴと間違える。
(玉村豊男 著 『世界の野菜を旅する』より)
No.1256 『ブッダの道の歩き方』
そろそろ新しくできた米沢市立図書館に行こうかと思っているのですが、今月10日の午後から出かける予定があるので時間的にも無理なようです。
というのは、10日に東京国立博物館で開かれている日韓国交正常化50周年記念「ほほえみの御仏」ー二つの半跏思惟像ーがその日で終わるので、なんとかぎりぎりで見て、そのまま成田に泊まり、翌朝に中国雲南省の昆明に行くことになっています。
これでは、やはり無理です。
楽しみはちょっととっておき、帰国予定が21日なので、23日にすぐ隣の市民文化会館で催しがあり、それに出なければならないので、そのときには行けそうです。それまで、楽しみはとっておこうと思っています。
さて、この本は、数年前に買ったのですがなかなか読む機会がなく、とうとう今になってしまいました。この題名を見たときには、ブッタが実際に歩いて説法をした道筋なのかとも思ったのですが、さっとみると、そうではなく、ブッダの説かれた道を自分たちも歩いて行こうということのようでした。実は、このあとに実際にインドのお釈迦さまが歩かれた道を辿ろうと思っていたので、その参考にと買ったのでした。ところが違うようなので、つい、そのままになってしまっていたのでした。
そして、今回読んでみて、対談形式なのでとても読みやすく、相手がスリランカ上座部仏教の長老ということで、大乗仏教との教えの違いなどが浮き彫りになり、とても興味深く読むことができました。買っておいて、ほんとうによかったと思います。
もう一人が立松和平で、2010年2月8日に多臓器不全で亡くなられたのですが、大法輪という仏教系月刊誌に連載中だった『良寛』も絶筆になってとても残念でした。
その二人が対談するわけですから、とてもおもしろかったわけです。とくに、難しい宗教用語で出てくるわけでもなく、スマナサーラ長老も、「お釈迦さまはずっと誰かと対話して、誰かと話し合っている。相手が使っている単語をお釈迦さまもそのまま使っているんです。だから仏教を生かしていかなくちゃいけないんです。お経というのはただ唱えるものじゃなく、むちゃくちゃ分析して勉強すべきものなんです。それもできるだけわれわれの理解できる日常の言葉で置き換えなくてはいけない。だから私がすごく気をつけるのは、専門用語を使わないということ。日本では仏教専門用語がきちんと整理整頓されています。しかし私はあえて、どんな難しいことを語るときでも専門用語だけは使わないようにしているんです。」といいます。
また、上座部仏教と大乗仏教の違いについては、欲ということの解釈の違いもありました。これは、むしろブッダが説かれた欲についての翻訳の違いで、たとえば漢訳で「少欲知足」と訳したのは、もともとのパーリ語では小欲を「アビッチャ」といい、知足は「サントゥッティ」だそうです。この意味は必要性ということで、つまりは必要を少なくしなさいという意味になるのだそうです。たとえば、人間はお腹が空きますから、食べなくては生きていけないから食べ物は必要です、それを少なくしなさいということだそうです。たしかに、このような解釈のほうがよくわかります。
腹八分、あるいは腹六分でも生きていけるから、なるべくその必要量を少なくすることが不殺生にもつながるということです。たしかにこれだと納得できます。
下に抜き書きしたのは、お坊さんというのは箱を壊す人だとスマナサーラ長老が話したことについての一言です。たしかにその通りだと思いました。もっと俗な言葉でいえば、既成概念を壊すことにもつながるのではないかと思いました。
(2016.7.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ブッダの道の歩き方 | アルボムッレ・スマナサーラ/立松和平 | (株)サンガ | 2006年11月20日 | 9784901679244 |
☆ Extract passages ☆
立松 お坊さまは箱を壊す人だとおっしゃっていたけど、そういうことですね。みんな箱に入っているんですよ、自分で作った箱に。
スマナサーラ とにかく壊してあげますよ。それですごく楽になるんです。
立松 しかし、箱を破壊して、ただ箱の外に出しただけでは本当にその人がダメになってしまうんじゃないですか?
スマナサーラ いえ、これは自転車に乗ることと同じなんです。ずっと三輪車ではダメでしょうし、あるいは後ろから「じゃあお母さんが掴んでいるから、はいこれで」とか言ってもダメなんです。手を離さなくちゃいけません。
立松 そうそう。掴んでいると思って実は離れている、それに気がついたときに自転車に乗れるようになるんですよ。親というのはそういうもんですよ。掴まれていないってことが、子供にはすごい自信になっていくんですよね。
スマナサーラ だから、箱を壊すというのはそういうことなんです。
(アルボムッレ・スマナサーラ/立松和平 著 『ブッダの道の歩き方』より)
No.1255 『キャベツにだって花が咲く』
7月1日から米沢市立図書館が開館し、使えるようになったのですが、おそらく新館開館にともなういろいろな行事などで混雑するかもしれないので、2〜3日経ってから行こうかと思っています。
それより、ビックニュースは、本当に図書館に泊まったのです。実は以前より図書館とか本屋に泊まりたいと思っていたのですが、本屋さんに泊まれるというニュースを見て、すぐに調べたら、簡易宿泊所のような造りで、スペースが本屋さんのような感じ、つまりは本屋さんらしいデザインをしただけのようでした。やはり、それではつまらないと思い、まだ泊まっていません。
でも、今回の図書館のお泊まりは、正真正銘の図書館で、しかも井上ひさし氏の蔵書寄贈をうけて作られた川西町の遅筆堂文庫なのです。まさに貴重な体験をすることができました。
7月2日、午後7時30分から受け付けてもらい、8時からガイダンスがあり、それからスタッフにより館内を案内していただきました。とくに興味深かったのは、井上ひさしさんの蔵書のなかでも書き込みのある本を中心に収めてある書架で、その息づかいまで聞こえてくるようでした。しかも、そのすべてに付箋が貼ってあり、すぐわかるようになっていました。
その後は自分の気に入ったところに陣取り、15分してから児童書コーナーで、読書会がありました。自己紹介をかねて自分の持ってきた1冊を紹介するもので、最初は1分程度ということでしたが、それぞれがはるかにオーバーしてしまい、気がついたら11時10分で、消灯まで20分しかありませんでした。
それから私は井上ひさしさんの遺愛のメガネと書きかけの原稿を展示したコーナーのところにマットとシュラフを広げ、書架から借りてきた本を読みました。
この読書会で紹介したのが、この『キャベツにだって花が咲く』です。
時間がなくて紹介できなかったのですが、私はこの本に書いてあるカブの伝来にまつわるミステリーを話す予定でした。それは、「カブは紀元前から栽培されていた古い野菜ですが、中国で発達したアジア系のカブとヨーロッパで発達したヨーロッパ系のカブの二つに大別されます。日本には中国からアジア系のカブが伝えられました。ところが、です。東日本を中心としてヨーロッパ系の特徴を持った在来種が広く存在しています。そのため、日本ではアジア系のカブとヨーロッパ系のカブを素材として、世界にも類を見ない多用な品種が作られたのです。しかし、どうしてアジアに存在しないはずのヨーロッパ系のカブが、古くから日本に存在したのでしょうか。シベリアを経由して北方から伝えられたと考えられていますが、いつ、どのようにして日本に伝えられたのかは謎のままです。おそらく、中国を経由しない東日本とヨーロッパをつなぐ道が古代にはあったのかもしれません。まさに古代史のミステリーです。」とあり、まさに野菜伝播の不思議さをあらわしているようです。
消灯時間は午後11時30分でしたが、私はヘッドランプを持ったことと、エントランスホールはかなり明るかったので、そこでも本は読めましたし、ついでに荒削りの茶杓を持って行ったのでそれを削ったりしました。
この本の海でいつ寝たのか、ほとんどまどろむようにして寝入ってしまったようで、時間はわかりませんが、翌朝6時30分のアナウンスで目が覚めました。ほとんどの人はヒモトレワークショップに参加しましたが、私はまだすっきりと目が覚めない状態で、書架から本を出して読みました。
下に抜き書きしたのは、意外と少ない日本原産の野菜についてです。これはなんとなくそうは思っていましたが、本当に少ないと実感しました。
興味があれば、ぜひこの本を読んでみてください。
(2016.7.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
キャベツにだって花が咲く(光文社新書) | 稲垣栄洋 | 光文社 | 2008年4月20日 | 9784334034504 |
☆ Extract passages ☆
日本原産と考えられている野菜には、セリ、ミツバ、フキ、ウド、サンショウ、ワサビ、ジネンジョなどがあります。どれもこれも山野に自生しているものばかりで、野菜というよりは山菜といった感じです。
じつは、もともと野菜という言葉は野で採れる食べられる草をいいました。山で採れるものが山菜で、野で採れるものが野菜だったのです。かつては、野で採れるものを野菜と呼び、畑で栽培するものは蔬菜と区別して呼んでいましたが、今では野に出て野菜を摘むこともなくなり、栽培しているものを野菜と呼ぶようになったのです。
(稲垣栄洋 著 『キャベツにだって花が咲く』より)
No.1254 『おかげさまで生きる』
自分を知るということは、他人を知るということでもありますが、生きることは死ぬことを知ることでより深く理解できます。
著者は、現在東大大学院医学系研究科救急医学分野教授および医学部付属病院救急部・集中治療部部長を務めているそうで、まさに毎日死と向かいあっています。だから、著者の言葉には、ほんとうに納得させられます。
たとえば、手は不思議な存在だといいますが、「力がたくさん出ている場所だからこそ、手当てということが可能になるのです。外出先から帰ると手を洗うのは、もちろん除菌という目的がありますが、エネルギーの出入りする大切な場所を清潔に保つという目的もあるのだと思います。また、神社では拍手を打ちますね。これも私たち日本人が昔から、手の持つ不思議な力を感じていたために生まれた行為なのかもしれません。」といいます。
たしかに、そういわれれば、そうかもしれません。手には無限の可能性を秘めているかもしれないのです。
また、著者が若いときに、恩師から「周囲に振り回されずに自己実現するには、運気、鈍感、根気、金銭、健康が大切な要件」といわれたそうです。つまり、「運・鈍・根・金・健」です。
じつは、No.1251『神の交渉力』のところでも少し書きましたが、ほとんど同じことを私も学生のころに恩師から言われたことがあります。
ですから、世の中というのは、昔からほとんど大切なことというのは変わりがなく、結局はできるかできないか、つまりはするかしないか、という問題のようです。
しっかりと生ききるということは、いつ死んでも悔いはないということでもあります、あまり人のことを気にしすぎてもダメですし、著者がいうように少し鈍感なくらいがちょうどいいのかもしれません。
さらに著者は、「目には見えないものには敏感に。世の中のせわしなさには鈍感に」と、さらに一歩すすめた言い方をしています。
今の世の中は、人の評価を気にするあまり、たくさんのストレスを感じてしまいます。それはおろかなことだといい、人さまに迷惑をかけなければあまり周囲のことを気にせずにやればいいとアドバイスします。
この本の中で、いい考え方だと思ったのは、私たちは競技場で動くプレーヤーのような存在です、というものです。そして、その観客席には他界した人々がいて私たちを見守ってくれています。その間にはハーフミラーがあり、競技場からは観客席が見えないのですが、観客席からは私たちが見えるといいます。
つまり、いつでもどんな大変なときでも「負けるな」と応援し、励ましてくれるのです。そして、自分たちも向こうの観客席に行けば、まさに再会するような感覚でハーフミラーがなくなるというわけです。著者は、彼らと再会しみんなでこの世の反省会でもしたいと書いています。
この考えは、アポトーシスという仕組みを考えればわかるといいます。つまり、細胞も日々再生されるわけですから、感情面のアポトーシスがあつてもいいのではといいます。つまり、心のアポトーシスです。
下に抜き書きしたのは、土壇場で困らないようにリビング・ウィルを書いておくことを推奨しています。メモ書きでもいいし、大まかなグループ分けをして書き出してみると、自分の欲望を整理するためにも役立つといいます。もちろん、最終的な治療方針についても書いておくと、家族も助かるし悩むことが少なくなります。
そして、著者自身のリビング・ウィルも掲載しています。
これは、なんとなく考えているということではなく、書くことによってよりよく生きられるような気がします。
誰に見せるためのものでもないので、私も書いてみたいと思いました。
(2016.6.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
おかげさまで生きる | 矢作直樹 | 幻冬舎 | 2014年6月25日 | 9784344025950 |
☆ Extract passages ☆
欲の整理は生前整理です。物事の締めくくりをすることを「始末をする」と言いますが、欲の整理はまさに自分の人生をきちんと始末することにほかなりません。始末をするのに早いも遅いもありません。
どんなに欲しいと願っても、それを手に入れたところであの世には持って行けません。そのことを理解してください。私たちがあの世に持って行けるもの、それは、様々な経験を通して得た記憶だけです。
物欲をどこで手放すか。そこに、その人の生き様が明確に表れます。
(矢作直樹 著 『おかげさまで生きる』より)
No.1253 『そこが知りたい「天気とカラダ」の不思議関係』
だいぶ前に買って、そのまま積んで置いた本の1冊のようです。というのは、いつ買ったのか、なぜ買ったのかさえ、わからなくなっていました。
このような本はまだありますが、今の興味のあるところから読み始めるので、このような本が残ってしまうのです。だから、図書館が長期閉館というのも、悪くはないなと思いました。
でも、読んで見ると、異常気象がボツボツと出始めのころのようで、エルニーニョのことなども解説しています。もう、今では知らない人がいないほど有名な現象ですが、日本の気象にも大きな影響を及ぼすということがわかってきました。しかも、今は大型コンピュータの解析で気象予報が出されているので、きんきんの予報は当たるようになってきました。しかし、異常気象が続く中での中長期予報はますます難しくなってきたようです。
私自身、山岳部にいたこともあり、気象には関心があり、よく天気図なども作成していました。そうでないと、山では何が起きるかわかりませんし、その一番の問題が天気です。天気さえ良ければすっきりと遠くまで見通せるので道に迷う心配もありませんが、霧が出て数メートル先もわからない状態では、動くこともできないときがあります。まさに、天気は命と直結してかのようです。
また、山にいると心が安らぎます。まさに晴れたときの山頂は、見渡す限りの眺望で、登ってきたときの汗もさわやかな風で引っ込んでしまいます。
この本でも、自然の心地よさを「f分の1のゆらぎ」というので、説明しています。「なぜ心地よいかというと、私たちの脳波のアルファ波と一緒なのである。自然の中には、しとしとと降る雨の音だけではなく、林を渡って吹き抜けていく風の音、小川のせせらぎ、早春であれば雪解けの青も、みんな「f分の1のゆらぎ」をもっている。山や川を散歩すると気分がよくなるのも、じつはその「f分の1のゆらぎ」の働きが影響していたのである。」と書いています。
たしかに天気とカラダもそうですが、自然も天気次第です。そういう意味では、とても楽しく読ませていただきました。
ただ、天気も時代によって変わってきます。とくに最近は、ゲリラ豪雨や大型台風、さらには竜巻など、今まであまりなかったようなことなども起きています。これらすべてが異常気象でしょうが、それらが異常でなく普通になってしまいそうな印象があります。
下に抜き書きしたのは、日本人の顔についてです。つまり、日本独特の気候が日本人の顔を作り上げたというのです。
そういえば、この本では、アフリカで生まれた人間の祖先が直射日光を避けるために頭だけ毛を残し、さらにメラニン色素の多い黒い肌にすることによって紫外線の侵入を防ぎ、皮膚ガンから守ってきたといいます。それがヨーロッパやアジアに移動することによって、黒い肌から白い肌や褐色の肌になっていったといいます。だから、これらも気候の影響だとし、日本人の鼻が低いのも、胴長短足もその影響があるというわけです。
たしかに、そういう面はあるかもしれませんが、それだけではないような気がします。
(2016.6.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
そこが知りたい「天気とカラダ」の不思議関係 | 原田龍彦 | 雄鶏社 | 1994年2月10日 | 9784277880527 |
☆ Extract passages ☆
日本人が農耕民族であることが、さらに典型的な顔形をつくり上げていく。農耕民族は狩猟民族とはことなり、一か所に定住するから、気候との適応がもっとはっきりとしてくるからである。
日本人の先祖は、地球の寒冷化で南下しはじめる途中でひどい寒期に遭遇する。寒さに適応するために、まず鼻を低くした。
しかし、乾燥しているので鼻の穴を横に広げる。それに合わせて顔の幅も広がってくる。目は眼球を冷やさないようにする。とくに涙が凍ることが一番危険だから、まぶたに皮下脂肪をつけ一重にして細くした。
さらに頬骨を高くしてガードした。
日本人の顔は、環境馴化を勝ちとった論理的な芸術品なのである。
(原田龍彦 著 『そこが知りたい「天気とカラダ」の不思議関係』より)
No.1252 『素直に生きる100の講義』
この本は100の講義ということで、100のエッセイが収録されています。それが2ページずつで構成されていて、どこから読んでもいいようです。
つまりは、時間のあいたときに読めるのですが、つい、読み切ってしまいました。たしかに気楽に読めましたが、ところどころにドキッとする言葉がありました。
たとえば、『「知る」に比べて「気づく」が与えるインパクトは大きい。「なるほどな」という言葉にそれがよく表れていると思う。ただの「わかった」とはだいぶ気持ちが違う。それは、自分の頭の中に一つの道筋(回路)が通じた感覚がもたらす爽快さにほかならない。』といいます。
たしかに、ただ知っていることと、それに気づくことはまったく違うことで、先ず、ある程度の知っていることが大前提であり、それらがいろいろな回路を通って新しいことにたどり着くような感じではないかと思います。
また、「人間というのは、機械ではないから、日によって調子が違う。たまたま機嫌が悪いときもあれば、勘違いが激しいとき、失敗が重なるとき、体調が悪いとき、などなど、とにかく揺らいでいるのだ。少ないサンプルで評価を決定してしまうのは、そもそも不精確だといえる。しかも、その評価の要因の大半は自分の想像なのだ。ここにまた、自分の揺らぎが影響する。」というのも、納得できます。
つまりは、自分だって、いろいろと変わってくるのだから、他人だってそうです。つまりは最初の印象をそのまま引きずらないで、ときどきは軌道修正をしなさいということなんでしょう。
たしかに、そうとはわかっていても、なかなかできないのが人間ですから、たまに、このような本を読むと、素直に生きられるのかもしれません。
この他にもいろいろと気づかせられたことはありますが、それはぜひ本を手にとって読んでもらいたいと思います。そうすると、まったく私と違う気づきがあるはずです。知識を得るために読むのではなく、気づくために読むことだってあるはずです。
そして、著者自身も、この本で、気づいてほしいという内容が書いてあるといいます。
下に抜き書きしたのは、1時限目の第10講に書かれていたことで、「仕事が欲しい人にばかり依頼していると、つまらないものになる」という項目についてのことです。つまりは、自分自身にも当てはまることで、気をつけようと思いました。
(2016.6.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
素直に生きる100の講義 | 森 博嗣 | 大和書房 | 2014年8月20日 | 9784479392637 |
☆ Extract passages ☆
自分が慣れた仕事、自分が得意なこと、やりたいと思っていること、そういったものばかりしていると、結局はつまらない結果になる。慣れたと思ったときが、新しいものにチャレンジするときだり また、苦手としているもの、あまり引き受けたくないもの、そういったものを取り入れることで、新しい「得意」ができる。本当の楽しみというのも、そういった挑戦の中から生まれてくるものだと思う。
(森 博嗣 著 『素直に生きる100の講義』より)
No.1251 『神の交渉力』
スティーブ・ジョブズは、2003年に膵臓癌と診断されましたが、治療可能な症例だったそうです。しかし、彼は手術を受けることを拒絶し、民間療法などで治そうとしていたそうですが、残念ながら2011年10月5日に亡くなられました。
今でも覚えているのですが、NHKのニュースでも取りあげられ、まさに世界のスティーブ・ジョブズだと思いました。
しかし、この本は生前に書かれたもので、しかも膵臓癌を治療して、アップルのCEOに復帰したところまで書いています。そして最後は卒業を控えたスタンフォード大学の若者たちにスピーチをしているところで終わっています。このスピーチは有名なもので、別な本でもその内容を読んだことがあります。いかにも、スティーブ・ジョブズらしいものです。
また、有名な話しでは、アップルに戻って暫定CEOに就任して以来、基本給が年間1ドルだったということも伝えられています。しかも、その1ドルという額は、カルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことからによるものだそうで、なるほどと思いました。この金額では、受け取らなければいいぐらいのものだと感じていましたが、それなりの理由があったわけです。
このようなお金にまつわる話しですが、この本では、「お金は手段であって目的ではない。お金は、自分の夢を実現するために使うものだ。だが、凡人は「お金を貯める」という手段を、目的と勘違いすることがしばしばだ。……教育機関でも、手段としてのお金を活用している。たとえば英国のケンブリッジ大学は、学校経営のために不動産業を営んでいる。政府に資金援助を求めるよりも、自分たちで十分な資金を持つことで、「学問の自由」が保証されるという考えである。お金が儲かることは、つぎの事業資金を得たことである。それはエキサイティングなビジネスを創造的に進め、成功へのさらなる機会を手にすることである。」と書いてあり、だからむちゃくちゃなことを言われても妙に納得してしまうのではないかと思いました。人はお金のために動いていると思われると、なんかせこい話しになってしまいます。
だからといって、お金がなければ生活もできないし、仕事だって順調にはできないわけです。
松下幸之助は、銀行からお金を借りなければならなくなると、つい、やりたくない仕事をやらされたり、本業に力を注ぐことができなくなったりしかねないから、自己資金を持つことが大切だとして、「ダム式経営」という言葉で、無借金経営の重要性を説いています。
そういえば、私も学生の時に、ある教授から、よりよく生きるためには若いうちにある程度のお金を貯めて、どんなことになっても家庭を守ることができれば、自分の好きなことができるようになると言われたことがあります。
おそらく、それも同じことだと思います。つまりは、それが余裕につながるわけです。
下に抜き書きしたのは、彼の独創性と通じる部分の話しです。これはアメリカ大統領のバラク・オバマが、彼のブログでジョブズが亡くなった日のブログに「ジョブズには1000マイル先の水平線が見えていた。しかし彼にはそこに到達するまでに通らなければならない道の詳細は見えていなかった。それが彼の天才性であり落ち度でもあった。」と書いていたことが思い出されます。
この抜き書きも、独創的な会社のトップは、このような考え方が必要ではないかと思いました。
(2016.6.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
神の交渉力(リュウ・ブックス アステ新書) | 竹内一正 | 経済界 | 2008年12月10日 | 9784766710489 |
☆ Extract passages ☆
大衆が絶賛する商品とは、大衆がまったく気づかなかった楽しみを提供する独創的なものだ。市場調査に頼って商品開発を進めると、「ちょっといいもの」で終わる。大衆が手にしてはじめて「あっ! これがほしかったんだ」と気づくような「どこにもないもの」は、市場調査からは決して生まれない。目の前に見える需要を追うのではなく、「自分たちが需要をつくる」ことが、これから、より強く求められている。
(竹内一正 著 『神の交渉力』より)
No.1250 『脳はもっとあそんでくれる』
著者の本はいろいろと読んでいますが、この本は『読売ウィークリー』2007年6月17日号から2008年3月23日号、そして4月6日号から4月13日号に掲載した「脳から始まる」を収録したもので、「本章のあそびかた」だけは書き下ろしです。
この本のなかで、本を書くということは『「本当のこと」を懇切丁寧に語る。この姿勢だけは忘れたくない。』といいます。
だって、素人が考えても、紙に印刷した本は、確実に残るわけだし、その内容が間違っていたりすれば、誰にでも間違っているとわかります。だから本当のことしか書けないと思います。そして、多作の人の本を読むと、何度か同じ内容のことが書かれていたり、一つのことを小出しにしていると感じることもあります。
だから著者も、学生のころから印税で暮らしたいと思っていたことが現実になってみると、「売れる売れないよりも、何を伝えるかに関心が向く。書くということの原点に立ち戻りたいと願う今日この頃である。」と考えるわけです。
私も本が好きで図書館にはよく行くのですが、たまたま米沢市立図書館が新築され、現在休館なので利用できないので、困っています。でも、だからこそ、今まで、ちょっとずつ買ってきていた本で読まなかった本を読むことができて、よかったと思っています。
著者も図書館は大好きなようで、「子どもの頃から、図書館が好きだった。本がたくさん並んでいるのを見ると、胸が躍った。まだ見知らぬ世界がそこに広がっているのだと思った。その一方で、本の世界のあまりの膨大さに呆然とした。こんなことでは、どんなに本を読んでも追いつけるものではないと思った。図書館は、新しい世界に目を開かせてくれるきっかけになる存在であるとともに、自分の小ささ、無力感に直面する現場でもあったのである。」と書いていて、なるほどと思いました。
しかし、私の場合はただ本が好きというだけで、図書館の本をすべて読んでやろうとか、その多さに圧倒されるということはなく、この本を読んでいられればそれだけで幸せだとしか思っていません。すると、7月2日の夜に、ある図書館でそのなかに泊まろうという企画があることを知り、すぐに申し込みました。
ただ、本の海のなかでのんびりと漂いたいというだけの気持ちからです。眠りながらも図書館にいたい、そう思ったのです。
下に抜き書きしたのは、過去についてのことです。
過去はあくまでも過ぎ去ったことですから、もうどうにもならない、というのが普通の人の考え方です。でも、脳科学者は違います。過去を「事実」と「認識」にわけて、「事実」は変えられないけれど「認識」は変えることができるといいます。
そういえば、イヤな過去でも、数十年も経つとそれほどいやなことではなく、あるいは良かったことに変わっていることがあります。
ぜひ、過去を分けて考えていただきたいと思います。
(2016.6.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
脳はもっとあそんでくれる(中公新書ラクレ) | 茂木健一郎 | 中央公論新社 | 2008年12月10日 | 9784121503008 |
☆ Extract passages ☆
私たちは、昔のことはすでに過ぎ去ったことで、どうすることもできないと思いがちだ。確かに、「事実」においてはそうである。10年前に起こった出来事を、今さら変えるわけにはいかない。現実になってしまったことをいくら取り戻そうとしても、それは果たせないことなのだ。だからこそ、「後悔」という感情の甘美さもある。
一方で、私たちの過去に対する認識は変えることができる。むしろそれは、生きもののように変わっていく。過去は、変化する。自分自身のうちで育てることができる。ここに、脳の働きからみた、昔体験したことをふり返る意味があるのだ。
(茂木健一郎 著 『脳はもっとあそんでくれる』より)
No.1249 『男の品格を磨く事典』
今、桝添東京都知事の問題が大きくクローズアップされていますが、誰かが言っていましたが、要するにダサくてケチだったということでしょう。
美術品などは自分の身銭を切らないとおかしいわけですし、ましてや家族旅行などはいくら言い分けてしても自腹で行くべきです。そのすべきことをしていなかったわけですから、この本の題名のように「品格」がなかったといわれても仕方がないと思います。
昔はよく「みっともない」からという言葉で自分を節制することもありましたが、これは「昔よく使われた、「みっともない」という言葉がある。「みっともない」は辞書によれば、「みともない」がなまったもので、原義は「見るに堪えない」だ。子どもの時分、どこの家でも親から「みっともないからやめなさい」といわれることで、自分なりに「こういうことは、してはいけないことなんだな」と思うようになった。昔の親は「みっともない」という言葉を通して、自分の価値観、美学を子どもに教えていたのだ。」といいます。
たしかにそうで、誰も見ていないから何をしてもいいというわけではなく、神さまが見ているからといって、勝手な振る舞いを自制してもいました。
ところが、最近では、少々悪いことをしても捕まらなければいいとか、もし捕まったら運が悪かったからというような風潮があります。それは、やはり品位のない行為であって、困ったことです。
あるいはまた、他人のせいにしたり、誰かになにかをして欲しいということなども、ほんとうは自由に自分のことをしたいという人にとってはあり得ないことです。この本では「求めない覚悟」と書いていますが、その通りです。では、この自由を手に入れるにはどうするかというと、「それは何事も他人のせいにしないことである。世のなかでは他人のために自分が被害をこうむることもある。それでも、他人の
せいにしない。そういう覚悟を持つこと。それが自由度を手に入れる大前提になる。自由度が高くなるにつれて、人間は困難に直面するようになる。自由には責任がつきものだからだ。また、自由は安全を保障してくれない。ラクに生きようと考えるならば、すべてを何者かに頼ってしまったほうがいいのだ。」とはっきりといいます。
この後で書いていますが、昔の終身雇用のように、上司からの指示通りにやっていれば、ちゃんと月給がもらえるし、考えることもありません。しかし、その終身雇用制度は崩れてしまいましたし、いくら大きな会社だとしても、絶対につぶれないということもなくなってしまいました。
大きな自由が得られたとは思いますが、個人個人にそれだけの責任と自覚が求められるということです。
たしかに男と女の品格の違いはあるかもしれませんが、今の時代は近づきつつあると言えなくもありません。この本では、基本的には男は女を保護し面倒をみるのが役目で、その役目を与えたのは宗教だと書いていますが、私はそうではないと思います。
下に抜き書きしたのは、人があまりかんがえなくなった理由についてです。たしかに、インターネットを使うようになって、わからないから考えるということではなく、わからなければすぐネットで調べて情報として知っているというだけになってきているようです。
私は本を読むことが好きですから、このように書いてあれば、なんか嬉しいような気がします。
ぜひ、本を読んでみてください。本は知らないところに連れて行ってくれるおもしろいツールです。
(2016.6.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
男の品格を磨く事典 | 川北義則 | PHP | 2015年8月6日 | 9784569826004 |
☆ Extract passages ☆
人々があまり考えなくなった理由は二つある。一つは、考えなくてもふつうに生きていけるから。だが、考えなければ、生きていけても人生は充実しない。動物のように食べて寝てそれだけという人生になる。だから、多くの人々は不満なのだ。
いくら「思って」も、「考え」なければ、人間は進歩しない。考えるには刺激が必要である。刺激を受けるためには、人に会ったり、読書をしたりするのがいちばんいい。今の人たちは、この二つから遠ざかりすぎている。
読書からは考えるための刺激が手軽に受けられる。一つは中身から刺激を受け、もう一つは読書行為そのものが「考えること」になるのだ。
(川北義則 著 『男の品格を磨く事典』より)
No.1248 『奪われる種子・守られる種子』
副題は「食料・農業を支える生物多様性の未来」で、たしかにこれからとても大事な問題だと思い、読み始めました。
しかし、大事なきんきんの問題だからおもしろいわけではなく、なんとなくダラダラと読んでしまいました。だからといって、おもしろくないわけではなく、なんとなく自分が知りたいと思っていたことと内容が一致しなかったようです。
それでも、作物在来品種は極端に少なくなってきたことは実感しますし、その原因がF1にあるのではないかとも思っていました。この本では、「野菜類を中心に、市販されている種子の多くは、F1(一代雑種種子)化されている。気に入った同じ品種を栽培しようと思えば、そのたびに種子を購入しなければならない。種子は自ら「採る」のではなく、「買う」時代になったのである。結果的に、私たちは、伝統的に栽培・維持されてきた作物在来品種の多様性を急速に失ってしまった。」と書いてあります。
たしかに、知り合いの農家を訪ねても、自分で種子を採取している方はほとんどいません。あるいは、勤めながら農家をしている方などは、種子からも育てるのではなく、黒ポットで育てられた小苗を買ってきて、植えているのです。
だから、どのように種子を採るのかさえわからない若い世代も多いのではないかと思います。
また、だいぶ前のことですが、アメリカで植物に自殺遺伝子を組み込むことに成功したと聞いて、びっくりしたことがあります。それをこの本では、「いわゆる自殺遺伝子とは、モンサント社が開発した技術で、作物品種の種子がモンサント社の中にあるうちは正常に発芽するが、いったん種子が農家に売られ、その種子をまいて育てた作物から農家が採種を行ってもその種子自体に組み込まれた発芽能力をなくさせる遺伝子などの形質が発現し死んでしまうものである。したがって、農家は毎年必ずモンサントから種子を買うことになり、農家の自主性が制限されることになる。」といいます。
このモンサント社は、2001年にETCグループと名を変えていますが、これらの技術はおそらく保持されていると思います。つまり、世界の種子は、ほんの一握りの世界企業に集約され、ある意味ではコントロールされているわけです。
この本の「おわりに」で、種子に関する考え方を2つに分けていて、「緑の革命のように、近代的育種で育成した品種を、潅漑技術および肥料などと組み合わせて生産性を高めるような開発に用いるために遺伝資源を保全する考え方と、農家自身が地域に適した品種を管理・育成し、自分の種子を採り続けようとする考え方」とありましたが、おそらく両方を満足させるようなことはなかなか難しいのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、「生物文化多様性保全のための植物種子保存の重要性」の本文からの抜萃です。たしかに、種とは何かということを端的にあらわしていますので、ぜひ読んで見てください。
そして、もう一度、種子のことや食料のことなど、人間に絶対欠かすことのできない問題を真剣に考えてほしいと思います。
(2016.6.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
奪われる種子・守られる種子(創成社新書) | 西川芳昭・根本和洋 | 創成社 | 2010年10月20日 | 9784794450456 |
☆ Extract passages ☆
植物のたね(種子および繁殖体を含む)は全ての生物の生命をつなぐものであり、太古から自然と人類の祖先が育んできたもので、特定の個人や企業の商業的独占物、ましてや条約が主権を認めている国家の所有物ではない。自然の生態系や農耕地で植物のたねが生息地保全されてこそ創造的、継続的な種の進化が保証され、生物多様性をより豊かに維持することができる。それゆえに、生物多様性と文化多様性を統合するたねの保全手法をとる必要がある。
(西川芳昭・根本和洋 著 『奪われる種子・守られる種子』より)
No.1247 『茶の湯名言集』
この本は角川ソフィア文庫のビギナーズ日本の思想のなかの1冊です。つまり、ビギナーですから、初心者向けに書かれたものでしょうが、ある程度茶の湯を経験した人のほうがすっきりと理解できるのではないかと思います。
もともと茶の湯の世界は、入口も奥行きも広く、なかなかわかりにくいものです。私も40年以上やっていますが、お点前はそれなりにできますが、お茶事をしようと思うと、なかなか大変です。どのような方をお客として迎えようかとか、その趣旨にあった道具組はどうしようかとか、迷うことの方が多いようです。たとえば、お客にしても、相性がありますし、お茶をどのぐらいたしなんできたかというのも関係します。誰でも良い、というわけにはいかないのです。
もし、長年お茶をしてきた方と初心者では、どちらも楽しくはなくなります。だからといって、あまりそろえすぎるのも考えものです。
いつも、そのようなことを考えてきたこともあり、この本を書店の本棚で見つけたときには、ためらいもなく、即手に入れました。
そして、ほぼ読み終えるようなところで、「一日中、美術館にいてよいと言われたら、なんて幸せだ、と喜ぶ人もいれほ、時間を潰すのに苦労して、早く出してくれ拷問だと思う人もいるだろう。茶の湯に呼ばれても、うれしいと思う人もいれば、恥をかくからいやだと思う人もいる。茶の湯に限らず、すべての出会いを生かすも殺すもこちら次第ということ」とあり、なるほどと納得しました。
これは、茶の湯のことだけではなく、すべてに当てはまることのようで、私のお茶の先生も、お茶を習うのはお茶を点てるお点前だけ上手くなってもダメだと言っていたことと同じです。つまり、すべてに通じるということです。
よく心を磨くといいますが、この本では具体的に、「心を鏡に譬え、曇りをなくすことで、外界を曇りなく映し出したいと考えるとらえ方である。紹鴎は、すばらしい花や紅葉を見て、すばらしいものを映し出せるような心の状態に達することを提唱した。利休は、すばらしいものを映し出せる状態の中に、自然の力・成長・変化を感ずる感性を加えることを追加して、花や紅葉の兆候をも楽しめる状態に達することを目指しているのである。」とあり、これも生きていくときの感性に関わることでもあります。
また、表千家の如心斎の『茶話抄』のなかの「上手なふりをするのは諸芸ともによくないということだ。茶の稽古は四角のものを次第次第に丸くしていく具合に、工夫するべきだ」というのがあり、この四角というのは力が入る過ぎていることであり、丸いというのは、姿に余分な力が入っていないことなどをあらわしているようで、これもお稽古をしているとときどき気づくことがあります。
つまりは、茶の湯とは、ただお茶を点てることではなく、よりよく生きていくために必要なことでもあり、有意義なことだと感じています。
下に抜き書きしたのは、利休の弟子、山上宗二が記した『山上宗二記』のなかの「茶湯者覚悟十体」のなかに出てくる「きれい数寄。心の中、なお以って専らなり」という言葉の説明です。
なぜ、これを取りあげたのかというと、今、自分のところの床の間に、元門跡の書いてくれた「掃地焚香楽有余」という軸をかけ、毎日観ているからです。
たしかに、大事なことだと、思います。
(2016.6.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
茶の湯名言集(角川ソフィア文庫) | 田中仙堂 | 角川学芸出版 | 2010年6月25日 | 9784044072148 |
☆ Extract passages ☆
テキストでは心の中も、きれい好き(掃除)の対象に含まれていることが、はっきりする。
戦国期の商人たちは、心をきれいにすることが曇りのない判断力と結びつくことを実感していたのではないか。鑑定士とて、偽物をつかまされる。「掘り出し物だ、これを売ったら大もうけできるぞ」と欲がでると、普段の冷静な判別はどこへやら、気がついたら偽物を買っていた場合、彼らは、欲で目が曇ったという言い方をする。
(田中仙堂 著 『茶の湯名言集』より)
No.1246 『笑顔がクスリ』
『「笑う脳」の秘密!』を読んだ続きで、この本を積んである本の山から見つけ出しました。
米沢市の新しい図書館は、来月1日に開館だそうだから、もう少し、手持ちの本で読んでいないものを探すしかなさそうです。
この本の副題は「笑いが心と体を強くする」で、帯には「ヒトだけが持つ「笑い」の不思議パワーとは?」とあり、おもしろそうだと思ってだいぶ前に買っておいたものです。この本は、月刊『暮らしと健康』誌の平成10年1月号から平成12年3月号まで連載された「あなたの笑顔なにより薬」に加筆して出版されたそうです。
どこを見ても「笑顔」がキーワードのようで、最初のほうに「笑顔は地球語、スマイル・コミュニケーションこそ国際化時代の共通語」と書いてあります。でも、国際的には、日本人の笑いはアルカイック・スマイルで、なんとも不思議といわれてきたのですが、今では、あまり聞かれなくなってきたように思います。ということは、笑顔は地球語になりつつあるのか、とも思いました。
著者は、もともとバリバリの産婦人科医で、40代までは月の半分ぐらいは病院の中に泊まり込むほどの仕事中心の生活だったそうですが、50歳を前にして、高校の同窓会があり、200人ほどの卒業生のうち、8人が亡くなり、しかもそのなかの4人が医者だったそうです。そのことから、医者と日本笑い学会の健康法師として講演をする二足のわらじを履くようになり、自分のやりたいことを見つけたそうです。その直接のきっかけが、1997年8月のがん患者を含む闘病者のモンブラン登頂10周年記念トレッキングだったそうです。
そして、その15人のなかに84歳のがん患者がおられ、モンブランでがらりと変わられたことを知り、生きているということの実感こそが大切だと感じたといいます。しかも、10年前に参加した7人の闘病者のうち5人がまだ元気なのに、そのときに案内してくれた山岳警備隊や登山ガイドのうち3人が亡くなっていたことを知り、びっくりしたといいます。ということは、がん患者だから、闘病者だから早く亡くなるわけではなく、それは結果にしか過ぎないのです。つまり、この世の役割がある間は、お迎えが来ないのではないかと書いています。
この本を読んで、「バラ喘息」というのがあることを初めて知りました。それは、「バラの香りで喘息発作がおこる人がいます。しかし、発作を繰り返しおこすうちに、しまいには香りもないバラの絵を見ただけで喘息発作がおこるようになる人がいるのです。これが「バラ喘息」で、医学的には抗原抗体反応では説明できません。」といいます。
つまり、病は気からです。なかには、喘息ではなく、ジンマシンができる人もいるそうで、いわば心療内科で扱う「心身症」の一例でもあるそうです。
また、興味を持ったのは、がん細胞をやっつけてくれるリンパ球の一種、ナチュラル・キラー(NK)細胞は、笑っても泣いても同じように活性化するというから不思議なものです。その涙を分析してみると、感情的な涙はタマネギの涙と違って、タンパク質をはじめ多くのストレスホルモンが入っているそうです。つまり、泣くことで涙が有害なストレスホルモンを除去してくれるから、泣いた後はすっきりするのかもしれません。
そういえば、笑うことも涙を流して泣くことも人間特有のものです。まさに人間らしいと言い換えてもいいわけで、それがNK細胞を活性化してくれるなら、大いに笑い泣いてもいいわけです。
下に抜き書きしたのは、いつもやさしい顔をしていると、ほんとうにやさしい顔になるというお話しです。優しい顔も笑顔もみなそうだと思います。
ぜひ読んで見て、いつもやさしい笑顔を心がけていただきたいと思います。
(2016.6.5)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
笑顔がクスリ | 昇 幹夫 | 保健同人社 | 2000年3月20日 | 9784832702297 |
☆ Extract passages ☆
昔むかしのお話をひとつ紹介します。
向かうところ敵なしという強い強い王様がいました。どの国も王様の旗を見ただけで降参というほどで、子どもは王様の顔を見ただけで泣き出すくらいこわい顔です。そのため、みんなこわがってお妃様のなり手がありません。それが王様の悩みのタネでした。
ところが、お面作り名人が王様に、やさしい柔和な顔のお面をつくつてくれました。さすが名人の作、目をとじるのも、食べるのも自由自在のお面でした。たちどころにお妃様が決まり、結婚して平和な幸せな日が続きました。
でも3年たって王様は悩みました。
これはワシのホントの顔ではない、いつまでもお妃を騙すのは心苦しいと、ある夜、お妃様にホントの話をしてお面をはずそうとしました。
すると突然、お面が割れて、その下にはこわい顔ではなく、やさしい顔があったのです。いつもやさしい顔をしていたため、そういう顔にいつの問にかなっていた、というわけですね。
(昇 幹夫 著 『笑顔がクスリ』より)
No.1245 『「笑う脳」の秘密!』
この題名の「笑う脳」というのは、一体何なのか、どのようなことを意味しているのか、などちょっと気になりました。気になったら、先ずは読んで見ることです。
すると、副題は「賢い人のアタマは何が違うのか?」とあり、少しずつ、何をいいたいのかがわかるような気になってきました。でも著者は作曲家であり指揮者でもあります。しかも、東大准教授や東京藝大や慶應大などでも後進の指導に当たっているとか、これでまたまたわからなくなってきました。
つまり、最後まで読んで見ないとわからないのではないかと思い、読み続けました。
すると、「笑う脳」について、『一つのものを複数の角度から見ることができること、つまり「立体的に物事を見ている」』ことが笑う脳だということです。つまり、もっと具体的には、「いま仮に、山登りを計画しているものと思ってください。一つの山を登るのに、いろいろなルートが可能です。あるルートは時間が掛かるけれど安全だろうし、別のルートは少しきついけれど短時間で登ることが出来る。一つの山を、モノレールのような軌道一本で考えるのではなく、いろいろな方向から立体的に攻略しようと考えるなら、登山ルートとしていくつもの可能性を考えることが出来ます。」と書いてあり、余裕があればいろいろな登山ルートを考えることができるということです。
また、なるほどと思ったのは、「アタマを切り替えるにはカラダから、カラダを切り替えるにはアタマから」というフレーズです。
そういえば、私も本を読んで疲れたり、考えごとをしていてなかなかまとまらなかったときには、外に出て植物の手入れをしたり、水掛けをしたりして、気分転換をします。このアタマを切り替えるにはカラダからというのは、まさに実感です。
人間というのは、1つのことばかりしていると飽きてしまいますし、1ヶ所だけの筋肉ばかり使っていると、消耗してしまいます。ほどほどの調和が必要です。
その調和をさせるには、「アタマを切り替えるにはカラダから、カラダを切り替えるにはアタマから」というのが理にかなっています。
また、そうですよね、と思ったのは、プレゼントに関してのことです。「何だろう? と思いながらプレゼントの封を開ける。もしこれが全部、透明の箱とビニールで包まれてたら、開けるまでのワクワク、ドキドキは無くなってしまいます。プレゼントの包みは中身が見えないから何が入っているか期待するわけです。」とあり、そうだそうだと思いました。
この世の中、なんでも知っていればよいということではなく、知らないことがあるからこそ、ワクワクドキドキするわけで、それが楽しいのです。何かな、と考えるからこそ、おもしろがれるのです。
著者は仕事柄、楽譜を暗記する、暗譜をするそうですが、そのときには目で見るだけではなく、耳も手も使うのだそうです。つまり、「目の暗譜」と「耳の暗譜」、そして「手の暗譜」です。
それらを駆使して1一種スポーツにも似た「手ごたえ」の快感を身につけていくことで、習得が確かなものになっていくのだそうです。
そこのところを下に抜き書きしました。ぜひ、読んで見てください。
(2016.6.1)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「笑う脳」の秘密! | 伊東 乾 | 祥伝社 | 2009年3月30日 | 9784396613273 |
☆ Extract passages ☆
耳と目と手の暗譜を一緒に行なうと効果が高いというのは、アタマとカラダを同時に使うほうが記憶する上で有利だということを意味します。さらに「快感」「感動」という「ココロ」の要素が加わると、基本的な暗譜のテクニックとして十全なものになります。ただ単に命綱が三つある、というのではなくアタマとカラダ、そしてココロの三つを、すべてバランスよく、お互いに関連づけてフルに活用することで、私たちは安定してベストを尽くすことが出来るようになるのです。
(伊東 乾 著 『「笑う脳」の秘密!』より)
No.1244 『ノーザンライツ』
No.1241の『イニュニック[生命]』を読んで、次は持って歩くのはちょっと大変なこの本にしました。しかも、写真はすべてがモノクロで、それも古きことがらを語るには一番似合っています。
まさに著者がいかにしてアラスカに憧れ、そして根を下ろすかがよくわかりました。アラスカの友人たちとの付き合いで、それが深まっていくのが手に取るようにわかるような気がしました。
しかも、残念なことに、この本の最後に掲載された「極北の原野を流れる"約束の川"を旅しよう」という文章が途中で途切れています。それは1996年8月にロシア・カムチャツカで取材中にクマに襲われ急逝したからです。そこで、その最後の文章のあとに、その旅にいっしょに行ったシリア・ハンターが「ミチオとの旅」として原稿を書いています。
その著者の最後の文章に、「が、とにかく私たちはやって来た。ぼくは、ふと、"思い出"ということを考えていた。人の一生には、思い出をつくらなければならない時があるような気がした。シリアもジニーも、その人生のとき〃を知っていた。年齢の差を超え、私たちが大切な友人同士だったのは、アラスカという土地を、同じ想いで見っめていたからだろう。シリアとジニーは、ずっと遅れてこの土地にやってきたぼくに、何かを託すように語り続けてくれた。そしてシーンジェックの旅は、ぼくが最初で最後に分かち合う、二人の物語になるような気がした。夜が明ければ、シーンジェックの美しい流れが私たちを運んでゆく。」とあり、何かを予感させるものがありました。それこそ、ほんとうに一生の思い出をつくったことになります。
著者がアラスカに行った頃は、すでに今のような状態ではなかったかと思います。しかし、それ以前の本当のアラスカを知りたいという思いで、いろいろな人たちから剥かしの話しを聞いてまわります。それらが、この1冊の本になったといっても言い過ぎではないと思います。
とくに、プロジェクト・チャリオットはアラスカのエスキモーにとって歴史的な出来事だったといいます。今ではエスキモーというのは一種の差別用語だからといって、イヌイットというようになりましたが、著者が親しみを込めてエスキモーというのは差別でもなんでもなく、むしろ尊敬を込めて使っているようにさえ感じます。
このプロジェクト・チャリオットについても、「なぜなら、一万年近く極北の原野に散り散りに暮らしていた人々が、有史以来初めてひとつの民族として団結し、外部の力と闘ったのである。それは後に、アラスカを大きく揺るがすことになる原住民土地請求権の闘いへとつながってゆく。そしてつぶされたプロジェクト・チェリオットも、その姿を変えながら世界中に散らばっていった。」と書いています。
おそらく、プロジェクト・チェリオットという幻のアラスカ核実験場化計画も、著者自身がその反対運動を経験したわけではないにしても、昔からの生活を続けようとするエスキモーの人たちの心に共鳴するものがあったから、このことについて5章も書いていると思いました。そうでなければ、章を改めて、何度も書くわけはないと思います。
下に抜き書きしたのは、キャンプ・デナリのことです。おそらく、外国人がアラスカで住むというのは、最初はこのようなものではなかったかと思います。その最初のころの生き生きとした人々の動きが伝わってくるようです。
しかも、「伝説のロッジ、キャンプ・デナリ」として2章にわけて書いていることから、相当な思いも感じられます。
また、もし機会があれば、この他の星野道夫の本も読んでみたいと思います。
(2016.5.29)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ノーザンライツ | 星野道夫 | 新潮社 | 1997年7月25日 | 9784103956037 |
☆ Extract passages ☆
キャンプ・デナリは、シリア、ジニー、ウディだけでなく、友人たちをはじめ、客さえもいつのまにかスタッフになりながら、さまざまな人間を巻き込んでゆくのである。つまりこの小さな山小屋は、まだ未明のアラスカで、さまざまな人々の出会いの場所となっていった。そしてキャンプ・デナリの渦に巻き込まれた人々の輪が、後になって、キラキラと光るアラスカのひとつの潮流となっていったような気がしてならないのだ。
(星野道夫 著 『ノーザンライツ』より)
No.1243 『文明が育てた植物たち』
この本の題名が気になって、以前から読んで見たいと思いながら、買おうと思ったらなかったりして、なかなか手にも入らなかった本です。
ところが、米沢市立図書館が長期の閉館となり、今まで読めなかった本を読み始めたとき、ふと、思ったのがこの本で、ブックオフのオンラインですぐに調べるとありました。さっそく、2,400円+税の本を、税込み498円で手に入れました。
もちろん、すぐに読み始めましたが、題名とはちょっと違うような内容でした。というのは、植物の有性生殖やシダ植物のように無融合生殖などに多くのページがさかれていて、文明が育てたというよりは植物たちがそのなかでいかに進化してきたかというようなことが多く書かれていました。
それはそれでとても興味がありますがし、自然を考えるなかで、とても大切な認識だと思うのですが、ちょっと肩すかしを食った感も否めません。
それでも、「プロローク」にある「私たちの周辺にある自然に、原始自然の姿を期待してはいけない。私たちが自然とよんでいるものは、いずれも人の営為の強い圧迫を受けた、いうなれば疑似自然である。」ということは、意外と曖昧につしている部分がありそうで、なるほどと思いました。
ということは、野生の動物が不意に出てきたり、ヘビがうろうろとしていたり、多くの蚊になやまされたりという自然ではなく、頭の中で描いた餅のような自然ではないかと思います。本物の自然なんて、怖くて近づけないのが今の人間たちではないかと思います。
ですから、いわば疑似自然でもなんでも構わないので、自然らしくあればいいのではないかと考える人たちのほうが多いような気がします。
そしてなにより、「人間環境として、豊かな緑が求められる点も、誰も否定をする人はいない。人が住む以上、緑の空間を必要とするのは、日本のように緑豊かな自然のあるところだけの話ではない。かくして、緑の空間を地球のあちこちにつくりだそうと躍起になる。」のは当然のことです。
おそらく、安全で安心な自然環境という意味での「自然」が、一番生活には必要なことなのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、「エピローグ」に書かれていたナチュラルヒストリーの現在像ということで、まだあまりにも少ない情報しかないということです。ただ150万種といえでもすごい数字ですが、自然というものは桁違いのすごさを持っているということに他なりません。
(2016.5.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
文明が育てた植物たち | 岩槻邦男 | 東京大学出版会 | 1997年5月15日 | 9784130633123 |
☆ Extract passages ☆
自然とか、生物多様性とか、言葉でいえば一言で表現される対象が内包するものの巨大さを考えるなら、これまでに科学がわからせてきたことは、巨象に群がる蟻よりも小さなことである。生物多様性についていえば、億をこえると推定される現生種のうち、約150万種が認知されているのみである。それも、ほとんどのものは、やっと名前がつけられているという状態で、どんな性質をもっているのかについては、ほとんど解明されていないといった方が正確である。それが、アリストテレス以来営々と努力されてきた調査研究の成果である。生物多様性の実体を、それに基づいて未来に生きる術が企画されるまでに解明するには、目が回るほどの時間を要するにちがいない。
(岩槻邦男 著 『文明が育てた植物たち』より)
No.1242 『騙される脳』
良い天気だと、外に出てシャクナゲの手入れをしたり水かけをしたり、なかなか忙しいものです。でも、この時期は雨が少ないので、やはり本を読む時間も少なくなってしまいます。
この本の副題は、「ブームはこうして発生する」で、読んで見るとそのブームの仕掛けが見えてくるようでした。なるほど、ブームはこうしてブームとなるのかと、妙に納得しました。
「まえがき」のところで、「人間は自分の決定に何か理論があると思いたがります。しかし実は理論はなく、あるのは直感だけなのです。大脳の仕組みで、人間はクチコミヤウワサに影響を受けた結果、直感をもとに選ぶのです。つまり、買ったあとで「高いけど長持ちするからいい」とか、「同じようなものがあるが、色違いが欲しかったから買った」とか、理由づけをして自らを正当化するのです。」と書いていますが、たしかに自分で合理的に決めたと思いたいものです。このような推論なら、これから読むのが楽しみです。
世の中には、たしかにつくられたとはっきりわかるようなブームもあります。たとえば、テレビなどのマスコミが取りあげることによって急に売り上げが増えることもそうかもしれません。もちろん、仕掛け人は、きっかけはテレビかもしれないが、その商品そのものに魅力がなければダメだと言います。でも、数週間後には、売り上げががた落ちになるのが多いようです。つまり、冷静に考えてみれば、それもブームの範疇に入ります。
この本でも取りあげていますが、行列のできるラーメン屋さんも、たしかに美味いかもしれませんが、さんざん並んだ後で食べれば、美味しいと思わざるをえません。そうでなければ、この並んだ時間が無駄な時間になってしまいます。もし不味ければ、もしかするとたまたまそうだったのか、自分の体調が悪かったのかと考えます。
私もある喜多方の名のあるラーメン屋で並んで食べたことがありますが、あまり美味しいとは思いませんでした。むしろ、ときどき食べている地元のラーメンのほうがそれより絶対に美味しいです。美味しいとか不味いとかいうのは、体調にも関わってきます。
たとえば、脳内の快楽ホルモンとして有名な「ドーパミン」は、美味しいものを食べたときに分泌されるかというと、そうではないそうです。もっともドーパミンが出るのは、『つまり快楽を感じるのが、「予想していた」 ことが「実現される」ときです。しかし、もっとドーパミンが出るのは、「予想外のこと」が起きたときです。動物実験では、美味しいものを食べているときではなく、「美味しいものが食べられる期待感を持っているとき」、あるいは「予想外のときに美味しいものが食べられたとき」に、最もドーパミンが出ることがわかっています。またいくら美味しいものでも、飽きがきてしまうとドーパミンが出なくなります。再びドーパミンを出すには、また新しいものを探すしかないのです。』とあります。
つまりは、ブームなりブランドなどにのっかるしかないというわけです。それでは、まったく解決にはならないようです。
下に抜き書きしたのは、あまりブームやつくられたブランドなどに操られるよりは、自分の価値観を見つけることだといいます。つまり「揺るぎない判断基準をもつ」ことです。オヤジもいいものです。そういえば、私自身もあまりブームやブランドにこだわりはまったくありません。
つまり、「オヤジ脳」ということなんでしょう。
(2016.5.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
騙される脳(扶桑社新書) | 米山公啓 | 扶桑社 | 2007年9月10日 | 9784594054656 |
☆ Extract passages ☆
人からどう見られているかなどに人間はこだわってしまいます。人の意見に左右されることなく、自分の価値観の面白さに従っていくことです。徹底的にこだわり追求していくことが大事です。これは脳構造からいえば、「オヤジ脳」です。いわゆる「オタク脳」でもあります。
オヤジはまさに右脳的です。徹底的にこだわり、追求する脳です。共通の話題で盛り上がるというのではなく、自分がいかにこだわっているかということを周囲の人に話したいのです。
自分の興味のあるものにくらいつき、徹底的に集中するのです。
(米山公啓 著 『騙される脳』より)
No.1241 『イニュニック[生命]』
この本も秩父34観音霊場巡拝で持って行ったものですが、10〜13日までの車移動で938.5Kmも走ったので、夜は疲れてゆっくりと本を読むことはできませんでした。それでも、ときどきはページを開いて、アラスカの大自然に思いをはせました。
この文庫本の書き出しの前に、「イニュニックはエスキモー語で[生命]の意味である」と書いてあり、読み進めると、人だけでなく動物や草木など、すべてに生命が宿っていることを実感できます。たとえ、自分たちが食べるために殺した動物たちにも、それは当然ながら生命があり、それでもアラスカの大きな自然のなかで生きていくためにはそれが自然でもあります。
副題は「アラスカの原野を旅する」で、中心となるものは1990年にアラスカに家を建ててからの3年間のいろいろを書いています。そのなかには現地の人たちや動物とのふれ合いとか、アラスカを旅しているときの様子とかが清冽な言葉で綴られています。
もちろん、すべて読んだあとに柳田邦男氏の解説を読んで納得したのですが、「写真家・星野道夫氏は、アラスカに身を投じなければ記録することのできないシーンをカメラでとらえるのと同時に、アラスカの森に棲み、嶮しい山や谷や森を探検し、大自然の動物たちや化石に遭遇するなかでしか湧いてこない思い、すなわち言葉を、つぎつぎに書きとめた。写真がシーンの発見であるように、言葉は思索の発見である。星野氏においては、写真家は写真で表現すればいいなどという狭い枠組みは、全く無意味だったろう。彼にとって、写真と言葉はそれぞれに独立した不可欠の表現手投であると同時に、共鳴し合いそれぞれの意味づけを二乗倍深め合う表現手段だったのだ。」と書いています。
先にこのようなことを抜き書きしてしまうので、ちょっと反則のような気がしないでもないのですが、本当に私もそう思います。
著者の写真集や本などいろいろと見たり読んだりしていますが、いつもそう感じていました。この偶然ともいえるようなダイナミックな自然の1枚の写真に、ポエムといってもいいような清冽な言葉がそえられ、ますますその写真の貴重さを思っていました。まさに写真と言葉が不二の関係です。
この大自然のなかで著者はしばしばキャンプをしていますが、そのときに1杯のコーヒーがとても幸福にしてくれるとあり、すごく共感しました。その部分は、「立ち木を組み、キャンバステントを張り、小さな薪ストーブを中に入れる。流木を集め、火をおこし、湯をわかす。テントの煙突から白い煙が立ち昇り、コーヒーのかおりがあたりに漂ってくると、やっとホッとした。こんな野営が何ごとにも代え難く好きだった。幸福を感じる瞬間とは、ありふれていて、華々しさのない、たまゆらのようなものだった。」といいます。私もネパールなどの山麓を歩いていて、気に入った場所でコーヒーを飲んだり、お抹茶を点てたりしますが、やはり幸せを感じます。
彼は、1996年8月に取材中のカムチャッカでクマに襲われて急逝していまいますが、この本のなかで、「大丈夫だよ。オレ以前さ、こんな道でクマに出合ったことがあるんだ。ブラックベアだったけど……お互いにびつくりしてしばらく顔を見つめ合ったよ。そしてオレはそっと道のわきにどいたんだ。そうしたらクマも道を離れてしまった。まあ、もし出くわしたら、道をゆずってあげる気持ちでいればいいのさ」と書いていますが、やはりクマにも気持ちが通じるのや通じないのがいるのではないかと思いました。ちょっと残念ですが、クマも人間もいろいろあるようです。
この本のなかで、たくさん印象に残ったのがありますが、その1つが下に抜き書きしたところです。たとえ生きていくためとはいえ、ブルーベリーの枝を折るような採り方をしてはいけないというところです。
ぜひ読んで、今の人たちにもよく考えて欲しいところです。
(2016.5.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
イニュニック[生命](新潮文庫) | 星野道夫 | 新潮社 | 1998年7月1日 | 9784101295213 |
☆ Extract passages ☆
キャサリンの父親はこの土地最後のシャーマンだった。そのことは彼女の考え方、行動に大きな影響を与えている。何気ない会話やしぐさのなかに、そのことを垣間見ることができた。キャサリンはよく運の話をした。
「子どもの頃、おばあさんとブルーベリーの実を摘みに行った時のこと。私はひとつひとつの実を摘むのに飽きてしまい、たくさんの実がついた枝を折っておばあさんに持っていったの。その時こんなことを言われたのを覚えている。
「ブルーベリーの枝を折ってはいけないよ、おまえの運が悪くなるから……」
やってはならないタブーがあり、その約束を守ることは自分の運をもち続けることなのだ。そして人のもつ運は日々の暮らしの中で変わってゆくものだという。それを左右するものは、その人間の、自分を取りかこむものに対する関わり方らしい。彼らにとってそれは「自然」である。それは生きものだけでなく、無機物のなかにさえ魂を見出そうとするアニミズムの世界である。
(星野道夫 著 『イニュニック[生命]』より)
No.1240 『庭の楽しみ』
5月10日から秩父34観音霊場巡拝をしていて、車なので今回は文庫本ではなくちょっと薄めの単行本にしました。しかも、だいぶ前に手に入れていたのですが、なんとなく読みそびれていて、いい機会だからと持ってきたのです。そして、13日に帰宅して、その間にほとんど読みましたが、写真の整理などに時間をとられ、この『本のたび』を書くところまではできませんでした。そして、やっと今日書き上げました。
この本の挿絵もよく、表紙にも「オズバート・ランカスター絵」と書かれていて、「弁明」では、「これは私の本ではなくてオズバート・ランカスターの挿絵の本です」と書いてあるぐらいです。たしかに、そう思ったとしてもおかしくないような出来です。
副題は「西洋の庭園二千年」で、185ページで二千年を鳥瞰するわけですから、なかなか大胆な試みです。でも、読んで見ると、エポック的なまとめ方をしていて、なんとなく流れとして理解できました。もちろん、西洋庭園を造ろうとしているわけではないので、ザクッとわかればそれでいいのです。
たとえば、「ロンドンがしだいにすすけスモッグがひどくなって来ると、植物の選択に考慮を払う必要が生じました。19世紀の半ばまでには、汚れ切ったロンドンでは針葉樹はほとんど育たないこと、鈴懸、楡、エイランサス(神樹)といった落葉樹の方がこの環境には適し、なかでもとくに葉だけでなく樹皮も毎年新しくなる鈴懸がロンドンにもっとも適した樹木であることが分かりました。常緑の灌木のうちにも塵埃に耐えるものがあり、これが長きにわたって斑入りの青木のたぐいがロンドンを席捲している理由です。」とあり、その当時のロンドンがいかにスモッグがひどかったのかを知りました。実は、ロンドンに行ったときに、そのスモッグの汚れを落としたレンガと落とさなかったレンガがあり、その洗い流さなかったところのすすけ具合は尋常ではありませんでした。それぐらい、ひどかったということです。
また、第16章「日本風の庭」では、流れとしては1880年から1910年ころに流行があり、その理由としては、「19世紀半ばまで、日本は世界でもっとも様子の分からない国のひとつでした。中国でさえ使い
古した西欧の通商ルートを持っており、そんなに厚い繭の中にくるまってはいませんでした。1850年代になるやいなや、アメリカおよびヨーロッパ諸国と交わされた外交条約によって日本の内政が変わり、玉手箱がいっきに開かれて、日本の美術品は19世紀末の最後の四半世紀に西洋の数寄者たちの楽しみの的となりました。」とあり、著者はこの流れを「浮かれたあげくの脱線のようなもの」と表現しています。
下に抜き書きしたのは、ジョゼフ・フッカーのことで、一昨年にイギリスのキューガーデンに行ったときに、その成果である「シッキムヒマラヤのしゃくなげ」という大著を見せていただきました。そのときの感動は、今でも忘れることができません。
しかも、それらの標本も見せていただき、写真まで撮ることができました。
今年の2月に汐留のパナソニックミュージアムで開かれたキューガーデン所蔵の「イングリッシュガーデン展」を見てきましたが、何度見ても本当に素晴らしいものです。
この本を読みながら、それらを思い出しました。
(2016.5.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
庭の楽しみ | アン・スコット-ジェイムズ 著、横山 正 訳 | 鹿島出版会 | 1998年8月25日 | 9784306072169 |
☆ Extract passages ☆
歴史上もっとも成功した採集家のひとり、ジョゼフ・フッカーが数百点にのぼる数をもたらしたヒマラヤの素晴らしい石楠花がとくに輝きを添えたのです。キュー植物園の園長のサー・ウィリアム・フッカーの息子であった彼は、植物園の後援によってインドに行き、2年間、シッキムと東ネパールで探険、採集、調査に従事、1万9千フィートの高地まで登ったのち、ベンガルで仕事を続けました。彼は6千から7千におよぶ品種を採集しましたが、なかでも色、大きさともにさまざまな石楠花類が圧巻で、彼は便のあるたびに植物と種子の行李を故国に送りました。で1851年、彼が帰国したとき、彼はその送った種子の多くがすでにキューの育種園で育っているのを見る喜びを味わったのでした。
(アン・スコット-ジェイムズ 著 『庭の楽しみ』より)
No.1239 『「世界地理」なるほど雑学事典』
ゴールデンウィークの後にも地区の第40回三沢春の山野草展が5月7〜8日とあり、40回という節目なので、何かと慌ただしく、このような時にはこの本のような雑学系のものが私にはうってつけのようです。
時間があるとちょっと読み、また時間を見つけてはちょっと読みすると、最後まで読んでしまいます。まさに隙間時間で読めるのがとても有り難いです。
副題は「地名の謎から地図の不思議までおもしろ知識満載!」で、たしかにちょっと旅行しているようにも感じました。
たとえば、サハラ砂漠が国土の五分の四をしめるニジェールという国は、「東経0〜16度、北緯11.5度から23.5度に広がり、もっとも近い海岸まで1200キロはあるという内陸国である。国土は日本の3.4倍あるが、そのほとんどが乾燥地帯。耕作可能な土地は12パーセントほどしかない」といいます。しかも、ますます砂漠化が進んでいるので、政府は「植樹の日」を定めているそうですが、はたしてその効果が現れるのはいつごろのことでしょうか。ちょっと心配です。
また、スイスが永世中立国で軍隊も持っていることは知られていますが、「この中立宣言の歴史から、スイスは、第二次世界大戦後に成立した国連にも加盟していない。というのは、国連に加入したら、他国間の争いに対し、戦争をやめさせるための軍隊を送らなければならなくなる可能性があるからである。」というのは意外でした。でも、そういわれれば、そうです。
今の日本も自主防衛だったのが、国連からの要請だということで海外に自衛隊を派遣したり、昨年に成立した安保法案ではさらに深入りしそうな懸念があります。だから、このスイスの国連にも入らない潔さはとてもよく理解できます。
戦争が始まるのは意外と単純なことのようですが、止めるのはたいへん難しいといいます。だとすれば、なるべく始めようとする国や人たちに近づかないことです。これって、とても単純なことですが、知らず知らずのうちに近づいてしまっているのを歴史を見ればわかります。
この世界の地理をみても、戦争の後遺症ともいうべき事柄が多いことに気づかされました。
下に抜き書きしたのは、ヨーロッパからアフリカをへて、インドへ行く東回り航路を買いたくしたバスコ・ダ・ガマの話しです。1497年6月にポルトガルのリスボンを出発したのですが、喜望峰はすでに発見されていたとはいえ、その先は未知の海域でした。喜望峰をまわったころから船員たちも不安になり反乱一歩手前までいったそうです。そこでバスコ・ダ・ガマがとった非常手段が下の抜き書きの部分です。
この思い切った行為ことが成功へと駒を進めてくれたのかもしれません。
(2016.5.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「世界地理」なるほど雑学事典(PHP文庫) | 世界博学倶楽部 | PHP研究所 | 1999年1月19日 | 9784569572332 |
☆ Extract passages ☆
追いつめられたガマは、ここで断固とした処置をとった。
反乱の旗振り役は航海長と水先案内人だったが、彼らに追随する乗組員ともども鎖で縛って拘束したうえで、備え付けの航海用具や地図を海に捨ててしまったのだ。
これでもう引き返せない。前進あるのみという彼の決意表明だった。
この行動にガマの強い意志を見たのか、翌年五月、一行は無事インドに到着したのだった。
(世界博学倶楽部 著 『「世界地理」なるほど雑学事典』より)
No.1238 『大雪山のお花畑が語ること』
この本と最初に出会ったのが10数年前で、たまたま東京出張のときに本屋さんで見つけたのですが、すでに5〜6冊を選んでしまい、これ以上は持ち帰るのは重すぎると判断し、あきらめました。次に出会ったときには、以前から欲しかった高額の本を買ってしまい、またまたあきらめました。
そして、今年の冬は暖冬で、例年より極端に雪が少なく、この影響が山などではどのようになるかと考えていたら、この本の存在を思い出しました。そこで、地元の本屋さんを探しましたが、このようなレアな本は当然かもしれませんが、ありませんでした。そこで、ブックオフの入荷お知らせにチェックをしておいたのですが、それでなんとか手に入りました。もちろん、すぐに読み始めましたが、2000年に出版されたままで初版でした。やはりこのような本は、あまり読み手がいないようです。でも、定価2,100円プラス消費税ですが、1,200円でしたから約半額で買えたことになります。
これは「生態学ライブラリー」の第10巻で、その他のシリーズもとても興味深いものがあり、さすが京大というか、サルについてのものがすでに4冊もありました。
著者は「はじめに」のところで、この本を書く意義について「これまでの研究過程で明らかになってきた季節性と高山植物の生態特性の関係について紹介すると同時に、ユニークな特徴を持った高山生態系についての理解を深めてもらいたくて書いたものでもある。」と書いています。
一番興味を持って読んだのは、キバナシャクナゲのことについてです。それは、「僕が最初に材料として選んだのは、キバナシャクナゲであった。花が大きく目立つため、操作実験や訪花昆虫の観察がやりや
すいと考えたからである。キバナシャクナゲは風衝地に隣接したハイマツの周辺からやや雪解けの遅い雪田まで、比較的広い分布域を持つ種である。風衝地周辺では、クリーム色の大きな花を六月中旬に咲かせはじめる。……雪解けの遅れとともに開花時期も遅くなり、雪解け傾度に沿った分布域の末端では八月上旬にやっと花を咲かせるのである。」とあり、私も大雪山の旭岳のキバナシャクナゲは見たことがあるので、とても納得しました。私が訪ねたのは2009年7月2日から5日まででしたが、その年は残雪が多く、いつもは登山道を歩くしかないのですが、残雪でどこが道なのかわからず、キバナシャクナゲの大群落の近くまで迷い込んでしまったこともありました。
おそらく、そのときしか、撮れなかった写真もたくさんあり、今でも思い出してはそのときの写真を見ています。
また、高山の風衝地での植物たちの開花順なども参考になり、「風衝地では、まだ気温の低い六月初旬からウラシマツツジやコメバツガザクラの開花が始まる。その後、ミネズオウ、キバナシャクナゲ、イワウメと順々に開花が起こり、最終ランナーのチシマツガザタラは八月上旬に花期を終える。」と書いてあったので、これからはこれを考えながら高山植物の写真を撮ればいいのではないかと思います。このイワウメの次にクロマメノキ、ヒメイソツツジ、エゾツツジ、コケモモと咲くそうです。
アメリカ人の生態学者ピーター・ライヒの研究グループが論文として発表した葉の特性についての仮説で、彼らによると、『植物の葉の特性には、「生産性」と「持続性」のトレードオフ関係』があるといいます。それで、この考え方にそって1つの仮説を思いついたのが下に抜き書きしたものです。
ただ、この仮説は、常緑植物では成り立たないことがわかったそうで、それはスウェーデンのヨーテボリ大学ノウルフ・モローでの調査研究の成果でもあったそうです。本当に、仮説を検証するというのは気が遠くなるような時間と根気が必要だと思いました。
(2016.5.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
大雪山のお花畑が語ること(生態学ライブラリー) | 工藤 岳 | 京都大学学術出版会 | 2000年8月18日 | 9784876983100 |
☆ Extract passages ☆
この研究テーマで僕が考えていた仮説はこうだ。落葉植物の場合、生育期間の短縮は強制的に葉の寿命を短くする。このようなストレス環境で植物が葉っぱの炭素バランスを維持するためには、製造コストを下げると同時に光合成活性の高い葉っぱを作ることによって可能になる。従って生育期間が制約されている環境では、比葉面積が大きく、窒素含有量の高い、短命の葉っぱを作るのが適応的であろう。窒素を多く含んだ葉っぱは構造的に弱く、食害も受けやすいかも知れないが、短期間で効率的に光合成による炭素獲得を行える。これに対して常緑植物は、葉っぱの寿命を延ばすことによって何シーズンにもわたって光合成を行うことができるので、長期間葉を維持するために構造的にしっかりした葉っぱを作る必要があるだろう。従って生育期間の制約が増すにつれて、比葉面積の小さい、寿命の長い葉っぱを作るようになるであろう。
(工藤 岳 著 『大雪山のお花畑が語ること』より)
No.1237 『果物屋さんが書いた 果物の本』
この HANDS BOOK シリーズは、「砂糖屋さんが書いた 砂糖の本」などのように、長年その仕事に携わってきた方に書いてもらおうという企画のようです。
そこで、この本は、稼業として青果問屋をしている著者が書いたもので、とくに食べ頃などの話しはさすがです。しかも、問屋さんですから、多くのホテルやレストラン、料亭などへ果物や野菜などを卸しているわけで、相手もその道のプロですから目利きも多いわけです。そこで仕事をしていますから、さらに目利きでないとつとまらないと思います。
その経歴を見ただけで、この本を読もうとだいぶ前に買っておいたのですが、だんだんとその上に本が重ねられてしまい、いつの間にか下積みになって気づきもしませんでした。ところが図書館の長期閉館で、やっと日の目を見たかのようです。
もともと、とても果物好きなので、その果物の原産地や現在の生産地、その種類など、いろいろなことを知りたくて求めたものです。もちろん、今でも果物好きは変わっていませんし、ますますその傾向が強くなったような気もします。だから、もし果物だけで食事代わりにするといわれたら、もう大喜びです。
だから、ほとんどの果物を食べますし、海外に行って、まだ見たことも聞いたこともない果物があれば、ためらわずに食べてしまいます。たとえば、昨年の3月、インドネシアのカリマンタンに行ったときには、道のわきで売っていた何種類かのドリアンを食べました。さらに、そのとき、初めて食べたのですが、サラックヤシの白い果実も美味しかったです。この果実はスネークフルーツ(Snakefruit)ともいうらしく、形もアルマジロのようでもありました。でも、食べてみないと味はわからないと思い、一口で食べてしまいました。
この本にも、亜熱帯や熱帯のトロピカルフルーツはいろいろと出ていますが、さすがこのサラックヤシは出ていませんでした。そのカリマンタンでドリアンというのは、マレー語で「ドリ」は「トゲ」という意味だと知り、その表面のトゲトゲしい姿を見て、納得しました。もちろん、あのクリーミーな味わいにも大満足でした。それで、そのドリアンを乾燥させてつくったドリアンチップスをお土産として買ってきたのですが、やはり、まったくあのおいしさはありませんでした。まあ、当然といえば、当然のことです。
ここ山形では、来月になるとサクランボの収穫が始まります。もちろん、これも大好きです。これを食べないと、初夏を迎えたような気分にもなれません。
そのサクランボのジクが意外にも「ジクを煎じて汁にしたものは、腎臓病の民間療法としては有名なものといわれています。まず、サクランボのジク一握り(だいたい30グラム)を、1リットルのお湯で約10分間煮ます。その煮汁を250グラムのサクランボの実の上にかけ、20分たったら裏ごししてできあがりです。」とあり、サクランボも美味しいだけではない、と思いました。
また、年末になると、ある方から「ダイダイ」を送っていただくのですが、その縁起の良さを「ダイダイは木にそのままにしておくと最初青い色をしており、それが少し黄色みをおびてきて、それから橙色になり、さらにまた置いておくと再び青色に戻ってくるのです。これはレモンなどでもそうなのですが、柑橘類は置いておくと青く戻るものなのですが、ふつうは成熟して最後までもたないで途中で落ちてしまうのです。それがダイダイほ、成熟して青くなっても木から落ちません。そして次の年の実がなるまで、ずっとついたままでいるのです。」と書いています。
やはり、橙色になってまた青くなるのが青春のようなイメージなのか、そのような理由から毎年お正月に飾っています。
ところで、よく、甘い果物を食べ過ぎると糖尿病になるとおどかされますが、この本では下に抜き書きしたようにあまり関係はないと書いていました。
これを読んで、もう少し果物を食べてもいいのではと安心しました。
(2016.5.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
果物屋さんが書いた 果物の本 | 牧 秀夫 | 三水社 | 1990年11月30日 | 9784915607486 |
☆ Extract passages ☆
たとえば、糖尿の検査をするときにぶどう糖を飲み、血液の検査を時間ごとに行います。このときに、ぶどう糖の代わりにナシやミカンの糖をそれに相当するカロリー分になるようにして食べさせて検査をすると、多くの果物の場合はまったく糖度が残らないで、逆に血液中の糖分が下がってしまうという説もあります。そんななかでやや下がりにくいのがブドウです。ですから、ぶどう糖という名も、このあたりからきているのかもしれません。
ナシやブドウは砂糖水と一緒だなどと大きな勘違いをしては困ります。とくにナシの糖分は果糖のなかでもソルビトールといって、ひじょうにからだにいいのです。むしろバランスのとれた、加工されていないなまの食べ物というのは、からだにとてもいいと思います。
(牧 秀夫 著 『果物屋さんが書いた 果物の本』より)
No.1236 『「心の掃除」の上手い人 下手な人』
今、ゴールデンウィークの真っ最中ですが、私たちにとっては人さまがゆっくり休暇をとっているときほど忙しく、毎日慌ただしく過ごしています。
こういうときには、読む本も短く区切られた随筆のようなもので、いつでも読み始めて、どこでも閉じられるもののほうが安心して読めます。だから、内容も断章のようなものが最適です。
この本のようなものはとてもうってつけで、文庫本ですからどこに持っていっても気軽です。ただ、何を読んでいるか知られるのもイヤなので、付いてくる表紙カバーは取り外しています。大事な本の場合は、それに文庫本カバーをつけるのですが、それは外に持ち歩くときで、普段はほとんど付けません。
少し前は、この本のカバーを集めたことがあり、布製や特殊紙製、あるいは革製などもあり、そのときどきの気分によって変えたりしています。本格的なものでは、散歩用の小物と本がいっしょに入る「多機能文庫カバー・散歩名人」で、PAL SHOPで15,750円もしました。ただ、良すぎるのも善し悪しで、あまりにもったいなくて、未だに一度も使っていません。今回、思い出して箱を開けてみると、2012年7月17日の日付が入っていました。
むしろ、私的には、ジーンズのラベル素材で作った無印良品の「文庫本カバー」315円が最もお手軽で使いやすく、思いついたときにこの程度のものを買っています。
さて、この本は、2006年2月に波乗社の規格・編集で新講社より刊行されたそうです。どちらかというと、対象者が女性向きのような気がしますが、今の時代、掃除も料理も家事一切をお互いに助け合ってすべきという流れがあるし、どちらかというと掃除は苦手なので、せめて心の掃除ぐらいは人任せにしないという気持ちで読み始めました。
すると、「暇人になるな、自分を忙しくさせなさい」とあり、なるほどと納得したものの、別なページで、「詰め詰めのスケジュールを1本抜きなさい」とあり、さて、どうすればいいのかと迷ったりしながら読みました。すると、「楽しいことなら、がんばり過ぎもOK」とあり、「いいとき悪いとき、いちいち一喜一憂するべからず」とも書かれてありました。
たとえば、これに関しての話しで、女子プロゴルファーの横峯さくらさんの父である横峯良郎氏は「人のバイオリズムには3という数字が大きくかかわっているような気がする。1年のうちに絶好調の3カ月があれば、逆に絶不調の3カ月がある。もっと大きなスパンでいえば、3年、30年で好・不調の波は変わってくる」といい、このバイオリズムを「3.3.3の法則」と呼んでいるそうです。
おそらく、このような流れはほとんどの人がなんとなく感じていることで、あまり調子が良すぎると、それがズーッと続くと思っている人はむしろ少ないと思います。だからといって、悪いことだっていつまでも続くわけはなく、いつかは良くなると思っています。
つまり、この本に書かれていることはほとんどの人がうすうす感じていることで、それをこのように文章にされるとなるほどと思うのです。
そういう意味では、この本を読むとつねづね思っていることが整理され、なるほどという理解につながってくるようです。
そして、この本の最後に書いていたのが、下に抜き書きした部分です。
さて、あなたはどのように思いますか。
(2016.5.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「心の掃除」の上手い人 下手な人(集英社文庫) | 斎藤茂太 | 集英社 | 2008年2月25日 | 9784087462692 |
☆ Extract passages ☆
幸せというものは、自分がつくるというよりも、誰かがそっと運んできてくれるもの、遠くから持ってきてくれるもの……そういう一面があるように思う。
いま、あなたが幸せなら、それはあなたがつくったものではなく、あなたの夫、あなたの妻、あなたの子ども、あなたの恋人、あなたの友人……など、あなたの身近にいる人、あなた以外の誰かが、あなたにそっと運んできてくれたものだ。
そういうふうにも思うのだが、どうだろうか。
(斎藤茂太 著 『「心の掃除」の上手い人 下手な人』より)
No.1235 『どうぶつたちからの贈り物』
副題は「生き方上手の9つの思考」ですが、どうぶつたちの短編童話から人生に役立ついろいろな知識などを手に入れようという趣旨のことが「はじめに」に書かれています。
ですから、この本は人生読本のようなものではないかと思いながら読み進めました。
前回はムシたちのユニークな生き方でしたが、今回はその動物版のようなもので、この本の帯には「現代版イソップ物語から知る幸せになる智恵」と書かれていました。それが9つの思考法があるということなのでしょう。
読んで見ると、短編童話があまりにも簡単に理解できるもので、イソップ童話のように深みがないような気がしました。イソップ童話は、いかようにも読めますし、どのようにも解釈ができるのですが、この本に出てくる童話は、すぐにわかります。まあ、それが童話の童話たる所以かもしれません。
私は、むしろその考え方というか、思考法におもしろさを感じました。
たとえば、ダイエット宣言したコウモリの話しですが、『ある山の洞窟に住む一匹のまぬけなコウモリの笑い話です。そのコウモリは欲張りで何でもガツガツ食べるので、まるまる太っていました。なので空を飛ぶこともできなければ、木の枝にぶらさがることもできません。そのため、他の動物たちからはブタコウモリ″というあだ名をつけられ、いつもバカにされていました。「これじゃあ、いかん。なんとかして名誉を挽回しよう」。そう思ったコウモリは他の動物たちに、「ボクはこれから減量に励む!」と宣言しました。しかし、その後の言葉を聞いた途端、他の動物たちはそのコウモリのことをますますバカにするようになりました。なぜなら、そのコウモリはこういったからです。「その前に、腹ごしらえをしておこう。さて、何を食べようかな」』といいました。
たしかに、これではいつまでたっても欲望に負けてしまい、願望達成を難しいでしょう。でも、人の心にも、このようなちょっとばかげた思いがときどき首をもたげてくるような気がします。まさに、ダイエット宣言したコウモリを笑ってばかりはいられません。
下に抜き書きしたのは、「笑顔で人に接していけば、あなたの人生そのものが微笑む」という項のなかに出てくる文章です。この前に、喫茶店の店員の笑顔の話しがあり、このような喫茶店なら機会があったらまた来てみようと思うと書かれていましたが、今の人たちはコーヒーを飲むのにそう考えるだろうかと思いました。もちろん、笑顔は大切です。でも、むしろお店がますます繁盛するようにとか、営業成績がみるみるアップするようになるというために笑顔でいるようではちょっと違うような気がします。あくまでも自分が笑顔でいたい、笑顔でいたほうが気持ちいいと思うから、笑顔がすてきなのです。
だとすれば、むしろ、下のような自分のための笑顔のほうが大切だと思います。
(2016.4.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
どうぶつたちからの贈り物 | 植西 聰 | 幻冬舎 | 2002年7月10日 | 9784344002050 |
☆ Extract passages ☆
笑顔というのは、他人の心に"快"をつくり出すためだけにあるのではありません。実は自分のためでもあるのです。辛い時や落ち込んだ時に意識的に笑顔をつくって明るく振る舞えば、いつの間にか気分が楽になるからです。
さあ、今日から早速、笑顔のトレーニングに励んでください。あなたの微笑む回数が多ければ多いほど、ハッピーな現象に遭遇するする頻度も多くなるのです。
(植西 聰 著 『どうぶつたちからの贈り物』より)
No.1234 『"かしこい生き方"はムシたちに学べ』
この本の副題は「毒・寄生・変態 なんでもありの"いきもの学"」で、ムシたちのおもしろい生き方がたくさん紹介されています。
前回は植物たちのユニークな生き残り作戦でしたが、今回はムシたちのお話しです。でも、意識的に選んだのではなく、たまたま『植物の生き残り作戦』の脇にこの本があったから引っ張り出しただけの話しです。
でも、植物もそうですが、ムシたちもそうとうユニークな生き方をしているのがいて、とても興味深く読みました。
たとえば、ムシは嫌いだといっても、いざそのムシを孫にねだられて飼わざるをえなくなったら、意外とかわいいものだと思うかもしれません。この本では、「マッケンジーという心理学者が、バラの花粉で喘息発作を起こす女性に、造花のバラの花束を差し出したところ、発作が起こってしまったという報告を行っている。むろん、造花のバラに花粉などはない。脳が、「バラだ!」と認識しただけで、体がアレルギー反応を起こしてしまったのだ。また別の調査によると、ネコアレルギーを自認する人たちをたくさん集めて、病院で調べてみると、はとんどの人に陽性反応が出なかったというものもある。本人はアレルギーだと思っていても、検査してみると、全然そんなこともなかったりするのだ。」と書いていますが、なるほどと思いました。
つまり、人間というのは、意外と過剰反応や思い込みなどがあるということです。
さて、今年は暖冬でほんとうに積雪が少なく、それを喜ぶ人も仕事に差し支えると困ってしまう人もいましたが、雪がどのくらい降るかなどというのは誰にもわかりません。でも、昔から、カマキリの巣の高さと何か関係があるのではないかとささやかれていました。この本では、はっきりと、「1997年に『カマキリが高い所に産卵すると大雪は本当か』という論文で、日経サイエンス創刊25周年記念論文賞・優秀賞を受賞した酒井與喜夫さんが、3000個近いカマキリの巣の高さを調査し、積雪データとの関連を調べてみると、きれいな相関が見られたという。つまり、カマキリが高いところに巣を作っていると、その年には積雪量が多かったのだ。カマキリを英語で言うと「マンティス」。その語源は、ギリシャ語の「マンティダエ」にあって、「予言者」という意味らしい。カマキリには、未来を予測する力があると考えられていたのだろうか。」と書いています。
そういえば、もう亡くなられましたが、家の近くに冬の毎日の積雪を日記につけていた方がいて、カマキリの話しもしていました。でも、それを自分の記録のなかに閉まっていたから、そのままになってしまったようですが、酒井んのように、しっかりとデータをとって、論文の形をとって発表すれば、他の人たちの役にも立てたかもしれません。
おそらく、このようなことは誰でも知っているかもしれないとか、あまり重要なことではない、と思っている可能性もあります。しかし、この本に書いてあったネズミの実験も、これはこれでとてもユニークで内容だと思いました。
それは、「米国レイク・フォレスト・カレッジの心理学者フォーガス博士は、生まれたばかりの12匹のネズミを、6匹ずつにわけて、灯油のにおいのする水か、水道水で育ててみた。そして57日目に、2種類の水を用意して飲ませてみた。すると、灯油のにおいに慣れたネズミのうち、72パーセントが灯油の水のほうを選び、水道水で育てられたネズミの85パーセントが水道水を選んだという。慣れたもののほうが、ネズミも安心できるらしい。」ということです。
たしかに慣れはいろいろな面であると思いますが、これもなるほどと思いました。
下に抜き書きしたのは、これだって慣れといえなくもありませんが、むしろ、環境によって大きな影響を受けると考えてもいいかと思います。1つの実験がいろいろなことを考えさせてくれると思い、ここに掲載させてもらいました。
(2016.4.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
"かしこい生き方"はムシたちに学べ | 内藤誼人 | 梧桐書院 | 2011年6月17日 | 9784340120031 |
☆ Extract passages ☆
チョウザメは、成魚になると、2メートルから3メートルにもなる。
だが、このチョウザメを60センチくらいの水槽で育てるとどうなるか。
やってみるとわかるが、30センチはどで成長がストップして、成魚になってしまうのである。それ以上大きくなる必要がないと思えば、成長しなくなるのである。
(内藤誼人 著 『"かしこい生き方"はムシたちに学べ』より)
No.1233 『植物の生き残り作戦』
この本もいずれ読もうと思っていたのですが、米沢市立図書館が休館なので、本棚から引っ張り出して読み始めました。
この平凡社の自然叢書シリーズは、ちょっとユニークなのがあり、何冊か読んでいますが、この本も植物たちの生き残り作戦を、その専門分野の方たちが担当して書いています。だから、専門的すぎるところもありますが、そんなに難しくもなく、興味深く読みました。
たとえば、一番最初の「ジャックパイン」は、生きるためには火事が不可欠だそうで、そういえば、何年か前にオーストラリアのダーウィンに行った時に見た「バンクシア」もそのような植物でした。しかも、そのときには山火事があったところを通ったのですが、バンクシアの木が焦げていて、ちょっと痛々しかったように見えました。でも、その山火事が生き残るための作戦だと知り、複雑な心境でした。
この項で、日本では落雷というと雨と結びついていますが、実は、「火事が高頻度で自然発生するような乾燥地域では、落雷と降雨とは必ずしも同時的なものではない。火事が自然発生する原因は落雷以外にもあるが、それらによる火事の発生はどちらかといえばまれなケースである。」といいます。ということは、かなりの確率で山火事が起きているということで、それを利用する植物がいてもおかしくはないわけです。
また、イタドリの作戦も見事なもので、肥料の三要素のひとつで成長には欠かせないチッ素ですが、そのチッ素が極端に少ない貧栄養下でも、「イタドリは細くて長い板で雨の中に含まれるごく微量の窒素を吸収し、また少ない窒素でも効率よく光合成する能力をもっている。さらに、いったん吸収した大事な窒素は、秋に地上部が枯れてしまう前にその大部分を地下茎へ回収し、翌年再利用するために蓄えておく。回収できずに落葉中に残ってしまった窒素も、葉が分解されていく過程でパッチ内の土壌に蓄積していく。」のだそうです。
おそらく、少ない肥料を大事に使いながら、時間をかけてしっかりと成長していく様子が、この記述からもわかります。また、そのような場所であれば、おそらく他の植物と競争する必要もないでしょうから、ゆっくりと成長してもいいのでしょう。これもまた、すごい作戦だと思いました。
そして、この本に出てくる植物のなかで、レウム・ノビレはブータンに行ったときにぜひ見てみたいと思っていたのですが、なかなか見ることができませんでした。しかし、そのとき、残った人たちがそれを見て、さらに種子を採取してきたので、私にも送ってくれて、しばらく育てていました。でも、花が咲くと枯れてしまうと思い、なるべく咲かさないように管理をしていたのですが、10数年後に枯れてしまいました。
そのときのことを思い出しながら読んでいましたが、そのなかで、「レウム・ノビレのこの黄白色半透明の苞葉には、どんな役割があるのだろうか。苞葉でおおわれた花序の内外の温度差を調べてみると、内部の温度は外部に比べ想像以上に高く、晴天時には摂氏29度にまでなり、外気温との差は約10度になることがわかった。曇天時でさえ気温12度に対して、花序の内部は21度とほぼ同様に加温されていた。まさに拓葉による「温室効果」といえるのではないだろうか。しかし、日没後は内部の温度が気温とほぼ同じであることもわかり、加温効果はあるものの、保温効果はないと思われる。」と書いています。
このことは、その時に聞いたことと、ほとんど同じでした。
ところが、この苞葉のないレウムもあるそうで、たとえばネパール中部の高山帯に自生する「レウム・モオルクロフチアヌム」は、ロゼットの葉腋から長さ40〜50pほどの棒状の花序軸が突き出て、その軸に穂状に花がつくだけだそうです。まさにレウム・ノビレと違い、まったく外にむき出しのままのようです。
その説明がとても興味をひく内容だったので、下に抜き書きしました。私も、なぜ、と思いました。
(2016.4.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
植物の生き残り作戦(自然叢書) | 井上 健 編 | 平凡社 | 1996年4月20日 | 9784582546316 |
☆ Extract passages ☆
ヒマラヤ高山帯の同じような環境下にあり、サイズはひとまわり小さいものの、栄養成長期の生育形はたいへんよく似ているのに、ノビレでは、我が子をいたわるかのような大きな苞葉をつくるのに対し、モオルクロフチアヌムは子供を厳しく育てるかのようにその花を雨風に直接さらしている。同じ属でも系統的にはかけ離れているのかもしれないが、あまりにも対照的な花序をつくるモオルクロフチアヌムをみた時
には、苞葉のもつ意味をたいそうに考えていたことを笑われたようであった。モオルクロフチアヌムは低い気温のなかで胚や花粉を十分に発育させる能力をどのように得ているのだろうか。(大森雄治)
(井上 健 編 『植物の生き残り作戦』より)
No.1232 『植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記』
米沢市立図書館が休館なので、この本は古本屋で探した1冊です。古本屋も大好きで、あの独特の雰囲気やちょっとシケっぽいようなにおいとか、それを感じながら本を選ぶのがいいのです。
この本は、13年ほど前に出版されたのですが、植物学者のハンス・モーリッシュが大正時代に日本を訪れたときの観察記ですから、別に新刊でなくてもよく、いつ出たのかということもあまり関係ありません。
でも、植物学者が日本をどのように見たのか、しかも新設されたばかりの東北帝大の生物学教室で2年半ほど教鞭をとったことと、北は樺太から南は鹿児島まで観察旅行をしていたので、とても興味深く読みました。
とくに感じたのは、今でもありふれたように行っていることがその当時も行われていたことを知り、やはり急には変われないものだと感じました。たとえば、何でもカメラで撮りたがるとか、著者の本にサインをもとめたりすることです。また、アメリカの宣教師との話しで、『私が、日本での布教はなかなかたいへんで時間がかかるのではありませんかと言うと、彼は、「たしかにおっしゃるとおりです」と事実を認めながらも、冗談まじりに「しかし日本人はわれわれよりもずっと善良なクリスチャンなのですよ」とつけ加えた。この奇妙な返事に興味を覚えた私は、「なぜそのようなことが言えるのですか」と尋ねた。するとこの宣教師は次のような説明をした。「いやそれはですね、私が教会で説教をしながら壇上から信者たちを見ていると、日本の信者たちは聖書を上から下に向かって読むので、いつも首を縦に振って、そのとおりですと意志表示してくれるのです。ところが西洋人たちときたら、左から右に読むものですから、私の言うことに対して、ちがうちがうと首を横に振るのですよ。そのようなわけで、私は教会で説教をするたびに、日本の信者たちは西洋人とちがって、私の言葉に対して素直にうなずいてくれていると感じるのです」』と書いています。
でも、今では横書きの本も増えていますから、このようにはならないでしょうが、日本人のわかってもわからなくても、わかったような顔をするのは今でもあり得るかもしれません。
また、やはり植物学者は違うと思ったのは、「日本人は珍しいもの、とっぴなもの、技巧を凝らしたものが大好きである。そのため日本の庭では剪定ばさみが重要な役割を果たしている。そこではフランス人のように、「生きた樹木の壁」を作ることが目的ではなく、木の形態をある一定の習性に従わせることに主眼が置かれている。」と書かれたところで、「訳者あとがき」を見ると、モーリッシュ家は先祖代々、果樹や野菜、草花の栽培、造園を手がける園芸農家だったそうです。さらに母親は、花輪や花束作りが上手だったそうで、だからこそ、日本の生け花にも強い興味を示したのではないかと思います。
この本を読むと、ほんとうにいろいろなことに興味があるようで、しかも的確にその当時の様子を書いているところをみると、たくさんの知識もあったようです。このモーリッシュ以前に日本を訪ねたドイツ人は、「ケンペル、シーボルト、ベルツの三人が有名であるが、モーリッシュはこれら三人を強烈に意識してか、彼らの著作に周到に目を通している」といいます。たしかに、自分の専門分野以外の「日本の音楽、文学、演劇、美術、死生観といった事柄」などにも触れ、しかも独自の考えを盛り込んでいます。
今、米沢でもサクラが咲こうとしていますが、そのサクラに関しても文化的な背景まで書き記しています。そういう意味では、あまり植物に感心がない人でも、興味を持って読んでもらえるのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、そのサクラに関しての部分です。
やはり、外国人でなければ、このような感覚はないかもしれません。ぜひ機会があれば読んでみてください。
(2016.4.21)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記 | ハンス・モーリッシュ 著、瀬野文教 訳 | 草思社 | 2003年8月14日 | 9784794212382 |
☆ Extract passages ☆
ヨーロッパにも桜はある。けれども人の目をひくのは、果樹園にある桜で、それも花よりはむしろ、赤黒い実がたくさんなって、枝がたわむのを見て感心するのである。花の色はほとんどが自一色である。
しかし日本の桜は、色とりどりの絵の具をちりばめたパレットを見る思いがする。雪のように白いものから、淡いバラ色、桃色、紫まで、いやそれどころか黄色い桜花さえ見られるのである。
日本人にとって果実はあまり重要ではない。というのも、日本では機が熟しても実をつけない種類が多いからで、日本の桜がこんなにもたくさん花をつけるのはこのためかもしれない。つまり実をつける
必要がないので、前年にたくわえた栄養分の大半を、花の成長に費やすことができるのである。
(ハンス・モーリッシュ 著 『植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記』より)
No.1231 『旅巧者は、人生巧者』
著者の本といえば、軽やかな仏教書というイメージですが、これはあくまでも旅についての本でした。
主になるのが、江戸時代のガイドブック『旅行用心集』で、著者は八隅蘆菴(やすみろあん)、1810(文化7)年の秋に須原屋伊八から刊行されたようです。
この本のなかに、「道中用心61ヶ条」というのがあり、それを解説しながら、今風なアレンジをしています。もちろん、なかには、今ではまったく関係ないこともあり、たとえば大きな川を渡るときの川越とか船渡しについてなどは、今はまったく見られません。演歌の世界にほんの少し残っているかもしれませんが、日本ではなくなったようです。
それでも、インドに行ったときに対岸に渡るのに使ったことがありましたが、それだって、近くに大きな橋の工事をしていましたから、いずれなくなることでしょう。
でも、江戸時代にはなかった旅の心得の一つに、海外に行ったときのチップがあります。私の海外の友人は、さりげなく上手にチップを渡すのを見ていて、感心することがあります。私を含めて、おそらく日本人のほとんどがその習慣がないので、そのタイミングをつかまえたり、そもそもいくらぐらいにするのか、やはり不安です。
この本では、3つのポイントにまとめています。1つは、チップはノブレッス・オブリージュなので、いわば高貴なる者には義務だとしています。2つめは、いちおうの目安としては支払い額の10〜15%くらいです。そして3つめは、チップは感謝の印だから渡すのは最後だといいます。おそらく、これさえ覚えておけば、海外のチップをあげなければならないところでも、迷うことはないはずです。
ところが、最近はカードで支払うこともありますが、そのときには、計算書のチップの欄に金額を書き入れてからサインをすればいいようです。
また、海外旅行でとまどうことのひとつに、買い物の時の値段です。定価が付いていればいいのですが、お土産物の場合などのように正札が付いていないと、いくらするのかわかりません。ただ値切るばかりでは時間がかかってしまいます。でも、その値切りも旅の楽しさの一つでもあります。
ただ、注意して欲しいのは、この本でも取りあげていますが、買おうとしている品物にケチをつけないことです。たとえば、ここが汚れているから安くしろとか、品物が雑だからもっと安くならないか、とかです。ほんとうに雑な品物なら、買わなければいいのです。いいから、欲しいから買おうとするわけで、その品物にケチをつけてはダメです。
まさに、旅はなにがあるかわかりませんし、なにかがあるから楽しいわけです。日常にはない何かをもとめて出かけるのが旅で、無理をしない程度のゆとりが必要だと思います。
下に抜き書きしたのは、その旅で不愉快な気持ちになったときの解消法だそうです。
私は海外でほとんどタクシーに乗ることはないのでこのような経験がないのですが、もし遭遇したら、ぜひやってみたいと思います。
(2016.4.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
旅巧者は、人生巧者(ヴィレッジブックス新書) | ひろ さちや | ヴィレッジブックス | 2008年8月30日 | 9784863320703 |
☆ Extract passages ☆
腹が立ったとき、……大声でまくしたてればたてるほど、ますます不快感がつのります。
では、どうすればいいのでしょうか……?
そうですね、そんなときには、少し大目のチップを渡して、
「ありがとう」
と言って降ります。それがいちばんいい方法です。これをやると、たいてい、相手は変な顔をします。相手は面喰らっているわけです。そうすると、こちらは大人物になった気がします。
(ひろ さちや 著 『旅巧者は、人生巧者』より)
No.1230 『私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか』
この本も、いつか旅に出るときに読もうと思って買っておいたものです。
ところが、米沢市立図書館が今年の6月まで休館になり、たまたま本屋さんにも行けなくて、手元にあったこの本を読み始めたというわけです。でも、とてもおもしろく読みました。
以前から、プロスキーヤーって、なにで生計を立てているのだろうと思っていたのですが、最初の頃はやはりだいぶ大変だったようです。でも、本人は好きなことをやっているわけですから、お金がなくても、先が見えなくても、やっているそのことが楽しかったといいます。
おそらく、その明るさは父親の三浦敬三氏ゆずりのところもあるでしょうが、スキーが好きで好きでしょうがなかったという、その好きなことをしているからこそのものだと思います。その好きなことをし続けるために、目標を立てる、それに向かってあまり余計なことを考えずに進むということも大事だと思います。著者は、「私が明るくポジティブな理由は、目標があるからです。したがって、皆さんがもし明るい気分になれず、ネガティブな気持ちに支配されているのなら、まず目標を持つことを考えてみてほしいのです。目標さえあれば、明るくなる。そこに根拠とか、理屈といったものなどないのです。」と書いています。
たしかにその通りです。
そして、できるとかできないとか考えるより、先ず進むことです。そして、もし不安があったとしても、やらない理由とか、止める理由を探し始めないことだそうです。
考えてみれば、やめたいと思っていると、いくらでもその理由は探せます。理由付けができれば、もうする意味はなくなります。
できるとかできないとか考えずに、ただやり抜くこと、それが三浦雄一郎の明るさの理由だそうです。
これらの積み重ねが、今の立場を築き、さらに80歳でエベレストを目指すきっかけにもなっているようです。だからスポーツは人生の縮図だとして、「私は、スポーツは人生の縮図だと思う。うまくなりたいという気持ちで努力し、苦しい練習に耐えると結果が出る。それは結局、人生とほとんど同じではないのだろうか。普段からスポーツで少し自分を追い込んでみてほしい。それが人生のさまざまな障害に対する耐性になるし、ついでに身体も健康になれる。」と言っています。
さらに、見栄さえもかまわない、それで限られた時間のなかで最大限のパフォーマンスが発揮されればベストなトレーニング精神だとも言います。かっこ良くみられたい、そんな不純な動機でもいいではないかと言っています。
まさに三浦語録です。下に抜き書きしたのは、人間が老化するのは当然なことだとして、それでも目標を立てることの大切さを説いています。
私も還暦をとうに過ぎていますが、もっともっと頑張れそうな気持ちになりました。
(2016.4.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか(小学館101新書) | 三浦雄一郎 | 小学館 | 2013年4月6日 | 9784098251612 |
☆ Extract passages ☆
病気や身体の故障を抱えるたび、一時的にせよ自由度は下がる。こんなはずではなかった、もっと楽に目標に向かえたはずなのに、と思わないこともない。
そこで考え方を変えてみる。手術をしてもまだ目標に向かって歩き続けられている自分の運の良さ、80歳でいまだにエベレストに登る可能性を十分残している我が身の幸せと幸運を、目一杯感謝し、喜ぶようにしているのだ。
何せ日本は超高齢化社会だ。ちょっと見渡してみれば、私の年代や、それ以上でも元気な人はいっぽいいる。……父・三浦敬三はその権化のような人間だった。
老けていくのは人間が生物である以上当然のことだ。老化の過程で何も目標がなければ、病気やケガは、ただ「死」という終着点に向かう途中にあるマイルストーン、カウントダウンにしか感じられないかもしれない。
(三浦雄一郎 著 『私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか』より)
No.1229 『ぼくらは「生物学」のおかげで生きている』
この本は、「素晴らしきサイエンス」のシリーズの1冊で、このほかにも「科学」や「数学」などもあるようです。
ちょっと取っつきにくいかな、とも思いましたが、今まであまり見たことのない電子顕微鏡の写真がたくさん掲載してあり、とても興味深く読むことが出来ました。
著者の日比野拓氏は動物関係を、そして金子康子氏は植物関係を担当したそうで、読んでいるうちに教科書を読んでいるような錯覚になりました。つまり、やはり題名通り「生物学」の本のようでした。
それでも、有精卵からワクチンをつくるとか、下村氏がノーベル賞を受賞したことで有名になったオワンクラゲから光る物質である緑色蛍光タンパク質の発見とか、もっと自然に食べるものとか着るものとか、まさにこれら生物のおかげで私たち人間が生きていられると思いました。
それと、便利さもそうです。
少し前のことですが、孫がこのヨーグルトの蓋を引きはがしてもくっついていないよ、とビックリしていました。たしかに、そうです。誰もいないと、そのヨーグルトがついた蓋の裏をなめてしまっていましたが、孫にはかっこう悪いからしないようにと注意をしていました。
でも、蓋にヨーグルトがつかなければ、そのような余計な注意をしていることもありません。でも、なぜつかないのか、わかりませんでした。ところが、この本に種明かしが書いてあり、しかもその製品開発のきっかけが神頼みだったそうです。つまり、なかなかその開発の糸口が見つからないので、ある神社にお参りに行くと、その神社の裏手にハス池があり、そのハスの葉の水をはじく様子を見て、ピンとひらめいたそうです。
やはり、自然は素晴らしいものです。いろいろなヒントがたくさん隠されていると思いました。
動物は年を取ると成長が止まるけど、植物は毎年生長を続けます。たとえば、屋久杉と呼ばれるには、1,000年以上経たなければならないのです。そのような植物の生長の仕方の特徴を「無限成長」というそうですが、それを下に抜き書きしました。
まさに植物のすごさそのものです。ぜひ読んで見てください。
(2016.4.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ぼくらは「生物学」のおかげで生きている | 金子康子・日比野 拓 | 実務教育出版 | 2016年1月5日 | 9784788911703 |
☆ Extract passages ☆
植物は成長してからも、根と茎の先端にそれぞれ、種子から芽生えたときと同じような分裂組織をずっと持ち続けます。根は先端へ行けば行くほど若い組織です。……根では、先端部にある根端分裂組織で細胞分裂を繰り返し、新しく生じた細胞が伸長し、さらに分化して根の組織がつくられ続けます。その結果、先端に近いほど若いということになります。
一方、地上部では、茎の先端にある茎頂分裂組織で細胞分裂を繰り返し、葉と茎をつくり続けます。このように、植物は生きている限り細胞分裂と細胞伸長、細胞分化を継続して成長し続けることができるのです。
(金子康子・日比野 拓 著 『ぼくらは「生物学」のおかげで生きている』より)
No.1228 『「医者いらず」の食べ物事典』
クリニックを経営している医師が「医者いらず」を書くのもすごい話しですが、それより、たしかに薬やサプリメントなどの世話になるより、ちゃんとした食べ物から栄養をとったほうがいいというのは、素人でもわかることです。
でも、それはわかっても、では、どのような食べ根のを食べればいいかということになれば、なかなかわからないものです。
そこで、このような本があればと思い、手元に置きながら読んだものです。ですから、ちょっと気になったときとか、ヒマなときに読んだので、全部を読み切るのに何ヶ月もかかったようです。でも、今日、すべてを読み終わったので、その印象だけでも書いておこうと思いました。
さて、一番印象に残ったのは、漢方の相似理論という考え方です。それは、「西洋医学は人間だけを診る学問ですが、われわれ人間も、この地球上に生まれた一つの生命ですから、他の動植物と似ている、と考える」ことだそうです。
たとえば、「年齢と共に、下肢の冷え、むくみ、筋力の低下、腰・膝の痛み、排尿の異常……などの症状が表れてきますが、人間の下半身は、植物の根に相当しますので、「相似の理論」ではこうした「老化症状」には、ゴボウ、ニンジン、レンコン、タマネギ、ヤマノイモなどの根菜を食べるとよい、と考えます。貧血(青白い顔色)には、小豆、黒豆、浅草ノリ、プルーン、レバー、ホウレンソウなど、「色の濃い(赤または黒の)食物」を、逆にズングリムツクリ、赤ら顔の高血圧のおじさんには、緑葉(青)野菜や牛乳など、「青白い食物」を食べさせると、お互いにないものを補完しあって症状が改善する、というのも「相似の理論」の応用です。」と書いてありました。
たしかに、そういわれればそうだと思います。でも、人間の身体は、なんとなくですが他の動物たちとは違うような気がしないわけでもないので、それをそのまま鵜呑みには出来ないのではないかとも思います。
でも、自然の大きな流れからは、そのように考えることもできるかもしれません。このあやふやさが昔の漢方にはつきまといます。しかし、今どきの漢方薬は、成分をしっかり計算されていますから、当然のことながら飲み合わせや副作用の心配もあるそうです。だから、お医者さんにしっかり処方してもらわないとダメだと聞きました。
でも、大きな流れから漢方を考えると、「漢方では、四千年も前から、主に植物を使った「生薬」を用いて薬とし、種々の病気を治してきました。「薬」という漢字も、艸(草かんむり)」と「楽」よりできており、「草(植物)を食べると楽になる」ということを表しているわけです。英語の「drug」(薬)も「dry herb」(乾燥したハーブ)からきています。「草」そのもの、またはそれを改良して栽培したものが野菜や果物であることを考えれば、野菜や果物が薬効を持っているのは当然と言えるでしょう。」と考えるのは無理のないことです。
下に抜き書きしたのは、その漢方の考え方の陰陽についての文章です。
これも読むと、なるほどと納得できます。
ぜひ機会があれば、食べ物を考える上でもお読みいただければと思います。
(2016.4.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「医者いらず」の食べ物事典(PHP文庫) | 石原結實 | PHP研究所 | 2006年5月22日 | 9784569666242 |
☆ Extract passages ☆
漢方では、色彩を陰と陽に大別し、青・自・緑の色を帯びたものは「陰」つまり「冷え」の性質を持っており、赤・黒・橙の色は「陽」、つまり「温」の性質を持つと考えます。そして陽は陰を求め、陰は陽と一緒になり、調和を保とうとします。こうして陰陽相半ばした状態が「調和」「中庸」「健常」の状態です。
人間は最初、体温が高くて赤血球が多い 「赤ちゃん」という「陽」の状態で生まれ、年齢と共に少しずつ体温が下がり、白髪になり、白内障を患うというように「冷え」の色の白を呈して、「陰」の状態の「白ちゃん」(老人)になって死にます。
(石原結實 著 『「医者いらず」の食べ物事典』より)
No.1227 『食卓の日本史』
副題が「和食文化の伝統と革新」とありながら、表紙の写真は、梅干し1個がのった白い皿の両側にナイフとフォークがセットされていて、それが目を引きました。たしかに、梅干しは日本の代表的な食べ物ですが、それが洋皿にたった1個は、とてもインパクトがありました。
「はじめに」のところで、「私たちの食生活はこれでよいのか、将来の食生活はどのようにするべきか」と書いていますが、それに対するアンチテーゼのようにも感じました。
そして、読み終わって、今考えてみると、たしかに「私たちの食生活はこれでよいのか、将来の食生活はどのようにするべきか」と思いました。たしかに、日本人は、中国から麺類が入ってきても、独自のラーメンを考えてきましたし、カレーのルーが入ってきたときも、独自のカレーライスに作り替えてしまいました。今食べているほとんどの料理を調べてみると、コロッケもハンバーグもチャーハンも、みんなそうです。おそらく刺身とか寿司とか、今ではそのまま英語でも通じるものは別にして、海外から入ってきたものを日本人の舌に合うように作り替えてきました。著者は、「古来、世界のどの地域においても民族の食文化は保守的なものであり、その地域の特殊性を容易には失わない。日本のように、外来の食文化を次々と受け入れて民族固有の食文化を大きく変化させてきた国は少ない。次々と新しい外来の食文化を積極的に受入れながら、絶えず日本らしさを追求することを忘れずに継承して民族の伝統食「和食」を築き上げてきたのである。」と書いています。
もちろん、それが悪いことではなく、みんなが食べたいだけ食べられるということは、とても有り難いことですが、あまりにも食生活が豊かになり、便利になりすぎると、食べられることにありがたさが感じられなくなったり、そして食べ物や食べることにおろそかになるのは、やはりおかしいと思います。
とくに最近伝えられるように、食べ物の3割も捨てられてしまっている現実です。しかも、食料の国内自給率が4割にも満たないのにムダに捨てられているようです。また、「フードマイレージ」も問題ですし、食の安全・安心についてもいろいろな問題がありそうです。
この本を読んで知ったのですが、健康食品やサプリメントなどの全体の売り上げが年間2.5兆円を超えているそうで、なんと、主食である米の生産額より多いということでした。これは、誰が考えても、おかしいのではないかと思います。本来はバランスのよい食事をしていればそれだけで必要な食物繊維とかDHA、イソフラボンなどはとれるはずです。
ちなみに、著者は、「和食を代表する懐石料理や会席料理ではその季節に旬を迎える魚介や野菜を選び、その持ち味を引き出すように調理するのであり、濃い調味料や強い香辛料を使って素材の味を損なうことを避ける。食材の持ち味にワインやスパイス、バター、チーズなどの濃いソースを加えて、濃厚な味を作り出す欧米の料理とは対称的である。欧米料理が絵の具を塗り重ねる油絵とすれば、日本料理は墨一色で描き、余白を残す水墨画であると言ってよい。このように、伝統的な和風料理には四季の移り変わりを愛する日本人の繊細な感性と美意識が籠められているが故に、世界に類のない美しい伝統文化であると認められたのである。」と書いています。
ここに和食の素晴らしさがあり、日本人にもっとも合う食べ物であるということです。
下に抜き書きしたのは、一緒に食べることの大切さについてです。最近では家族全員が揃って食べることも少なくなり、朝食を抜いたりする若者も多くなっているそうです。
食べるということは、みんなで食べてこそ、美味しいと感じるものです。また、そうでないと、家族の和も社会の和も保つことは難しくなります。今の社会の難しさは、もしかすると、食生活から来ているのかも知れない、とこの本を読んで感じました。
もし、機会があればぜひ読んでいただきたい1冊です。
(2016.4.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
食卓の日本史 | 橋本直樹 | 勉誠出版 | 2015年12月25日 | 9784585230397 |
☆ Extract passages ☆
ヒトは 「料理をして、仲間と一緒に食べる動物」であるというように、仲間と一緒に食事をすることは人間だけが行う文化行為なのである。原始の時代、動物として弱い存荏であった人間は仲間と協力しなければ獲物を手に入れることが難しかった。だから、手に入れた獲物は仲間と分け合って食べたのである。獲物を公平に分配することで仲間の結束を維持し、食物を分かち与えることで愛情や友情を示していた。これが仲間と一緒に飲食する「共食」の始まりである。
ファミリー(家族)とは大鍋を囲んで食べる人を意味し、一緒にパンを食べる人をコンパニオン(仲間)と呼んだのである。コミュニケーションという語は神と一緒に食事をするコミュニオンに由来し、集まって討論することをシンポジウムと呼ぶのはギリシャの昔、一緒に酒を飲んで意見交換をしていたシュンポシオン(共飲)に由来する。
(橋本直樹 著 『食卓の日本史』より)
No.1226 『続 次の本へ』
前掲の本が、ちょっと本選びにミスったようだったので、あらためて本を選ぶ難しさを考えました。すると、今まであまりにも無造作に選んでいたからではないかと思い至りました。
もちろん、この本に登場する方のなかにも、無造作に選んでいるような方がおられ、たとえば本を読むのは「楽しいあみだくじ」という川口さんは、「本を読み重ねていくことは、あみだくじ作りに似ていると思います。あみだくじを作るときには、まずタテ線を何本か引いて、そこからヨコ線を書き入れていきますよね。自分にとって、たとえば同じ著者やジャンル、テーマの本を読み重ねていくのは、タテ線を引く作業です。一方、ジャンルをまたいで思考や情報のリンクがつながりそうな本は、ヨコ線の材料になります。タテ線が長く伸び、ヨコ線が思いがけないリンクを結ぶほど、楽しめるくじができあがるわけです。」と書いています。
つまりは、そのあみだくじの先にはどのようにつながっていくのかは、読んでいるうちはわからないということで、読み終わってから、その結果として見えてくるのです。
また、意識的に同じテーマのものを違う角度から書いた本を選ぶという石田さんの「同じテーマを違う角度から書いた本を読むことで、いま見ている景色が急に変わることがある。しかし、違う角度の本はたいてい、自分のふだんの生活と少しずれたところに潜んでいる。隠れた関心に気づかせてくれる本との出合いを通じて、これまで見たことのない景色に遭遇する。それこそが読書の醍醐味だ。」なども、なるほどと思いました。
でも、最後まで読むと、本を選ぶというのにあまり決まったセオリーはなさそうです。まさに、この本に出てくる方、51名それぞれの本の選び方があります。
だから、それを真似てもいいし、自分なりの選び方をしてもいいし、おそらく何でもありではないかと思います。
そして、この本の最後に登場する詩人で高校教師の和合さんは、読む本を選ぶことも大事だが、書斎という場所も大事だといいます。それで、下に抜き書きしたのですが、私も昨年秋に本を読むための机を新しくしました。
今までの机は、コクヨの事務机でしたが、寒くなるとその表面が冷たくなり、なじむまで時間がかかりました。いつかは木製の、しかも一枚板の机が欲しいと思っていたら、たまたま知り合いの家具職人のところでトチノキの一枚板を見つけました。しかも地元にあった木だということで、それで自分の部屋に合うような机を作ってもらいました。
出来てきたのは10月12日でした。ほんとうにシンプルな机で、手垢がつかない程度の軽い塗装をした一枚板に4本の足を付けたものです。長さが155p、幅が75〜70p、厚さが4.8pです。
ここに上げているのは、パソコン用のディスプレーとロジテックのスピーカー、槐製のペン立て、木製のメガネ置き、照明用のスタンドです。だからちょっと広くて、この机の上に、コーヒーカップを載せたときのコツンという音の響きがとてもいいんです。
もちろん、木の温もりが感じられ、本を読むのがますます好きになりました。
さて、この机で次はどんな本を読もうかな!
(2016.4.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
続 次の本へ | 苦楽堂 編 | 苦楽堂 | 2015年12月12日 | 9784908087028 |
☆ Extract passages ☆
孤独と向き合わなければ、なかなか物を書こうという気持ちにはならない。書斎で今、たった一人なのだとはっきりと感じ入った時、初めてこんこんと静かに湧きあがって来るものがある。積極的にそうなるために、私はこの場所にやって来るのだ。(和合亮一)
(苦楽堂 編 『続 次の本へ』より)
No.1225 『人生で大切なことはいつも 超一流の人たちから学んだ』
この本を読み進めるうちに、なぜ、このように次々といろいろな人たちとの出会いがあるのだろうと思いました。著者自身が、自分で「出会い運」というものをたぶんかなり持っているとはいうものの、それでも不思議でした。
それと、次々にファーストクラスとか普通は泊まれない特別なホテルの部屋とか、なぜこんなにも気軽にそのようなところに出入りできるのかとも思いました。買う物だって、金額こそ出てこないのですが、私には想像もできないような金額だと思うのですが、いくつも買ったり、特別にオーダーしたり、気安くプレゼントしたりと、なぜできるのだろうかと、思いました。
そこで、半分以上読み進んだところで、後ろに書かれている経歴を見て、そのアムウェイってどのような仕事をしているのだろうと思いました。この本を読むまで、著者の名前はもちろん、その仕事すら知りませんでした。
そこでネットで調べてみると、それでも、詳しくはわからず、どこかに割り切れない印象が残りました。
そして、最後のほうで、それまで一言もアムウェイという言葉が出てこなかったのに、そのアムウェイ・コーポレーションの共同創立者であるジェイ・ヴァンアンデルとリッチ・デヴォスの話しが出てきました。
そこで、この本を閉じました。まあ、今日は4月1日でエイプリルフールだからとも思いました。そういえば、今日を「万愚節」ともいうそうです。
下に抜き書きしたのは、共同創立者の話しの少し前に出てきます。この話しだけを読むとその通りだと思いますが、著者が言うように、「アドバイスをくれる人が誰かということも見極める必要があります。あなたが信頼している人からの言葉は真摯に聞くべきですが、何の関係もない外野がああだこうだ言っているのに振り回されてはなんにもならないのですから。」という言葉も、ぜひ味わってみてください。
(2016.4.1)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人生で大切なことはいつも 超一流の人たちから学んだ | 中島 薫 | サンマーク出版 | 2015年10月10日 | 9784763134943 |
☆ Extract passages ☆
「トイレの神様」という歌もありましたが、「トイレ掃除をすると金運がアップする」という情報を聞いたことがある人は多いと思います。真偽のほどはわかりませんが、これも、「証拠はあるのか」「どういう理屈だ」などと四の五の言って結局何もしない人よりも、「そうか、トイレ掃除をするといいのか」と納得してすぐに実行する人のほうが明らかに運気は上がるでしょう。やって損をしないことで、やればいいことがあるということに対して、「じゃあやろうかな」とさっと動ける素直さは、持っていたら絶対に得だと思います。
(中島 薫 著 『人生で大切なことはいつも 超一流の人たちから学んだ』より)
No.1224 『本と店主』
副題は「選書を通してわかる、店主の原点。店づくりの話」です。ということは、本屋さんで、どうすれば本屋を開業できるかというノーハウも当然ながら、むしろそれよりはこの本の中で対談しているさまざまな業種で店舗を構えている方が「どんな本を読んできたか」というような話しです。著者は「序」のところで、「どんな本を読んできたかを知ることは、どんな人かを知ることにつながる」と言っていますが、たしかにそうだと思います。
この本を読もうと思ったのは、先ずはその装丁の良さです。本好きなら、やはりグッとくるようなイラストが表紙を飾っています。さらに、著者が、1974年に山形県寒河江市で生まれていると知り、ますます読みたくなりました。
試みに、今、手元にある辞書で本屋を調べてみると、その類似語が意外と多く、書屋、書店、書舗、書房、書林、書肆など、いろいろと出てきました。ということは、いろいろな本屋さんがあったのだろうな、と思いました。
この本のなかでも、「書肆 逆光」という名前の本やさんがいましたが、詳しく読むと、八丁堀で古本屋兼古道具屋兼ギャラリー……、みたいなものだそうです。しかも、最初は書肆ですから古本屋をするつもりだったそうですが、いつの間にかこのような形態になったということでした。
そのなかで、「本屋」というのと「本屋さん」というのとではその線引きがちがうという話しになり、「本屋さん」というのは人格であって、やっぱり「本屋」のほうがいいってある方は言ってました。なるほど、この人は『本屋図鑑』や『本屋会議』などという本の編集や出版もされているそうですから、それなりの考え方があるのだと思いました。
今、全国の本屋が大変な時代になってきたという話しをよく聞きます。つまり、本を読まなくなった、そして本をネットで買うようになった、だから本が売れない、経営が成り立たなくなってきた、ということみたいです。
この『本のたび』だって、もともとは活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思って始めたものです。しかも、「ホンの」思いつきではじめたコーナーですから、ズーッと続けようとは思ってもいませんでした。でも、結果的には、今も続いています。
ということは、本が好きという方はまだまだいるのですが、それを自分の足で歩いて買いに行くかネットで買うか、あるいは図書館で借りてきて読むか、などいろいろな形の変化があるのではないかと思います。しかも、この本に出てくる本屋もさまざまな形態をとっています。
しかも、この本の著者そのものの本屋が、今までの本屋とは違うようです。さらに、2015年5月5日に銀座1丁目に開業した森岡書店銀座店は、「1冊の本を売る書店」というのがコンセプトだそうです。つまり、ある一定期間はたった1種類の本を売るための本屋で、その1冊の本から派生する展覧会を行っているそうです。
でも、考えてみれば、本屋に泊まるというコンセプトの簡易宿泊所みたいな「BOOK AND BED TOKYO」というのさえ出現しています。ここに泊まりたいと思い調べてみると、「本棚と一体化したベッドで読書しながら寝落ちできる泊まれる本屋さん」とあり、なかなかこちらの希望する日にちは取れませんでした。つまり、とてもニーズがあるということです。
おそらく、これからもいろいろな形の本屋が出てくるのではないかと思います。また、それはそれでとても楽しみです。今まで、神保町で古本あさりをしているだけだったのが、お気に入りの本を読みながら、そこで買い求めたすてきなコーヒーカップでコーヒーを飲み、そのまま寝入ってしまったなんてこともできるかもしれません。
今回は、何を書き抜きしようかと悩みました。でも、本をコーヒーにたとえれば、お茶請けも欲しいと思いながら、下の文章を選びました。これはほんとうに納得しました。
(2016.3.31)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
本と店主 | 盛岡督行 | 誠文堂新光社 | 2015年12月12日 | 9784416715581 |
☆ Extract passages ☆
磯谷仁美 お菓子は食事とちがって、なくても生きていけるけど、ないと潤いがないですから。
森岡督行 そのあたりは、本と一緒かなって思います。このまえ、仙台に行ったときの話なんですけど、「人間、必要なものだけでは生きていけないというのが地震で分かった」ということをおっしゃっていた方がいて。すごい説得力があったのは、生活に必要なものだけで生きていけるなら、避難所で自殺する人はいないって話だった。本だったりお菓子だったり、そういう意味では、生きていく上で必要なんだなと教えてもらったという気がしました。
(盛岡督行 著 『本と店主』より)
No.1223 『インド旅行記 3』
このシリーズの『インド旅行記 2』は南インド編で、だいぶ前に読んでいたのですが、この『インド旅行記 3』は東・西インド編ということで、だいぶ前に求めていたのを今回の旅で持ってきたのです。
私もインドは大好きで、何度か行ってはいるのですが、その印象は人によってだいぶ違うようで、それが楽しみで読んだようなものです。しかも、インドは女性一人旅はとてもリスクがあり、ときどきマスコミなどでも取りあげられますから、それが女優ともなればなおさらです。でも、おそらくはそんなに危険なところには行かないようなので、この本を読めばインドの安全地帯がわかるのではないかとも思いました。
先に東インドに行ったようで、デリーからコルカタに飛行機で行き、そこからさらにパトナまで飛んだようです。そして、そこから車でシッキム州まで行きました。私はブータンに行くときにダージリンまで行きましたが、そこから先はまだ行ったことがなく、カンチェンジュンガの雄姿に感動しているところが出てくるので、一度は行ってみたいと思いました。聞くところによると、そこはシャクナゲもたくさん自生しているそうで、種類も多いそうです。
そういえば、ガイドのペンゾくんは、山について「そうだね、エヴェレストの登攀を目指すこともある意味では素晴らしいけれど、高低にかかわらず、山は人が困難に直面したときに、限られた状況でどうやって対処するかを教えてくれる場所なんだ。そういう意味では、頂上だけが目的とは言い難い。全ての瞬間を味わうことのほうが大事だよ」と話したことに、さすが山の民だと思いました。
そして、前回読んだ『無人島に生きる十六人』のなかの船乗りと同じで、海も山も、人がいろいろとたいへんな局面に遭遇したときに、どうすればよいかを教えてくれるというのが同じではないかと思いました。
下に抜き書きしたのは、そのシッキムで訪ねたゴンパなどに多く立てられているダルチョについての話しで、ここでは五色の旗としています。その五色の意味についてですが、日本では東西南北中央などにあてますが、いろいろな考え方があると思いました。
そういえば、ブータンに行ったときに、お寺の屋根にもマニ車があり、風が回しながらお経を読んでいるということでした。それを聞いて、風や水やすべてのものがお経を読み、護っていてくれるというのはとてものどかでいいと感じたことを思い出しました。
そういえば、この本では、東インドをまわり、1週間ほど日本に帰国して、またすぐ今度は西インドに行ったと書いてありました。
そこでも、いろいろな宗教と出会い、インドではヒンドゥー教もイスラム教も、キリスト教、ジャイナ教、仏教、ゾロアスター教などいろいろな宗教が上手に共存していると語っています。たしかに、インドは宗教のごった煮のような感じが私もしましたが、インド人の価値観にはこれが絶対だなどというようなことはなさそうです。
よく、インドはすごく好きになる人と絶対に行きたくないほど嫌いになる人がいるといいますが、著者は好きでも嫌いでもないといいます。
でも、私はあのインド人のいいかげんさがとてもラフな感じがしていいと思っています。
(2016.3.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
インド旅行記 3(幻冬舎文庫) | 中谷美紀 | 幻冬舎 | 2006年12月10日 | 9784344408777 |
☆ Extract passages ☆
参道には五色の旗がたなびいており、それぞれ青が空を、自が雲と水を、赤が火を、緑が植物を、黄色が大地を表しているらしく、風の吹く場所に連なるこれらの旗が揺れるたびに、祈りが天へ届くと信じられている。
(中谷美紀 著 『インド旅行記 3』より)
No.1222 『無人島に生きる十六人』
この本は、明治31年に実際にあったことを、昭和16年10月から少年クラブに13ヶ月にわたって連載されたものが文庫化されたものです。
しかも、不思議なことに、この体験をされた中川倉吉さんが東京商船学校時代の教え子である著者の須川邦彦さんが直接話しを伺ったことをまとめたもので、著者も1949年(昭和24)に亡くなっています。
それを、今、旅の空で読んでいるのですから不思議なものです。
この実話は、明治31年12月28日に出帆して、翌1月17日に船が難破してしまい、そのまま流されるようにして2月22日にホノルル沖についたそうです。そこで船の修理や荷物の積み込みなどして、4月4日に再出帆しました。それから順調に航行して4月20日の夜半にパール・エンド・ハーミーズの暗礁の一つに打ち上げられてしまいました。
やはり、昔に書かれた本なので、表現や言い回しが今とは違いますが、実話なので臨場感があり、さすが明治時代の船乗りだと感じさせるところがいくつもありました。しかも、無人島に着いてからの創意工夫はすごいと思いながら、もし、今の時代の人たちならできないのではないかと思いました。
そして、明治32年12月23日、駿河湾の女良港に帰ってきました。途中で日本の的矢丸に救助され、そのまま遠洋漁業調査を3ヶ月以上続行しながらとはいえ、約1年間の長旅が終わったのです。
やはり、一番感動的だったのは、島から去ることができるようになった日の最後の船長の言葉です。それは「私たちはこの島で、はじめて、しんけんに、じぶんでじぶんをきたえることができた。そして心をみがき、その心の力が、どんなに強いものであるかを、はっきり知ることができた。十六人が、ほんとうに一つになった心の強さのまえには、不安もしんぱいもなかった。たべるものも、飲むものも、自然がわけてくれた。アザラシも、鳥も、雲も、星も、友だちとなって、やさしくなぐさめてくれた。これも、みんなの心がけがりっぱで、勇ましく、そしてやさしかったからだ。私は心から諸君に感謝する。ありがとう。」と言ったのです。
このような船長だからこそ、16人が1つになって無人島でも生きることが出来たのではないかと思います。また、この本を読むと、16人がそれぞれに個性があり、その持ち前の能力を遺憾なく発揮したからこそ、いろいろな創意工夫も生まれたようです。
やはり、一番すごいことは、16人が1人も欠けずに帰国できたことで、しかも救助してくれた的矢丸の長谷川船長が中川船長の友人であったということも奇跡に近いものがあります。
でも、考えてみれば、それら一つ一つはすべて奇跡であって、だからこそ16人全員が助かったのかもしれません。そして、その無人島暮らしのなかで勉強をしたことで、手紙も書けなかった漁夫や水夫が両親や兄弟にりっぱな手紙を書けたり、また4人の青年が翌年の1月に逓信省の船舶職員試験に合格して運転士免許を取ったりと、その無人島暮らしの成果があったということも素晴らしいことです。ただ暮らすということではなく、ある目的を持って暮らすということの大切さを強く感じました。
旅先ということもあり、もし、ここで生きるしかない状況になったら、自分ならどうするかと考えてしまいました。とはいえ、今の時代はお金さえ出せば生活するための物はほとんどが手に入ります。おそらく、ここ台湾でもそうだと思います。ということは、先ず仕事を探して、生きていくしかないでしょう。やはり、無人島で生きるとは根本的に違います。それでも、旅先の寂しさはあるでしょう。
下に抜き書きしたのは、無人島に流れ着いて、これからどうするかという話しを中川船長と運転士、漁業長、水夫長の4人でみんなが寝静まった後に話し合いをしたときの中川船長の話です。さすが、船長は肝が据わっているというか、海を知り尽くしているかのような発言です。
これはどんな危機的状況に陥ったとしても、大切な心構えのような気がします。
(2016.3.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
無人島に生きる十六人(新潮文庫) | 須川邦彦 | 新潮社 | 2003年7月1日 | 9784101103211 |
☆ Extract passages ☆
「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んで行ったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規律のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私は、青年たちを、しつかりとみちびいていきたいと思う。……」
(須川邦彦 著 『無人島に生きる十六人』より)
No.1221 『ぐるぐる七福神』
表紙のちょっとユーモラスなイラストに惹かれ、今回の旅に持ってきました。移動中は、あまり難しいのより、手軽に読めるほうが電車や飛行機の座席に座っている苦痛から解放されます。
だから、ちょっとお手軽で軽い文庫本が旅には最適です。
この本は、あまり趣味のない32歳の船山のぞみという名前の女の人は、祖母の家を片付けているときに七福神のご朱印を発見し、祖母の病気が治るといいなという程度の軽い気持ちから谷中七福神を巡るところから始まります。
そして、武蔵野七福神や日本橋七福神、港下副腎、亀戸七福神、浅草名所七福神などを週末を利用して次々と巡っていきます。
番外編として、昔の恋人である黒田大地がインドで行方不明になったことから、そのインドの七福神つながりの話しなどもありました。ただ、インドといっても、ニューデリーとコルカタ、そしてバラナシしか出てこないのですが、書き残した日記にはそれしか出てこないのですから、話しの展開はありません。
まさに七福神を題材にした縁起物の小説で、裏表紙には、「読むだけでご利益のある縁起物小説」と銘打ってありました。まさに、「エッ?」という感じですが、まさかこのようなキャッチフレーズを鵜呑みにする人はいないと思います。
これは後からわかったことですが、七福神の色紙はもともとは祖父のものだったようで、たった1ヶ所、寿老人のところだけ朱印がないのでもらうために始めたことがいくつかの七福神霊場をお詣りすることになってしまったのです。
そして、とうとう、最後に朱印をいただけるところで、急にそのままの空白にしておこうということになり、そこで終わっています。その展開がとても印象的でした。その理由付けの一つに、「西遊記で、三蔵法師の一行が最後にもらうお経は、確かに真っ白なのだが、その続きがある。孫悟空は、お経が真っ白だったと如来にクレームをつけて、それを突き返すのだ。すると如来は、「字のないお経からわかることもあるんだよ」と言いつつも、そんなに言うなら有字のお経をあげよう、とそれをくれる。ところが激しい風雨が一行を襲い、有字のお経も濡れてしまう。岩の上に置いてそれを乾かすが、一字が岩に張り付いてお経から取れてしまうのだ。けれど悟空は「天地も完壁ではない。不完全であることは必然なのだ」と悟り、三蔵もそれをありがたく受け取る……。」という話しです。
たしかに、色即是空、空即是色であるから、書いてある文字ですら永遠ではないわけです。そして、真っ白だからこそ、そこに空想が広がるということもあります。
だから、主人公ののぞみは、「色紙の余白が、おじいちゃんにとって「希望」であったように、何も書いていないということは、あらゆる可能性をそこに見られるということだ」と言い、まだまだ七福神巡りが続いていくような予感を感じさせて、終わっています。
下に抜き書きしたのは、その七福神参りをしているときに感じたことです。これも余白の可能性かな、と思いました。
(2016.3.24)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ぐるぐる七福神(幻冬舎文庫) | 中島たい子 | 幻冬舎 | 2014年2月10日 | 9784344421554 |
☆ Extract passages ☆
お参りという行為は、不思議なものだ。もちろん何かを願うわけだけれど、目をつぶってる数秒の間、自分が背負ってるものを、神様に一時お預けして、また目を開けて、それを背負いなおすだけのことなのかもしれない。でもそれは少し軽くなっていたり、背負う力が新たに出てくる。
(中島たい子 著 『ぐるぐる七福神』より)
No.1220 『裏が、幸せ。』
3月22日、今日からちょっと旅立つので、こういう前後には、なぜか旅と関わりのある本を読みたくなってきます。そこで、選んだのがこの本です。
つまり、良い悪いは別にして、地域的に裏日本と言われてきたところの紀行文みたいなものです。山形もひとくくりでそのように扱われていますが、それでも「共働き率」や「三世代世帯人数」が2010年の国勢調査で日本一なんだそうです。三世代同居だからこそ共働きができるのかもしれませんが、昔は当たり前だったのが珍しい部類に扱われているのもおかしなものです。
それと、米沢駅という名前だけは「鉄道1」のところに出ていました。
私が北陸に行った最初は、福井県と石川県でした。まだ学生のころで、たまたま時間があり、友だちの親戚が福井にあり、そこに泊めてくれるということだけで行ったのです。しかも、そこの親戚の方は新聞社に勤めていて、車まで貸してくれたので、あっちこっちへ行きました。
今でも覚えているのは、泊まった家に仏間があり、とんでもなく立派な仏壇があったことです。これだけはとても印象に残りました。それ以外は東尋坊や永平寺、兼六園に行ったことぐらいです。この本を読んで、おなじような仏壇の話しが出ていたので、なるほどと思いました。
そして、北陸ならではの信仰の強さと妙好人という言葉を知りました。この妙好人というのは浄土真宗でいうそうですが、「妙好人とは、学問的に仏教を追求するわけでなく、在家で日常生活を送る中で、信仰を深めた人達です。……妙好人というのは、日常とともに仏教がある地だからこその、存在なのでしょう。」と書いていました。
このような紀行文は、気楽に読めるところがいいのですが、下に抜き書きしたような、「原発」――水上勉が憂いた「過剰文明」のところに書かれていた文章を読むと、やはり切なくなります。
おそらく、原発を持つ地方時自体のどこでも、福島原発事故以来、そのジレンマに悩んでいるのではないかと思います。これには、表も裏も関係ありません。
しかも、著者もいうように、大飯原発の「エル・パーク・おおい おおいり館」に行った時にコンパニオンのお姉さんと「ウォーターボーイくん」というゆるキャラが原子力発電の仕組みをいろいろと解説してくれても、と言うより、「明るく説明すればするほどに、原子力の不気味さがこちらにのしかかるような気がしたもの」といいます。
本当に「裏が、幸せ。」と感じられるには、このような施設はいらないのではないかと思いました。
前々回まで、お釈迦さまに関する本を読んでいましたが、お釈迦さまの教えは、すべてのものは諸行無常、つまりすべての形成されたものは変化して「うつろうもの」であり、決して恒常不変なものではないということです。つまり、いくら科学の粋を集めてつくられた原子力発電所といえども、必ず壊れるということです。ということは、必ずこの大地が放射能で汚染されるということになります。
だとしたら、たとえ、表からいくら取り残されたとしても、そんな不気味なものはいらないでしょう。
(2016.3.22)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
裏が、幸せ。 | 酒井順子 | 小学館 | 2015年3月2日 | 9784093884105 |
☆ Extract passages ☆
日陰でそっと咲く「陰花」が好きだと、かつて水上は書いていました。日を当てれば喜ぶ花ばかりではない。煌々と電気で照らせば人が幸せになるわけではない。文明を発展させ続けるよりも、心の豊かさの「一滴」を大切にするべき時代が来ているのではないか。
……そんなことを訴え続けた水上は、今もどこかから原発のことに思いを寄せつつ、
「裏のままでもいいのだよ」
と、言っている気がしてなりません。
(酒井順子 著 『裏が、幸せ。』より)
No.1219 『季節のなかの神々 歳時民俗考』
ブッダ続きだったので、次は日本の民俗についての本を選びました。とはいえ、この本の「はじめに」のところで、「P16」と書いてあるように、その主たるものはあくまでも神々のことで、そこには当然のことながら仏教や道教などのことも入ることから、ブッタやほとけとつながっています。
たとえば、おもしろい習俗だと思ったのが、下北半島の「東通村のある寺院「テラコ」と呼ばれているで面白い習俗にめぐりあったことがある。この寺院では木彫りの誕生仏と思われる小さな仏像が大切に祀られているのだが、どういうわけか、横たえられている。テラコを守る老媼に理由を尋ねると、この仏さまは二月の涅槃会になるとお眠りになるといって横にされ、四月八日、すなわち誕生になると立てられるのだそうである。つまり、このテラコでは小さな仏像を操作することで釈迦の入滅と誕生とを意識しているのであった」と書いてあり、素直になるほどと思いました。
おそらく、冬の厳しい下北半島だからこその優しいお釈迦さまに対する配慮なのかもしれません。ほんとうは、自分たちだって、もしかすると冬眠したいと思っていたのかもしれないと考えたら、やはり納得せざるを得ませんでした。
また、この辺では、十五夜を「芋名月」といい、十三夜を「豆名月」といって、お月さまにお供えをします。これは、順調に農作物がとれた感謝の意味かと単純に思っていたのですが、「楽しいのは、この月見の供物はいったん供えられたあと、子どもたちが自由に取って食べてよいとされていたことである。子ども時代の心おどる記憶として十五夜を思い出す人は少なくないだろう。古くは子ども、大人を問わず、畑の作物や果実をこの晩ばかりは自由にとってもよい、とされていた地域が多く、十五夜や十三夜は何らかの祝祭の感覚が伴っていたことを推測させる。澄んだ空気の中に浮かぶ月の美しさもさることながら、地上の作物の稔りを祝う感覚がそこにはある。」のではないかといいます。
やはり、ここにも月を観賞するだけでなく、地区民みんなで収穫を感謝するという深い意味があったようです。あるいは、多くの人たちでその収穫物を分かち合おうという相互扶助なども感じられます。そう思えば、いろいろな優しさが混じり合ってみんなで暮らしていくという素朴ないたわり合いもあると思います。
そこまで民俗から感じられるとすれば、民俗学もおもしろそうだと思いました。
下に抜き書きしたのは、「福の神の歴史」という項で取りあげていたことですが、昔は商売のためにやむをえずついた嘘にも心を痛め、それを祓うという意味の行事があったそうです。
もちろん日にちが一定している訳ではないのですが、さまざまな祈りや願いが福の神にも託されてきたようです。
(2016.3.19)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
季節のなかの神々 歳時民俗考 | 小池淳一 | 春秋社 | 2015年10月20日 | 9784393292044 |
☆ Extract passages ☆
一年の間についた嘘を祓うという誓文払いの行事は商人の祭りであり、世渡りのためにやむを得ずつく嘘を浄化する意図があった。それが関西で旧十月二十日前後に行われるのは、恵比寿講の影響であろうと坪井洋文は推測している(「嘘のフォクロア」『民俗再考』)。農村においては十二月八日が嘘を祓う日であって、特に中部地方ではムヒツ(無実)講と呼ばれ、ムジツ汁を作る習慣などがあった。嘘を祓うことで心身を浄化し、新たな年を迎える支度をしたのであろう。
(小池淳一 著 『季節のなかの神々 歳時民俗考』より)
No.1218 『ブッダから、ほとけへ』
『ブッダとは誰か』を読み、ほぼ同じ時期に出版されたこの本を読んでみることにしました。副題は「原点から読み説く日本の仏教思想」で、流れ的には同じようなものではないかと思いました。
ところが、先日読んだのは、インドのお釈迦さまに直接スポットを当てたようなものでしたが、この本は、まさにブッダの説く教えが日本でどのように展開していったかという話でした。それでも、「ブッダから」ではブッダそのものに焦点を当て、「ほとけへ」ではそれらを日本ではどのようにとらえられていったかということが主題でした。
でも、これら2冊を続けて読むことによって、今までぼんやりとしていたところが、少し光が当たったように感じました。
その一つはお釈迦さまについてのイメージの変化です。お釈迦さま自身は、自分に構わず修行に専念しなさいと最後に話したそうです。そこには私と同じように涅槃にいたる修行をする僧侶の姿しかありません。
ところが、お釈迦さまに対する憧憬や尊敬の念が比丘の姿の像がつくられるようになり、さらにさまざまな荘厳された姿やありえないような仏像までつくられるようになってきたのです。そのことを著者は、「インドにおいてブッダは当初、人間の姿の像に作られることはなかったのですが、初期大乗仏教の時代になつて比丘の姿の像が作られました。その後、宝冠を被りきらびやかな衣をまとった仏像が作られるようになったのです。さらに密教の時代となると、妃を抱き、血に充たされた頭蓋骨杯をもった如来や動物の顔をした如来も登場しました。ようするにインドにおいて、ブッダは当初、人間の姿に表現されなかったのですが、時代が進むにつれて通常の人間の姿を超えた姿の「ほとけ」として表現されるようになったのです。」と書いています。
そして、それこそが、題名の『ブッダから、ほとけへ』の変化になっていったように思います。
この本の最後に「仏教はブッダが悟られ涅槃に入られたという事実を見据えてきました。阿弥陀や大日といった如来たちはブッダがその生涯において示した教えや行為を如来として表現したものであるといえましょう。ブッダからほとけへと展開された仏教の歴史は、仏教がその「生涯」をかけて見せている救済論的な歩みであると私は考えます。ことに日本仏教にはそのような歩みの歴史があります。世界の聖化を軸としたこの歩みの成果を、世界宗教としての世界の仏教に対して、そして世界に対して訴えていきたいと思います。」という言葉で締めくくっています。
たしかに、世界のどのような宗教も、欲望やいろいろな行為を抑制するような考えをしてます。しかし、仏教ほど、それらを煩悩や業という言葉で滅しようとしてきた宗教はないと思います。ということは、この飽くなき利潤の追求や欲望の充足で疲弊するこの世界を救えるのは、おそらく、仏教の考え方ではないかと思います。ある人は、仏教は宗教ではなく、哲学だと言い切りました。私もそのような面はあると思っています。だから、どの国の人にも、どのような宗教をもつ方にも、受け容れてもらえる素地はあると思います。
下に抜き書きしたのは、『般若心経』について書いている部分です。これを読むと、たしかにそのような意味になると思いました。ぜひ、興味があれば、読んで見てください。
(2016.3.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ブッダから、ほとけへ | 立川武蔵 | 岩波書店 | 2013年1月24日 | 9784000246804 |
☆ Extract passages ☆
『心経』はありとあらゆるものが空だ、存在しないのだといい続けるのですが、否定辞の用いられていない箇所が『心経』にただ一ケ所あります。それは「般若波羅蜜多に依る」という箇所です。世界の構成要素のいずれも空であり、苦しみも涅槃もなく、それに至る道もないと述べてきた『心経』の論法に従うならば当然般若波羅蜜多も存在しないと述べられたはずです。
しかし、『心経』はそのようには述べていません。この経典は般若波羅蜜多を否定しません。そして、この方法こそが三世の諸仏の悟った道であるともいい切っています。観自在菩薩は仏弟子シャーリプトラに対する説法を「ギャーテー ギャーテー ハラギャーテー ハラソーギャーテー ボージ ソワカ(サンスクリットでは、ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)」という真言で締めくくります。この真言の意味は「行きたるものよ、行きたるものよ、彼岸に行きたるものよ、彼岸に行きついたものよ、悟りよ、スヴァーハー」ということです。
(立川武蔵 著 『ブッダから、ほとけへ』より)
No.1217 『ブッダとは誰か』
稚拙な絵の表紙が目を引いたのですが、読み終わってから、最後に「あとがき」を読んだら、著者の息子さんが幼少のころにメモ用紙に走り書きしたブッダの絵だそうです。それで納得したのですが、どこの親も似たようなものかもしれません。
ところで、最初に掲げられている「釈迦牟尼の足跡地図」を見て、私もそのほとんど歩いていることを思い出し、とても懐かしくなりました。何度もインドには行っているのですが、お釈迦さまの足跡を歩きたいと思って行ったのはたった一度で、それ以外はネパールやブータンの植物調査の後に一人で寄り道した程度です。それでも、何度か行っている間に、ほとんどをまわることができ、懐かしく思い出したのです。
それこそ、昔は天竺といい、ただあこがれこそはしても、実際に行ける人はほとんどなかったのでしょうが、今は有り難いことです。行こうと思えば、その日に着いてしまうぐらい、近いところになってしまいました。それが良いか悪いかは別にして、この本を読みながら、そのときどきの風景を思い出しました。
この本の題名である『ブッダとは誰か』という問いに、最後の第12章「涅槃後のブッダ」で答えています。それは、『「ブツダとは誰か」と問われれば、釈迦牟尼の涅槃の後に描かれた生前の面影こそが、その原点といえるでしょう。史的人物である釈迦牟尼の涅槃こそが、救済者としてのブツダを誕生させたのです。』といいます。
まあ、当たり前のような答えですが、私はブッダは覚者になろうとするみんなの心にある、と答えてみたいと思っています。
仏教が他の宗教と一番違うところは、そこの部分で、自らの意思でブッダになれるということだからです。ただ、もちろん、そう簡単になれるものではないし、おそらくなれないと思います。でも、かすかだとしても、そこに少しの可能性があるということが大事なことです。
この本の中で、一番のクライマックスは第11章の「完全なる涅槃」です。そこには悟りを得てからの45年にもおよぶ伝道の旅路の最後が描かれています。ここに、人間としてのお釈迦さまが描かれています。覚りきった円満なお姿ではなく、老衰と病気で自らの身体を引きずるようにして歩く姿です。それでも、「阿難よ、ヴェーサリーは麗(うるわ)しい。ウデーナ霊廟は麗しい。ゴータマカ霊廟は麗しい。サッタンバカ霊廟は麗しい。パフプツタ霊廟は麗しい。サーランダダ霊廟は麗しい。チャーパーラ霊廟は麗しい。(パーリ長部 大般涅槃経 3・2)」といいます。
私もこのヴェーサーリーの夜明けの風景を見たことがありますが、本当にきれいでした。何もかもが薄い紫色のベールをかぶせたようなこのよとも思えない風景がそこにはありました。もちろん、写真も撮りましたが、そのときの感覚までは、なかなか写し取ることはできませんでした。
下に抜き書きしたのは、お釈迦さまとブッダとの関係です。ここにこそ、仏教が他の宗教との違いやその包容力をうかがい知ることができるように思いました。日本の仏教は、どちらかというと宗祖に焦点を当てて話されることが多いようですが、その一番最初のお釈迦さまにも、ぜひ関心を持っていただきたいと思います。
(2016.3.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ブッダとは誰か | 吹田隆道 | 春秋社 | 2013年2月15日 | 9784393135686 |
☆ Extract passages ☆
釈迦牟尼は「覚り」を自身の経験に固定化せず、「対機説法」というそれぞれに応じた「教え」で、人々をその先にある「ダルマ」の理解へと導こうとしました。それは誰も登頂したことのない山の頂に到達した者が、頂上から山全体を見渡し、それぞれの人にふさわしいルートを教えてくれたようなものです。したがって「教え」は、あくまでも頂上にあたる「覚り」への道筋を示したものであり、「覚り」そのものを教えたものではありません。まさに「仏道」といわれる所以です。
その仏道を歩んで頂上に到達すれば、釈迦牟尼と同じ「ブツダ」(覚った人)となることができます。したがって仏教というのは"ブツダになるための教え"と理解してもよいと思います。仏教は目標をあえて釈迦牟尼という人物に特定せずに、彼を通して見ることのできる理想の姿、"ブツダ″としました。すでに述べたように「ブツダ」という語は特定の人物を指しません。どのルートからでも頂上にたどり着けば、覚りを得られるのですから、私たち誰もがブツダになれる可能性を含んでいます。
(吹田隆道 著 『ブッダとは誰か』より)
No.1216 『良寛 行に行き行に死す』
『あざむかれる知性』を読んで立松和平を思い出したわけではなく、純粋に良寛つながりの本を読みたかっただけです。
というのも、先月の17日に国立新美術館で「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」を観て、広島大学で講演を頼まれたときに、その帰りに良寛さんが雲水修行をした玉島の円通寺にまわり、そのついでに倉敷の大原美術館に寄り、観たときのことを思いだしたのかもしれません。でも、やはり彼の盗作問題を思い出してしまいました。
一つは連合赤軍を題材にした『光の雨』で、元連合赤軍メンバーの坂口弘が獄中で書いた『あさま山荘1972』と酷似していることから問題になり、彼はそれを「盗作」を認めたことがありました。
もう一つは、福田和美さんから「日光鱒釣紳士物語」からの引用があると抗議された『二荒』の問題で、そのまま絶版となったこともありました。
それでも、その後も書き続け、この『良寛 行に行き行に死す』の中の第2部のなかの「蛙声、絶えざるを聴く」が絶筆となりました。そのときの原稿が、この本の最後に掲載されていました。この立松和平が亡くなったという報道に、ほんとうにびっくりしました。よもや、なんとなく健康そのものと思っていたのに、63歳で多臓器不全で亡くなるとは想像すらできなかったからです。
さて、この作品の第2部の「蛙声、絶えざるを聴く」は『大法輪』という仏教系の月刊誌に連載されていたものです。それが絶筆となったわけです。
この第2部の「良寛という生き方」というのは何かといいますと、おそらく「着るものや食べるものについて、あれこれ思い煩ってはいけない。もし食べるものがなくなったら、その時は托鉢により食を得ればよいのだという。水のように流れてよる辺のないものを僧という。たとえ墨染めの衣と托鉢の鉢しか持っていなくても、檀那や親族にすがって生きているなら、それは自分も他人も束縛することで、全体として不浄食ということになる。この道元の思想を身と心とで実現しようとしたのが、良寛なのである。良寛という生き方とは、道元思想の実現に他ならない。」と書いています。そして、辞世の句は「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」ですが、これも道元禅師の和歌「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」からきているのは明白です。
やはり、道元禅師とともに生きた生涯であったといっても大きく違わないのではないかと思います。
そういえば、良寛さんの漢詩の一節に、「草木を以て隣と為す」というのがありますが、新潟の五合庵に行った時に、なぜかこの一節を思い出しました。
それにしても、良寛さんはとても子どもたちに慕われていました。おそらく、托鉢をしながら、いつも子どもたちと遊んでいたような印象がありますが、玉島の円通寺では22歳から34歳までとても厳しい修行をされたそうで、自らの漢詩のなかでも、「更に一人も知らず」と詠んでいますから、友とも交じらず一途に修行をした様子がうかがうことができます。
そして、玉島から越後に戻り、郷本の空庵に落ち着いたときにも、製塩の仕事に従事していたそうです。
だから最初から子どもたちと遊んでいたわけではなく、人のやることはすべて修行の一端だと考えて、それを実践していたのです。この考え方も、おそらくは道元禅師の生き方と同じようなものだったのではないかと思います。
そして、この本の最後に続くのですが、いわゆる絶筆の部分が「道元はいつしかさとっていたのである。良寛もいつの間にかさとっていた。「蛙声」は良寛のさとりの契機について語っているのだと、私には思える。」で終わっています。
道元禅師は、大悟徹底について書いているから、さつったという自覚があったと思われるが、良寛は何も書き記していないから、この「蛙声」がさとりの契機だったと必ずしも言えるかどうかと思います。でも、この言葉が著者、立松和平の最後の言葉だと思うと、なぜかそうかもしれないと思う心もどこかに潜んでいるようです。
そして、おそらく、もう少し、ここに書き加えたいこともあったのではないかと勝手に思っています。
下に抜き書きしたのは、良寛さんが玉島の円通寺住職の大忍国仙和上から印可の偈、つまりお寺の住持になる資格を認める証明書のようなものです。さすが本師は、すでに良寛の大愚を観ていたと思わせるような偈です。
(2016.3.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
良寛 行に行き行に死す | 立松和平 | 春秋社 | 2010年6月20日 | 9784480068620 |
☆ Extract passages ☆
良寛庵主に附(ふ)す
良(まこと)はまた愚の如く道うたた寛(ひろ)し
騰騰(とうとう)として運に任(まか)す 誰(たれ)か看(み)るを得ん
為に附す山形欄藤(さんぎょうらんこう)の杖
到る処壁間(へきかん)にして午睡の閑(かん)
寛政二庚戌冬 水月老衲仙大忍
(立松和平 著 『良寛 行に行き行に死す』より)
No.1215 『あざむかれる知性』
副題は「本や論文はどこまで正しいか」ですが、たしかに、最近はSTAP細胞の問題だけでなく、さまざまなダイエット理論や健康理論まで、これって本当なのだろうかと疑ってしまいそうなものがたくさんあります。そして、それが本や論文として出れば、なんとなく科学的な味わいがあります。というより、科学という言葉でいかにも正しいですよ、というイメージがあります。
では、そもそも科学という定義は、この本によると、「科学はサイエンスという言葉の訳語である。英語のサイエンス(science)は、「知識」、「学問」、「科学」という意味である。サイエンスの語源は、ラテン語のスキュンティア(scientia 知識)で、その起源はギリシャ語のスキツァイン(skhizein 分割する)である。つまり、サイエンス(知識)は、分割という認識能力から生まれる。現象を分割すると数えられる。そこで、数量化が可能となる。そして、その数値は他人に正確に伝達できる。言い換えると、サイエンスには、数量化と知識の共有という意味が含まれている。つまり、サイエンス、特に実証科学の特徴は、検証可能性と言える。検証された知識がサイエンスである。」と、詳しく書かれています。
そうだとすれば、検証可能であると思いますが、では、それを誰がどのように検証するのかというと、そこにも多くの疑問が出てきます。
そのようなことを考えていたときに、この本と出会いました。まさにタイムリーです。
でも、すべてが数量化できるのかというとそれにも多くの問題があり、「幸福」というような心の領域はなかなか数量化できません。また、たとえ、数量化したとしても、そこには多くの確証バイアスやその他の認知のゆがみなどがあります。
それを下に抜き書きしたのですが、やはり、ある種の先入観のようなものがどうしてもあります。むしろ、ないようにするのが科学的手法でしょうが、やはり限界はあります。むしろ、その限界を知ることのほうが大切かもしれません。
また、今まで長い間正しいと思われてきたことが、ある日、新たな研究が発表されて正しくないといわれることだったあります。考えてみれば、科学というのは、その繰り返しのような気がします。
でも、なかには、今年2月11日にアメリカの研究チームが発表されたことですが、アインシュタインが100年前に一般相対性理論で存在を予言した「重力波」が初めて検出されたそうです。この重力波というのは、物体が運動したときに時空にゆがみを作り、さざ波のように光速で宇宙空間を伝わる現象を指すのだそうですが、今まで誰も見たこともないものが、100年後にたしかに存在すると確認できるのですから、やはり科学というのは、すごいものです。
だから、すべてが科学的かというとそうではなく、なかには科学的でないものもあるということです。
その部分だけを拾って、問題視するのも、ちょっと如何なものかと思います。
すべて、人間のすることですから、間違いもあるというのが最善のものの見方のように思いました。
下に抜き書きしたのを、よく読んでいただければ、理解できるのではないかと思います。
(2016.3.9)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
あざむかれる知性(ちくま新書) | 村上宣寛 | 筑摩書房 | 2015年12月10日 | 9784480068620 |
☆ Extract passages ☆
人は自分が考えている内容に一致する事柄を選択的に採用したり、探そうとするし、一致しない事柄を無視したり、価値を低く見積もる傾向がある。こういう認知の歪みを説明する言葉が確証バイアスである。確証バイアス以外にも類似の用語は多く、ステレオタイプ、バーナム効果、ハロー効果、出版バイアスなどがある。
例えば、血液型がA型だと真面目であると信じている人は、真面目なA型の人を見つけると、自分の信念は正しいと確信する。もし、B型の人が真面目であっても、その場合は例外として無視する。それで先入観の強い人は、自分の信念に矛盾する出来事に出会っても、揺らぐことはない。実際は、自分が真面目だと思っている人は、5〜6割に上り、血液型には関係がない。
(村上宣寛 著 『あざむかれる知性』より)
No.1214 『ヤオイズム』
『ヤオイズム』って何だろう、と思いました。副題は「頑張らないで生き延びる」で、「はじめに」のところで、恐怖の中で自分を見失わず、どんな状況でも生き延びるための本です、と書いています。
つまりは、これからの時代、自然災害を含め何が起きるかわからないときに、それでもいかにすれば生きられるかということです。それを自分の体験から書いていています。
読むと、ちょっと理解できないこともありますが、なるほどと思うところもあり、ついつい引き込まれてしまいます。たとえば、恐れについても、「一つは危機を知らせる恐れ。これは肉体が故障したときなどに生じる痛みのような、一種の危険信号としての役割を持つものだ。もう一つは、思考が作り出す恐れである。……後者の考えが作り出す恐れは、「不安」と表現してもいいし、「心配」といってもいい。人間が抱く悩みのほとんどがこうした恐れや不安、心配なのだ。もちろん、思考がないところではこれらは存在しない。これは事実だ。」とあり、むやみに恐れることはないと思いました。
また、意思と執着しないという、いわば正反対のようなことでも、矛盾しないという説明で、野球のスイングの例を出しています。つまり、野球のスイングでは、力を抜かなければ打てないが、力がなければ鋭いスイングもできない、つまりはその両方のバランスが大切だといいます。それが著者のいう「自然流」だそうです。つまりは、流れに身を任せるということで、なぜか結局は思い通りの人生を生きることができるといいます。
たしかに、著者はこのようにして、現在があるわけで、いくら将来のことを考えたとしても、むしろその考えに縛られてしまい、自由に動けなくなるといいます。
だから、今、この一瞬を生きることが大切だというわけです。この今は、1秒後でも、あっという間に「今」になってしまいます。つまりは、今こそがすべてということです。
下に抜き書きしたのは、この流れに身を任せるということについての話しです。
まさに、「頑張らないで生き延び」ということにつながっているような気がします。
(2016.3.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
ヤオイズム | 矢追純一 | 三五館 | 2016年1月4日 | 9784883206568 |
☆ Extract passages ☆
私がハッキリと決めないほうがいいと言うのは、明日がどうなるか、だれにもわからないからだ。この世のだれでも「自分がいつ、どこで死ぬか」は知らない。
その意味では、自分で未来を決めることなどできない。それどころか、未来をハッキリと決めてしまうと、逆にそれに縛られて自由に動けなくなってしまう。もっと大きな幸運がやって来ても、つかみ損ねてしまうこともあるだろう。つまり、流れに身を任せて自然流にとはいかなくなってしまうのだ。
私がお勧めするコツは、「形」ではなく「状態」をめざすこと。状態をゴールにするなら、あなたが抵抗しないかぎり、そのゴールに自然に引き寄せられていくだろう。
(矢追純一 著 『ヤオイズム』より)
No.1213 『雨ふる本屋』
孫が小学校から本を借りてきたというので、ちらっと見たら、その絵が何ても奇妙なものでした。それで、ちょっと見せてもらうと、本は『雨ふる本屋』で、絵には雨漏りしている本屋と、カタツムリなどが描かれています。
もともと、本は湿気を嫌うはずなのに、よりによって雨漏りとかカタツムリとかスイレンなどを描いているのだろう、と思いました。
それで、孫にちょっとだけ借りて読むことにしました。ほんとうに久しぶりの絵本で、なんかワクワクしました。
その描かれたカタツムリは、雨宿りで立ち寄った図書館から、秘密の通路を通って「雨ふる本屋」に行くときの道案内をしてくれたのです。もちろん、ここに行きたくて行ったのではなく、いわば迷い込んだようです。絵本の中に描かれた絵も、とても意味ありげでした。
そして、実際にページを繰りながら読んでみると、この絵本の対象年齢はいくつかなと考えてしまいました。つまり、ちょっと難しいのです。
その「雨ふる本屋」は、つねに雨音が聞こえてきて、しかも部屋の中なのに雨が降っています。そこの主人のフルホンさんは、昔は〈読みあさりブンブン〉があふれかえっていたのに、今では少ししかいなくなったと憤慨しています。この〈読みあさりブンブン〉というのは、ぞくに言う「本の虫」だそうで、あらゆる本好きと同じく、その虫たちも、物語や文字を栄養として生きているといいます。つまり、その数が減ったというのは、本もつまらなくなったし、だから読む人たちも減ってきたというわけです。
フルホンさんは、それをなんとかしたい、そのためにはその原因を探すために「ほっぽり森」に行かなければならないが、そこに行けるのは人間だけだから、ぜひここに迷い込んだルウ子という女の子に行ったほしいと頼みます。
その二回目のほっぽり村で、雨など降らない村なのに、雨が降ったのです。しかも「なみだの雨」です。
そのときの様子を下に抜き書きしました。
久しぶりに絵本を読みましたが、今どきの絵本はなかなか読み説くのは難しいというのが印象に残りました。
貴重な1日も終わり、明日から3月です。子どもたちは、3学期の締めくくりの月で終業式もあります。
子どもたちには、たくさん本を読むクセをつけてもらい、たくさんの〈読みあさりブンブン〉を飛ばしてほしいと思います。
(2016.3.3)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
雨ふる本屋 | 日向理恵子 作、吉田尚令 絵 | 童心社 | 2008年11月20日 | 9784494019427 |
☆ Extract passages ☆
カタツムリが、コウモリガツパの衿もとにはいのぼってきて、触角で、ルウ子の頬をつんつんとつつきました。ルウ子はうなずいて、種を、そっと水に浮かべました。
すると――からまりあった木の根のあいだから、神秘的な手品のように、あのオーロラのスイレンが花開き、浮かびあがってきたのです。やさしいてのひらのように、花は、ルウ子の物語をつつみました。ルウ子はその花をすくいあげ、いつくしむように、顔をよせました。
ほっぼり森では雨など降らないのに、ルウ子の頬を、つぎつぎと、しずくが伝いました。ぼろぼろと、青い物語の種に、降りそそぎます。物語の種が、頬笑むように、澄んだ光をはなちました。
「――さあ、帰ろう」
ホシ丸くんが、そっと、肩にてのひらを置きました。
(日向理恵子 作、吉田尚令 絵 『雨ふる本屋』より)
No.1212 『歳をとるのは面白い』
まさに人生の達人、16人の生き方を綴ったもので、副題は「70代、80代も豊かに生きられる人、つまらなくなる人」で、いかに生涯現役をつらぬくかという秘訣のようなことを書いています。
私自身も、歳をとると面白いという感覚はなく、むしろもっと性格にいうと、歳をとるという実感が若いときにはありませんでした。それが還暦を過ぎ、年金をもらうようになってくると、やはり老いということを考えざるを得なくなります。つまり、歳をとるということが実感として目の前に突きつけられたようなものです。だから、このような題名の本に、興味を示すようになってきたのかもしれません。
もともとこの本に掲載されたものは、月刊誌『PHP』に掲載された記事だそうで、それを再編集し、書籍化したものだそうです。
ここで書いている達人の一言一言は、たしかに納得できるものばかりですが、たとえば、外山滋比古氏の「いやなこと、苦しいことを乗り越えるには忘却が最上の策であると思っている。いやなこと、つらいことは、忘れるに限る。新しいところへ転進すればいい。つまり、忘れるのである。同じところでグジグジしているより、心機一転、別天地に羽ばたく方が爽快である。なにごとも、忘れるが勝である。」というのは、その通りだと思います。
でも、若いときには忘れたくてもなかなか忘れられないことも多く、忘れようとするとかえって忘れられなくもなりました。
ところが、ある程度の歳になると、今度は忘れないようにと思っても、簡単に忘れてしまい、思い出せなくなってしまいます。だから、忘れられるというのも、歳の効用なのかもしれません。
まさしく、歳をとることによって楽しみが増えることもあります。経験が深まりますし、人との付き合いも増えてきます。積み重ねてきたいろいろなものが、相乗効果をもたらすような気がします。いいと思うことだけを考えれば、やはり歳をとることは面白いようです。
もちろん、健康に対する不安や不自由になりつつある体力など、不安材料も増えてきます。でも、それは誰だってあります。極論すれば、若い人にだってあるかもしれません。
そのようなことばかり考えていると、歳をとっても面白がることはできません。いいことだけを考えて、楽しむこと、それが大切だと思つています。
最後に掲載されたコシノジュンコさんの文章は、たしかに最後を飾り、多くの歳をとった方を奮起させるにふさわしいものでした。
これはぜひにと思い、ここに抜き書きさせていただきました。
ぜひ、お読みいただければと思います。
(2016.3.2)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
歳をとるのは面白い | 『PHP』編集部 編 | PHP研究所 | 2016年2月5日 | 9784569828893 |
☆ Extract passages ☆
19歳でファッションデザイナーの登竜門と言われた「装苑賞」を受賞し、20代はじめに日本で最初のブティックを作りました。……無我夢中で過ごした私の20代は、最高に面白くてキラキラ輝いた時代でした。
では、30代、40代と歳を重ねるごとにつまらなくなるかと言えば、それはまったく違います。「昨日の自分」より「今日の自分」のほうが、経験を足した分だけ味わい深くて豊かになる。人生はその積み重ねですから、生きれば生きるほど、智恵も感性も人の輪も広がっていく。だから私は今がいちばん楽しいんです。
(『PHP』編集部 編 『歳をとるのは面白い』より)
No.1211 『「試し書き」から見えた世界』
この本の題名の「試し書き」って何だろうと、すぐには思いつかなかったのですが、ちょっと考えて、筆記具の試し書きだと気づきました。
そういえば、だいぶ前に万年筆を買ったときに、そのペン先の柔らかさとか太さとかを調べるために試し書きをしたことがあります。でも、最近は、ほとんどがナイロン袋に入っていたりするので、あまり試し書きをしなくなりました。それから十数年が経っています。
それで、すぐに「試し書き」のことが思い浮かばなかったようです。
私ももともと文房具が好きですし、今でも一番つかう筆記具は万年筆ですから、これはちょっとおもしろそうと思い、読み始めました。表紙に、試し書きを「世界106カ国、2万枚収集!」と書いてありますが、ほんとうに世界は広く、いろいろな試し書きがあると思いました。
まさに、たかが「試し書き」、されど「試し書き」です。
たとえば、ブータンの試し書きは、「チベット仏教では、このマニ車を、必ず右回り(時計回り)に回します。ボン教でもマニ車を使いますが(ボン教では厳密にはマシモ車という)、こちらは左回りです。そのため、試し書きのグルグル線も、知らず知らず信仰する宗教のマニ車の回し方に一致しているというのが、その知人の説でした。」と書いてあり、そういえば、ブータンに行ったときに、その信仰心の厚さにおどろいたことなどを思い出しました。
また、書道というのは日本だけではなく、エジプトにもあるそうで、「もともとアラビア書道は、イスラム教の聖典であるコーランの書写から始まりました。日本の書道も写経(仏教の経典の書写)で急速に広まったので、そのあたりの事情は似ています。ただし、アラビア書道の筆や紙は、日本とはかなり違います。筆は毛筆ではなく、竹(ときには葦や木など)を削って作ったもので、日本人の感覚でいえば、どちらかというとペンに近い感じがします。先が平たいので、書く方向によって、太くなったり細くなったりします。それがアラビア文字を書くのに最適なのです。」とあり、なるほどと思いました。
下に抜き書きしたのは、この「試し書き」が「無意識のアート」であると考える根拠についてです。
たしかに、いろいろな考え方はあるでしょうが、試し書きも一種のアートではないかと思いました。
(2016.2.29)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
「試し書き」から見えた世界 | 寺井広樹 | ごま書房新社 | 2015年10月4日 | 9784341086251 |
☆ Extract passages ☆
試し書きに善かれる文字は、日本なら「あいうえお」、欧米なら「ABC」、ほかにも地名や人名が多いのですが、ときには言葉にならない魂の叫びがそこに見え隠れしています。
単純な直線や波線、グルグルと描かれたらせん状の線。その筆圧に思いの強さを感じたり、弾み方に楽しい思いを感じたり…。
さりげなくペンの書き心地を確認する試し書きの紙の上にこそ、さまざまな色彩と濃度をもった人間模様が浮かび上がっている気がします。
試し書きの紙は、まさに「無意識のアート」なのです。
(寺井広樹 著 『「試し書き」から見えた世界』より)
No.1210 『植物図鑑』
著者の有川浩は、まったく知りませんでした。では、なぜこの本を選んだのかといいますと、この題名『植物図鑑』とはなんなのか、なぜライトノベルのような小説にこのような題を選んだのかと気になったからです。
でも、とてもおもしろく読みました。この作品は2009年6月に角川書店から刊行されたものが、幻冬舎文庫の1冊に加えられました。
その幻冬舎の1冊がおそらく新しい刷られたようで、近くの本屋さんに平積みされていました。その装丁のイラストのかわいらしさに惹かれ、でもブックオフの方が安いかもしれないと思い、その数日後に行ったときに見つけ買ってきました。298円でした。
この時期は雪さえ降らなければ時間はあり、しかも植物たちは雪の中で休んでいるので手もかからず、本をゆっくり読むことができます。だから、気がつくと、5時間ぶっ続けて読んでいることもあります。そのときのコーヒーは最高です。もし美味しいお菓子があれば、お抹茶だとそれ以上に幸せです。ときどき、好きな飲み物を飲むために本を読んでいるのではないかとさえ思うときがあります。
なんか、書き方がライトノベル風になってしまいましたが、本の影響って、すごいですよね。
と、いうわけで、引き込まれるようにして読んだのですが、そのときどきのメーンになる野草があり、しかもそれらの野草が自分たちの食べるものに変身するのがなんとも楽しいです。しかも、本の最後にそれらのレシピが写真付きで載っていて、まさに植物図鑑だけでなくレシピ集にもなっています。
これは意外でした。
もちろん、ここ米沢には「かてもの」といい、昔から山菜だけでなく野草でも食べられるものがあり利用されていますが、今どきの子どもたちにもこのような視点は新鮮に映るかもしれません。二人で野山に行って若菜を摘み、それを帰ってきてから調理して食べるということは、今では珍しいことです。だからこそ、新鮮みがあるのです。
やはり、小説は自分で読んでみなければ解説からは何も感じられません。ぜひ、読んでほしいと思います。
下に抜き書きしたのは、この本の隠れたキーポイントの「ヘクソカズラ」のことをイツキが説明しているところです。このヘクソカズラは名前もユニークですが、花だって、すごくきれいです。私的には下手に名前負けするような植物名よりは、このような命名のほうが好きです。
そして、なぜこの名前なの、という興味をかき立ててくれます。
(2016.2.27)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
植物図鑑(幻冬舎文庫) | 有川 浩 | 幻冬舎 | 2015年1月10日 | 9784344419681 |
☆ Extract passages ☆
「臭いがひどいのは相変わらずなんだけどさ。花の姿の愛らしさは『雑草』の中でもかなり上位に入ると思うよ。こんなに花がきれいなのにへクソカズラはかわいそうだって思う人もたくさんいたんだろうな、別名もあるんだ。サオトメカズラにヤイトバナ。花の愛らしさや特徴を採ろうとした名前だろうね」……
「一番インパクトのある特徴と名前が人口に膾炙した一例だな。ヘクソカズラって聞いちゃうと後からサオトメカズラとかヤイトバナとか聞いても印象薄いだろ?」
(有川 浩 著 『植物図鑑』より)
No.1209 『キレイゴトぬきの農業論』
この本の著者は久松達央(ひさまつたつおう)ですが、前回の『けもの道の歩き方』の著者は千松信也(せんまつしんや)です。だからといって、「松」つながりで選んだのではなく、食べるということを考えていたら、この本を手にしていました。
しかも、初刷は2013年9月ですが、2015年3月の時点で9刷ですから、この手の本では売れているようです。
そういえば、今でも田舎暮らしに憧れる方はいるようで、中には農業で生計を立てたいと思っている人もいます。そういう意味では、著者の農業への取り組みは参考になるかもしれません。でも、著者自身がいうように、従来の農業経営とはだいぶ異質なもので、自分のつくった野菜を直接販売する方式です。つくり方も、家庭菜園の延長みたいなものといいますから、やはり変わっています。でも、この家庭菜園も盛んなようで、やはり自分で育てた野菜を食べることや植物が育つ様子を楽しむことなど、趣味としてはいろいろ楽しめます。
もちろん、採算的には店で買ったほうが安いでしょうが、趣味として楽しむにはそれでもいいわけです。
著者は、自分で農業をやりたいと思ったのは、「その自由度の高さです。結果さえ出せれば、どんなやり方をしても構わないし、既存のやり方に縛られる必要もありません」ということだそうです。つまり、いろいろな工夫ができることだそうです。
たしかに、大きな会社ですと、自分の仕事がどことどこでつながっているのかさえもわからないですが、仕事そのものがはっきりと見えますし、その結果もしっかり出ます。そこに工夫のしがいもあります。誰に決められたことでもないし、自分で決めて自分でやる、そこに働く喜びがあるといいます。
おもしろいと思ったのは、1個500円以上もする卵の話しです。『このたまごは、味や栄養価が他と食べ比べてどうかというところが価値の本質ではありません。鶏の生きている姿や飼い主の姿勢まで含めての価値です。お客さんはそこを想像するから、普通のたまごの時とは違う思いで食べ、おいしいと感じるのだと思います。価格設定やパッケージは、そのイメージを喚起する小道具です。「このたまごを生んだ
鶏のことを想像して味わって欲しい」というメッセージです。家族で箱を開け、感想や批評を口にしながら、たまごかけごはんを食べるところまで含めての「おいしさ」だと思うのです。』と書き、これはストーリー・マーケティングだといえば、そうかもしれないと肯定しています。
でも、同じ食材を使っても、大衆食堂や高級料亭があり、値段の設定は大きく違います。たしかにうまさに少しは違いがあるでしょうが、店の雰囲気やサービス、調理人の経験の差などいろいろとその値段の差につながっていると思います。考えてみれば、それと同じです。
それと、自分の経験から「現在でも、新規に農業をやりたい人がまず行政を頼るのは自然なことでしょう。それ自体は悪いことではありませんが、そもそも組織の成り立ちから言って行政は新しいことが苦手です。これから始めようという人には、公的な支援をアテにしすぎて、時代を見誤ることのないよう注意して欲しい、と思います。」というのは、なるほどと思いました。
最近では、さまざまな農業支援事業がありますが、ぜひ心して取り組んでいただきたいと思います。
下に抜き書きしたのは、よく使われる「安全・安心」という言葉についての使い方です。ぜひ、このように区別をして使わなければと思いました。
(2016.2.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
キレイゴトぬきの農業論(新潮新書) | 久松達央 | 新潮社 | 2013年9月20日 | 9784106105388 |
☆ Extract passages ☆
対で語られる事の多い「安全・安心」ですが、意味するところは全く違います。簡単に言えば、「安全」は客観的なもの、「安心」は主観的なもの。どちらが正しいとか上位とかではなく、別な概念です。
複雑な現代社会で人々が認識を共有するために、科学的根拠や客観的事実は大切です。一方で、それを自分の中でどう解釈し、どう感じるかはその人自身の問題です。「安心材料」という言葉があるように、安全をはじめとする客観情報や科学的な思考は、自分という器に情報を取り入れる「材料」や「道具」に過ぎません。あとはその人自身が内部でそれを処理し、安心したり不安になつたりするのです。
(久松達央 著 『キレイゴトぬきの農業論』より)
No.1208 『けもの道の歩き方』
前回は老いへの歩みでしたが、今回はけもの道の歩き方で、同じ歩みでもまったく事情が違います。でも、私も昔は針金をいろりであぶって鈍しながら、ノウサギを捕るワナをつくって、裏山に設置していました。だから、この本を見つけると、すぐに読みたくなりました。
読み始めてすぐに気づいたのですが、猟師とはいえ、銃を使わないでくくりわなを使うそうで、狩猟免許は「わな猟免許」だそうです。つまり、私が子どものときに使っていたようなワナで、私は先輩から教えられた通りにつくっていただけで、それでもかかるのは、「ノウサギは後退することができないので、輪っかの中に頭が一度入ったら自分では抜くことができず、前に進むしかない。進むごとに自然に輪っかが締まって首をくくる仕組みだ。バネなどのわなを作動させる仕掛けも必要なく、針金一本で作れる簡単なものだったという。」と知り、そういう理由があったのかと納得しました。
また、シカやイノシシが増えるのも、それはすべて人間が絡んでいるとのことで、結果的には自分が招いたことでもあります。また、クマが人里まで下りてくるのも、同じような理由です。
そういえば、数年前のことですが、自宅の裏に見慣れない動物がいるということで呼ばれ見たのですが、それはアナグマでした。ほんとうに側溝にもぐるようにしていて、アナグマは穴が好きなんだろうと思いました。でも、数メートルしか離れていないのに、ほとんど逃げようとしなかったので、せっかくだからとカメラを取ってきて写真を撮りました。フラッシュをつけたのに、それでも逃げずにキョトンとしているのが印象的でした。
この辺りでは、タヌキの肉は臭くて食えないとよく聞きますが、著者もタヌキとアナグマをいっしょに捕ったときに食べ比べをしてみると、やはりタヌキの肉は独特のにおいがあり、食べられない人がいたそうです。でも、アナグマはとても美味しく、冬越しのための脂をため込んだアナグマの肉はとても貴重な栄養源として珍重されたのではないかと書いていました。
最後のところで、著者は、「日本列島のあらゆるところで野生動物と人間との軋轢が増している中、動物たちと積極的に関わり、自然界や街の余剰物を利用することに喜びを感じる物好きな人間がもっといてもいい。生活の一部として行われる自発的で多様な狩猟の広がりによって、結果として生態系のバランスが整い、鳥獣害が減っている未来を夢想したい。この社会の至るところに、生活者としての猟師が利用できるけもの道は無数に枝分かれしながら広がっている。」と書き、そこで「けもの道」につなげて狩猟の未来を描いています。
つまりは、狩猟もいろんな野生動物との関わりから、生態系のバランスが保てればいい、という理想郷を夢見ているわけです。私も、幼き頃、山に入りウサギを追いかけた一人として、そうなればいいなあ、と思いました。
下に抜き書きしたのは、最近、この地区でも問題になっているサルについてです。サルを見ていると、急いで口に食べ物を放り込み、安全なところに行ってから、それをゆっくりと食べているようです。そのとき、気になっていたのが、柿でもなんでも、しっかりと食べずに、かじってはポイッをしています。人間が手間暇掛けて育てたのをかじってはポイッされると、よけいイヤなヤツと思ってしまいます。
でも、それに下に抜き書きしたような理由があるとは思いもしませんでした。まさにさるかに合戦を思い出しました。
(2016.2.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
けもの道の歩き方 | 千松信也 | リトルモア | 2015年9月16日 | 9784898154175 |
☆ Extract passages ☆
木登りが上手で樹上生活をおくるサルは、果樹が食べ放題である。それをサルが全部食べてしまっては、地上で暮らすタヌキやキツネなどの動物が食べるものがなくなってしまう。そこでほかの動物も食べられるようにサルはああいった、「かじってはポイッ」という食べ方をするようになったというのだ。サル自身がそんなことを考えて実行しているわけではないが、森林の生態系全体を見るならば、大変理にかなっている。……
または、毒に対する警戒だとも言われている。自然界には有毒な食べ物もあり、それを一度にたくさん摂取してしまわないための自己防衛の手段としてあの食べ方を身につけたというのだ。これはこれでなかなか説得力がある。
(千松信也 著 『けもの道の歩き方』より)
No.1207 『老いへの歩み』
そろそろ自分も老いを歩み始めたと思いながら、では老いたというのはいつからだろうと思っていたら、この本を見つけました。この本では、「初老」という言葉を辞書を引いたら「40歳の異称」と書かれていて、びっくりしたところから書き始められています。
確かに40歳で初老は早すぎると思いますが、昔の人生50年のときには、そんなに不思議でもなかったと思います。では、日本人の平均寿命の統計を取り始めたのはいつからかというと、最初の資料は明治24年から31年にかけての死亡統計だそうで、そのときの平均寿命は男が42.8歳、女が44.3歳で、それが男女とも50歳を超えたのが昭和22年です。そのときの平均寿命は男50.06歳、女53.96歳だったそうです。
つまり、人生50年というのも、戦後に入ってからのことで、昔の初老が40歳でも、なんらおかしくはなかったわけです。
でも、一番新しい厚生労働省発表の2014年における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳です。とすれば、まだ半分の人生しか生きていないのに初老ではおかしいと思うのは当たり前です。だとすれば、いつから初老かといえば、著者は60歳ぐらいではないかと書いていますが、この文章を書いたのが1985年冬号の「ハーフタイム」ですから、今では65歳と考えてもいいのではないかと思います。
でも、実際に読み始めてみると、老いへの歩みというより、これから老いるときの心構えみたいなもので、著者が老いる過程を書いたものではなさそうです。というのも、ここにおさめられた文章は、1980年代半ばから2015年までに書かれたものだそうで、1932年生まれですから今年84歳になるはずです。1980年代半ばを単純に1985年とすれば53歳ということになり、まだまだ老いを語るには早すぎます。
だから、文章を読んだとしても老いの実感があまりなく、むしろ自分の祖父母や両親のことなどが語られています。むしろ、それらを通して老いへの歩みを語っているのかもしれません。
そのなかで、父の四十九日の法要の後に見つけた万年筆のことに、自分も万年筆が好きなだけに感じるところがありました。それは、「四十九日の法要も済んでしばらくしたある日、残された本の整理のために父の部屋にはいった。机の傍にいた母が、これは使えるのかしらね、と言って一本の黒い万年筆を示した。太めの握りのモンブランで、手紙などを認めるのに用いていたらしい。なにげなくキャップを取ってメモ用紙の上にペン先を走らせた時、異様な感慨に襲われた。すらすらと字が書けたからだ。吸入式の万年筆に、父のいれたインクが残っている。そこにだけ、まだ父が生きているとしか思えなかった。持ち帰って少し使うとインクが詰り始めた。一度洗った方がいいのは明らかだ。しかし今はいっているインクがなくなるまで、この万年筆は洗えないだろう。」という文章です。
人間は、何気ないところに感じるものがあるようです。
下に抜き書きした文章も、昔の老人と今の老人との違いを少ない言葉であらわしています。でも、昔はよかったというよりは、今の老人は今の時代を生きるしかないわけで、どのように生きるかが問われているのかもしれません。
(2016.2.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
老いへの歩み | 黒井千次 | 河出書房新社 | 2015年6月30日 | 9784309023861 |
☆ Extract passages ☆
かつての老人達が持っていた、家族の中での地位や、威厳や、実力は、親子二世代のみによる核家族化が進むにつれて次第に遠ざけられ、間接的な存在となっていく。観客がいなければ役者が育たないのと同様に、畏怖や尊敬の日差しがないところに人生の先達の成熟も期し難いのではないか。
言いかえれば、いくら生きても生きても、容易に昔の老人のようには熟し得ぬ生を現代人は与えられてしまっているのだ。……
そのためには、人生の輪郭を引きなおし、失ったものと得たものとをはっきりさせ、曖昧な呼びかえやすりかえで事態を糊塗することなく、生きる一刻一刻を明確に自分で掴んでいくことが求められる。
(黒井千次 著 『老いへの歩み』より)
No.1206 『坊さん、父になる。』
最初、この本を見たときには、その表紙絵に袈裟を身につけた坊さんが子どもを抱いた姿のほのぼのとしたイラストがおもしろいと思いました。
そして、坊さんは本来、結婚などしなかったわけで、それなのに結婚して子どもがうまれたことを前面に押し出して書くことにも興味を持ちました。さらに出版元のミシマ社って、聞いたことがないな、とも思いました。この本そのものが、実は「みんなのミシマガジン」に連載された「となりの坊さん。」で、それを大幅に加筆修正して、再構成したのだそうです。
著者は、1977年生まれですから、まだまだ坊さんにしては若いですし、でも先代住職さんが早く遷化されたこともあり、24歳で四国八十八ヶ所霊場第57番札所の栄福寺の住職をされています。そして、あの「ほぼ日刊イトイ新聞」にも連載したことがあるそうです。
だからなのか、文章も語り口でやさしく感じられ、スーッと入ってくるようです。それが特徴なのかもしれません。
たとえば、中道の説明にしても、『「中道」とは、ふたつの対極的で極端な立場(有と無、常と断など)、どちらからも離れた自由な立場をとり、実践すること。「中」とはいわゆる中間ではなく、二者択一的な設定自体から解放されることだが、身近に遭遇するさまざまな問題に対しても、「当たり前に、両方大事でしょ」「どっちかって話じゃないでしょ」と思わず感想が漏れることが、最近僕自身、とても多い。そして、対立しているかのように見えるトピックも、まずは「対立」という既成概念をはずすことで、「ふたつの対立」から離れた「中道」的な実践をできることもあるのかな、と感じる。そしてそれを提案し実践すること、これが「僕という坊さんの仕事」であり、栄福寺の重要な役割になると直感した。』とあり、なるほどと思いました。
また、沖縄に新婚旅行に行った時に知った「火の神」(ヒヌカン)が、難聴の神さまというのもとても興味を持ちました。ネットで調べてみると、「古代より火は文明の礎(いしずえ)、それを脈々と受け継がれてきた沖縄の民間信仰がヒヌカンです。ヒヌカンを祀るのはこの家の台所、代々女性によって行われており、決して他人が拝むことはできないとされています。」と書かれていました。
そして、そのようなことより、難聴であるということが意味深で、聞こえにくいわけですから、それは態度で示すしかないともとれるわけです。
つまり、口でいろいろなことを言うより、先ずは行いで示すしかないということです。これは、とても大事なことです。
下に抜き書きしたのは、ある結婚式で高野山の老僧が話されたことだそうで、とてもわかりやすい戒律の話しだと思いました。
ぜひ、読んでいただければと思います。
(2016.2.17)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
坊さん、父になる。 | 白川密成 | ミシマ社 | 2015年9月16日 | 9784903908489 |
☆ Extract passages ☆
ある結婚式で、高野山の老僧が話されていたことを最近よく思い出す。それは「戒律」には二種類あるという話だった。「戒律」というのは、ご存じのように仏教教団の修行、生活規範のことだ。どんな二種類があるのだろうか。
その場所は、結婚式の会場だったので、とても丁寧に話されていたけれど、端的に言うと「戒」は自発的な決心であり、「律」は他律的、つまり他人から受けるもの、という話だった。そして、「"戒律"というと、他から授けられるルールのように感じるが、自らが宣言して自律的に守る"戒"の精神も大切にしてください」という話だったように記憶している。
(白川密成 著 『坊さん、父になる。』より)
No.1205 『神木隆之介のMaster's Cafe 達人たちの夢の叶えかた』
この本を最初に開いたとき、アイドル本かと思うぐらい著者の写真が載っていましたが、27ページからの対談はとてもおもしろそうで、図書館から借りてきました。
図書館からだと、もしも外れでも懐は痛みませんし、もし当たりだったら、それはそれでとても有り難いことです。だから、図書館は好きです。2週間に1回は行っています。
さて、この本は、著者の神木隆之介がいろんな人を訪ねて、対談をするというもので、それがこのマスターズ・カフェです。まさに相手は、各界の達人たちで、これは楽しそうです。しかも、個人が訪ねたといといってもほとんど無理な達人たちですから、これは本を読むしかなさそうです。
それら達人たちはというと、グラフィックデザイナーの佐藤卓さん、宇宙飛行士の野口聡一さん、漫画家の浦沢直樹さん、サッカー日本女子代表監督の佐々木則夫さん、武者小路千家次期家元の千宗屋さん、ロボットクリエイターの高橋智隆さん、国立天文台副台長の渡部潤一さん、小説家の辻村深月さん、文化庁長官の青柳正規さん、落語家の柳家権太楼さん、ファッションデザイナーの森永邦彦さん、哲学者の岸見一郎さん、車いすテニスプレーヤーの国枝慎吾さん、コピーライターの糸井重里さん、俳優の中井貴一さん、です。もう、そうそうたる人たちです。
これは雑誌『アンアン』に掲載された「神木隆之介のMaster's Cafe」に掲載されたものだそうですが、最後の中井貴一さんとの対談だけが、この本のオリジナルです。
それぞれにおもしろかったのですが、特に印象に残っているのは、国立天文台副台長の渡部潤一さんの「天文学に目覚めた直接のきっかけは、1972年のジャコビニ流星群なんです。雨アラレのように流れ星が降ると予測されて、日本中が空を見上げたんですが、実際には一つも出なかった。みんながっかりしたんだけど、僕は「これは面白い⊥と思ったんです。偉い先生方でもわからないことがあるのかと。もしかしたら、予想しない日に山ほど流れ星が出るかもしれないと、毎晩、空を見上げて、地球防衛軍みたいに観察し始めたんです。そして、謎を解明するために天文学者になろうと思った。」です。
しかも、そのあこがれの天文学者になり、自分でそのジャコビニ流星群がなぜ出現しなかったのかを解明したそうです。さらに、今ではその流星群がいつ出るかをほぼ予測できるようになったというからすごいことです。
また、国枝慎吾さんの「僕は"基礎練重視派"なので、初心者がやるような練習をずっと繰り返すことが多いですね。運動生理学的に、人間の体は、3万回同じことをすると、頭で考えなくても勝手に動くそうなんです。フォアハンドならミドルのポジションだけでなく、ハイポジションで3万回打ったら、次は口ーで3万回打つくらい、徹底的に基礎を繰り返します。試合では、劣勢で焦る場面も当然あります。そんなときは、体に染みついた基礎的な動きがモノをいうし、精神的にもこれだけやったんだからと思える。それが結果につながっているのかなと思いますね。」という言葉も、あの車いすでプレーするところをテレビで見たことがありますが、なるほどと思いました。
そして、このような基礎訓練はどのようなことにも通じるのではないかと思いました。
数え上げればいろいろとありますが、下に抜き書きしたのは、武者小路千家次期家元の千宗屋さんと対談したあとに、著者が感じたことです。
俳優というのは、相手に対する感情移入みたいなところもあるのかな、と思いました。
(2016.2.15)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
神木隆之介のMaster's Cafe 達人たちの夢の叶えかた | 神木隆之介 | マガジンハウス | 2015年9月25日 | 9784838728008 |
☆ Extract passages ☆
千利休さんの書いた手紙など、400年以上前のものに囲まれてお茶を飲むのは不思議な感覚でした。この器を歴史上の人物が使ったかもしれないと考えると、自分は今すごい場所にいるんだなあと。おもてなしの詰も印象的でした。
自分がされてうれしいことは相手もうれしいかなというのは僕もよく考えますし、結局のところそこで判断するしかない。お互いを尊重し合う心づかいが、結果的にもてなしになるのだと実感できました。
(神木隆之介 著 『神木隆之介のMaster's Cafe 達人たちの夢の叶えかた』より)
No.1204 『とっさのしぐさで本音を見抜く』
この本の表紙の青い瞳に魅せられて、読もうと思ったわけではないのですが、昔から「目は口ほどにものを言う」とは思いました。だとしたら、この本のなかに出てくる「身体言語」というのはたしかにあると思ったのです。
しかも、著者の略歴をみて、「現在はマインド・リーダーとしてステージショーを行う」と書いてあり、それってどういうことをするのか興味を持ちました。
もともとはマジックなどをしていたそうですが、そこから今のステージショーにつなげていったようで、今は「ボディー・リーディング」、つまりは「しぐさ」から相手の心を読む技術を解説しているということのようです。それができれば、「相手が本当に望んでいることや隠された本音がわかれば、ビジネスの場では有利に物事を動かすことができるようになる」と「はじめに」のところで書いています。そして、そこでは自分のことを「ボディー・リーダー」といいます。簡単に言ってしまえば、「しぐさ」から人の心を読める人という意味のようです。
たしかに、そうであれば、ビジネスだけではなく、家庭においても恋愛においても、すべての人間関係において有利だと思います。だから、このような本が売れるのでしょう。
でも、一気に読んでしまってから考えてみると、これらは100%人の心を読めるのではなく、外れる可能性もありうるということです。たとえば、赤色のパワーというところでは、「赤はまさに魔法の色だ。オリンピックのレスリングでも、赤いユニフォームの選手は青の選手よりも金メダル獲得率が高いことがわかっている。ユニフォームの色はくじ引きで決めているにもかかわらずだ。イギリスのダラム大学の人類学者ラッセル・A・ヒルとロバート・A・バートンは、2004年オリンピックの際に4つの競技で調査を行っている。選手にくじ引きで赤か青のユニフォームを割り当て、戦績を調べたのだ。結果はじつにはっきりしていた。ほぼすべての競技と階級で、赤いユニフォームの選手が勝利していたのである。」と書いていますが、その後で、しっかりと「ただし赤のパワーが発揮されるのは、選手同士の実力がほぼ同じ場合のみだった」書いています。
つまりは、まったくわからないよりは、少しは知っておいたほうがいいという程度のことです。もちろん、これは私の個人的な感想ですから、みんなが皆、そう思うわけではないでしょう。
また、人間というものは、裏をかく場合も結構ありますし、それを楽しむことだってあります。
人間の心をはっきりと読み解けると考えるよりは、そのような傾向があると思ったほうが間違いがなさそうです。
たとえば、白衣を着ると頭がよくなると書いていますが、もし、医師の家系で一人だけ医師になれなかったとしたら、むしろその白衣に良い印象はもたないかもしれません。あるいは、薄汚れた白衣に老練な科学者のイメージを抱く人だっているかもしれないのです。
昔から「十人十色」といいますが、私もそうだと思っています。
ただ、いろいろなところに出てくる実験や観察などは、なるほどと思うところも多々ありました。たとえば、「この実験では、まず母親に赤ちゃんと遊んでもらう。はっきりした表情を浮かべながら、赤ちゃん語で声をかけたり目を丸くしたりしてみせると、赤ちゃんも笑ったりバブバブ言ったりして母親のシグナルに応える。次に、母親には無表情で赤ちゃんに接してもらう。表情をまったく変えず、赤ちゃんを見るときも平坦な顔つきのままだ。すると、赤ちゃんの反応はまたたく間に変化する。母親からリアクションを得ようと、大きな声をあげ、激しく身動きをして注目を引こうとするのだ。そして、すぐに泣き出してしまう。ここで母親が無表情をやめて笑いかけると、赤ちゃんはぴたっと泣きやみ、すべてはもと通りに戻るのだ。」などは、そう思ってはいましたが、実験で証明されると本当に納得できます。
下に抜き書きしたのは、「身体言語」についての説明です。
もし、人前に出るとあがってしまうとか、口べたで言いたいことも言えないという方は、参考程度に読んで見るといいかもしれません。
(2016.2.13)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
とっさのしぐさで本音を見抜く | トルステン・ハーフェナー 著、柴田さとみ 訳 | サンマーク出版 | 2015年9月10日 | 9784763134684 |
☆ Extract passages ☆
怒っているのか、退屈しているのか、悲しんでいるのか、それとも機嫌がいいのか。僕たちはそれを、相手の身体が発する小さなメッセージから感じ取る。たとえば遠くを見る目、下がった口角、右まぶたのひきつり、首に添えられた手、特徴的なあごの動き、唇のしわなどは「何か」を語っているはずだ。
また、身体言語は、けっして身振りや姿勢や身体の動きだけを指すのではない。もっと幅広い。たとえば、服装、アクセサリー、髪型、触ったときの感触……すべてが「何か」を語っているのだ。
(トルステン・ハーフェナー 著 『とっさのしぐさで本音を見抜く』より)
No.1203 『インバウンドの衝撃』
インバウンドってなんだろう、と思っていたら、「はじめに」のところに、インバウンドは「外国から日本にやってくる人」で、アウトバウンドは「日本から外国に飛び立つ人」と書いてありました。さらに、これは2020年の東京オリンピックにかけての大きなトレンドになるといいます。
そのようなことを含めて、副題は「外国人観光客が支える日本経済」です。
そういえば、今、東京や京都などのホテルが足りないといわれ、さらには民泊の問題も取りあげられています。昨年の5月に中国四川省に行ったのですが、日本からの帰国便ということもあり、成田空港は大量の荷物を抱えた中国人観光客で混雑していました。そして、ビックリしたのは、成都双流国際空港の荷物引取りターンテーブルには大量の段ボール箱が次から次へとはき出されてきて、自分のスーツケースを見つけるのが大変でした。今まで、何度か海外旅行をしていますが、このようなことは初めてでした。
これはやはり衝撃です。これからますます外国人観光客が増えるとすれば、いいこともあれば悪いことだってあるはずです。
そう考えながら読むと、ますます興味がそそられました。
でも、なぜ、たとえばスキー場などのレジャーを中心とした観光地が衰退しつつあるのでしょうか。たしかに若者の人口が減少していることもその一因でしょう。この本では、3つのことを指摘していますが、その1つはやはり若者人口の急速な減少と、あとは「若者の嗜好が変化し、テニスや海水浴といった体育会的なノリよりもネットやスマホなど、別の楽しみが増えてしまったのが、原因の二つ目。国内外の観光地(島にとってのライバル の選択肢が増え、また旅費も安くなる中、島にたどり着くまでの時間と意外と高い交通費がネックとなって、今どきの低収入の若者には島は遠い存在となってしまったのが原因の三つ目、いずれももっともな理由です。」と書いていて、ある地方の離島で地元ホテルのコンサルティングをしていたときに気づいたことだそうです。
だとすれば、この3つの原因が改善される見込みがほとんどないとすれば、やはり外国人観光客を増やすというのも大きな一手であることに間違いなさそうです。
では、どういうところが外国人観光客が好むのかというと、それはやはり外国人観光客にホンネを聞くしかありません。ちなみに、2014年の「外国人が選ぶ日本の観光地TOP10」によれば、1位は伏見稲荷神社、2位が広島平和記念資料館、そして3位が厳島神社、だそうです。おそらく、日本人だったら、あまり選ばないところではないかと思います。また、おもしろいのは、16位にロボットレストランや28位の愛知県にあるトヨタテクノミュージアム産業技術記念館で、やはり日本の最先端のテクノロジーに触れてみたいということなのでしょう。
つまり、せっかく日本に来るということの意味は、日本を体験したいということですから、それはある意味、当然なことです。
下に抜き書きしたのは、その体験したことを、すぐさま世界に発信する今どきの外国人観光客の姿をあらわしています。つまり、彼らこそ、日本を紹介してくれる観光大使みたいなものだと著者はいいます。
これから2020年の東京オリンピックにかけて、世界中から外国人観光客が日本にいらっしゃいます。「おもてなし」だけではなく、日本らしさをぜひ楽しんでもらいたいと思っています。
(2016.2.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
インバウンドの衝撃(祥伝社新書) | 牧野知弘 | 祥伝社 | 2015年10月10日 | 9784396114398 |
☆ Extract passages ☆
……日本を旅する訪日外国人客は、今後も日本のさまぎまな場所に新たな日本を発見し続けることでしょう。それは日本人の感覚とはおそらくだいぶ異なるものかもしれません。
しかし、彼らのそうした感性がまた「日本再発見」となり、日本の観光地を拡大してくれることにつながります。日本の国内を自由に歩き回っていただき、日本のありのままの姿を体感し、その感想を従来のような旅行メディアだけでない、SNSやフェイスブックなどのさまぎまな自己表現手段を用いて世界中に広めていただければ、それこそが抜群の「日本観光大使」の役割を果たしてくれることになります。
(牧野知弘 著 『インバウンドの衝撃』より)
No.1202 『いくつになっても「好かれる人」の理由』
7日から上京していて、その間の電車のなかなどで読みました。そのような細切れの時間だと、この本のような気楽に読めるものが一番です。
もともとは清流出版から2001年5月に観光された『一笑一若 一怒一老』を改題したものだそうで、道理で、この本の最後のところで、「「喜楽」ほいい意味のストレスになりますが、「怒哀」は悪いストレスになります。だからこそ「一笑一若、一怒一老」なのです。現実社会のなかで避けられない悪いストレスを「喜楽」で癒すことが、心身の健康や若さを約束してくれます。」と書いています。
でも、それ以上に老いてなお「好かれる」ことはすごいことで、普通はだんだんと疎まれてしまうようです。では、なぜかというと、説教をたれたり、がみがみ怒鳴ったり、いつも「今の若い者は」などと言ったりすれば、それはやはり嫌われてしまいます。そういう意味では、この本は、年を重ねてから疎まれないようにする方法が書いてあります。まさに、思い当たる人にはぜひ読んでもらいたいと思います。
たとえば、「慣れは甘えを生み、甘えると自主性をどんどん失って、冥土街道を流されていきます。六十歳も後半になったら、この流れに巻き込まれないよう、常に「慣れず、甘えず、流されず」を、肝に銘じなければいけません。油断すると流されてしまうのが人の習性で、常に意識して自主性を発揮している必要があるのです。」なども、その通りだと思います。
そういえば、著者は旅のことをいろいろと書いていますが、旅は見知らぬところに行きますから、慣れがありません。人の後ろばかり歩いていると、その感動も薄れがちです。しかも添乗員の旗の後ろについてばかり歩いていると、その道の両側に広がる景色に目が行かなくなります。
だから、旅も「慣れず、甘えず、流されず」なのです。自分である程度の計画を立て、自分で切符や泊まるところの予約をしたりすれば、その楽しみも倍加するだけでなく、感動もあるでしょう。やはり、旅は少人数が一番です。
著者は、この旅の効用を一言で、「非日常的な適度な脳への刺激」と書いています。つまり、常日頃のいろいろなストレスを旅をすることにより、それから解き放たれるといいます。
もちろん、旅にもストレスはあります。でも、過度なストレスは「ホルモン・バランスを乱し、免疫力を低下させることによって、生活習慣病などの病気を誘発し、老化や痴呆への道をたどる」のだそうです。そのようなストレスを旅をすることで、解消できるのです。
私も、このような考えに賛成です。
旅に出ると、なぜか気持ちが軽やかになり、まだ見たことも聞いたこともない事柄に、興味のアンテナが鋭く反応します。
おそらく、常日頃のしがらみから解放されるのがいいのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、「昨日と違う今日を生きる」ことの大切さを説いています。ほんとうに、なるほどと思いました。
(2016.2.8)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
いくつになっても「好かれる人」の理由(祥伝社黄金文庫) | 齋藤茂太 | 祥伝社 | 2005年4月20日 | 9784396313760 |
☆ Extract passages ☆
人生、いくら苦しんでも哀しんでも、どうにもならないことは山ほどあります。だとすれば、苦しみ嘆きながら過ごすよりも、もっと愉しく、明るく生きたほうが有意義なはずです。それが、いつまでも若々しく生きるための、何よりの秘訣なのです。愉しく過ごすためには、昨日と同じ今日ではいけません。昨日と違う今日を生きてこそ、人生ほ愉しく、豊かになるのです。
(齋藤茂太 著 『いくつになっても「好かれる人」の理由』より)
No.1201 『人生に美を添えて』
この本を選んだのは、ただこの『人生に美を添えて』という題名がよかったのと、カバー絵の小杉小二郎の「三色すみれと野の花」の絵を小さくはめた本の装丁が気に入ったからです。
だから、著者が誰かもほとんど気になりませんでした。でも、帰ってきてから、改めて読み出すと、もしかするとあのノーベル賞を受賞した方ではないかと思い、たしかにそうだと知り、むしろビックリしました。でも、この本はもともと月刊誌『美術の窓』に連載されていた「アートと世界」(2014年1月号から2014年8月号まで)に加筆・修正して出版された単行本でした。しかも、ノーベル賞を受賞される前に初版が出ていますから、柳の下ということでもありません。
そして、読んでいると、本当に絵や陶器が好きなんだということが伝わってきます。絵などのコレクションのきっかけになったのは、「ある時、画商が野田九浦の芭蕉を描いた掛け軸を持ってきました。私は一目で気に入ってしまい、月賦で購入したのです。当時、侃々諤々の議論をしたり論文を書いたりすると、家に帰っても緊張感が続いてなかなか寝付けないものでした。そんな時、この九浦の絵を見ていると、心に安らぎを覚えました。この絵にどんなに助けられたことでしょうか。これが私のコレクションの始まりです。」と書いています。そして、初めはただ好きなものだけを集めていたそうですが、ある程度集まってくると、それを人にも見てもらいたいという気持ちが出てきたのだそうです。
おそらく、それが韮崎大村美術館に繋がっていったのではないかと想像します。
この本には、ノーベル賞をもらった科学者としての面より、絵や陶器が好きだという美術愛好家としての側面が描かれています。初めて知ったのですが、女子美術大学の理事長をしていることや、多くの女流作家の方たちとの交流など、美術分野での功績もすごいと思いました。そのなかでも、たとえば、「大学の先生を私なりに評価する時、その分野の仕事ももちろん大切ですが、教育と研究の両方が相侯って本当の教育者なんだというのが私の考えです。作家なら、作品を評価すると同時に、その方がどのくらい人を育てたか、つまりいい弟子たちを育てたかをみます。」という考え方も、ただ単に美術が好きというより、やはり教育者としての側面があると実感しました。
そういう点から、下に抜き書きしたのは、子どものうちから本物の絵を見せたいという思いが「出前美術館」という考えに至ったのではないかと思い、ここに書き出しました。
地元の人でないと、なかなかわからないような活動ですから、ここで紹介したいと思いました。
(2016.2.6)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人生に美を添えて | 大村 智 | 生活の友社 | 2015年7月12日 | 9784915919954 |
☆ Extract passages ☆
韮崎市内の市立の小学校、中学校、市庁舎、商工会議所の建物などトータルすると5つほどありますが、その公の施設に韮崎大村美術館の収蔵作品を展示する。つまりすべて本物の絵を飾るのです。もちろん掛け替えもします。
これは美術館の開館と同時に始めたことです。私が自分で行って場所を決めたりもします。絵画が小学校などの感謝状の掛け方のようになってしまっていたのを指導したり、絵の管理方法の相談にものります。子ども達が、小学生のうちから本物の絵を見ることを目的としています。
(大村 智 著 『人生に美を添えて』より)
No.1200 『古本屋ツアー・イン・ジャパン それから』
1,200回という節目だから選んだのではなく、たまたまこの本を目にして、古本は大好きなので読んだだけのことです。
それにしても、特別編の「古本屋ツアー・イン・お宅」から、ものすごい内容でビックリしました。まさに古本の中に埋もれながら生活している方々ばかりなのです。ちょっと誇張過ぎるかな、と思ってしまいます。でも、これが古本蒐集者の行き着く先なのだと納得しました。つまり、私も似たような者だからです。
私の場合は、家の建て替えのときに、だいぶ本を手放してしまいましたが、そのときはだいぶ本棚にも隙ができたと喜んでいたのですが、もう本棚はぎゅうぎゅう詰めですし、そこから溢れた本が少しずつ私のいる部屋の住環境を脅かしつつあります。もう、他人事ではないようです。
それにしても、この本に掲載されている古本屋だけでも155店舗あります。それ以外に何度も行っているものや行っても閉まっていた古本屋を含めると、さらに増えるはずです。
それともう一つビックリしたのは、そのほとんどのお店が一見して古本屋だとわかるのとそうでないのがあって、今では骨董屋や喫茶店と合体したものまであり、単体で商売するには大変なのかもしれません。さらに、昨年まで米沢市内で営業していた新刊書を扱っていた本屋のなかに古本もあるという形態もけっこうあるそうです。初めて入ったときには、ちょっと違和感があったのですが、慣れてくると、これもありだな、と思いました。
でも、本屋さんでも大変な時代ですから、古本屋さんもそれ以上大変な時代だと思います。それを自分の足で巡って1冊の本にまとめるというのは、とても貴重だと思いました。この本のなかにも、すでに閉店されたものもあり、いつ閉店されるかもしれない店舗もあるようでした。
もしかすると、昔はこんなにも古本屋があったんですよ、ということになるかもしれません。いや、おそらくなるでしょう。
だとしたら、ますますこのような本を出すことの意義があります。
それにしても、古本屋の雰囲気というのは、どこも似たようなものだと感じました。この本のなかでも、「よい本が多く混じり、棚造りにさり気ないながらも強靱な芯を感じ取れる」とか、「棚並びは、ジャンル分けのある所とあやふやな所があり、全体的に少々カオス気味である」とか、その意味するところがわかるから、私ももしかすると古本マニアなのかもしれません。
この本には、特別付録として、「古本屋全国ツァー・リスト[2008-2015]」があり、これからまわってみたいという人には、とても参考になりそうです。これを見ると、私も行ったことがある古本屋が掲載してあり、地元では唯一「羽陽書房」で出ていました。
もしできることなら、これを参考にして、いくつかの古本屋を巡ってみたいと思いました。
下に抜き書きしたのは、この本の最初に載っていた「夢の古本プールに浸かる」に載っている文章で、たしかにマニアならこのような思いがするだろうな、と思いました。そうはなりたくはない、でも、そうなりつつあるという不思議な修羅の世界をちょっと垣間見たような気がしました。
そして、この本は、たしかに1,200回という節目にぴったりの本のような気がしてきました。ぜひ、古本マニアなら、読んで見てください。
(2016.2.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
古本屋ツアー・イン・ジャパン それから | 小山力也 | 原書房 | 2005年10月30日 | 9784562052530 |
☆ Extract passages ☆
あぁ、ついに異次元に迷い込んでしまったのか……。ちょっとクラクラする。それにしても素晴らしい眺めだ。笑いつつ、少しおそろしくもなる。規模は遥かに違うが、これは別の見方をすれば、自分の未来でもあるのだ。ハードな古本好きが行きつく世界。見ないようにしている、本に脅かされる未来。大量の古本たちに目を奪われながらも、一瞬そんな想いがニュルッと頭をよぎってゆく。
だが、私は所詮古本修羅。目の前には古本! しかもちょっと見ただけで、筋のよい流れが目に次々と飛び込んでくる。私はその魔力に抗えなくなり、たちまちいつもの古本修羅モードにチェンジ。しかし、足の踏み場がない。
(小山力也 著 『古本屋ツアー・イン・ジャパン それから』より)
No.1199 『〈文化〉を捉え直す』
今の時代、グローバル化は避けられない問題だとは思うのですが、でも、狭い地域なりの良さもあるわけで、ローカルな地域性も忘れてはならないと思います。でも、マスコミで取り扱うのは、やはりグローバルなことで、なかなか地域の特殊なことを取りあげられる機会はほとんどないようです。
そのようなことを考えていたとき、たまたまこの本と出会いました。
副題は「カルチュラル・セキュリティの発想」で、なんともわかりにくそうな発想です。セキュリティは安全保障ですから、著者がいうには「非伝統的な安全保障」という意図が込められているそうです。
ちょっとわかりにくいですが、では文化ってなにかといわれると、それもいろいろな解釈があります。この本では、「観念論はしばしばシニカルな文化観に囚われており、文化の使い方に対する創造力に欠けるきらいがある。逆に、政策論は往々にしてナイーブな文化観に囚われており、文化を軽く捉え過ぎる傾向がある。」として、その両者の考え方の橋渡しをするのもこの本の役目だとしています。
さて、最初のグローバルとローカルのどちらも大事だといいましたが、実は、この両者を合わせた考え方があると知り、ビックリしました。それはグローカリゼーション(glocalization)といい、グローバリーションとローカリゼーションを掛け合わせた言葉だそうです。
これは社会学者のローランド・ロバートソンらによって提唱された概念だそうで、つまり「普遍主義の個別化」と「個別主義の普遍化」の相互作用を指すようです。つまり、グローバルとローカルのどちらか一方ということではなく、それらがうまく混じり合った状態のようです。どちらも大事だということでしょう。
たとえば、その例として、下に抜き書きしたスローフードを挙げています。詳しくは、下を読んでいただくとして、このように単一指向的なものは影を潜め、いろいろな形でローカル化されつつ、かつグローバル化を続けているとこの本では分析しています。
でも、たしかにセーフティネットやソフトパワーなどはそれなりに有効だと思いますが、それを客観的に評価しようとすると、これは大変です。もちろん、ハードパワーに比べれば政策目的遂行のためのコストはだいぶ低く抑えることができるでしょうが、それをすることによりどの程度の効果があったのかを知るのは難しそうです。
そういえば、だいぶ昔の話しになりますが、大学の卒論で社会会計を取りあげたことを思い出しました。これも、資金をこれだけ投入すれば、その効果はどれだけかを社会全体のなかで計算しようと思ったのです。つまり、起業会計と同じように、社会のバランスシートができないかと思ったわけです。
たしかに、文化を捉え直すことは大事なことですが、私的にはちょっと理解できないところが多かったと思います。ただ、下に抜き書きしたのは「スローフード」についてのことですが、なるほどと思いました。
もう少し丁寧に読めば理解できるかもしれませんが、節分の行事の前の慌ただしさでは、それもできません。もう少し時間をおいてから、また読んでみたいと思いました。
(2016.2.1)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
〈文化〉を捉え直す(岩波新書) | 渡辺 靖 | 岩波書店 | 2015年11月20日 | 9784004315735 |
☆ Extract passages ☆
1989年末には北イタリアのピエモンテ州の小さな町ブラにNGO「スローフード協会」を設立、手間暇かけて作られた、その土地土地の食を見直し、普及させる国際的な社会運動を展開し始める。インターネットによって零細農家とのネットワーク構築や直接取引が容易になったこと、先進国で健康志向やグルメ志向が高まったことなどを背景に、スローフード運動は、ファーストフードやファーストライフ(効率やスピードを最優先する生活)の象徴である米国も含め、国境を越えた広がりを見せた。社会に広く薄く存在するニーズを情報伝達コストの低いインターネットを通して糾合し、市場として成立させた点で、いわゆる「ロングテール」の先駆的事例とも言えよう。2015年現在、世界150か国に2200以上の支部を持ち、10万人以上の会員を有している。さらにはマクロビオティック、オーガニック、ロハス、地産地消といった概念にも影響を及ぼし、食からライフスタイルに至るまで、様々な形でローカル化されつつ、かつグローバル化を続けている。
(渡辺 靖 著 『〈文化〉を捉え直す』より)
No.1198 『あぶない一神教』
『イスラーム圏で働く』という本を読みながら、それでもわからない部分があったので、この本を見つけました。
一神教があぶないかどうかはわかりませんが、いわれてみれば、そのように感じる部分もあります。やはり、他を認めないというところに、大きな不安を感じてしまいます。自分を認めてほしいなら、先ず、他人を認めなければならないはずだと思うからです。
しかも、正解は一つしかないのも、科学ならいざしらず、人が暮らす社会では、正解はいくつもありそうです。
そんなことを考えていたこともあり、すぐに読み始めました。
読んですぐに、一神教はあぶない、という単純な考え方では一神教を読み説くのは難しく、むしろその根底にあることからその本質を理解することが大切だと気づきました。
そういう意味では、とても参考になりました。とくに、最後の審判におけるイスラム教とキリスト教の違いは、橋爪さんは「イスラム教の最後の審判は、本人が何を行ない、何を考えたか、生前の詳細な記録が、背後にいる天使によって記録されます。一人ひとりにデータファイルがつくられる。イスラム法に照らせば、記録された行ないが正しかったか違反したか、すぐにわかる。そして、悪行と善行、どちらが重いか秤にかける。こうして責任を追及されるわけですが、弁明のチャンスもある。」といいます。だから、さばかれる側の人間は、どのような審判が下されるか想像できます。逆からいえば、これをすれば絶対に天国に行けるということもあり、今のイスラム世界の自爆テロなども正当化されるわけです。
ところがキリスト教の場合は、「最後の審判は、データファイルは必要としません。善行も悪行も関係ない。神(あるいは、イエス・キリスト)がすべてを知っているわけです。弁明も許されないでしょう。だから、どのような判決が下されるかわからない。」といいます。だから、佐藤さんは「極めて恣意的な裁判です」というのです。だから、それに答えて橋爪さんは、「裁く側の思いのままです。しかし本来、キリスト教はすべての人間は原罪を持っていると考えるから、全員有罪の判決以外はありえないんです。」といいます。
おそらく、これらの宗教としての成り立ちを理解できないと、今の世界の状況もわからないのではないかと思いました。
さらに、ムハンマドは「最後で最大の預言者」ですから、彼のあとに、預言者がいないという状態です。つまりは、すべてムハンマドの言うとおりです。それを信じられるから、イスラム教を信仰しているわけで、他に救いはないと思っています。
下に抜き書きしたのは、橋爪さんの解説ですが、その当時のムハンマドのことについて書いています。
良いか悪いか判断はできませんが、ぜひ読んでいただきたいと思います。
(2016.1.30)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
あぶない一神教(小学館新書) | 橋爪大三郎・佐藤 優 | 小学館 | 2015年10月6日 | 9784098252565 |
☆ Extract passages ☆
橋爪 ムハンマドがやったことを振り返ると、彼は、軍事司令官として軍隊を指揮したことがわかります。またムハンマドは、数々の裁判をしました。そうしたムハンマドの言動が「クルアーン」とは別に伝承され、イスラムの規範になった。
ムハンマドは王ではないが、政治家で軍事司令官であり、神から与えられた預言者としての権威を持っている。その権威に従って、裁判も行なった。
(橋爪大三郎・佐藤 優 著 『あぶない一神教』より)
No.1197 『イスラーム圏で働く』
この本は、実際にイスラーム圏で仕事をしたり、かつて仕事をしていた13人が書いています。職種もバラバラで、航空、石油開発、商社、新聞・通信、建設、食品、旅行、自動車販売など、いろいろです。もちろん、イスラーム圏といっても、国も違えば風土も違うわけで、イスラームの教えを忠実に守る人もいれば、ややルーズな人もいるわけで、とてもおもしろく読ませていただきました。
それら13人のものを編集したのが、桜井啓子氏です。副題は、「暮らしとビジネスのヒント」とあり、やはりその圏内で過ごさないとなかなかわからないことばかりのようです。
たとえば、私も昨年の3月にインドネシアのカリマンタンに行きましたが、そこでの結婚式ではいっさいアルコール類は出ませんでした。でも、この本を読むと、「イスラーム圏でも結構、現地製造のお酒があります。トルコやレバノンのラク、ラキとかアラクは、水割りにすると白く濁るアルコール度の高いお酒です。ビールでは、エジプトのステラビール、インドネシアのビンタンビールがあります。モロッコはメクネス産のワインが有名です。これらは地元のムスリムも購入できます。」と書いてあります。
でも、町のお店に行くと、アルコール類は見えないところにあるようで、私たちのような外国人が行くと、別なところからさっと出してくれます。だから、どこでもイスラム教徒が買えるかというと、そうでもないような気がします。
下に抜き書きしたのは、砂漠の炎天下で油田開発現場にいた方の文章ですが、イスラーム圏だからこその生活の知恵みたいなものを感じました。やはり、そのような場所で宗教が根付くには、それなりの理由があるのではないかと思いました。
そして、この断食の理由にしても、別な方の意見では、同じような断食をすることによって共感感情が生まれると話していましたが、そこには人種が違っても、同じ宗教で繋がっているという共感もありそうです。
よくテレビ等で見ると、女性の姿がスカーフなどで覆われていて、なんとも異様に感じますが、それだって、いろいろな理由がありそうです。この本の中でも、トルコ人と結婚した日本女性が書いた文章がありますが、むしろ日本以上に女性が会社などで活躍しているそうです。しかも、その働き易さもあり、たとえば、仕事をしていても、子育てがしっかりできるいいます。たとえば、「どんなに働き者でも、トルコ人にとっては、家族が一番、健康が一番なのです。ですからすごく忙しいプロジェクトの時でも、メンバーの一人が風邪を引くと「すぐ帰って休みなさい」と言ってくれます。周囲も本人もそういう意識です。仕事があっても、子どもが風邪を引いたら、飛んで帰るのが当然と考えています。「子どもが熱を出した」と言うと、「すぐ帰りなさい」とタクシーを手配してくれたりします。遅れた分は後で取り戻せば済むことなのです。日本では、子どもがいる女性は残業ができないなどの理由で敬遠されがちですが、そういった問題はありません。」ということです。
むしろ、テレビなど見るのとは大違いです。
やはり、どんなところでも、ただの旅行者ではわからないことがたくさんあります。そこで生活してみて初めてわかることがあります。
そういう意味では、なかなかなじみのないイスラーム圏のことがこの本でよくわかりました。もし、興味があれば、読んで見てください。
(2016.1.28)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
イスラーム圏で働く(岩波新書) | 桜井啓子 | 岩波書店 | 2015年9月18日 | 9784004315629 |
☆ Extract passages ☆
天気予報の発表では、オマーンの最高気温はいつも摂氏49度でした。50度になると外で働いてはいけないという勧告があったので、最高気温は必ず49度と決まっていたのです。ところが本当は60度ぐらいあるのです。そんな中で暮らすためには、ストイックな暮らしをしなければなりません。高温・乾燥地帯で、快楽を求めたり、お酒におぼれてひっくり返っていたり、喧嘩をしたりしたら、大概死んでしまいます。現地で暮らしていると、イスラームの教えは、そうした厳しい環境の中で生きるために役立っているのだということがわかります。
たとえば「何で断食するのですか」と、オマーン人に聞くと、断食をすることによって、その日食べられない人、飲めない人、そういった人たちの苦しみを分かち合う、つまり共感の精神を養うのだといった答えが返ってきます。
(桜井啓子 編 『イスラーム圏で働く』より)
No.1196 『人生ひとつだってムダにしちゃいけない』
だいぶ以前には、この著者の本、たとえば、狐狸庵シリーズなどは笑いながら読みましたが、最近はほとんど読まなくなっていました。
題名の上に「遠藤周作の箴言集」とあり、内容をパラパラとめくるとたしかに箴言ではありますが、もっと笑顔のこぼれる狐狸庵山のユーモアがほしいなあ、と思いました。
それでも、これらの言葉の端はしに著者らしさが溢れていて、とても懐かしく読ませていただきました。
もともとは、同名の単行本として1998年3月に出版されたものを再編集したものだそうですが、著者は1996年9月に亡くなられていますから、その本も著者の抜き書きを集めたもののようです。
下にも抜き書きしましたが、とても興味深い文章があり、たとえば、「「老い」とは、眼にはすぐには見えぬもの、耳にはすぐに聞えぬもの、言語では表現できぬものに心かたむいていく年齢だという気がする」とあり、まさに今年の申年の「見ざる聞かざる言わざる」に近いものを感じました。
おそらく、自分も老いを自覚せざるをえない年齢だからこそ、このような言葉に興味を持ったのかもしれませんが、ただ、老いもだんだんと近づいてくるという印象があるのも確かです。
また、「不幸がなければ幸福は存在しないし、病気があるからこそ健康もありうるわけだ。だから両者はたがいに依存しあっているといえる。しかも不幸とよぶものにはピン、キリがあり、もっと不幸な人からみるとある程度、不幸な人はまだ「幸福」にみえるものである。末期癌の患者の眼には心臓病の患者は羨ましく見えるかもしれない。すべての価値概念はこのようにして相対的である。」というフレーズにも、なるほどと思いました。
つまりは、ほとんどのことが相対的なもので、考え方次第ということのようです。人によって、同じことでも幸せと感じる方もいれば、それを不幸と思う人だっています。
だとすれば、そのことを幸せだと考えられる人のほうがいいと思います。幸せに生きることができそうです。
下に抜き書きしたのは、そのことに相通じることです。
これも、やはり考え方次第で、プラスになったりマイナスになったりするというわけです。
ぜひ、これらの言葉を味わっていただきたいと思います。
(2016.1.26)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人生ひとつだってムダにしちゃいけない | 遠藤周作 | 海竜社 | 2015年10月10日 | 9784759314472 |
☆ Extract passages ☆
かなり人生を生きたおかげで、私はマイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがあることを充分にまなんだ。たとえば半年のあいだ私は病気がちだったが、この肉体的なマイナスのおかげで自分の人生や他人の苦しみを察することが多少はできるようになった。かえりみると病身でなければ私は傲慢な男でありつづけていたかもしれぬ。私はある面で臆病だが、この臆病さゆえに仕事の準備などに慎重であることもたしかだ。マイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがあるのである。
(遠藤周作 著 『人生ひとつだってムダにしちゃいけない』より)
No.1195 『7つの習慣 最優先事項』
表紙の絵の時計とコンパスがとても印象的で、副題の「生きること、愛すること、学ぶこと、貢献すること」ということにも、興味を持ちました。
日本人が書いたものなら、ここまで直接的に表現はしないような気がするし、出版社のキングベアー出版というのも初めて聞く名前でした。
どうしようかと考えているより、先ずは途中まででも読もうと思いましたが、とうとう最後まで読み切りました。後から知ったのですが、著者たちはフランクリン・コヴィー社の役員たちで、この会社はコンサルティングやトレーニング・サービスを提供しています。この本の訳者もじつは「フランクリン・コヴィー・ジャパン」でした。おそらく、出版社もその系列のようです。
最初に印象的だったのは、「はじめに」の最後に書いてあった、「この本を読めば、時計という暴君から離れて、コンパスを再発見できるだろう。そのコンパスこそが、生きる、愛する、学ぶ、貢献するという人間の四つのニーズを満たす力を与える。そして喜びを持って、その力を発挿できるようになるのだ。」とあり、この時計とコンパスという考え方の大切さが、表紙のイラストにも現れているような気がしました。
たしかに、時間のなかで、最優先事項は何かを考えなければならないのでしょうが、私は植物やそれらを育てることが好きなので、「人生も庭と同じで、自動的にできるものではない。種を二つか三つ蒔いたら、さっさとどこかに出かけていって好き放題をして、戻ってきたら、きれいに手入れされた庭に豆やトウモロコシ、ジャガイモ、ニンジン、エンドウがたっぷりできていて収穫されるのを待っていた、などということはありえない。作物を収穫するためには、土を耕し、種を蒔き、水をやり、雑草を抜いて、日々手をかけなくてはならないのだ。もちろん、放っていても何かはできる。黙っていても植物は育つ。しかし、こまめに庭を手入れするかどうかによって、結果はまるで違ったものになる。美しい庭になるか、雑草だらけで荒れ放題の庭になるか。」と書いてあるところに、とくに納得できました。
やはり、ちゃんとした時間軸があり、そしてその方向性みたいなものがあり、さらに手入れをしなければならない、というのは当然なことです。
ところが、その当然なことを忘れて、収穫だけを気にする人がなんと多いことか、と感じます。当たり前のことを当たり前にすることなく、特別な収穫を期待するわけですから、虫が良すぎます。
この本を読んで思ったのは、つまりはみんなが考えていることを、しっかりと筋道立てて書いていることで、その整理の仕方がとてもわかりやすい、と思いました。
もし、「生きる、愛する、学ぶ、貢献する」という人間の4つのニーズを満たしたいと思ったら、そして、それをどのように実現していけばいいか迷ったら、この本を読んでみるのもいいと思います。
下に抜き書きしたのは、著者たちが言う「刃を研ぐ」という言葉についての説明です。
そういえば、私の知っている木を切る方も、必ず仕事をする前にチェンソーの刃を研いでいました。しかも、ゆっくりと、1日の仕事の段取りを考えているかのように、しっかりと研いでいました。
今、考えると、その仕事がとても大事だったと思います。
(2016.1.25)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
7つの習慣 最優先事項 | スティーブン・R・コヴィー、A・ロジャー・メリル、レベッカ・R・メリル 著 | キングベアー出版 | 2015年8月31日 | 9784863940406 |
☆ Extract passages ☆
「刃を研ぐ」という言葉は、私たち人間の四つの基本的な側面(肉体、社会・情緒、知性、精神)を磨く活動に時間と労力をかけることの例えである。私たちは、「木を切ること」(結果を出すこと)に忙しすぎて、「刃を研ぐこと」(生産能力を維持する、将来のために生産能力を高める)を忘れてしまっていることが少なくない。運動をしていないかもしれないし(肉体的側面)、大切な人間関係をないがしろにしているかもしれない(社会・情緒的側面)。自分の専門分野の最新情報を確かめていないかもしれないし(知的側面)、自分にとって何が重要なのか、自分の人生の意義は何か、曖昧なままかもしれない(精神的側面)。これら四つの側面の能力を磨いていかなければ、人生はすぐに「鈍って」しまい、バランスを欠いてすり減ってしまう。はかの役割に悪影響を及ぼして、人生の質が落ちてしまうのである。
(スティーブン・R・コヴィー、A・ロジャー・メリル、レベッカ・R・メリル 著 『7つの習慣 最優先事項』より)
No.1194 『誤解だらけの遺伝子組み換え作物』
もともと遺伝子組み換え作物を食べたいとは思っていなかったし、そもそも遺伝子組み換え作物食物とはどのようなものかもあまり詳しくは知らなかったので、ちょうどいい機会だから読んで見ようと思いました。
やはり、知っていて反対するのと、ただなんとなく反対するのとでは、まったく違います。しかも、食べ物ですから、直接健康にも影響します。それを知らないでは困るとも思いました。
この本を書いているのは、編者の小島氏は毎日新聞社の記者で、その他に読売新聞や朝日新聞の記者たち、さらには大学教授や実際に農業に従事している人たち、そして海外の人たちなど31名が名を連ねています。
そのほとんどが遺伝子組み換え作物の生産に賛成する立場の方々です。つまり、なぜ遺伝子組み換え作物が作れないのかに疑問を投げかけています。
この本を読んでビックリしたのは、実は、もうすでにだいぶ入ってきているという事実でした。この本によると、「私たちの多くはGM作物を原料にした食用油、GM作物のえさを食べて育った牛や豚などの食肉など、GM由来の食品を毎日、気にせずに口にしている。もちろん、いまの日本の表示制度では、原料や家畜のえさにGM作物が使われていても、それを表示しなくてもよいという背景もあるだろうが、裏を返せば「GM断固反対」という人たちは、そんなに多くないということを物語っている。」と書いていますが、そうではなくて、知らないだけのことだと思います。
さらに、その実際の数値を上げていますが、「財務省の貿易統計上、日本はトウモロコシを100%輸入していることになっているが、北海道産の焼きトウモロコシを思い浮かべ、国産トウモロコシもあると反論されそうだ。だが、実は、四捨五入すると国産はゼロ。そのうち78%が遺伝子組み換え品種と推定され、2013年は遺伝子組み換えトウモロコシを1120万トン輸入した。ちなみに、遺伝子組み換えダイズを253万トン、遺伝子組み換えナタネを227万トン、遺伝子組み換えツタを10万トン、合計で日本は約1610万トンもの遺伝子組み換え作物を輸入している。」そうです。
つまり、「よくわからない危なそうな食べ物」という危惧を払拭することもなく、原料や家畜のえさにGM作物が使われていてもそれを表示しなくてもよいということで、いわばなし崩し的に日本国内に入って来ているのです。
私は、この遺伝子組み換え作物の生産に賛成する立場の方々の意見を読んだ後でさえ、やはり大きな危惧を抱きました。
それは、神秘的でもある遺伝子に直接人間の手が入ることに対しての怖さです。
良いとか悪いとかという前の段階の話しで、そもそもそのようなことをしていいのかという問題です。
だからといって、昔からの品種改良まで否定するわけではなく、自分でも日本自生のシャクナゲのような葉に外国の華やかな花を咲かせたいと思い、交配をしているぐらいです。たしかに、この本によると、それはまどろっかしいかもしれませんがロマンがあります。
ところが、現在の遺伝子組み換え作物は、さらに進んでいるようです。
下に抜き書きしたのは、これら遺伝子組み換え作物の新しい育種技術で、NBT(New Plant Breeding Techniques)についての話しです。まさに知らないではすますことのできない分野ではないかと思いました。
(2016.1.23)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
誤解だらけの遺伝子組み換え作物 | 小島正美 編 | エネルギーフォーラム | 2015年9月5日 | 9784885554551 |
☆ Extract passages ☆
従来の遺伝子組み換え作物が、もともとその作物が持ち得ない外来遺伝子を導入操作することで新しい形質を持つ作物をつくり出していたのに対して、NBTは遺伝子を形成するDNAの塩基ひとつだけを変えるなどして、自然界で起こる変異に近い方法で新しい作物を開発することができるメリットをもつ。従来の育種に近く、遺伝子を組み換えた痕跡がはっきりしないため、いまの表示規制を適用するのが難しい可能性も出てくる。
簡単に言えば、NBTは効率良く、確実に新しい品種をつくることができるメリットがあり、近未来の農業の変革に一役買うことは間違いない。
(小島正美 編 『誤解だらけの遺伝子組み換え作物』より)
No.1193 『佐高信の男たちのうた』
聞いたこともない出版社だな、というのが第一印象で、題名もちょっと気になりました。副題は『自選「人間讃歌」』で、『男のうた』や『人生のうた』、『喜怒哀楽のうた』からセレクトしたと書いてありました。つまりは、その中からの自選集ということです。
著者は1945年に山形県で生まれ、高校教師から経済誌編集長を経て評論家になったそうです。
でも、マスコミなどで取りあげられるときには、ちょっと硬派で、ずばっと切り込むという印象があります。でも、この本は男の寂しさというかペイソスが感じられます。最後の書評にある吉水みち子さんの「佐高信のうた」に、「血刀を振りしめ仁王立ちして権力に異議を唱える時の攻撃性は影をひそめ、自らの琴線に共鳴してくる男たちのうたに、じつと耳を傾けているかのような穏やかな風情がある。ここに登場する男たちは、みんなしたたかに強く、潔く、成功もし、有形無形のものを世の中に残している。しかし、それと同じくらいに、弱さを持ち、板挟みに悩み、失敗も重ね、失ったものの痛みを抱えている。ひとひねりも、ふたひねりも屈折している。」ということに、納得しました。
そう、この本は、男たちがつくった短歌や俳句、詩、さらには歌謡曲などを通して、男ってなんだ、というような話しです。もちろん、なかには俵万智や与謝野晶子などの短歌も出てきますが、それはあくまでも男を語るためのもののようです。
久しぶりに、このようなタイプの本を読んだという印象があります。
たとえば、男の不良性とは何かということについて、山口洋子は「総合的にいうと男の不良性というのは、たぶんに少年の心であるような気がする。少年の照れ、強がり、凛々しさ、そのま反対の寂しがりやの心情を充分に持ちあわせで、正直にストレートに表現できる男。つまり不良性というのは極言すると男の純情性をねじまげられていないまっすぐな心である。女が(男も)不良性をとこかで尊敬してしまうのは、そうした根底があるせいだ。」といいましたが、この本からもそれらが垣間見えるようです。
やはり、男は不器用なのかもしれません。男は、純情なのかもしれません。
それらをすべて飲み込んで生きざるを得ないのが男です。
下に抜き書きしたのは、電力の鬼といわれた松永安左衛門が野村證券社長の奥村綱雄に話したという言葉です。
これは経営者として大成するために通らなければならない3つの段階だそうですが、今ではこのようなことはないでしょう。でも、その心意気だけは必要だと思い、ここに取りあげました。
つまりは、順風満帆だけでは、人の上には立てないということなんでしょう。
(2016.1.20)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
佐高信の男たちのうた | 佐高 信 | 七つ森書館 | 2015年10月8日 | 9784822815431 |
☆ Extract passages ☆
松永の言う三つの段階の一つは、長い浪人生括である。浪人をすると、否応なく謙虚になる。酒の飲み方も、何となくうらさびしくなってくるが、そうした中にあってもプライドを保てたら一人前である。
二つ目は、長い闘病生活。死の影も射す病気との闘いは、自分ひとりでやるしかないので、骨身に徹して孤独感を味わう。これをくぐりぬけてはじめて一人前となる。
三つ目は、長い投獄生活。チヤホヤしてくれた人たちも、監獄へは寄りつかない。ここで徹底して世の中というものを知ることになる。
(佐高 信 著 『佐高信の男たちのうた』より)
No.1192 『1日1万歩はやめなさい!』
副題は「15年以上、5000人を越す調査でわかったスゴイ健康法」とあり、今まで、歩けば歩くほど体力や筋力がつくと思っていたので、読み始めました。
たしかに、この本を読むと、歩くことはとてもいいことですが、歩きすぎても歩かなくてもダメなようです。それが多くの調査でわかったことで、それが「8000歩・20分」で、年配の方なら「5000歩・7分半」ということです。
でも、歩くときに気をつけなければならないことは、猫背にならず胸を張ることだそうで、「猫背になってしまうと、人は自然と重心調整をしようとし、腰を引きます。そうせずに腰まで前のめりになると、つんのめってしまうからです。猫背から腰が引けることで、歩く際にひざが曲がったままになる。これこそが、老化の第一歩なのです。さらに進めば、最後はひざに手を当てないと歩けなくなり、当然ながら
速足で歩くこともできなくなります。逆に、胸をはって歩幅を広げることを意識すると、歩く際の動きがダイナミックになっていきます。自然と腕も振るし、背筋も伸びることになるのです。腕を振ると全身運動になりますし、体のバランスがとりやすく、歩数も伸びやすくなります。」と書いています。
たしかに、お年寄りを見てると、猫背で歩いていることが多いようです。もちろん、知らず知らずのうちにそうなっているのでしょうが、そうならないように気をつけながら歩かなければと思いました。
また、朝の運動は気をつけなければならないそうです。
というのは、身体のスイッチが副交感神経から交感神経に変わり、心拍数や血圧が急に上がるのだそうです。だから、どうしても朝しか運動するときがない場合には、「まず水を飲んで、血液をどろどろ状態からサラサラ状態にして」から行い、しかも「最初はゆっくりと歩きはじめ、体温が上がり交感神経が安定してから速歩きに移る」といいそうです。つまり、まず身体を温め、心臓の機能を安定させてからということです。
だから、もし散歩するなら、一番いいときは夕方です。しかも、夕方から夜にかけて体温が上がるので、比較的寝付きがよくなるそうです。
やはり、ただ歩けばいいというものではなく、歩くにもさまざまなやり方がありますから、もし興味があれば、ぜひこの本を読んで見てください。
下に抜き書きしたのは、8000歩・20分で万病を予防する健康法についてのまとめで、そのポイントを書き出しています。
この1冊の本のすべてがこのまとめですので、ここに掲載するのにちょっとためらいました。でも、「8000歩・20分」というものを多くの人たちに知って欲しいとも思いました。
(2016.1.18)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
1日1万歩はやめなさい!(健康人新書) | 青蜊K利 | 廣済堂出版 | 2015年9月1日 | 9784331519554 |
☆ Extract passages ☆
・1日トータルの活動量で、平均8000歩・20分あればよい
・続けての活動でなくてもよく、秒単位の活動で積算できる
・不足する日や週、月があっても問題なく、1年トータルで帳尻が合えばよい
・筋トレやストレッチは、やってもやらなくてもよい
・運動(活動)貯金があれば、数日や数週間のお休みがあっても体力は一気に落ちない
(青蜊K利 著 『1日1万歩はやめなさい!』より)
No.1191 『仕事と人生で成功するために本当に必要なこと』
この本の題名は、おそらく『伝説の外資トップが説く 仕事と人生で成功するために本当に必要なこと』でしょうが、それではあまりにも長く感じます。さらに表紙には、「人生の後半戦を勝ち抜くために40代から始める40の意識改革」や「40歳からの選択であなたの人生は激変する」などの文字が躍っています。
ということは、おそらく40代をターゲットにしている自己啓発本のようです。では、もう60代も半ばを過ぎていれば読んでも仕方ないかもしれない、と思いながらも読み始めました。
でも、ところどころになるほどというフレーズがあり、ついつい最後まで読んでしまいました。
というのは、同じような考え方のところもあり、たとえば、「これはあくまで私の考えだが、最も重要なのは運である。二番目は情熱、三番目がマインド(人間力)、四番目がスキル(仕事力)だ。おわかりかもしれないが、最後の掛け算で方程式としての数字は最大化する。逆にもし、これがゼロだったとすればどうなるか。結果は、ゼロになってしまう。つまり、どんなに仕事の能力に卓越していて、どんなに人間的に立派で人から信頼、尊敬される人でも、情熱と運がなければ、成功の可能性はゼロということだ。」と書いていますが、さらにある程度の年齢になってくると、それに健康も加わるのではないかと思います。
著者は外資系の会社に長くいたこともあり、日本と西欧のものの考え方の違いにも随所で触れています。たとえば、「日本には「転石、苔を生ぜず」という言葉がある。英語では「A rolling stone gathers no moss」だが、実は正反対の意味である。日本では、転々と転石を繰り返すと苔が生えない、ということで、大した実績は作れない、という意味に使われる。転石は望ましくない、好ましくない、というネガティブな意味である。これがアメリカでは、転石をすると苔が生えないでピカピカでいられる、という逆の意味で使われるのだ。だから、時々転石をしなさい、と。そこには、見事なまでの文化の差がある。」といいます。たしかに、その意味はまったく正反対です。さらに、「卒業式のことを英語で、グラデュエーション・セレモニーと言う。しかし、もう一つ英語に卒業式を意味する言葉がある。「commencement」である。コメンスメントとは、始まる、という意味だ。日本では、卒業は終わり、というイメージが強いが、実は欧米では「始まり」をイメージすることが多い」そうです。
ということは、これもある意味、反対の意味にとらえられているということです。この本のおもしろさは、このような日本と西欧の意識の違いみたいなものが読み取れることでもあります。
そして、なぜ40代向けなのかということに関しては、「おわりに」のところで、「本書は、人生とビジネスにおいて、最前線を走り続けた一人の先輩として、年齢的、キャリア的に曲がり角を過ぎた人、近いうちに過ぎようとしている人たちに語りかけたかった一冊である」と断っています。
でも、60代も半ばを過ぎたとしても、読んで見て、とてもおもしろかっです。
下に抜き書きしたのは、会社内にいても、人生においても、必ず優先順位があるということです。つまり、できることもあれば、できないこともあるということです。それを明確にはっきりさせておかないと、できることであってもできなくなるということになってしまいます。
ぜひ、かみしめて読んでいただきたいと思います。
(2016.1.16)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
仕事と人生で成功するために本当に必要なこと | 新 将命 | ダイヤモンド社 | 2015年10月1日 | 9784478065013 |
☆ Extract passages ☆
選択と集中という言葉があるが、これを突き詰めると、優先順位ということになる。優先順位とは、平たく言えば「あちら立てればこちら立たず」ということだ。先にも「すべてを追えばすべてを失う」と述べた。ヒト、モノ、カネ、時間、情報等の経営資源はすべて有限である。有限の資源を使い、最適の結果を出そうと思ったら、重要度、緊急度の点から優先順位をつけなければならない。
また、選択と集中をする前の段階に、大切なキーワードが潜んでいる。それが、「捨象」だ。捨てることである。何かをやろうと思ったら、何かを捨てないといけない。そうしなければいっぱいいっぱいになるのだ。これが、選択と集中の本当の意味なのである。
(新 将命 著 『仕事と人生で成功するために本当に必要なこと』より)
No.1190 『卑弥呼のサラダ 水戸黄門のラーメン』
この本などを見て、やはり本の題名は、とても大事なものだと感じます。おそらく、この題名を見て、卑弥呼がサラダをほんとうに食べたのだろうか、水戸黄門がラーメンなど食べるのだろうか、と思います。じゃあ、読んで見るかとなるはずです。
実際に読んで見ると、食は文化なりといいますから、食を中心にした歴史があってもいいわけで、副題は『「食から読みとく日本史』です。
考えてみれば、人は三度三度食事をするわけで、時間から考えても、食事にはだいぶ時間がかかっています。しかも、食べなくては生きていけないので、とても重要なことでもあります。だとすれば、この「食」を考えれば、そのときの時代とか生活とか、あるいはその人の考え方などもわかるような気がします。
たとえば、この本で知ったのですが、西郷隆盛は鰻の蒲焼きが大好物で、犬も好きなので、その犬にも自分が食べているのと同じ鰻飯を食べさせたといいます。忙しいこともあったでしょうが、ほとんど趣味らしきものはなく、犬だけはいくら高価でも幾匹でも求めたといいますから、上野の西郷どんの銅像はそれをあらわしているようです。
また、質素な食生活を続けた上杉鷹山公は、だからこそ長生きできたそうで、それ以外にも本草学にも興味があり、晩年には医学館「好生堂」も作っています。そして、此の世を去ったのは72歳ですから、その当時では長生きでした。でも、倹約につとめた鷹山公でしたが、唯一やめなかったのはタバコだそうで、しかも手作りの「小柳」が好きだったそうです。
今では、タバコは百害あって一利なし、と言われていますが、その当時のタバコは嗜好品でしょうが、どのようにとらえられていたのかはわかりません。しかし、どう考えても、鷹山公がタバコを吸っている姿というのは、あまりにもちぐはぐな感じがします。
ちぐはぐといえば、卑弥呼とサラダも同じで、サラダというから違和感があるので、そのままずばり「生野菜」といえば、なんとなくわかります。つまり、野菜をそのまま食べるだけの話しですから、その当時は手でそのままというのも理解できます。だって、『魏志倭人伝』には「飲食には高坏をもちい、手で食べる」とあるそうですから、そうでしょう。
このように、「食」を考えると、なんとなくその当時の姿が浮かび上がってくるような気がします。
下に抜き書きしたのは、徳川家康がいかに病にたいして精通していたかを感じさせる部分です。
やはり、病になるよりならないように予防することが肝心だということなのでしょう。この本を読んで、歴史に名を残す人たちの「食」に対する考え方の違いがとても興味を引きました。
(2016.1.14)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
卑弥呼のサラダ 水戸黄門のラーメン(ポプラ新書) | 加来耕三 | ポプラ社 | 2015年9月1日 | 9784591146613 |
☆ Extract passages ☆
当時の医学レベルはいまだ稚拙で、誤診や思い込みによる手遅れは、日常茶飯事。それだけに、徳川家の総大将としては、己れの身は自身で守らざるを得なかったのである。
わけても、家康の卓越していた点は、病にかかれば本復不能の場合の多いことを見定め、今風にいえば予防や保健医学を重視し、病そのものにかからぬ環境づくりを、懸命に模索・実践していたところにあった。
たとえば、流行りつつあった梅毒の予防として、家康は本能的に遊女を生涯、寄せつけず、愛妾には未亡人の多かったことがあげられている。それも子を産んだことのある健康な女性を好んだ。運動が体によいとの認識から、レクリエーション=鷹狩りを自身に課していた形跡も強い。
(加来耕三 著 『卑弥呼のサラダ 水戸黄門のラーメン』より)
No.1189 『人を育てよ』
副題は「日本を救う、唯一の処方箋」です。著者は、伊藤忠商事の社長をはじめ、前中華人民共和国駐箚特命全権大使などをつとめたこともある方です。この駐箚とは外交官や軍人などが職務のために外国に滞在することだそうで、日本の外務省は、大使や公使は「駐箚」、領事は「駐在」と使い分けているのだそうです。
つまり、著者は民間出身の中国大使ということで、初めてのことだそうです。現在は伊藤忠商事名誉理事をされているそうで、心の教育に力を注いでいて、その大切さをこの本でも大きく取りあげています。
では、この心の教育は可能かという問いに、著者は「それは、常に謙虚に、「自分がまだ何も知っていないことを知る」という「無知の心」を持ち、気がつくと堕落してしまう「人間の浅ましさ」を心に刻み、「死ぬまで努力し続けよう」と心に期することです。そうして、常に自分の心を教育し続けることで、自分や会社の成長、国家の成長も初めて可能となります。」と答えています。
つまり、慢心してしまったり、傲慢になったりしたら、そこで人は堕落してしまうといいます。だから、絶え間のない努力が必要で、それが心の教育が必要な根拠のようです。
とくに著者は2010年6月から2012年12月まで中国大使を務めていたことで、中国のことについての話しは、ほんとうに説得力があります。また、中国人の考え方などについても、なるほどと思います。尖閣諸島の問題にしても、中国人のメンツを重んじることを無視すれば、うまくいくこともいかなくなると思いました。それらは、日本国内にいれば、ほとんど伝わってこないことです。
たとえば、私が初めて中国に行ったときにビックリしたトイレについても、中国は外寇や内乱を繰り返してきた国ですから、「後ろを向いていたら、用を足しているうちに襲撃されるかもしれません。怖いから扉を背にすることなどできないのです。また、外が見えないと危険ですから扉さえないことも少なくありません。」というのは、たしかにそうかもしれないと思いました。
それでも、現在は都市周辺においては、だんだんと扉がついていて、安心して入れるトイレが増えてきたと思います。昨年の5月に中国四川省に行ったときも、そう思いました。
ところで、下に抜き書きしたのは、読書についての考え方で、さすが「本屋の息子」だと思いました。
そして、その読書から、どれだけワクワク・ドキドキできるか、つまり「感動や感激を味わえるか」というのが人生だと思うようになったといいます。
そう、読書にはワクワク・ドキドキを味わえる楽しみがたくさんあります。ぜひ、今年も読書をたくさん楽しんでみてください。
(2016.1.12)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
人を育てよ(朝日新書) | 丹羽宇一郎 | 朝日新聞出版 | 2015年9月30日 | 9784022736321 |
☆ Extract passages ☆
「読書というのは、時間と空間を超えた著者との対話」だと、私は思います。本を通して、はるか昔を生きた、世界中の人と会話ができます。……
「あの時代はこんなことで悩んでいたのか」とか、「今も昔も人間なんて根本は変わらないな」などと思ったりするわけです。私たちは現実に、200年前を生きたロシア人やドイツ人と会話をすることができません。でも本を通してなら、それができる。世界が広がるとは、そういうことです。
(丹羽宇一郎 著 『人を育てよ』より)
No.1188 『修験道史入門』
今年3冊目は、ちょっと重いテーマですが、避けては通れない修験道史の本です。「はしがき」のところで、この本は「修験道」の本ではなく、「修験道史」の本ですと明快に記しています。つまり、「修験道の研究史を踏まえつつ、中世から近世までを対象として、修験道の形成・展開を概説すること」を目指した本だと断っています。
もちろん、だからこそ、この本を読んでみたいと思いました。正月にふさわしいかどうかではなく、たまたま目に付いたからで、しかも発行部数1,000部というのが特に気になりました。そして、山形新聞の広告にも載ったので、それも興味を引きました。
目次を見ると、第1部が「修験道史研究の基礎」で、これまでの修験道に関する研究などが総括的に述べられています。そして第2部では、修験道の成立と各地の実態、特に本山派と当山派、そして羽黒派、彦山派について詳しく述べていて、最後に「里修験の活動と組織」となっています。
特に最後の「必読文献案内20選」と「本文引用参考文献」は、こんなにも修験道関連の本や資料があったのかと、ビックリするほどでした。
ここに掲げられた本や資料などは、これから少しずつ集めておきたいと思いました。
さて、流れとしてはこのようなものでしたが、特に興味があったのは「当山派」のことと「里修験」のことです。もちろん、当山派のことを考えるには本山派のことも対比させながら見ていかなければならないので、つまりはすべてに目を通すことが大切だと思います。それが修験道史としての大切なところだとこの本でも何度も繰り返し説かれていました。
そもそも修験道は、宇野圓空によると「修験道の宗体は元来が寺院中心ではなく、僧侶のむしろ個人的な行法であり、在家の行者が重要な成素でもあるから、近年この道が著しく復興されて来たのも、これらの寺院やその檀徒を中心とするよりも、有志の信徒の自発的な結成運動によったのが多い」と『修験道』に書いてあるといいますが、昔はその通りだったのではないかと想像します。
でも、1872年9月15日の修験道廃止の令によって、中身はどうあれ、本山派や羽黒派は天台宗に、当山派は真言宗に帰入させられたことで、修験者がいなくなるのではないかと危惧されたようです。しかし、それは表面的なもので、今でも修験者といわれる行者はいます。
それで思い出すのですが、山形県内にいた修験者が、職業別の電話帳に載せるのに、寺院か神社かと担当者に聞かれ、どちらでもなく山伏だと答えたそうです。でも担当者はそのような職業の区分はないというので、なければ作ればよいではないか、と話したそうです。
おそらく、世間一般の認識はそのようなものではないかと思います。
ですから、もっともっと修験道について知っていただくことや、その学問的な研究の推進が大切だと思います。
下に抜き書きしたのは、2000年の役行者千三百年御遠忌の際のさまざまな記念事業のあとの記録編纂委員会の編集後記に書かれている文章です。
おそらく、このような内容が一般の人にとっての修験道の理解ではないかと思います。
(2016.1.10)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
修験道史入門 | 時枝 務・長谷川賢二・林 淳 編 | 岩田書店 | 2015年9月 | 9784872949308 |
☆ Extract passages ☆
修験道はご開祖の役行者以来、大自然を道場に、自然の中で祈り、自然との共生を通して、千三百年の法灯を守り伝えています。物質至上主義の現代社会にあって、今こそ、自然との共生、人間力の高揚という実践修行による教えなど、人間存在そのものへの問いかけをおこなう、修験道の担うべき役割は注目されるところであります。
(時枝 務・長谷川賢二・林 淳 編 『修験道史入門』より)
No.1187 『笑って生きればすべてうまくいく』
お正月なので、ちょっと気軽に読めるものとしてこの本を選びました。この本は、だいぶ前に買っておいたもので、その積んでおいたところから選び出しました。
この本の題名の『笑って生きればすべてうまくいく』は、いかにもお正月にふさわしいもので、なるべくなら今年1年ズーッと笑って生きられればと思います。
たしかに生きていれば、嫌なことも辛いこともあるでしょうが、だからといって、嫌なことを嫌なままにしておいても困るだけです。そんなときには、この本では、肩が痛くて腕が上がらないときには、「いやあ、30肩かなあ」と言ってみれば、みんながどっと笑うかもしれません。つまり、辛いとか情けないと思うよりは、笑い飛ばしてしまえば、少しは楽になるかも知れません。まさに発想の転換が大切です。
私が経験したことがあるのは、ネパールに行ったときに天気が悪くテントから一歩も出られなかったのですが、そこに熱いコーヒーを持ってきてもらったり、ゆっくり本を読んで過ごしていたら、その夕方に今まで見たこともない神々しい山並みと夕日を見ることができました。まさに感動の瞬間でした。
旅というのは不思議なもので、あんまり良すぎても印象には残らないようです。むしろ、大変な目に遭ったときのほうが、強い印象として心に残っています。そして、長い年月のあとに、それらはかけがえのない思い出になっているのです。
たとえば笑いに絞って考えてみると、笑いたいけど笑えないのは、この本によると、1つは「心に余裕がないから笑えない」、2つ目は「だれかとけんかしているときは笑えない」、3つ目は「落ち込んでいるときは笑えない」、4つ目は「家族に病人がいるときは笑えない」、5つ目は「肩書きの偉い人は笑えない」、6つ目は「プライドが強すぎる人は笑えない」、7つ目は「石頭な人は笑えない」、8つ目は「人生に対して後ろ向きな人は笑えない」、9つ目は「コンプレックスのある人は笑えない」、10には「自分を大切にしない人は笑えない」、11には「好奇心が貧弱な人は笑えない」、12には「趣味のない人は笑えない」、13には「人を大切にしない人は笑えない」、と続きます。
たしかに笑えるということは、それなりのことやものがあるのでしょうが、これらを見てみても、ほとんどが心の持ちようです。
だとすれば、笑ってこの人生を過ごせるようにする、これぐらいいいことはありません。
下に抜き書きしたのは、「ささやかな喜び」についてです。ぜひ、味わっていただきたい文章です。
(2016.1.7)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
笑って生きればすべてうまくいく(ぶんか社文庫) | 齋藤茂太 | ぶんか社 | 2009年1月20日 | 9784821152193 |
☆ Extract passages ☆
今日はよく眠れた、気持ちのいい朝だ‥‥‥メシがうまい、お酒もおいしい‥‥‥お茶に茶柱が立っている、なんとなくいい気分‥‥‥今日はお化粧のノリがいい、若返ったみたい……と、そんな平凡な、日々の「ささやかな喜び」のひとつひとつを大切にしてゆくこと。これだけでも人は、十分に幸せな気持ちでいられる。
というよりも、こういう「ささやかな喜び」を大切にできない人は、いくら出世しようがお金を貯めようが幸福にはなれないのではないか、とも思える。
(齋藤茂太 著 『笑って生きればすべてうまくいく』より)
No.1186 『消えていく熱帯雨林の野生動物』
毎年頭を悩ますのが、今年はどのような本を最初に読もうかということで、意外と選定が難しいのです。
やはり、最初が肝心なので、何気なく選ぶのもちょっとつまらないし、だからといって、お正月からとんでもない難しい本も読みたくないし、ということで、今年はこの『消えていく熱帯雨林の野生動物』にしました。理由は、たいしたことではないのですが、昨年の3月に訪ねたカリマンタンのあるボルネオ島の話しですし、そのときに見たオランウータンやマレーグマのことも気になっていたからです。
副題は「絶滅危惧動物の知られざる生態と保全への道」で、興味のある熱帯雨林にも関係ありそうでした。そして、読み始めると、とても興味深い内容で、しっかりしたフィールドワークをしていることがうかがえます。
「おわりに」のところで、自分自身がこの本の目的や章立ての説明をしていますが、「本書は、私自身がフィールド経験を通して学んだ絶滅危倶動物保全のアプローチの仕方やフィールドの魅力を、一般の方々、とくに高校生や大学生に伝えることを目的として執筆させていただいた。第1章では絶滅危惧動物に関する基本事項について、第2章では生息地保全において鍵となる商業林管理の重要性について、第3章では野生ウシ、バンテンの保全を目的とした生態と遺伝両分野からのアプローチについて、第4章ではボルネオ島以外の絶滅危倶動物の状況について、そして最終章の第5章では、生息域外保全と生息域内保全の連携の重要性について紹介した。」と書いています。
この本を読んで、フィールドワークの楽しさは十分伝わってきますが、それと同時に、その大変さもほんとうによく変わります。熱帯雨林というと、まさにジャングルを思い浮かべる人が多いと思いますが、雨のときの道は車も通れないし、靴もすぐにドロドロになってしまいます。私は長靴をスーツケースに入れて持っていったこともあります。もう、帰りたくなることもしばしばです。
でも、翌日に晴れたりすると、そんな大変なことはすっかり忘れて、また熱帯雨林に入っていきます。好きだから、といわれればその通りですが、それ以上にそのなかに何があるかわからないからこそ、興味が尽きないのです。
とくに興味を持ったのが、今年は申年でもあるし、人間に近いといわれるオランウータンです。私が見たのは東カリマンタン州バリックパパン市から約35キロの場所にあるオランウータンの保護・リハビリ施設「サンボジャ・レスタリ」ですが、ここにはオランウータンが水を嫌うので、島のようにしてそのなかで生活していました。
ところが、あまり高い樹はないので、不思議に思っていましたが、下に抜き書きしたようなことがあると知り、なっとくしました。
やはり、研究をする場合には、あまり先入観がないほうがいいと、改めて思いました。
今までも、旅行に行くときには、ほとんど調べないで行くのですが、これからもそのようにして、旅先で出合う新鮮さを味わって、今年もいろいろなところに行きたいと思っています。
それでは、今年も、いい年であることを念じて、『本のたび 2016』が動き出します。
(2016.1.4)
書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
消えていく熱帯雨林の野生動物(DOJIN SENSHO) | 松林尚志 | 化学同人 | 2015年8月10日 | 9784759816679 |
☆ Extract passages ☆
オランウータンの地上利用は決して特別な行動ではない。おそらくこれまで、研究者が直接観察にこだわるために、警戒して木から下りてこなかっただけかもしれない。なぜなら、樹上性と地上性の動物を対象とする研究者たちは、動物の調べ方に違いがあったのである。
樹上性、とくに霊長類を調べる研究者は、直接観察が「比較的」容易なため、対象動物を直接観ることにこだわる。一方、地上性の動物を調べる研究者は、直接観察が難しいため、カメラトラップを利用することが多い。私は、塩場を訪問する動物の行動に影響を与えないよう、カメラトラップによる調査を行っていた。そのため、オランウータンは、本来の姿をカメラの前で見せたのだと考えている。
最近、このことを支持するように、ケモノ道に仕掛けたカメラトラップでオランウータンがよく撮影されること、われわれが想像していた以上に地上を利用していることが報告されている。「地上のオランウータン」という事実から、先入観をもたずに対象を観ることの大切さを改めて実感した。
(松林尚志 著 『消えていく熱帯雨林の野生動物』より)
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