
★本のたび 2012★
若いころから読書カードを作っていましたが、近年、読書離れが続いているということを聞き、こんなにも楽しいことからなぜ離れてしまうのかと思い、この掲載をはじめました。
でも、自分が読んだ本について語るということは、自分の本棚を他人に見せるようなものですし、もう少し踏み込んで言うと、自分の心のうちをさらけ出すようなものです。それは、とても恥ずかしいかぎりです。
でも、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさ、本と遊ぶおもしろさをなんとか伝えたいと思うようになりました。
2014年9月30日に1,000冊を超えましたが、これからも本とたびを続けて行きますので、ときどきはのぞいてみてください。
ここが、本のワンダーランドになれば、本望です。
No.782 『科学の限界』
今年もあと1日で終わり、新しい年を迎えます。ところが、まだ昨年3月11日に起きた福島第一原発事故の収束のめども立たず、あの事故をどのように収束させるのか、あるいはもしかするとさせられないのかなどと考えていたら、この本を見つけました。
今年最後の1冊が限界とはちょっとイヤな感じですが、これが現実なのだから仕方ありません。むしろ、なんでもできると思う方がおかしいのかもしれません。
実際、昨年から今年にかけての地震や原発関連の科学者といわれる方の言動を聞いていると、いささか奥歯に物の挟まったような言い方をしているようです。それをこの本には、ちょっと長いが引用すると、「福島原発の事故の後、放射線防護の科学者たちも曖昧な態度に終始した姿が思い出される。かれらは、人々によけいな不安を与えてはいけないという(政府やマスコミの)要請に従って、安全・安心を強調することばかりに終始していた。それは当面の騒動を回避しているように見えるが、かえって不信感を植えつけることになった。真実を国民に開示していないという意味で科学を尊重する姿勢を持っていないのが明らかになったからだ。考えられる状況を正直に表明することによって科学は信頼されるのであって、科学以外の要素を考慮の対象に含めるのは科学への冒涜なのである。それは科学者への不信に通じ、結果的に科学が大きな制限を受ける事態もあり得ると覚悟しなければならない。」と正直に書いてあり、なるほどと思いました。
しかも、リスク評価に関しても、リスクがあることは証明できても、ないこと、つまり安全であることは証明できないといいます。だから、想定外という言葉があるわけです。つまり、想定していなければ、その範囲内だけは安全だということで、絶対に安全ではないのです。建前上、安全だというだけの話しです。
つまり、今までの科学は、下に抜き書きしたような要素還元主義のなかでは成功したように見えますが、それはあくまでも想定内のことで、現実世界のことではないようです。
下の文章を読み、科学にも多くの限界を抱えていると思った方がいいようです。ただ、科学と技術は違いますから、混同して考えないことです。そこにも、食い違いの生まれる余地がありそうです。
では、良いお年をお迎えください。
(2012.12.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 科学の限界(ちくま新書) | 池内 了 | 筑摩書店 | 2012年11月10日 | 9784480066909 |
☆ Extract passages ☆
要素還元主義が成功したのは、すべての過程を線形に帰着させることによって問題を簡明化し、その範囲で威力を発揮できたためである。別の言い方をすれば、線形として扱える範囲の問題に限り、非線形の問題は「複雑系」として後回し(当面は取り扱わない)としてきたのだ。科学は成功した顔だけ見せて、成功しない部分は頬かむりしたとも言えよう。しかし、現実に私たちが当面する問題の多くは非線形が重要な役割を果たしている。とはいえ、それはなかなか解けないから、脇においておくしかない。ここにおいて、万能ではない科学をどう考えるのかが問われることになった。
特に、3.11の大震災と原発の事故は、典型的な非線形現象であり、科学者は巨大地震や大津波を予測することも、原発を安全に制御することもできなかった。そんな科学の無力さを知って、科学への信頼度が落ちたというアンケート結果がある。それは、これらも要素還元主義で解けるとの誤解が背景にあったためだろう。科学によって解けない問題はゴマンとあるということが知られていないのだ。
(池内 了 著 『科学の限界』より)
No.781 『わが友の旅立ちの日に』
ここしばらく仏教関係かインドつながりの本ばかり読んでいたので、まったく方向性の違うものも読んでみたくなりました。それで手に取ったのがこの『わが友の旅立ちの日に』です。しかも、出たばかりの本でした。
著者はいわずと知れた画家ですが、随筆なども多く、絵と同じようにあっさりと読めます。それがなんとも心地よい感じです。
この本は「ZEROより愛をこめて」という題名で「暮しの手帖」に連載したものをまとめたもので、それが本になり、さらに文庫本になり、今回さらにこの題名の本になったようです。だから、ちょっと古くさいようなものもありますが、それでも、今もとても示唆に富んでいるものもあります。たとえば、「学校や書物が、避妊や病気感染の方法をおしえているのは、消火器の正しい使い方であって、そうした準備の上で、安心して火事を起こせといっているわけではないのですから、甘えてはいけません。」なんかは、なるほどと思います。そのたとえがとてもいいと思いました。
ほんとうにそうだと思います。時代は変わっても、基本は意外とそんなには変わっていないようです。だから、この本も存在価値があると思います。挿入されている絵もそうですが、文章もさらっとしていて、とてもわかりやすいです。傍若無人の説明でも、『「傍若無人」という四字熟語がありますが、これは、そばに若い人がいない、という意味のようにおもえますが、そうではなく、「傍らに(そばに)人がいないが若し」という意味です。そういう行いはまわりに人がいないと考えるもののふるまいとして、品のないこととされていたのです。携帯電話で、大声で話している状態は、本人にとっては相手がいても、外から見ると「傍若無人」の行いとみえるのです。』とあり、なるほどと思います。
最近では、携帯電話だけでなく、人前で平気で化粧をする人もいるそうですが、化ける過程を他人に見せてしまったら、手品にもなりません。まさに、傍若無人なんでしょう。
つい最近出版された本ですから、すぐ本屋さんでも手に入るはずです。
(2012.12.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| わが友の旅立ちの日に | 安野光雅 | 山川出版社 | 2012年10月15日 | 9784634150232 |
☆ Extract passages ☆
あの昆虫記をかいたファーブルには、『植物記(薪の話)』という本もあって、その中にオランダイチゴの話が載っています。・・・・・・
苗木屋でイチゴの苗を買ってきて植えておくと、おいしい実をつけたあと、匍匐枝ともランナーともいう、地をはう枝が、三、四本ばかり出てきます。枝は太陽の光をもとめて伸びます。この枝の先に子ができるのですが、枝はストローになっていて、このパイプを通して、親は子のために栄養を送ります。そして子が、しつかりと地面に根をおろしたのがわかってから、パイプは枯れるのです。
子は親の目のとどくところにいますが、枯れたパイプを通して、子が親に栄養をおくることは、できません。
自然はいつもわたしたちの手本だとおもってきましたから、わたしはこのイチゴの話にいたく感動しました。
(安野光雅 著 『わが友の旅立ちの日に』より)
No.780 『仏の教え ビーイング・ピース』
この本は、東京出張の折、持って行った本を読んでしまい、泊まったホテルに近かった紀伊國屋書店から買ったものです。だから、読み終わるまで、けっこうな時間がかかりました。というのは、読みにくいということではなく、ただ読むだけではわからないところがあり、だいぶ考えながら読まざるを得なかったからです。でも、時間はかかったのですが、今日読み終えてホッとしました。
この本は翻訳ですが、翻訳することの善し悪しもあります。訳者の「あとがき」で、「実は私も道元の英訳をしたことがあるので、痛感しているのだが、或る思想が、いちど外国語という異種の文化形態に移し変えられると、まったく予期しない、新鮮な領域が開ける。一語一語の翻訳や用法については、いくらでも異議をとなえることができる。どのような語も、原語と正確に同じものではないからだ。翻訳によって失われるものは多い。その反面、異種の文化圏において、新しい思索、新しい価値、新しいインスピレーションの世界が開けるのだ。」と書いていますが、まさにその通りで、翻訳することによってより理解が深まるということもあります。
たとえば、大黒さまのホームページの英語版をつくっているとき、たとえば「無我」という言葉ですが、これを翻訳すると「nothing has an ego」といいます。我というのは、エゴの我なんです。また、「無常」というのは、「impermanence」といいますが、辞書には「一時的」という意味が載っています。すなわち、この無常という言葉は、すべて永遠に存続するものはないという意味です。しかし、私たちは、心のどこかで今の状態がいつまでも続くのではないかと考えています。でも、この世の中はすべてが一時的だと教えてくれるのが無常という言葉なんです。
だから、日本語をいったん英語にしてみただけで、これだけ考えることができるわけですから、ときには原文と翻訳文とを比較してみるのもいいことだと思います。
この題名のビーイングというのは、著者によれば、「多が一の内にあり、一が多を含んでいるということは、すでに述べました。一枚の紙のなかに、私たちは、雲、森、樵といった、紙以外のあらゆるものを見ます。私があることによって、あなたがあります。あなたがあることによって、私があります。これがinterbeing(相互生存)という語の意味です。私たちは、相互に生存しているのです。」とあり、つまり、ビーイングは生存のためにすべきことです。よく、著者の説く仏教は「行動する仏教」といわれますが、それは毎日の生活に深く仏教が関わるからのようです。日本ではどちらかというと、先祖供養が先に立つようですが、今を真剣に生きようとするこの姿勢は、あの凄惨なベトナム戦争のさなかに生まれたことにも起因するようで、この本でも紹介されていますが、14の戒律の設定などもきわだった独自性があります。
もし、機会があればぜひ読んでいただきたい1冊です。
(2012.12.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 仏の教え ビーイング・ピース(中公文庫) | テック・ナット・ハン 著、棚橋一晃 訳 | 中央公論新社 | 1999年11月18日 | 9784122035249 |
☆ Extract passages ☆
お医者さんに注射をしてもらえば、腕ばかりでなく、あなたの体ぜんたいが、その利益をうけます。一日に一時間の瞑想をすれば、その一時間が、ただの一時間でなく、二十四時間のすべてになるべきです。
一つの微笑、一つの呼吸が、ただその瞬間だけでなく、その日の全体に、良い影響を与えるべきです。
瞑想の実践と非実践の間の障壁を取り除くようなやり方で、実践すべきです。
瞑想室で歩くとき、私たちは注意深く、歩を運びます。しかし、空港へゆくとき、別人となります。心を集中せず、違った歩き方をします。
空港やマーケットで、どのようにして実践したらいいのでしょうか。
それが行動する仏教です。
行動する仏教は、社会的政治的問題を解決するために仏教を役立てたり、爆弾に抗議したり、社会における不正義に抗議することだけではありません。
まず第一に、仏教を私たちの日常生活のなかにもたらさなければなりません。
(テック・ナット・ハン 著、棚橋一晃 訳 『仏の教え ビーイング・ピース』より)
No.779 『インド人の頭ん中』
この『インド人の頭ん中』は、インドへ行く前にたまたま本屋さんで見つけたものです。「誰も知らなかった」という但し書きと、インドのニューデリーに住んでいたという著者紹介を見て読もうと思ったわけです。
読んでみて、男にはわからないインド人のことがよくわかりました。たとえば、美人の条件として、色白とポチャタイプは知っていたのですが、具体的に「手首のくるぶしみたいな骨。インド人の美的センス的には、あれが露骨に出ていてはいけないのだそうだ」ということや、鎖骨なども出ない程度に太っていること、というのは知りませんでした。またバツイチのアピールの仕方も『特に女性の場合、「バツイチ」コーナーでは、「中古度」がアピールされていることが多い。実際のところ、インド人の男が一番気になるポイントは、そこなのだろう。インド人は正直だ。「たった一カ月で離婚」とか、「結婚期間は短い」と書かれているものは、「新品同様」ということだろう。「前夫とは一日もstayしていません」というものも見かける。これまた、正直なアピールをありがとう!という感じで、暗に「未使用」をアピールする、いわば「新古品」といったところである。』というところなどは、その具体的なアピールがいかにもインド的だと思いました。
そういえば、インドへ行っていたとき、たまたま開いた新聞に、結婚できない男が大勢いるという記事でした。つまり、男性優位の社会だから、なるべく男の子が欲しいということと、女の人にはたくさんの持参金を持たせて結婚させるので経済的に大変だということもあるそうです。
この本にも、「女児の間引き問題」がコラムとして載っていましたが、それも大きな理由となっていると思います。このコラムには、「娘が3人いれば家が滅びる」といわれていることも書かれています。
この本は、まさに住んでみなければわからないような、さらには女の人でなければわからないようなインド世界のドキュメントがたくさん載っています。もし、インドに興味があれば、ぜひお読みください。
(2012.12.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| インド人の頭ん中(中経文庫) | 冬野 花 | 中経出版 | 2009年3月6日 | 9784806132998 |
☆ Extract passages ☆
「貧しい国では、結局、立場が強い側(このときは経済的な意味で)が、涙を飲むことになる」ということ。そして「タダほど高いものはない」というように、「無いほど強いものはない」ということだ。
相手に償う力がこれっぽっちも、一ミクロンも見当たらないのだから、どうしようもないのである。相手が無力であることが明白であるわけで、そんなとき「持たざる者」は、最強なのだ。お金だけでなく、教育のなさ、知識のなさ、能力のなさ、やる気のなさ(カースト制度は、下層の人間のやる気を奪う)、分別のなさ、モラルのなさ(貧しすぎると「モラルより金」になる)などなど。あらゆる「格差」の開きがピンからキリまであるような国に住んだことのある者なら知っている、どうにもならなさ。どれだけ「持って」いようと、「無」には太刀打ち不可能なのだ。
(冬野 花 著 『インド人の頭ん中』より)
No.778 『ブッダ最後の旅――大パリニッパーナ経』
この本は、インドでの旅先で片時も離さず持ち歩きました。もちろん、なんども読みましたが、その場所に立つ度に、その場所の記述を復唱するかのように読んでいました。
実は、今回インドへ出かけるきっかけになったのは、11月8日に東京出張の折りに三井記念美術館で観た「近江路の神と仏 名宝展」のなかに「紺紙金字妙法蓮華経法華経 開結経筒共」があり、そのなかの「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」がいわゆる観音経の表紙見返りの部分に、お釈迦さまが霊鷲山で説法をしている絵が描かれていたかです。今年は置賜33観音霊場の特別ご開帳の年ということもあり、その巻物の絵を見ていたら、不思議とその霊鷲山に行きたくなり、矢も楯もたまらずインド行きのビザを申請してもったのです。
しかも、この「ブッダ最後の旅」もここ霊鷲山から出発しましたし、この本の後半部分に出てくるところは、何度かにわけてすでにまわっていました。この辺りのナーランダやパトナ、さらにはヴァイシャーリーをまわれば、その行程がほぼつながるようになります。
だから、この本を持って、まわりたかったのです。
しかも、だいぶ前に求めた文庫本はとても読みにくかったので、今回はワイド版にしました。大きくて携帯性はよくないのですが、訳注のところも活字は大きいので、動くところでも読むことができました。これは正解でした。
出かける前に読んだ瀬戸内寂聴『釈迦』の帯に書かれていた「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」というそもそもの原典を下に抜き書きしました。
ここに出てくる「楽しい」というサンスクリット語やパーリ語では「ramaniya」で、もともとの意味は「愛すべき」ということだそうです。法顕訳では「甚可愛楽」と訳されているそうです。ということは、お釈迦さまは、80歳になっても瑞々しい感性をもっていたのではないかと想像しました。しかも、この同じ言葉を3回も繰り返しアーナンダに語っておられます。
今、この本にはお釈迦さまが悟りを開かれたブッタガヤの菩提樹の葉が1枚、しおりのように挟まれています。これはそこの警備の人にもったものです。以前にここを訪ねたときには4月だったので、人も少なく葉も落ちやすい時期だったので、たくさん拾いました。
でも、今回はこの1枚だけです。このままこの本に挟めておこうと思っています。
(2012.12.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ブッダ最後の旅――大パリニッパーナ経(岩波文庫) | 中村 元 訳 | 岩波書店 | 2001年10月16日 | 9784000071949 |
☆ Extract passages ☆
アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカの霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
(中村 元 訳 『ブッダ最後の旅――大パリニッパーナ経』より)
No.777 『仏教の源流 ――インド』
この本もインドでの旅先で読んでいるのですが、今回は朝が早いこともあり、夕方は早くホテルに戻り、食事もたった20分で終わるので、つい、本を読んでしまいます。昨日は霊鷲山に登るために、早朝5時の暗いときに出発し、山頂の香堂で朝日を迎えました。月明かりのなかを歩くのは、見知らぬ土地ゆえ心配です。でも、警官が3人もついてくれ、下山するまでいっしょに歩いてくれたので安心でした。
お釈迦さまが説法をしたという香堂でお経を唱え、少し瞑想をしました。ここの同じ場所にお釈迦さまもいらっしゃったことがある、と想っただけで、身が震えるほどの感動でした。
さらに翌々日には、お釈迦さまが苦行をされた前正覚山に登り、そこからスジャータ村に行き、さらに悟りを開かれたブッタガヤまで行くと、なぜか、また身震いするほどの感動を味わいました。2,500年前も前のことですが、その時間さえ突き抜けてしまいました。そのような体験をしながら読んだのが、この本です。
この第1章の1のところで、宗教と哲学の違いが述べられていますが、「哲学というのは自由な思索に基づいて用捨なく徹底的に考えることです。それに反して宗教というものには、何らかの聖典というものがあって、それが最高の権威とされ、聖典のいっていることはすべて正しく、それに従わねばならないというような面があります」とあり、仏教では経典がそれに当たると書いてあります。
だが、お釈迦さまがそのような教典をつくられたわけではなく、今回まわった七葉窟やヴァイシャーリー、そしてクムラハールなどで結集がおこなわれ、それで教典がつくられたようです。
しかも、インドは伝統的に哲学とか宗教とかの区別はなく、むしろ仏教の教えは哲学的ととらえられているようです。しかも、仏教の教えは、誰もが仏になれるというものですから、著者は無神論であると言い切っています。
この本を読むと、たしかにそのように考えることはできます。
おそらく、西洋人の仏教理解もそれに近いものがあるようです。
特に今の時期は、仏跡巡拝の仏教徒が多いといいます。ちょうどパトナのホテルが取れないと日本でいわれましたが、その理由がわからず、そのままインドに来たのですが、現地のガイドに聞くと、ダライラマ法王がいらっしゃっているのでどこのホテルも満員なんだそうです。なるほど、それで理解できます。
それで仕方なくパトナに泊まるのをあきらめて、ヴァイシャーリーに泊まったのですが、とてもいいところでした。
下に、仏伝の八相成道からみた生涯を抜き書きしましたが、そのほとんどをまわってみて、あらためてお釈迦さまの80年の生涯が身近に感じられるようになりました。とうとう、この旅の途中で、この本も読み終えました。
(2012.12.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 仏教の源流 ――インド(中公文庫) | 長尾雅人 | 中央公論新社 | 2001年7月25日 | 9784122038677 |
☆ Extract passages ☆
あるテキストによれば、一番目が「下天」。これはお話をしませんでしたが、釈尊はこの世に生れてくる前には、兜率天(トゥシタ天)という天上界に居られまして、人間として生れるには何処の国のいかなる種族に生れるべきかを観察し、インドの釈迦族に生れるのがよいというように決定されます。そこで、白象の姿になって兜率天から下りて来る、それが下天です。二番目は「托胎」。これは摩耶夫人が右の白象がおなかへ入るのを夢で見て懐妊したことです。これから後は、すべてお話ししたことですが、三番目が「降誕」、四番目が「出家踰城」、五番目が「降魔」、六番目が「成道」、七番目が「転法輪」、特に「初転法輪」、八番目が「入涅槃」です。インドの彫刻にも、一つの石に八つの場面を並べて彫刻したものがいろいろ発見されて居りまして、それによって人々に仏陀の一生涯を教えたのでしょう。ただし、八つの場面は今申した人相とは内容が異っていますが、次に申す四つの場面はどちらにも共通に見られます。
その四つとは、人相の中でも第三、第六、第七、第八の四つの事件を、特に重要なものと仏教徒は考えるようになりました。そして、それら四つの事件の起った土地を、特に記念すべき聖地とし、仏教徒の巡礼すべき土地と考えるようになりました。すなわち第三の「降誕」はルンビニ(現在、インドから少しネパール領へ入った所のルンミンディ)において起りました。第六の「成道」はブッダガヤー(現在のボドガヤ)、第七の「初転法輪」はムリガダーヴァ、鹿野苑(現在のサールナート)、第八の「入涅槃」はクシナガラ(現在のカシア)における事件です。従つてこれら.四つり聖地には、ストゥパなどの記念物が造られ、お寺なども建てられて、巡礼の対象となりました。
(長尾雅人 著 『仏教の源流 ――インド』より)
No.776 『ある日、カルカッタ』
今、旅先で読んでいるのですが、この題名の『ある日、カルカッタ』に惹かれて持ってきたのです。その旅とは、やはりインド、しかも2,500年も前にお釈迦さまの歩かれたところです。
この本にも書かれているガンガー、ガンジス川はかなり汚れていて、ミルクティのような色をしていました。その川で「洗濯をし、食器を洗い、体を洗い、歯を磨き、ゴミを捨てて……」いました。聖なる川・母なる川というわりには、かなりきたない感じです。この本でも「そりゃあ、汚いですよ。そんなことは見ればわかるね。でも、カンガーは聖なる川です。お母さんです。私たちのすべてを愛され、許してくれるね」と平気で答えるのです。そういえば、今回のガイドさんも、たまたま歯痛でしたが、薬局で薬を買いながら、本当はガンガーの水を飲めばすぐに治るのにといっていました。
ここで著者は、
ガンジスは動名詞の川ぞ歯を磨く体を洗う洗濯をする
と詠みます。
この単行本の「あとがき」に、「旅は、旅先よりも、旅のしかたによるところが大きい――ささやかながら、地球のあちこちを旅してきて、そう思う」と書いています。
私が初めてインドに入ったのは、今から20数年前、それから植物つながりで4回ほど来ていますが、今回のように仏跡を訪ねるだけの旅は初めてです。これも年齢のせいなのかなと想いながら、著者の30歳代の旅を読みました。
(2012.12.8)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ある日、カルカッタ(新潮文庫) | 俵 万智 | 新潮社 | 2003年3月1日 | 9784101413211 |
☆ Extract passages ☆
喫茶店の二階などから、スクランブル交差点を眺めていると、みんな実に上手に流れていくのがわかる。そして歩調や方向だけでなく、ファッションや顔つきも、均一だ。同じ顔をして、同じように、流れてゆく。
カルカッタでは、むしろ自分を主張するような歩きかたでないと、うまく歩けない。まして、道路を横断するとなれば、流れに逆らうくらいの強い意志を持たなくては、いつまでたっても、向こう岸へたどりつくことはできないだろう。
歩いている人たちは、みなそれぞれの顔を持ち(貧富の差が激しいので、ファッションはもちろん、腰にタオル一枚の人からキンキラの成り金スタイルまで、激しく違う)、そして、みなそれぞれの方向を向き、たくましく一歩一歩を進めている。
それぞれの向こう岸を見つめる鋭い目、自分の力で渡りきるエネルギー。それはとりもなおさず、カルカッタに生きる一人一人が、自分なりの人生を生きぬく力なのだ、と思った。
(俵 万智 著 『ある日、カルカッタ』より)
No.775 『釈迦』
12月5日から、インドのお釈迦さまの歩いた道を自分も歩く旅に出ます。これはだいぶ前か考えていたことで、すでに何回かに分けて、仏教4大聖地やその他のところへも足を伸ばしました。
ところが、中村 元「大パリニッバーナ経 (岩波文庫)」に出てくる旅立ちの場所は霊鷲山で、そこにはまだ行ったことがありません。さらにナーランダやヴァイシャリーなども行く機会がありませんでした。そこで今回の旅は、その辺りを中心にまわる予定を立て、それに関する本も読みました。その1冊がこの本です。
この本のうたい文句が「釈迦82歳、涅槃に至る最後の旅。80歳の寂聴が書く、入魂の大作」とあり、前々から読もうと思いながら読めなかった1冊でもあります。そこで、今回は思い切って読みました。
もちろん小説ですから、著者の物語でしょうが、登場人物はすべてお釈迦さまのまわりにいる人たちで、さらに「釈迦」登場人物表やお釈迦さまが辿った道の別刷りの紙が挟まっていました。これは意外と便利で、ときどきは参照しながら読みすすめました。
語りの中心はお釈迦さまに25年ほども付き従ってきたアーナンダ(阿難尊者)で、ご自分の体験からか、尼僧のことが多く取り上げれているように思いました。このような思いは、男性にはなかなか理解しにくいこともあり、とても興味深く読みました。たとえば、アーナンダが一人「これほど誠実な清廉純情な男に、こんな苦悩を負わせたのが、一人の女の邪恋の妄執からだと思い至ると、尼僧を許したため仏法は五百年早く滅びると言われた世尊の言葉が、はじめて私の心を怯えさせた。自分の生涯で唯一、善行というものを残したのは、尼僧を生れさせたことかと心ひそかに思っていたことさえ、打ち砕かれてしまった。」と、つぶやいたことはなるほどと思いました。
そういえば、アーナンダは多聞第一といわれ、記憶力がいいといわれていたそうですが、この本では、「こうした私の記憶力は生れつきの特性ではないと思う。必要にせまられて、無心になって聴聞するうち、自然に集中力というものが身についてしまったのだろう。侍者という役目は、自分の時間がない。読経も坐禅も、他の弟子たちのように時間が与えられない。私の修行は、ひたすら、世尊の法話を聴聞する方法しかないのであった。」と語り、その誠実でやさしい人柄を表しているかのようです。
また、出会いに関しても、サーリプッタ長老の「生きることは出逢いだ」という法話を取り上げ、その出逢いの縁の不思議さを描いています。これも、今回の旅立つ前の心境には強く響きました。そして、よくお釈迦さまは最後の旅でどこを目指そうとしていたのかという疑問について書いている本がいくつかありますが、この本では、下に抜き書きしたような解釈をしています。
私が祇園精舎に偶然にも立つことができたときには、ここは雨安居で一番滞在されたところだから、もしかするとここかな、とも思いましたが、ただ伝道遊行の旅を最後まで続けたと考えたほうがいいと思いました。
今回の旅では、「大パリニッバーナ経」のワイド版岩波文庫が出たので、このほうが読みやすそうだったので、これと長尾雅人「仏教の源流 ――インド」中公文庫、などを持っていくことにしました。
(2012.12.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 釈迦 | 瀬戸内寂聴 | 新潮社 | 2002年11月15日 | 9784103112181 |
☆ Extract passages ☆
最後の旅の目的地を目指すのではなく、死出の旅が、どこで尽きるかを運命に任せられたと考えられよう。この世での旅は最後まで、世尊にとっては伝道遊行の旅でなくてはならなかった。三十五歳の悟りの日から、世尊の旅は、すべて迷い悩む人々に法を教え、煩悩の火を消す方法を教えさとし、生きる励ましを与える旅でなければならなかった。世尊ほど己れの幸福を捨てきり、衆生の幸せと喜びのために生き抜かれたお方はいないのだ。
世尊は命尽き果てる場所と時を、この旅にゆだねきっていられたのだ。
(瀬戸内寂聴 著 『釈迦』より)
No.774 『救荒雑草』
今の時代に救荒植物の知識など必要あるのだろうか、と思いましたが、たとえば昨年のような東日本大震災があれば、現実問題として必要になるかもしれないと考えました。副題は「飢えを救った雑草たち」とありますが、過去にはこのような植物が本当に飢えを救ったという歴史もあります。
ここ米沢にも、享和2(1802)年に上杉治憲公の『かて物書』などがあり、何度も飢饉におそわれながらも餓死者が少なかったのはこれら救荒植物の知識があったからだと言われています。でも、だからといって、今の時代にそのまま使えるわけでもなく、おそらくは下に引用したような効用が考えられるのではないかと思います。
では、ここで取り上げられた救荒雑草はというと、「本書では救荒植物のうちヤマブドウなどの木本のつる性植物などの一部を含むが、草本種のみ264種を取りあげた。新葉・芽・茎を食べるものが最も多く230種あり、花部を食べるものも含まれている。また、根や鱗茎などを食べるオモダカ、カタクリ、ヤマノイモなど57種、種子や果実を食べるものとしてはイチゴ類、ヒシなど45種あった。このうち今日では野菜として流通しているササゲ、インゲンマメなど10種、雑穀として流通しているアズキやヒエなど6種や山菜としてよく知られているワラビ、ゼンマイなど11種も含まれている。新芽、葉、茎は主として春3月下〜5月下旬にわたって食べられるが、夏になっても菓の硬化しないイヌビエ、スベリヒユ、アカザなどはいつでも食べることができる。花は開花期に果肉および子実は夏または秋の成熟期に、根茎塊茎の類はおおむね秋から早春に食べることができる。」として、主にこれらを取り上げ、1つずつその特徴と食用法などを取り上げ、薬効のあるものなどはその成分も掲載しています。
その数、本のナンバーを数えてみると全部で263種あり、その代表的なものは口絵の部分にカラー写真で紹介しています。
やはり、副題の「飢えを救った雑草たち」という意味合いからか、本の最後のところに「飢饉年譜」が掲載されていて、昔はいかに飢饉が多かったかが一目瞭然にわかります。
そういえば、数年前に小野蘭山没後200年の記念誌編集委員会が発行した『小野蘭山』にも、「救荒本草記聞」の記載があり、やはり昔は切実な問題だったことがよくわかります。これらを1つずつ読み、昔の人たちはこれらをどのような思いで食べたのかを考えると、今の飽食の時代を少しは反省しないとご先祖さまに申し訳ないと感じました。
ぜひ、植物の好きな方や山菜採りを趣味にする方たちには読んでもらいたいと思います。
(2012.12.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 救荒雑草 | 佐合隆一 | 全国農村教育協会 | 2012年9月19日 | 9784881371510 |
☆ Extract passages ☆
現代社会においても、都心を少し離れた山郷には春夏秋冬の山の幸を堪能できる植物が少なからず見出すことができ、山菜採りを楽しみとする羨まれるライフスタイルも存在する。また都会においては、飽食の時代、グルメの時代と称され、これまでと異なった風味や食感をもつ新規の食物が珍重される時代であり、特産品を主とした山菜料理が振舞われる地方も多くある。本書の中でとりあげた植物種の中には、それぞれの地域に特徴をもつものを取りあげて、今後地域特産品として考えられるものも多数ある。
(佐合隆一 著 『救荒雑草』より)
No.773 『音楽の名言名句事典』
最近、新しい曲がなかなか出ず、昔の曲をカバーするのが多くなっているようです。それを聞くと、妙に懐かしくなり、もともとのアーティストがその時代に吹き込んだ曲で聞きたくなります。そんなことを繰り返していると、若いときにはあまり関心のなかったクラシックなどにも興味がわき、さらにずーっと聞いていなかった軽音楽なども聞くようになりました。
そのようなことから、つい手に取ったのがこの本です。
これは作曲家や演奏家だけではなく、芸術や思想に関わる人たちの音楽に関する言葉なども集められており、さらに演奏家が作曲家を語ったり、演奏家が演奏家のことを語ったりと、いろいろと興味のある言葉もたくさんありました。
たとえば、アルゼンチン生まれのピアニスト、ダニエル・バレンボイムは「日本の聴衆の音楽に対するアプローチは、私たちがヨーロッパやアメリカで馴染んでいるものとは非常に異なるということである。音楽が娯楽の一つであるという感覚はいささかもない」と書いていますが、これなどは日本で実際に演奏したことがなければわからないものです。そういわれれば、確かに音楽、とくにクラシックはちょっと高尚な趣味ととらえられているようで、娯楽とは考えていないかもしれません。
また、おもしろいのは、指揮者であったリヒャルト・シュトラウスは「指揮をして汗を流してはいけない。熱くなるのは、聴衆だけでなければならない」と若い指揮者のアルバムに記したといいますが、まさに至言です。自分が熱くなりすぎたら、聴衆を熱くはできなくなるでしょう。
この本を読んで、ますます音楽の奥深さを知りました。最後に、音楽の名言名句年表があり、西洋音楽と日本の音楽、さらには周辺文化や出来事を対比させて載せてあり、時代というものが一目瞭然にわかります。
歌は世につれ世は歌につれといいますが、これは歌謡曲だけでなく、ほとんどの音楽にも当てはまるような気がします。
実際に、今、昔にはやった音楽を聞いていると、その時代の情景が頭に浮かんでくるようです。
下に抜き書きしたのは、この本の「はじめに」のところの最初に書いてある文章です。たしかに、今のインターネット全盛の時代には、とくに発言者の想いやその背景などから、勝手に一人歩きしてしまいます。だからこそ、この本のように出典を明らかにし、その言葉が生まれた時代背景にも光を当てることが大切だと思いました。
このような本は、最初から読み進める必要もなく、そのときそのときで自由にページを繰ることができます。読むと、今度はその作曲者や演奏家の音楽を聞きたくなると思います。ぜひ、ご一読ください。
(2012.12.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 音楽の名言名句事典 | 朝川 博/水島昭男 編著 | 東京堂出版 | 2012年8月10日 | 9784490108200 |
☆ Extract passages ☆
古今東西の音楽の森。そこには音楽にまつわるさまざまな名言名句が潜んでいます。ビリッとした提言や気の利いた一言が、私たちの知的好奇心を刺激します。そして時には、それらが音楽の歴史の証言者になります。しかし、名言名句というものはやっかいなもので、ともすれば、発言者の想いや、その背景などから離れ、独り歩きしてしまいます。また、その意味が正反対に解釈されていることすらあるのです。
(朝川 博/水島昭男 編著 『音楽の名言名句事典』より)
No.772 『植物地理の自然史』
最近、この本を出版された北海道大学出版会のものを何冊か手に入れました。そのうちの1冊は、もともと朝日新聞社から出ていた「ブータンの花」で、その共著のお一人である中尾佐助氏の著作集の第3巻「探検博物学」も、北海道大学出版会でした。
いずれもあまりメジャーな本ではありませんが、興味のある人にとってはまさにお宝です。こういう本を出版されるのは、なかなか大変な時代ですが、ぜひガンバってほしいと思います。
さて、この本ですが、興味のあるところはゆっくり読み、あまり興味のないところはさっと読みましたが、植物の自生地の様子など、とてもわかりやすく、資料も豊富でした。たとえば、今年の3月にオーストラリアのダーウィンでバオバブを見てきたのですが、朝川氏の記述では「バオバブ属 Adansonia(アオイ科 Malvaceae)は少なくとも8種が知られる小さな属で,オーストラリア北部に1種,アフリカ大陸東部に1種,そしてマダガスカルにはアフリカ大陸と共通種を含め7〜8種が分布する。マダガスカルが多様性の中心であることから,しばしばバオバブ属の起源地と考えられることがあり,オーストラリアのギッボサバオバブ A.gibbosa が長距離散布によってもたらされたと考えられてきた(Armstrong,1983)。またその分布域がゴンドワナ大陸の領域であることから,バオバブ属の分布の起源をゴンドワナ大陸の分断に求める意見もある。」とあり、もしかすると、私が見てきたバオバブがバオバブの起源の樹かもしれないと思いました。
たしかに、オーストラリアの先住民アボリジニは、その樹の下に集まり、いかにも聖なる樹のような雰囲気がありました。また大きな樹で、それなりの風格もありました。
バオバフというと、どうしても「星の王子様」に出てくる樹のイメージがありますが、その種類も8種程度しかないと知り、その植物の移動に大きなロマンがあると感じました。それが、また、植物の地理のおもしろさかもしれません。
また、裏表紙のカラー写真は、バオバブとフトモモ科の植物と、オーストラリアで見たバンクシアの3枚の写真が載っていました。おそらく、このバンクシアは Banksia integrifolia と書いてありますから、カカドウ国立公園で見たものに違いありません。
下に抜き書きしたのは、ちょっと意外だった沿海州の植物たちについてのものです。その礼なども上げられていて、なるほどと思いました。
もし機会があれば、そこにキバナシャクナゲがあるといいますから、ぜひ訪ねてみたいと思いました。
(2012.11.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 植物地理の自然史 | 植田邦彦 編著 | 北海道大学出版会 | 2012年10月10日 | 9784832982055 |
☆ Extract passages ☆
初めて沿海州を訪れたときには,現地の植生にほとんどといっていいほど予備知識がなかった。外国だから日本の植物図鑑を持っていってもしょうがないだろうと思いながら,平凡社の『フィールド版日本の野生植物草本』をスーツケースに入れた。
ところがこれが大正解。現地で見る植物の多くはこの図鑑に載っている。それも,よく似た近縁種というわけではなく,まったく同じ種であることが多かった。考えてみれば日本海を隔てて隣国。あたりまえといえばあたりまえだ。
日本では稀にしか見られない種が,ごく普通にはえていたりすることも驚きだったが,もっとびっくりしたのは,北海道との共通種もさることながら,日本では九州や中国地方など,本州中部以西にしか見られない植物にいくつも出会ったことである。
キスミレ Viola orentalis(山梨県以西),シオン Aster tataricus(中国地方以西),ヒゴシオン Aster maackii (九州地方特産),ヤツシロソウ Campanula glomerata(九州地方特産),ハナカズラ Aconitum ciliare(九州地方特産),ツチグリ Potentilla discolor(愛知県以西),ヤマジノギク Aster hispidus(静岡県以西)などがその例である。(長谷川光泰)
(植田邦彦 編著 『植物地理の自然史』より)
No.771 『時の冒険』
お祭りが終わって、少し気分的にゆったりしたところで読み始めました。先ずはその本の装丁に惹かれ、次に内容に引きつけれました。
装丁はさすが書籍のデザインも手がけ、さらにさまざまなグラフィックデザインをしている著者ならではのものです。本の小口は、右から見るとモナリザが見え、左から見るとアンクル・サムが見えます。おそらく、私の記憶では、初めての意匠ではないかと思います。もちろん、ただ知らなかっただけのことかも知れません。
また文字だけでなく、随所にイラストや資料などもちりばめられ、副題の「デザインの想像力」をかき立てるような構成になっています。
このような本は、少し時間的なゆとりがなければ、ただ読んだというだけのことで、そこからさまざまな想像力がわき出すというところまではいかないと思います。たとえば、ベートーベンのイラストが楽譜からできているものは、意外というかピッタリというか、何分かは見つめ続けました。そうすると、目を閉じると、ベートーベンのピアノソナタ「月光」の曲が聞こえ、あのベートーベンの特徴ある肖像が浮かび上がってきます。これが楽譜を少しゆがませ、赤色と青色を部分的に使うことで描くのですから、おもしろいものです。このような絵葉書があれば、いつも机の上に飾り、ベートーベンの曲を流したくなります。
また、最近はデジタル本が話題に上りますが、紙の本の質感には独特のものがあります。あの液晶画面の点々では見続けるのもイヤになりますが、紙の本だったら、何時間でも読めそうな気がします。あのページを繰る紙のすれる音だって、気持ちのいいものです。
著者も「紙の本は、どんな本でも人の手でつくられてきた感覚を感じることができます。ページを繰る指、紙の触感、匂い、本の重さ、オビをとりカバーを剥ぎ、またカバーを巻く、本棚に立てかける、など本を愛撫することに快感を覚えてきました。こうした身体感覚によって脳は活性化されてきたはずです。」といいます。
私もどちらかを選べといわれたら、絶対に紙の本を選びます。
この本は著者の関心のあるさまざまなことを時代をさかのぼったりして書いていて、それがとてもおもしろい視点から見ています。まさにそれが時の冒険かもしれません。
もし、興味がありましたら、ぜひお読みください。
(2012.11.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 時の冒険 | 松田行正 | 朝日新聞出版 | 2012年9月30日 | 9784022509963 |
☆ Extract passages ☆
日本語は英語とは違って右脳で処理する視覚言語、つまり文字を書いて理解する。英語は聴いて理解する、左脳中心の聴覚言語。したがって折り合うところがありません。
たとえば、日本人の名前など、音だけではイメージが湧きませんが、漢字を聞いて一気に了解できることは多い。落語の「じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょの……」も漢字かな交じり文に置き換えると理解の端緒につけます。秋の虫の鳴き声も、聴覚でしか理解しない外国人にとってほ単なるノイズですが、日本人にとっては、情緒ある音です。音に秋の情景がオーバーラップするからなのでしょう。
また、「怪しい」「妖しい」のように同じ「あやしい」でも異なった漢字表現がいくつもあるようなことは、ここでは日本語が持つ「質感」と呼んでみたいと思います。この「質感」こそ日本人の文化的特性を培ってきたといえないでしょうか。
(松田行正 著 『時の冒険』より)
No.770 『日本人の数え方がわかる小事典』
11月19日は1年で一番忙しいお祭りの日なので、いつどこから読んでもよい本を手元に置いています。それが、今年はこの本でした。
この本は数え方がわかるということで、数や度量衡だけでなく、乗物、衣服や装具、食物、日用品・道具、文化・法律、動物・自然・地理、家具・建造物、武器・軍隊・戦争、宗教・歴史にいたるまで、いろいろのことが載っています。つまり、どこから読んでもいいわけで、細切れの時間しかないときには、とても重宝する本でした。それでも、2分しか読めないときもありましたが、4〜5日で読み終えました。ものによっては、サーッと目を通したところもあります。
これを読んで、日本にはいろいろな数え方があると、改めて思いました。この本の紹介にも書いてありましたが、『ものを数える単位は、単なる「ものさし」ではなく、それを使う人々の国民性や歴史を表わす「鏡」なのです』というのは、まさにその通りだと思います。
昔は、ものの数え方は常識でしたが、いまは少しルーズになっているような気がします。こういう本を読むと、数え方ぐらいは、しっかり覚えておいたほうがいいと思います。
もし、数え方でときどき不安になる人は、ぜひ読んでほしいと思います。
読んでみてよかったと、私は思いました。
まだまだ、お祭りの後片付けが終わっていないので、コメントもちょっぴりです。
次からは、サーッと目を通すだけでなく、しっかり読んでみたいと思っています。
(2012.11.21)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 日本人の数え方がわかる小事典(PHP新書) | 飯倉晴武 | PHP研究所 | 2012年6月29日 | 9784569795539 |
☆ Extract passages ☆
(ランドセルは)もとはオランダ語で「背負いカバン」を意味するが、幕末に兵士用の背嚢として用いられた布製のリュックサックが原型とされる。
現在のような形のランドセルは、伊藤博文が大正天皇の学習院初等科への入学にあたって、革製で頑丈な箱型のものを特別にあつらえて献上したのが最初だという。
一般的に庶民に普及したのは、昭和30年代以降である。最近は、男子は黒、女子は赤の定番以外にも、黄、青、オレンジ、ピンク、紫など、色とりどりのランドセルを背負う子供が増えているそうだ。普通、個で数えることが多いが1本、2本ともいう。
(飯倉晴武 著 『日本人の数え方がわかる小事典』より)
No.769 『出会いを哲学する』
出会いを哲学するとはどういうことか、と思いながら、読んでいました。副題は「人生を豊かにするメビウスの原理」とあり、著者はハワイ大学名誉教授と国際メンターシップ協会名誉会長と本の肩書きにあり、その国際メンターシップ協会というのもあまり聞き慣れないものでした。
正直なところ、半信半疑で読み始めました。でも著者は高校からアメリカの大学に単身留学され、その行動力にまず驚かされました。今の時代の留学とはまったく違う時代のことです。著者は
留学について、「留学は語学の勉強だけでない、その国の文化、その国の人たちのものの見方、考え方、かかわり方、生き方、心の風景というか、全てを学ぶチャンスが得られるのだ。それと同時に、自分の国を外から見るチャンスが得られる。それだけでない、自分自身を日本という枠の外からも、見つめさせてくれるチャンスが得られるのだ。いいところも、悪いところ、今まで見えなかったところが見えるように
なってくるのだ。何事も、あまり近いところにいると、ものが見えなくなるものだ。自分がまだ若いときにこんなチャンスが得られたことは、本当にラッキーだと思っている。」と書いていますが、これは留学だけでなく、海外旅行にも当てはまることだと思います。
この副題のように、たしかに多くの出会いのなかで、人は生かされ、その役割を演じ、さらにそれがあらたなつながりへと結びつく、つまりまさにメビウスの輪のようです。著者は、このメビウス的なの考え方を、「メビウス思考は、互いに共に活かし合いながら、生きていき、共に創っていくという共生共別の思考でもある。また、共に成長し進化していくという共進化の思考でもある。さらに、21世紀に思考の枠組み(パラダイム)となる統合思考、また生命の捉え方、生命の生命論でもあり、また、ガイアの原理、生態(エコロジー)の思考でもあり、全てを結びつける統合の思考である。共に関わりあって関係を相乗効果的に高めていく思考である。」としています。
そして、このような思考方法が21世紀の思考の枠組み(パラダイム)を代表する1つとなるのではないかと予測しています。
下に抜き書きしたのは、著者自身がガンにかかったとき、むしろガンを敵としないで、共存し、そういうガン細胞がおきないような環境づくりをしたときのものです。
もちろん、いろいろなことをなされていますが、この笑うということも、たいへんいいことだと意識的に笑いを取り入れています。
(2012.11.17)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 出会いを哲学する | 吉川宗男 | 南の風社 | 2011年9月1日 | 9784862020444 |
☆ Extract passages ☆
英語のHumorは日本語のユーモアであり、その語源の意味は体液である。体液とは、血液やリンパ液であり、ガン細胞を攻撃するNK細胞や免疫でもある。実は、笑うことによって、体液の流れがよくなるのだ。
これもメビウスでとらえると、面白いから笑うだけでなく、笑うから面白いのだと言うこともできる。笑うと本当に面白くなってしまう。結果的には、からだも温まり、体液の流れが出てくる、NK細胞や免疫力も上がる。笑っているときは、自分がガン細胞を持っているということを一時的にでも忘れさせてくれる時でもあった。
笑うということは、ボクの異文化の遭遇のプロセスから言えば、Ah↓の状況を、一時でもAhaha!のコミックの状況をつくることである。だから、意識的に笑った。
(吉川宗男 著 『出会いを哲学する』より)
No.768 『古事記 いのちと勇気の湧く神話』
ある大学の先生から、大塚ひかりさんの『愛とまぐはひの古事記』っておもしろいから読んでみないか、と言われていました。ところが、なかなかその機会がなく、たまたま図書館で手にしたこの本を読んでみました。たしかに、このような古事記の読み方もあるんだ、と思いました。
著者の肩書きは「古典エッセイスト」と略歴紹介にあり、そのようなエッセイストの区分けもあることを知りました。もしかすると、自らつくったのかもしれません。でも、古事記だけでなく、源氏物語や平家物語からみの本も出されているので、古典エッセイを主に書いているといっても納得しました。
読んでいておもしろいと思ったのは、たとえば大国主神のところで、「八十神に負けてばかりの弱いオホアナムヂ、いったん死んだオホアナムヂを、"大国主神"として生きかえらせ、国を治める強い男に仕立て上げたのです。男がひとかどになるには試練が必要、しかも女の手助けと、動物=神に愛されることが不可欠なんですね。」という見方は、ある意味、女性から見た見方かもしれません。
また、三浦氏の「神や貴人を数える数詞は、一般的には『はしら(柱)』だが、これも『木(植物)』と関わるとみてよい」という説を紹介し、自らは「植物同士にも競争とか栄枯盛衰とかあるわけですが、人は植物と同等といった考えは、不安に包まれながら、あくせくとした泡のような日々を送る私にとって、なにかどっしりと根を張るような安心感を与えてくれるのは確かなんです。」と結論づけています。
これなども、とてもおもしろい見方で、人は植物のように生きている存在として捉えています。それにも、三浦氏の「人もまた土から生まれ、成長し、子孫を残して死んでゆくものだ。そのように発想されたのが人間の起源」だとしています。
この本は、たしかに気軽に読める古典解説だと思いますが、著者独特の解説もありますので、それを今までの解説と比べて見るのもいいかと思います。
下に抜き書きしたのは、日本のだじゃれ文化についてですが、それがまさか古事記と結びつけられるとは思ってもいませんでした。ぜひ、読んでみてください。
(2012.11.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 古事記 いのちと勇気の湧く神話(中公新書ラクレ) | 大塚ひかり | 中央公論新社 | 2012年7月10日 | 9784121504234 |
☆ Extract passages ☆
日本の駄酒落文化はこういう「当て字」文化に原点があるんじゃないか。
「ニューヨークで入浴」「倦怠期に献体」とか、同じ音を楽しむ駄酒落は、"すがすがし"いから"須賀"という『古事記』の方法と根は一緒で、『古事記』はオヤジギャグのルーツなわけです。
「私立」と「市立」とかの同音異義語が日本語に異常に多いのも、関係あるかもしれません。
そして日本人の曖昧さ、にも。
一口に「前に座ってた人」と言っても、時間的「前」なのか、空間的「前」なのか、日本語でははっきりしない。曖昧なんです。
この曖昧さと分かりにくさはまた、言われなくても察するという「空気を読むこと」の大事さにもつながる。
でも曖昧って悪いことばかりじゃないんですよね。
(大塚ひかり 著 『古事記 いのちと勇気の湧く神話』より)
No.767 『古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家』
東京へ出かける用事があり、11月6日の朝の仕事を終えてから午前10時47分米沢駅発の山形新幹線に乗りました。いつも電車や自分で運転しないときには車のなかでも本を読みます。それも旅の楽しさです。
今回はどの本を持っていくか悩みましたが、たまたま数年前に買ったのに読まなかったこの本をリックに入れて行きました。
著者は、19歳のときに初めてイギリスを訪ねて以来、かれこれ60回近くもイギリスに出かけているそうです。もちろん、情報誌の仕事をしている関係で、仕事がらみもあるでしょうし、ただのんびりとするためにも出かけるそうです。
このぐらい1ヶ国に通い続ければ、いろいろと見えてくるものがあるはずです。それを、「家」にスポットを当てて書いたのがこの本です。
著者がこの本で紹介しているチャールズ皇太子の言葉、「イギリスの建物は、木や草花と同じ、土地から生え育ち、その土地の風景に溶け込んでいる。だから世界中の人たちがイギリスを訪れ、そのあり方を見て感嘆するのです。イギリスの建物は natural growth ――あるがままに育っているからです。」というのを紹介していますが、この本を読み終わって、改めてなるほどと思っています。
つまり、著者がいうように、『イギリス人は家を持ったら、別にどこかが壊れてなくても、ペンキを塗る必要がなくても、大工道具を引っ張り出してはあちこちと補修したがる。家はイギリス人が言うには、たとえばプラモデルのようなもので「趣味」なのだ。だから、家を待った時から、何かにつけて自分の家と関わっていきたいと思っている。それが喜びであり、楽しみなのだ。』ということにつきると思います。
日本人は、普通は家を建てるのは専門家で、それが壊れたときには、修繕するのもまた専門家です。だから、ちょっと電気系統がおかしくなっても自分で直せず、電気専門業者に修繕を依頼するしかないのです。でもそれは、家を新築するときから修繕することを考えて建てるわけではなく、全ての配線を壁で隠してしまうから、ますますできなくなるのです。
もし、ある程度、日本の昔の住宅のように見える配線だと、少しは修繕できるかもしれません。でも、今の建築基準法では、おそらくダメでしょう。
そんなことを考えながら本を読んでいたら、もう上野駅です。もう5分程度で終点です。まだ20ページほど残っていましたが、それはホテルで読み終えました。
やはり、旅には文庫本ですね。
(2012.11.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家(新潮文庫) | 井形慶子 | 新潮社 | 2004年6月1日 | 9784101481210 |
☆ Extract passages ☆
ジョージアンの家具が大好きな彼は、これらを10年かけて集めたと言っていた。そういえば、彼と一緒にケンブリッジ近郊の小さな村々をドライブした時も、彼は必ず古道具屋やアンティークショップでジョージアンの家具を見ては店員と話し込んでいた。そうやって、方々に当たりをつけながら、本当に気に入った物だけを買い足していったのだと知った。
そして、こういった態度にはもう一つ別な一面があるのだ。イギリス人は一つの物を使い続けることはゴミを出さない、資源を大切にすることにつながると考えている。そして「買う金があるから」「物が安くなってるから」と買い物ばかりする日本人を、資源をムダに使っていると批判する。
今、日本ではゴミと呼ぶにはあまりにも立派な粗大ゴミが後を絶たない。その陰には、とどまることなく安い物をどんどん製造し、一挙にカタログやインターネットで宣伝し、コストダウンして大量に販売していく日本の商法の在り方と、それをありがたがり、とびついて離れない買い手の終わりなき関係があるのだ。
(井形慶子 著 『古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家』より)
No.766 『心がぽかぽかするニュース』
日本新聞協会は、2004年度から新聞を読んでHAPPYな気持ちになった記事とその理由を募集する「HAPPY NEWSキャンペーン」を行っているそうです。このようなキャンペーンをしていること自体知りませんでしたが、この本を読んでみて、なるほどいいことだなあ、と思いました。
いつも目にする新聞の記事は、どちらかというと政治や経済だったり、三面記事だと殺人や事件などの陰湿なものが多いのですが、ここに掲載されたような心がぽかぽかになるような記事もその紙面のなかにはあったのだと改めて感じました。それらをたくさん集めたものですから、まさにぽかぽか感はとびっきりです。
これらの記事は「口世千みぃてと2011」ですから、どうしても東日本大震災関連のものが多くなっています。それでも、あの悲惨な出来事のなかでも、明るいニュースはあるものです。とくに、子どもがらみのニュースは、ひときわぽかぽかにしてくれるようです。
たとえば、墨田区立業平小学校の3、4年生120人が参加して、建設中の東京スカイツリーの敷地へかかる歩道橋の路面に絵を描いたそうです。それだけだと、どこでもやっているようなことですが、じつは、その歩道橋が舗装される間だけ見える絵なんです。つまり、東京スカイツリーの工事現場作業員を元気づけようと描かれたもので、「みんなでかんばろう」の応援メッセージもペンキで描かれていたそうです。
子どもたちに、「お仕事がんばってね」とか「応援してるよ」といわれて、励まされない大人はいないと思います。しかも、いずれは舗装されて見えなくなるわけですから、まさに作業員だけにしか見えない絵です。そこに、このニュースのぽかぽかがあるようです。
ぜひ、新聞には、ここに掲載されているような、ほんとうに心温まるニュースも必ず載っているはずです。これからは、このようなニュースもさがしながら読みたいと思いました。
今回の抜き書きは、「ホンの旅」らしく、移動図書館の二ュースです。下に載せましたので、ぜひ読んでみてください。
まさに、「読書で人生が開ける」のを実感できるのではないかと思います。
(2012.11.7)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 心がぽかぽかするニュース | 日本新聞協会 編 | 文藝春秋 | 2012年7月10日 | 9784163754604 |
☆ Extract passages ☆
南米ブラジルのサンパウロで、元ホームレスの男性が路上生活者のための移動図書館を始めた。ホームレスには縁遠い図書館を身近にし、読書を通じて社会復帰のきっかけをつかんでほしいとの思いをこめる。
現在はホームレスの権利向上や社会復帰のためのNGOを運営するロブソン・デメンドンサさん(60)。自転車の荷台に設置したケースが彼の「図書館」だ。7月末から市内のホームレスが多い地区の巡回を始め、数日で80冊以上を貸し出した。一般の図書館を利用するには身分証明書が必要だが、住所がないホームレスは証明書を持てない。デメンドンサさんの図書館は、本を選んでノートに名前を書くだけだ。一般の人や図書館などから、1万冊以上の寄付を受けた。
「法律の本を読んで弁護士試験に受かったり、中央銀行に就職できたりしたホームレスもいる。読書で人生が開ける」と話す。
運営するNGOのウェブサイトに以前、ホームレスの作文コンテストの優勝者名を載せたら、家族から連絡があり、路上生活から抜け出せた。本を借りた人の名前もサイトに載せ、家族の目に留まるのを待つ。
(日本新聞協会 編 『心がぽかぽかするニュース』より)
No.765 『渡る世間は「数字」だらけ』
著者本人が、「向井万起男」という名前の日本人は自分以外は1人もいないと「まえがき」の最初に書いていますが、パソコンのワープロソフト「一太郎」で打つと、ちゃんと出てきました。これはあまり珍しくないのか、あるいはソフトがすごいのかはわかりませんが、あまり聞いたことがないお名前です。
ところが、あの日本で最初の宇宙飛行士になった向井千秋さんといえば、おそらく知らない人はいないのではないでしょうか。その旦那さんが著者の向井万起男さんです。現在は慶応大医学部の准教授で病理診断部部長を務めているそうです。
その経歴は別にして、純粋にこの本だけを読むと、とてもおもしろかったです。まさに数字にもいろいろあると思いました。たとえば、今、中国とも韓国とも領土問題でもめていますが、2003年にインドネシアの国立航空宇宙研究所の研究者が、「衛星画像を分析した結果、インドネシアの縞の数は従来かんがえられていた数よりも1,000個ほども多く、18,108個であることが判明した」と重大発表したそうです。1個や2個の誤差ならわかりますが、1,000個も違うというのはあまりにも今までがアバウト過ぎたような気がします。でも、日本だって、北方四島や竹島などを入れれば、6,852個だというから驚きです。
このように、数字化してみると、意外な事実がはっきりするようです。たとえば、お月様は9億年前ぐらいから毎年コンスタントに3.8センチずつ遠ざかっているそうです。これは、アポロが月に置いてきたレーザー反射体を使った観測などで確認もされているそうです。だからなんだ、といわれれば、その通りですが、3.8センチとはっきりと数字化されるとちょっとびくっとします。
下に抜き書きしたのは、脳細胞についてですが、著者がお医者さんであるだけ、その数字だけをみて判断してはいけないことに気づかされます。
この本は、話しかけるように書いてあるので、とても読みやすいです。ぜひ、読んで、数字のおもしろさを楽しんでいただければと思います。
(2012.11.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 渡る世間は「数字」だらけ(講談社文庫) | 向井万起男 | 講談社 | 2010年2月13日 | 9784062765916 |
☆ Extract passages ☆
30歳をすぎると脳の神経細胞は1日に約10万個ずつ減っていくという説があります。これって、けっこう有名な説ですよ。この説がホントだったら、何だか恐ろしくなってきません?私は恐ろしいです。ホントに1日に10万個も減っちゃったら、これから先、私の記憶力は一体どうなることやら。
でも、この説はホントじゃないかもしれないので、私はあまり気にしないことにしています。皆さんも、あまり気にしない方がイイですよ。もし、この説がホントだとしても、脳には神経細胞がもともと約140億個もあるので、全部なくなるまでには約400年かかることになります。いくらなんでも、皆さんは400年も生きたいなんて思ってないでしょ?
それでもやっぱり心配だという人がいるかもしれませんね。そういう心配性の人には是非とも言っておきたいことがあります。脳には約140億個の神経細胞があるといっても、そのすべてを私達は使っているわけではないんですよ。私達は脳の神経細胞の20%しか使っていないという説もあるくらいですから。もともとそれくらいしか使っていないんですから、少しくらい減ったからって心配しても意味ないんですよ。
(向井万起男 著 『渡る世間は「数字」だらけ』より)
No.764 『世界の四大花園を行く』
世界の四大花園ってなに、と思いながら読み始めましたが、副題の「砂漠が生み出す奇跡」とあるように、それは砂漠の花園でした。
一般に砂漠というと砂だらけで一木一草すらない世界と思いますが、実は植生は豊かではないのですがそれなりにあります。昆虫や爬虫類もいます。この本のなかにもオリックスやトカゲなどの写真がありました。もちろん、花が咲くということは、風媒花でないのもありますから、その花粉交配の手助けになるような虫たちもいます。「死の砂漠」というのは、地球上のほんの一部でしかありません。
むしろ、そのような砂漠だからこそ、一転して花園になるとすれば、それこそ奇跡になります。この4つの場所で知っていたのは、ナマクワランドです。ここに行ってみないかと誘われたのは10数年前ですが、そのときは仕事の都合で行けませんでした。この本を見て、行けば良かったと後悔しています。
でも、これからだって行けるかもしれません。しかも、この本のなかに、詳しい地図や場所が書き込まれていて、著者自身も「手軽なガイドブックの役割を兼ねたもの」と、「はじめに」に書いています。
この本の中に出てくるシードバンクというのは、今まで「種子銀行」という意味で、種子をお互いに交換するシステムと思っていました。ところが違う意味もあったのです。それは「地表の草花から、毎年新しく供給される種子。発芽したり動物たちに食べられたりして、失われていく種子。その増減を、預け入れと引き出しの関係に見立てた表現で、土壌中の種子の総数(埋土種子量)を表す用語だ。」だそうです。
たとえば、この本で取り上げたロマス・デ・ラチャイ国立保護区の1平方メートルあたりの花の種類は10〜15種類、シードバンクは常時4,000〜6,000個にもなるそうです。
だからこそ、1年に限られた期間に雨が降ったとしても、それを待っていたかのようにいっせいに花が咲くのです。そこに、砂漠の花園の奇跡があるようです。
著者は、下に抜き書きしたように、2011年から南アフリカのナマクワランド近くに移住し、この花園を撮り続ける決心をされたそうです。ということは、この本に掲載された写真よりさらにすごい花園の写真が撮れる日も近そうです。
そのときは、ぜひ、その写真とそのときのことを書いた文を読んでみたいと思います。
(2012.11.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 世界の四大花園を行く(カラー版中公新書) | 野村哲也 | 中央公論新社 | 2012年9月25日 | 9784121021823 |
☆ Extract passages ☆
2011年、僕は南アフリカに移住し、腰を据えてこの花園を撮り続けることを決意した。その決め手となったのが1枚のポストカード。アフリカの著名な写真家アラン・プロストの作品だった。・・・・・・
僕はこの目でその場所を見たくなり、夏のある日、ユーウッツヴィル周辺をくまなく探した。等高線の入った地図から風景を想像し、未舗装路をガナボス方面へ。ひとつ、ふたつ峠を越えたところで、穴が開くはど見たポストカードの風景が迫ってきた。カメラを片手に同じ画角になる場所へ立つ。雲間からは透明な光が射し込み、山がさらに赤く色づく。生ぬるい熱風が砂上を走り、照りつける太陽が気温を40℃まで押し上げる。風景はこの15年間で様変わりし、潅木やブッシュが1メートルほどの高さでひしめき合っていた。
生命は流転の旅を繰り返し、同じ風景は二度と現れない。一瞬一瞬の尊さを自分自身に映し込んでいく作業、それこそが写真(写心)の力となり、通い続けることが力強さとしなやかさを育んでいくのかもしれない。
足元に広がる大地には、無数の種子が次世代へ命の橋を架けるため、今か今かと出番を待っている。今度の春はいったいどんな花園が生まれ、地球の花束(フラワーリング)を作り上げるのだろう?
(野村哲也 著 『世界の四大花園を行く』より)
No.763 『赤ちゃんはなぜ父親に似るのか』
いまさら子育ての本でもないのですが、孫が1歳2ヵ月のがいて、いっしょに暮らしているので、もしかしたらと思いながら読んでみました。
役に立つというより、自分たちが子育てをしていたときと違うことがあったり、同じことを思い出したりと、とてもおもしろく読みました。副題は「育児のサイエンス」とありますが、作者がサイエンス作家というだけで、どちらかというと子育て奮闘記に近いものがあります。でも、だからこそ読みものとしておもしろかったのです。
しかし、サイエンス作家としては出産さえも仕事につながるようで、とても大変だと思いました。自宅出産はいいとして、出産の現場にテレビカメラが入り、生まれたばかりの自分の子どもを抱いて、それにコメントし、涙まで流さなければならないとはすごい仕事魂です。まあ、涙は流れなかったそうですが、この本はリアリティがあり、それがわかりやすく理解できる素地になっているのだと思います。
それと、目から鱗でしたが、私も夜中に子どもの泣き声で目を覚まさなかった1人ですが、母親は『赤ちゃんの泣き声に対しては非常に過敏に反応するようになります。よく「赤ちゃんが夜、何度も泣いているのにダンナはグウグウ寝ていて頭にくる!」という話を聞きますが、不思議なことに、夜中に赤ちゃんがちょっとでも泣いたらパッと日を醒ますことができるのは母親だけ。父親は、本当に赤ちゃんの泣き声に気づかず寝ていることがほとんどです。』と書いてあり、つい、そうそうとうなずいてしまいました。
また、赤ちゃんが言葉を覚えることを「子どもには理論などは問係なく、ただ毎日、たくさんの音を浴びてそれをひたすら吸収する時期があhソ、その言語のコップが一杯になったとき、言葉となってあふれ出す。なので、発語が遅い子はじっくり潜め込んでいるのだと思って、長い日で見てあげることも大切だと思います。」とあり、これなどは外国語を習得するときに参考になると思いました。
日本人は中学校で英語を学び初め、大学まで入れると10年もするのですが、あまり英語を話しできる人は少ないように思います。それを赤ちゃんが言葉を覚えはじめるときのように、1つ単語を覚え、それからもう1つ単語を覚え、その単語の間を動詞でつなげる、そうして少しずつ使いながらしゃべれるようになるのと、同じようにしていけば良いのではないかと思いました。
もし、これから育児をする方はもちろんのこと、間接的にでもそれにかかわる方たちには読んでもらいたいと思います。
参考になることは、たくさんあると思います。
たとえば、下に抜き書きしたのは、子どものほめ方についてです。意外と単純に褒めればいいというものではない、ということがおわかりいただけると思います。
(2012.10.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 赤ちゃんはなぜ父親に似るのか(NHK出版新書) | 竹内 薫 | NHK出版 | 2012年6月10日 | 9784140883822 |
☆ Extract passages ☆
僕は単純に、子どもというのは褒めればいいのだろうと思っていましたが、そうではないらしい。幼稚園以降、言葉が出てきてからの褒め方が重要で「○○ちゃんは頭がいいね」という褒め方は、一番やってはいけないそうです。「頭がいい」と褒めると、子どもはそれ以上努力をしなくなる。だから、「努力をすることがいいことなんだ」という褒め方をすべきだというのです。
実際に、IQテストの結果が高い子どもがどんどん没落していくという事例が多いのは、自分で「頭がいい」と思い込んでしまうから。あるいは親がそう言うからなのでしょう。「IQがこんなに高いんだ。○○ちゃんは頭がいいんだよ」と言われたら、周りのイメージと自己イメージを守ろうとするんですね。「頭をよく見せないといけない」となり、かっこ悪いことはできない。そうすると、泥臭い努力なんてできなくなって、努力が必要なものに挑戦しなくなっていく。あるいは失敗を恐れる。失敗することは、馬鹿であることの証明になってしまうから、やりたくない。それで、どんどんダメになってしまうという。
そういう褒め方ではなく、「知能というのはどんどん伸びるんだ。やればやるほど鍛えられていくんだ」というのを教えるべきだというんですね。
(竹内 薫 著 『赤ちゃんはなぜ父親に似るのか』より)
No.762 『深読みフェルメール』
今年の7月19日に東京都美術館で開催していた「マウリッツハイム美術館展」で、あのフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を観てきました。午前9時30分の開館だと思い行ったら、その日は9時開館で、すぐに入場できました。その絵の前で、さらに並び、歩きながら観るしかありませんでした。ところが、ある並んでいる人たちの隙間から、3分間ほど、ジーッと観ることができ、とても感動しました。
さらに東京駅構内の古本屋で有吉玉青著「恋するフェルメール」を手に入れ、帰りの電車で読んできました。まさに、にわかフェルメールファンになってしまったようです。そして、また、こうしてフェルメールについて書かれたものを読んでいます。もしかすると、あの謎を秘めた目に惹かれたのかもしれません。
特に、今年は6点ものフェルメールの絵が来日し、多くのファンを喜ばせました。この本でも何度か取り上げていますが、「フェルメール全点踏破の旅」などで行くとすれば、相当大変ですし、出費も多額になります。それが日本にいながら本物と対面できるわけですから、これはとてもいいことです。
この本の中で朽木さんは、『日本で開催される展覧会で作品と出会うのとは、違った感慨がありますよね。旅情と言ったらいいのでしょうか、渋谷の雑踏を歩いた後に観るフェルメールと、遠いアイルランドのダブリンで観るフェルメールは、やっぱり違う。雨が降って、すぐ晴れて、突然寒くなったり暑くなったりして「1年の天気を1日で感じる」と言われるアイルランドで、その空気を感じながら美術館に辿りつくと、自分の気持ちが変わっている。旅をしてその作品を観るというのは、すごくフレッシュな体験です。』と書いていますが、それはそうですが、全てのフェルメールファンがそうできるわけではありません。その作品の1つでも、もともと収蔵している美術館で見れればとてもハッピーと考えている人も多いのではないかと思います。
でも、行けるかどうかは別問題として、「フェルメール全作品マップ」はとても参考になります。
私もいつかは行ってみたい、たしかにそうは思いますが、これだけは幸運の女神にお願いするしかなさそうです。
(2012.10.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 深読みフェルメール(朝日新書) | 朽木ゆり子・福岡伸一 | 朝日新聞出版 | 2012年7月30日 | 9784022734570 |
☆ Extract passages ☆
絵の来歴に思いを馳せる、というのは重要です。・・・・・・顕微鏡ひとつとっても、顕微鏡の歴史という科学史を捉えることが、学びや気づきにつながっていくと思っています。ですから、フェルメールもそうした視点で眺めると、フェルメールの「仕掛け」にさらに興味がわいてきますし、フェルメールの絵がなぜこんなにも人々の心を捉えて離さないのか、という謎がクローズアップされてくる。フェルメールは、意味を確定させるように措かなかったから、いろいろな問いかけがオープンになったまま、宙づりになっている。わざと開いたまま、suspend(サスペンド、宙づり)、本当の意味のサスペンスになっているんですね。そうしたフェルメール独特の魅力に気づくのも、時間を旅する中で、わかってくることかなと思います。(福岡伸一)
(朽木ゆり子・福岡伸一 著 『深読みフェルメール』より)
No.761 『心を元気にする 論語』
今、論語が再び読まれていると聞き、この本を読んでみました。副題は「孔子が伝えたかった本当の教え」とあり、著者は旧建設省勤務を経て、大学教授やNPO理事長などを歴任し、現在は「新論語研究会」を立ち上げ、活躍しているそうです。
たしかに、読んでみると、今までの論語とちがう解釈があり、とても興味深く読みました。たとえば、有名な一節に「朝に満ちを聞かば、夕に死すとも可なり」というのがありますが、これは『「朝に道を聞かば……」は、(もし社会の隅々まで道が行われていることがわかれば、自分はいなくてもよい)と解釈すると筋が通る。朝の字には、もしも(一朝)、の意味があり、死という字には、活動しない、という意味もあるのだ。』と解釈するといいのだそうです。一般的には道について本当の理解がえられれば、もう夕べには死んでもよい、と解釈しているのが多いと思います。
また、日光東照宮にある三猿の彫刻も、「三猿は三匹の猿の彫り物で、それぞれ手で両目、両耳、口をおおっている。これは一般には”よけいなことは見ざる、聞かざる、言わざる”、つまり、さわらぬ神に崇りなし、の意で解釈されている。しかし、もともと三猿は幼年期の猿で、”子どもに直ではない不純なものを、見せない、聞かせない、伝えない”の意味を込めてつくられたものなのだ。」といいます。
そういわれれば、なんとなく小猿に見えますし、東照宮にあるのに「さわらぬ神に祟りなし」では、やはりまずいのではないかと思います。
このように、今までの解釈と違うところが多々あります。
でも、この本に書かれてある解釈のほうがつじつまが合うように思いますし、妥当だと感じました。
もともと、論語はいわば孔子の孫弟子たちが孔子だけでなく、孔子の弟子たちの言葉を集めて編纂したものです。ですから、孔子みずからが書いたものではなく、ある程度の自由な解釈があってもいいわけです。いや、むしろ、どのようにも解釈できるからこそ、今の世までも伝えられてきたと思います。
ぜひ、この本を読み、このような解釈もあることを知っていただきたいと思います。
(2012.10.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 心を元気にする 論語(青春新書) | 樫野紀元 | 青春出版社 | 2012年7月15日 | 9784413043663 |
☆ Extract passages ☆
自然界における万物の姿と、人の世の姿は相似形である。例えば、御影石や大理石は、仮に一平方メートルに二百トン級の大型ジェット機が二十五機載ったとしてもびくともしない。しかし熱にはめっぼう弱く、火に遭うとその強さは半分以下になってしまう。昔、これらの石は、岩山に穴を開け、抽を注いで火をつけ、ひび割れを発生させて切り出した。他方、大谷石はこれらに比べると全然強くないが、熟には強い。
全てのものには、誇るところもあれば弱点もある。人間も同じである。人には何らかの長所があっても、必ず欠点がある。また、よい意見をもっている一方、おかしなこだわりをもつ人もいる。人はそういうもの、とそれを大らかに受け入れる態度が肝心なのである。
(樫野紀元 著 『心を元気にする 論語』より)
No.760 『美術フォーラム21 2012 VOL.25』
この『ホンの旅』では、ほとんど雑誌のようなものは掲載しないのですが、これはたまたま図書館で見て、おもしろそうだと思い借りてきて、やっぱりおもしろかったのでここに載せることにしました。
年2回発行のようで、今回の特集は「茶の湯――スキの芸術」とあり、第1部は「茶の湯の系譜」で、第2部は「茶の湯の表現」です。
とくにおもしろかったのは、表千家の千 宗員氏の「茶の湯道具における使い手と作り手の関わり――千家十職を中心にして」です。初めて知ったのですが、この千家十職という言葉は昔から使われていたわけではなく、千家では代々道具製作に携わる職人を「職家(しょっか)」と呼び習わしていたそうです。ところが、大正の初めに、百貨店の催事で職家の道具が展観されることになり、そのときに「千家十職」という呼称が選ばれ、その後、この呼び名が使われるようになったそうです。
また、使い手の立場の茶人と作り手の立場の職人では、当然いろいろな意味で違うわけですが、表千家では毎月1日に「松風楼」という茶室に千家十職が集まり、家元を囲んで一服の茶を飲むのだそうです。当然のことながら、そこでは様々な話題が取り上げられると思いますが、眼目はお茶に使われる道具につながるわけです。
この十職のなかで、利休時代からつながりのあるのは、樂茶碗の樂家と金工の中川家だそうで、その長い付き合いの中から茶人の好み物も生まれてきたそうです。もちろん、茶人の中には、道具製作について詳しく指示することや、ある意味大雑把にしか伝えないこともあり、そこにおもしろさが出ることがあると思います。
そういえば、10月1日に東京駅丸の内駅舎がグランドオープンしましたが、その姿は98年前の1914年(大正3年)12月当時に復元されたようです。もちろん、この設計をされたのは辰野金吾氏で、完成までに6年9ヵ月かかったそうです。
この本の藤森照信「現代建築家による茶室」のなかで、辰野氏の茶室に対する偏見が載っていて、弟子に数寄屋をどう思うかと聞かれ、「あんなヤニっぽいもの」と答えたそうです。この「ヤニっぽい」というのは、辰野氏の故郷、唐津では「女々しい」の意味だそうで、この新装なった東京駅を思うと、それと比べれば数寄屋などは女々しく映るのも仕方がないと思いました。またこの辰野氏の弟子で、米沢出身の伊東忠太氏も茶室などにはあまり関心がなく、おそらく師匠譲りではなかったかと思います。
この本には、下に抜き書きしたような、茶の湯をキーワードにして今までの芸術や美学を見てみるという、その視点のおもしろさがありました。
興味があれば、ぜひお読みいただき、さらにこれからの出版も楽しみにしてもらえればと思います。
(2012.10.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 美術フォーラム21 2012 VOL.25 | 美術フォーラム21刊行会 編 | 醍醐書房 | 2012年5月30日 | 9784925185486 |
☆ Extract passages ☆
民俗学者の梅棹忠夫氏は、しばしばこういうものいいをされた。西洋の文明を考える時に、日本というカードを1枚入れてみると、また違った西洋が見えてくる、と。ところが日本では、西洋化という近代化の中で、肝心の日本というカードを置き忘れたままゲームが進んでしまった。
今ここでは、日本というカードの1つとして茶の湯というカードを切り札に、すでに確固たる概念として確立しているかのように見える「芸術」あるいは「美学」という世界を見通したら、どんな様相を呈するのか。それがこの特集の目論見であった。
(美術フォーラム21刊行会 編 『美術フォーラム21 2012 VOL.25』より)
No.759 『ごきげんな人は10年長生きできる』
この本の題名もそうだが、副題も「ポジティブ心理学入門」で、いかにポジティブに考えるかで長生きもできるといいます。最初はこの題名の明るさに惹かれて読み始めましたが、いろいろな心理学の学説が載っていて、なるほどと思うところが多々ありました。
同じ人生なら、楽しかった、おもしろかったと思いながら生きたいものですし、その思いで最後までポジティブに生きたいものですが、そうするには、やはりそれなりの努力も必要なようです。つまり、そう思い続けることです。
この世の中、お金さえあれば幸せではなく、やはり健康であることや人に認められることも大切なことです。だから、この本のなかで、ハーバード大学の研究グループの調査では、「自分のためにお金を使ったときと、誰か他の人のために使ったときとでは、幸福度がまったく違うという結果が出ている。しかも、自分のために買い物をしてもさほど幸福度が上がらないのに対し、誰かのために買い物をした場合は、働いてそれと同額の報酬を得たときと同じくらい幸福度が上がる」とあります。もちろん、この他に「モノではなく経験や将来への投資にお金を使えば幸福度は上がる」とも書いてあり、これらのことは、いろいろと考えさせられることです。
著者の好きな言葉の一つに、フランスの哲学者アランの「悲観主義は気分だが、楽観主義は意志である」というのがあるそうですが、まさに楽観的に考えることも悲観的に考えることも、つまりは自分自身です。だとすれば、自分の意志で楽観的に、つまりはポジティブに考えた方がいいというわけです。
では、そうするためにはどうすればいいかというと、著者は『その日にあった「三つのよいこと」を書き出す』ことを推奨しています。たとえば、楽しかったこと、うれしかったこと、面白かったこと、仕事でうまくいったこと、大笑いしたこと、などです。そうすることによって、『脳は一日の出来事を振り返って「よいこと」だけを探し始める。これを毎日続けると、脳内でも神経ネットワークに変化が生まれる。脳内にある無数のニューロン(神経細胞)は、シナプスと呼ばれる神経伝達物質でつながれ、神経ネットワーク(神経回路)を形成しているのだが、特定の思考や行動を繰り返せば繰り返すぼど、特定の神経ネットワークの結合が強く太くなっていく。そして、何か新たな思考・行動をするときも、自然にすみやかに神経伝達が行われるようになる。よく言われる「思考回路」は、こうして作られていく。』といいます。『つまり、毎日「三つのよいこと」を探すことで、ポジティブな神経ネットワークが形成・強化され、何事もポジティブに考えやすい脳が作られていくというわけだ。』そうです。
これだけで、すべてのことがポジティブに考えられるとすればいいことですし、追跡調査でも、それをしなかったグループより幸福度が高く、落ち込む回数も少なかったといいます。
ぜひ、だまされたと思って、やってみることをお勧めいたします。さらに、この本を読むこともおすすめしたいと思います。
下に抜き書きしたのは、米国の心理学者バリー・シュワルツ博士の提唱している「満足人間」になることのススメです。これもポジティブに生きる1つの考え方です。
(2012.10.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ごきげんな人は10年長生きできる(文春新書) | 坪田一男 | 文藝春秋 | 2012年7月20日 | 9784166608515 |
☆ Extract passages ☆
米国の心理学者バリー・シュワルツ博士は、「選択肢が多すぎると、人は不幸せになる」という論文を発表している。選択で苦しまないためのヒントとして、シュワルツ博士が提唱しているのが、「満足人間(サティスファイサー)」になろうということだ。
シュワルツ博士によれば、人には「最大化人間(マキシマイザー)」と、「満足人間(サティスファイサー)」の二種類がいる。「最大化人間」は、自分にとって最高の選択を望むがゆえに、あれこれ迷ったり悩んだりして、なかなか選択できない。ようやく一つを選択しても、「もっと他に良いモノがあったのでは」と考えてしまう。そのため、いつまでたっても満足できないし、後悔することも多い。幸せな結婚生活を送っていても「もし、別の人と結婚していたら」と、つい考えてしまうのがこのタイプだ。
それに比べ、「満足人間」は自分の価値観がしっかり定まっているので、ほとんど迷わない。人の意見や情報に惑わされず、即決して我が道を行く。たとえ選択が失敗に終わったとしても、「自分が選んだことだから」と、クヨクヨ後悔したりしない。
シュワルツ博士は、「満足人間」になるためには二つのことが大切だという。
まず、人生における選択に「絶対的な正解」などない、ということを理解すること。次に、自分の価値基準をしっかり持つこと。
この二つさえクリアできれば、迷いや後悔に苦しむことなく、自分のした選択に満足できる。つまり、ポジティブに生きていけるというわけだ。
(坪田一男 著 『ごきげんな人は10年長生きできる』より)
No.758 『ヒマラヤの風にのって』
この本を読んでいた今月5日に、たまたま見たテレビの金曜ロードSHOWで、2007年のアメリカ映画「最高の人生の見つけかた」があり、つい見てしまいました。
それは家族思いで家族のために生きてきた自動車整備士のカーター(モーガン・フリーマン)と、高慢で大金持ちの実業家のエドワード(ジャック・ニコルソン)がたまたま同じ病室に入院し、二人とも余命半年とわかり、それから今までできなかったことをしようと最後の冒険旅行に出かけるというストーリーです。そのなかで、世界で最も高級なコーヒーとして有名な「コピ・ルアク」が出てきますが、カーターは物知りで、そんなものはジャコウネコが食べたコーヒーの果実が糞として排出された豆を洗浄し乾燥したものだと話し、私はインスタントコーヒーのほうが美味しいといいます。その全く違う人生を生きてきた二人が、偶然知り合って、そしてお互いを思いやりながら世界を旅し、ついには同じヒマラヤの山頂の石室に、そのインスタントコーヒーのカンの中に納まります。
実はこの本の著者も、進行性のガンで、余命3週間と言われた作家です。医者に行くのが嫌いで、もしかするとと思いながらも、いろいろと理由をつけて先延ばしにし、もう動けなくなってから行ったのですが、いわば当然のことですが、余命も聞かずに治療にあたります。
読んでいて、その映画の「最高の人生の見つけかた」とダブってしまうところがありました。しかも、自分たち家族が長年飼ってきたヒマラヤンの1種である「ショコラン」という犬が死に、自分も死を宣告され、もし亡くなったら自分の遺骨と愛犬の骨をヒマラヤの風にのせて散骨して欲しいというのです。しかも、それがこの本の題名になっているのです。
そのような中にいても、著者は『まだ治療がはじまってもいないのに、いきなり「いつまでもつんでしょうか」と質問してもしかたがない。これは別に、ぼくのガンが手遅れで治る見込みがないからということではなく、たとえ治る見込みのガンであっても、もしガンを戦いにたとえるなら、これから戦いがはじまるのに 「戦争はいつ終わるんでしょうか」と開くことほど、くだらないことはない。』といい、生きる希望を持ちます。
たしかに、死ぬのはイヤだろうと思います。おそらく、怖いだろうと思います。あるいは、死ぬのは仕方ないから、どうせ死ぬならぽっくりと逝きたいと思うかもしれません。でも、どのような死であろうとも、それはいかに生きてきたかと無関係ではありません。
ということは、映画の題名ではありませんが、死はいかに最高の生き方をするかということにつながっていくと思いました。
おもしろい本ではありませんが、作家が自らの最後の生き方を綴ったものとして、興味深く読ませていただきました。
(2012.10.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ヒマラヤの風にのって | 吉村達也 | 角川書店 | 2012年7月31日 | 9784041102671 |
☆ Extract passages ☆
世の中のガン出版物で、商売になるケースはふたつしかない。奇跡の生還物語か、涙、涙の死の物語。鳥越さんのように見事に生還するか、余命一カ月の花嫁みたいなものか、そのどちらかだ。
だが、手遅れで入ってきても、まったく絶望感がない、こういう意識になれるということを、多くの人は知るべきだ。
ぼくは宗教に入っているわけでもないし、神の支えがあるわけでもない。現実に自分を支えてくれるものが、一番には家族の鮮であり、二番には医療スタッフであり、三番にはやっばり自分の分析力だ。ガン患者を支えるのは、この三つだと思う。ぼくにはもうひとつ、ショコランという守護神が特別にいるけど。
(吉村達也 著 『ヒマラヤの風にのって』より)
No.757 『利休の茶を問う』
著者は平成17年8月に亡くなっているはずなのに新刊が出るとは、と思いながら読みました。でも、読んでいると、今にも通じることがたくさんあり、とてもおもしろく読み終えました。その最後のところに、この本は主に『大亀禅話』全10巻からお茶に関する文章を選んでこの1冊に編集したものと書いてありました。
なるほど、それで合点がいきます。この『大亀禅話』は昭和20年代なかばから平成10年代にかけて行った毎月の講義のおりに配布した小冊子をまとめたものだそうで、それを全部読むのも大変なことです。でも、こうしてお茶に関するところだけを選んでもらえれば、茶の湯に志す人にとってはありがたいことです。
そういえば、この本にも出てきますが、大亀老師はとても茶の湯が好きで、「お茶は何よりの喜びです」とも書いています。とくにお茶に招かれて一番強く惹かれるのは竹の茶杓だといいます。私も自分で茶杓を削るからわかりますが、茶杓のおもしろさは竹の個性と作る人の個性のぶつかり合いです。歴史上の作者ならそれなりの推理はできますが、まったく知らない方だったりしても、その茶杓を見て作った方を推定するのも楽しいものです。もちろん、職人が作ったものはきれいで筋が通っていますが、あまり個性は感じられません。でも、武将は武士らしく、歌人は歌人らしい作行になるものです。それがおもしろいと思います。
老師も好きだからこそ、言いたいこともたくさんあるのだと思います。老師は105歳で遷化されるまで、お茶と関係の深い大徳寺511世住持など、いくつもの要職を務められた方です。ときどき、茶事に呼ばれると、大亀老師の書に出会うこともあります。それらは禅語やお茶で喜ばれる言葉も多く、含蓄のあるもので、ある意味、いかようにも解釈できるものもあります。この本を読んで、老師はこのように解釈していたのではないかと想像できるものもありました。
たとえば、数奇者の数奇という言葉ですが、『数寄者の「数寄」とは奇数、すなわち割り切れない数をいいます。人とはしょせん割り切れぬ者です。これでよしということがありません。常に心不足です。この心不足を不足として生活する人を数寄者というのです』と書いてあります。
辞典を引くと、「風流の道を好むこと」とありますが、これではとても割り切れる解釈ではなく、ますますわからなくなってしまいます。でも、老師の解釈だと、すぐになるほどと納得できます。これを知っただけでも、この本を読んでよかったと思います。
もし、茶の湯に興味があれば、ぜひ読んで欲しい1冊です。
(2012.10.9)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 利休の茶を問う | 立花大亀 | 世界文化社 | 2012年6月30日 | 9784418125074 |
☆ Extract passages ☆
利休の佗びは、暗黒の部屋の片隅におかれた豆ランプのごとく、吉野山の千本桜にひきかえて、室内の一輪の花に天下の春を感じさせます。夏の朝、裏庭に咲くあの木槿の一輪に十二分の夏の涼しさがあります。
これこそ、秀吉の絢欄豪華な美に対する佗びです。ただのうらぶれた世捨て人の佗びではありません。姿形こそ世捨て人の風情ですが、その風情の中に強い抵抗心がひそんでいるのです。平安時代の佗びは、ただわびしさの佗びでした。鎌倉時代の佗びは、その佗び生活の中に「いざ鎌倉」の強さがありました。室町時代の佗びは、暗さのうちに人としてのあたたかみがのぞいています。そして、桃山時代の佗びには、佗びのうちに一筋の光明があります。たとえば白川一本道のごとく、高い木からクモが細い絹の糸をたらしているかのごとき救いがあります。たしかに、この道によって救いがあります。
現代においても、私は佗び思想を提唱してやみません。現代の佗びは、たとえば資源の消耗をもったいないと思う佗びです。
(立花大亀 著 『利休の茶を問う』より)
No.756 『持たない贅沢』
著者はインターナショナル・アイ社の社長で、裏千家のお茶とも付き合いがあるといいます。たしかに、この本を読んでいると、端々にお茶の話しが出てきますし、茶道に好意的な書き方もしているようです。
たとえば、「茶道はお茶を点てて飲む方法を一定のカタチにしたものだ。カタチであるから、いわば形式ずくめである。さらに、そのカタチの中に精神的な意味合いや要素をもぐり込ませている。したがって、すべてのカタチにココロの裏付けがある結果にもなっている。ココロを込めないとカタチがきれいに出来上がらないし、カタチができていないとココロが入ってこられないようになっている。形式と精神が揮然一体となっているので、一つの文化体系として長い年月にわたって続いてきたし、人々の賛同も得ている。」というのは、お茶をしている方にしかわからないことですし、相当な経験も積まれているように感じました。
たしかに、この本を読むと、なるほどというところがたくさんあり、持たないこともいいものだと思いますが、なかなかそう思い切れないのも人間です。カバンを買うときも、「大は小を兼ねる」と考え大きめのカバンを買いますし、そのカバンにモノを詰めるときも、もしかすると使うかもしれないと思い、ついつい詰め込みすぎてしまいます。そして、その半分以上のモノは使わずに、ただ持ち歩くはめになってしまっています。
だから、この本の最後に書かれていた「量を求めれば質が下がるのは、この世の習いである。質を求めようとすれば、量を少なくするのが秘訣である。幸せについても、量を求めるのは愚かな方策であると心得て、もっぱら質を徹底的に追っていく必要がある。そのためには、量をできるだけ少なくしていく」というのがいいのかもしれません。
下に抜き書きしたのは、持つということは、ある意味、幼児性のあらわれだそうです。
言われてみれば、たしかにそういう面もあると思いました。
(2012.10.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 持たない贅沢 | 山崎武也 | 三笠書房 | 2009年7月25日 | 9784837923299 |
☆ Extract passages ☆
所有は持つことで、持っていると重い。それだけ自分の身体の自由が制限されることになる。したがって、所有しているモノが少なければ少ないほど、身軽である分だけ、身体の自由がきく。モノを所有していれば、モノの存在や安否が気になるので、それだけ心が乱される結果にもなる。持っているモノが少なければ少ないほど、精神の自由も確保されるのである。
モノに執着しモノを所有して喜ぶのは、幼児性からの脱却がなされていない証拠だ。常時必要不可欠なモノ以外は、できるだけ所有しないようにする。モノは自分の手かせ足かせになるものと心得て、モノから自分のココロを解放することができて初めて、真の大人になったということができるだろう。
(山崎武也 著 『持たない贅沢』より)
No.755 『遺伝子の不都合な真実』
もう早いもので10月です。10月は暑くもなく寒くもなく、読書するにはよい季節です。しかも、食欲の秋でもありますから、ちょっと何かを食べながら本を読むと、すごく豊かな気持ちになれます。
でも、この本を読んでいると、ちょっとブルーになります。遺伝子はとても重要なことで、大きな影響力もあるとわかってはいるのですが、なんかそれを素直に認めたくないような気持ちもあります。
そういえば、この本の副題は「すべての能力は遺伝である」で、もしそうだとすれば、なおさらのことです。でも、読んでみると、なるほど、やはり遺伝子というものの不都合な真実は否定できそうもないというのに気づかされます。
それと、おもしろいと思ったのは、直感的にはうすうす感じてはいたのですが、年とともに遺伝の影響が大きくなるというのです。普通は、年をとって経験を積めば積むほど経験のほうが強く影響しそうですが、本に掲載されている「児童期から成人期初期にかけて、認知能力に及ぼす遺伝の影響は大きくなる」という表を見ると、年齢が上がるにつれて遺伝の影響が大きくなることがわかります。著者はそれを『ヒトは生まれてから成人に向かうにつれて、さまざまな環境にさらされさまざまな経験を積むなかで、だんだんと遺伝的な「自分自身」になろうとしているようにみえてきます』と書いています。
著者は教育学者であり行動遺伝学者でもありますが、この聞き慣れない行動遺伝学とは、『行動遺伝学は「包T」です。それ自体は煮ても焼いても食えない、たんなる物を切る道具にすぎません。しかし素材をもってきてくれれば、どんなものでも切ることができます。ただし使い方をあやまれば人を傷つけ、場合によっては息の根さえ止めることにもなる道具です。そのことを承知しながら、これまでそれなりにたくさんの「素材」を切ってきた行動遺伝学という包丁の使い手として、その切り刻んだ断面にどのようなものがみえてきたか、そこから何をどう考えればよいかを書き綴ったのが本書といえるでしょう。』とあり、この遺伝子の持つ不都合なことでも書き綴っているということなんでしょう。
おそらく、この本を読んでちょっとブルーになったというのは、そこの部分かもしれません。でも、おそらく、そこをしっかり考えることも、また、大事なことだと思います。
興味を持ったら、ぜひお読みください。
(2012.10.2)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 遺伝子の不都合な真実(ちくま新書) | 安藤寿康 | 筑摩書房 | 2012年7月10日 | 9784480066671 |
☆ Extract passages ☆
生物は基本的には遺伝子の乗り物であり、遺伝子が自らを生き延びさせるためのさまざまな工夫をしています。花びらが美しいのは、遺伝子を昆虫に運ばせて花粉を受精させるためです。ですから遺伝子は基本的には利己的ですし、その影響をうけた個体も基本的には利己的にふるまい、その結果、自分のことは自分でまかないます。ところが進化の過程で、その利己性を実現するために利他的行動を示すようになりました。まずは血縁のある他個体を、当面自分が犠牲になりながらも助けるという行動が、ヒト以外の動物にもみいだされます。哺乳動物の親が子どもに乳をあたえるのはその典型ですし、働きアリや働きバチが自ら子どもを持たず女王のために働くのも、その方が遺伝子を残す確率を高めるためです。
利他性が進化的適応方略としてとても有効であったからでしょう。直接の血縁でない場合でも、群れを成して生活する動物たちの間にそれが生ずるようになりました。チスイコウモリの群れの中で血を吸えなかった個体に、血を十分吸った個体が血を分け与える行動をすることが知られています。彼らはちゃんと個体識別していて、助けられた個体は他個体に返礼をし、もしそれをしないと仲間からみはなされるそうです。つまりお互いに利他的であろうとする。これを互恵的利他性と言います。
(安藤寿康 著 『遺伝子の不都合な真実』より)
No.754 『道具と人類史』
今、山形の舟形町の「西ノ前遺跡」から出土した縄文時代中期(約4,500年前)の土偶が今年国宝に指定され、「縄文の女神」と呼ばれ話題となっています。
この本にもカラーで載っている「縄文ビーナス」は、高さ27センチで、長野県茅野市の棚畑遺跡から出土したもので、やはり国宝に指定されています。これも、やはり約4,500年前の縄文中期となっています。こちらは1995年に土偶として初めて国宝に指定されています。
そんなこんなで、この本を読み始めましたが、この土偶はなんのために作られたのか、あるいは縄文人の日常生活とどんなかかわりをもっていたのかなど、いまだ謎だと書いてありました。
それでも、今までさまざまな学説や仮説が唱えられ、「愛玩具説」や「呪術具説」、「護符説」、「信仰具説」などいろいろあったそうですが、出土する土偶のほとんどが故意か自然なのかわからないそうですが、破損されられているので『身近な人の病気や傷の部位を土偶の破壊(手術?)によって快復を祈ったという説(呪術具説)や、土偶の九十パーセント以上が明らかに女性像、とくに妊娠した女性を表現していることから、大地から生み出される恵みの豊餞を祈った「信仰具説」(地母神信仰)が、いちばん常識的な仮説となっているようだ。』とありました。
そういえば、国立博物館で何度かこの土偶を見たことがありますが、その姿はみな女性像でした。しかも、おおらかな姿で、まさに野性味あふれるものでした。
あらためて、いろいろな土偶を見比べてみると、やはり、山形の「「縄文の女神」が一番すてきな姿をしているように思います。むしろ、「縄文ビーナス」よりビーナスらしい風情があります。
下に吊手土器のことを抜き書きしたものを掲載しましたが、縄文人は現代人が忘れてしまっているものを思い出させてくれそうな気がしました。
ときには、このような考古学の本を読み、昔の世界を考えてみるのもいいなあ、と思いました。
来月の10月27日から第66回の読書週間が始まります。今年の標語は「ホントノキズナ」だそうです。本から新しい気づきをもらえればいいなあ、と思います。
(2012.9.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 道具と人類史 | 戸沢充則 | 新泉社 | 2012年7月15日 | 9784787712103 |
☆ Extract passages ☆
こういった吊手土器は、別名「香炉形土器」とも称される。それから連想されるように、下の器に植物の実か、動物からとった油を入れ、灯心を立てて灯をともすのに使われたとする説がいちばん有力である。事実、灯心の跡が土器の肌に焦げ目で残った例もあるし、器の底が油で変色したような資料もある。
縄文人たちはこの神秘な器に小さな灯をともし、強い願いをこめて何かを祈ったのである。何を祈ったのか。縄文人の生活様式と彼らの精神構造から推測すれば、それは自然に対する祈りであり、自然から与えられる恵みへの感謝であったはずである。
(戸沢充則 著 『道具と人類史』より)
No.753 『海を感じなさい。』
副題の「次の世代を生きる君たちへ」とあり、サラッと本を開くと、詩集みたいでもあり、箴言集でもあるような、ちょっと不確かなものでした。
でも、だからこそ、読み始めたようなものです。
著者は、立教新座中学・高校校長で、ここはキリスト教系のミッションスクールで中高一貫校です。私の親戚が東武東上線の志木駅近くにあり、学生時代はよく行っていましたが、その志木駅から歩いて12、3分のところにあるそうです。
でも、なぜ埼玉にある学校の校長が東日本大震災を契機にしてこのような文章を書いたのかというと、あの大震災で高校の卒業式が中止になり、そこで学校のホームページに「卒業式を中止した立教新座高校三年生諸君へ」という、校長として発信したメッセージだったといいます。
まさに、読めばなるほど、高校生向けかという気がしますが、おそらく、誰が読んでもそれなりの感動があるかと思います。
たとえば、下に抜き書きした文章も、むしろ長く人生を歩いてきた人たちにこそ、読んでいただきたいものです。でも、大半は若い人たち向けですから、もし、図書館などにあれば借りて読んだほうがいいと思います。
ちなみに、私も図書館から借りて読みました。図書館は貸出期間が決まっていますから、それまでに読み終わらなければなりません。それが図書館のいいところです。
人は期限を切らないと、ついつい積ん読になってしまいます。
この本は、写真も多く、文章も歯切れが良く、あっという間に読み切ってしまいます。でも、もし時間があれば、何度か読み直してみることをお勧めします。
そのたび毎に、新たな発見があります。
(2012.9.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 海を感じなさい。 | 渡辺憲司 | 朝日新聞出版 | 2012年7月30日 | 9784023311022 |
☆ Extract passages ☆
学ぶことは、自分が変わることでもある。人は、変化を前にすると怖気づくことがある。とくに大人になるほど、年齢を重ねるほど、その傾向が強くなる。それが「瓦智(がち)」だ。
しかし、本来、年を重ねれば、年々、見聞きすることが増えていくわけだから、そのぶん、思考はしなやかになってしかるべきなのだ。凝り固まらず、むしろ「思考の不安定状態」が生まれると言ってもいい。
なぜ、年を重ねると瓦智になってしまうのか? 自分の思い込みを固める、都合のよい話だけを"つまみ食い"するからだ。思考の偏食は慎むべきだ。変化を怖れてはならない。変わり続けるために、心が不安定になることに腰が引けてはならないのだ。
不安を喜べ、である。みんな、不安のなかで生きている。本当に正しいものは何なのか、みんな探しているのだ。仲間と、不安のスクラムを組みなさい。そのスクラムから、きっと何かが生まれるはずだ。すれ違いや矛盾が不安を生むとしたら、その矛盾を真正面から見据えなければならない。
不安をなくすために必要なのは、不安を棚上げすることではない。
唯一、最強の方法は、学び続けることだ。不安がもたらす無知を解消するために、人生、最後まで辞書を引き続けることが大切なのだ。
(渡辺憲司 著 『海を感じなさい。』より)
No.752 『魯山人おじさんに学んだこと』
この本は、もともとは2000年に晶文社から発行された『器・魯山人おじさんに学んだこと』に加筆修正し、文庫化したものだそうです。
私は東京出張の折り、何度か著者のお店である「渋谷 黒田陶苑」にまわり、焼きものを見たことがあります。そのお店の焼きものを見て、店主の焼きものに対するこだわりのようなものを感じていました。それで、この本を見つけ、すぐ求めたのですが、旅先のことで、帰ってきてから忙しいこともあり、そのまま本棚に立てかけたままにしたのです。ところが先日、本棚の整理をしていて、たまたまこの本を見つけ、整理も忘れて読んでしまいました。というのは、つい先月、益子や笠間などの窯場めぐりをしてきたので、その窯場のことも書いてあり、読みたいと思ったのです。
益子の参考館で、濱田庄司が使っていた登り窯を修理していましたが、この本によると昭和17年に8室の登り窯を築いたと書いてありましたが、おそらくそのことで、現在は栃木県の文化財に指定されていました。
この本のなかでいろいろと焼きもののおもしろさを綴っていますが、とくに印象に残ったのは「陶芸は窯出しの時よりも、人の手に渡り触れられ、大切に使われてこそ輝きを増してくる」という言葉です。
私自身もそのようなことを体験しています。というのは、ある陶芸作家から抹茶茶碗に石が食い込み、売り物にならないからといただきましたが、それを長く使っているうちに、この石がここに食い込んでいるからこその茶味が出て、とても深い味わいになってきました。その貫入にも何度も茶を点てた茶渋のようなものがうっすらと見え、それが自分のお茶の歴史でもあるかのように感じました。
ある陶芸家は、作行三分の一、窯が三分の一、使用者が三分の一、それで良くなると話したことを聞いたことがあります。やはり、著者が言うように、人が大切に使うからこその輝きがあると思います。
下に魯山人の思い出話の一つを抜き書きしましたが、まさに魯山人らしいエピソードだと思いました。
この人の意表を突くさりげなさが、人を喜ばせ、感動させると感じました。このようなエピソードがたくさん載っていますから、興味があったら、ぜひ読んでみてください。
(2012.9.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 魯山人おじさんに学んだこと(講談社+α文庫) | 黒田草臣 | 講談社 | 2009年10月20日 | 9784062813198 |
☆ Extract passages ☆
ある夏の夜、小山富士夫宅に東京国立博物館の若手職員が集まり、ガーデンパーティーをすることになっていた。これを聞いた魯山人は二階堂の小山宅にやって来た。おもむろに風呂敷包みを拡げると、
「みなさん!ビールも酒も飽きたでしょう。僕が煮ふくめた身欠き鰊をもって来たので召し上がってください」
と、鉢に盛り付けた。魯山人は石鹸で手をよく洗ったあと、
「奥さん、生妻をたくさんおろしてくれませんか? 多めに、そう、そのくらい。氷と砂糖を少々……、ええ、それとジンをください」
小山夫人はあわてて指示に従う。
魯山人は大きな鉢に生妾を絞り、ビールを開け、そこにジンと砂糖を加えながら味見をし、頷きながら氷を入れて攪拌した。これをグラスに取り分け、
「どうぞ、どうぞ!」
とすすめた。一同は鰊の美味に舌鼓を打ち、さらに魯山人の鮮やかな手捌きと、目の前ででき上がった魯山人風ジンジャーエールの新鮮な味に大感激。これをみて魯山人は、
「じゃあ、失敬!」
と待たせてあった車で風のごとく走り去った。
(黒田草臣 著 『魯山人おじさんに学んだこと』より)
No.751 『山伏と僕』
表紙に、黄色のバックに、頭襟(ときん)らしきものを着けた山伏が描かれていて、それが目に付きました。サラッと立ち読みしてみると、出羽三山で山伏修行をしたようで、そのときの思いなどが描かれていました。
でも、たしか、羽黒の山伏は頭襟ではなく宝冠をつけるはずと思い、それでも興味があり、読み始めました。
著者は千葉県に住むイラストレーターで、2006年に大聖坊という宿坊で山伏修行を初め、出羽三山に通い続けているそうです。そういえば、出羽三山では、新聞などにも「秋の峰入り修行」などの記事が載りますが、それにも参加されているそうです。
最近は「なんとか体験」ばやりですが、おそらくこの山伏体験もそのようなものと思いながら、読んでいました。
でも、著者はあまり深刻に考えずに、いっしょに修行した方の「てけとー」、つまり適当にするということもいいと思い当たります。考えてみれば、「適当」という言葉は、「ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること」ですから、それなりに合理的なものです。山には入ってしまえば、最初の計画通りに進むことの方が少ないと思います。そのときには、あまり深く考えずに、その時その時に最善の選択をすればいいわけで、それが理にかなっています。
この本の中で、今まで気づかなかった自然の奥深さみたいなことが書かれていますが、私たちのようにつねに自然の懐にいだかれて暮らしていれば当たり前のことも、千葉といういわば人口密集地帯に住んでいれば、新鮮な感動があるのも頷けます。自然が向こうにあるのではなく、自然のまっただ中で暮らしていれば、つい忘れてしまいがちなことも、この本で思い起こさせてもらいました。
たとえば、ここ小野川でも雨上がりなどによく虹が出ますが、羽黒山の石段を登りきったところに出る虹を見て感動するのは、ある意味、当然かもしれません。よく、虹の出るところは決まっているといいますが、たとえ決まっていたとしても、そこに初めて行って虹に出会えば、それはたしかに感動します。さらにちょっと大変な思いをした後で見れば、さらに感動の輪が広がります。
自然は、あまりにも奥行きが広く、際限がないと感じるときがあります。修行仲間たちと鳥海山に登ったときにブロッケン現象に出会いましたが、もし、その現象を知らずに初めて体験したとしたなら、相当な印象が残るような気がします。当たり前と思ってしまうと、すべてが当たり前ですが、これは当たり前ではない、不思議だと思えば、それは大きな感動につながるかも知れません。
この本を読みながら、そのようなことを考えていました。
(2012.9.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 山伏と僕 | 坂本大三郎 | リトルモア | 2012年4月23日 | 9784898153376 |
☆ Extract passages ☆
仏教や神道に影響されて、清浄な人間でなければならないと考えている山伏もいますが、山伏は仏教や神道がこの列島に影響をあたえる、遥か以前にさかのぼる文化なのです。かつての山伏は仏教理論などの教義とは無縁で、そういった考え方に縛られることなく、そのままの自分を生きた人たちでした。
だからこそ僕は山伏に惹かれました。深い山の中へ入って、自分の身体を通して、かつての人たちと同じように自然と向き合ってみること。毎日の生活の中で、そのままの自分を生きること。それが僕にとっての山伏です。そこにこそ日本文化の原点、人間の普遍性が存在するのだと、僕は考えているのです。
(坂本大三郎 著 『山伏と僕』より)
No.750 『植物はすごい』
これも題名の『植物はすごい』だけに惹かれて読み始めたのですが、前回と違い、興味があるせいかとてもおもしろくて、サーッと読み、さらにもう一度熟読し、さらにさらに何ヶ所も抜き書きしました。後から枚数を数えてみたら、21枚にもなっていました。
最初に抜き書きしたのは、「私たち人間の場合には、親の地盤が引き継がれることほよくあります。・・・・・・私たち人間にとっては、「親の地盤を引き継ぐ」というのは、利点があるような印象を受けます。でも、植物たちにとっては、親の地盤を引き継ぐことは、よくないことなのです。植物たちは、子どもたちが親の地盤を当てにせずに、親とは別の場所で生きていくことを望んでいます。その思いを込めて、子どもたちを親の地盤から新天地へ送り出すのです。新天地といえば聞こえはいいのですが、生きていけるのか生きていけないのかがよくわからない未知の場所です。」というもので、そのたとえとして国会議員の地盤を上げていました。ちょうど今、民主党も自民党も総裁選を争っていますが、多くの国会議員が二世、三世です。まさに世襲とでもいうべき状況です。もう少し、植物の世界を見習って欲しいと思います。
たしかに、植物はすごい力を持っていると思います。たとえば、光合成ですが、植物は根から吸った水と空気中の二酸化炭素を材料にして、太陽の光を利用して、葉っぱでデンプンなどをつくります。もし、これと同じことを人間がつくれるなら、食糧不足で悩むこともなくなるはずですが、これができないのです。植物がたった1枚の葉っぱでもできることを、人間はどんな大きなプラントを作ってもできないのです。
この本には、植物のすごさがたくさん出てきます。おそらく、今まで知らなかったすごさもあるはずです。
私の場合は、ピーナッツの殻の秘密です。これにも、当然ながらそれなりの理由があるとは思っていましたが、その理由を知り、ほんとうに「まさか〜!」でした。
ぜひ、植物が好きなら、お読みいただきたいと思います。
(2012.9.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 植物はすごい(中公新書) | 田中 修 | 中央公論新社 | 2012年7月25日 | 9784121021748 |
☆ Extract passages ☆
高山植物の花には、美しくきれいであざやかな色をしているものが数多く存在します。空気が澄んだ高い山の上には、紫外線が多く注ぐからです。また、太陽の強い光が当たる畑や花壇などの露地で栽培するカーネーションと、紫外線を吸収するガラスで囲まれた温室で栽培するカーネーションを比べると、露地栽培のカーネーションの花の色はずっとあざやかです。紫外線を含んだ太陽の光を直接受けるからです。
植物たちは、健康に生きるために、紫外線や太陽の強い光から、からだを守っています。紫外線や強い光という有害なものが多ければ多いほど、植物たちは色あざやかに魅力的になるのです。植物たちは、逆境に抗して美しくなるのです。逆境に出会えば、苦労しなければなりません。その苦労をすることが魅力を増すことにつながるのです。
(田中 修 著 『植物はすごい』より)
No.749 『辺境の地をゆく』
『辺境の地をゆく』という題名にだけ惹かれて読み始めました。著者も知らなければ、出版社も月刊誌『MOKU』というのを出していることぐらいしか知らない、ほんとうに何も知らずに読み始めたのです。
ほとんどは、すでに月刊誌『MOKU』に連載されたものに加筆や修正を加え、さらに再構成されたものだそうです。
第1章の「吟遊科学者、辺境をゆく」を読んで、自称「辺境生物学者」というのが書き出しから始まったので、これはおもしろそうと思いました。でも、いまは砂漠の微生物(菌)が研究テーマだと知り、ちょっと自分の興味とずれているかなとも思いました。そして、読み進めるにしたがい、だんだんとはなれていくのを感じました。
著者は現在は広島大学准教授で、ご専門は、生物海洋学、微生物生態学などで、とくに辺境などの苛酷な環境で生きている生物の探索調査に出向くとありました。つまり辺境の地というのは極地だったり、海洋の島だったりするわけです。
そして、海が出てきたり、微生物が出てきたりすると、だんだんと読むのがつまらなくなりました。
やっぱり、自分の興味は海よりも山ですし、微生物より植物たちです。もちろん、素人ですから、きれいな花が咲く植物たちが一番好きなんです。そう考えると、船酔いがどうのこうのと言われてもあんまり感動もありません。
最初は辺境というのはおそらくヒマラヤとかカリマンタンとか、あまり人の入っていない地域というイメージがありましたが、そうではありませんでした。やはり、ご専門がご専門ですから、それから離れて研究をするというのはあまりないわけです。
だから、最後はさーっと読んでしまい、あまり印象に残りませんでした。もちろん、これは著者の問題ではなく、私個人の興味の問題ですから、関心のある方はお読みください。
(2012.9.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 辺境の地をゆく | 長沼 毅 | MOKU出版 | 2012年5月11日 | 9784900682849 |
☆ Extract passages ☆
冒険でも探検でも「生還」というミッションは自分で成し遂げるもの、けっして人まかせ、運まかせではありえない。自分の生命は自分で守る。こんな当たり前のことを当たり前にできることが冒険者の要件であり、そういう人の集団が探検隊なのだ。
(長沼 毅 著 『辺境の地をゆく』より)
No.748 『非アメリカを生きる』
題名の『非アメリカを生きる』の「非アメリカ」ってなんだろうと思いながら、読みました。でも、いかにもアメリカらしいアメリカと対比させると、アメリカの歴史の重要な部分を作った清教徒にとってのアメリカではすでになく、むしろ非アメリカの人たちが新しいアメリカを作っていったのではないかといいます。たしかに、新しい革袋にしか新しいものは詰め込めないようです。
この本では、第1章「最後のインディアンが見たアメリカ」、第2章「ハンクとジャックはスペインに行く」、第3章「マイルスはジャズを演奏しない」、第4章「ビートたちのブッダと鈴木老師」、第5章「ハムサンドを食べるユダヤ人」に分けて書かれています。それぞれにおもしろく、第2章のスペイン市民戦争でフランコ反乱軍と戦った国際旅団のことなどは初めて知りました。
また第4章のアメリカの仏教についてのことも、興味深く読みました。たとえば、鈴木俊隆老師の法話で、『肝臓ガンが発見されて余命が幾ばくもないことが分かったあと、ある法話で彼は、悲壮な感じなくこう話す。「これまで私はたびたび死について話をしてきましたが、私が死んでいくのを見るのは、死を学ぶいいチャンスとなるでしょう。多くの若い人が死を怖れています。それが怖るるに足りないことを、みなさんにお見せしましょう」。そうやって、自分の死を、教え(ダルマ)の教材に使ってしまう。あるいはまた、「忍耐力(patience)を発展させることが重要ですよ。もっともその忍耐力を発展させるためには、忍耐力が必要ですがね」と笑いながら言って、安心感と同時にもっと修行をしようという気持ちを弟子たちに与えることが出来たのは、彼が一流の教師であったからである。』というのは当然です。どちらかというと、言うこととすることが違う方はたくさんいますが、言行一致の方はほんとうに少ないと思います。
また、著者は、「1980年代の中ごろから、私は東京とカリフォルニアを行ったり来たりするようになって、ふたつの生活と言語と文化と価値の違いの問で混乱が起こり、アンカー(錨)が必要になった。仏教はそのアンカーとなった。私が仏教を学びはじめたのは、まったく実用的な理由だったのである。」というのは、ある意味、これこそが本来の仏教であり、ブッダの教えでもあります。
今の日本を考えるのに、この本はとても参考になると思います。興味を持ったら、ぜひ、お読みください。
(2012.9.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 非アメリカを生きる(岩波新書) | 室 謙二 | 岩波書店 | 2012年7月20日 | 9784004313779 |
☆ Extract passages ☆
バラク・オバマがアメリカ大統領になったことは、私たち家族にとっては大きなことだった。アメリカに住む私たちの家族は人種混合グループで、妻の孫たちは混血である。ホワイトハウスの記者会見で、オバマは娘たちが飼う犬が血統書付きでないことに触れて、「私もmutt(雑種)だからね」とわらいながら言った。大統領が公式の記者会見で、犬の雑種を呼ぶ言葉で自分を形容したことに驚いた。そこには自分が黒人との混血であることを、普通のこととして引き受けようという自信のようなものがあったから。そういう人間がアメリカの大統領になったことは、アメリカに住む人種混合と混血の家族にとっては大きなことだった。何しろこれまでの43代の大統領は、すべて白人であった。
(室 謙二 著 『非アメリカを生きる』より)
No.747 『哲学する骨董』
この本の題名の前に、「哲学者クロサキの」という但し書きが付いていて、まさに実践者としての得意満面な自分の写真が表紙に印刷されています。もともとの専門はカント哲学だそうで、NHKなどのメディアでもときどきお見受けします。
この本は、自分の骨董蒐集の遍歴やその思いを綴ったもので、そもそも骨董蒐集と「日常の中で美と価値とをわが眼で発見し、その発見に金銭を賭す、という行為なのである。美は発掘なのか、創造なのか。論理的には回答不能なこの問いを、実践を通して答えを出そうとすること。」であると、書いています。つまり、骨董というものは、買ってみて初めてわかるものだといいます。小林秀雄などは、「器物の美しさは、買うと買わぬとは関係あるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である」といいます。
私も、高いものは買えませんが、手に入れて毎日眺めたり使ったりして楽しむことが喜びだと感じています。とくに、お茶に使う道具などは、使ってみて初めてわかることがたくさんあります。使わなければ、手に取ってみなければ、なんにもわからないということでもあります。
それと、みんなが皆、いいものだと思えるモノもありません。自分が良いと感じられれば、それで十分です。自分がお金を払って手に入れるモノですから、他人がどう言おうとほとんど関係ありません。
私の骨董との出会いは、大学のときからですから、そうとう年季が入っています。家を建て直したときに、一時疎開させましたが、今、少しずつ自分の部屋に運び入れています。そして、その手に入れたときの思いを思い出しながら、一人浸っています。茶碗なら、それで一服のお茶を飲んで、楽しんでいます。私には哲学するほどの学問はありませんが、骨董を楽しむにあまり情報は必要ないと思っています。
まあ、骨董もいいですが、もともとは陶磁器が好きなので、なるべく使えるモノを手に入れたいと思ってます。
骨董に興味のある方には、お勧めの一冊です。
(2012.9.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 哲学する骨董 | 黒崎政男 | 淡交社 | 2012年4月29日 | 9784473037848 |
☆ Extract passages ☆
骨董を買うということは、モノを買うというよりは、そのモノにこもっている時間を買うのだと思う。そのモノが時代を超えて経てきたであろうさまざまな時間が、いわば結晶している。長年受け継がれてきた数多くの人々の人生とともにあったであろう時間の蓄積。骨董のニセモノがあんなに厭なのは、機能や姿形がどんなに似ていても、そこには、詰まっているはずの時間の結晶が欠落しているからである。いや、欠落しているという思いが、新物に対する嫌悪感の根源である。
(黒崎政男 著 『哲学する骨董』より)
No.746 『茶碗と茶室』
茶の湯つながりで、今回はこの『茶碗と茶室』を読みました。というか、この「とんぼの本」は写真が多いので、読む部分が少なく、見る部分が多い構成になっています。
副題は「茶の湯に未来はあるか」というもので、たしかに茶の湯人口は減っているようです。というのは、よく話題に上るのが正座ができない若い人たちが多いとか伝統文化に対する興味が少なくなってきたとか、いろいろの理由があげられます。でも、一番の理由は、昔のような行儀見習いが必要なくなってきたからではないかと思います。もともと茶の湯は男の世界でしたから、そこに帰るのも一つの手ではないかと思います。
そういう意味では、前回の茶の湯は家元という表千家の正当派からの話しでしたが、今回は樂吉左衛門は千家十職の家柄ではありますが、ちょっと異端派的なニオイがしますし、川瀬敏郎にしても流派に属さないフリーな立場での華道家ですから、とてもおもしろく対談などを読みました。
たとえば、「樂 東京へ出て彫刻をやったのも、それから逃れるためだったような気もするし。でも結局、彫刻は作れなかった。そのときイタリアで、茶碗のことを考えたんです。茶碗なら作れるかもしれな
いと思った。
川瀬 何が違うんだろう、彫刻と。
樂 茶碗は器だから。誰かが使ってくれる道具という、少なくともその一点においてはこの世界に存在する意味がある、と思った。それが救いだった。
川瀬 そうか。私は逆に、小さいときから花をいけるのが好きでした。実家は花屋で、池坊発祥の地とされる頂法寺六角堂の前にあり、代々池坊に花を納めていた。昔は花を売るだけでなく、いけるのも花屋の仕事だったから、四、五歳のころから番頭にくっついて京都の町家をまわって、私も花をいけていた。・・・・・・
樂 能や歌舞伎と違うのは、ものが残っていることだよ。そのもの自体から学べばいい。僕も技術的なことは父親から何も教わらなかった。それに技術といっても、窯焚きは手伝うから覚えるし、茶碗は轆轤を使わず、手で土をこねてかたちにするわけだから、教わるようなことでもない。土も釉薬も製法も、桃山の長次郎のころからかわっていない。かわってはいないけれども、土も釉も火も、ひとつとして同じものはないから、決して思い通りにならない。そこがやきもののよいところかな。絵画、彫刻、デザインとも違う。」
おもしろいでしょう。制作者でなければこのような対談はできないと思います。昔、赤坂にあったサントリー美術館で「樂歴代展」観たことがありますが、近年の作者で当代が際立っていたことをこの言葉を読みながら思い出しました。
下に抜き書きしたのは、樂吉左衛門の茶碗に対する思いのようなものです。その茶碗製作のすさまじい取り組みの一端を垣間見る思いでした。
(2012.9.7)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 茶碗と茶室(とんぼの本) | 樂吉左衛門・川瀬敏郎・木村宗慎 | 新潮社 | 2012年5月25日 | 9784106022326 |
☆ Extract passages ☆
この静けさの中に秘される嵐のごとくに渦巻く激しさが、長次郎茶碗の本体だと僕は思い続けてきた。小さな茶碗という器物にすぎないものの中に、これほどの激しさが宿っているとは。僕はその激しさを、僕の茶碗の中に取り戻したいと思った。決まりきった「侘び」だの、茶の湯の意識に飼い慣らされた考えや感性や美意識を、根本から揺さぶり突きはなし葬り去る。茶の湯の世界をそう簡単に居心地よいとは言わせまい。僕は僕の作る茶碗を、ごつごつ激しく角張り切っ立て、長次郎の黒き茶碗とは対照的に強い色彩の対比に曝した。長次郎も待庵も一切関わりのないかのごとき現代の茶の世界、空疎な現代の社会に向かって、僕の茶碗は、激しくとんがりながら牙をむく。(樂吉左衛門)
(樂吉左衛門・川瀬敏郎・木村宗慎 著 『茶碗と茶室』より)
No.745 『茶の湯 こころと美』
この本は、平成17年1月に表千家ホームページ「茶の湯 こころと美」が開設され、その中心となる内容と地図や年表などの資料をまとめたものだそうです。この本が表千家監修となっているのは、そういう理由からです。
もともとこの発売元の河原書房は、いわば表千家の本を主に扱っていて、なんどかその書店にも行きましたが、お茶の本だけでなく、日本文化の様々な本を扱っていました。
この本の内容は、茶の湯やお茶そのものを知らない方でも、概略を知るにはとてもよくまとまっています。もちろん、家元中心の茶の湯のとらえ方ですけど、もう少し数奇者の茶の湯も取り上げてもらえればと思いましたが、それはこの本の性格からいっても難しいと思います。
それでも、「見立て」については、茶の湯の原点といっていますから、それはとても大事なことだと思います。あまり道具にこだわるより、先ずは茶に親しんでもらうことです。たとえば、その茶心があれば、「旅先でその土地の伝統工芸品などを眺めつつ、これを蓋置や香合として見立てられないかなど考えながら歩くのも旅の楽しみであり、茶の湯の生活の楽しみでもあります。また、すぐれた美意識をともなった「見立て」の心が、各地の伝統工芸や伝統産業を活性化させる可能性もあるでしょう。」というのは、とてもよいことです。
下にお茶の効用を抜き書きしましたが、お茶はとてもすばらしい飲みものです。茶の湯に関心のある方だけでなく、抹茶や煎茶、ほうじ茶などなんでもいいですから日本茶を飲んでみてください。
(2012.9.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 茶の湯 こころと美 | 不審菴文庫 編 | 河原書店 | 2008年10月10日 | 9784761101671 |
☆ Extract passages ☆
茶には独特な成分があります。第一はカフェインです。カフェインは人間の精神に覚醒作用を起こします。つまり眠気をとり頭をすっきりさせる、そういう効能があります。それは心の鬱屈したものをとり除くという意味で、古くから心を癒す飲みものという性格を茶に与えてきました。茶の味わいはテアニンというタンパク質の一種がその効果を助けています。いわゆる茶のうまみあるいは甘みといわれるものが、このテアニンの舌に与える刺激といえるでしょう。テアニンがたくさん含まれる茶の葉は、覆い下でつくられた玉露や抹茶に強くあらわれます。
茶の渋みはタンニンの持つ味わいです。タンニンという成分には、最近さまざまの細かい分類が加えられていますが、そのなかでカテキンといわれる成分が注目されます。カテキンは非常に大きな薬用効果を生む成分で、抗酸化作用をはじめガンを抑制する機能や高血圧あるいは心臓病に対する効果、あるいはインフルエンザウィルスに対する抑制効果、O-157の繁殖をとめる等々の効果が医学的に確認されています。
心を癒すカフェイン、味覚を満足させるテアニン、体の健康を保持するカテキン、こうした茶の持つ薬用効果あるいは心への癒しの力は、現代社会のなかでますます注目されるところです。
(不審菴文庫 編 『茶の湯 こころと美』より)
No.744 『知ろう 食べよう 世界の米』
何度か書いていますが、この岩波ジュニア新書はとてもわかりやすく、ものの概略を知るにはとても重宝しています。今回の本は、世界のお米についてで、それを知るだけでなく、味わって食べるということにも言及しています。それがおもしろいところです。
また、今まで何気なくジャポニカ米とかインディカ米と言っていたのですが、この本にその由来が書いてあり、あらためて目から鱗が落ちました。
それと、昨年のタイの洪水ですが、起こるのが当然で、いわば毎年の恒例行事みたいなものなんだそうです。ただ、昨年は少し多かっただけで、地元の人たちはあまり気にもしていなかったそうです。その証拠に、今回の洪水の地区には昔から「浮稲」というお米があります。これは、「浮稲は、身体の大半が水没するとそれを感じ取って、茎を伸ばす遺伝子に指令を与えます。この遺伝子は植物ホルモンを作る遺伝子で、普段は働きを止めていますが、穂が出る前など、茎を伸ばさなければならない時期になると、スイッチが入り、茎を伸ばすしくみです。茎のように見えるのは葉鞘といわれる、葉の根元の部分です。浮稲は、タイの中央平原だけでなく、メコンデルタ、ガンジスデルタなど、モンスーンアジアのいたるところにあります。そして、品種にもよりますが、数メートルの深さの水にも対応して茎を伸ばすことができます。」と書いてありました。つまり、いくら洪水があったとしても、イネは育ち、生活できるというわけです。
また、イネは短日植物だと知識ではわかっていたのですが、ロシアなどの北方地域では夏の昼間の時間が極端に長いので、短日植物のままでは開花しませんが、そこで、短日性を持たないタイプのイネを栽培しているそうで、短い夏の間に生育し、花を咲かせ、成熟するという早生品種になるわけです。つまり、高山植物みたいな育ち方をします。
こうしてみると、米もいろいろで、その食べ方もいろいろなようです。
この本を読み、もっと米のことを知りたいと思いました。
(2012.9.2)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 知ろう 食べよう 世界の米(岩波ジュニア新書) | 佐藤洋一郎 | 岩波書店 | 2012年7月20日 | 9784005007202 |
☆ Extract passages ☆
糖質を生産できるのは植物だけです。だから、どの動物も、植物が作る糖質を、何らかの形でもらって生きています。人間は雑食性の動物です。糖質は植物から直接とることができます。肉食動物はどうしているのでしょうか。確かに、彼らは植物質の食べ物を積極的に食べることはしません。その代わり彼らは、草食動物の内臓や血液を積極的にとっていて、その身体に蓄えられた糖質をとっています。結局、肉食動物も糖質を必要としているのです。
農業を覚えてからの人間は、身体にとり入れる糖質のうちデンプンのウエイトをしだいに高めてきました。デンプンのウエイトが急に高まったのは、文明がおこり、都市ができてからのことです。とくに、イネ科やマメ科作物などの種子は、水分も少ないので腐りにくく、貯蔵もしやすく、また運びやすい特徴をもちます。
(佐藤洋一郎 著 『知ろう 食べよう 世界の米』より)
No.743 『知りたがり屋たちの質問』
ちょうど子どもたちの夏休みということもあり、ついこの本が目に付きました。著者は、カリフォルニア大学サンディエゴ校の教員で、サイエンス・ライターでもあるということでした。
その略歴を見ただけでも、科学の世界の不思議を見せてくれるのではないかと思い、読み始めました。
第1章「人類の発明品」、第2章「化学の不思議」、第3章「私たちの体について」、第4章「病気あれこれ」、第5章「生命の神秘」、第6章「健康が大事」で、それぞれ、子どもたちが関心のあるテーマが載っていました。
たとえば、「エンジンの1馬力と実際の馬1頭分の力は同じですか」とか、「コードが曲がるのはなぜ?」とか、です。そういえば、電気のコードも最初はまっすぐ伸びていても、使い続けているうちに丸まってしまいます。やはり、なぜ、と思います。
その答えは、「コードは、時間の経過とともに、曲げる圧力がかかったり日光があたったり、温度変化にあったり化学物質に晒されたりするなど、さまざまな作用を受けます。そして、そのことでポリマー分子の配列が崩れたり、分子どうしが再結合したりします。こういったことがコードの外皮を変形させ、硬化させているのです。」と書いてありました。
下に抜き書きしたのは、子どもの疑問というより大人の疑問のような気がしますが、タバコのニオイは、吸わない人ほど敏感に感じるものです。でも、こんなにきれいな空気を汚すとは知りませんでした。
(2012.8.31)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 知りたがり屋たちの質問 | シェリー・シーサラー 著、中村安子 訳 | 飛鳥新社 | 2011年11月9日 | 9784864101172 |
☆ Extract passages ☆
人ははんの少しの煙でもタバコの臭いを感じます。ある研究では、一本のタバコから出る煙を十分に薄めるためには、3,000立方メートル(25メートルプールの5.5倍ほどの空間)の新鮮な空気が必要だとしています。また、布を織り成している多くの織維の表面には煙の分子がたくさんつきますので、衣服にはタバコの臭いがつきやすいのです。
(シェリー・シーサラー 著 『知りたがり屋たちの質問』より)
No.742 『隣のアボリジニ』
以前から読み続けていたのですが、8月25〜26日とお茶の仲間と益子焼や笠間焼を見に行き、そのときに宿泊したホテルで読み終わりました。26日は星野富弘美術館に行き、一つ一つの絵に言葉に、感動しました。
この本は、2000年5月に筑摩書房より単行本として刊行されましたが、その年の9月にシドニーオリンピックがあり、開会式で聖火の点灯をしたのがアボリジニであるキャシー・フリーマン選手でした。今年のロンドンオリンピックを見ながら、また、あのときのことを思い出しました。それまで、ほとんどアボリジニのことを知らなかったのですが、オーストラリアにアボリジニという先住民族がいるということだけは多くの人たちが認識できたのではないかと思います。
そして、キャシー・フリーマン選手が陸上400mで金メダルをとったとき、オーストラリアの国旗とアボリジニの旗をいっしょに身にまといトラックを1周しました。それも記憶に残りました。
でも、ただそれだけで、いつの間にか10年以上も過ぎ、たまたま今年の3月にオーストラリアのダーウィンに行くことになりました。そして、実際に行ってみると、そこがアボリジニの多く住むところで、カカドゥ国立公園も、今はアボリジニが管理するところでした。
ダーウィン市内でも、多くのアボリジニを見ましたし、この本に書かれているようなことも体験しました。
やはり、知ると見るのとでは大違いで、とてもいい体験をしました。その後でこの本を読み、さらにアボリジニのことを知るきっかけになりました。うわべだけを見ると、白人と同じ扱いをすることが当然と思っていましたが、それでは決して平等ではないということもわかりました。そもそも最初のスタートからして違うわけです。
それでも、今は「劣った文化」として否定されてきた「アボリジニ文化」も見直され、それに誇りを持つアボリジニの人たちも増えてきたようです。そもそもアボリジニというのは、最後に書いてある池上彰の解説によると、『英語の「aborigines」(原住民)という単語から来ています。イギリス人がオーストラリアを植民地にした際、先住民をひとくくりにして、こう呼んだのが語源です。もともとは失礼な呼び名なのです。・・・・・・他者から勝手に「原住民」と名づけられた彼らですが、やがては、白人たちに対抗する自分たちの存在を、「アボリジニ」と自称するようになっていきます。自分という存在を、他者と比較することで自覚していくというプロセスが生まれたのです。』だそうです。
この本を読んで、白人が植民地化し、そして盗まれた世代があり、そして今も多くの困難をかかえていることが若き文化人類学者の目と耳と全ての感覚器官を通して書いています。とても新鮮な感じがしました。今まで映画で見たアボリジニとシドニーオリンピックでのアボリジニしか知らなかったのですが、もしかすると同じアジア人の血が流れているのではないかとさえ思いました。そして、これを書きながら、カカドゥ国立公園内で見たアボリジニの描いたたくさんの絵を思い出しました。
(2012.8.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 隣のアボリジニ(ちくま文庫) | 上橋菜穂子 | 筑摩書房 | 2010年9月10日 | 9784480427274 |
☆ Extract passages ☆
アボリジニにとって、大地は人間が売ったり買ったりできるような対象ではありません。大地というのは、水や大気や動植物、そして、精霊たちが一体となった〈世界〉であり、人はその大地が健やかにあるよう世話をする者に過ぎないからです。
白人がフェンスを作って囲いこみ、勝手に「自分の牧場(ステーション)」にしてしまった大地には、彼らが生涯かけて世話をしなくてはならない「聖地」がありました。そこを守り、自分の故郷の森羅万象を守りながら生きることは、祖先である精霊たちが世界を創造したときにできあがった「法」――森羅万象と人の営みのすべてを含みこむ掟に定められていたので、アボリジニたちは、なんとか自分たちの故郷から離れずに生きていこうとしたのです。
(上橋菜穂子 著 『隣のアボリジニ』より)
No.741 『アップルのデザイン』
表紙を見ただけで読みたくなりました。真っ黒な地に白いアップルのリンゴ、表題もシンプルな『アップルのデザイン』と小さな文字で「ジョブズは"究極"をどう生み出したのか」と書いてありました。
もともと「日経デザイン」はビジネスや経営にデザインを活用するための総合情報誌ですから、この『アップルのデザイン』にも強い関心があったのだと思います。文の中で『 国内の多くのメーカーが手がけたのが、「良いデザインの商品を作ること」だ。それは、ビジネス全体のある1点だけにデザイン資源を投入したに過ぎないアプローチ方法だ。これに対してアップルがデザインしたのは、商品の外観のみといった狭い範囲のものにとどまらなかった。アップルがデザインしたのは、「顧客とのあらゆる接点」だ。商品の存在を知り、商品を買いに行き、実際に使って生活する。そのすべての場面で消費者が得る一連の体験を丹念に作りこみ、いかなる場面でも顧客を迷わせず、がっかりさせず、そしてそのうえで顧客の予想を超えるようなサプライズを用意したのだ。』と書いています。
だから、イベントでもアップルストアーでも、すべてにアップルらしさが前面に出ているのです。
この本は、デザインを扱うだけに、文章と写真や図が半々で、とても理解しやすく構成されています。初期のアップルの製品は、いわば憧れてはいても高くて買えなかったし、iMacを買おうかとだいぶ迷ったけれど、DOSのパソコンのほうがソフトが充実していて、それもあきらめました。新製品が出ると、いちおうチェックはするけれど、なんとなくデザインは気に入っても使い勝手で二の足を踏む状態でした。
そして、唯一、アップルの製品で持っているのは、iPad mini です。それまで使っていたソニーのWALKMANより、本体もソフトも使いやすそうだったので選びました。一番のポイントは、やはりそのデザインで、アルミの無垢の感じが小さな筐体にもかかわらず、存在感がありました。
今でも、アップルのコマーシャルで一番好きなフレーズは「クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち・・・・・・しかし彼らを無視することは誰にもできない。彼らは物事を変えたからだ」です。まさに、アップルもクレージーな人たちと同じように世の中の物事を変えていると言わんばかりのフレーズです。しかも、マハトマ・ガンジー、トーマス・エジソン、ローザ・パークス、パズ・オルドリン、アメリア・イヤハートなどの白黒写真を使ってキャンペーンをしたのです。
やることなすこと、やっぱりアップルはすべてにわたってアップルなんだ、とこの本を読んで思いました。
(2012.8.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| アップルのデザイン | 日経デザイン 編 | 日経BP社 | 2012年4月23日 | 9784822264765 |
☆ Extract passages ☆
ジョブズ氏を知るあるデザイナーは「スティーブが持つモノの良し悪しの基準は、"ラブ(とても好き)"か"ヘイト(大きらい)"の2つしかない」と解説する。デザインにかける強い思いが、世界中で熱狂的なフアンを生みだす製品作りにつながった。
「デザインのことはよく分からない」。経営者からよく聞くこんな台詞は、おそらくジョブズ氏の視点から見れば、消費者に対する背信行為と見えたのではないだろうか。
(日経デザイン 編 『アップルのデザイン』より)
No.740 『日本人を繰る8つの言葉』
著者はスウェーデン人と結婚し、ヨーロッパで長く暮らし、現在は南仏プロヴァンスに居をかまえています。でも拠点は日本に移し、幅広い視点から日本に関する執筆活動をしているそうです。
そういう意味では、この本はいわゆる「日本人論」であり、外国との比較において、その独特のヘンなこだわりなどを描いています。それを8つの言葉で表現しています。
目次を見ると、第1章「人間関係」、第2章「スケジュール」、第3章「派閥」、第4章「世間体」、第5章「自己実現」、第6章「情報」、第7章「若さ」、第8章「創意工夫」とに分かれています。
その、それぞれの言葉から生まれるさまざまな事柄をヨーロッパなどと比較しながら描き出していますが、なるほど、世界の人たちはそのように日本を見ているのかということがわかります。しかも、「派閥」にいたっては、昔の藩が会社に変わっただけと表現し、むしろそういわれれば納得できることが多々あるように思います。
たとえば、よくグローバル化といわれますが、この本では「グローバル化とは、英語を話すことでも、海外に出ていくことでも、外国人の社長が来ることでもない。まずは日本人の帰属意識(村意識)を変えることから始めないと、どんなに英語ができても何も変わらないであろう。」といい、これもなるほどと即座に納得してしまいました。
また、日本では、会社の名刺一つを公私にわたり使っている人が多いようですが、それだって考えてみればおかしな話しです。会社の仕事ならならいざ知らず、プライベートまでそれを使うのはおかしなことです。私は、もちろん公用と私用の名刺を2つ使い分けていますが、私用の名刺を差し出すと、もらった人は公用の名刺も欲しいとよく言われます。それでは、わざわざ2つ使い分ける意味がありません。
それを考えると、日本はあまり公用と私用の区別をはっきりと分けているほうが少ないからではないかと思います。
下に引用したのは、世間体を考えるより、自分が一番したいことは何かを考えてもらいたいと思ったからです。
いろいろと思い当たることがあれば、ぜひ、この本を読んでいただきたいと思います。
(2012.8.23)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 日本人を繰る8つの言葉(角川oneテーマ21) | デュラン・れい子 | 角川書店 | 2012年4月10日 | 9784041102220 |
☆ Extract passages ☆
フランスでは「大学に行かなくても、別にどうってことはない」と皆思っているし、中学を出てすぐ働きはじめる子も多い。愛する家族を養い、夕食のあとの団らんを共にし、家族でバカンスに出かけ、それで人生は十分だという人がたくさんいるのだ。
例えば配管工のスティーブは、中学を出てすぐ親方の弟子になった。彼の初仕事は、親方の道具箱を持って私の家の流しの修理に来たことだった。自分の初仕事であったこと、相手の私が外国人で片言のフランス語だったことで、強く印象づけられたようだ。
その後、2年に1度くらいは修理や何やらと親方と一緒に来ていたが、会うたびに彼の実力が上がっていっているのが私にもわかった。「鉄は熱いうちに打て」なのかもしれない。「勘やコツを身につけるのは、若いほうがいい」とは、こういうことであろう。
彼は大学に行こうなどとは思わなかったし、専門学校すら考えなかったという。
(デュラン・れい子 著 『日本人を繰る8つの言葉』より)
No.739 『唐津 All of Karatsu』
このようなビジュアル系の本は、時間的にゆとりのないときに読んだり見たりしています。今回は旧盆なので、急にお客さんが来たりするので、ゆっくり本を読めないので、この手の本を読んでいました。
東日本では、焼きもののことを瀬戸物といいますが、西日本では唐津物というと聞いたことがありますが、それほど唐津焼には多くの窯元と作家がいるようです。おそらく、それを雑誌風に取り上げたのがこの本です。
唐津焼は歴史もありますし、代々続いてきた中里太郎右衛門などの名家もありますが、若い作家も育っているようです。だいぶ前のことになりますが、渋谷の黒田陶苑に行った時に、中川自然坊の茶碗を見て、その野性味あふれる姿にびっくりしました。でも、今思えばそんなに高くはなかったのでしょうが、出張途中のことで、買うのをあきらめたことがあります。その同じような茶碗に再び会ったのが、今はない山形松坂屋デパートの画廊でした。そのときには、もうだいぶ高くなっていたのですが、その係が知り合いだったこともあり、安くしていただき、今、手元にあります。ところが、この本で知ったのですが、齢58歳で2011年12月に死去されたそうで、とても残念です。
この渋谷の黒田陶苑には、その後もなんどかまわり、この本で紹介されている浜本洋好さんの斑唐津茶碗や川上清美さんの彫唐津茶碗などを求めました。もちろん、東京出張の折りには、東京出光美術館で企画展をしているときにまわりますが、必ず陶片の資料室も観ます。この唐津焼の陶片は、西岡小十さんが発掘して小山富士夫氏を通して収められたものです。これら陶片を観ているだけで、その唐津焼の多様さがわかります。
この本のなかで、浜本さんは「唐津焼は使い続けていると驚くほどの変化を見せる。斑唐津などは、わずか5年程度でもはっきりと色が変わってくる」といいます。焼きものの楽しみは、自分が大切に使い続けることで変わってくることも、その一つです。よく、萩焼の七変化などといいますが、それと同じようなものです。
また中川自然坊の「一番難しいものはと言うと、茶碗と迷わず答えが返ってきた。井戸も絵唐津も端正に作ればいいものでもないし、造形的、意識的に崩せばいいものでもない。何より品がなくてはならないのである。今の仕事を中川自然坊はよどみなく話すが、もちろん初めからこのように意識していたわけではない。自分で探してきた土を使い、強烈な焼き方に、刷毛目の荒さを持つ作品は、職人技のようなピシッとした形と比べ荒っぽすぎて、欠点だと思っていたのである。しかし、それは理解者を得、アドバイスを受けるにつれて、長所へと変わっていった。」といいます。
たしかに、中川自然坊の初期の作品は、とても野性味にあふれ、お世辞にも品がいいとは思えなかったのですが、途中から荒っぽさのなかにきらりと光るものが見えてきたように感じました。
おそらく、還暦を過ぎると、また一皮むけてさらにいい作品ができると思っていたのに、とても残念です。
久しぶりに、その絵唐津茶碗を出して、お抹茶を飲みたくなりました。
(2012.8.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 唐津 All of Karatsu | 別冊 炎ほのお芸術 | 阿部出版(株) | 2012年4月10日 | 9784872423310 |
No.738 『超〈集客力〉革命』
著者は金沢21世紀美術館の前館長で、今は特任館長で、さらに兵庫県立美術館長をしているそうで、今までの美術館にはいなかったようなタイプの館長さんです。
著者自らも書いていますが、「日本の美術館は長年、固定客を相手にしてきた。中流か、それ以上の金銭的余裕のある美術愛好家が主なターゲットだった。その結果、堅苦しいイメージができあがり、敷居が高くなった。お行儀のいい観客でなければ入る資格がないような雰囲気になってしまった。」ということは、たしかに昔は実感しました。
でも、最近の美術館は、とても入りやすく、展示の企画もすごく工夫されていると思います。今年の春に行った国立新美術館の「セザンヌ」では、セザンヌの絵だけでなく、セザンヌのアトリエも再現され、実際に使っていたイスやテーブル、そしてよく描いていたわら飾りの壺や瓶などもありました。このようなところで描いていたのか、と、ついまじまじと眺めてしまいました。そして、その絵具の跡に、セザンヌの絵に対する思いとダブらせて観ている自分に気づいたぐらいです。
このようなさまざまな工夫をすれば、必ず多くの人たちに楽しんでもらう施設に、美術館はなるはずですし、そうならなければならないと思います。
それと、私自身、美術館で解説を聞いたこともなければ、あのイヤホーン式の音声ガイドも借りたことがなく、自分が気に入ったものは時間をかけてみますが、あまり興味がなければスーッと通り過ぎてしまいます。まったく自分主義の見方をしますが、著者も『美術館に展示してあるものに正解は一つもない。その作品をどう観るかはまったくの自由だ。もちろん、その作品を制作したアーティストの意図は存在する。しかし、それは決してただ一つの正解ではない。作者も考えていなかったような見方や、読み方ができることが芸術作品の魅力なのだ。優れた作品は作者の意図を軽々と超えて、観客の心のなかで多様な気づきを生み出していく。多様な解釈ができることは、優れた美術作品の条件だと言ってもいい。』と書いてあり、いささかホッとしました。
それはおかしい、と言われても今までのやり方を変えるつもりはないのですが、どうもある種の「答えがない」と見たような気にならない人たちは多いのかもしれません。
下に、著者が理想とする美術館とはどういうものか、という部分を抜き書きしました。参考にしてみてください。
(2012.8.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 超〈集客力〉革命(角川oneテーマ21) | 蓑 豊 | 角川書店 | 2012年4月10日 | 9784041102213 |
☆ Extract passages ☆
私が理想とする美術館は、欧米の美術館のように、何も考えずにぶらっと訪れることができる美術館だ。時間ができたから美術館に行こう、と多くの人に思ってほしい。そして、できれば、遠方からやってきた友人を「この街にはこんな美術館があるんだ」と案内したくなるような場所であってほしい。美術館は市民の応接間のような場所であるべき、というのが私の美術館像である。
そのためには常設展が魅力的でなくては。常設展こそ、本当の意味でその美術館らしさを感じてもらえる展覧会なのだから。
(蓑 豊 著 『超〈集客力〉革命』より)
No.737 『般若心経 心の大そうじ』
旧盆なので、つい手に取ったのがこの本でした。この本の第一刷が発行されたのも8月10日ですから、おそらくお盆を意識されたのではないかと思います。もちろん、著者は元結不動密蔵院住職ですから、旧盆の地域ではないのですが、こちらではついそう思ってしまいます。
この本では、『般若心経』を自分のいろいろな体験などから解説し、さらに語句の意味やその構成内容からも説明をしています。では、なぜ心の大掃除なのかというと、著者は
@まず、窓を開け新鮮な空気を入れる。
A掃除機を満遍なくかけられるように散らかっているものを片づける。
Bはたきをパタパタかけて、ホコリを落とす。
C落ちたホコリを掃除機で吸って、取りきれぬ所のホコリや汚れを拭きそうじする。
Dきれいになったところで、花や置物、絵などを飾る。
を手順として取り上げています。
私としては、Dは必要ないと思いますが、いわゆる一般的な掃除の手順で心を掃除しようという考えではないかと推察します。
この本の中でおもしろい見方だと思ったのは、「悟りに至る方法の一つに、仏さまの真似をしてごらんなさいという教えがあります。お釈迦さまは座禅して悟ったのだから、その真似をして座ろうというのが禅宗です。真言宗でも仏の姿を真似し(印を組み)、仏の言葉を喋り(真言を唱え)、仏の心と一体になる(観想する)ことで、成仏を目指します。」という真似ることの大切さをとらえています。
また、お盆なので抜き書きしますが、著者がやはり現役の僧侶だと思う「法事」の解釈は、「法事というのは、仏教的な意味(功徳を積むなど)の他にいくつかの良い点があります。一つはリユニオン、つまり同窓会的要素です。生きている人間にはなかなか集めることができないメンバーを、葬儀や法事では亡き人が集めてくれます。それだけでも、亡くなった人はたいしたものだと思います。そして、亡き人と生前時間を共有した人が、その間に織り上げた自分の人生を重ね合わせ、亡き人からのおかげ″を感じる機会でもあります。また、親しい人が亡くなってから(それまでの自分を構成していた大切な要素がなくなってから)のわが身の生き方に思いを馳せて、あれから自分はどんな生き方をしてきたかをチェックする場でもあります。」と書いてあります。しかし、もともとお釈迦さまの考え方には、法事そのものも法事が功徳を積むなどという考えもありませんでした。
もし、『般若心経』に興味があったら、読んでみてはと思う1冊です。
(2012.8.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 般若心経 心の大そうじ(知的生きかた文庫) | 名取芳彦 | 三笠書房 | 2007年8月10日 | 9784837976523 |
☆ Extract passages ☆
それぞれの橋を渡って行く時、その渡り方は人によって異なります。性格的なものや、習慣的に身についた渡り方もあるでしょう。
どんな橋でも叩いて渡る人は、用心深いので、スピードは遅く、やることが多くなりますが確実に渡れます。
叩いて叩いて、それでも心配で渡らない人は、一生向こう側へは行けません。
橋を信用できずに、叩き過ぎて橋を壊してしまう人――理屈っぼい人に多そうですが、この人も結局渡れず仕舞い。
別の人に叩かせて、安全だとわかったら、自分も渡るという人もいるかもしれません。
叩かないで渡ろうとする人は、案の定、橋が落ちてたどり着けない。否、ひょっとしたら、橋は落ちずに渡れてしまうかもしれません。
(名取芳彦 著 『般若心経 心の大そうじ』より)
No.736 『世界一幸せな国の97%幸せになる生き方』
副題が「心が軽くなるブータン108の教え」とあり、煩悩の数、108にかけています。著者のペマ・ギャルポ氏は、現在ブータン王国首相顧問と桐蔭横浜大学大学院教授だそうですが、昨年11月ブータン国王が国賓として来日されたときに通訳をされていたのが印象的です。
ブータンは世界で唯一チベット仏教(ドゥク・カギュ派)を国教としていますから、輪廻転生を信じている人々が多数です。この輪廻転生を信ずることによって、「数多ある生命体の中から人間に生まれることは奇跡的な確率です。これまでに、さまざまな事情で生まれてくることができなかった命もあるでしょう。あなたがこの世に生を授かり、今生きていることがとれだけ素晴らしいか」と思えたり、また「肉体的な死が訪れても、意識は次の生に転生して、ドアを開けて隣の部屋に行くようなもの」と死をとらえているそうで、今の部屋から次の部屋に移ると考えれば、少しも死を怖れることはないわけです。
ただ、日本の仏教では、ほとんど輪廻転生を教義には入れていないので、この部屋から出て行けば、それっきりです。
それだけを考えてみても、ブータンの人たちの幸せを感じることとこの輪廻転生の考え方が密接な関係がありそうです。もちろん、それ以外のこともあるのでしょうが、今この世だけで終わると考えると、やはり刹那的になってしまいます。今が良ければいい、たった一度の人生だものと考えてしまうような気がします。
しかも、ブータンの人たちは、もし失敗したとしても、あまりめげないそうです。というのは、次にがんばればよいとか悲しみに浸っていても仕方がないと考え、気持ちを上手に切り替えるそうです。だからおそらく挫折というはっきりした概念もないといいます。やはり、輪廻転生の長い生まれ変わりのなかでゆったりと生きていくという姿勢が感じられます。
下に「無言のルールでうまくいくこともある」という項目を抜き書きしましたが、お互いに知っても知らなくても思いやるという生き方もいいなあ、と思いました。
(2012.8.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 世界一幸せな国の97%幸せになる生き方 | ペマ・ギャルポ | ワニブックス | 2012年6月5日 | 9784847090752 |
☆ Extract passages ☆
「無言のルールでうまくいくこともある」
ブータンには信号機がありません。そのため、お互いに気を遣い合っているので、ゆったに交通事故が起こらないのです。信号機がないことを不便に思うこともありませんし、ましてや意識すらしていないほとです。
もともと信号機がないので、譲ることも譲られることも自然と身についでいますし、イテイラすることもありません。
無言のルールの中でうまく回ることもあるのです。
(ペマ・ギャルポ 著 『世界一幸せな国の97%幸せになる生き方』より)
No.735 『世界遺産 なるほど 地図帳』
植物図鑑などは別にして、あまりビジュアル系の本は見ません。もともとは活字が好きなので、ただ見るだけの本には興味がイマイチないのです。でも、図書館でたまたま見て、お盆だし、活字を読む時間もないかもしれないし、などと考え、借りてきました。
でも、世界遺産をこのような地図帳形式で見ると、いままで気づかなかったことも、新たな視点からわかるようになりました。たとえば、「標高で見る、自然遺産と複合遺産の山々」や「自然遺産にある滝の落差比べ」など、まさに一目瞭然です。一つ一つ見ると、それぞれにみな素晴らしい景観ですが、ある一点に絞って比較すると、とてもわかりやすくなります。
あるいは、「人類が守るべき植物を育む自然遺産」や「遺産に暮らす絶滅寸前の動物たち」などは、そこに暮らす動植物などにも関心が向きます。
また、「名著に着想を与えた文化遺産」や「特定の日時に特別な現象が起こる場所」、「映画の舞台になった世界遺産」などは、とてもおもしろい着想で、ぜひ行ってみたいと思いました。たとえば、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』は、ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州にあるマウルブロンの修道院で学んだときのことを自伝的に書いてあるといわれています。もちろん、チャールズ・ダーウィンの名著『種の起源』(正式名称は「自然選択による種の起源について」)に登場するガラパゴス諸島などには以前から行ってみたいと思っていました。
おもしろいと思ったのは、「条約締結国でありながら遺産をもたない国」や「2010〜2011年世界遺産基金分担金」などは、このような地図帳形式のものでなければ、なかなか理解できにくいものです。たとえば、ブータンなどは「条約締結国でありながら遺産をもたない国」の一つですが、行った経験から考えると、ブータンの国一つがそのまま世界遺産として登録してもいいのではないかとさえ思います。まさにグラフで読み解く世界遺産は、とても理解しやすかったです。
このような本は、時間のあいたときに見て、どこから見ても取っつきやすいものです。そういう意味では、お盆前の忙しいときにこそふさわしいような気がします。
もし、世界遺産を手っ取り早く知りたいと思う方には、最適な本かもしれません。巻末には、「遺産名総索引」があり、とても便利でした。
もちろん、ビジュアル中心の本ですから、抜き書きはありません。
(2012.8.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 世界遺産 なるほど 地図帳 | 講談社 編 | 講談社 | 2012年3月29日 | 9784062176040 |
No.734 『科学予測は8割はずれる』
副題が「半日でわかる科学史入門」とあり、読み始めましたが、なかなか半日ではわかりませんでした。もちろん、仕事もせず、お茶も飲まず、この本だけ読めば、もしかするとわかったのかもしれませんが、そこまではしませんでした。
もともと、本は楽しいから読むもので、お茶やコーヒーを飲みながら、ゆっくりとページを繰るのがいいのです。早くわかろうともしないし、そもそも知識を得ようと読むわけでもありません。何度も言いますが、ただ、楽しいから読むのです。それだけで、いいのです。
この本のなかで、著者は『現代社会の怖いところは、科学が発展し、また細分化されていることによって、「原理的なところからすべてを理解する」ことがものすごく大変になっていることなのです』と書いてますが、その通りです。機械的なものなら、その仕組みもある程度の修理も、それなりに慣れればこなせますが、今のものはマイコンが組み込まれていたり、あまりにもブラックボツクスが多すぎます。これでは理解できません。
昨年来の福島第一原子力発電所の事故も、『原子力に関しても、科学の部分は物理学をやった人ならわかりますが、それはあくまで「原理」の部分の話です。ところが、実際に原子力発電所を設計し、運用していくのは、「原子力工学」の専門家たちです。科学ではなく「技術」の部分なのですね。原子力発電の原理は科学者が発見したけれど、それを実用化するのは技術者です。まず、原理か生まれた。次に、プロ
トタイプの原子炉をつくろう。最初はうまくいかない。効率もよくない。それなら、こう改善しよう……。そうやって、試行錯誤を経て、どんどん改良していく。それがエンジニアリングの世界なのです。その結果できあがったのが、1970年に稼働した福島第一原子力発電所なわけです。だから、物理学者が発電所に行っても、配線がどうなっているか、原子炉を動かすオペレーションの方法がどうなっているか……そういった技術の詳細ほわからない。』というのが現実のようです。
専門家でさえわからないものが、安全とか安全でないとか、いえるものではありません。
でも、だからこそ、少しでも知っておくためにはこのような本が必要だと思いました。興味がありましたら、お読みください。
(2012.8.8)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 科学予測は8割はずれる | 竹内 薫 | 東京書籍 | 2012年5月11日 | 9784487805150 |
☆ Extract passages ☆
1970年にアメリカの「技術」を輸入して運転を開始した福島第一原子力発電所は、ある意味、明治の精神そのままのことが、再び行なわれていたといえるでしょう。原子力委貞会に名を連ねていた故・湯川秀樹(1949年度のノーベル物理学賞受賞)は、アメリカから技術を輸入するのではなく、日本でじっくりと基礎研究を行なった上で、自前の技術で原子力発電所を建設すべきだと主張していましたが、一刻も早く原子力発電を開始したい政府の意向により、アメリカからの直輸入が決まったのです。
他人が開発した科学技術を、その根っこの部分を無視して、便利な結果だけ輸入した結果、地震と津波という自然災害を抱えている日本に必要な安全対策が欠如した原子力発電所が建設されてしまったのです。大津波に襲われ、電源を喪失した際、最後の砦である「電源車」を接続しようとしたところ、あろうことか、日米で規格がちがうためにつながらなかった、という話は、ゼロから自国で開発しなかったためのツケとしか思えません。
(竹内 薫 著 『科学予測は8割はずれる』より)
No.733 『日本人は植物をどう利用してきたか』
この岩波ジュニア新書はときどき読むのですが、とてもわかりやすく書いているのが気に入っています。
そういえば、故井上ひさしさんは、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」と話しておられました。また日経新聞には、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに」と書いてありました。
つまり、どちらにしても「むずかしいことをやさしく」はとても大事なことです。
この本は、もともと青少年交友協会の新聞『野外文化』に「生活文化と植物」という題で連載された記事を、全面的に書き改め、加筆されたものだそうです。つまりは、最初から青少年向けに書かれたもので、だから読みやすかったというわけです。
でも、この1冊で、日本人がいかに植物を利用してきたか、どのように使ってきたのかがわかります。しかも、カバーにはカラー写真が載っていて、それなりに工夫されているのですが、この本そのものをカラー版にしてほしかったです。そのほうが、子どもたちにも、より分かりやすかったのではないかと思います。
全体の流れは、一番わかりやすいのが目次から推量することです。1.食材として、2.健康のために、3.日常の道具として、4.成分を利用する、5.家の構成要素として、6.年中行事との関わり、の6つに分かれ、それぞれに項目をたて、取り上げています。
たとえば健康のために、といえば、お茶や薬草、あるいは薬湯などもありますし、成分を利用するのは、洗剤や染料、研磨剤、あるいは油を採るということもあります。また、家の構成要素としてのところでは、屋根材や建築材料、よしずやすだれ、さらには生け垣や屋敷林など、多方面にわたって植物との関わりを抜き出しています。
下に、お茶の効用を、ただ飲むだけでなくいろいろの使い方があるというのを抜き書きしました。こうして抜き書きしてみると、たかがお茶でも、いろいろと利用できるものだと思いました。もし、興味がありましたら、ぜひご一読ください。
(2012.8.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 日本人は植物をどう利用してきたか(岩波ジュニア新書) | 中西弘樹 | 岩波書店 | 2012年6月20日 | 9784005007189 |
☆ Extract passages ☆
お茶は飲むだけではなく、もめんや絹を茶色に染める染料として使われ、出し殻は佃煮にしたり、床や柱を磨くのに用いられていました。また、乾燥させたものは枕の詰めものに使うそば殻の代用とされるなど、無駄なく利用されてきました。いまでこそすたれてしまいましたが、これらの庶民のお茶の利用は、茶道とはちがったもう一つの茶の文化といえます。
いまは、健康食品やスポーツドリンクなど健康産業全盛時代です。その中で、派手ではありませんが、絶えることなくつづいているものに、各種のお茶があります。ハトムギ茶ほかのいわゆる健康茶は、デパートやスーパーの食品売り場で見られますし、薬局にもクコ茶やドクダミ茶などさまざまなものがあります。お茶はもともと中国で薬用として発達したものであり、健康の維持や病気の治療を目的としたお茶の利用は、原点に戻った感じがします。
(中西弘樹 著 『日本人は植物をどう利用してきたか』より)
No.732 『植物からの警告』
著者の湯浅浩史さんとは、だいぶ前ですがインドのヒマチャール州に行ったことがあり、そのときにもその博識ぶりに驚かされましたが、この本もそれら多くの経験から書かれていて、とても楽しく読むことができました。
「あとがき」に書かれていますが、もともとは「NHKの青山教室で2月から4月にかけて5回行ない、その折の録音が、NHKラジオ第2放送のNHKカルチャーアワーで、「地球環境変動の現場から――植物は警告する」と題して、2008年3月31日から6月23日にかけ13回にわけて放送され」た内容が元になっているそうで、だからその語り口が分かりやすく自然なのかもしれません。
著者の言葉のなかに「地球はひとつの閉ざされた環境系であるため、地球のどこかで大雨が降れば、必ずどこかで干魃が起きる」とありますが、最近はとくにそのように感じられます。まさにゲリラ豪雨で、一ヵ所に集中して降り、甚大な被害をもたらします。まさに、気候温暖化も軽視できませんが、それ以上に雨の降り方が問題だというのは卓見です。
この本では、オーストラリアやギアナ高地、マダガスカル、南アフリカ、ナミビア、イースター島、ブータン、中国、そして日本などが取り上げられていますが、その植物からの警告をどのように受け止めるかが問題です。
植物は動物のように動けませんから、もろに環境の影響を受けやすいのは道理です。その植物を深く長く観察を続ければ、見えてくるものがあります。おそらく、著者は長い間の経験から、この本を著したのではないかと思います。著者自身も、1年に数回は海外に足を運び、そんな生活を40数年もつづけ、訪れた国の数は50を越えると書いています。
おそらく、そのような流れで連れて行ってもらったのがインドのヒマチャール州だったのではないかと思います。
訪れる国の多さも大事ですが、同じところを訪ねることも大事なことです。そうすることによって、時間の経過で見えてくるものがあります。その違いが見えてくれば、そこになんらかの変化があることがわかり、それが環境だったり、人の生活だったりします。
湯浅さんは、たくさん写真を撮られていますから、ぜひこのような本に写真もたくさん載せていただき、別な形での切り込みの本もあってもいいのではないかと思います。
下に抜き書きしたのは、ちょっと長いですが、とてもおもしろいタネの解説だと思ったからで、興味を持たれたら、ぜひお読みください。
(2012.8.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 植物からの警告(ちくま新書) | 湯浅浩史 | 筑摩書房 | 2012年7月10日 | 9784480066732 |
☆ Extract passages ☆
草花の種子、野生の種子は、おおざっぱに分けると、同じ種類のなかにも三つぐらいの性質をもったタネがあります。「あわてもののタネ」「ゆっくりもののタネ」、それから「ちょっとひねくれもののタネ」。その三種類にわかれます。
あわてものの種子は、雨が降ると、すぐ芽を出します。
すぐ芽を出して育っていくわけです。これは、少々の雨でも芽を出してしまうので、そのあと雨が降らないと枯れてしまいます。ですから、あわてものは、枯れやすいといえます。しかし、雨が順調に降っていれば、どんどん生育して、いちばん最初に花を咲かせ、場所を占めて次々に花をつけて、その種子が残るということです。つまり、あわてものは、雨が降ると成功しますが、降らないとしくじることになるのです。
しかし、あわてものがしくじっても、次に続くものがあります。
これが、ゆっくりと発芽してくる 「ゆっくりもののタネ」です。あわてものが枯れても、たっぷり雨が降ったあとにゆっくり発芽してくるものが花を咲かせてくれます。
ところが、こういうあわてものや、ゆっくりものが育つような環境ばかりが続くとは限りません。事実、雨の降り方が変わってきて、何年も雨が降りにくい年が続いたりしています。そういうときに、ちょっとひねくれものの出番なのです。
少々の雨が降っても芽を出さないひねくれタネは、じ一っとがまんをしています。何年も何年も我慢をしてその後にひとたびたっぷり雨が降れば芽を出す。こういうのが残っているから、干魃が続いてもなんとなく生き残っているわけです。
(湯浅浩史 著 『植物からの警告』より)
No.731 『ブータン人の幸福論』
昨年の11月、ブータン国王が国賓として来日され、一気にブータンという国がいろいろな方面で取り上げられるようになってきました。出版界もそうです。おそらく、この本もそうではないかと思います。
たしかにブータンの人たちは、「はじめに」にも書いてあるように「ブータンの人々は、過去を後悔しません。未来を心配しません。今置かれている状況にとても満足して、幸せを感じています。ブータンの人々は、無理をしません。自分を知り、身の丈に合った生活をすることで、心の豊かさを見失わないようにしています。ブータンの人々は、際限なく、富を蓄えようとしません。自分に必要な額を知り、残りは困っている人に施します。そうすることで、自分も幸せになるのです。」といいます。やはり、それがブータンの幸福の根源なのかもしれません。
取り上げられたことわざのなかで、1番印象に残ったのは、「ゆっくり歩けば、ロバでもラサまで行ける」です。これはブータンの古いことわざだそうですが、もちろん、ラサまで行くのはたいへんなことですが、いくら力不足でもゆっくり歩けば必ず目的は遂げられるというたとえです。今でも、物事をうまくできない人を見ると、このことわざをたとえに出して慰めるのだそうです。
また、国王の言葉で印象深かったのは「美しい自然を100年後、200年後の子孫に残せるならば、私たちは世界の中で2周遅れのランナーであってもよい」というもので、今でも国民に多くの尊敬を集めている前第4代国王の言葉です。やはり、GNH(国民総幸福度)を提唱し、自分たちの伝統文化を大切にしている国王らしさがにじみ出ていると思います。
ブータンでは初雪の日にはお休みだそうですが、それを下に抜き書きしました。また、「雪がたくさん降ると、病気にならない」ともいうそうです。私たち、雪国に住んでいると、どうもそうは思えないのですが・・・・・・。
それがブータン人らしさで、なにごとも前向きに考えられるところのようです。
(2012.8.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ブータン人の幸福論 | ii正明 監修 | 徳間書店 | 2012年2月29日 | 9784198633448 |
☆ Extract passages ☆
ブータンでは、はじめて雪が降った日は、学校も会社もお休みになります。昼に雪が降るとそこからお休みになるし、次の日がお休みになる場合もあります。昔の農家にとって雪は吉兆のしるし。冬に適量の雪が降れば次の年は雪どけ水も多く、豊作になると言われています。なので、お祝いの意味をこめて、初雪が降った日は家でヤク(高級肉)の骨付き肉でだしを取ったもので雑炊を作り、お酒を飲んでお祝いします。
(ii正明 監修 『ブータン人の幸福論』より)
No.730 『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』
この本は、2003年10月に双葉社から刊行されていたもので、2007年1月文庫本化され、2011年8月の時点で24刷されていますから、たいへん人気のある本です。実際に読んでも、そのおもしろさに引きづり込まれます。
とくに、フランス人に対する既成概念みたいなものが、あっけなく崩れ去るあたり、とても爽快です。たとえば、「女性は腕時計を買うものではないと、フランス人はよくいう。というのも、女性の時間は男性が独占するものだから、腕時計は男性が愛する女性にプレゼントするものだといわれている。」などは、とても意外でした。
また、「男女平等のようでも、フランス人は「らしさ」にとてもこだわる。・・・・・・子供のしつけに関して私たちにくらべ、フランス人は厳しい。そして女の子よりも、男の子にたいしてだんぜん厳しい。とくに父親の男の子に対する鍛え方をみて、私はずいぶん驚かされもしたのである。」もそうで、この本を読む限り、日本人と比べものにならないほど厳しいようだ。とくに日本人の場合は、著者の指摘にもあるように、小学生の低学年あたりまでは男の子や女の子の区別も無いような育て方をしているようです。それでは、今のように、男か女か分からないような「らしさ」がない人に育ってしまいます。
この本を読んで、フランス人のものの考え方の合理性が少し理解できたようです。
むしろ、モノにこだわりすぎている日本人より、とても自由な発想をしているとも思います。下に抜き書きしましたが、「買えない」というより「買わない」と思えば、より自由に生きられます。その判断には主体性があります。
いかにも頑固なヨーロッパ人というイメージがありましたが、こうしてみると、堅実で質素な生き方が見えてきたように思います。
(2012.7.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人(講談社文庫) | 吉村葉子 | 講談社 | 2007年1月16日 | 9784062756327 |
☆ Extract passages ☆
遊びにいけないと思わないで、遊びにいかないと思えばいい。買えないと思わないで、手にとったモノをもう一度ながめて、やっぱり買わないことにする。気に入ったけれども買わないのは、プライス・カードにある値段が不本意なはど高いから。お金がなかったらないで、ないのだから仕方がないと諦める。ないからとだれかにいったところで、その人が無条件にお金をくれるわけはない。なければないでフランス人のように C'est la vie(セ ラ ヴィ).それが人生さと思う。そのうちにいつの間にか、私たちの身辺から物質的な欠乏感から生まれるストレスは霧散していく。
(吉村葉子 著 『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』より)
No.729 『カタツムリのごちそうはブロック塀!?』
この本は、2008年に家の光り協会から刊行された『働きアリの2割はサボっている――身近な生き物たちのサイエンス』を改題し、加筆・修正し文庫本化されたものだそうです。
そういえば、なんどか本屋さんで単行本を手に取りながら、ついに読む機会がなくね文庫本になってから読むというのもけっこうあります。もちろん、安くなったというだけでなく、持ちやすいということもあり、今回も東京出張から帰るときから読み始めました。つまり、小さく軽かったから買い求めたようなもので、だから読めたということです。
しかも、本文のなかに挿入されたイラストもおもしろく、「小林木造」と目次の最後に名前が掲載されていました。全体で200ページ足らずで、しかもこのイラスト部分も1ページおきにありますから、本文はさらっとしたもので、とても読みやすいものでした。
トカゲの尻尾切りは、よく知ってはいましたが、たった1回しかできないとは知りませんでした。さらに「しっぽは初めから切れる位置が決まっていて、筋肉が収縮することによって骨や筋肉が切り離されます。このとき、血管のまわりの筋肉も収縮するので出血することもないのです。しばらくすると、しつぽが再生してきますが、骨は再生しないので、もともとのしっぼに比べると小さなものしか生えてきません。しかも、再生したしっぽは切り離すための仕組みを持っていないので、今度は切り離すことができないのです。トカゲにとってしっぽ切りは、一生に一度の奥の手だったのです。」というのですから、まさに命がけの行為でもあります。
題名の『カタツムリのごちそうはブロック塀!?』というのは、下に抜き書きしておきました。でも、このホンの中には、まだまだおもしろいことがたくさん載っていますから、興味のある方はぜひお読みください。文庫本になりましたから、たった514円(税別)でたのしめます。
(2012.7.26)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| カタツムリのごちそうはブロック塀!?(角川ソフィア文庫) | 稲垣栄洋 | 角川学芸出版 | 2012年2月25日 | 9784044052065 |
☆ Extract passages ☆
カタツムリは卵から生まれたときに、すでに殻を持っています。殻はカタツムリの体の一部なのです。そのため、カタツムリの体が大きくなると、それに合わせて殻も大きくしていかなければなりません。そこで、殻の材料になるカルシウムをブロック塀やコンクリートから摂取しているのです。
カタツムリは、海の中にすんでいた巻き貝の仲間が地上生活に適応して進化した貝です。海の中の貝は海水に含まれるカルシウムを摂取できますが、陸上にすむカタツムリは石灰岩などから摂取しなければならないのです。
(稲垣栄洋 著 『カタツムリのごちそうはブロック塀!?』より)
No.728 『装丁山昧』
この本の題名の『装丁山昧』の山昧と、当然ながら三昧が正しいのですが、この「山」に「'」を打っています。これがミソになっていて、山と本の装丁に夢中になってきたことを表しているようです。
「あとがきにかえて」で、「一冊の山の本をデザインすることは、一本の新しいルートを登るようだった。そしてデザインと登山には似ている点が一つあるように思う。長い間憧れ続けた登肇に成功してピークに立ったとき、頂に立った喜びや満足感にもましで、夢を食べ尽くしてしまった寂しさ、哀しさに包まれて茫然とするが、やがてすぐに次の憧れの山が遥か高く遠くに現れてくる。一冊を作り終えて喜びに浸れるのはせいぜい見本の一冊を手にしたときまでで、すぐに今作っている机上の一冊に思いは移ってしまう。私にとって装丁は永遠に頂上に着かない登山行為そのもののようである。」と書いていますが、いかに本も山も好きかがわかります。
この本は、カラーページで自分が装丁にかかわった本を紹介し、さらにそれぞれの本を作りながら、なにを思い、なにを考えていたか、なにと出会ってなにを得たか、などを書き綴っています。私も本が好きですから、その思いがヒシヒシと伝わってきます。
著者の奥さまが、山好きなのに装丁の仕事におわれて山へ出かけられなくなったきたことを「紙のアルピニスト」とつぶやいたそうですが、なるほどと思います。その珍称を気に入っているといいますから、やはり、著者は根っからのアルピニストなのでしょう。
著者は、「本の品格はジャケットではなく、表紙にある」と書いていますが、私もその通りだと思います。ジャケットを外すと、何もない本がありますが、私などは「だまされた」と思ってしまいます。あるいは、「手抜きだ」と思います。製本が簡略されたのも気にくわないのですが、少なくとも本は、蔵書したいと思わせるような造りであって欲しいと思います。
そういえば、最近は「蔵書印」も押さなくなりました。ちょっと残念なことですが・・・・・・。
(2012.7.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 装丁山昧 | 小泉 弘 | 山と渓谷社 | 2012年4月25日 | 9784635330541 |
☆ Extract passages ☆
毎日の生活でもそうであるが、私はケ一夕イなどで常時誰かと繋がっていることなど、とてもではないが望むところではない。心のどこかで不便であることを望んでいるのかも知れない。便利すぎることは必ずしも快適なことではない。
本も紙に刷っで、それを折り、綴じた形、中世以来の変わらぬ書籍こそが、ことに山の世界では(本)であると思っている。
それはウィンパーやママリーとも、ボナッティやレビュファ、木暮理太郎や松方三郎、吉沢一郎とも心を通わすことを可能にしてくれる。
紙の本は歳月とともに少しずつ紙焼けして、製本も形を崩していくであろう。しかしそれこそが物としての本の姿である。どんなに汚れようとも100年も200年も、いや500年も前の姿で、彼らと会いたいと思った時に懐(ページ)を開いてくれる。増え続けて始末に困る書籍であるが、変わらぬローティックな姿こそが心を豊かにしてくれる。
(小泉 弘 著 『装丁山昧』より)
No.727 『遥かなるチベット』
この本は、だいぶ前に購入して、読む機会をねらっていたのですが、今回、たまたま東京出張に出かけた18〜20日の間に読み終えました。
副題は「河口慧海の足跡を追って」とあり、河口慧海がチベット潜入をどのような経路で果たしたのかを自ら歩いてそれをまとめたものです。そして、『チベット旅行記』に書かれている3つの湖を見つけ、ここから入ったのではないかと確証するに至ります。文章もおもしろいのですが、写真もカラーで見応えがあります。
そして、聖山カン・リンポチェ(カイラス山)を慧海とは逆コースでまわるなど、まさにヒマラヤ辺境紀行でもあります。崇高なるチベットの文化や自然に触れ、さらに人々との出会いなど、読む人たちにいまだ見ぬ世界のおどろきを与えます。
ホンの一部ですが、旅行したことがある部分とも重なり、つい、思い出してしまいました。
山形新幹線に乗りながら、あるいは山手線や中央線、そしてホテルのベットに寝転びながら読んでいましたが、このような紀行文を旅をしながら読むのもいいものです。やはり、旅に出る機会を待っていただけのことはあります。
エピローグの後に、川喜多二郎氏と江本嘉信氏、そして著者の根深誠氏の3人の鼎談、「河口慧海と現代の旅」というのが載っています。これもたいへん興味のあるもので、下に抜き書きしたものは川喜多氏のが発言されたものです。
また、著者の「われわれはいま計算のできる世界で生きています。何時にあそこ、何日にここ、そういう動き方の全くできない世界が辺境にはあるわけですね。偶然私がチベット人と会っていろんな所へ連れていってもらったり、亡命の人たちに出会ったり、そういうのが隅々まで管理された文明世界ではなかなかできない。それが旅の魅力だと思うんです。」という発言も、なるほどと思いました。じつは、私にも、そのような経験があり、今でも旅の想い出として強く印象に残っています。
(2012.7.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 遥かなるチベット(中公文庫) | 根深 誠 | 中央公論社 | 1999年1月18日 | 9784122033313 |
☆ Extract passages ☆
クリエイティブな時は、何か心が広いんですな。「偉いさん」ばかりじゃなくて、みんなそうだった。そういう時代の人間は何かおおらかなところがあったよね。あんまりコセコセしたり、違うやつをいじめたりするような根性の悪いことは少なかった。あったとは思うけど、少なかっただろう。ところが下り坂になってくるといじましくなって、すぐ弱いものいじめとか、そういうことをやるんじゃないか。
日本が結局そうでしょう、日露戟争以後堕落してきて、その時に日韓併合で、私らが子供の時は朝鮮の人をいじめてばっかりいた。ああいうみっともないことをやって、いまだに叩かれておる。それは日本だけじゃなしに、人間にはどうもそういう傾向があるんじゃないかということですね。つまりクリエイティブな人間は心が広い。保守的になると、心が狭くなって、すぐに目に角を立てたりする。ぼくはそう思う。最近の民族間摩擦も、そんな視点からかなり説明できるところがあるんじゃないかという気がしてるんです。(川喜多二郎)
(根深 誠 著 『遥かなるチベット』より)
No.726 『地震と火山の日本を生きのびる智恵』
この本は京都大学教授で地球科学者の鎌田浩毅さんが書かれたもので、各章の最初には「婦人公論」で対談した女優の室井滋さんとの対談も載せてあり、とてもおもしろく読みました。
とくに、あの東日本大震災があり、さらに東南海地震(名古屋沖)や東海地震(静岡沖)、南海地震(紀伊半島沖)の三連動地震が起きるかも知れないと話題になり、それに加え各地で火山活動が活発化しているとか聞くと、とても心配になります。福島第一原発の事故もまだまだ先行き不透明なのに、さらにこれらの自然災害に追い打ちをかけられてはたまったものではありません。そんな思いで、読み始めました。
でも、視点をちょっと変えてみると、むしろ人間の方が活断層のところを選んで住んできたのだといいます。たとえば、「こうしてみると、水がある場所を求めて集まってきたのは人間のはうです。流入した土砂は風化し、肥沃な土壌となります。農作物はその肥沃な大地に育まれました。もし、地震もなく断層による地面の隆起が起こらなけれぼ、現在の京都の場所は丹波山地のような山々に囲まれた地域となっていたでしょう。そうなると、たくさんの人が集まることはできず、奈良から遷都されることもありえません。人々が集まって都市に成長するためには、豊かな土壌と水の湧き出す広大な土地が必要でした。つまり、大地震は人口が集中した大都市のすぐそばに起こることが、初めから決まっているのです。」と断言しています。そういわれれば、まさにその通りです。
さらに火山があるから、美しい風景も生まれ、その山麓にはおいしい水も湧き出し、さらには温泉もその火山のお陰です。震災ばかりクローズアップされますが、その恩恵だって、たくさんあります。いや、むしろ、この災害の多い日本に住む以上は、それなりの生活スタイルを持つべきだというのが著者の意見です。
さらに、科学で予測できるのは少しで、まったく予測できないこともたくさんあるということを知って欲しいといいます。よく「一寸先は闇」といいますが、地震に関しては「三寸先は闇」なんだそうです。
どちらにしても、先のことはわからず、闇には違いないけれど、自分たちの生き方を少し変えれば、なんとか対応できるというのが著者の考え方です。いわば、地震や火山に負けないしなやかな生き方です。
とても参考になる本ですので、興味がありましたら、お読みください。なお、下にこれら自然や災害とつきあう立ち位置を抜き書きしました。
(2012.7.17)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 地震と火山の日本を生きのびる智恵 | 鎌田浩毅 | メディアファクトリー | 2012年3月2日 | 9784840142243 |
☆ Extract passages ☆
善悪の両方にあるのが、自然界の姿なのです。人間もまったく同じで、病気もあれば健康もある。悲しみも喜びもすべてをひっくるめて、生身の人間なのです。
したがって、活火山でも活断層に対しても、災害と恵みを全部合わせてつきあおうとすればよいのです。この際にどう考えればよいかというと「短い災害と長い恵み」というフレーズが参考になります。
火山災害は、実は短いものなのです。そのときだけ火砕流や溶岩流から何とか逃げればよい。そのあとには長い恵みが必ずやってきます。ちょうど、スランプのあとには必ず成長が約束されているように、です。火山をこうしてゆっくりと楽しむことをぜひ知っていただきたいと思います。
(鎌田浩毅 著 『地震と火山の日本を生きのびる智恵』より)
No.725 『聖地再訪 生駒の神々』
この本のおもしろさは、1985年に同じ宗教社会学の会編で出版された『生駒の神々――現代都市の民俗宗教』という本で取り上げられていた生駒の神々を、四半世紀経過して、その後どのようになっているかを追跡調査したものです。
1985年といえば、まさにバブル掲載に沸き立つ前で、日本も生き生きとしていた時代です。しかし、バブルが崩壊し、経済の低迷が続き、さらに追い打ちをかけるようにして東日本大震災があり、今も福島第一原発の事故で大きな痛手を被っています。これほどの悲惨な事故の後で、さらに原発の再稼働に動き出してしまった日本は、これからどのような方向に進んでいくのだろうか。ちょっと心配です。
もちろん、宗教界も同じで、むしろその役割は増してきているというのが私の考えです。
そんなとき、たまたまある地区の方から、「お星さまと神々」という演題をいただき、お話しをすることになり、それで読み始めました。たしかに、聞き取り調査ですから、臨場感はありますが、四半世紀という時間の経過は新鮮な衝撃を与えてくれました。
しかも、副題は「変わりゆく大都市近郊の民俗宗教」ですから、その変わり方に焦点を当てて書いてあるのは、当然といえば当然です。
ここに各神々の様子を描くのは適当でないので書きませんが、興味のある方はお読みください。
下に生駒の神々の特徴を「あとがき」から抜き書きしましたが、やはり、その場所特有の地理的条件もあります。でも、むしろ、だからこそ参考になるのかもしれません。
(2012.7.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 聖地再訪 生駒の神々 | 宗教社会学の会 編 | 創元社 | 2012年3月10日 | 9784422230290 |
☆ Extract passages ☆
「生駒の神々」の特徴の一つは、大阪の都市圏との近接性(距離の近さ)にあった。生駒は、遠く人里を離れて俗界から隔絶された聖地ではなく、都市の近くにあっていつでも気軽に訪ねることができる親しみやすい聖地である。俗界との距離の近さは、そこに息づく「神々」にいわば清濁をあわせ呑むような境界的な性格(liminality)を付与し、結果として聖と俗を往還する宗教的ダイナミズムを生みだしていたといえるだろう。
リミナルな聖地は、聖と俗とのきわどいバランスの上に成り立つ。しかし、一九九〇年代以降、交通網と宅地開発に代表される俗界の波が生駒山を覆い尽くしつつあるなかで、聖俗のバランスは維持できているのだろうか。都市との距離がますます近づくなかで、変化の波は「生駒の神々」にどのような影響を及ぼしているのだろうか。我々が二〇〇〇年代半ばに「生駒の神々」の追跡調査を計画したのは、このような問いが発端としてあった。
(宗教社会学の会 編 『聖地再訪 生駒の神々』より)
No.724 『花の冠』
この本の作者も、まして2011年10月の野田佳彦総理大臣の所信表明演説に引用されたことも、まったくなにも知らずに図書館で手に取って読み始めました。最初のきっかけは、本の装丁が花の輪になっていて、きれいだな、と思ったそれだけの理由です。
でも、読んでみて、世の中には、このような想いで詩を綴っている人がいるんだと強く感じました。むしろ、詩人の生み出す言葉の詩というよりより、字句ひとつひとつに透明感があり、素直な感じがしました。
おそらく、一字一句を頭のなかでさっと具体的な言葉にし、むしろそれをお母さんに伝えるのに時間がかかったのではないかと思ったりします。
その詩集の文章の中で、『字が書けるようになったとき、まず初めに書いたのは「つめ」でした。次に「ピンク」「みつこし」でした。
私はずっとおしゃれがしたかったのです。デパートの三越でピンクのマニキュアを買ってきてはしいと一番に頼みました。なぜなら、つめはただひとつ自分で見ることができる自分の身体なのです。どんなに具合が悪いときでも伸びるつめは「まだ生きているな」という証でした。つめは私にとって、「命そのもの」。そのつめを大好きなピンクに塗りたかったのです。』というのがあり、とても感動しました。やはり、女性だと思いました。
自分の孫にも、10ヵ月ほどたつ女の子がいますが、男の子とは、まったく違います。今まで男の子しか育てたことがないのでわかりませんでしたが、だからこそ、その違いがはっきりとわかります。まさに、こんなにもちがうということに、唖然とさせられます。
この本を読んでいたとき、ちょうど第39回東北ツツジ・シャクナゲ研修会が蔵王温泉「蔵王四季のホテル」で開催されたので、それに時間をとられて読めませんでした。でも、このような詩集は、時間を気にせず、何度もページを開いて読むことが大事だと思いました。
下に2つだけ掲載させていただきます。もし、この詩を読んでもっと読んでみたいと思ったら、ぜひこの本をお買い求めいただきたいと思います。そうすれば、このような本がまた出版されること請け合いです。
花の冠
嬉しいなという度に
私の言葉は花になる
だから
あったらいいなの種をまこう
小さな小さな種だって
君と一緒に育てれば
大きな大きな花になる
楽しいなという度に
私の言葉は花になる
だから
だったらいいなの種をまこう
小さな小さな種だって
君と一緒に育てれば
やさしい香りの花になる
花をつなげたかんむりを
あなたにそっとのせましょう
今は泣いてるあなたでも
笑顔の花になるように
(震災から1か月の日に 2011年4月11日)
よいこと
今日あった
よいことを
よい
と思える
そのことが
もう
よいこと
(2012.7.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 花の冠 | 大越 桂 | 朝日新聞出版 | 2012年2月29日 | 9784022509635 |
☆ Extract passages ☆
私の詩が、広がることで、いろいろな人に会えるのは、大きな喜びです。石だった私が、かかわっていただいた人たちに「人」にしてもらったのです。どんな姿になっても生きて言葉を伝えていきたいと思えるようになりました。
言葉を覚えて一番嬉しいのは、直接相手に「ありがとう」と言えるようになったことです。さまざまな縁がつながって、まわりのたくさんの人のやさしい心が集まり、この詩集ができました。そのおかげでこの詩集を手にとってくださったあなたとも出会えました。
みなさん、本当に「ありがとう」。
ひとつでも好きな詩に出会っていただけたらとても嬉しいです。
(大越 桂 著 『花の冠』より)
No.723 『人は何のために「祈る」のか』
この本はだいぶ前に本屋さんで見つけ、なかなか読めずに、まだ読んでいないコーナーに積んでいました。ときどき、読もうかな、と思い手には取ってみるのですが、このような本はなるべく集中して読みたい、などと勝手な理屈をつけ、やはり、また読んでいないコーナーに積んでしまっていました。
このコーナーは、読まないと次々と重なってくるので、だいたいいつ頃からそのままかがわかります。それで、何年もそのままの本は、旅行の時に持ち出して強制的に読むようにしています。この本は、7月4〜5日の東京出張のときに、新幹線のなかで読み切りました。こんなにもおもしろかったなら、もっと速く読めばよかったと思いました。
下に抜き書きしたのはプロローグ「祈るだけで遺伝しがオンになる」の最後に書かれていたものですが、これがこの本のもっともいいたいことの要約になっているようです。
そもそも遺伝子には、3つの性質があるとこの本には書かれています。その3つとは、
@生命の形質や特徴を情報として次世代に伝えることで、生命の連続性を保とうとする働きがある。
A今、現在の生命体のすべての営みを正常に保持し、細胞を絶えずリフレッシュしていく、「生命の更新」を管理する機能を持っている。
B遺伝子のオン/オフのスイッチ機能は、固定的なものではなく、さまざまな刺激や環境変化によって、人為的かつ後天的に作動したり切り替えたりできる。
ということで、考えようによっては、外からの物理的、化学的な変化や心の持ち方でその働きは大きく変わってくるということになります。その変化に、「祈り」が必要だという立場がこの本です。
もちろん、いろいろな考え方はあるかと思いますが、ぜひ一読されることをお勧めいたします。
(2012.7.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 人は何のために「祈る」のか(祥伝社黄金文庫) | 村上和雄・棚次正和 | 祥伝社 | 2010年12月20日 | 9784396315313 |
☆ Extract passages ☆
偉業を達成するとき必要なものは何でしょうか。未来へ向けての夢、希望、期待などでしょう。それらは全部祈りと言ってもいいものです。祈りは宗教の占有物ではなく、生きる糧なのです。
かつての日本人は、必死に祈って生きていました。だからどんなに貧しくても、苦しくても、つらくても、いきいきワクワクと生きられたのです。
ところが、豊かになるにつれて、私たちは「歌を忘れたカナリア」のように祈ることを忘れてしまいました。それも祈りを忘れていることすらも忘れたような、まるで忘却が二乗化されたような状態です。これが一番の問題なのではないでしょうか。
本書では、祈りやその効用について、あるいは祈りの魅力や祈り方について、今まで科学が明らかにした事実を紹介しながら述べてみたいと思います。
(村上和雄・棚次正和 著 『人は何のために「祈る」のか』より)
No.722 『芭蕉の学力』
この本を見て、なんでいまさら芭蕉の学力を推し量って何になる、と思いました。芭蕉といえば、すでに俳諧の世界では押しも押されぬ存在です。もう評価が定まっているといっても過言ではない人です。それなのに、なぜ、今、その学力を問うのかと不思議でなりませんでした。
でも、この本を読んで思ったのは、芭蕉を俳聖に奉るために多くの虚構がなされ、粉飾され、実態とはあまりにもかけ離れてきてしまったのではないかという杞憂です。だとすれば、芭蕉の学力も、一度まな板に載せてみるのも無意味ではないと感じました。たとえ、学力があまりないとしても、その当時の学力は漢籍に親しんだかどうかなので、俳諧の師をいささかも傷つけるものではないと考えました。
もちろん、この本のすべてが正しいとは思いません。すでに遠い過去の人ですし、そんなに確証のもてる資料的裏付けがあるわけでもなく、あくまでも私はこのように考える、というものです。そして、実際に読んでみると、なるほどと思うところも多々ありました。
そして、芭蕉の学力ということよりも、その当時の一般庶民の学力に興味を持ちました。
下に抜き書きしましたが、一般の庶民が自分で本を読むということはあまりなく、本を読んでもらう、つまり耳から入っている耳学問だったとあります。耳から入った文字は、発音がわかったとしても、その漢字を書くのはなかなかできなかったようです。
最近、よく耳にすることですが、パソコンを使って文章を書くと、漢字は読めても書けないということを聞きます。それと同じような現象です。この本を読みながら、いつもキーボードを打つだけでなく、実際にペンで文字を書かないと書けなくなると強く感じました。
でも、この本を読んで、むしろ芭蕉という人間に少しは触れることができたように思います。この世の中、聖人君子だけがいいわけではありません。自分の学力に悩みながら、少しでもなんとかしたいと思いながら励むその姿に、むしろ人間くささを感じ、身近に思えました。
(2012.7.3)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 芭蕉の学力(新典社選書49) | 田中喜信 | 新典社 | 2012年3月14日 | 9784787967992 |
☆ Extract passages ☆
芭蕉の漢籍に関する知識は、俗本と呼ばれる通俗的な漢詩文集にほぼ限られています。芭蕉の知識は、文献で得たものより耳学問で得たものの方が遥かに大きかったと思います。どこまでが耳学問で得た知識か、確定することは不可能ですが、芭蕉の教養を考える場合、当時の人は耳学問で知識を得ることが多かったことを考慮する必要があります。
娯楽が少なかった江戸時代、だれかの家に集まって茶を飲みながら雑談をすることが、当時の人々の日常生活における大きな楽しみでした。芭蕉も知人との茶飲み話の雑談を楽しんでいたと思います。
(田中喜信 著 『芭蕉の学力』より)
No.721 『茶を楽しむ男たち』
この本は8人の茶数奇の方々と茶の湯にまつわる談話をテープに起こし、その方々にも手を入れていただき編集したもので、とてもおもしろく読みました。お茶に精通している方は、いろいろなことにも興味をお持ちのようで、まさに人生そのものを語っているようでした。
この8人のなかで、直接お会いしお話しを聞いたのは林屋晴三氏だけですが、その話の中に出てきた栃木県足利市の栗田美術館を訪ねたのは今年の5月29日でした。お話しを聞いた当時は、ここの館長をされていたとかで、楽しみにしていたのですが、あまりにもお茶とは縁のなさそうな伊万里や鍋島などの器で、いささかガッカリしました。でも、そのお話しを伺ったときに、直接触らせていただいた長次郎の黒楽茶碗と本阿弥光悦の茶碗の風合いを今でも覚えています。もちろん、茶碗は手に持って飲んでみないとわからない、という言葉もしっかりと覚えています。
お茶を37〜8年も習っていますが、その最初のきっかけは、京都のあるお寺さんでいただいた一服のお抹茶で、ご住職が淡々と点ててくださいました。それがまた、とても美味しかったのです。そこで、そのように点てられるようになるには何年ぐらいかかるのですか、と質問したら、「さあ、50年ぐらいとちがいまっか!」と答えられました。では、今からすぐにはじめないとできないのではないかといいますと、「そうでっしゃろな!」といいます。
そこで、すぐに勧修寺のお茶室に連れて行ってもらい習い始めました。それが今も続いているというわけです。
やはり茶の湯に終わりはないようです。このような本を読むと、なおさらそう感じます。
料紙作家の福田行雄氏の、若い人たちをお茶に引き入れる秘策は「楽しそうにやることです。好(よ)い年の人たちがやけに楽しそうにやってるけど、あれって何やってんだ? ちょっと覗いてみようかという気にさせることですよ。知らん顔してやっていると、向こうから寄ってきます。若者は案外鋭いから、美しいもの、楽しいものには敏感で、蜂が蜜に惹かれるように集ってきます。」と書いてましたが、何事にも通じるのではないかと思いました。
(2012.6.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 茶を楽しむ男たち | 樫崎櫻舟 編著 | 里文出版 | 2012年4月30日 | 9784898063866 |
☆ Extract passages ☆
まさに、お茶会ほどすごいオーケストラはないですね。ふたつを取り合わせるだけでも大変なのに、茶会の場合には何十種類のものとの取合せ、それに濃茶席とお薄席との関連までやるとなると、この調和を保つということは本当に大変なんです。大変だからこそ、そこに何かテーマになる旋律のようなものができて、感動を与えることができた時には喜びも大きいですね。自分だけではどうしようもないことなので、多くの楽器、奏者と一緒につくり上げていくものだから、まさにオーケストラですよ。(塚田晴可)
(樫崎櫻舟 編著 『茶を楽しむ男たち』より)
No.720 『誰も教えてくれない 一流になれる読書術』
いまさら読書法なんてと思いながら読んでみましたが、ことさら目新しいことも書いてなくて、サラッと読み終わりました。
この本のなかに、「読書は最初から最後まで順番に読む。全部読む」という既成概念にとらわれないことが大切で、はじめからしっかり読む必要もないと書いてあったので、その通りにしたら、たしかに速く読めました。でも、その後に、「本の価値については非難しないこと」とあり、著者は他人には絶対に「読む価値がない」なんて言わないことにしているそうで、私もそれに習ってそんなことは言わないほうがいいと思いました。
そういえば、だいぶ昔に読んだ本をもう一度手に取ったときに、昔読んだときの印象とは違うものを感じたことがあります。それは、子どもの時には嫌いだった食べ物が、年を重ねるにしたがって食べられるようになってきたような感じです。自分も生きていて、少しずつ価値観も変わっていくかもしれないし、世の中だって変わっていきます。だから、当然のことながら、本の印象だって変わっていくものだと思います。
この本のなかで、なるほどと思ったのが、『情報発信をするのは、「自分が怠けてしまう」ことを防ぐための仕組みであり、その恩恵を受けるのは自分です』という下りです。私もこの文章を書きながら、本を読んだから書くという行為と、書くために読むという行為と、結果的に書いてここに発表するということでは同じだと思いました。
そういう意味では、この『ホンの旅』も自分自身にとって大事な情報発信であり、その恩恵を受けていると思います。むしろ、し続けることによって1番得をしているのは、私自身だと思いました。
(2012.6.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 誰も教えてくれない 一流になれる読書術 | 丸山純孝 | 明日香出版社 | 2012年4月23日 | 9784756915443 |
☆ Extract passages ☆
読書という自己投資は、あくまで「ガソリンとしての燃料」にすぎません。燃料がいくらあってもエンジンを始動しないかぎり車は動かないのと同じように、行動をしない読書にはまったく意味がないと私は思っています。
そして、それだけにとどまりません。読書で蓄えた「知識」は私にとっての「引きだし」の中身。となれば、自由自在に取り出して組み合わせることができます。その組み合わせ方は、私の独創性ですから、できあがったものは当然ユニークなものになるわけです。
(丸山純孝 著 『誰も教えてくれない 一流になれる読書術』より)
No.719 『「すみません」の国』
ジャーナリストの本田勝一氏によれば、世界中で日本人と同じようにすぐ謝るのはイヌイットとニューギニアのモニ族ぐらいなもので、非常に珍しいといいます。私の印象では、ブータンの人たちもとても日本人に似て、「すみません」というようですが、それでも少ないことに変わりはありません。
それで、今までは「ノーと言えない日本人」のように、はっきり自分の意見を言えないこの性格を困ったものだと批判的にみる意見が多いなかで、この本はそれを日本人の長所と見ています。むしろ、この混沌とした世界のなかで、それをなんとかできるのは、この日本人の多様な価値観を認めることや相手を思いやるやさしい気持ちなどではないかと、積極的に評価しています。そういう意味では、そのアプローチがとても分かりやすいと感じました。
たとえば、「ノー」と言えないのは、「イヤと言えないというのは、相手の視点に立つことができ、相手の視点からものを言おうといった、やさしい気持ちのあらわれと言える。自分のホンネではイヤなの
だが、相手の視点に立つとき、どうしてもイヤと言いにくくなってしまう」からで、それは相手の気持ちを思いやり、相手の視点に立つことができるからだといいます。
また、言外の意図を察するのは日本人のお家芸だとし、それが現在の教育の影響で、『教育現場がサービス産業化した今日、何をするにも手取り足取りで、懇切丁寧なマニュアルを用意して、その通りに動けばよいようになっている。そうした環境が自発的な動きを封じ、指示待ち人間を生み出している。このような教育体制の弊害は、自発的に動けないというだけでなく、言外の意図を「察する」ことができないと
いう形でもあらわれているといってよいだろう。』と結論づけています。たしかに、これは問題です。
というのは、今の日本では、言外の意図を察することのできる人とできない人が混在することになり、その間の意思の疎通が図りにくくなってきているからです。古い人たちは、そこまで言わなくてもわかるだろうと考え、若い人たちは言われなければわからないというわけです。その中間の年代は、わかるときもわからないときもあるということになります。
これでは困ります。
私は、この本を読んで、いままで批判されてきた主義主張が曖昧だとか、はっきりと自分の意見を言わないということも、必ずしも悪いことだけではないと思いました。
ぜひ、この本を読んでみてください。おそらく、半分以上の方はそう思うのではないかと思います。
(2012.6.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 「すみません」の国(日経プレミアシリーズ) | 榎本博明 | 日本経済新聞出版社 | 2012年4月20日 | 9784532261573 |
☆ Extract passages ☆
アメリカの心理学者で日本にも詳しいマーカスの発言を、教育心理学者の東洋(あずまひろし)が紹介しているのを思い出した。マーカスによれば、アメリカ人は人の話を聞くときに頭の中を自分の考えでいっぱいにして聞くが、日本人はブランクな空間をつくって聞くというのである。これを東は、アメリカ人は入ってくる意見に対して常に自分の意見を対置して、たえず「イエス」「ノー」とチェックしながら開くのに対して、日本人はそのような門番は置かずに、そのまま相手の意見を自分の中に取り込み、後になって別のところにしまってある自分の意見と照らし合わせると解釈している。
たしかに私たちは、相手の言うことが自分の考えに合致しないからといって、いきなり対決の姿勢をとるようなことはせずに、とりあえずは領きながら相手の意見を聞き、理解しようとする。これはごく自然なこととして行っているが、ロシア人やアメリカ人にとっては、絶対にあり得ない聞き方なのかもしれない。
(榎本博明 著 『「すみません」の国』より)
No.718 『笑いの免疫学』
副題が『笑いの「治療革命」最前線』とあり、笑うことのすばらしさを治療の分野からアプローチしており、まさに目から鱗の話しが多く掲載されていました。この本を、実際の医療分野で働いているお医者さんなどが読めば、どのような反応を示すか、それのほうが興味があります。
前回は「読むクスリ」でしたが、今回は「笑い」そのものがクスリより効果があるかもしれない、というわけですから、それだけでもセンセーショナルです。
でも、最後まで読むと、なるほどと納得できます。もちろん、「笑い」だけですべてが良くなるわけではないでしょうが、笑っていられれば、それはそれで幸せです。幸せだから笑顔がこぼれるのではなく、笑顔を心がけるから幸せになるようです。それが「笑う門には福来たる」です。
「まえがき」のところで、古代ギリシアの医聖ヒポクラテスの「人は誰でも100人の名医を持つ」という名言を取り上げていますが、これこそ自然治癒力のことで、自らの体内に備わる「治す力」です。とすれば、この「笑い」の効用も、その一つではないかと思われます。
そういえば、最近のベストセラーで『大往生したけりゃ医療とかかわるな 』中村 仁一著、幻冬舎、などもそうですが、今の医療体制に対する疑問が投げかけられています。すべて悪いといってしまっては身も蓋もありませんが、あまりにも薬に頼りすぎることへの批判であるような気がします。
もちろん薬も必要でしょうが、何でもかんでも薬では、身体そのものが拒絶反応を起こしてしまいます。やはり、自らに備わる自然治癒力を高めることも大切です。
その一つが「笑い」というのは、納得です。
「笑う門には福来たる」です。つまり、笑っているから福も来てくれるわけで、笑っているから健康にもなれるというものです。笑って健康になれれば、それこそ万々歳です。
ぜひ、みんなで大声で笑おうじゃあ、ありませんか!
(2012.6.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 笑いの免疫学 | 船瀬俊介 | 花伝社 | 2006年7月15日 | 9784763404695 |
☆ Extract passages ☆
さて、「笑い」が、ハヒフヘホのハ行であることは、なぜだろう?
とりわけ。大笑いはなぜ 「ハハハ……」なのか?
「笑い」 は一気に大量に息を吐く行為。そこで実験――。
紙風船につないだマスクで、ハヒフヘホの各音の口の形で5秒間、思いっきり息を吐いてもらう。するとハ以外では紙風船は完全に膨らまない。これに対してハの音は、大量に息を吐き出せる。ならば、同じ口の形の「ア」の音でも膨らむと思いきや。「ア」音でも風船は完全に膨らまない!「カ」「ナ」「マ」……なども同じ(『あるある大事典U』の実験)。
「ハ」音のみが飛び抜けて大量に息を吐き出すことが実験で証明された。早稲田大学大学院(理工学研究科)誉田雅彰教授によれば『ハ音』は声門をいちばん大きく開いて、大量に息を吐いて発生する音だという。声門は空気振動で音を出す場所。通常は声門をせばめて吐く息を少なくして空気振動ざせ声を出す。ところが、ハ音だけは、声門を開き、大量の空気を通して声を出す。だから、人はたくさん息を出せるハの音で「笑う」ようになった、というわけだ。
(船瀬俊介 著 『笑いの免疫学』より)
No.717 『夢しか実現しない 読むクスリ32』
読むクスリは何冊も読んでいますが、人の前で話しをするときのとっかかりにちょうどいい話しがたくさん載っています。それで読むのですが、あまりにも同じような話しが多く、最近はちょっと遠ざかっていました。久しぶりに読んでみると、なかなかおもしろく、これも使ってみようとか、あれも使ってみようと考えながら、一気に読み進めました。もともと、断片的な話しが多く載せられているので、どこで区切ってもいいので、気楽に読むことができます。
この『夢しか実現しない』というのは、「週刊文春」の平成11年3月18日号から平成11年9月9日号までのものを単行本として出て、それを平成14年に文庫本化したものだそうです。
やはり、手軽に読むには文庫本が1番で、この「読むクスリ」シリーズの単行本は読んだことがありません。
『夢しか実現しない』という題名は、下に引用していますが、悪いほうに悪いほうにと物事を考えると、実際にその通り悪いことが起きやすくなりますが、逆に、いい方向へと思い込めばいいことが起こりやすくなります。
つまり、気の持ちようで、悪くも良くもなるということです。願わなければ、なにも実現しないわけで、だからこそ夢しか実現しないということになります。
だとすれば、できるできないというよりは、常に夢を持ち続けることです。そうすれば、いつかはその夢が現実のものになり、実現できるようになるかもしれません。
そういえば、四つ葉のクローバーを集めていた人が、偶然にもそのなかから、五つ葉のクローバーを見つけ、その株を別に育てていると、ある1株から五つ葉のクローバーが90%以上の確率で出るようになったそうです。それを『五幸』と名付け、種苗法の新品種として登録したそうです。というのも、五つ葉のクローバーは、金銭上の幸運をもたらすといわれているからだそうです。
では、六つ葉、七つ葉はなにかといいますと、六つ葉は地位と名声を手に入れる幸運で、七つ葉は九死に一生を得る幸運をもたらすといわれるそうですが、調べてみると、四つ葉のクローバーも奥が深くおもしろいものです。
(2012.6.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 夢しか実現しない 読むクスリ32(文春文庫) | 上前淳一郎 | 文藝春秋 | 2002年9月10日 | 9784167248413 |
☆ Extract passages ☆
わからない、と突き放すより、面構えでもいいからプラス評価してやることなのだ。「素質がないなら別ですが、野球の選手だって、おまえは駄目だ、と言われ続けるより、おまえはきっと打てる、という暗示の下に置かれたほうが、いい打者に育ちます」
オレは打てるバッターなのだ、と思い直して立ち上がろう。
みんなが前途を明るく見れば、きっとそれが現実になる。
「そんな夢みたいな話、実現するわけないよ世間では、よくそういう言い方をしますね。しかし、それは違います。夢しか実現しないんですよ」
金井先生の知人のあるベンチャー経営者は、つねづねそう言っているという。
(上前淳一郎 著 『夢しか実現しない 読むクスリ32』より)
No.716 『花と昆虫、不思議なだましあい発見記』
前から読んでみようと思いながら、なかなか手にすることができなかった本です。購入してからも、数年は経ちました。その理由は、おもしろそうだからゆっくり読んでみたいというのが正直なところで、それが逆にあだになり、読み損ねてしまったようです。
今回、時間をかけてゆっくり読んでみましたが、やはり予想通り、とても興味深く、つい何度も読み返しました。気がつくと、たった1冊の本に6日もかかったようです。でも、6月は米沢市立図書館の蔵書点検作業のある時期ですから、本を借りることもできないので、それもゆっくり読めた理由の一つです。
花と昆虫、この本の中でも取り上げていましたが、昆虫学者は植物のことを詳しく知っているのに、なぜか植物学者の方たちは、昆虫に疎いようです。でも、花は人の観賞用に咲くのではなく、あくまでも昆虫の気を惹くものですから、花を知るためには昆虫を知らなければならないのは当然です。この本を読めば、それが一目瞭然にわかります。
この本の「まえがき」で、花たちの策略という項目で、「花は花の利益のためのみに咲き、昆虫は、ただ食欲をみたし、子孫の繁栄にむけて花を訪れ続けているだけなのだ。そのため花と昆虫のあいだでは、しばしば利害が対立する。花は花のためにだけ、昆虫は昆虫のためだけに、一方的に収奪する場面も生じる。そのような葛藤をのがれて、昆虫にたよることをやめ、吹きわたる風を友とし、あるいはみずから動いて雌しべに花粉を運ぶ道をえらんだ花もある」と書いています。
いわれてみれば、まさにその通りです。だからこそ、そこには多くのドラマがあるのです。
著者は、「そうした花々の背後にある、生のためのドラマの展開を見、そして花たちの策略をたのしむ旅に出ようとしている」というのは、まさにそのことです。
このような旅をしてみたいと思うなら、ぜひお読みください。とても興味深く、私はゆっくり読ませていただきました。
(2012.6.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 花と昆虫、不思議なだましあい発見記 | 田中 肇 文・正者章子 絵 | 講談社 | 2001年5月15日 | 9784062691437 |
☆ Extract passages ☆
マダガスカルのランとガの関係も同じ仕組みで花粉が運ばれるが、初めはそんなに極端なものではなかったはずだ。しかし、いつからか両者が暴走をし始めた。
動物や植物のサイズにはバラつきがあるもので、祖先のキサントバンスズメガのなかの口が長い個体は、花粉の塊などつかずに楽に蜜が吸えるのでそれだけ子孫を残しやすく、しだいに口の長いキサントバンスズメガが多くなってきたと考えられる。
そうすると、アングレクムのなかで距の短いものはタネが作れなくなってしまい、しだいに距の長いランの比が高くなってくる。次の段階でも、口の長いガは有利で、ランはガに花粉がつくよう距がより長いものが子をのこす。この関係は、ガがちょっと走ると花がすぐ追いつき、またガが走る。そんなくりかえしで止まることなく走り去っていく進化となった。・・・・・・
世界中のガと花との関係は同じなのだから、30センチの距を持つ花などどこにもありそうだが、それがめずらしいのにはそれなりの理由がある。花も昆虫もそんな無駄なゲームをしていては、資源の無駄使いになる。また、クマバチのような蜜泥棒に邪魔されたりして、他の種類との競争に負けてしまうはずだ。むしろ、マダガスカルで無駄とも見えるような花や昆虫が生活できるのは、彼らが平和で恵まれた自然に囲まれて生活してきたからだ、とも考えられる。
(田中 肇 文・正者章子 絵 『花と昆虫、不思議なだましあい発見記』より)
No.715 『言葉に何ができるのか 3.11を越えて――』
たしかに、あの東日本大震災のような大災害のときに、言葉に何ができるのか、と考えざるを得ないのは、私もそうでした。言葉で語ることが、何かむなしく、空々しい思いがありました。それでも、ホームページのフロント部分に、「このたびの震災により被害を受けられた地域の皆さまがたに、謹んでお見舞い申し上げます。そして、1日も早い復興と皆さま方のご健康を心からお祈り申し上げます。」と書きました。それを書いたからといっても、何の力にもならないと思いながらも、そう書かざるを得なかったのです。
それでも、なんらかの意思表示はしたかったのです。それが佐野さんのようなジャーナリストなら当然だし、和合さんのように福島にとどまり、詩人としての言葉を使いながらツイッターで発信をするということも、とても大切なことだと思います。その本心を聞きたいという思いから、読み始めました。
たとえば、和合さんの『「一人ぼっち」という言葉があるとして、「福島ぼっち」といったらいいのか。福島に暮らす人々はそうした孤立感というものを多かれ少なかれ持っているんです。』といいますし、佐野さんは『僕はある原子力工学者と話して目から鱗が落ちました。彼は「原発は動いている限り安全なんだ」と言いました。これは恐ろしい言葉だよ。絶えず動いているということは、いま言ったように時間にしわが寄らないわけです。終止符のない音楽のような、どこまでもフラットな時間が続く。絶えず動いていれば安全な原発のエネルギーに私たちは動かされている。縛られている。私たちはそんな社会に生きている。これはどこかで、原発を支える思想に私たちが縛られている結果だと思うよ。』といいます。
でも、「原発は動いている限り安全なんだ」などということは、ある意味当然のことで、動かなくなったから現在のような大変な状況になっているわけです。こんなのは、安全でもなんでもないわけです。
それより、和合さんの「放射能が降っています、静かな夜です」の言葉のほうが真実味を帯びていて、背中が寒々しくなるぐらいです。この本のなかでも紹介していますが、仏教の言葉のなかに「眼聴耳視」というのがありますが、観音さまの観音にも通じ、目で聴いて耳で見るように物事と向き合うという意味で、まさに全身全霊で感じ取ることが大切です。
下に抜き書きした文章は、和合さんのものですが、同じ福島に住んでいても温度差はあるようです。それと同じことをある方からも伺いましたが、それが現実でもあります。この前が見えない福島の現実を知るには、やはり「眼聴耳視」することが必要だと思いました。
ぜひ、多くの人に読んでいただきたいものです。
(2012.6.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 言葉に何ができるのか 3.11を越えて―― | 佐野眞一・和合亮一 | 徳間書店 | 2012年3月31日 | 9784198633677 |
☆ Extract passages ☆
たとえば浜通りと中通りでも違っていたり、会津でもまた違っていたり。20キロ圏内から避難している方々と、避難をせずに福島にいる中通りの方々ともまた温度差があります。温度差が幾層にも幾重にも感じられる。福島は一度バラバラになってしまった。そんな印象すら覚えることがあります。その温度差はパズルみたいな感じというか、「ここは放射線と地震」「ここは避難と風評」とか、みんなそれぞれ複数の震災被害を生きているという感じです。(和合亮一)
(佐野眞一・和合亮一著 『言葉に何ができるのか 3.11を越えて――』より)
No.714 『毒のある美しい植物』
60ページしかない小冊子のような小型本で、左側に説明があり、右のページには図版が入っていますから、実質の活字部分はその半分になります。でも、本当にこぎれいな装丁で、手にとって見たくなるような雰囲気を持っています。カバーに掲載されている出版社の既刊本の解説では「アルケミスト双書」とあり、アルケミストを辞書で見ると「錬金術師」とありますから、ちょっとおどろおどろしいような雰囲気もあります。
副題は「危険な草木の小図鑑」で、図鑑にしてはあまりにも「小」過ぎます。しかも、今時の本にしては図版もモノクロームで、それが逆に錬金術師的な気分を醸し出しているようです。
この本には植物だけでなく毒のあるキノコも8種類掲載されており、付録として「毒の種類」もあるので、小さな本ながら参考になります。植物からその毒の話しをするのが一般的ですが、その毒そのもの、その毒性化合物の説明は、興味のあるものでした。
さらに付録2では、「動物と有毒植物との関係」を取り上げ、イヌやネコ、そしてウマやウシたちにとってはどのように作用するかをどくろマークと?マークで一覧表にしています。
そしてなによりも目を惹くのは、装丁です。CDケースのような大きさで、中に掲載されているようなイラストを中心に、全体を黒で統一されています。一目見て、これはなんだろう、と思ってしまいます。
下に抜き書きしたのは「ヒトヨタケ」の部分ですが、このキノコを見つけたときには、これは何だろうと思いました。翌日、またそこに行ってみると、カサの端のほうからコールタールのどろどろとしたような液体がしたたり落ちるかのようになっていました。この本を読んで、これをかつては修道僧がインクとして使っていたという話しに、すぐ納得しました。
万人向けの本ではありませんが、興味のある方ならお勧めです。
(2012.6.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 毒のある美しい植物 | フレデリック・ギラム著、山田美明訳 | 創元社 | 2012年2月20日 | 9784422214870 |
☆ Extract passages ☆
埋もれ木のある茂みに生育する。薄い灰褐色のかさは、成長するに従い溶けてしまう。かさの端から徐々に黒インクのような液体に変わってしまうのである。この液体に、種の再生に必要な胞子が含まれている。ヒトヨタケを食べた時は、24〜28時間の間アルコールを摂取してはならない。このキノコには、アルコール依存症の治療に使用されるジスルフィラムにきわめて似た物質が含まれている。摂取しても支障はないが、アルコールに混じると有毒になり、激しい吐き気や心悸亢進を引き起こす。
かつては、修道僧がこのキノコから取れる”インク”を採集し、クローブとともに煮て筆記用に使っていた。
(フレデリック・ギラム 著、山田美明 訳 『毒のある美しい植物』より)
No.713 『腰痛探検家』
この本は探検モノをたくさん書いている作家が、腰痛で苦しみながらさまざまの治療師との悪戦苦闘する体験記です。
腰痛は、端から見るとその痛みはまったくわからないので、なぜ腰をひいてあるくのかさえ不思議に思えますが、当の本人はとても辛いのです。だから、その辛さからいっときも早く開放されたいので、さまざまな治療師を渡り歩いてしまいます。その偶然の出会いで、すっきりと治る人もいますが、たいていはだましだまし自分の腰をいたわりながら生活しています。
でも、探検家というのは、あまり他人が行かないところに行ったり、他人がしたがらないことを平気でチャレンジしたりと、まさに身体を張っているというイメージがあります。それなのに、腰痛では、その探検に支障が出るのは当然です。いや、腰痛では探検はできないでしょう。
だから、治したいと思うわけです。
文中で、作者が探検家の大先輩である関野吉晴さんに「元気になるって、医学的にはどういうことですか?」と訊ねるところがあります。
関野さんは、
1.交感神経に作用してハイになる
2.痛みが消えて、爽快になる
3.血行がよくなる
と漠然とした質問に、はっきりと答えてくれたそうです。もちろん、関野さんは医者ですから、このように医学的見地から「元気」という状態を表現されたのでしょうが、なるほど、と思いました。
では、腰痛はこの元気のどの部分の不都合からきているのかと訊ねると、「結構をよくするために、腹巻きはどう?」と言われたのです。でも、考えてみると、腹巻きをした探検家というのは、やはり様になりません。Tシャツ1枚で冬を糊子売るみたいな感じが探検家なのに、そこに腹巻きをしていたら、ただのオヤジです。そこまでは書いていないのですが、読者はそう感じます。
そして、つまりは、これ以上を書きますと、読むきっかけを失ってしまいそうなので、後はぜひ読んでみてください。とてもおもしろくて、あっという間に、読んでしまいそうです。
私の場合は、5月29日から31日まで、草津や奥日光のシャクナゲを見に行き、その合間に読もうと思ったのですが、やはり友人たちとの旅では、なかなか読む時間をつくれませんでした。
(2012.6.3)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 腰痛探検家(集英社文庫) | 高野秀行 | 集英社 | 2010年11月25日 | 9784087466355 |
☆ Extract passages ☆
人間は過程の生き物である。常に動いている。昨日と同じ私はいない。自分の心身が理想の場所にぴたりと止まることなどない。
体に結果を求めてはいけないのだ。腰痛が完治するというのも大いなる「結果」でありひいては「幻想」である。それを期待して人生の貴重な時間を過ごすのではなく、「まあ、今はこんなもん」と常に思うことが大切だ。よくなってしまえば儲け物くらいの感覚で、でも前に歩きつづける。期待せず、諦めず。
腰痛論は人生論でもある。
(高野秀行著 『腰痛探検家』より)
No.712 『朝はアフリカの歓び』
この本は、「本の話」2009年11月号から2011年10号までのものを加筆して単行本にまとめたものです。
本の題名は「翌朝、その男がまだ払暁の頃に目覚めると、そこには世にも爽やかな瑞々しい朝の気配が訪れているのである。空気は徹底して澄み、朝焼けが近くの林を染める。前日のあの暑さはどうしたのだろうと思うほど風は冷え冷えと涼しく、地球始まって以来、人間の肺になど一度も入ったことがないような清純な空気が流れている。やがて鳥たちが妄に林で鳴き始め、飛び立つ。アフリカの日の出前から午前七時、八時までの時間は、この世のどこにもない天国のひとときだ。・・・・・・私は一生に一冊、詩集を出したい。その題は『朝はアフリカの歓び』である。しかしその願いは今のところ叶いそうにない。小説と詩は、全く別の才能がなければ成立しない。それで私は永遠に出せそうにない詩集の代わりに、このレポートに同じ題をつけたのである。」と書いています。
この本の題材のほとんどは、自ら1972年に設立した「海外邦人宣教者活動援助後援会(通称JOMAS)」の援助を通しての旅行で、さらにアフリカが多いようです。だから、本の題名にも使われたのだと思います。
下に抜き書きしましたが、その場に立ってみなければ分からないことがたくさんあります。今年の3月、熱帯の雨期の植物を見に行こうと誘われて行ってきたのですが、最近では日本でもゲリラ豪雨などと呼ばれるものもありますが、オーストラリア北部の雨期では、まさにバケツをひっくり返したような雨が降ります。初めての経験でしたが、乗っていたベンツのバスが雨漏りをするのです。まさか車が雨漏りをするとは思ってもいなかったのですが、ちょっとした隙間から漏れ出たようです。
だから、ある施設に行ったら、その雨期の雨を体験するコーナーがあったり、別な政府系の施設に行ったら、ダーウィンが壊滅的な被害をうけたハリケーンのときの写真や資料の他に、それを実際に体験できる音響コーナーがありました。それでも、それらは疑似体験ですから、本物ではありません。それでも、本物でなくても、それなりの体験をすることはいいことだと思います。誰でも、アフリカに行けるわけでも、南米に行けるわけでもありません。
そういう意味では、このような本を通して、アフリカの現況を知ったり、現地の生活の大変さを感じることは意義のあることと思います。
私は旅の本が好きです。それは、行ったような気になって読めるからでもあります。
行けないなら、行ったことのある人の話を聞いたり、読んだりすればいいことで、それだとあまりお金もかかりません。ただ、そこには直接体験したことではない、という意識を持って読むことです。そして、幾分かでも、想像力を働かせて、追体験をするような気持ちで読めば、少しは参考になるはずです。
(2012.5.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 朝はアフリカの歓び | 曾野綾子 | 文藝春秋 | 2012年4月20日 | 9784163751504 |
☆ Extract passages ☆
誰もが外界の変化に気づいて家の中に逃げ込むと、数分で箱のような家の外は5メ一トル先も見えないコーヒー色の濁った空気に包まれた。どこへ行くことも、何をすることもできない。私たちは石の下に潜んだ真昼のトカゲと同じだった。息をひそめて、窓の外の濁った空気がいつ光を通すようになるのかと期待するだけだった。
砂嵐の下では、人間の営みがすべて停止させられることを私は肌で知った。人間の浅知恵や努力で用意された文明の利器は何も役に立たなかった。この視界不良の中では車も動かない。しいて走らせればタイヤはスリップし、フロントグラスはすりガラスになって使えなくなるだけだ。
砂嵐の下では、政治も経済もすべて一時停止した。恋もだ、と言いたいところだが、恋だけは、抱き合っていればそれなりの意味はあるかもしれない。
(曾野綾子 著 『朝はアフリカの歓び』より)
No.711 『モチベーションで仕事はできない』
著者は未来通達研究所所長の肩書きを持っていますが、Googleで調べてもYahooで調べてもそのような研究所は出てきませんでした。おそらく、未来になればどこからか通達されてヒットするようになるのかもしれません。
著者紹介の後のほうに、現在はコンサルティングや研修講師とありますから、そのような仕事をしているようです。でも、入社して配属されたのが資材部で、生産に使う資材の調達を仕事にしていたとありますから、仕事の喜びは一つもなかったと回想していますが、そこに「調達」という言葉が出てきます。もしかすると、その未来調達研究所の「調達」というのは、そのつながりなのかもしれません。
副題は「やる気が出ない人のための新しい働き方」とあり、つまりモチベーションがなくてもやる気がなくても、働くために必要なことが書かれているというわけです。そういえば、日本経済が停滞し、消費者がモノを買わなくなったので、それでも買ってもらうために価格競争をせざるを得なくなり、価格がすべての様相を呈していますが、それを代替報酬の時代と表現していますが、『「やりがい」や「夢」や「給料以外のこと」がことさら強調される時代とは、要するに、企業がそれらを使うしか術はないと考える時代だ。給料以外のことで満足度を高める、いわば代替報酬の時代である。』としています。そして、このような時代だからこそ、『「給料ではなく、やりたいことをやれるか、それが問題だ」「ひとは給料だけで働くわけではない」。それらは、逆説的に給料を払うことができなくなった時代の名フレーズだ。』というわけです。
たしかに、そのように見えます。
初任給は下がって、年間昇給もなかなか上がらず、賞与もカットされたり減額されたり、給与生活者はなかなか大変です。でも、この説に従えば、少しでも安いモノを買っているツケが自分の給料に跳ね返っているということになります。
なるほど、そのように考えることもできます。
安くするためには、最終的には人件費しかないようです。だから、海外の人件費の安い国に生産拠点が移ってしまうのです。そして、1,000円ジーンズが出来上がるのです。すると、国内では絶対にそのような金額で生産はできませんから、働くところが少なくなり、そして給与も下がるということです。
つまり、自分の給料を上げるには、それなりの価格で買うしかないということになります。自分の生活を守るためには、少しばかり高くても買わなければならないのです。
ちょっと逆説的になりますが、生産から小売りまでの全段階で、それぞれが生活できるような適正価格で売れるようにすることです。たしかに、モチベーションだけでは仕事はできませんが、この仕組みを見直すことも大切だと、この本を読んで思いました。
(2012.5.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| モチベーションで仕事はできない(ベスト新書) | 坂口孝則 | KKベストセラーズ | 2012年3月20日 | 9784584123683 |
☆ Extract passages ☆
・・・・・・ひとの気持ちなど、すぐに移り変わる。子供のころの夢と、今の目標が異なっていることは普通だろう。「やりたいかどうか」を唯一の基準にしてしまうと、「やりたくありません」と言われると、もう説得材料はない。「やりたいかどうか」を判断軸にしてしまったとすれば、「もうこの仕事にやる気がありません」と述べる社員を引き止める術はもちえないだろう。
この「やりたいかどうか」重視観には、一つの誤謬があるように思われる。それは、「気持ちが最優先」ではなく、正確には「今の気持ちが最優先」ということだ。長期的にはやりたいことに変わる可能性のある仕事を「今」だけを重視するがあまり排除してしまう。私が、今の気持ちではなく、今の目の前の仕事に集中せよ、と書いたのはそのためだ。
きっと、今の仕事の成果が出はじめれば、それが愉しくなり、もともとやりたかったかのように勘違いしだす。そのためにも、今のやる気やモチベーションの欠如を理由にしてはいけない。
やる気やモチベーションがなければ仕事ができないとすれば、それはそのひとのなかで、やる気やモチベーションが仕事を止める言い訳になるからだ。
(坂口孝則 著 『モチベーションで仕事はできない』より)
No.710 『脳科学からみた「祈り」』
著者は東大大学院医学系研究科脳神経医学を専攻し、さらにフランス原子力庁サクレー研究所でポスドクを経験し、それから執筆活動をされているそうです。
今は脳科学も一般的に認知されていますし、その研究もすごく進んでいるようです。昔は成人になると脳細胞は破壊されるだけで再生はされないとか、いろいろと誤解のあることもまかり通っていたようです。この再生されないという誤解は、「一九九八年、ピーター・エリクソンとフレッド・ゲージの研究により、大人の脳内でも新しい神経細胞が生まれることが明らかになりました。ただし、大人の脳に生まれた神経細胞は、刺激の乏しい状態ではすぐに死んでしまいます。適切な刺激が入ることで、この若い細胞は生き残り、脳の中のネットワークの一部として機能していくことができるのです。」ということです。
つまり、これで終わりではなく、幾つになっても脳細胞を活性化することができるというわけです。そのためには、やはり適切な刺激が必要で、それも前向きな姿勢が大切だといいます。
祈りの効果にしても、「そもそも祈りとは、本来、未来に向けられるものです。変えようがない過去に祈りを向けても仕方ありません。亡くなった方のことを祈る場合でも、私たちはその人の生命が未来に向けて安らかであるよう祈るものです。・・・・・・すなわち、脳科学から見れば、日常的に祈っている人ほど、展望的記憶をしっかりと持っていきいきと生きることができるのです。」ということで、やはり未来に心を向けることです。将来はこうなりたい、とか、こうあってほしいというのが祈りですから、祈ることはひとりでに心が将来に向かいます。
ただ、この本の後半で書いていますが、祈りもついマンネリ化してしまい、惰性で祈り続けてしまうということもあります。それでは、せっかくの祈りも「無意識のうちに行う習慣」になってしまいます。そうならないためには、その無意識を意識の上にのぼらせる工夫が大切になります。つまり、「なりたい自分」や「成し遂げたい目標」などを考えながら祈り、夕べにはその反省を行うような祈りです。祈りにも、それなりの目的意識が必要ということです。
それと、人を大切にすること、そうすれば、その大切にされた人は「自分が大切にされるに足る価値のある人間だ」と思えます。自分は価値のある人間だ、自分は誰かにとって必要だと考えられれば、その人は幸せです。自分を肯定し、自分をちゃんと評価できれば、それが幸福感にも通じます。
人は一人では幸せにはなれません。「自分が誰かの役に立っている」「愛されている」という実感が幸福感につながっているのです。
この本は、今時の本としては珍しく活字が大きく、表現もやさしく書かれています。そういう意味では、誰が読んでも理解できるのではないかと思います。
(2012.5.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 脳科学からみた「祈り」 | 中野信子 | 潮出版社 | 2011年12月20日 | 9784267018916 |
☆ Extract passages ☆
人間は本来、「生きたい!」という意志の塊のような存在です。人体はそのようにできているのです。だからこそ、病気になったときにはそれを治そうとする働きが自然に起こるのです。これがいわゆる「自然治癒力」でしょう。
そして、自然治癒力と呼ばれるものの正体も、少しずつ研究され、明らかになりつつあります。このうちの一つには、免疫系の活動性が高まることが挙げられます。
たとえば、先に述べたオキシトシンには、分泌されることで免疫力が高まるという効果があります。「よい祈り」によって脳内にオキシトシンが分泌されれば、それが天然の妙薬となって、病気を治す力にもなっていくのです。
(中野信子 著 『脳科学からみた「祈り」』より)
No.709 『東北・大地をゆく』
『東北・大地をゆく』という旅の始まりは2011年7月5日、そして旅の終わりは2011年11月12日と書いてありました。ということは、あの東日本大震災の後のことで、裏表紙に「東北の人たちへ送る哀歌」というのも読み進めると自然に胸に迫ってきます。
最初の旅は山形で「紅花の微笑み」、第2の旅は秋田で「歌垣に惹かれて」、第3の旅は青森で「縄文からのメッセージ」、第4の旅は岩手で「憧れの「みちのく」」、第5の旅は宮城で憧れの「それでも山河遥かに」、第6の旅は福島で「魂の宿る大地」です。
それぞれの旅は、何らかの形で音楽や音との出会いがあり、それが作曲家としての本領発揮のエッセイにつながったようです。
著者の略歴をみてビックリしたのですが、1945年生まれで、中学校卒業と同時に集団就職で上京し、葛飾区の町工場で働きながら19歳でクラシックギターを学び、音楽理論を独学し、さらに柴田南雄氏の内弟子となり8年間師事したとあります。まさに好きこそ物の上手を実践してきたように見受けられます。
現在は音楽のみならず、哲学、文学、民俗学等の幅広い分野に興味を持ち、演出家やエッセイストとしても活躍されているそうです。
下に法螺貝のことが載っていたので抜き書きしましたが、その文章から、その幅の広さを実感してもらえればと思います。
そして、興味があれば、お読みいただきたいと思います。
(2012.5.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 東北・大地をゆく | 仙道作三 | 春秋社 | 2012年3月10日 | 9784393373262 |
☆ Extract passages ☆
吉田兼好の『徒然草』に出てくる梵鐘の音は「黄鐘なるべし」、つまりラの音だと言っている。法螺貝の音も、梵鐘の音もラ、いま我々がオーケストラでチューニング(調律)する音もラの音であり、洋の東西を問わず一緒なのもまた面白い。
法螺貝は世界各地の、古代インド、ギリシャ、南洋パラオ諸島、ペルーにもある。日本では縄文遺跡から出土したことでもわかるように、縄文時代から吹かれていた。そのほとんどが東北の地に分布しているのも興味深い。西洋も東洋も法螺貝は神器として用いられたし、戦国時代には陣貝として、戦の合図として吹かれていた。
(仙道作三 著 『東北・大地をゆく』より)
No.708 『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』
最近の本の題名は説明し過ぎなものが多いと思っていたら、これもそうだと手に取ってみると、なんと7年も前に出版されたものでした。しかも、単行本は2003年だそうで、文庫化で大幅に加筆修正されたとのことです。著者は現役の精神科医で、1946年のお生まれですから、そうとう経験もあります。その長い経験から見た生き方として『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』ということですから、説得力もあります。
たとえば、「楽しく生きるということは、楽しいことを自分の周りにたくさん集めるということではないんです。むしろ次々に捨てて捨てて、最後に残るものを見つけること。人生にはそれこそいらないものがいっぱいあるんです。その中で窒息状態なのが、生きているのがつまらないという人の実体なのではないでしょうか。」というのは、この本の題名にもつながることですし、「貧しさがゆえに心を病むことは、ありません。しかし、豊かさゆえにスポイルされて心を病むことは多いのです」というのは、長い経験に裏打ちされたことだと思います。
たしかに、この世の中には、しなくていいものもたくさんありますし、持たなくていいものもたくさんあります。買おうとするときは、これがなければなにも始まらないとまで考えますが、いざ手にいれてみると、あまり使わなかったりします。そして、数年も経つと、押し入れに入れっぱなしになっていたりします。自分の周りを見渡しても、たしかに不必要なものはたくさんあります。
そのことに心当たりのある方は、この本を読めば納得できることが多々あると思います。
私も抜き書きをした箇所が22個もあり、なるほどと思ったところもあります。その1つを下記に抜き書きしましたので、ぜひ読んでみてください。そして、なるほどと思ったら、本も読んでみてください。
(2012.5.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 人生にはしなくてもいいことがいっぱいある(青春文庫) | 高橋龍太郎 | 青春出版社 | 2005年10月20日 | 9784413093262 |
☆ Extract passages ☆
例えば、野球は農村型でしょう。守備は一定して守備で、守備をやって得点が入る、ということは絶対にあり得ない。
でも現実の世の中は、みんなサッカー型。守備だと思っていたら、いきなりディフェンスのいちばん後ろの人がいちばん前に行ってシュートをボーンと入れる、ということがあるわけです。だから、周りの変化に合わせて自分の気持ちをうまくのせて、状況に合わせて得点を重ねていけるような人のほうが評価される。むしろ気分屋さんのほうが、能力を発揮することが多いんです。自分を殺す必要なんかない。・・・・・・
毎日自分を少しでも楽しくさせて生きていくということが、基本的には必要。それには、外に向かうアンテナも必要だし、自分の内側、体と心に向かってアンテナを張り続けるということも、ものすごく重要。自分の体と心が気持ちいいと感じるものにいつも敏感であること。これが自分の内側に張ったアンテナの受けとるものであることも忘れないように。外と内、自分のアンテナを意識し続けるということが、すごく大事ですね。
(高橋龍太郎 著 『人生にはしなくてもいいことがいっぱいある』より)
No.707 『ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか』
昨年11月、国賓として来日されたブータン国王ご夫妻の姿は、連日マスコミにより報道され、そのさわやかなご様子を見られた方も多かったのではないかと思います。最初の予定では、5月に来日される予定でしたが、3月11日の東日本大震災があり、延期されたのです。もし、延期されなければ、10月に結婚されたのでご一緒の訪問はあり得なかったのです。
おそらく、京都の金閣寺を訪ねられたときに傘を住職に差し掛けられたのを覚えている方もおられるでしょうが、じつは、あのときの衣装は、寺院を参詣するということで正装の際に身につける黄色の「カムニ」を、そして王妃は赤い「ラチュ」をそれぞれつけていました。つまり、観光でまわったのではなく、信仰の対象である寺院の仏さまにお参りするためにまわられたのです。
下に抜き書きしましたが、ブータンの人々はいつも祈りとともにあります。お年の方に聞くと、年を重ねてきて、今はゆっくりとお参りできることが幸せだといいます。村の出入り口には水車でまわるマニ車があり、お寺にはいつもマニ車を回しながらお参りしている人々がいます。もちろん、手に持って、小さなマニ車を回している人もいます。国王や政府高官の演説にも、仏教の教えや用語がポンポンと出てきます。それほど、仏教の教えが生活に密着しているのです。
おそらく、そのことが、足るを知ることになり、今の生活に満足することになるのではないかと思います。
この本のなかで紹介されていましたが、『ブータンでは幼い頃から、「隣人の幸福を羨むのではなく、良かったねと褒めましょう」と親に言われて育つという。他者を羨むわけではないから、「それに比べて自分は」などと卑下するようなこともない。また若者のはとんどが、一番大切なのは「家族との時間」であると答える。このあたりは、個人主義が進む先進諸国とは大きく異なるし、ブータンの大きな特徴と言える。』といいます。
そういえば、3月にNHKで放送されたブータンの番組の中で、「家族みんなが健康仲良くできるから幸せ」と答えていましたが、まさにその通りです。今、ここにこうしているなかから、幸せを探すわけですから、幸せであるのは当然といえます。家族を大事に思うから、その地域に住む人たちも大事になるし、ひいてはすべての国民が大事と思えるようになるはずです。
ゾンカ語で「ガー・トト、キー・トト」というのは、「心身が心地よい状態」だそうですが、幸福なんて抽象的な言葉より、このような充足感が本当の幸せにつながるのかもしれません。
(2012.5.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか | 田中敏恵 | 小学館 | 2012年3月4日 | 9784093882385 |
☆ Extract passages ☆
聖地とは、しかるべき場所に人々が祈りを捧げた時に生まれるのだという。ならばブータンという国は、全体が聖地と言ってもいいはどだ。風の吹く場所には、ダルシソと呼ばれる経文旗がはためき、1度回すたびにお経を1回唱えたことになるというマニ辛がいたるところにある。そして、寺院にお参りする人々。彼らの日常は、常に祈りとともにあると言っていい。しかもその祈りは、自分たちのためにあるわけではない。究極的には来世での幸せのためなのかもしれないが、祈りの言葉は常に「生きとし生けるものたちすべて」に捧げられているのだ。自分自身ではなく、生類すべての安寧を祈る人々。そんな場所の「気」が清らかなのは、至極あたりまえだと思うのは、安直だろうか。
(田中敏恵 著 『ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか』より)
No.706 『バカな研究を嗤うな』
この本は本当におもしろかった。科学者がこんなにも赤裸々に自分の人生を振り返って書かれるのも珍しいけれど、だからこそ寄生虫の研究が始まったことを知り、ほんとうに納得しました。下手な科学書より、これこそが科学的手法だと思いました。
副題は「寄生虫博士の90%おかしな人生力」ですが、そのおかしな性格があればこその研究です。まさに人まねでない、独創的なもので、もちろん普通の科学者ではなかなかマネもできそうもありません。
今では多くの方々に認められるようになってきたようですが、寄生虫がアレルギーを抑制しているという説を証明するために、自らの腸の中に寄生虫の一種であるサナダムシを5代にわたり15年間も飼い続けたそうで、そこからわかったことも多いと言います。まさにおかしな人体実験ですが、自分の説の正しさを証明したのですから、実に科学的な手法です。
考えてみれば、普通の市販薬でさえ、最後は人体実験をするといいますから、おかしいことではないのかもしれません。当然のことながら、ご本人は大まじめです。それを真面目に取り組めるからたいしたものです。
文中に血液型の性格判断の正しさなどもあり、それなども解説されると少しは納得できます。たった4種類の血液型だけで性格判断するのはちょっと無茶だとは思いますが、それにも、それなりの根拠があるといいます。そういえば、たしか血液学者のそのような説を読んだことがあります。この『ホンの旅』でも、取り上げました。
やはり、最初から眉唾物だと敬遠するより、一度は近づいてみるのもいいようです。
そうすると、とんでもなくおもしろいことにぶつかることもあります。
実は、この本もそのような出会いの1冊でした。『笑うカイチュウ』とともに、お読みいただければと思います。そこには、笑ったり、嗤われたりのおもしろさがあります。
(2012.5.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| バカな研究を嗤うな | 藤田紘一郎 | 技術評論社 | 2012年1月15日 | 9784774149561 |
☆ Extract passages ☆
私は、すべての寄生虫が人にいいことをしていると言っているのではない。悪い寄生虫ももちろんいる。人間を宿主とするような、ライフサイクルの基本を人間に置いている寄生虫、つまり人間に昔から寄生している寄生虫は人間を守る。しかし、動物を宿主とする寄生虫は動物を守るが、人に侵入してくるととても怖い虫になる。たとえば北海道で流行している寄生虫エキノコックスは、キタキツネのサナダムシである。キタキツネは守るが、人に入ってくるととても怖い虫になる。
さらにアレルギー反応を抑えているのは寄生虫ばかりではなく、細菌やウイルスなどの微生物が関係しているということが、のちの研究で明らかになった。私たちの体に共生的にすんでいる細菌はみんな私たちを守る。しかし動物の細菌は動物を守るが、人に侵入すると病気を起こす。人にとっては、敵と味方の寄生虫や細菌がいるというわけだ。ウイルスも単独では仲間を増やせない。必ず仲間を増やす好適宿主がいる。好適宿主は守るが、ほかの宿主では病原性を発揮する。SARSウイルスは人にとってはとても怖い。しかしこのウイルスは昔から中国の山奥にいるセンザンコウやハクビシンという動物の体中で仲間を増やしていた。センザンコウやハクビシンは守るが、人に入ってくるととても怖いウイルスになる。
(藤田紘一郎 著 『バカな研究を嗤うな』より)
No.705 『こころ揺さぶる、あのひと言』
なんか似たような題名の本を読んだことがあると思ったら、ちょうどNo500で『こころに響いた、あのひと言』を読んでいました。時期は2010年の7月17日で、心のどこかに響いて残っていたようです。
この「いい人に会う」は、日本サムスン株式会社の季刊広報誌として刊行されているもので、そのなかから選ばれて1冊になったのがこの本です。
掲載されている方々も有名だったり、その業界では著名でも一般的にはほとんど知られていなかったりで、とても読み応えがありました。しかも、ゴールデン・ウイークも半ばを過ぎ忙しいこともあり、1つの話が3ページだとどこで読み終わってもいいので、その点もよかったです。
たしかに心を強く揺さぶられた話もありますし、それほど感じない話もあり、読む人によって異なるのは当然ですが、これを選んで編集するのは大変だったと思います。
たとえば、エッセイストの森下典子さんの話で、「P134」という、お茶のお稽古の経験から書いていましたが、その経験のある人なら、すぐに納得できるものです。
また、下に抜き書きしましたが、人形浄瑠璃文楽座の豊竹咲甫大夫さんの話しもおもしろく、初めて知る方でしたが心に残りそうです。
後ろの既刊本の紹介に、「忘れられない、あのひと言」というのもありましたので、いつか読んでみたいものです。
(2012.5.7)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| こころ揺さぶる、あのひと言 | 「いい人に会う」編集部 編 | 岩波書店 | 2012年2月16日 | 9784000229180 |
☆ Extract passages ☆
僕の師匠(豊竹咲大夫)には二十代の頃「たんすの引き出しの中は、いっぱいか?」と言われたことがある。これは師匠自身が若いときに言われた言葉で、常にいろいろなことを見たり聞いたりして吸収し、引き出しの中をいっぱいにしておかなければ表に出たときに自分自身が恥をかくのだから、常日頃の精進を怠ってはいけない!という意味だ。
ことに舞台人には、ハレを出してこないといけない日がある。ハレを出すとは、ハレとケの関係のように、いつも以上に素晴らしい舞台をつとめあげることである。むろんどの舞台も大切なのだが、ここ一番というときには一張羅のハレを出してこないと、お客様にもこちら側の関係者にも満足していただけない場合がある。だが、そういうときこそ舞台人は成長するのではないかと思う。
(「いい人に会う」編集部 編 『こころ揺さぶる、あのひと言』より)
No.704 『花みちくさ』
著者は西岡直樹だが、画は西岡由利子で、花の随筆ひとつに画がひとつ入っています。でも、せっかくの画がモノクロームなので、もったいないような気がしました。やはり、花の画はカラーでないと雰囲気が伝わってきません。
副題は「身近な植物をめぐる210話」とあり、もともとは平凡社のPR誌『月刊百科』に連載されていた「花みちくさ」だそうで、2002年11月号から2011年6月号までの208話に、スギナとヤマザクラの2話を書き下ろし、210話にしたそうです。
著者の『インド花綴り』や『インドの樹、ベンガルの台地』、『仏教植物散策』などを読んでいますから、この本でもインドやバングラデシュなどの植物の話しもあり、なつかしく思い出しながら読みました。とくにインドの植物は、仏教などと結びついているので、日本でも馴染みのものもあります。チガヤやギョウギシバなどですが、このギョウギシバについては「インドでは、ギョウギシバは古くからドゥールヴァー、クタラなどと呼ばれ、結婚式や祭などの儀式を執り行なうのに欠かせない重要な聖草となっているのである。孫の「お食い初め」の式の前、友人の奥さんが庭先に出て、ギョウギシバの菓を摘み集めていた姿が思い出される。」と書いています。
やはり、このような文章は、長くインドに住んだことのある方でないと書けません。
また、チガヤについても、インドの説話を紹介していますが、それは下に抜き書きしました。これを読むと、この本の流れの一端を知ることができると思います。
もし、機会があれば、今は『定本 インド花綴り』(木犀社)と題名も少し変わっていますが、これもとてもおもしろい本です。あわせてお読みいただければ、熱帯や亜熱帯の植物についても知識が深まると思います。
(2012.5.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 花みちくさ | 西岡直樹 | 平凡社 | 2012年2月24日 | 9784582835601 |
☆ Extract passages ☆
こんな話がある。親が賭けに負けて、その尻ぬぐいのために、ガルダ(鳥の神)は天国から不死の妙薬アムリタ(甘露)を盗んできてナーガ(蛇の神)に手渡した。ナーガは、身を清めた後に飲もうと、アムリタの壷をチガヤの上において沐浴に出かけた。ちょうどそのとき、アムリタを探しにやってきたインドラ神がその壷を見つけ、持ち帰ってしまった。ナーガは悔しがって壷がおかれていたチガヤをなめ、その鋭い菓で舌を切ってしまった。そのときからチガヤは先が赤く染まり、蛇の舌はふたつに裂けてしまったのだという。
インドではチガヤの根は利尿、強壮薬としても利用される。
(西岡直樹 著 『花みちくさ』より)
No.703 『暦はエレガントな科学』
この本は、「二十四節気と日本人」という副題がついていて、暦全般を扱いながら、とくに二十四節気に焦点をあわせています。というのは、この2012年秋までに、日本気象協会が「日本版二十四節気」を提案するからなのだそうです。でも、昔から伝わってきて、そんなに違和感もない二十四節気を変える必要もないのではないかと思います。
もともと二十四節気とは何かといいますと、それを下に抜き書きしてみましたので、お読みください。
日本のカレンダーにもこの二十四節気などの記載はあり、ついそれらから季節感を感じていますが、中国はもうすでに暦とは縁のない生活をしているのかといいますと、そうではなく、中国などの農暦(旧暦)の主な風習をリストアップすると、「春節」は正月一日、「元宵節」は正月十五日、「清明節」(二十四節気の清明)は墓参の日、「彿誕節」は四月八日(台湾では祝日)、「端午節」は五月五日、「七夕情人節」は七月七日(中国のバレンタインデー)、「中秋節」は八月十五日(中秋の名月)、「重陽節」は九月九日(老人節ともいう)、「蝋八節」は十二月八日(お釈迦さまが悟りを開いた日)、となんとなく日本の暦ととてもよく似ています。というより、中国の行事が日本に伝わったというのが正しいようです。
暦の名称なども、それぞれに長い歴史があり、その所々の自然現象などが根拠になっているようです。たとえば、アメリカインディアンのオジブワ族の暦は、1月は「長い月、霊の月」、2月は「サッカー魚の月」、3月は「積った雪が硬くなる月」、4月は「雪靴の破れる月」、5月は「花々の咲き乱れる月」、6月は「いちごの月」、7月は「ラズベリーの月」、8月は「コケモモの月」、9月は「ワイルドライスを採る月」、10月は「落葉の月」、11月は「凍てる月」、12月は「小さな霊の月」と呼ぶのだそうです。
この本を読んでいると、やはり暦というのは実生活に即した学問であり、この本の題名のようにエレガントかどうかはわかりませんが、まさに日常生活に必要な実学という気がします。
この本を読んで知ったのですが、今の旧暦の暦法は天保暦に準拠しているので、2033年から2034年にかけて月名が決まらないかもしれないという問題があるんだそうです。でも、それでは困ります。おそらく、専門家の方たちが知恵を絞って解決するとは思うのですが、むしろそのような問題が起きて初めて暦の大切さが伝わるのかも知れません。
(2012.5.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 暦はエレガントな科学 | 石原幸男 | PHP | 2012年1月10日 | 9784569801490 |
☆ Extract passages ☆
二十四節気は「二至二分」を基準として決められた太陽暦ですので、太陽の運行によって季節を決めているのです。気温の変動は、太陽より少し遅れます。とくに日本は海に囲まれているが、海水は熱容量が
大きい、つまり熟しにくく冷めにくいので、この遅れは大陸よりさらに大きくなる。これが節気の「光の季節」に違和感を覚える大きな理由でしょう。
また日本は、夏至のころに梅雨があって日照が少ないことも「光の季節」に気づきにくくしているでしょう。しかし、この「光の季節」という意味について、一度正確に理解しておくことは重要と思われます。
(石原幸男 著 『暦はエレガントな科学』より)
No.702 『女は男の指を見る』
なぜ『女は男の指を見る』の答えは、ぜひこの本を読んでもらいたいと思います。先にマジックの種明かしをしたら、もうそのマジックはつまらないでしょうから、本を読むことをすすめたいので、ちょっと意地悪ですがご理解ください。
でも、読んでみて、納得です。左手の薬指に結婚指輪をするのだって、やはり意味がありそうです。
人間は、どうも自分のことが一番わからないようです。この本がすべてその通りだとは思わないのですが、そうかも、と考えさせられる箇所はたくさんありました。意外と気楽に読めるので、ちょっとした時間の合間に読み続けたのですが、ズーッと時間を空けないで読まなくても理解できます。
著者がいうように、人間も他の動物も、いかに、自分の「遺伝子のコピーを残す」という課題のために自分の「意志」ではないものに動かされているかというのを、感じました。たしかに、言われてみればその通りですが、いや、そうではない、と強がる自分がいたのも事実です。いつも、「遺伝子のコピーを残す」ためだけに生きているのは、ちょっとイヤです。何か、別の生きる意義があってもいいのではないか、と思うのです。
そういう意味では、自分の存在意義を際立たせてくれる1冊でもあります。
もし、機会があれば気楽に読んでみてはいかがでしょうか。
(2012.4.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 女は男の指を見る(新潮新書) | 竹内久美子 | 新潮社 | 2010年4月20日 | 9784106103582 |
☆ Extract passages ☆
シンメトリー、体がいかに左右対称かということです。私たちの体には、耳や目、手足をはじめとして、対になっている部位が幾つもあります。対なのだから、左右対称、長さや幅は同じに発達すべきなのですが、遺伝や環境の影響を受けて、なかなか完全なシンメトリーには仕上げられていません。両手を合わせてみると、指の長さが少しずつ違うのがおわかりでしょう。
そのずれには個体差があり、よりシンメトリーな個体ほど、環境からのストレスを受けていない、あるいは受けてもそれによく対抗する力を持っていると考えられるのです。環境からのストレスの最たるものは、バクテリア、ウィルス、寄生虫といった寄生者で、それらに対抗する力、つまり免疫力が体の部位の左右対称さに一番影響を与えることになります。免疫力が低ければ、成長する過程でバクテリア、ウイルス、寄生虫にやられやすく、身体の左右対称な発達に影響が出るというわけです。
そんなわけで体の部位がいかに左右対称かということが免疫力の客観的な「物差し」になりうることがわかってきたのです。
(竹内久美子 著 『女は男の指を見る』より)
No.701 『君を成長させる言葉』
この世の中、説教くさい人間はたくさんいますが、著者も自ら認めているぐらいですからそうだと思います。この本も、ある編集者と飲んだことから書くことになったそうです。その編集者が説教されながらも、それを本にして出そうというからには、ある意味、それをなるほどと納得したからだと思います。
説教も、ある人にはくどくてイヤだと思うけれど、ある人にはとても参考になるかもしれません。この本を読んで、もし若い人たちに説教する立場になったら、このような話をしたいものだと思いました。
たとえば、ミック・ジャガーの「ハメをはずしてもかまわない。ただし、元に戻れるならの話だ」という言葉を引用しながら、「たまには、ハメをはずして富山県南砺市遊部ことも必要だよね。それで失敗することも含めて、生きるってことだからさ。今という時間は、将来成功するための準備としての意味だけじゃなくて、それ自体がかけがえのない人生の一部だからね。楽しむことに消極的になっちゃいけないと思う」なんて言えればいいな、と思います。
この本は、誰かの文章を引用し、それを土台にして自分の言葉で語りかけるという構成になっています。
下に抜き書きしたのは、基本的な構成で、下の例でいえば、ベンジャミン・フランクリンの「知識への投資は、常に最高の利息がついてくる。」という言葉に対し、著者の説教を述べます。
このような語り口だからこそ、若い人たちにも説得できるのかもしれません。なんといったって、二人の話を聞いているようなものですから・・・・・・。
(2012.4.26)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 君を成長させる言葉 | 酒井 穣 | 日本実業出版社 | 2012年2月1日 | 9784534049087 |
☆ Extract passages ☆
知識への投資は、常に最高の利息がついてくる。
政治家/ベンジャミン・フランクリン
典型的な一日を思い浮いべてみて、
その君の一日の中で、勉強にあてられている時間は、どれくらいある?
たとえば、典型的な一日の中に、英語の勉強が入っていない人は、
一生、英語をモノにできないんだよ。
毎日、少しずつなにかを進めることができるスキルほど、
重要なことはないよ。
英語ができる人が評価されるのは、
それが、コツコツやるっていうスキルの証明だからだよ。
(酒井 穣 著 『君を成長させる言葉』より)
No.700 『人生いたるところにブッダあり』
記念すべきNo.700をどのような本にしようかと思っていましたが、この本はオーストラリアの旅に持っていくつもりである本屋さんで何気なく手に取った1冊です。
それも、旅ではダーウィン関連の本を先に読んでしまい、これはホンの少し帰りの飛行機のなかで読んだだけで、その後もダラダラと時間ばかりかかり、やっと読み終わりました。
著者は2010年2月、62歳の若さで亡くなってしまいましたが、まさに波瀾万丈の人生を旅していたような作家でした。この本の中でも取り上げていますが、あの1993年に雑誌連載の小説「光の雨」の一部が、元連合赤軍幹部の坂口弘死刑囚の著書と酷似していると指摘された盗作疑惑問題も、今ではその旅の大きなうねりのなかにあります。でも、この本では、長い苦悶の末に「光の雨」を全面的に改稿して、さらに映画化もされました。そういうことでは、きっちり区切りをつけたといえます。
さて、この本は、著者自らは「ぼくの仏教入門」ということで、仏教との関わりを書いています。最初は1999年10月にネスコより刊行された「ぼくの仏教入門」を題名を変え、文庫化したものだそうです。つまり、もともと、この副題が本題だったというわけです。
著者はこの本のなかで、「苦しみと楽しみは表裏一体で、どちらかだけということはほとんどない。苦しみや恐怖の果てには必ず喜びがある。喜びの背後には悲しみや苦しみが必ず隠されているのです。こうして矛盾したことが同居しているのが、この世の成り立ちです。」という意味のことを何度か繰り返しています。おそらく、あの盗作問題も大きな金砂実や苦しみだったと思いますが、ある意味、それをバネにして立ち直る姿も描いています。そして、その傍らには、いつもブッダに支えられている著者がいます。
そして、「心が晴れやかであれば、この街の風景も華やかです。恨んでいれば、この街の風景も暗く澱んで沈んで見えます。自分の心を清めるということは、自分がその身を置いているこの風景を変えることです。だから心が大切なのです。心の修養ということが、人生に大きな意味をもってくるのです。」といいます。これこそ、ブッダが最後の旅でつぶやいたことです。
読み切るのに、時間はかかりましたが、それだけ深く読むことができたと、今は思います。私もブッダを訪ねて何度かインドを旅しましたが、そこには、たしかに「ブッダがこの世に確かに存在したという痕跡があった」と思います。それだけでも、インドを旅してよかったと思っています。
(2012.4.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 人生いたるところにブッダあり(ごま文庫) | 大谷和利 | マイナビ | 2012年1月10日 | 9784839941567 |
☆ Extract passages ☆
自然の前に平伏する。神仏に礼拝する。人がいろんなものに礼拝するのは、自分を謙虚につつしみ深くすることです。できるだけ我を、我執を小さくしていく。それが礼拝です。
礼拝は、無防備な姿をすることでもあります。
手を合わせてみてください。他人に飛びかかることもできない。他人を殴ることもできない。目を伏せて頭を下げ、一番弱いところを人前に曝している。まったく無防備な姿なのです。
礼拝は、仏教でいう因縁の、良き因縁を導きだす最もすぐれた智慧と言えるでしょう。だから人はお互いに、すべての人に対して礼拝し、無防備になれればいいのだけどそれがなかなか難しい。誰もがいつも無意識のうち、何かに対して身構えています。
(立松和平 著 『人生いたるところにブッダあり』より)
No.699 『スティーブ・ジョブズとアップルのDNA』
アメリカの現地時間で2011年10月5日にスティーブ・ジョブズが亡くなったことをNHKのニュースで知りました。
いくら有名だとしても、アメリカの一企業のCEOがNHKのニュースで取り上げられたことにビックリしたが、どこかでそれを納得していました。
著者はページの最初のほうで、「彼の自宅は、広大ではあったが、一流企業のトップの邸宅とは思えないほど質素で、高い塀もなければ、セキュリティシステムも備わっていなかったという。」といい、だからこそ、ジョブズは「世界統一仕様とデザインを持つ製品にこだわった。肌の色や文化、社会体制が違っていても、人々の根幹にある感覚は共通であると信じ、そこに向けて最高の製品を送り続けたのである。と言い切っています。
たしかに、アップル製品を好きだという方は多いようですが、私自身はつい最近まで一つも使っていませんでした。やはり、あのデザイン中心のスタイルになじめなかったし、自分の好みで変えることもできない仕様に不満がありました。でも、それは使ってもみないで、という声がいつもどこからか聞こえていたように思います。
ところが今年に入ってから、長年使っていた日本製のデジタルオーディオプレーヤーが故障し、新しいものを買わざるを得なくなり、とうとうiPod nano に変えました。以前のものはメモリーが2GBでしたが、この小ささで16GBもあり、何百曲、いや何千曲も入ることにビックリしました。しかも、ほとんどの操作がタッチパネルで、パソコンに入力すべきソフトもすべてタウンロードしなければならないようでした。
いざ、使ってみると、音質もなかなかのものだし、使い勝手は、使っているうちに慣れたし、ちょっとおもちゃみたいなところはまだなじめませんが、まあまあ満足しています。
やはり、著者が「夢想的だとしても、それに倣えば、ジョブズは世界中で愛される製品やサービスを作ることで、人類が国境を越えてわかり合える存在であることを証明したかったのかもしれない。」というのも、あながち誇張でもないと思います。
だからこそ、傾きかけたアップル社がジョブスの復帰で持ち直し、今では世界有数の会社に育っています。株価の推移を見ただけでも、それははっきりしています。
たった一人の個人の力が、これほど大きいとは、やはりというかさすがというか、それがスティーブ・ジョブズなのです。
そして、その影響力の力が、NHKのニュースでも取り上げられたということにつながるのでしょう。
スティーブ・ジョブズ関連の本が最近たくさん出ていますが、もう少し読んでみたいと思いました。
(2012.4.21)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| スティーブ・ジョブズとアップルのDNA | 大谷和利 | マイナビ | 2012年1月10日 | 9784839941567 |
☆ Extract passages ☆
アップルは、単に技術的に可能だから作ったり、営業部門からの要求で多機能化するようなことはしない。同社は、すぐには現実化できなくともまずビジョンを立てる。そして、その実現のためにどのような技術が必要かを考え、その技術がすでに存在していればライセンスを受けたり、開発元の企業を買収する。また、存在しない技術は自前での開発を考える。
かつてのアップルは、すべてを自前の技術で賄おうとして市場投入のタイミングを逸し、失敗することもあった。MacOS Xに相当するOSを自社開発できなかったのは、その最たる例だ。
同社は、今でも独自技術を重視はするが、そこに固執しすぎることはない。それ以上に、ビジョンの実現を優先する姿勢を持つようになったことが、現在のアップルの強さの根底にある。
(大谷和利 著 『スティーブ・ジョブズとアップルのDNA』より)
No.698 『犠牲のシステム 福島・沖縄』
東日本大震災のあと、原発関連の本を何冊が読んでいますが、読むたびにあの安全神話はほんとうに神話に過ぎなかったと思います。いや、神話などではなく、都合良く作られた話に過ぎなかったと思います。
この本を読んで知ったのですが、原発を立地する際の基準があり、今回の事故は想定外の出来事などではなく、まったく想定されていたことだと思いました。
そこで、1989年3月27日に1964年の基準の一部改訂があり、そのときの「立地審査の指針」をちょっと長いですがここに掲載しますと、
立地審査の指針
立地条件の適否を判断する際には、(中略)少なくとも次の三条件が満たされていることを確認しなければならない。
l 原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること。
ここにいう「ある距離の範囲」としては、重大事故の場合、もし、その距離だけ離れた地点に人がいつづけるならば、その人に放射線障害を与えるかもしれないと判断される距離までの範囲をとるものとし、「非居住区域」とは、公衆が原則として居住しない区域をいうものとする。
2 原子炉からのある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること。
ここにいう「ある距離の範囲」としては、仮想事故の場合、何らの措置を講じなければ、範囲内にいる公衆に著しい放射線災害を与えるかもしれないと判断される範囲をとるものとし、「低人口地帯」とは、著しい放射線災害を与えないために、適切な措置を講じうる環境にある地帯(例えば、人口密度の低い地帯)をいうものとする。
3 原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること。
ここにいう「ある距離」としては、仮想事故の場合、全身線量の積算値が、集団線量の見地から十分受け入れられる程度に小さい備になるような距離をとるものとする。
この文章をみると、はっきりと「重大事故の場合」が想定されていますし、だからこそ原発は「人口密集地帯」から離れていなければならないとされたのです。
つまり、あくまでも想定外という認識ではなく、起こるかも知れないとわかっていたことで、だからこそ、多くの方が人災というのも頷けることです。
この本を読むと、原子力発電というものがいかに多くの犠牲の上に成り立っているかということがわかります。ぜひ、ご一読ください。
(2012.4.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 犠牲のシステム 福島・沖縄(集英社新書) | 高橋哲哉 | 集英社 | 2012年1月22日 | 9784087206258 |
☆ Extract passages ☆
官僚は「顔がない」といわれる。事務次官が一、二年で交代していくシステムは個人の責任を問うことを難しくするように見え、そのことがまたこのシステム全体を「無責任の体系」として延命させてしまう現実がある。だが、決定権者の責任を組織の責任に解消することはできない。甚大な被害を出して破綻に行きついた国策――それを意のままにしてきた歴代の「原子力官僚」の責任は免れない。もちろん、その国策の最終責任は、内閣の担当大臣たち、そしてつまるところ内閣総理大臣にあることは言うまでもない。
(高橋哲哉 著 『犠牲のシステム 福島・沖縄』より)
No.697 『インド夢幻』
著者は瀬戸内晴美ですから、相当古い本ですが、ここになぜ仏教に興味を持ったのかとか得度するきっかけになったのはなにかなどのヒントが隠されているように感じました。前から読もう読もうと思いながら、読む機会がなかった本の1冊です。
もともとこの文章は、「週間朝日」に昭和53年2月から5月まで「インド紀行」の題で連載されたもので、それを昭和57年7月に単行本として出される際に全面的に補筆し、さらに7章分を加筆しまとめたものだそうです。
著者が今東光を師僧として中尊寺で得度したのが昭和48年(1973)ですが、昭和62年(1987)に天台寺住職となったときに瀬戸内寂聴に改名してますので、その間に書かれたということになります。この文庫本は1986年に第1刷が発行されていますから、まさに瀬戸内寂聴と名乗る前年のことです。
この本にも書かれていますが、インドはお釈迦さまの故郷であるばかりでなく、不可思議な世界です。しかも著者はこの後、何度もインドを訪ねているそうですが、これが最初のインド訪問ですから、おそらく相当印象深いものがあったと思います。
この本のなかでも、アンナプルナやマチャプチャの巨峰群を見たときの印象を「自分の躯が現実のものでないような恍惚の中にひたされている」と書いていますが、翌日、もう一度見ようと早起きしたのに曇っていて見れなかったことを、「あれほどの美は一度出逢えればいいのではないか」と言い切っています。そのような気持ちになるということも、やはり最初だったからではないかと思います。
人は、良くも悪くも、最初の印象が一番強烈です。だから、インドに一度行き、後は行きたくないという人と何度でも行きたいという日とに分かれる、というのも頷けます。
しかも、インドで体調を崩し、大変な思いをしながら仏跡巡礼を続けたということは、いつもお釈迦さまを身近に感じ、修行のつもりで歩き続けたということでしょう。私も何度かお釈迦さまの足跡を訪ねたことがありますが、ここに2,500年ほど前にお釈迦さまがいらっしゃった、と思っただけでジーンとくるものがありました。
(2012.4.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| インド夢幻(文春文庫) | 瀬戸内晴美 | 文藝春秋 | 1986年9月25日 | 9784167116170 |
☆ Extract passages ☆
私が釈尊に惹かれ、仏教に帰依したことを今もよかったと思っている理由のひとつに釈尊が王城を出て以来の苦行や瞑想のすべてが、自己救済の目的で行われたという点である。神でもなく超越者でもなく、ほたまた神の子でもなく、ひたすら只の人間としてのシッダッタが、人間の苦悩に直面して悩み苦しんだという点である。私にとって釈尊が慕わしくなつかしいのは、釈尊が若き日の快楽的な煩悩にみちた生活を正直に告白してくれているところである。生涯、何の奇蹟もおこらず、悟りを開いて聖者仏陀を自覚して後も、とぼとぼと歩きつづけ孤独に病死していった八十歳の老人が慕わしくなつかしいのである。
(瀬戸内晴美 著 『インド夢幻』より)
No.696 『元気と勇気が湧いてくる経済の考え方』
著者は経済学の専門家で、経済学の著書も多々あります。でも、この本は著者もことわっているように、経済学のテキストではありません。むしろ、経済学でよく使う考え方で一般的なことを考えようというものです。たとえば、「元カレのプレゼントと試験勉強の意外な関係」とか、「行列ができているラーメン屋に並んでみた」という設定です。
第1章は、この「元カレのプレゼントと試験勉強の意外な関係」ですが、最終的には過去を振り切って前に進むという方向にコマを進めます。そして、「取り返しのつく過去は、実は気にしてもよい過去。逆に、取り返しのつかない過去はさっさと忘れるべき」として、元カレのプレゼントはさっさと忘れてしまいなさい、といいます。でも、その割り切りが必要だと感じながらも、なかなか割り切れないのが本音です。まあ、そう言ってしまえば、身も蓋もないのですが。
このような本を書く著者の略歴も興味深く、「1963年生まれ。父の仕事の関係で小学校をシンガポールで卒業、高校時代をブラジルで暮らす。大学も慶應義塾大学経済学部を通信教育により卒業。普通の若者の進路とはかなり異なる道を歩んだのち東京大学大学院へ進み、博士号を取得。現在、東京大学大学院経済学研究科教授。」と紹介されてありました。
たしかに「普通の若者の進路とはかなり異なる道」ですが、それでも将来を見据えた道を歩いてきたからこそ、「選択肢を増やすことは、単純に見えなかったものを見えるようにするというメリットばかりではありません。今まで自分の考えの中になかった新しい選択肢を増やしていくことも大事なメリットになります。世界は大きく変化しています。これからの社会は、今までとは大きく違ってくることでしょう。そんなときに必要なことは、新しい選択肢だったり、新しいルートだったりを見つけ出していくことです。」という言葉が出てくるのではないかと思います。
下に、選択肢を広げることの大切さを書いた文章を抜き書きしました。
ぜひ、この本のおもしろさを味わっていただきたいと思います。
(2012.4.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 元気と勇気が湧いてくる経済の考え方 | 柳川範之 | 日本経済新聞出版社 | 2011年11月21日 | 9784532354909 |
☆ Extract passages ☆
今、日本社会は大きな転換期を迎えている。日本だけではなく、世界全体が新興国の台頭など、大きな曲り角を迎えている。もはや、今までのやり方がそのまま通用する、今までの成功パターンがそのまま成
功をもたらす時代ではない。今までのやり方を踏襲して、そのまま後ろをついていっても、未来はない。
自分で考え、自分がよいと思う方向を選び取っていかなければならないのだ。でも、恐れることはない。なじみの店以外は、とんでもない悪店ということはない。どんな選択肢を選んでも、それなりに走っていけるものだ。むしろ周りに人が大勢いない分、きっとのびのびと走れるはずだ。
だから、落ちこぼれた、皆から遅れたと思って打ちひしがれている人も、絶望してはいけない。そこから出ている選択肢は、きっと素晴らしいゴールにつながっているはずだから。
(柳川範之 著 『元気と勇気が湧いてくる経済の考え方』より)
No.695 『公園・神社の樹木』
この本の副題は「樹木の個性と日本の歴史」とあり、人と樹木との関わりとか、それが公園や社叢林での成り立ちとか、樹木にだけスポットを当てるのではなく、その歴史にまで興味を延ばしているのが特徴ではないかと思います。
いわば、樹木にも歴史がある、といいますか、とくに公園や神社の樹木には秘められた歴史が感じられます。
たとえば、年に何度かは上野の東京国立博物館には行きますが、あの正面のユリノキには気づいていたのですが、昭和13年の完成時に牧野富太郎の推薦で植えられたということは知りませんでした。現在では、まさに東博のシンボル的な存在ですが、それも明治6年ころに北米から輸入された日本最古のユリノキが新宿御苑に植えられ、その子孫だそうですから、まさに樹にも歴史ありです。
樹木の歴史といえば、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は、春の今頃になるとその風景がテレビ等で紹介されますが、この桜は1912年3月27日に日本とアメリカの友好親善の証として約3,000本の桜が贈られたものが最初です。現在でもまだその当時の桜が200本ほど残っているそうで、子孫たちを含め3,750本の桜が毎年美しい花を咲かせているそうです。
ということは、ちょうど今年で100年という節目に当たります。そして、その返礼として、1915年にアメリカからハナミズキが届けられました。このハナミズキの花言葉は「返礼」だそうですが、お返しにはぴったりだったのでしょう。
でも、よく思うのですが、日本では第二次世界大戦のときそのハナミズキを敵国の花としてほとんど伐採してしまったのですが、アメリカではこのように残されて今も盛りに咲いています。
この本でも少し触れていますので、下に抜き書きしましたから、お読みください。まさに、樹に歴史ありです。
(2012.4.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 公園・神社の樹木 | 渡辺一夫 | 築地書館 | 2011年12月15日 | 9784806714323 |
☆ Extract passages ☆
太平洋戦争が始まり、戦局が悪化するにつれて、この木の運命は暗転する。ある日、軍令によって当局の兵士に伐られてしまったという。ハナミズキは「敵国の木」だったのである。
ハナミズキがアメリカから贈られてから約80年後の平成八年に、日比谷公園のハナミズキ林に、新たに1本のハナミズキが移植された。それは、アメリカから贈られたハナミズキの二世の苗木であった。アメリカから贈られたハナミズキは、日比谷公園だけでなく、都立園芸高校(旧府立園芸学校)にも分けられていた。そのうち2本が現存しており、その種子から育てた苗木が、園芸高校から日比谷公園に贈られたのである。植樹の際には、尾崎行雄の孫に当たる人も出席し、80年前のプレゼントに感謝し、日米の友好を祈ったという。
(渡辺一夫 著 『公園・神社の樹木』より)
No.694 『俳句のユーモア』
著者は、題名の『俳句のユーモア』のユーモアとは、『私は、自分と他者の感受性や精神のこわばりをほぐす力、それをユーモアと呼ぶことにする。ユーモアは必ずしも笑いそのものではなく、酒落や滑稽や話語をも含んだ心身のこわばりをほぐす力だ。子規の言葉を借りていえば「まじめくさった」ものをはぐす力がユーモア。以上の定義は荒っぽくてルーズだが、厳密に定義してしまうと、当のユーモアを固定化・形式化することになり、笑うに笑えないこわばりをきたすことになりかねない。』として、最後のほうで取り上げています。
ちなみに、第1章は「俳句的発想」、第2章「口誦と片言」、第3章「句会の文芸」、第4章「ユーモアの詩」という構成になっています。
著者は俳人でもあり、その句はユーモアを湛えているようで、この本の中でも「三月の甘納豆のうふふふふ」や「牡丹雪ぼくもあなたもかりんとう」」など、自作の句も取り上げています。でも、著者自身の解説を読むと、それはそれでなかなか深い意味もあるようです。
だからといって、著者の考えた通りに読者は解釈しないようで、それもまた、おもしろいことだと思いました。
著者も、俳句はいろいろな読み方をしていいし、作者の内を離れて、あらたな輝きを得ることもあるといいます。だからこそ、楽しいので、そのときどきの自分の思いで読めるからこそ、広がりもあるようです。
前回読んだ『寺田寅彦』にも、夏目漱石が出てきましたが、この本でも取り上げられていました。ということで、漱石の句を一つ、「山里や一斗の栗に貧ならず」、これをうまいとみるかそうでもないみるかは個人の問題です。
私は、夏目漱石は小説のほうがいいと思いました。
下に、著者の言葉遊びについて書いた部分を抜き書きしました。
(2012.4.7)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 俳句のユーモア(岩波現代文庫) | 坪内稔典 | 岩波書店 | 2010年10月15日 | 9784006021764 |
☆ Extract passages ☆
言葉遊びについては、ことに近代では、表現として価値が低いという見方が幅をきかしている。芭蕉についても、貞門、談林の言葉遊びを脱して真摯な表現に到達したという見方がまかり通っている。「それは言葉遊びだ」といえば、近代ではあまり価値のない表現、一段低い表現という意味の批評用語になる。だが、言葉遊びにおける言葉くらい、言葉が生き生きとしている状態はほかにはないのではないだろうか。そこではリズム、響き、意味の多義性など、言葉の持つさまざまな要素が相互に関わり合ってうごめいている。
いまでもことに子供や若者は言葉遊びに敏感だが、それは子供や若者が、生き生きとして原初的な言葉に敏感だということではないだろうか。言葉がたんに伝達の道具や知識としてではなく、生き物として呼吸しているのが言葉遊びの言葉だと思われる。
(坪内稔典 著 『俳句のユーモア』より)
No.693 『寺田寅彦』
副題が「漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学」で、寺田寅彦と夏目漱石、そしてレイリー卿との類似性などを大きく取り上げています。
この本を手にしたときには、おそらく寺田寅彦の生い立ちなどの記録やものの考え方を書いてある、と漠然と思っていたのですが、ちょっとばかり違っていました。その当時の物理学を丹念に紹介してあり、もしかするとこれは物理学の本ではないかと思うほどでした。
たしかに、寺田寅彦の時代は古典的物理学、つまりは自分の目で確認できることを対象とするようなものから、原子や放射線など、自分の目だけでは絶対に見ることができないものまで対象としつつある今の物理学へと移行しつつある、その狭間でした。しかし、寺田寅彦は、「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」という口癖があったと伝えられていますが、そのように目に見える不思議な現象を解き明かすことに興味があったようです。そこから「尺八の音響学」や「椿の落下運動」などの研究が生まれたともいえます。
この本で知ったのですが、生涯に著した学術論文は267編、その内訳は英文209編、邦文58編ですから、約30年間でこれだけの論文を発表したということは驚きでした。もっと、時間をかけてゆったりした研究をしていたと勝手に思っていたので、本当にびっくりしました。
さらに、啓蒙的な科学の解説や紹介などいわゆる随筆や、さらには漱石の影響からはじめたと思われる俳句まで含めれば、そうとうな文章が残っています。まさに文人科学者の面目躍如たるものがあります。
下に抜き書きしたのは、1927年の随筆「防備録」の中の線香花火に関する記述です。たしかに科学的な見方ではありますが、文章は詩的というか音楽的というか、いかにも寺田寅彦らしいものが感じられます。ちょっと長くなりますが、日本人の感性と科学的なものの見方考え方の融合と思えるので、引用してみます。
ぜひ、ゆっくり読んでみてください。これが科学論文なら、やはり読んでみたいと思うのではないでしょうか。
(2012.4.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 寺田寅彦(中公新書) | 小山慶太 | 中央公論新社 | 2012年1月25日 | 9784121021472 |
☆ Extract passages ☆
はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹の花弁のように放出され、その反動で全体は振り子のように揺動する。同時に灼熱された熔融塊の球がだんだんに生長して行く。炎がやんで次の火花のフェーズに移るまでの短かい休止期(ポーズ)がまた名状し難い心持ちを与えるものである。火の球は、かすかな、ものの煮えたぎるような音を立てながら細かく震動している。それは今にもはとばしり出ようとする勢力(エネルギー)が内部に渦巻いて
いる事を感じさせる。突然火花の放出が始まる。目に止まらぬ速度で発射される微細な火弾が、目に見えぬ空中の何物かに衝突して砕けでもするように、無数の光の矢束となって放散する、その中の一片はまたさらに砕けて第二の松葉第三第四の松葉を展開する。この火花の時間的ならびに空間的の分布が、あれよりもっと疎であってもあるいは密であってもいけないであろう。実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。私の母はこの最後のフェーズを「散り菊」と名づけていた。ほんとうに単弁の菊のしおれかかったような形である。「チリギクチリギクチリギクチリギク」こう言ってはやして聞かせた母の声を思い出すと、自分の故郷における幼時の追懐が鮮明によび返されるのである。あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセテイクシンフォニーを思い出す。
実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり、「起承転結」があり、詩があり音楽がある。
(小山慶太 著 『寺田寅彦』より)
No.692 『弱者の居場所がない社会』
この本を読んで、本当に居場所がないということの怖さを知りました。そして、お金がない、ということは、それにともなういろいろな制約もあるということで、その大きな孤立感もヒシヒシと感じました。
この本のなかで、『経済的貧困には、ただモノがないというだけではないさまざまな側面がある。経済的制約は、しばしば、人々を束縛する。それは、選択肢がないこと、ゆとりがないこと、時間がないこと、将来の見通しが立たないこと、安心がないこと、にもつながる。さらに、経済的制約は、他者との交流やつながりさえも奪う。所得が低い層ほど、孤立の度合いが高いことは、さまざまなデータからも確認される事実である。さらには、現代社会において経済的地位は、社会的地位を意味し、社会の中で低い順位に常に置かれていることは、精神的に大きな苦痛である。それは、人として敬われないこと、自尊心を失うこと、希望がないこと、につながる。そして、経済的貧困は、究極的には、人々を「社会的孤立」に追い込み、「居場所」さえをも奪ってしまう。』という。
だから、経済的に困窮するのはたいへんだというわけです。でも、一般的に貧乏だということは、むしろ狭い意味での経済的貧困のみを考えます。でも、こうしてみると、むしろそこから派生する社会的なことや精神的な苦痛のほうがたいへんなような気がします。
それと、昨年の東日本大震災の復興にも関連しますが、直接的な被害だけでなく、二次的、三次的な被害が出てきます。この本でも書いてありましたが、阪神・淡路大震災のときにも、2年目以降に仮設住宅における「孤独死」が急増したそうです。また、収入に関しても、2年後よりもむしろ5年後、9年後の方が震災前に比べて収入が減ったとアンケートに答えています。
たしかに、震災直後は多くの救済事業があり、みんなの目も向いていますが、時間がたつにつれて、支援も少なくなり、ある意味で遠い記憶になってしまいがちです。そうすると、経済的問題もさることながら、精神的不安感の方が強く出てきます。しかも、それは震災による影響なのか、あるいはもっと別な理由なのか、その区別がますます曖昧になってくることも大きな問題です。
しかし、どのような理由であれ、今の日本は大きな格差社会になりつつあります。持てるものと持てざるものの差が大きく開きつつあります。それは、絶対にいい社会とはいえません。これは、どちらにしても、困った問題です。
イギリスのノッティンガム大学医学部の社会疫学者であるリチャード・ウィルキンソン教授は、これを「格差極悪論」として指摘しています。これを下に抜き書きしますので、ぜひ、考えて欲しいと思います。弱者の問題は、すべての人たちの問題でもあるということです。
(2012.4.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 弱者の居場所がない社会(講談社新書) | 阿部 彩 | 講談社 | 2011年12月20日 | 9784062881357 |
☆ Extract passages ☆
格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされ続けた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
疫学、社会政策学、経済学、社会学、福祉学など、さまざまな分野の研究者によって、ウィルキンソンのこの主張を裏付ける研究が続々と蓄積されつつある。
(阿部 彩 著 『弱者の居場所がない社会』より)
No.691 『鉄眼』
この鉄眼さんの本を知ったのはだいぶ前のことですが、どの本屋さんをのぞいてもなく、絶版になっているようでした。市内の古本屋さんを訪ねても、やはり、見つけることはできませんでした。
しかし、便利な時代になり、インターネットで古書も買えるようになり、忘れかけていたこの本を試しに打ち込んでみると、なんと京都の古本屋にありました。それで、すぐに注文したのがこの本です。
表紙には、「一切経刻版に賭けた生涯 鉄眼」とあり、映画化されたようでもあります。そこで、これまたインターネットで調べてみると、1981年に製作され「櫂の会」から配給されたようで、上映時間は115分だそうです。でも、それ以上のことはわからず、DVDで出ているかどうかもわかりませんでした。
この本では、最後に鉄眼禅師の略年譜も出ていますが、あまりにも略過ぎて、どうも実像が浮かび上がってきません。しかも、この本は小説ですから、いかにも創作かな、と思える箇所が多く、一気に読んだものの、後味はイマイチでした。著者も最後のあとがきに書いていますが、「私のイメージのなかにある鉄眼禅師は、黒の僧衣をまとい素朴な姿で庶民の間を説いてまわるやさしい親しみ深い人間なのです。そのやさしさのなかに、ひたむきなものが秘められています。いや、むしろその秘められたひたむきなものが、やさしさと親しみ深さとなって出てきていると言った方がよいかもしれません。神も仏も信じない私の魂がゆすぶられたのは、鉄眼禅師のそこのところでした。」とありますが、先にそのようなイメージがありそれを浮かび上がらせるように描いたような気がします。
だからこそ、サラッと読めるし、映画化しやすいのかも知れませんが、読み応えのあるものとは言えないようです。
それでも、下に抜き書きしたところは、父の死に目にも会えなかった鉄眼が四十九日法要にあわせて生まれ故郷の守山に帰り、法要の後に挨拶をしたとき、幼なじみの小僧であった元舟や照栄たちの質問に答えた時の一くだりです。まさに、その本心から出た静かな語り口に多くの人たちが共感したのは当然かと思います。人は一人ではなにもできません。でも、その一人一人の結びつきがさらに多くの結びつきになり、さらにさらにその結びつきが深まってくるなら、とてつもない大きな力となります。
そのことは、この本のなかでも、なんども描き出されています。むしろそれを、著者は描きたかったのではないかとさえ、思いました。
(2012.3.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 鉄眼 | 片岡 薫 | ヘラルド・エンタープライズ | 1982年7月30日 | |
☆ Extract passages ☆
私は、まだまだ悟りの域に至るまでには遠く、さまざまな煩悩にどこまで打ち克てるのか、不安でなりません。たえず支えてくれる杖が欲しいと思っております。千々に迷う心を、そのつど叩き直してくれる杖が必要だと考えております。その杖が、私の場合は、この一切経の刻版でございます。私は生涯をかけても、この仕事をやめるわけにはいきません。それだけ、私が未熟だという証拠かもしれません・・・・・・
(片岡 薫 著 『鉄眼』より)
No.690 『面白くてためになる! 日本のしきたり』
表紙に図説とあり、なかを見るとイラストや写真を使って定年に解説されているようなので、読むことにしました。副題は「意外な由来から正しい作法まで」とあり、それほど意外でもないこともだいぶ載っていました。それでも、初めて知ることもあり、最後まで読み通しました。
そういえば、2月3日の節分の日にテレビを見ていたらダイズの替わりにピーナッツをまいているのを見てビックリしましたが、そのことも書かれていました。これは昭和30年ころ北海道から始まったようで、落花生の生産が急激に伸びた時期と重なるそうです。2006年の凸版印刷・消費行動研究室によると、「大豆ではなく落花生をまくという人が、北海道・東北では約74パーセント、北陸・甲信越で約44パーセント、九州・沖縄で約37パーセント」だったといいます。
ということは、このあたりでは約74%ですから、むしろ多いということになります。では、なぜ落花生をまくのかというと、『「大豆より落花生のほうが拾いやすい」「落花生は大豆よりも高カロリーだから」「落花生なら小さな子どもがあやまって口に入れる心配がない」などという、非常に合理的な理由で急速に広まったそうです』と書いてありました。
でも、それだけの理由なら、毘沙門天の言い伝えによる大豆をまくほうが由来からもいいような気がしますが、それも時代とともに変わっていくということなのでしょうか。
ということは、時代とともに変わってきたのは「しきたり」とはならず、時代が変わっても残ってきたものが「しきたり」として今もあるのかもしれません。そう考えれば、その貴重な「しきたり」はぜひ残していきたいと思います。
下に抜き書きしたのは、風呂敷についての解説です。なぜ風呂敷なのか、その答えは下にあります。このようなことに興味があるとすれば、この本を読んでみてはとお勧めいたします。
(2012.3.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 面白くてためになる! 日本のしきたり | 永田美穂 監修 | PHP研究所 | 2012年1月10日 | 9784569800707 |
☆ Extract passages ☆
風呂敷という呼び名の由来は奈良時代までさかのぼります。この時代の風呂は、寺院だけに設けられた蒸し風呂で、現在のように湯に浸かって疲れを癒すものではなく、心身を清める宗教的行為のひとつだったのです。温堂と呼ばれる風呂場に入る前に床に布を敷き、そこに座って白い布に着替え、脱いだ衣服をその布で包みました。その布こそが風呂敷の前身です。
江戸時代になると銭湯ができ、宗教的意味合いは消えて湯船に浸かるようになりました。それでも相変わらず風呂敷の上で着替え、脱いだ衣服を包んだり、濡れた足を拭いたりしたのです。布団や衣類などを包むようになるのは、安くて丈夫な木綿が大量生産され、風呂敷が庶民の間にも普及してからです。
品物がちりやほこりで汚れるのを防ぐ役割も風呂敷はものを包んで持ち運ぶだけでなく、汚れを防ぐ役割もありました。もちろん宅配便などない時代、風呂敷に包んで自分で運んだのです。風呂敷はほこり除けですので、包んだまま渡すのではなく、風呂敷を解き、品物を取り出したらサッとたたんで品物だけを差し出しました。このような所作にも相手への思いやりが感じられますね。
(永田美穂 監修 『面白くてためになる! 日本のしきたり』より)
No.689 『江戸の縁起物』
表紙の写真が、どこかで見たことがあると思って見始めたのが、この本を読むきっかけです。
その写真は、浅草仲見世に店を構える「助六」の縁起物、笊かぶり犬でした。これは普通の犬張り子にザルをかぶせたものですが、『当時、子を持つ親がいちばん嫌ったのは、風邪とできものでした。風邪をひいても「鼻づまりしないように」と水の通らがいい笊、そして「できものの瘡(かさぶた)が小さくなりますように」とつぼめた傘(瘡とかけて)を笊の上に載せて、張り子の犬にかぶせたというわけです。また「犬」という字に「笊」の「竹かんむり」をかぶせると、「笑」という字に似てきます。「子どもには、いつもにこにこ笑顔で元気に育ってほしい」という親たちの願いも込められているのです。』と解説されています。
このような解説と写真がそれぞれ1ページずつ組みになって構成されています。副題が「浅草仲見世 助六物語」で、聞き書きがフリーライターの藤井恵子さんで写真が鈴木俊介カメラマンです。助六は間口1間の小さなお店で、そこに3,000点ほどの小さな菅具が並んでいるそうですから、まさに小間物屋です。そのなかかから、約200点の縁起の良いおもちゃを選んだそうで、とても興味深く見せていただきました。
でも、それ以上にびっくりしたのは、その間口1間のお店に、22人の職人さんを抱えているということです。これはすごいことだと思いました。
この本の中にも出てくるのですが、『みやげということばは「宮笥」といって、神さまのいるお宮にお参りしていただくもの、そして買い求めるものという意味があります。その宮笥を信心深い人たちが家に持ち帰り、神棚に飾って家のお守りにしたら、子どもにあたえてあそばせるんです。子どもに「観音さまへ行こう」といえば「あっ、おもちゃを買ってもらえる」。愛嬌のある小さくて可愛いものを「豆」といいますが、そういう豆おもちゃが子どもを守ってきたというのがいいですねえ。』といいます。やはり、浅草観音が中心に居られて、守っていてくださるのではないかと思います。江戸文化を守ろうと聲高に言うより、守り守られる相互関係の中からそのような機運が生まれてくるのではないかと思います。
下の抜き書きは、新作の「小野道風蛙」の解説です。ホント、いいものでしょう。
(2012.3.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 江戸の縁起物 | 木村吉隆 | 亜紀書房 | 2011年12月30日 | 9784750511283 |
☆ Extract passages ☆
小野道風は平安時代の貴族で、「三蹟」のひとりに数えられるほどの能筆家として知られています。そんな道風でも、自分の才能のなさに嫌気がさして書の道を辞めようかと悩んだ時期があったそうです。今でいうスランブですね。
ある雨の日、散歩に出た道風は、柳に飛びつこうとしている蛙の姿に日を止めました。何度も何度も挑戦しては無様に落ちる姿に「いくら飛んでも柳に届くわけがない。なんと愚かな蛙よ」と内心馬鹿にしていたとき、偶然にも柳が強風でしなら、蛙は見事に飛び移ることができました。「一生懸命努力をすれば、偶然さえ自分のみかたにできるのだ」と悟った道風。以後は、血のにじむような努力をしたそうです。
助六ではこの逸話から想を得まして、小野道風姿の蛙を作ってみました。蛇の目傘と筆を持った愛嬌のある姿が、お陰さまで好評をいただいております。努力を怠らなければ、自然と運が向いてくるというものです。
(木村吉隆 著 『江戸の縁起物』より)
No.688 『ビーグル号世界周航記』
まだ、オーストラリアのダーウィンにいて、さらに帰国の飛行機のなかでこの本を読み終わりました。前回に引き続き、ダーウィンに因んだものです。
副題は「ダーウィンは何を見たか」ですが、訳者も「役者の序」に書いていますが、この本はダーウィンの著書とはいいがたく、ダーウィンの数多い著書から抜粋してハーパー兄弟書店が家庭の両親と少年少女向きに編集したもの、としています。
でも、読んでみると、すぐに理解できるところをみると、このような本の存在も必要だと思いました。さらにペン画のような絵(約100点もある)も見て参考になり、旅の途中で読むにはとても興味深いものがありました。
内容は、副題にあるように、まさに「ダーウィンは何を見たか」を列挙してあるような編集で、第1章動物、第2章人類、第3章地理、第4章自然、という具合に、周航記というより、個別の事柄についての列挙です。だから、どこで読むのをやめてもいいので、旅先で読むには好都合でした。
しかも、オーストラリアのことも出で来るので、やはり関心はあります。
下に抜き書きしたのは、第3章の地理のところで、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズのことを書いています。たしかに、ここの景色は極端に一様性ですが、そこにはそこの良さもあるようです。でも、ダーウィンには、自分の故郷の自然の方が性に合っているので、このような言いぐさをしたのでしょう。
でも、私も、帰国するたびに思うのですが、日本はやはり素晴らしいです。日本の自然は目にも優しく、チカチカとした強烈さが感じられず、すんなり受けいれられる優しさがあります。
(2012.3.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ビーグル号世界周航記(講談社学術文庫) | チャールズ・ダーウィン 著、荒川秀俊 訳 | 講談社 | 2010年2月10日 | 9784062919814 |
☆ Extract passages ☆
葉は周期的に脱落しない。これは全南半球、すなわち南アメリカ、オーストラリアおよび喜望峰に共通する性質であるように見える。このため南半球と熱帯地方の住民は、(われわれの目には普通のこととして見えるのであるが)世界における最も壮麗な光景の一つ―――葉のない木が、いっせいに多くの木の葉をぱっと萌えだし始める光景を見る特権を失っている。しかしながら、彼らはわれわれこそこの特権にたいして数カ月の長いあいだ、ただの裸の葉のない木でおおわれた陸地を眺めているというひどい目にあっているのだというかもしれない。これはまったくそのとおりだが、だからこそわれわれの感覚は、春のこのうえなくみごとな線に強烈な妙味をおぼえるのだが、生長のさかんな気候のすばらしい産物を一年じゅう見飽いている熱帯に住む人々の目には、けっして味わえないのである。
(チャールズ・ダーウィン 著、荒川秀俊 訳 『ビーグル号世界周航記』より)
No.687 『ダーウィンの足跡を訪ねて』
3月9日から19日まで、オーストラリアのダーウィンに行っていました。ここダーウィンは、あの進化論で有名なチャールズ・ダーウィンと関係があり、それでこのような地名になったそうです。でも、ダーウィンはここには一度も来たことがなく、1839年にイギリス海軍の軍艦ビーグル号のジョン・ロート・ストークスによって港に使えそうな入り江が発見され、その時の船長、ジョン・クレメンス・ウィッカムがチャールズ・ダーウィンにちなんで、この入り江をポート・ダーウィンと名づけたそうです。このウィッカムやストークスらはビーグル号の前回の探検航海でダーウィンと同じ船に乗り込んだ仲間でした。おそらく、そのような縁もあって、ダーウィン港としたようです。
ここダーウィンは、南半球ですから夏の終わりころの気候で、しかもオーストラリアにしては珍しい熱帯雨林、さらに雨期の盛りでした。車道もところどころ水没して、船に乗り替えないと前に進めないこともありました。この水だらけのところが、乾期になると地面がひび割れするほどカラカラに乾くと聞いても、まったく実感がわきませんでした。でも、移動は大変ですが、植物は雨期のほうが豊かで、たくさんの花を見ることができました。
その旅の合間の、飛行機や車のなか、さらにはベットの上で読んだのがこの本です。
しかも、集英社新書ヴィジュアル版ですから、随所にカラー写真が載り、とても読みやすいものでした。内容は、著者がダーウィンの足跡を訪ねて歩き、その歴史的なことや印象などを記したものです。でも、ダーウィンが立ち寄らなかったのですから、ここダーウィンのことは何一つ書かれてはありませんが、それでも名前が同じということもあり、親しみを持って読むことができました。
とくに印象に残ったのは、ビーグル号に乗船した5年間がとても貴重な体験だったということです。それが、その後の人生を決定づけたともいえます。著者は、そのことを「人生には決定的な転回点というものがある。もしかしたら、そういう転回点は誰にでもたくさんあるのだが、それを本当に転回点にできる人と、転回には結びつけずにやり過ごす人があるのかもしれない。いずれにせよ、チャールズ・ダーウィンは、そういうチャンスに遭遇し、それを十分に生かして飛躍を遂げた。」と書いています。
この本を読みながら、ここダーウィンにいる不思議を感じたのも、何かえにしがあるのかもしれない。
下に抜き書きしたのは、ダーウィンの記録魔の一面を見る思いですが、著者は、「こんなことを冷徹に考えるチャールズ・ダーウィンとは、いったいどんな男なのだろう?」と指摘しています。
(2012.3.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ダーウィンの足跡を訪ねて(集英社新書ヴィジュアル版) | 長谷川眞理子 | 集英社 | 2006年8月17日 | 9784087203557 |
☆ Extract passages ☆
結婚することの利点は、やすらぎ、子どもができる楽しみ、生涯の伴侶を得ること。しかし、こんな楽しみを享受し、しかも科学の研究を続けるためには、お金が十分になければならない。お金がなかったらどうしよう? 子どもにはとてもお金がかかるに違いない。科学の研究用のお金が、子どもにとられてしまうかもしれない。これは、結婚の欠点。さらに結婚の欠点は、時間の無駄としか言いようのない親戚づきあい。自由に世界を旅行できなくなること。一方、結婚しなかったとしたら、その利点は自由であること。ヨーロッパもアメリカも、見たいものは気ままにいくらでも見られる。無駄な親戚づきあいも、独身ならばしないですむ。しかし、ロンドンのむさくるしいアパートでいつまでも独居するむなしさ。年老いて、何も残らない寂しさ。
と、思いつくままに、結婚するべきか、しないべきか、チャールズはノートに書き散らす。これはエマを結婚の対象として真剣に考え始める以前のことだ。
(長谷川眞理子 著 『ダーウィンの足跡を訪ねて』より)
No.686 『家もいいけど旅も好き』
だいぶ前の話しですが、京都の随心院に行った時に、そのトイレを見てびっくりしました。広さは2畳敷きで、まさに京間の畳が敷かれていました。そのほぼ中央に木で囲われた穴があり、そこから下をのぞくと疎水が流れていて、それがいかにも山水風に石組みまでされています。本物の水洗便所です。さらにそこには、お茶室にあるような床の間がしつらえてあり、掛け物とお花も生けてありました。もう、本当にビックリしてしまいました。そして、自分で家を建てるときには、それと同じにはできないでしょうが、その床の間の部分に、しっかりした本棚を備え、いつでも本が読めたり辞書が引けたりしたい、と思いました。
そして、2010年に自宅を建て直したときに、その提案をしたのですが、建築基準法のからみで水洗便所は普通のトイレになり、本棚は家族の反対で見えない工夫をしての隠し棚1つを作るのが精一杯でした。それでも広さは2畳敷きありますが、これは両親が車いすででも使えるようにとの配慮からです。この小さな棚には文庫本や新書程度しか入らないのですが、原則としてブックオフなどの105円程度の本です。というか、ほとんどがそうで、1ヵ月で2冊読むことができます。それでも1年にすると24冊ですから、トイレでといってもバカにはできないようです。
この本は、そういう読み方をしたのですが、旅の本としては1998年11月に河出書房新社より単行本として刊行されたものを文庫化したもので、新たに書き下ろしエッセイを加えているとしても、資料としてはちょっと古いのは否めません。でも、旅の視点や思いなどは、ところどころついうなづくようなところが多々ありました。また、ここにはぜひ行ってみたいと思うところもありました。
たとえば、以前から行きたいと思っていたのは伊勢の二見浦の夫婦岩です。あのしめ縄でしっかりと結ばれている岩で、日出の写真とともに知らない人がいないほど有名ですが、それを自分も撮ってみたいと思っていました。この本で知ったのですが、『夏至の日が、ちょうどまん中に来るらしい。それも、一年でいちばん昼の長い、商家さんふうに言えば「パワーのある」日が、まんまん中にさすということで、神石が波の上に出ていた頃は、夜明けとともにピカーッと石を照らし、光り輝かせたのかと思うと、なるほど神々しく、超常的な感じがする。』ということで、行くんならぜひ夏至のころをねらいたいと思いました。
また、ベトナムでの話しですが、『日本人の女性がヴェトナム料理のとりこになるのは、食を通じて、さまざまなインスピレーションを受けるからだろう。素材の組み合わせにしろ、道具の使い方にしろ「あ、こういうのも、ありなんだ」と気づかされる。冷蔵庫がない。ガスがない。それゆえに、新鮮な物を新鮮なうちに食べる意味を知っている。炭火の力を知っている。』というあたりも、あのアオザイの独特の衣装とともに生春巻きなどのことを思い出しました。
そして、私もそろそろ旅に出たいと思いました。この雪降りの毎日から、ベトナムのような常夏の国もいいなあ、たしかに家もいいけど、旅もいいなあ、と勝手に思いを巡らしました。
そして、今日の昼、これから私も旅に出ます。もちろん、トイレでも本を読むのですから、その間も本だけは離さないと思います。とんでもないことさえ、起きなければ・・・・・・。
下に抜き書きしたのは、台湾での話しだそうですが、その優しさが花の香りとともに今にも伝わってきそうです。
(2012.3.9)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 家もいいけど旅も好き(講談社文庫) | 岸本葉子 | 講談社 | 2002年5月1日 | 9784314010870 |
☆ Extract passages ☆
運転手が窓を開けて、ふた房買った。助手席に置いて、窓を閉める。百合のつぼみのような、ほっそりした花だ。色からは思いがけないほど濃い香りが、バックシートにまで広がった。
「何の花」
運転手に訊くと、
「香花(シァンホァ)」
サイドブレーキに手をかけながら、振り向いてひと房くれた。
「生活の苦しい人が、売りにくるのさ。ひと房十元。買うというよりお金を恵むのに近いけど、ただ恵むよりは、花を買うことにした方が、おたがいにやりやすいから」
花売りと同じくらいの年の運転手は、言った。
(岸本葉子 著 『家もいいけど旅も好き』より)
No.685 『心に響く99の言葉』
著者は1989(平成元)年に興福寺の貫首に就任し、現在に至っているそうです。私の記憶では、あの有名な阿修羅像を展示した2009年の「国宝 阿修羅展」(東京国立博物館・九州国立博物館)の印象が強く、たしか約190万人もの人たちが並びながらも観たということでした。
その著者の本がこれで、見開き2ページの右側に言葉の説明を載せ、左側には色紙に自らが揮毫したのを載せています。だから、読もうと思えば1日もかかりませんが、揮毫されたものを観賞するとすれば、何日もかかりそうです。
たしかに99の言葉が並んでいますが、章立てとしては、「こころを育む」、「生きる」、「人生よ」、「人と人」、「いのちの根源」、「静寂・沈黙・空間」で、一番多くの言葉が集められているのは「こころを育む」です。
いわゆる名言集でもあり、どこから読んでもいいようなものですが、いちおう1ページから読み始め、あっという間に最後のページになっていました。
印象に残った言葉も少しありますが、たとえば、「酔い来って空山に臥せば 天地すなわち会枕なり 酔っ払って、人気のない山の宿に一たび臥し眠れば、天と地とがそのまま布団と枕だ…。もとより、私たちは天地の間にある。が、そんな自然の中という感覚も意識も、はっきりいって乏しい。唯々人の世にあくせくして、視野狭窄に陥り、つい天と地との間にあることを忘れるのだ。そんな頑なな心をほぐし、天は衾(ふすま)、地は枕とおもえば、気宇も壮大だ。」という言葉は、まさに気宇広大です。この漢詩は李白の「友人会宿」の一句だそうですが、このような気持ちで自然と接したいと思いました。
もし、興味がありましたら、お読みください。
(2012.3.7)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 心に響く99の言葉 | 多川俊映 | ダイヤモンド社 | 2008年6月5日 | 9784478003619 |
☆ Extract passages ☆
法華経に、「衣裏宝珠の喩え」というのがある。――友人宅で酔いつぶれた男がいた。友人は、その男に高価な宝石を渡すつもりでいたが、急用ができて遠くへ行くことになった。
それで、ちょっと思案して、男の衣服の裏に宝石を縫い付けたのだが、くだんの男はそれに気づかず、その後、困窮をきわめた…。この場合、友人とは仏、男は私たちのことだ。
私たちは、何かといえば、いいものは遠く離れたところにあるんじゃないかと思ってしまう。少なくとも、隣のバラは赤く、隣の芝生は青いのだ。
―― そうじゃない。もっと自身を、自己の日常というものを見つめたらどうか。自分の心の中にこそ、自己を大きく成長させるものが備わっているではないか、というのだ。・・・・・・
そうした衣裏(えり)の珠を看よ、とは良寛の語。気づけば、磨くこともできるだろう。
(多川俊映 著 『心に響く99の言葉』より)
No.684 『ぼくはお金を使わずに生きることにした』
えぇー、お金を使わずに生きるってどういうこと、という疑問から読み始めました。たしかに、読んでみると絶対にできないことでもなさそうですし、環境に負荷をかけないことでもあるのですが、みんながみんな、このような生活をしたら困るよね、というのが率直な思いです。
働きアリのように、働かないアリが少しいても、その巣は何の不都合もなく動いていきます。でも、その巣のほとんどが働かないアリだとすれば、さて、どうなるでしょうか、という疑問です。
しかも1年間という限定された期間ですから、パソコンでも自転車でも使えないほどの故障もなかったようですが、それが2年、3年と続けば、人間の作ったものは確実に壊れていきます。それをお金を使わずにどうするのか、という疑問です。
ただ、否定的なことだけではなく、このような実験的生活は、あまりにも便利さを追求してきた現代に対する痛烈な批判にはなります。たとえば、「蛇口から水が出るとなれば、川の汚れを本気で心配する人はいなくなる。はとんどの人にとって、自分が飲む前には汚染が除去されてきれいになるのだから。洪水は自然現象である」となり、それが異常気象の影響ではないかという考えは出にくいでしょう。また、「食べ物が捨てられるのは、はとんどの場合、遠く離れた工場の作業ラインで刻印された日付のため。ただそれだけの理由なのだ。まだ十分食べられるかもしれないのに、会社は法律にのっとって営業しなければならない。小さな八百屋の主人は、商品の状態をにおいや触感、味、外観で判断して、食べるのに適さなくなった野菜だりをコンポスト送りにできる。大規模なスーパーでは、商品がパッケージでぐるぐる巻きにされているので、店員がそうした判断をくだすことができない。ビニール包装の中身がどのように見えようと、さわった感じがどうであろうと、昨日の日付が記されていればゴミ箱行きだ。」というのもなるほどと思います。
だから、お金を使わずに生きることが悪いとは思っておらず、みんながしたらどうすると思っているのです。著者は、絶対にそのようなことにはならないと言っていますが、それではこの現実を認めていることにつながります。
ただ、下に抜き書きしたことはとてもよく理解できますし、著者が『最後に一言』として、「人類は歴史の転換点にいる。高速で走る車や、カードサイズのコンピューターや、さまざまな文明の利器を手ばなすことなく、澄んだ空気、豊かな熱帯雨林、清浄な飲料水、安定した気候を手にすることはできない。われわれの世代はどちらかを選べるが、両方は選べない。人類は選択を迫られている。どちらを選んだとしても、なんらかの痛みを引きうけることになる。便利な小道具か、それとも自然環境か。選択をまちがえれば、次の世代は両方とも失うかもしれない」というのも、このまま進めばその通りになると思います。
(2012.3.4)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| ぼくはお金を使わずに生きることにした | マーク・ボイル著、吉田奈緒子訳 | 紀伊國屋書店 | 2011年11月26日 | 9784314010870 |
☆ Extract passages ☆
ぼくの経験では、何の見返りも期待せずに惜しみなく与えていれば、かならず人からも惜しみなく与えられる。与えては受け、受けては与える、有機的な流れだ。この魔法のダンスに、地球全体の生態系は基づいている。けれども、その流れに乗るには、ひたすら信じる必要がある。必要な物は自然が与えてくれると信じることだ。これをキリスト教徒は「自分のまいた種を刈りとる」と表現し、仏教徒は「因果応報」と呼ぶ。無神論者に言わせれば「常識」だ。
仮に、30人の友人グループの中で、誰かが困ったときは皆が可能なかぎりの手助けをすると取りきめたとしよう。この場合、各メンバーには30人の後ろ盾ができる。しかし、今日普通とされている生活に戻って、はとんど自分のことばかり考えて暮らすならば、後ろ盾はたった1人、自分自身だけになってしまう。
(マーク・ボイル著、吉田奈緒子訳 『ぼくはお金を使わずに生きることにした』より)
No.683 『美しい書物』
本を読むことは大好きだし、本そのものも好きです。だから、きれいな装幀の本を手にすると、ワクワクします。
この本も、最初に手に持ったとき、品のいい装幀だと思い、読み始めてから、ページを開くのが楽にできるし、とても読みやすいと感じました。じつは、作者がいわゆるブック・デザイナーだとは知らず、読んでから知ったというわけです。つまり、だからこの本もいい装幀だと思いながら、その専門家だとは気づきもしませんでした。
私も著者がいうように、「私はお金で買える品物の中で、本というのは最もすばらしいものだと思っていますが、それは何故かと言うと、著者が何年あるいは何十年かかって考えたことを、その何分の一かの短い時間のうちに、読む者に体験させてくれるものだからで、本のおかげで私たちは、いく通りもの人生を味わうことができます。」と思ってます。いわば追体験ができるということです。あるいは、さらに考え方を深めるということさえ出来ると思います。
また手仕事というのは、著者の先生であるチェケルール氏のいうように、「お前はここでふつうの旅行者には見られないものを見た。私はパリへは何十遍行ったかしれないが、まだエッフェル塔を知らない。パリで、私は人間が生きているのを見る。銅版彫刻をやる男がいてね。彼の仕事机は体半分はめ込めるように前縁が凹ませてある。そこへびったり坐って、目には双眼鏡のようなレンズをつけ、両手でこんなふうに機械を持って、一日中細かい細かい字や絵を彫っている。46年。46年間毎日毎日だよ。1日に2リットルの牛乳を飲み・・・・・・これは銅の毒にやられないためだそうだが、他のものは食べたくないと言ってね。人間はそんなふうにして生きているよ。どこの国でも・・・・・・」と話していますが、その通りだと思います。
このような地味ながらも確実な仕事をする人たちがいるから、文化が育つのです。文化なんて、一朝一夕には育ちません。今の時間=お金の時代には、やはり育ちにくいと思います。好きだからこそやる、そのような一途な思いがしっかりしたいい仕事をするのだと思います。
この本を読んで、そのいい仕事を思い、もっともっといい本を身近に置きたいと思いました。
「いい仕事をしてますね」っていうのは、どんな世界にも当てはまるような気がします。
(2012.3.1)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 美しい書物 | 栃折久美子 | みすず書房 | 2011年12月8日 | 9784622080961 |
☆ Extract passages ☆
いろいろな人間がいるのと同じように、本の中身もいろいろあって、小説もあれば学術論文もあり、お料理の本も犬の飼い方などという本もあります。それぞれの中身にふさわしい外観を持つことが自然でもあり必要でもあるわけで、人はそれによって本を見わけ、また楽しみもするのだと思います。
本というものがつくられる目的の一つは、原稿のままでは配るわけにはいかない本の中身を、読者の手に届けるということ。そのために持ち運びに便利で量産可能な、読みそして保存するという実用に適した、お金で買うことができ、それを所有することに満足を感ずる、見て美しい、そういう品物の形に仕立て上げることだと思います。
ただ、本が他の品物机やコップとちがうのは、たいていの場合、その中身が買いたかったら、その外観で我慢しなければならないということです。机のように、たくさんある中から気に入った色や形のものを選ぶわけにはいかないということが言えます。
(栃折久美子 著 『美しい書物』より)
No.682 『人間とはどういう生物か』
副題は「心・脳・意識のふしぎを解く」とありますが、やはり難しく、心の「広がり理論」をもとに考えるとありますが、それとて理解するのはちょっと大変です。
著者は、「おわりに」のところで、出版社の編集者から打診があったときに、「そろそろ挑戦的な内容も書いておきたいという思いが強くなっていたので、この打診は絶好のタイミングだった」と書いていますが、たしかに挑戦的ではありますが、それに乗り切れない自分がいたという印象です。
でも、随所になるほどというところがあり、つい最後まで理解出来ないながらも読みました。たとえば、『失敗を笑えるのは、人間の特権である。コミュニケーションの齟齬によって気まずい雰囲気になりがちなところを、笑いとばして楽しい雰囲気のうちに話題を変えられる。その誤りをわざと積極的におこさせるジョークやお笑いに至っては、人間の貴重な文化ともなっている。コミュニケーションは、表象に伴うさまざまな意味作用と、それを支える人間の行為によって成立しているのだ。』や、『知識を学べば、知識がどんどん積み重なって、じょじょに賢くなると思っている人も多いだろう。これもそうでもない。小さいころ「サンタクロースがいる」と思っていた少年少女が、大きくなって「あれはサンタクロースの仕業ではない」と知ることになれば、どうだろう。新しい知識は古い知識に積み重なるのではなく、古い知識を破壊するのである。ファンタジーに関する膨大な知識が捨てられ、知識がかえって減るかもしれない。』などは、たしかにそうだと思いました。
理解はできないながらも、カードを9枚も作ったところをみると、自分なりの努力はしたようです。
下に抜き書きしたところも、アナログ技術とデジタル技術の違いを端的に表しています。著者は、松下電器産業(株)マルチメディアシステム研究所に勤務されていた実務経験もあるので、その違いが明瞭に理解できたのではないかと思います。
私はちょっと理解しづらいところもありましたが、コンピュータの将来と限界などのアウトラインがわかり、読んでよかったと思いました。
もし、興味があれば、お読みください。
(2012.2.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 人間とはどういう生物か(ちくま新書) | 石川幹人 | 筑摩書房 | 2012年1月10日 | 9784806142515 |
☆ Extract passages ☆
アナログ技術者は、数十年の開発経験に支えられ、複雑で微妙なアナログ回路を職人芸のようにして調整し、所定の機能を実現していた。一方で、デジタル回路は、論理的に合っていれば動き、間違っていれば動かないという代物であった。私のような新入りであっても、論理ができればその設計ができるアナログ回路の機能をデジタル回路で実現しょうとすると、部品代の費用がかさむのだが、回路の設計や機能の調整に経験や人手があまりかからない。発生する問題が少ないので、全体でみれば費用が少なくてすむ。その結果、デジタル技術が急速に普及することとなった(その後、量産のため、部品代までもが安くなった)。
アナログ回路に対するデジタル回路の利点を端的に述べれば、「分離」である。全体を部分に分け、それぞれの入口と出口を小さくし、部分に問題が発生しても全体に波及させないようにして、その部分だけで対処可能なように整備したのである。一方のアナログ回路は、全体が一体化しており、部分のゆらぎや特徴を利用して、それを他の部分でカバしたり利用したりと、全体で機能調整するのである。
(石川幹人 著 『人間とはどういう生物か』より)
No.681 『深夜特急 3 ―インド・ネパール―』
以前から読もう読もうと思いながら、なかなか読めなかったのですが、2月20〜21日と東京ドームで開催されている「世界ラン展日本大賞」を見に上京したついでに、電車のなかやホテルで読みました。
これとて旅といえばそうなので、この機会にと思いカバンに入れて持っていきました。文庫本が出されたのが平成6(1994)年ですが、私が読んだのは平成20年で第47刷ですから、多くの方々に読まれていることは間違いありません。
この深夜特急シリーズも、1が香港・マカオで、2がマレー半島・シンガポール、4がシルクロード、5がトルコ・ギリシャ・地中海、6が南ヨーロッパ・ロンドン、で完結してます。でも、まだ、そのいずれも読んでいませんから、これがおもしろければ全部読むというような勢いで読み始めました。
本のキャッチコピーも、「旅のバイブル全6巻、ここに完結!」とあり、旅するものは読まなければならないと思わせます。
では、読んでみてどうだったかといえば、やはり原作が『深夜特急 第二便』新潮社、の前半部分で、刊行されたのが1986年5月ですから、もう25年以上もたっているわけです。その年の4月にインドからブータンに行っていますから、ある意味ではクロスする部分もあるのですが、いかんせん、古いので旅のバイブルにはなりえません。この本のなかで、著者は、「でも、移動していくと、子供と老人だけじゃないですか、旅人と関わってくれるのは。まっとうな仕事を持った人とは忙しいから関われない。ひとつ、またひとつと国境を越えていっても、その国のことを理解する契機すら持てない。僕には何も学べなかったという思いがあるんです。たとえば、イランに比較的長くいたけど、暇な青少年と老人にかまってもらっただけで、その国のことは何もわからなかった」と後の此経さんとの対談で話しています。
たしかにそうだと思います。ツアーでなくても、たとえ個人旅行だとしても、泊まるところはホテルか格安宿です。そこは、ある種の旅人だけの空間です。そこに現地の人の生活はありません。そして、旅を続けていくうちに、だんだんと、「肉体的な疲労がたまってくると、人を拒絶するようになって、その果てに、人に対しても自分に対しても無関心になって、どうでもいいじゃないか、たとえ死んでもかまわないじゃないか、と思うようになってしまう。自分に無関心というと超越的な何かをイメージするかもしれないけれど、そうじゃなくて、単純な肉体的疲労なんですね。」となります。
それでも、このような本の中には、10年や100年たっても変わらないことも書かれています。それはやはり参考になります。たとえば、下に抜き書きしたようなことで、今でもインド人ならそうだと思います。
やはり、旅からなにかを得ようとするのではなく、旅をするそのことに意味があるような気がします。たとえ、そこから何も得るものがないとしても・・・・・・。
(2012.2.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 深夜特急 3 ―インド・ネパール―(新潮文庫) | 沢木耕太郎 | 新潮社 | 1994年4月25日 | 9784101235073 |
☆ Extract passages ☆
ある時、キャロラインが、なぞなぞでも出すような調子で質問してきた。英語やフランス語やたぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか。私が首を振ると、キャロラインが教えてくれた。
「ありがとう、すみません、どうぞ、の三つよ」
この三つの言葉は、本来は存在するのだが、使われないためほとんど死語になっているという。使われない理由はやはりカーストにあるらしい。異なるカースト間では、たとえば下位のカーストに属する者に対してすみませんなどとは言えない、ということがあるらしいのだ。そう言われてみれば、確かにインドでその種の言葉を耳にしたことはなかった。
(沢木耕太郎 著 『深夜特急 3 ―インド・ネパール―』より)
No.680 『「絵文字」の技術』
ある文房具の雑誌を読んでいたら、世界で一番軽くて便利な文房具はなにですか、との問いに、「えんぴつ」とありました。
それをみて、たしかに軽いし電池は要らないし、しかもとてもコンパクトだと思いました。でも、長く使うには削らないとダメなので、シャープペンシルもいいのではないかと思ったのを覚えています。たしかに、デジタルは便利ですが、手書きが一番です。
でも、手紙だとなかなかおっくうですが、メールだとすぐに出せます。それも絵文字が入ると、なんだか親近感が増すから不思議なものです。
この本では、「絵文字ノート」のメリットとして、5つ上げています。
@書いてあることが一目瞭然! A概要がひと目でわかる! 伝わる! B図式化されているから、問題点がすぐわかる! C絵のイメージだけだから、記憶しやすい! Dパワポに転用すれば、報告書の出来上がり! です。
論理的に考える方法として、ツリー型、マトリックス型、プロセス型、サテライト型、サイクル型、グラフ型、の6種類が基本形で、パワーポイントにもこのようなパターン図形があり、入力するだけで使えるようになっています。箇条書きのものより、このような図形のほうが直感的で分かりやすいようです。
この本の正式な題名は『ノート・手帳・メモが変わる 「絵文字」の技術』とあり、さらに表紙には『「ペン1本と紙」だけで、言いたいことがパッと伝わる!』とあります。
たしかに、「絵文字」は分かりやすいし、書き慣れると使いやすいようです。本の最後の方で、「習慣化」、これがもっとも重要な鍵です、と書いてありました。習うより慣れろというわけです。
読むというより、まさに絵文字を見るような感覚で読めます。読み始めて、あっという間に読み終わりました。
(2012.2.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 「絵文字」の技術 | 永田豊志 | 中経出版 | 2011年11月25日 | 9784806142515 |
☆ Extract passages ☆
私たちの左脳は言語(いわゆる文字情報)をつかさどり、右脳は映像や音など非言語情報をつかさどります。・・・・・・箇条書きノートは、主に左脳で処理されますので、右脳はあまり働きません。けれども、絵文字を描くという作業は、「文字情報」を「絵」に変換するため、左右の脳が連携して処理作業を行なうわけです。
学習、思考時に「絵文字を描く」という習慣をつけることで、脳の異なる機能が同時に使われ、より脳は活性化します。
論理だけでなく見た目の印象、数値だけでなく空間的把握、文字だけでなく映像や画像を組み合わせることで、脳の処理能力は格段に向上し、頭がよくなるのです。
(永田豊志 著 『「絵文字」の技術』より)
No.679 『福を招く お守り菓子』
もともとお菓子が好きだし、お茶席に呼ばれても普通は上生と干菓子があり、お菓子の話題も欠かすことができません、だから、機会があるごとにお菓子関係の本も読むのですが、このような「お守り菓子」だけを集めた本は初めてです。しかも、北海道から沖縄まで、ほぼまんべんなく取材されていて、これだけの本をつくるということはとても大変な作業だったと思います。
お守り菓子というのは、この本では、
一、占う――占いは今も昔も人びとの関心事。菓子がもたらす良き運勢が、与えてくれる希望や夢。
二、祝う――貴重な米や高価だった白砂糖を材料に、生み出される寿ぎのかたち。
三、訪ねる――特定の日に特別な思いでつくられている各地の菓子と、現地で出会う喜び。
四、供える――神仏や先祖の供養に供えられた菓子が表す祈りや願い。
五、懐かしむ――思い出に残り、心の糧になっているような菓子の数々。
六、祓う――疫病を退散させ、厄を除けてくれる菓子の不思議な力。
七、楽しむ――昔ながらの菓子づくりを見たり、体験したりする楽しさ。
八、知る――菓子を調べ、地域ごとの違いや共通点を発見するおもしろさ。
などだそうです。
たしかに、この本にはこれらのことが取り上げれていますし、図版や写真も多く掲載されています。オールカラーでないのがちょっとだけ悔やまれますが、1,500円+税では、そこまでは無理でしょう。
でも、これに類する本は、知る限りにおいてないようです。もしお菓子に興味があったり、民俗学に関心がある人などは、ぜひ読んでいただきたいと思います。
(2012.2.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 福を招く お守り菓子 | 溝口政子+中山圭子 | 講談社 | 2011年11月21日 | 9784062172776 |
☆ Extract passages ☆
どの菓子もそれぞれ生まれるに至った意味や背景があり、日本文化の諸相と結びついています。調べるほどに奥が深いものですが、残念なことに今やその存在すら忘れられつつあるようです。本書をきっかけに同じ思いの方々と、各地のお守り菓子を見直し、受け継いだり、復活させたりしていくことができたらと願っています。
(溝口政子+中山圭子 著 『福を招く お守り菓子』より)
No.678 『デザインの教科書』
この本は、もともと『デザインがわかる』という雑誌の2007年10月から08年8月にかけて連載した「デザインの"へそ"」をもとに、大きく手を入れ、加筆したものだそうです。道理で専門的なところが多く、分かりにくい箇所もあったと思います。でも、ところどころになるほどというところもあり、最後まで読み通しました。
そういえば、昨年、アップル社の創業者、スティーブ・ジョブズ氏が56歳で死去しましたが、開発した商品はいずれもデザイン的に優れていて、しかも機能も先進的でした。今でも思い出すのは、あのスケルトンのiMac(アイマック)です。ソフトのことを考えると、とても買えなかったので、マウスだけはスケルトンにした思い出があります。
今の時代は、大量消費の時代です。使いやすいデザインというだけではダメで、物欲をかき立てるようなデザインでなければならないようです。もともとは限られた資材のなかで、より使いやすく、より便利なデザインがもとめられていたと思うのですが、今はやはり大量に売れなければ良いデザインとは認めてもらえないようです。
でも、このような時代だからこそ、シンプルで本当に良いものが必要だと思います。シンプルというのは、使い終わったときに、ゴミとして捨てることが少ないかリサイクルしやすいということも考えなければなりません。そういう意味では、まさにいいデザインが求められているような気がします。この本のなかでも、エコなデザインを取り上げていますが、まさにそれです。
つまり、「日々の暮らしを心地良くするためのデザイン」です。いわゆる美術品のような「ひたすら鑑賞を目的とする」ものではなく、生活をより快適にするものです。
そのようないいデザインのものに囲まれて生活したい、本当にデザインは大事なことだと、この本を読んで思いました。
下に抜き書きしたのは、如何にデザインが人に強い影響を及ぼすのかという1つの例です。これと同じような例として、戦後のGHQの政策も取り上げられていました。興味のある方は、ぜひお読みください。
(2012.2.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| デザインの教科書(講談社現代新書) | 柏木 博 | 講談社 | 2011年9月20日 | 9784062881241 |
☆ Extract passages ☆
文化人類学者のクロード=レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』には、興味深い記述がある。南米のボロロ・インディアンをキリスト教に改宗させようとしたサレジオ会の宣教師たちは、住まいの配置、つまりデザインを変更することで改宗できることに気づいたというのである。
ボロロ族の住まいは、それぞれの家族が車輪のように円形に配置されていた。こうした配置(レイアウト)の住まいに生活し続けるかぎり、ボロロ族の社会生活や儀礼の慣行は変化しないと、サレジオ会の宣教師は見抜いたのである。そこで、この住まいを破壊し、グリッド状に構成し直したのである。このことによって「急速に仕来りの感覚を失っていった」というのだ。そして、たちまちキリスト教に改宗することになったのである。つまり、住まいのデザインの変更をすることによって、南米のボロロ族の意識をヨーロッパのキリスト教的なものに変えてしまうことが可能になったのだ。
(柏木 博 著 『デザインの教科書』より)
No.677 『「始末」ということ』
この本の79ページのところに、「よく考えてみると、仏像、仏さまの顔というのは、死を見据えた表情です。仏の顔の表現には、開眼、半眼、開眼と三種類がありますが、開眼が生ならば、開眼は死、半眼は生と死の中間的な表情であると言えます。・・・・・・仏というのは生の世界と死の世界の両方を見据えている。柔和な表情をしているように思われているかもしれませんが、そういうものはごく一部。あらためて阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来などを見てみてください。深い眼差し、遠くを見る眼差しではあるのです。」と書いてあり、たしかにそうだと思いました。著者は、自分の体験、すなわち「父を病院で看取ったとき、比較的穏やかな死に方でしたが、だんだん心臓が衰弱していくにつれ、目が半眼のような感じになっていき、そして開眼にいたりました。」ということから、そのように確信されたとのことです。
よくいわれることですが、人は生まれたときから1歩ずつ死に向かって歩いているようなものですが、若い時にはつゆほどもそのような実感がありません。なかには、死にいたるかも知れないような大病をすれば、そのように感じる方もいらっしゃるでしょうが、ほとんどは老人といわれる年頃になって、ハタと気づくのです。著者も定年といわれるような年になって、自分の始末について考えはじめたと「あとがき」に書いています。
下にも抜き書きしましたが、やはり、イメージトレーニングは必要です。だんだんと、少しずつ、それなりの状況に近づけば、あまりあせることもありません。たしかに心細かったり不安だったりするでしょうが、昨年の東日本大震災のような突発的な大災害の後では、若い方々でさえもむしろ考えやすいような気がします。つまり、人は必ずいつかは死にいたるということを。
あまり考えたくはない、でも考えておかないで急にやってこられても困る、それが今の心境です。
だから、先ずは考えておくだけ考えておこうかな、というのが今の考えです。
(2012.2.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 「始末」ということ(角川oneテーマ21) | 山折哲雄 | 角川学芸出版 | 2011年10月10日 | 9784047103016 |
☆ Extract passages ☆
生きることは、すなわち死を覚悟することである。死を覚悟することが、すなわち生きることである。死の心構えと生き方は背中合わせになっているではないでしょうか。・・・・・・
死とは、結局は自分の始末です。もちろん後始末は人の手をいろいろ煩わせてお願いするしかないわけですけれども、自分自身の問題としてどれだけ考えておくか、考えるほどに準備ができる。心構えができてくると思わないわけにはいきません。
死に就く人々の心理的な意識の変化というものをさまざまな文献であたっていますと、死後の世界に対してなんらかのイメージをもつことができている人のほうが、なんのイメージももたない人よりも、死に対する憧れが少ないことがわかってきます。
言ってみれば、イメージトレーニングのようなものかもしれません。スポーツ選手も試合前にはイメージトレーニングをするといいます。
私も死の想念について、折々いろいろなかたちでイメージトレーニングをやる癖がつくようになりました。
(山折哲雄 著 『「始末」ということ』より)
No.676 『文具の流儀』
この本をパーッと開いたとき、たまたま「キャンパスノート」、しかも自分の使っているA普通横罫の写真が載っていました。もともと文房具が好きですし、まさに定番中の定番の文房具を38アイテムを、さらに1社ずつ訪ね歩いてこの本をまとめられたとのこと、それだけですぐにでも読みたくなりました。副題は「ロングセラーとなりえた哲学」です。
「はじめに」のところで、著者は「取材をしてわかったのは、そうした文具には必ず誕生の理由があるということでした。決して自然発生的にポンと生まれた訳ではなく、時代背景や創業者の強い想いがあってこそ生まれているのです。そこには文房具の哲学ともいえるものが脈々と流れているように感じられてなりません。」と書いてあります。たしかに、そうだと思います。だからこそ、長い間多くの方々に愛され続けたわけです。
長く使い続けられる文房具って、ほんとうに考えられている、と思います。それと、最初はなかなかなじんでくれないものもありますが、一端なじむと、なかなか手放せなくなるというものもあります。たとえば、今もよく万年筆を使うのですが、これなども使いこなさないといい味が出ないものの1つです。おそらく、何十本と持っていると思いますが、やはり使うのは数本です。これは、その日の気分に応じて使い分けるのですが、それでも気付くと雨の日にはやはりこれだな、と思う一本を手にしています。もちろん、インクには一番こだわっているので、絶対にカートリッジインクは使いません。自分のお気に入りのインクを使うには、やはりボトルインクです。それをコンバーターで吸い上げて使います。
だから、おそらく、ほとんど、文房具フェチかもしれません。
それら文房具を取り上げたのがこの本です。ずーっと使われてきたものには、その歴史があり、それを守り続けてきた人たちのドラマがあります。それらを読むだけでも、感動ものです。だから、今、こうして自分たちの手にあるんだと思うと、小さな文房具に愛しささえ覚えます。たとえば、あのオルファカッターの黄色の部分は、なぜ黄色なんだろうと考えると、それにも深い意味があるんだそうです。「オルファではお店でしっかりと自社のカッターが目立たなければならないと考え、一番目立つ黄色を選んだ。一方、刃物という商品上、注意をして使ってもらわなければならない。その点でも黄色は、まさしく最適な色だった。ただ、あまり注意を喚起させすぎると使うのが怖いと思ってしまってもいけないので、その黄色は卵の黄身をイメージした、少し赤みがかった温かみのあるものになっている。」と、この本には書かれていました。
たかが色でも、このように深い意味があって、いわば必然的にあの黄色が使われているわけです。そこで、どのようにしてあの折るという発想のカッターが生まれたのか、生みの親の岡田良男氏の話を下に抜き書きしました。アイディアがひらめく、とはこのような経験と必要に迫られてという思いなどが複雑に絡み合って生まれるのではないかと思いました。
でも、いい文房具があったとしても、それを使うことがなければ、自然消滅してしまいます。とくに伝統的な技術に裏打ちされたものなどは、売れなければその技術さえも廃れてしまいます。いいものを残すためには、みんなで継続的にそれらを使うということが絶対に必要です。少々高くても、ぜひみんなで使いましょう。
(2012.2.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 文具の流儀 | 土橋 正 | 東京書籍 | 2011年8月24日 | 9784487805228 |
☆ Extract passages ☆
実は、良男氏がこのアイデアをひらめいたのには、子供時代に経験した2つの出来事が関係していた。
1つ目は、戦後間もなくの頃、アメリカ進駐軍が持っていた板チョコである。その板チョコのパキッと折るという仕組み。
そしてもう1つが、靴職人が使っていたガラス。彼らはゴム底を貼った時、はみ出した部分をガラスの破片で切り取っていた。その切れ味が悪くなると、ガラスを割って鋭い断面を作り、再び使っていた。
この2つを刃に置き換え、刃をポキポキと折って常に新しい刃先を作り出せば、刃を無駄にすることがなく、いつでも鋭い切れ味にすることができると考えた。
そして1956年に世界初となる「折る刃式 カッターナイフ」が発明された。
(土橋 正 著 『文具の流儀』より)
No.675 『魔境アジアお宝探索記』
前回の東京出張の折読んだ『秘境アジア骨董仕入れ旅』がおもしろかったので、その前作の『魔境アジアお宝探索記』を持って出張しました。もともと、この本は『骨董ハンター南方見聞録』という単行本を文庫化したもので、お宝という字を入れるあたり一般受けをねらっているかのようです。
でも、内容はとても奇想天外なところもあり、やはり、昔は良かったなあ、と思います。今では、このような旅をしたくてもできません。著者が「始めに」のところで「人それぞれだが冒険心は皆持っている。今そのピュアーな世界に戻ってちょっと冒険すれば新しい世界がひらける」と書いていますが、それだって今は難しいでしょう。だからこそ、今ではできないからこそ、このような本を読んで、疑似体験をするしかないわけです。そういう意味では、いい時代のお宝探索の紀行文です。だからこそ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』をもじって題名としたのでしょう。
骨董品のおもしろさは、ここに書かれてあるような入手法にもありますが、それを誰が持っていたかなどの故事来歴も味付けとして加わります。とくにお茶の世界はそうです。箱書きがあり、さらにそれを所有した茶人の来歴などがわかれば、それだけでその骨董品そのものの価値より高くなるかもしれません。この本にも出てきますが、ルソンの壺などは最近まで海底から探し出されていますが、やはり、故事来歴を伴った古い呂宋茶壺にはかないません。おそらく何百分の一でしょう。
そもそもお茶道具にも栄枯盛衰があり、茶壺が珍重されたときにはお城一つに相当する価値がありました。明治以降の各大名家の売り立てでも、それなりの価値があると考えられていました。しかし現在では、ある有力大名が持っていた呂宋茶壺でさえ、高くはありません。その子孫の方に箱書きをもらうために私も同行したことがありますが、目の飛び出るような値段ではありませんでした。茶壺そのものは、売り立ての時の写真もあり、来歴の流れもはっきりしているのに、今ひとつ値段が上がりませんでした。
どんな世界にも、流行りすたりはあります。誰も見向きもしなくなったから安く買うことができるということもあります。これもコレクションのおもしろさの一つだと思います。
だって、骨董品の価値は、人それぞれの価値観によって違ってくるわけですから。
そういえば、「骨董品は製作されたその国の市場が一番高価であるという原則があり、次いで隣国か、文化的に近い国の作品が高価に取引される。よく理解されている骨董がコレクターに馴染めるという事だろう」という文章がありましたが、たしかにそうだと思いました。たとえば、古い米沢の成島焼きだって、福島の骨董屋さんで見つけて、その値段にびっくりしたことがあります。もちろん安くてです。つまり、地元の米沢が一番高い値がつけれているということです。
下に抜き書きしたのは、昨年、スリランカでこの「旅人の木」を見たのですが、名の由来や知識では知っているのですが、それを飲んだときのことまではわからなかったので興味を持ちました。
(2012.2.9)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 魔境アジアお宝探索記(講談社+α文庫) | 島津法樹 | 講談社 | 2007年2月20日 | 9784062810937 |
☆ Extract passages ☆
暫くして先端に団扇のような葉の付いた植物の茎を数本持ってきた。それは直径五センチはどで薄緑の瑞々しいものだった。彼は両端を山刀でスパッと切った。「太いほうから吸ってみろ」と言う。切り口からははや透明な水がポトポト落ちていた。口をつけて強く吸うと青臭い水が口の中を満たした。二、三口飲むとその茎からはもう樹液が出なくなった。不思議な事に強烈な喉の渇きが急速に癒され、疲れも次第に消えていった。まるで身体中に水分が行き渡ったかのようだ。多分この樹液は多量のビタミンを含むのだろう。不思議な植物の名を聞いたところ彼は「旅人の木」だと言った。乾季になると茎に水を貯え、旅人を癒す事からこの名前が付いたそうだ。
(島津法樹 著 『魔境アジアお宝探索記』より)
No.674 『武器としての決断思考』
著者は現在、京都大学で20歳前後の学生たちに「意志決定の授業」をしているそうですが、それをこの1冊に凝縮したと書いています。では、武器というのはどのような意味だろうかと思いながら読んでいると、それがところどころには書かれているのですが、一番最後の大文字のところに、『★世の中に「正解」なんてものはない。★正解がわからないから動かないのではなく、「いまの最善解」を導き出して、とにかく行動することが重要だ。★根拠を比較して得た結論を、とりあえずの「答え」にしよう。★前提が間違っていたら修正して、また行動すればいい。それが、さらなる最善解に近づくための「決断思考」だ。★ディベートの手順なんて忘れてもいい。この本を読んで、一つだけ忘れずに心に留めておいてほしいのは、「自分の人生は、自分で考えて、自分で決めていく」ということ。★思考停止だけは避けるべきだ。★決断思考を手に入れたら、明日からの人生を力強く歩んでいってはしい。武器を持った君たちが、未来を作るのだから。』とまとめています。
結論を最初に書くのは、ちょっと如何かと思いますが、やはり、何を書いてあるのかということが分かれば、理解するに役立つこともあると思うからです。
どちらかというと、この本はディベートの仕方のハウツー本のようでもありますが、それを武器という表現であらわすのは、たしかに今風でもあります。また、「読書は格闘技です。さらっと読んで終わりにするのではなく、著者の言っていることを1ページ1ページ、咀嚼しながら読んでいってください」とありましたが、これなども単なる精読で、むしろゆったりとじっくりと読むからこそ、著者の言わんとすることがわかってくるのです。それを格闘技だからと勢い込んで読んでも、それのほうが空回りしそうだと思うのは、私自身が古い体質だからでしょうか。
一通り読んでみると、言いたいことは分かるのですが、ところどころにまとめの大文字があり、さらには自分の言いたいことを別書体で強調したり、なんとなく学生向きの雰囲気です。
本のなかからくみ取るのは読者の自由ですし、人それぞれに違う読み方や意味の取り方があってもいいわけです。著者はこのように読んで欲しいと思っても、それは読者の自由です。それなのに、大文字や強調文字があちこちにあると、かえって読みにくいと思いました。
この星海社という出版社も、初めてこの本で知りました。
でも、たしかに今の世の中は、ディベートは必要だと思います。ですから、下に引用した文章読むまでもなく、若い人たちには、身につけて欲しい技術の1つだと思います。
(2012.2.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 武器としての決断思考(星海社新書) | 瀧本哲史 | 星海社 | 2011年9月21日 | 9784061385016 |
☆ Extract passages ☆
まさに、時は「カオスの時代」に突入したと言えるでしょう。
こんな時代に生きる私たちは、過去のやり方が通用せず、未来予想もうまくできないなかで、自分の人生や家族の将来を見据えながら、ひとつひとつ現時点で最善と思える「意志決定」を行っていかなければなりません。
進学、就職、転職、結婚、出産、子育て、介護、老後、年金、貯蓄……。
つまり、人生において、個人として大きな決断を迫られる場面に遭遇する機会が、昔に比べて明らかに増えているのです。
それなのに、学校も親も、意思決定の方法について教えてはくれません。
それもそのはずで、彼らは長い時代を生きてきたので、大きな決断を迫られるような場面にはあまり遭遇してこなかったのです。
だから、筋道を立ててその方法を教えることなどできません。
(瀧本哲史 著 『武器としての決断思考』より)
No.673 『仏教、本当の教え』
やはり、「本当の・・・・・」といわれると、弱いものです。本当かな、と疑いながらも、つい手にとってしまいます。こういうときには、副題も参考になり、「インド、中国、日本の理解と誤解」とありました。この「誤解」という言葉も、もしかすると、自分も何か誤解しているかもしれないと考えて、つい読まされてしまいます。
つまり、この「本当の」と「誤解」の2つの文字で読み始めたようなものです。
でも、読んでみて、とてもおもしろかったです。それと、仏教といえども、その伝わった国により変質せざるをえないわけで、それがその国のアイデンティティなのでしょう。ということは、その違いをみれば、その国の歴史や人々のものの考え方などが理解できることになります。
たとえば、亡くなると北枕にしますが、インドではいつでも北枕が多いようです。ホテルに泊まったときも、その多くは北枕だったように記憶しています。この本には「インドでは北に理想の国が、南に死に関する国があると考えられていて、インド人にとって頭を北の方角に向けて寝る北枕ほ生活習慣だったのだ」とあり、そもそも亡くなってからの北枕の風習は、中国でもないそうです。
そういえば、随所に中村元氏のことが出てきますが、著者はその教え子だそうです。中村氏は「日本には分からないことがありがたいことだという変な思想があります」、「分かりやすく説くのはのは通俗的で、わけの分からぬような仕方で説くのが学術的であるかのように思われていますが、これはまちがいです。わかりやすく説くのが学術的なのです」とよく話されたそうですが、それは当然なことだと思います。説く以上は、それを理解してもらわなければ何のために説いているのかわかりません。お経だってそうです。何が書いてあるかがわかるから、そうしようと思うわけです。わからなければ、それだけで終わってしまいます。お経は、お釈迦さまが説かれたことをまとめたものですから、理解できなければ読む意義がありません。
この本には、お経をしっかり理解する大切さが書かれています。もし、興味があれば、ぜひお読みください。
(2012.2.3)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 仏教、本当の教え(中公新書) | 植木雅俊 | 中央公論新社 | 2011年10月25日 | 9784121021359 |
☆ Extract passages ☆
釈尊在世当時のインドの人たちは、釈尊の教えを伝え聞いてほとんどみんなが理解したはずだ。釈尊は、弟子たちから「世尊の教えは、サンスクリット語に翻訳して伝えたほうがいいのではないでしょうか」と尋ねられたことがあった。サンスクリット語というのはバラモソ階級、特権階級の言葉であった。釈尊は、その質問に対して、「その必要はありません。それぞれの地域で語られている言葉で語りなさい」と答えている。それぞれの地域の言葉で、釈尊の教えが語られたのだから、聞いた人は、だれでも理解できたはずである。
その釈尊の教えが、次に中国で漢訳された。中国にも、文字の読めない人たちがいたけれども、中国語だから、サンスクリットの音写語は別として、だれかに読んで聞かせてもらえば大筋は理解できたはずである。だから、中国でも経典の内容はある程度理解されていたことであろう。
アジアの各地を見ても、チベット語訳されたり、蒙古語、満洲語というように自国の言葉に翻訳されて読まれた。それらの地域の人たちも仏典の内容を理解できたであろう。
ところが、日本だけ事情が異なっていた。漢訳のままで受け容れて、大和言葉に翻訳されることはなかったのである。しかも漢文の経典は音読みで読まれたから、多くの人はそれを聞いても意味が分からない。そんな状況が続いてきたわけである。
(植木雅俊 著 『仏教、本当の教え』より)
No.672 『民間療法のウソとホント』
この本は偶然手に取ったものですが、最後のほうで前回読んだ帯津良一氏に取材したときのことが書いてありました。ということは、何か読むという縁があったのかもしれません。
本を読んでいると、その関連の本を読みたくなったり、その本に書かれてあることをさらに調べてみたくなったりと、本を読む動機はいろいろとあります。今回のように、まったく偶然に手に取って読み始めて、後からなにがしかの縁を感じるのもあります。
著者は、いわゆる医療ジャーナリストといわれる方で、健康雑誌『壮快』の創刊に関わったり、1995年の『大丈夫』の創刊編集長になったりしたとの経歴が書いてありました。いわば、この本の題名について書くには、まさに渦中にいた人ですから、書きやすい反面、人間関係から書きにくい面もあるだろうな、と思いました。でも、読んでみると、まさに歯に衣着せぬ書き方で、ほんとうにそうなんだろうな、と思いました。
私自身は、ほとんど健康に関する雑誌は読まないのですが、だからといって健康に関心がないわけではありません。でも、これからは徐々に関心を持たざるを得ないだろうな、と思います。そのような気持ちもあるから、手に取ったのかもしれません。
最後の第8章「民間療法の見分け方」のところに書いてあったのですが、「最終的には自分で考え、自分で決めることが何より大切です。自分のからだですから、摂取するのもやめるのも自分で決める。民間療法や健康食品は、医師が選択して処方するものではありません。残念なことにすべて自己責任となります。」ということです。
でも、今の時代は、インターネットでいくらでも情報を集めることができます。もちろん、その情報すらも、真偽のほどはわかりませんから、やはり自己責任で最後は判断するしかなさそうです。
つまり、病気になったら普通のお医者さんにかかって、あとは自己判断でかかりつけのお医者さんと相談しながら使うしかないと思います。でも、使うなら、プラセボ効果のようなこともありますから、使えば良くなると思うことも大切だとこの本には書いてありました。
(2012.1.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 民間療法のウソとホント(文春新書) | 蒲谷 茂 | 文藝春秋 | 2011年9月20日 | 9784166608225 |
☆ Extract passages ☆
漢方でいちばん重要なことは、患者のからだに聞くことです。症状はもちろん、患者の顔色、動き、そして雰囲気など、まさにからだの声を聞きだします。
ですから、検査や画像診断で異常はないといわれたが、なんとなくからだの調子が悪いというときに力を発揮するように思われます。
腸の調子が悪いときに起こる便秘、食欲がないという食欲不振、からだが冷える冷え症、手術後に元気が出ないというとき、そしてアレルギー疾患。こうした病気が漢方薬の得意とするところです。・・・・・・
漢方に注目が集まった理由は、患者をじっくり診る、西洋医学との診察の違いにあるのではないでしょうか。
(蒲谷 茂 著 『民間療法のウソとホント』より)
No.671 『秘境アジア骨董仕入れ旅』
いつも旅行をするときには、「旅」関連の本を探して、しかもなるべく軽い文庫本や新書を持ち歩いて、暇を見つけては読みます。ゆっくり読めるのは、やはり電車などの移動時間です。今回は東京出張ですから、往復の新幹線とホテルで読むことができました。この『秘境アジア骨董仕入れ旅』は、少し前に買っておいた「旅」関連の1冊です。
私も、ある植物研究者たちと中国雲南省の奥地に行ったときに、たまたまそのなかの1人が骨董好きで、何軒か骨董屋らしき古物店に入ったことがあります。そのなかで、この本にも出てくる山珊瑚や絞りの藍染めの布などをひやかし半分に買ったことがありました。だから、この本に出てくるようなことには、とても興味があり、一気に読み終えました。そして、自分もこんな旅がしてみたいものだと思いました。
ただ、これはだいぶ昔の話が多く、今ではこのような骨董品を持って出国することは難しくなってきています。それでも、「昼食を一緒に摂ったことで、どうやら掘り屋達は僕を客人として迎え入れてくれたようだ。ものを一緒に食べるということはお互いリラックスするし、コミュニケーションが生まれる」というのは、今でも同じです。
ですから、今では古き良き時代の話と現代にも通じる話とがうまくミックスされ、旅のおもしろさと冒険心を満たしてくれます。旅は、少しはトラブルもないと記憶に残りませんし、トラベルらしくもありません。
たとえば、「通路の両側からガラクタの端や取っ手が出っ張っている。これに引っかかったり躓いたらすると、必ず物が落ちるように展示してある。こんな仕掛けは昔フィリピンやインドネシア、タイにも
あった。僕も一、二度マニラで引っかかったことがある、古典的なやり口だ。今時東南アジアでは旅行客も強くなっているのでこんな仕掛けは通用しなくなっている。落ちてきた物で怪我でもすると、逆に客から損害賠償請求を起こされる。しかし、ここではまだ通用しているらしい。引っかかって物を壊すと大人しい旅行者などは飛び上がるほど吹っかけられているのだろう。楽しい旅行が台なしになる。」とありますが、これなどは今と昔が並列で書かれてあるので、とてもわかりやすいトラブルです。
たしかに今では語りぐさにしか過ぎないものもありますが、とても印象に残る旅の本でした。しかも、今では、したくてもできない骨董仕入れ旅ですから、読むだけで満足せざるをえない旅の本でもありました。
(2012.1.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 秘境アジア骨董仕入れ旅(講談社+α文庫) | 島津法樹 | 講談社 | 2008年8月20日 | 9784062812245 |
☆ Extract passages ☆
イスラム圏はすべてのことが突然始まって一挙にボルテージがあがる。イントロがあってなだらかな上昇曲線は措かない。終わる時も突然ぶつんと切れてしまう。耳の奥にまだコーランの響きが残っているのに、スークの人々はストップモーションが解けたように湧き、動き出した。
ほんのしばらくすると太陽が昇ってきて、急に暑くなってきた。ここは砂漠の真ん中で昼と夜の温度差が大きい。澄んだ大気は光をストレートに通し皮膚をビリビリと焼く。太陽が痛いのだ。空気も乾燥しだしたのか、鼻や喉が痛くなってきた。
(島津法樹 著 『秘境アジア骨董仕入れ旅』より)
No.670 『心と体を強くする「養生」365日』
ちょうど11ページに「治療に取り組むときは山登りと同じで、頂上を見てはダメなのです。前の地面を見て、一歩一歩歩くのがいい。そしてしばらく行って振り返ると、こんなにきたのか、と思う。少し前にいたところが、とても小さく見える。そういう取り組み方の人のほうが、結果的にはいい。」と書いてあったのを立ち読みして、これはおもしろそうだと思いました。
もちろん、ところどころに書いてありましたが、十人十色で、人それぞれです。ある人にいいからといって、みんなにいいわけはありません。「決まった解答はありません」というのが、本音だと思います。
著者は帯津三敬病院名誉院長で、西洋医学だけでなく、中国医学、気功、心理療法などをプラスしたホリスティック医学を実践されていることで有名なお医者さんです。いい意味で、非常にアバウトで、融通性のいい、前向きな姿勢がとても好印象です。
しかも、ところどころに酒好きであることを公言していて、それを隠さないところがまたいいところです。「お酒は間違いなく養生なのです。楽しんで飲めば、これほどいいものはない」と、推奨しているかのようなところもあり、もちろん適度な飲酒でしょうが、やはり人生には息抜きも楽しみも必要だということでしょう。
「私は、イヤなことや嫌いなことはなるべくやらない主義です」と書いていますが、それですめば、やはりストレスは最小限ですみます。仕事には楽しみとストレスがあり、それを天秤に掛け、もしストレスが多ければ、そのやり方を変えるなどの対策が必要とも書いていますが、まったくその通りですが、なかなかそのように天秤に掛けることすらできないのが現実です。
養生とは何かということを下に抜き書きしましたが、やはり、「正しく」という心的なものの考え方が一番大切なんだろうな、と思いました。
(2012.1.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 心と体を強くする「養生」365日 | 帯津良一 | 三笠書房 | 2011年11月5日 | 9784837923985 |
☆ Extract passages ☆
養生とは、生命を正しく養うことです。命を養いながら生きていくこと。
それが死をもって終わるのでは、非常につまらない感じがします。
今生で養生をひたすらに続けるためには、死後の世界を信じる。信じるといっても、グラツとくることもあります。そんなときには、そんなことはないな、とまた信じる。
難しいけれども、そうして日々積み重ねていく感じではないでしょうか。
(帯津良一 著 『心と体を強くする「養生」365日』より)
No.669 『仏教漢語50話』
知らず知らずのうちに使っている言葉に、仏教漢語が入っているのですが、どれぐらいと聞かれるとわかりません。それで、読んでみようと思ったのがこの本です。
この本は『寺門興隆』という、いわばお寺向けの月刊誌に「漢字仏教徒然行脚」という題で2006年9月号から2010年12月号まで連載したものだそうです。そもそも、この「寺」も「行脚」も仏教漢語です。
たとえば、この「寺」という漢語は、この本では『「寺」という字の原義は、「(ものを手に)もつ」ことだった。それが漢代には、「役所」の意味に転じて用いられるようになり、「九寺」と呼ばれる中央官庁があった。・・・・・・後漢明帝の世に仏教が伝来したとき、それまで存在しない宗教施設をなぜ「寺」と称したのか。それは、はじめて中国に招かれてやってきた摂摩騰・竺法蘭等の西域僧が、外国の賓客を接待する鴻臚寺に滞在したところから始まる。僧侶の宿泊する場所として設けられた建築物に、「寺」 の一字をつけて「白馬寺」としたのは、それにちなんだものに他ならない。』とありますし、「行脚」という漢語は、『「行脚」も「巡礼」も、信仰にもとづく宗教行為だが、「巡礼」に聖地という明らかな到達点があるのに対して、「行脚」にはそれがない。文字通り足の向くままの旅である。』と説明されています。
こうして読んでみると、日本語というのは、本当にうまく漢語を導入しています。漢語でうまく表現できないときには、カタカナを使って、外来語だとわかるようにしています。
下に引用しましたが、現在も中国語は外国からもたらされたもののほとんどに当て字を使っています。もう、漢字を見ただけでそのものがわかることはありません。日本人の誰が「巧克利」と書いてチョコレートだと思うでしょうか。日本人なら、チョコレートと書いてあれば海外からもたらされたものだとすぐに直感します。もう、それだけで半分は理解できています。
もし、仏教に興味があったり、言葉そのものに関心があれば、ぜひお読みいただきたいと思います。「なるほど」というのがたくさん掲載されています。
(2012.1.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 仏教漢語50話(岩波新書) | 興膳 宏 | 岩波書店 | 2011年8月19日 | 9784004313267 |
☆ Extract passages ☆
これは漢字を用いる中国語の宿命ともいうぺき現象であり、現代の中国語でも基本的には同じである。たとえば食品の「三明治」(サンドイッチ)、「巧克利」(チョコレート)、「布丁」(プリン)などについて、一般の中国人はこれらの音訳語がもとは外来語で、原語では sandwich であり、chocolate であり、pudding であることを全く意識していない。日本語の中で、これらの食品名がカタカナ表記されることによって、おのずから外来語という素性が示されるのとは違っている。漢字による外国語の音訳は、こうした機能上の制約があるが、漢字の表音機能を精いっぱい活用する試みが一挙に拡大したのは、仏典の漢訳という大事業があってこそ、ほじめて可能になったのである。もっとも、音訳語の中には「禅」「僧」「塔」など、一見するとそれらしくない意外なものも含まれている。
(興膳 宏 著 『仏教漢語50話』より)
No.668 『タネが危ない』
この本を読んでの第一印象は、タネにはこれほどの問題があったのか、ということです。でも、考えてみれば当然の話しで、野菜でもなんでも、そのもともとのタネが一番大事です。いくら管理が良くても、田畑が肥えていたとしても、タネが悪ければ、まさに徒労に終わってしまいます。
私もよくあるのですが、あるシャクナゲの種子を播いて、10年ほどして花が咲くと、まったく違うシャクナゲだったりします。この10年という月日を返して欲しいと思います。だから、そのようなことがあってから、種子はほとんど自分で採種しています。自分でしたことなら、仕方ないから許せるし、いろいろな言い訳だって考えます。しかし、それがたとえ無料でもらったものだとしても、あるいは有料だったとしても、とても悔しい思いをします。むしろ、無料でいただいたものほど、もらわなければよかったと思うものです。
だから、タネって大事なものだとは思っていましたが、これほどまでとは思い至りませんでした。最近はF1(一代交配種、この本では一代雑種としています)のタネが多くなってきたなあ、とか、なんとなく昔の野菜の味がしないなあ、とか思っていました。この本を読むと、なるほど、そういう理由があったのかと納得しました。
たとえば、F1のタネをつくるためには、1つの方法として雄性不稔の株を使うそうですが、それでも理解出来なかったのがゲノムの違う異種間で受粉するのかということでした。この本では、ちょっと長いけれど引用させてもらうと、「キャベツはかつて自家不和合性を利用してFlを作っていた。自家不和合性利用のFlキャベツには父親役株と母親役株があった。この母親役のタネをハウスに播く。ハウスの一方には雄性不稔の大根がある。そこにボンベから二酸化炭素を入れて、大根の生理を狂わせる。花が咲いたら、ミツバチを放す。前述した通りミツバチは血液にヘモグロビンがないから酸欠を起こさない。このハウス
の中でちやんと働き、自家不和合性利用で作っていたころの母親役キャベツの花粉を雄性不稔の大根につけてくれる。
すると、自然界では大根とキャベツはゲノム (全遺伝情報)が違うから、絶対混ざらないはずだが、二酸化炭素の濃度が高められたことによって、大根の生理が狂い、キャベツ50%、大根50%の合いの子のタネを産む。
ゲノムが違う異種間でも受粉しタネができるのは、強いストレスで、このままじや大変だということでタネを作ると言われている。花粉異常の大根は、正常なキャベツの花粉によって子供を作る。
この子は母親譲りの雄性不稔だ。翌年、この合いの子にまた母親役キャベツの花粉をかける。玉ネギと同じで、25%と75%。また翌年、ここに播いてということを繰り返すと、限りなくキャベツだが、大根のひいおばあさんのひいおばあさんのひいおばあさん譲りの、雄性不稔で子孫を作れないキャベツの母親株が生まれる。
あとは、タネを畑に播き、そばに自家不和合性によって作っていたころのキャベツの父親役を播いておき、両者の花が咲いたらミツパテを放つ。ミツバチは花粉をつけてくれ、雄性不稔のF1のキャベツのタネが採れるという具合になっている。」そうです。
つまり、著者はこの雄性不稔の親の野菜を食べているから、もしかすると人間も男らしさが失われてきているのではないかと、それ以上に人間の存在も危うくなっているのではないかと問いかけます。さらに、ミツバチの消滅現象や遺伝子組み換えの問題などにも言及しています。
この本の最後のほうで、著者は下に抜き書きしたようなことを語ります。おそらく、この言葉にすべてが集約されているのではないかと思いました。興味のある方は、ぜひ、お読みください。とくに、家庭菜園をされている方なら、必読です。
(2012.1.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| タネが危ない | 野口 勲 | 日本経済新聞出版社 | 2011年9月5日 | 9784532168087 |
☆ Extract passages ☆
家庭菜園を楽しむということは、スーパーで売っているような見ばえの良い野菜を、ただ家計の足しに作ることではなく、野菜本来の味を楽しみながら自家採種すれば、野菜の進化の手助けをし、地方野菜を育んで地域おこしの一助にもなる。そんな人が増え、新しい地方野菜が各地に再び生まれる。そんな日がやがて来ることを、毎日夢見ている。
僕は、まだ地方の固定種が細々とでも残っているうちに、各地のいろいろな固定種のタネを日本中にばらまきたい。そしてタネの持つ多様性の花を聞かせ、地域地域に合った「新品種」に変化させたい。タネを入手した人の中から、江戸時代のタネ屋のような、野菜の進化の手助けをしてくれる人が少しでも増えて、未来の野菜が生命力に満ちあふれ、それを食べた人々がより健康になって、「火の鳥」のようにあらゆる生命が光り輝く地球となるよう願ってやまない。
(野口 勲 著 『タネが危ない』より)
No.667 『なぜ「烏」という漢字は「鳥」より一本足りないの?』
著者自身が「読者の皆さんへ」で書いていますが、本書のねらいは「生き物の漢字の成り立ちをひもとくことは、漢字もよく覚えられるし、同時に生き物の特徴もよくわかるので、一石二鳥。その一石二鳥を存分に楽しんでしまおう」ということだそうです。読んでみて、まさにその通りだと思いました。
私もよく白川静「字統」を暇なときに見てみるのですが、漢字って、その成り立ちがとても興味深く、今ではとても想像も付かないことから生まれていたりします。たとえば、この本の例でいうと、『「芝」は、もともとは「マンネンタケ」というキノコを表す漢字であった。「芝」は「霊芝」とも言われ、不老長寿の効能があると言われていた。寿命を延ばすことから、「どんどん進む」というイメージを持つ「之」に「草かんむり」をつけて「芝」という字ができたのである。日本では、「どんどん進む」というイメージから、どんどん伸びていくイネ科のシバに、この字が当てられた。そしてシバが密集して生えているようすが「芝生」である。』そうです。
たしかに霊芝も芝の字が使われていますが、今まで不思議だともなんとも思わなかったのですが、言われてみれば、まさにその通りです。芝生だって、そう解釈されれば納得です。
では、題名の『なぜ「烏」という漢字は「鳥」より一本足りないの?』という答えは、ほんとうは本を読んでいただいたほうがいいのですが、『答えを言うと、カラスは真っ黒なので、顔の中にある日の部分が見えない、そのため、鳥の顔の目を表す一本棒をなくして「鳥」となったのです』と書いてありました。
しかし、答えがわかったからといっても、この本はとてもおもしろいです。ぜひ、お勧めしますので、読んでみてください。
(2012.1.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| なぜ「烏」という漢字は「鳥」より一本足りないの? | 蓮実香佑 | 主婦の友社 | 2011年9月30日 | 9784072793503 |
☆ Extract passages ☆
「茶」という漢字は、「草かんむり」に「余る」と書く「荼」という字に由来します。「余」はスコップのような農具が土を平らに延ばすことから、「ゆったりとゆとりができる」というイメージがあります。「荼」は、疲れた心身をゆったりとさせる薬効のあるノゲシを表す漢字です。チャは、ノゲシの薬湯と同じような味や薬効があります。そこで、「荼」と区別するために、横棒を一本除いて「茶」という字になったのです。
チャに含まれるカフェインは、植物が昆虫や動物の食害を防ぐための忌避物質ですが、ごく弱い毒でもあるため、代謝しようとする体を活性化させたり、神経作用を抑制して鎮静させる効果があります。お茶を飲むとトイレに行きたくなるのは、人体が毒性物質のカフェインを体外に出そうとするためなのです。
(蓮実香佑 著 『なぜ「烏」という漢字は「鳥」より一本足りないの?』より)
No.666 『私と宗教』
この本は、『宗教と現代がわかる本』(平凡社刊)の2007年版から2011年版までの5冊に掲載した記事を、再構成してまとめたものだそうです。しかも、2011年版は3月11日に刊行されましたが、まさに2011年は東日本大震災を抜きにしては考えられないもので、さらに福島第一原発の事故は未曾有の大混乱を起こし、さらに今もその大きな被害に悩み苦しまされています。
このようなとき、ほんとうに宗教は必要なのでしょうか。
小説家の小川洋子さんに千葉望さんが聞き手となっての対談で、小川さんは『宗教学者の島薗進先生にお会いしたとき、先生が「人間が生きるとは、取り返しがつかないことの繰り返しです。宗教ができることは、取り返しがつかないことを、あたかも取り返しがつくかのように錯覚させてくれることです」 とおっしゃいました 』という話をされましたが、私もそうか、と納得しました。
世の中、生きている限りは悩んだり苦しんだりしますが、すべて解決できることだけではありません。今回の大震災も、まさに自然現象ですからあきらめるしかないのでしょうが、原発の事故はあくまでも人災です。インタビューでも、「私たちは何も悪いことをしていないのに、こんなに大変な思いをしなければならないなんて」と話していましたが、まさにその通りです。誰が悪いわけでもないのに、災難は起きるのです。
このようないかんともしがたいことがおきる、それがこの世の中です。勧善懲悪なんて、たしかにテレビのドラマの世界ではあるでしょうが、必ずしもそのようにはいかないのです。でも、それが世の中です。
その理不尽さのなかで生きていくためには、やはり信じるものが必要です。そのほうが楽に生きられます。必ず勧善懲悪がある、もしこの世でなくてもあの世では絶対にある、と思えればそれで納得もできます。今不幸せでも、必ず幸せになれる、と思えればそれで楽に生きられるのです。
もちろん、宗教は、ある意味では時代を映す鏡でもあり、良いことも悪いこともありそうです。だからといって、それを全面的に否定しては、希望も未来もありません。もともと信心とは安心のことですから、心安らかに暮らすためには必要です。
そういう意味では、龍村仁さんの下に抜き書きした語りは、なるほどと思います。興味のある方は、お読みください。
(2012.1.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 私と宗教(平凡社新書) | 渡邊直樹 編 | 平凡社 | 2011年10月14日 | 9784582856088 |
☆ Extract passages ☆
教団というのは人間とおんなじでね。教団が生じてひとつの人格をもった存在になると、必ず自己認識と同時に自己とは違う他者というものの認識をもつ。で、その次には必ず自分とは違う存在である他者を排斥しょうとする、これが間違いなわけでしょう。宗教の原点は、自分ではない存在とのあいだで自分がともにあるという世界観をもつ、すなわちすべてが深いところでつながっているという感覚をもつことでしょ。それなのに、神様はこっちにいて悪魔は向こうにいるとお互い言いあうわけですよ。自と他が存在するという認識はいいんです、みんな同じというのがいちばん具合が悪くて、それは一見平等な価値観でいいみたいだけれど、弊害のほうが大きい。みんな別々だということと、みんなともにあるという相反するように見える二つの傾向をどうやってともに存らせられるか。自分じゃない存在によって自分は生かされている、ということが生理的なレベルまで深化している、そういうものこそが霊性。だから霊性とは野生の力だという言い方もできる。野生の力っていうのは、人間には自我がある、でも自我のもっと奥深いところでは全部つながっているという体感をもつこと、それがスビリチュアリティ。生かされているという言い方は、そういう感じなんですよ。(龍村仁)
(渡邊直樹 編 『私と宗教』より)
No.665 『雲と暮らす。』
最初に手に取ったときには、間違って右に開けようとしたのですが、そこには「あわりに」と書いてありました。ということは、いわゆる科学の本のような装丁なのですが、副題の「雲と出会い、雲を愛でる」なんて書いてあると、文学書かな、って思ってしまいます。
著者は、1960年生まれで、高校教師をしていたのですが、第50次日本南極地域観測隊(越冬隊)を経て、大学の非常勤講師などをしているそうです。そういえば、昨年末のTBS系日曜21時の「南極大陸」を見て以来、なぜか南極に関心があるんですが、この本は直接にはなにも関係はなさそうです。
この本は読むというよりは、見るという方が多いようで、いわゆる写真集のような雰囲気を持っています。ですから、ぱっぱっとページを繰るよりも、気に入った雲の写真があると、何時間でもずーっと見ていたい気分の本です。こんなにおもしろい雲があるんだ、こんなにも不思議な形の雲があるんだ、こんなに幻想的な色彩を持った雲があるんだ、と次々と雲の世界にはまり込んでいきます。著者が「はじめに」のところで書いていますが、「どこにいても、誰にでも、道具も要らずに楽しめる雲の世界へようこそ」そのものです。
たとえば、うろこ雲の説明では、「秋を最も印象づける雲は、このうろこ雲だ。白い小さな雲のかたまりが無数に空に浮かぶ。いわし雲といっていわしの大群に例えられることもある。この雲は突然にできて、いつの間にかなくなっていることが多い。秋の空の気まぐれさを感じる。実はこの雲は小さな無数の対流によってできていて、ちょっとした気温の違いで変化してしまう。その身の変わりようは、撮影に困ってしまうほどだ。」とあります。
この本のなかでも、山は雲好きにはたまらない場所と書いていますが、山で見る雲はとてもいいもので、「思う存分雲に接近できる。そしてときどき雲の中に入ることもできる」といいます。でも、山で入道雲にあったら、やはりこわいものがあります。その雲が雷雲になり、ゴロゴロと鳴り出すともう下山するしかありません。雨はなんとかなりますが、山での雷ぐらい恐いものはありません。
この本の中で一番気に入った写真は、「うず雲(巻層雲)の夕焼け」という南極大陸で撮った夕焼け空です。その、なんともいえない、透明感のある夕焼け空は、スキッとしています。著者は、「周囲数百qに人がいない。周囲数千qは町がないという土地での雲見は、同じ地球上とは思えない、不思議な感覚だった」といいます。
南極に行きたいとは思いませんが、このような夕焼け空は見てみたいと思います。
(2012.1.9)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 雲と暮らす。 | 武田康男 文・写真 | 誠文堂新光社 | 2011年10月17日 | 9784416211144 |
☆ Extract passages ☆
星の輝きは永遠と言われるように、人生の中でほとんど変化がない。
しかし、大気中で起こる現象、たとえば雲やオーロラを見ていると、まったく同じものは2つとないことに気がつく。
だから、この美しさやおもしろさは今しかない出会いなのだ。
そう思うと、いっそう魅力を感じるようになった。
(武田康男 文・写真 『雲と暮らす。』より)
No.664 『生ききる』
対談の前の「まえがき」で、瀬戸内寂聴は「天災も恐ろしいが、原発は明らかに人の作った人災である。戦争と同じ人災である」といい、梅原 猛は「あとがき」で、「この大震災は天災であるとともに人災であるが、それ以上に文明災であると、大震災が起きた直後に私は語った。世界の先進国はすべてエネルギーの何割かを原子力発電に頼っている。それは自然にない不自然なものを作り出し、それによって豊かで便利な生活を享受しようとする現代人の欲望の産物と言ってよい」と語っています。つまり、どちらも想定外とか未曾有の災害とかでごまかさずに、はっきりと人災と言い切っています。
やはり、これから何十年と付き合わざるを得ない原発から出た放射能との関わりの原点は、ここだと思います。まだ、お正月気分もありますが、いくら新しい年を迎えたといっても、これらの問題はいつも私たちの目の前に横たわっています。
瀬戸内寂聴は対談のなかで、「私はこの震災が起こつた時、『源氏』のこのことを思い出しました。天災というのは人生で一番のどん底に落ちることがある。けれどどん底に落ちることもあれば、天災で浮か
び上がるチャンスもあるんです。ピンチがチャンスになる。非常な事件というものはそういう二つの面を持っている、そう思いました。」と言っています。たしかに震災も原発の問題も悲惨ではありますが、ただ困った困ったというだけでは前に進めません。このピンチをチャンスにという、前向きな姿勢が大切だと思います。そして、「私たち被災しなかった人間は、あなた方が身代わりになってくださったと思って、いつも忘れません」という一体感のような気持ちも必要です。そして、「1日に1度は、何か笑える事柄を見つけてください」ということも、たしかに大切なことです。それどころではないということは重々承知していますが、笑顔の力を私は信じています。いや、笑顔こそが希望を捨てないために絶対に必要なものだと感じています。
この本の印税はすべて今回の東日本大震災の被災地復興に寄付されるそうです。だとすればなおのこと、ぜひ多くの方々に買っていただき、読んでもらいたいと思います。
(2012.1.6)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 生ききる(角川oneテーマ21) | 瀬戸内寂聴・梅原 猛 | 角川グループパブリッシング | 2011年7月10日 | 9784140911839 |
☆ Extract passages ☆
ヨーロッパにおいても近代というのは神を殺した時代であるということをニーチェやドストエフスキーは言っています。『カラマーゾフの兄弟』は、神を殺した人間がどうなるかを考えたものです。神を殺した人間は親を殺すようになり、恐しい時代が来ると、ドストエフスキーは予言した。二十世紀の初めにロシア革命が起きますが、大量殺人が正義の名の下で行われるような時代になった。
日本は西洋よりもっと徹底的な神殺しを行って近代という時代を作ったと思います。今の時代、私は、もう一度神仏への畏敬の念、宗教心を取り戻さないといけないと思う。人間を超えたもの、我欲を超えたものの存在を信じる、そういう時代に戻らないといけないと思います。(梅原 猛)
(瀬戸内寂聴・梅原 猛 著 『生ききる』より)
No.663 『文明を変えた植物たち』
今年はじめての「ホンの旅」ですが、やはり植物関わりを無意識で選んだようです。副題が「コロンブスが遺した種子」とあり、新しいものが次々とヨーロッパにもたらされてきた活気ある時代から、それらがヨーロッパに定着し、今ではかけがえのないものになってきた植物たちを描いています。
お正月なので、なかなかまとまった読書時間を取れなかったのですが、ついその世界にはまり込んで読んでしまいました。
取り上げられた植物は、第1章「ヨーロッパ発展の原動力ジャガイモ」、第2章「車社会を支えるゴム」、第3章「お菓子の王様チョコレート」、第4章「世界の調味料になった唐辛子」、第5章「生活の句読点だったタバコの行方」、第6章「肉食社会を支えるトウモロコシ」の6種類で、終章として「コロンブスの光と影と」を付け加えています。もちろん、これら以外にもサツマイモやカボチャ、トマトなどいろいろとありますが、この冊子に収めるにはこの6種類が適当と判断されたのではないかと思います。たとえば、トマトなどは、それだけで1冊の本がありますし、ピーナッツだって何冊も書けそうです。昨夕、完熟のパイナップルを食べましたが、これだってその当時にヨーロッパにもたらされた果物の1つです。いかに、コロンブスなどの航海でもたらされたものが多かったかと想像できます。
なかでも、一番悪者にされているのがタバコですが、以前は薬にも匹敵するような扱いをされていたそうです。たとえば、「1664年から66年にかけて、ペストがロンドンで大流行した折りには、約7万人の死者が出たといわれている。この大流行の中にあっても、タバコ屋は一軒もペストにかからないといううわさ話が広まり、また喫煙はペストに対するもっとも優れた予防薬とされていた当時のこと、子どもといえどもタバコを吸うことを強いられた。イートンにある学校では、生徒は全員、毎日登校する前に、タバコを一服することが義務づけられていたほどである。また、他国に進攻する軍隊の場合には、ペストの予防薬としてタバコを持参することが常識であった。」と書かれてあります。今の嫌煙権の時代にはとても考えられませんが、そのような時代もあったということです。しかし、これからは、タバコを吸う人は少しずつでしょうが激減する方向に向かっていると思います。
このように植物たちの来歴を見てみると、とてもおもしろいもので、美味しいものだからと簡単に広まるものではないようです。ここでは取り上げられていませんが、トマトなども最初はあの毒々しいような赤色から、毛嫌いされていたようです。それがイタリアでパスタなどのソースに使われるようになり、徐々にそのおいしさが伝わり、あるときから一気にブレークしました。この本に出てくる植物たちも、そのような苦難ともいうべき歴史があったようです。
つねに自分たちが食べている食物を、このように調べてみると、とても興味深い事実が感じられると思います。お正月のおせちにも故事来歴があります。お正月だからこそ、味わえる食物と本があるようです。
(2012.1.3)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 | ISBN |
| 文明を変えた植物たち(NHKBOOKS) | 酒井伸雄 | NHK出版 | 2011年8月30日 | 9784140911839 |
☆ Extract passages ☆
地球上で栽培されている作物は、突然変異や人の手による交配によって変異種が生まれ、その作物を利用している人びとに都合のよい変異種が選択されてきた結果、現存する品種は形も性質も原種とは異なつているのが普通である。今も栽培されている作物のうちで、ほとんどの主要な作物では原種となる野生種が見つかっているが、唯一トウモロコシだけはいまだに原種となる野生種が発見されていない。原種となる野生種は今も存在しているけれども、あまりにも現在のトウモロコシとは形が違うので気づかれないのか、あるいはすでに絶滅してしまっているかのいずれかである。
(酒井伸雄 著 『文明を変えた植物たち』より)
◎紹介したい本やおもしろかった本の感想をコラムに掲載します!
(匿名やペンネームご希望の場合は、その旨をお知らせください。また、お知らせいただいた個人情報は、ここ以外には使用いたしません。)
メインページへ戻る